文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.367

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2019年(平成31年)4月23日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.367

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

4/9 4/16 4/23 5/7 5/14 5/21 5/28 6/4 6/11 6/18  6/25 7/2 7/9 7/16 7/23 

観察と記録

 

2019年読書と創作の旅

 

4・23下原ゼミ

 

 

七人と一人の仲間。2019年、春、更なる目標に向かって旅立ちます。

佐藤央康  宇治京香  安室翔偉  梅田惟花  佐久間琴莉  伊藤舞七

大森ダリア

 

4・16ゼミ報告 7名全員参加 ゼミ誌担当者決め。

 

・自己紹介

・ドストエフスキー『罪と罰』講座「はじめ」。

・嘉納治五郎、青年訓「精読と多読」を朗読。

・志賀直哉「菜の花と小娘」輪読。感想時間内間不(提出レポート配布 次回ゼミ回収)

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2019年、読書と創作の旅、同行者の紹介

 

4月16日現在、以下7名の皆さんの提出がありました。

 

・宇治 京香(うじ きょうか)さん 85A111-3

 

ドストエフスキーなどロシア文学に関心あります。日本一美しい星空が見える村へのゼミ合宿に憧れます。今年は、意欲的に創作と取り組みたいです。

 

・伊東 舞七(いとう まな)さん 85A028-5

 

自分なりに作品を読み説いて、創作につなげる力をつけたい。詩―歌詞ばかり書いてきましたが、書くことで、さらに創作力をあげたいと思います。ゼミ雑誌は多彩にしたい。

 

・梅田 惟花(うめだ ゆいか)さん 85A093-5

 

朗読することで理解を深める、というところに魅力を感じた。ドストエフスキーにも興味がわいた。写真家・童画家の熊谷元一についても学んでみたい。

 

・佐久間 琴莉(さくま ことり)85A011-0

 

熊谷元一写真童画館があるゼミ合宿地の昼神温泉郷に興味あり。小説にかぎらず絵や、漫画、詩なども表現していきたい。創作活動でないことも学んでいければと思っています。

 

・大森 ダリア(おおもり だりあ)85A125-3

 

ドストエフスキーが好きです。ロシア語ができます。

 

・安室 翔偉(やすむろ しょうい)85A092-3

 

実践的な創作力を身につけるため。好きなもの、野球、競馬、麻雀、ラーメンなどです。

 

・佐藤 央康(さとう ひさやす)85A049-2

 

ゼミガイダンスの雰囲気が良かったので。

 

□7人様々な個性を感じます。楽しいゼミになりそうです。

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ゼミ雑誌について  皆で協力し合ってよいゼミ誌を創りましょう!!

 

編集委員・宇治京香さん 佐久間琴莉さん

ゼミ誌ガイダンス 5月15日(水)12時20分~ 江古田校舎 W303

 

ゼミ合宿について 実施の場合 南信州の「昼神温泉郷」が有力

 

ゼミ合宿授業:実施方向 熊谷元一写真童画館見学・満蒙開拓平和祈念館見学。

観光として星空日本一を見物。

進行:1.担当者(得意な人)2.日程 3.宿決め(二カ月前)4.バス予約(一カ月前)

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社会観察   令和元年と日本人の神々

 

世はインターネットの時代である。書類も元号より西暦で書くことが多くなった。この傾向、今後ますます加速度を増していくに違いない。

もう元号は、なくてもよいのでは…。そんな声もある。が、元号のない日本は、わさびのない寿司のようなもの。何か足らない。元号は、やはり必要だ。元号にはそれぞれの時代を生きる共有感がある。

元号は、いつごろからあったのか。併せて実存天皇以前の日本は。ロシア人宣教師ニコライの解釈した『古事記』をみてみた。

【日本のはじまり】

 

日本のはじまりは、即ち天皇のはじまりである。(日本書紀では、現存したと云われる)

 

☆初代は神武天皇

 

