文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.360

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2018年(平成30年)12月10日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.360

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

9/24 10/1 10/8 10/15 10/22 10/29 11/12 11/19 11/26 12/3 12/10 12/17 12/24 1/7 1/21

 

土壌館創作道場 2018年、読書と創作の旅

 

テキスト読み(志賀直哉作品・他) &熊谷元一研究(情報)

 

テキスト=志賀直哉、ドストエフスキー。他の世界文学

討論会、テーマを決めて話合う。

社会観察 いま起きているニュース、話題になっていること。

熊谷元一研究(童画・写真観察)写真・童画展情報

12・10ゼミ

 

社会観察   外国人受け入れ拡大 入管法改正 来年4月施行

 

もしかして日本の未来を代えるかもしれない法案「出入国管理・難民認定法(入管難民法)」が改正された。8日未明、参院本会議で可決、成立した。12月8日の朝刊、朝日、読売の各面見出しは、以下のように報じていた。

 

朝日新聞 2018.12.8

 

1面 改正入管法4月施行 「使い捨て労働力」広がる懸念

2面 入管法 実態ぼんやり 14面 社説「多くの課題を残したまま」

 

□全体的に批判的。将来を危惧している。

 

読売新聞 2018.12.8

 

1面 「外国人材拡大」法案成立へ 14業種5年で34万人

2面 介護・外食…人材渇望 37面 賃金・人権保護に課題

 

目 次

□12・8新聞見出し「入管法」可決――――――――――――――――― 1

□〈社会観察〉入管法について新聞コピー・相撲界――――――――――――――― 2

□12.3ゼミ報告、テキスト読みと感想提出ほか―――――――――――――――――3

□私の一日(55年の時を超えて)――――――――――-―――――――― 7

 

 

 

 

 

 

 

 

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.360―――――――― 2 ――――――――――――――

 

社会観察、ドストエフスキー『作家の日記』

 

12月8日は何の日か

 

「12月8日は何の日?」

いつだったか渋谷のセンター街でどこかのテレビ局が若者にこんな質問をしていた。

「食べ物の記念日」

「誰かの誕生日?」

ほとんどの若者が答えられなかった。

「アメリカと戦争をはじめた日です」

質問したテレビ局のアナンンサーが堪らず教えると、皆驚きの声をあげた。

「ウソー、信じられない」と首をふるばかりだ。

「ハワイの真珠湾を奇襲したのですよ」そう説明しても

「えっ、あのハワイに?!嘘でしょう」とますます信じない。

77年前の、あの戦争は記憶にもなくなっている。1964年のトンキン湾(ベトナム戦争のはじまり)と聞いても答えられる人は少ないだろう。

先月30日94歳で亡くなった父ブッシュ米大統領と1991年湾岸戦争ならいくらかいるかも知れない。(同大統領は第2次大戦では、太平洋戦線で雷撃機搭乗員として旧日本軍に2度撃墜された経験がある。)

これほどまでに日本人からは、戦争の記憶が遠ざかっている。しかし、いまある日本、世界情勢は、いつか来た道と危惧する人もいる。戦争は、ある日、突然ではない。日々の暮らしの積み重ねから発生する。それ故、謎であってもなぞでなくなってしまう。

多くの哲学者、詩人、作家と偉大な芸術家を生みだした賢明なドイツ人。そのドイツ人が、なぜあんな人間を選んだのか。人類史に残る謎である。が、それは日本でも同様の疑問である。なぜ日本人は勝てもしない戦争をはじめたのか。

12月8日朝日の天声人語に頷けるところもあった。

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【天声人語】朝日新聞2018.12.8

 

「僕らがそれに昂奮しなかったといえば嘘になる。まるで毎日が早慶戦の騒ぎなのだ」。日本が米英を相手に戦争を始めたころを振り返り、作家の安岡章太郎が書いている。ラジオの騒ぎぶりが、当時大人気の学生スポーツのようだったと。▼77年前のきょう、日本軍が米ハワイの真珠湾に奇襲攻撃した。続いてマレー沖では英戦艦を沈めた。驚くべき戦果である。しかし学生だった安岡の頭によぎったのは、もう一つの「驚くべきこと」だった。▼「日本がアメリカと戦争して勝てるとは、おそらく誰一人おもってはいない。にもかかわらず、弦にその戦争が行われている。そのようなことがあるのに、僕らは少しも驚いていない。これは一体何としたことだろう?」(『僕の昭和史』)