・皇紀元年(紀元前660年)初代天皇・神武天皇が即位された。このときから日本の実在天皇がカウントされる。

 

・皇紀80年(紀元前581)第二代天皇・綏靖(すいぜい)天皇

・皇紀113年(紀元前548)第三代安寧天皇

・皇紀731年(西暦71)第12代天皇・景行天皇

・皇紀1305年(西暦645)大化元年 第36代天皇・孝徳天皇 初めて元号をつける。

・皇紀1310年(西暦650)白雉(はくち)元年 第36代・孝徳天皇

・皇紀2527年(西暦1867)明治元年 第122代天皇・明治天皇

・皇紀2528年(西暦1868)明治元年 明治天皇

・皇紀2572年(西暦1912)大正元年 第123代 大正天皇

・皇紀2586年(西暦1926)昭和元年 第124代 昭和天皇

・皇紀2649年(西暦1989)平成元年 第125代 今上天皇

 

・皇紀2650年(西暦2019)令和元年 第126代 令和天皇

 

ニコライ神父がみた『古事記』『ニコライの見た幕末日本〉講談社学術文庫 中村訳

 

日本にはじめてドストエフスキーを紹介したニコライ神父(1836-1912)は、日本という国を知るために『古事記』を読んだ。実存ではない、神々の時代を、どのように見たのか。ニコライ著『―幕末日本』の道とはどのようなものか」』を読んでみる。コピー配布。

【ニコライとドストエフスキー】

ドストエフスキー1880年6月3日 妻アンナ宛ての手紙

「きのう、お昼前、アレクセー副主教とニコライ〈ヤポンスキー〉を訪ねた。この人たちと知り合いになれて、とても嬉しかった。/二人ともわたしに対して心をひらいてはなしをしていた。ドストエフスキー58歳、ニコライ43歳のときである。

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テキスト感想     『菜の花と小娘』を読む

 

『菜の花と小娘』とは何か

先週のゼミでは、テキスト最初の読みとして『菜の花と小娘』をとりあげました。この作品は、小説の神様・志賀直哉が最初に書いた小説です。現在はわかりませんが、昔は国語教科書の定番でした。短編ですが、日本文学のなかでは知られている。

この作品は、明治37年5月5日の日記に「作文は菜の花をあんでるぜん張りにかく」と記し同年、作文「菜の花」として書かれ、明治39年(1906)23歳のとき「花ちゃん」に改題、改稿し大正9年(1920)に児童雑誌『金の船』に『菜の花と小娘』と題されて掲載された。擬人法で書かれたこの作品は、このころ、愛読していたアンデルセン童話がヒントになったと考えられている。一見、なんでもない、誰でもすぐに書けそうな童話作品に見えますが、日本文学では名作に入ります。それだけに、現在、若い人たちにあまり読まれていないことが残念です。この作品には、若き日の志賀直哉の全てがある、といっても過言ではありません。

作品に秘められた作者の思い

なぜこの作品は、名作なのか。書かれてから100年も過ぎるのに、こうして読まれていることが、名作の証といえます。先週、読んだ嘉納治五郎の青年訓「多読と精読」にあるように時間が決めてくれています。『菜の花と小娘』に普遍性があるのは、この作品に、作者自身の思いが深くこめられているからです。

では、作品に込められた作者の深い思いとは何か。ともすれば、この作品は、女の子が実際に、菜の花を川に流して遊んでいるのを見て思いついた。そんな想像もできます。確かに、作者は、菜の花を見て、この話を思いついたようです。しかし、それは小娘と菜の花の光景からではないと想像します。

現在、千葉県が県の花にしているのは菜の花です。房総半島は、春になると一斉に菜の花が咲きます。明治の当時も、同じ風景が見られたかも。明治35年(1902)、父親が総武鉄道(現在の総武線)の支配人兼会計課長となったことから、19歳の直哉は、時々、鹿野山に遊びに行くようになる。

鹿野山の菜の花

鹿野山は、君津市にあり標高353㍍。房総三山の一つ。他は、鋸山、清澄山。広い山頂からの展望は最高で、現在、マザー牧場や登山道の桜のトンネルなどで人気の観光地となっている。当時も、桜や菜の花の名所だったようだ。毎年春になると直哉は、この鹿野山に登った。友人の里見弴(1888-1983)らと一緒のときもあったが、たいていは一人で登った。春の陽光の下、山頂から谷一面に咲き乱れる菜の花を眺めるのが好きだった。ときには何時間も、ときには何日も滞在してながめていたという。3月31日に来て、4月11日までいたこともある。いくら花が好きといっても二十歳前後の若者が、たった一人で何時間も何日も坐り込んで、ぼんやり菜の花をながめている。たとえ本を読んでいたとしても、ちょつと普通ではない気がします。「寂しい感じがする」もし、背後からそのときの志賀直哉を見れば、そんな印象を抱いたかもしれません。咲き乱れる菜の花畑。賑やかな明るい黄色である。が、なぜ寂しい印象です。

菜の花に母の面影を

明治45年(1912)に志賀直哉は、『母の死と新しい母』を発表している。創作余談では、「少年時代の追憶をありのままに書いた。一晩で書けた。小説中の自分がセンチメンタルで

ありながら、書き方はセンチメンタルにならなかった。この点を好んでいる」と述懐している。直哉の母、銀が三十三で亡くなったのは、明治28年、直哉が12歳のときである。ということは、母の死について書くのに17年間もかかっているということである。この歳月の長さは、直哉にとって母の死がいかに大きな悲しみだったかを教えている。菜の花は、暖か家庭を思わせるところがある。もしかして直哉は、菜の花に母の面影を見ていたのかもし

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れない。明治34年足尾銅山鉱毒問題で現地視察計画を父に反対されたことで、余計に亡き母、銀への思いが強くなっていたに違いない。加えて、この時期、直哉はあることで悩んでいた。人間の謎に突き当たっていた。

人間の謎

「人間は謎です!謎は解かねばなりません」と決心したのは17歳のドストエフスキーである。やさしかった母の死と、心の中での渇望が実現した父の死。若き文豪が人間を謎としたのは、病気と殺人による両親の死を、どうしても受け容れたくなかったのかも知れない。

では、若き日の志賀直哉が、人間を謎としたのは、なぜか。このころ、直哉は恋をした。相手は志賀家に何人もいる女中の一人だった。直哉は結婚を夢みた。千葉県小見川にある彼女の実家にも泊まりに行った。若い二人の恋。だれもが祝福してくれると思った。しかし、だれもが反対だった。教訓をぶつ父親も、新しい美しい義母も、可愛がってくれる祖母も、だれもかれもが反対だった。理由は、あきらかだった。身分の違い。お金もあり、教養もあり、いつも立派なことを言っている人たちが、なぜそんなことを気にするのか。人間は、皆平等ではないのか。直哉には謎だった。折りしも、この頃、島崎藤村が『破戒』を出版した。自分と同年配の主人公瀬川丑松は、江戸時代、部落民といわれた階層だったために、明治になり教師になっても差別され、教壇を去らねばならない。士農工商もちょんまげもなくなったのに、なぜ人間は差別しあうのか。この本を携え、十日余り鹿野山に滞在し菜の花を眺めていた直哉の心うちはどんなだっただろう。人間って何んなんだ。なんどもそう問いかけたにちがいない。(編集室)

テキスト紹介 観察したことを正確に 志賀直哉「玄人素人」をみる。

 

カエルの天敵は蛇だが、蛇の天敵はマングースといわれている。この話はほんとうか。志賀直哉は、その映像を観て、記録した。以下「玄人」の部分

 

マングースとコブラ

 