▼日米の国力に大きな差があることは秘密でも何でもなく、冷静に考えれば分かる。だからこそ開戦の日に政治学者の南原繁がこんな歌を詠んだのだ。〈人間の常識を超え学識を超えておこれり日本世界と戦ふ〉▼常識からも学識からも外れた戦争が、熱狂をもって迎えられることになった。敵意を育てるのにメディアも一役買った。開戦までの新聞を見ると、米国に対し「誠意なし」「狂態」など非難の言葉が目立つ。▼起こらないはずの戦争が起きてしまう。その連続が近代の歴史である.気がつ、外国や外国人への敵意をあおる政治家ばかりが、世界で目立つようになった。冷静であることが、いまほど求められるときはない。

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12.3ゼミ報告

 

テキスト読み ドストエフスキー『作家の日記』にある短編3作品を黙読。

感想レポートを提出。

 

ドストエフスキーの作品は、『死の家の記録』のような体験からもあるが、多くは社会観察(新聞記事)を基盤としている。『罪と罰』も『悪霊』も実際の事件がヒント。ここでとりあげた3作品も、そうした一つ。物語になる前の作品、現実から小説になる前のエッセイふう小文。創作余談のようなものといえる。(編集室)

 

「キリストに召されし少年」を読む   西村美穂

 

小説、創作と強調することによって、逆に現実生活のありかたを際立たせる。事実は小説より奇なり。

 

□キリスト教圏は、教会、キリストを材料に入れたものがたりが多い。ウィーダ(1872-1908)『フランダースの犬』やオスカー・ワイルド(1854-1900)の『幸福の王子』を彷彿させる。

 

「百歳の老婆」を読む   西村美穂

 

最後の8行に帰結してしまう。誰もが生まれたばかりの赤子の声に微笑むように少ししんみりとはにかんで這うような描写である。

 

□後期高齢者が近づくこの年になるとだんだん身にしみる話です。(笑)

 

「百姓マレイ」を読む    西村美穂

 

性善性というのか、人を変えるのは環境かあるいはその人自身か。今までのドストエフスキーのイメージと違い、なつかしい草の匂いのする読了感だった。

 

□酷寒のシベリア。極悪人の群れ。そのなかにも子どものころ、しっかりと怯える自分を抱きしめてくれた温かい心をもった人間もいるのだ。

 

 

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自分観察・2018年、記憶に残ったこと

 

二十歳、日大問題 大きな出来事がありましたが…

 

西村美穂

 

私事では二十歳の誕生日。月曜で朝から講義。その他にも忙しく、気がつけば一日が終わっていた。もっと特別感を期待していただけに、少しがっかり。

世間ではやはり身近なところで日大問題。とくにゼミ誌に対して本部を通すことに怒りが収まらない夜もあった。喉元過ぎれば熱さを忘れる。愛想がなくなるのも時間の問題か。

 

□誕生日1月3日。毎年、正月過ぎてしばらくしてから「あれ、誕生日、終わってたね」でジャンジャン。今年は、次から次といろんなことがありました。で、気かつけば、みな忘却の彼方に。時間の力は偉大です。

 

55年の時を超えて    自画入りハガキの投函者は誰…?   下原

 

先週のはじめ、、私宛に不明のハガキが届いた。この時期だけに喪中かと思ったが、裏面はおそらく自画作品と思うが、色鮮やかなシクラメンの花。Kataと署名らしきものもある。古希過ぎたら絵画や書道をはじめる知人が多くなった。だれだろう…差出人を見て、首をかしげた。住所は、故郷長野県で、実家のある村の隣町。差出人はK・H氏。79歳。住所も名前も、まったく心当たりがなかった。文面は、達筆で、このように書かれていた。

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朝夕の冷気が心身に沁み入ります。『農村の婦人』(岩波写真文庫)の終わりの頁で御名を見付け懐かしくなりました。駒場の下原洋品店でご住所を聴きました。阿智高非常勤講師。