義弟がアメリカから持ち帰った16ミリ映画にマングースとコプラの戦いを撮ったものがある。戦いというよりもマングースのコプラ狩と云った方がいいようなものだ。面白いフィルムで、私は二度見て、よく覚えているが、マングースを見て、コプラが急に鎌首をあげる。一間程のコプラで、例の杓子(しゃくし)のような顔を一尺5寸程――マングースとの比較でそう思うのだが、――の高さにあげ、尾の先を細かく震わして、口を少し開け、対手を見下ろしている。これに対し、マングースの方も鬚(ひげ)の生えた小さな口を開け、それを蛇へ近づけ、挑むような様子をして見せる。少時(しばらく)、睨み合っていたが、蛇はちょうど、人間が球を投げる時の腕のような動作で、マングースに襲いかかった。マングースは蛇の動作に合わせ、軽く身を退いた。ヘビの首は空しく地面へ倒れた。蛇は再び、それを鎌首に還す。マングースは又、口を開け、それに望む様子をする。蛇が又それにかかる。マングースも軽く身を退いた。それも決して必要以上には退かず、ちょうど蛇の頭の届かぬ程度に退き、蛇が首をあげるのを待って、隙(す)かさず、又近づいて行く。何遍か、これを繰り返すうちに蛇はだんだんに疲れ、動作が鈍くなってきた。マングースは、それを待っていたのだ。そして仕舞に、見ていて、「今度はやるぞ」と分かるくらい、呼吸を計り、不

意にコプラの頭に噛みついた。頭を噛みつかれたコプラは非常な速さで、マングースの身体に巻きついた。蛇は、口の上から噛みつかれているのだ。マングースは蛇がすっかり身体を巻いたところで、そのまま――頭をくわえたまま、――自分で前へでんぐりがえしをうった。幾重にも巻かれていたマングースの身体はきれいに、それから脱(ぬ)けた。蛇は起き上が

ったマングースの身体を再び巻いた。マングースは、すっかり巻かれるのを待って、又でんぐりがえしをうって、それを解いてしまう。写真には2度それが映っていたが、その次に

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はもう死んだコブラの頭をくわえ、引きずって行くところが映って、終りになっていた。

いかにもマングースは蛇狩りの玄人で、蛇の習性をよく知っていて、少しも無駄をせず、かけるだけの手間をかけて、仕舞には殺してしまう。「今度はやるぞ」とはっきり分かるくらい、気合いをかけて喰いつくところなど、武道の試合を見るようで、面白かった。兎に角、マングースは蛇捕りにかけては練達の専門家だと思った。

※(一間=約1.82㍍、一尺=30.3㎝、1寸=3.03㎝))

 

テキスト読み   志賀直哉の車内観察 『網走まで』を読む

土壌館・編集室

 

小説の神様といわれる志賀直哉の作品といえば唯一の長編『暗夜行路』をはじめ『和解』『灰色の月』『城の崎にて』といった名作が思い浮ぶ。浮かばない人でも『小僧の神様』『清兵衛と瓢箪』『菜の花と小娘』と聞けば、学生時代をなつかしく思い出すに違いない。最近は、そうでもないようだが、これらの作品はかつて教科書の定番であった。また、物語好きな人なら『范の犯罪』や『赤西蠣太』は忘れられぬ一品である。他にも『正義派』『子を盗む話』など珠玉の短編がある。いずれも日本文学を代表する作品群である。こうしたなかで、処女作『網走まで』は、一見、なんの変哲もない小説とも思えぬ作品である。が、その実、

志賀直哉の文学にとって重要な要素を含んでいる。

かつて川端康成は、志賀直哉を「文学の源泉」と評した。その意味について正直、若いとき私はよくわからなかった。ただ漠然と、文学を極めた川端康成がそう言うから、そうなのだろう・・・ぐらいの安易な理解度だった。しかし、あらためて志賀文学を読みすすめるなかで、その意味することがなんとなくわかってきた。そうして、川端康成が評した「源泉」の源とは、処女作『網走まで』にある。そのように思えてきたのである。

そして『網走まで』を読解できなければ、志賀直哉の文学を理解できない。『網走まで』が評価できなければ、文学というものを畢竟、わかることができない。とんでもない思い違いをしているかも知れない。が、そのように読み解いた。

小説『網走まで』は、当時の原稿用紙(20×25)十七枚余りの、ちょっと見にはエッセイふうの小作品である。が、ある意味でこの作品は、金剛石の要素を持っている。光り輝くか否かは、読者の読解力の有無にかかっている。

1910年『白樺』第一号に発表された志賀直哉の初期作品『網走まで』は、400字詰原稿用紙で21枚足らずの創作である。たまたま乗り合わせた母子をヒントに書いた、筋らしい筋もない物語。たいていの読者は、見逃してしまう初期作品である。むろん私も全く記憶になかった。ゼミでテキストに選んだ折り、何度か読み返してみて、はじめてこの作品の非凡さに気がついた体たらくである。

しかし、どんな高価な金剛石でも、磨かなければただの石である。『網走まで』も、ただざっと読んだだけでは、なんの変哲もない作品である。「こんなものが、はたして作品と呼べるのか」そんな感想も無理からぬことである。だがしかし、しっかり繰り返し読めば、いつかははたと気がつき目からうろこが落ちた思いがするに違いない。

では、『網走まで』とはいったいどんな作品なのか。         次回につづく

『網走まで』解説(『志賀直哉全集』岩波書店)

明治43年(1910)4月1日発行の『白樺』第1巻第1号に発表され、大正7年(1918)3月、新潮社より刊行された白樺同人の作品集『白樺の森』に、現在のものにもっとも近いかたちになおして収め、「明治41年8月14日」と執筆年月が・・・明記されている。

「菜の花と小娘」「或る朝」「網走まで」いわゆる三つの処女作といわれる。

 

志賀直哉 1883年(明治16年)2月20日~1971年(昭和46年)10月21日88歳

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ドストエフスキー講座 1.   ナポレオン生誕250周年に寄せて

 

-ドストエフスキー『罪と罰』を読む―

 

〈はじめに〉今年は、ナポレオン生誕250周年ということです。この講座は、その一環として開きました。ドストエフスキーの『罪と罰』を読んで行きます。

なぜ『罪と罰』か。ナポレオンとドストエフスキー。同じロシアの文豪ならトルストイの方が論じやすいのではと思います。トルストイの『戦争と平和』は、ナポレオンとの戦争を描いた作品です。

〈ドストエフスキーとナポレオンについて〉もっとも、既にドストエフスキーの『罪と罰』を読まれた方なら、なぜ『罪と罰』をとりあげるのか、頷けるところです。まだ読んでいなくてもこれから一緒に、読みはじめればすぐにその謎は解けます。物語のなかにナポレオンの名前が、頻繁に出てくるからです。

「つまりね、ぼくはナポレオンになりたかった」といったようにです。

加えて作品全体のテーマも、ある面ではナポレオンの英雄思想をモチーフにしている。そんなところもあります。凡人と非凡人の分類法です。

他に偶然の関係性として、ナポレオンとドストエフスキーは、生没年の一致ということがあります。1821年という年です。この年の5月5日、ナポレオンは、囚われていたセント・ヘレナ島で死にます。52歳でした。半年後の10月30日、モスクワの病院でドストエフスキーは生れます。そんなことで1821年は、両者にとって履歴のうえで重要です。

ナポレオンが死んだ年に生まれた、この事実は、ドストエフスキーにとって、誇らしいことのようだった。1860年3月14日にこんな手紙(友人の妻)を書いています。

「第一、筆跡はわたしとナポレオンとの唯一の類似点ですし」と筆跡が似ているということを自慢そうに述べています。こんなことから、私はこの物語を、(テーマは読む人によって違いますが)、私は、「ナポレオンになりたかった青年の物語」として読んでいきます。そうして、実際的、現実的なとして、一度は英雄になった男、イラクのフセイン元大統領は、なぜ、『罪と罰』をもっていたのか。この謎も、ここで考えてゆきたいと思います。