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はて、だれだろう…。『農村の婦人』は、1954年岩波書店が出版したものだが、十数年前、この写真文庫シリーズを再版した。そのとき頁末に「写真文庫ひとくちばなし」を入れることになり、私も依頼されて書くことになった。差出人は、それを読んだのだろう。私のことをよく知っている人物ということだ。懐かしいともある。しもはら洋品店で住所を聞いたとある。この店は従妹が経営している。が、どんな関係の知りあいかわからなかった。最後に一つだけ関係ありそうな固有名詞を見付けた。阿智高非常勤講師とある。阿智高は、私が出た高校だ。従妹の夫は、PTA会長していたことがある。二つはなんとかつながった。が、以前として、私との関係は不明だった。

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1枚のハガキを創作する

 

55年の時を超えてよみがえった記憶

 

差出人の名字K、私の人生のなかで郷里で知るKは、2人しかいない。一人は、小学校の同級生で、住所も年齢も違う。と、すると残る1人か―――そう思ったとき、忘れていた記憶が瞬間的に55年の時を超えてよみがえった。

半信半疑ではあるが、Kはあの人しかいない。名前は定かではない。もしや人違いかも、そんな不安な思いもあったが、返事を書くことにした。以下は、その文面である。

もっとも、ここでは、実際より想像をひろげて、より創作度を増して書いた。

 

K・H先生

 

師走の候 先日は、おハガキ(画シクラメン入りの)ありがとうございました。はじめ、失礼にもどなたからの便りかと思いめぐらすばかりでした。が、突然、思い出しました。記憶の外にあった半世紀余前の時間が甦ったのです!

私の記憶に間違いがなければ、たしか県立阿智高校で教師をしていらっしゃったK先生ですよね!英語を教えていただきました。できの悪い生徒だったのに、よく覚えていてくださいました。感謝します。大変うれしく思いました。

苦手の英語でしたが、先生の授業、ひとつだけはっきり覚えていることがあります。新学期がはじまったころだったと思います。東京の有名大学を出た新任の英語の先生は、田舎の高校生には、まぶしくみえました。先生は自己紹介のつもりか、黒板に英語の詩を書き訳してくるようにと宿題をだしました。

私は、どんなふうに訳したか記憶ありません(おそらく支離滅裂だったと思います笑)先生が正解としたのは、自由律のような訳と記憶しています。そのときはまったく考えもしませんでしたが、先生は、訳を通じて型にはまらない教育を宣言した。いまごろになってそんなふうに思ったりします。教えがいのない生徒ですみません。

おハガキから、お元気のご様子と推察しておりますが、どうぞお身体に気をつけてお過ごしください。いつか、お目にかかれる日を楽しみにしています。

また、『農村の婦人』の拙文、お読みいただき、ほんとうにありがとうございました。

2018年12月7日 下原敏彦

 

※ちなみに大幅に創作として、詩は、ウイリアム・ワーズワース(1799-1850)の「草原の輝き」としたら、できすぎか…。下記、詩編「草原の輝き」の一節 HP

 

草原の輝き花の栄光
再びそれは還らずとも嘆くなかれ
その奥に秘められたる力を見い出すべし
すべてを忘れることなく、また赤裸々でもなく、
我らは栄光の雲から出ずる。
神は我らが家なり。
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K先生と下原の時を繋いだ岩波写真文庫『農村の婦人』の前半部分

 

復刻版 岩波写真文庫 農村の婦人 2008 写真文庫ひとくちばなし

被写体になった村人と私たち  下原敏彦

熊谷元一の写真の被写体は、ほとんど熊谷が生まれ育った村、私の故郷でもある信州の一山村・会地村(現・阿智村)である。この村で熊谷は童画家、教師として勤めながら村人を撮り続けた。

自伝『三足のわらじ』(南信州新聞社出版局、2003年)によると、昭和9(1934)年に初めてカメラを手にした。案山子を撮るため知り合いに借りての撮影だった。このとき写真を撮ることの面白さ難しさに魅せられて、昭和11(1936)年、パーレットの新品を買う。最初に写したのは「童画と関係の深い村の子供」だった。が、「なにか村に役立つような」写真をと考え、村人の生活を撮るようになった。しかし、まだカメラがめずらしかった時代である。被写体になった村人の思いは様々だった。道楽とみる人が多かった。「こんな泥だらけで働いているところを写してなんにするんな」と、嫌がる人もいた。