もうひとつ他に間接的な関係として、ドストエフスキーの父ミハイルは、ナポレオンのロシア侵攻の戦争に軍医とし派遣されていた。そんな軍歴もあるようです。

〈ドストエフスキーと何々について〉もっとも、直接的に関係なくても「ドストエフスキーと何々」は他のどの作家より多くあります。例えば「アインシュタインとドストエフスキー」「ドストエフスキーとニーチェ」「ドスとエフスキーとマルクス」などなどあげればきりがありません。そのどれも、ときにはこじつけもありますが、比較文学論としてしっかり論じられている。もっとも、私のような凡人には、理解の域がとどかない研究論も多数ある。そうしたところが、ドストエフスキーは難解。そう誤解されてしまうところもあります。

接点など、どこにもないと思われる比較論の一つに私の「嘉納治五郎とドストエフスキー」があります。この比較論、「ドストエーフスキイ全作品を読む会」HPにアップして久しいのですが、ほとんどというよりまったく関心持たれなかった。ドストエフスキーはロシアの文豪としてひろく知られているが、嘉納治五郎については、日本においては知る人ぞ知る人だった。今年のNHKの大河ドラマ「いだてん」に登場したことで。漸く柔道の創始者、アジア初のオリンピック委員と漸く知られるようになった。が、二人の関連に注視する人はいませんでした。私は、柔道をはじめて50年、ドストエフスキーを読み始めて40年たつが、どちらの場においても、その関連について問われたことがない。

 

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両者の比較は無謀な比較論と思われた。ところがこの比較論にも、目を向ける人がいました。3年前の9月の、ある朝だった。我が家に一本の電話があった。でると「シモハラセンセイノオタクデスカ」との外国人なまりの言葉。いま流行りの特殊詐欺か、と思ったが、次の言葉に驚いた。「ワタクシ、カノウジゴロウト、ドストエフスキーヨミマシタ、カンドウシマシタ」と云った。その人はアメリカ大使館に勤務する柔道家(武官?)と名乗った。柔道家と文豪。両者の関係性を理解できる人がいたのである。私は、そのことに感激して、相手の話をよく聴かず電話を切った。嘉納治五郎は、我孫子や柏、この地域と、親交があるので、余談になりますが、なぜ。比較するのか、少し、話したいと思います。

〈嘉納治五郎とドストエフスキーのこと〉

嘉納治五郎とドストエフスキー。次号

 

『一年生』研究  岩波写真文庫『一年生 ―ある小学教師の記録―』

□2000年7/29-9/17、東京の江戸東京博物館で開催された「近くて懐かしい昭和展」は、昭和をなつかしむ大勢の人たちでにぎわった。美空ひばり、力道山、長島茂雄。戦後の昭和を飾った著名な人たちの記録や映像が人気を博していた。そのなかにあって、ひときわ入場者の関心を引いた写真展があった。昭和28年(1953年)写真家・教師だった熊谷元一が、教え子の一年生を一年間、撮影した写真だった。

 

 

 

熊谷は、写真のほかに一年生の「絵」「声」「文集」「黒板絵」を残した。

 

紹介1 文集『こども かけろよ ひのてるほうへ』昭和29年3月発行

 

〈はじめに〉

みんながはじめて がっこうへ来たときは、

まだ、じはあまりかけなかった。

それが一がっき、二がっきとたつうちに

じもかけるようになり、ぶんもつづれるようになった。

ここにあつめたのは みんなが一ねんのときにかいた

さくぶんです。しずかに おうちの人といっしょによんでみてください。

 

・・・・・・・・・・・・・・掲示板・・・・・・・・・・・・・

 

一緒にドストエフスキーを読みませんか

 

 

読書会のお知らせ ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」

どなたでも自由に参加できます。下原まで

 

月 日 : 2019年6月15日(土)

場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)

開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分

作 品  :『カラマーゾフの兄弟』三回目

報告者 : 菅原純子さん

 

※   連絡090-2764-6052下原 メール:toshihiko@shimohara.net

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