本書や『かいこの村』などで熊谷が精力的に写真を撮った頃、村は貧しく辛い時代だった。写されたくない生活、知られたくない場面も多々あったはず。が、徐々に協力的になった。「あれを撮ったらどうかと知らせてくれる人もあって、うれしかった」と語っている。村人が熊谷の「地域の人々の生活を記録する」という撮影意図を理解し、写されるのを納得したのは、ひとえに熊谷の記録写真への熱意と誠実な人柄に他ならない。村人は、熊谷が教師であったときも、いまも敬愛をこめて「もといっさ」と呼ぶ。

 

※もっと読みたい方は、HP「熊谷元一研究」を検索ください。

 

熊谷元一研究・童画 ロングセラー100部突破!絵本『二ほんのかきのき』

 

写真家で知られる熊谷元一(1909-2010)は童画家としても活躍した。22歳のとき童画の生みの親武井武雄に師事し、風化する山村の子供の暮らしや遊びを描きつづけた。

熊谷元一さく/え『二ほんのかきのき』福音館書店

1968年11月1日発行

 

左は、100歳記念に発行

 

当時、絵本の紹介:「あの村この村」「みつこちゃんのむら」「わらべうた」「よっちゃんともぐら」「たなばたまつり」など

 

1931年 22歳 童画を「コドモノクニ」へ送る。童画化・武井武雄に認められ師事する。

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名作案内 最近、テレビのドキュメンタリー番組は20世紀の戦争者が多い。ヨーロッパ戦線、アジアの戦争。加えて、今も戦争がつづいている中東。12月9日の朝日1面【「ISの子」でも私が守る】も戦争によって生じた悲惨な出来事だ。なぜ、戦争はなくならないのか。戦争をよく知るには、映像だけではだめ、戦争文学をもっと読むことだ。名作として先にレマルクの『西部戦線異状なし』をあげたが、ルポタージュの名作は、やはり石川達三の『生きている兵隊である。この創作ルポは、日中戦争を取材したものだ。

 

日中戦争とは何か

関東軍など現地の日本軍は、満州国を維持し、ブロック経済圏を建設するために、隣接する華北地域に蒋介石政権の支配のおよばない親日政権をつくるなどして、中国側との緊張が高まっていた。また、日本は北京周辺に4000人の駐屯軍を配置していた。これは義和団事件のあと、他の列強諸国と同様に中国と結んだ条約に基づくものであった。1937年(昭和12年)7月7日夜、北京郊外の盧溝橋で、演習していた日本軍に向けて何者かが発砲する事件がおこった。(最近になって、この発砲事件は日本軍の自作自演と解明された。1965年ベトナム戦争の発端となったトンキン湾事件も同様とみられている。)翌朝には、中国の国民党軍との間で戦争状態となった(盧溝橋事件)。現地解決がはかられたが、やがて日本側も大規模な派兵を命じ、国民党政府もただちに動員を発した。以後8年間にわたって日中戦争が継続した。

同年8月、外国の権益が集中する上海で、二人の日本人将兵が射殺される事件がおこり(これも、やらせか)これをきっかけに日中間の全面戦争が始まった。日本軍は国民党政府の南京を落とせば蒋介石は降伏すると考え、12月、南京を占領した(このとき、日本軍によって民衆にも多数の死傷者がでた。南京事件) 12月12日日本軍南京を攻略した。

 

1937年12月25日に新進作家石川達三(32)は東京を発つ。1938年1月5日上海経由で南京着。南京で8日間、上海で4日間取材する。

 

石川達三は、この作品を1938年(昭和13年)2月1日から書きはじめ、紀元節の未明に脱稿した。「あるがままの戦争の姿」を知らせたくて書いた。330枚必見の戦場ルポ。

しかし、1937年7月7日から日中戦争がはじまったことから大日本帝国は、9月25日言論統制のための内閣報道部設置。11月大本営が宮中に設置した。ゆえに、この作品は創作ルポの形をとり「部隊名、将兵の姓名などもすべて仮想のものと承知されたい」とした。

ここに最初の部分数行、ルポと考察を紹介する。必読の書です。

高島本部隊が太沽(タークー)に上陸したのは北京落城の直後、大陸は恰度残暑の頃であった。汗と埃にまみれた兵の行軍に従っておびただしい蝿の群れが輪を描きながら進んで行った。

まず作者は最初の1行において、これは創作であると表明した。おそらく言論統制を意識においていたものと見られる。最初のこの文からわかることは、これを書いた従軍記者は北京陥落直後、タークーの上陸部隊にいた。季節は夏の終わりか。

しかし、実際の作者は真冬に中国に行った。当然、内閣報道部は知っているはずで、そんなところから、この作品が即、創作とわかるはず。が、たった二、三行ではあるが、行軍する兵の様子が臨場感よく描けている。除州、除州と人馬は進む。こんな光景が浮かぶ。

 

それから子牙河の両岸に沿うて敵を追いながら南下すること二ヶ月、石家荘が友軍の手に落ちたと聞いたのはもう秋ふかい霜が哨兵の肩に白くなる時分であった。

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先に残暑の頃とあったから8月中旬以降だろうか。従軍記者のいる部隊は、ひたすら時の首都南京を目指して南下していく。が、ルポは、一気に二ヵ月後である。この間、何があったのか。「敵を追いながら」とあるから、ときどき戦闘をしてということだろうか。しかし、二ヶ月の空白は長い。読者は、すでにこの作品が従軍記ではなく創作ルポであることを理解

する。作者も大本営の報道部がそうとってくれるよう暗に願っていたかも・・・。

いずれにせよ、この作品はノンフィクションではなく創作作品である。作者は、冒頭の数行でそのことを知らせ、以降、自分の目で見、耳で聞いたことを検閲を想定しながら書いていったに違いない。そのように編集室は読む。ちなみに、作者は回想で「作中の事件や場所は、みな正確である」としている。

石川達三『生きている兵隊』中公文庫 1999年7月発行

 

ゼミⅡの記録

 

□  9日24日(月)晴れ 参加=村瀬、西村

夏休み報告 ゼミ誌原稿校正

□10月 1日(月)社会観察「なぜ幸福家族は分解したのか、海外事情

□10月8日(月・祝日)晴れ 暑くなる 図書館に寄る。マサリック2巻受け取り

参加=西村、村瀬、志津木「それぞれの夏休み」「ニュース観察雑談」

『にんじん』2作口演。感想・批評。

□10月13日(土)熊谷元一研究・熊谷元一写真賞コンクール選考会無事終了の報告。選考会場、今年から長野県・昼神温泉郷にある熊谷元一写真童画館にて実施。

□10月15日(月)晴れ 西村さん モーパッサンの作品、石川達三の話。

□10月22日(月)晴れ 西村さん 社会観察「南青山児童相談施設反対」「老夫婦殺傷15歳孫逮捕とその動機」について。

□10月29日(月)晴れ 西村 ゼミ誌『自主創造』校正。社会観察「17年度いじめ最多」

□11月12日(月)晴れ 西村、村瀬、「やまびこ学校」読み「いじめについて」レポート

□11月19日(月)曇り 村瀬、西村 「いじめ」「入管法改正」議論、「にんじん」読み。

□11月26日(月)文学フリマ、ドストエフスキー3短編(作家の日記))

□12月3日(月)テキスト読み、名作読み。レポート「2018年の記憶」「一日」

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掲示板

 

お知らせ ドストエーフスキイ全作品を読む会・読書会

 

月 日 12月15日(土)

時 間 午後2:00 ~ 4:45 懇親会5:00~

会 場 池袋・東京芸術劇場第5会議室

作 品 『作家の日記』から短編3作

「キリストのヨルカに召されし少年」「百姓マレイ」「百歳の老婆」

報告者 : 熊谷暢芳さん 司会進行 :小野口哲郎さん

※参加 興味ある方はどなたでも、決まりはありません。自由です。

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「下原ゼミ通信」・「読書会通信」編集室

課題・投稿などの送り先メール toshihiko@shimohara.net

連絡 090-2764-6052

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