文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.368

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2019年(令和元年)5月7日発行

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.368

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
4/9 4/16 4/23 5/7 5/14 5/21 5/28 6/4 6/11 6/18 6/25 7/2 7/9 7/16 7/23 
観察と記録

2019年読書と創作の旅

5・7下原ゼミ

七人と一人の仲間。2019年、春、更なる目標に向かって旅立ちます。
  宇治京香  安室翔偉   梅田惟花  佐久間琴莉 
  伊藤舞七  大森ダリア  佐藤央康

4・23ゼミ報告 参加6名、(宇治、大森、佐久間、伊藤、梅田、安室) 
・4/16課題レポートの提出。(提出原稿・掲載=梅田、伊藤、宇治、大森、安室)
・ニコライ神父の『古事記』「神道とはどのようなものか」を朗読。
・『菜の花と小娘』解読。作品に隠された作者の思い。
・車内観察 志賀直哉『網走まで』朗読。
作品の謎、①なぜ網走か、②なぜ没か、③投函のとき、ハガキを読まなかったのはなぜか。
・「なんでもない(特別な)一日の記憶」(提出レポート配布 次回ゼミ提出)
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【4・23ゼミグラフティ】ゼミ3回目、顔と名前、だいたい覚える。が、まだ不安。ときどき名簿を見ながら確認する。来週から10連休。勇んで出発したのに、いきなりの足どめ、長逗留だ。こんなときの授業は――。令和元年の過ごし方を聞く。ほとんどがバイト。特別なことはしないとのこと。あまり関心ないようだ。
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☆議題「網走までの謎について」
☆本日の提出レポート「令和騒動と私の、ある一日」
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.368―――――――― 2 ―――――――――――――

紫草の生えた野を行き、標野を行きながら(標野の)見張りが見やしないか、いや、見てしまうでしょう。あなたが(あっちへ行きこっちへ行きながら私に)袖を振るのを。
□秘密の恋は、いつの時代も変わらないようです。

ゼミ観察  2019年、読書と創作の旅、同行者の紹介

5月7日現在、以下7名の皆さんの提出がありました。ほぼ、決定です。

・宇治 京香(うじ きょうか)さん 85A111-3

ドストエフスキーなどロシア文学に関心あります。日本一美しい星空が見える村へのゼミ合宿に憧れます。今年は、意欲的に創作と取り組みたいです。

・伊東 舞七(いとう まな)さん 85A028-5

  自分なりに作品を読み説いて、創作につなげる力をつけたい。詩―歌詞ばかり書いてきましたが、書くことで、さらに創作力をあげたいと思います。ゼミ雑誌は多彩にしたい。

・梅田 惟花(うめだ ゆいか)さん 85A093-5

朗読することで理解を深める、というところに魅力を感じた。ドストエフスキーにも興味がわいた。写真家・童画家の熊谷元一についても学んでみたい。

・佐久間 琴莉(さくま ことり)85A011-0

熊谷元一写真童画館があるゼミ合宿地の昼神温泉郷に興味あり。小説にかぎらず絵や、漫画、詩なども表現していきたい。創作活動でないことも学んでいければと思っています。

・大森 ダリア(おおもり だりあ)85A125-3

ドストエフスキーが好きです。ロシア語ができます。

・安室 翔偉(やすむろ しょうい)85A092-3

実践的な創作力を身につけるため。好きなもの、野球、競馬、麻雀、ラーメンなどです。

・佐藤 央康(さとう ひさやす)85A049-2

ゼミガイダンスの雰囲気が良かったので。

□7人様々な個性を感じます。楽しいゼミになりそうです。
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ゼミ雑誌について  皆で協力し合ってよいゼミ誌を創りましょう!!

編集委員・宇治京香さん ・佐久間琴莉さん 

ゼミ誌ガイダンス 5月15日(水)12時20分~ 江古田校舎 W303

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ゼミ合宿について 希望として南信州の「昼神温泉郷」があがっている。

写真は、ゼミ合宿候補の昼神温泉郷

ゼミ合宿授業内容  : 熊谷元一写真童画館見学・満蒙開拓平和祈念館見学。
            観光として星空日本一を見物。(天気次第)
 
 着手:1.担当者(得意な人)2.日程 3.宿決め(二カ月前)4.バス予約(一カ月前) 

熊谷元一写真童画館 写真童画館見学で熊谷の功績を知る。

アニメの巨匠も絶賛

今、見てもすごい写真だ !! 宮崎駿監督、感銘
               
2011年(平成23年)、旅先の旅館で熊谷の写真をはじめて目にしたアニメの巨匠宮崎駿監督は、「こんな写真家がいたのか」とおもわず声をあげた。「今後の映画作品制作に役立てたい」知人にそんな手紙を書いた。熊谷は前年101歳で亡くなっている。

満蒙開拓平和記念館 終戦まで後3カ月。昭和20年5月1日、新緑の故郷伊那谷を後にして遠い中国の北東部(当時満州国)に旅立った村人家族と、その子どもたち総勢195名がいた。彼らは、なぜ、ソ連軍が迫る国境の開拓村に向かったのか。

星空日本一 日本で星空が一番きれいに見える村として話題。但しお天気しだい。
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提出課題報告   何でもない自分の一日Orテキスト感想

 書くことの鍛錬は、まず、自分が一番知っていることを書く。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の肌で触った感覚。そして自分の頭で考えたことを正確に書く。
自分が暮らしている一日という空間を観察して客観的に書いてみよう。フィクション、ノンフィクション何れにせよ、まずはそこかはじめましょう。以下、4/23提出分

・梅田 惟花(うめだゆいか)  格差を感じた暴走事故事件

 「池袋で大きい事故があったらしいから気をつけてかえってね」
池袋に寄って帰ると言っていた私に友人はそう言った。結局、私は体調が悪くなり、池袋には寄らずに帰ったのだが、家でニュースを見て初めてその事故の大きさ知った。沢山の人をひき、3歳の女の子とその母親が亡くなった。ここまで多くの人を傷つけてしまったのだからきっと重い罪になるに違いない。そう思ったが、事故を起こした飯塚氏自身も傷を負っており、逮捕するにしてもまだ先になるという。
 飯塚氏は、どうやら旧通産省に勤め、勲章ももらったことのある、ネットの言葉をかりるなら「上級国民」らしい。私は、この言葉が、国民内で格差が目に見えてあるのを感じる為、嫌いだ。なので警察にはしっかりと捜査をして判断を下してほしい。国民内で格差は無いと証明し、高齢者による危険運転に大きな警鐘を鳴らすためにも。

□本当に、大きな悲惨な事故でしたね。亡くなった母子に、言葉もありません。警察は、しっかり検証して誰もが納得する盛儀の裁きをだしてほしいものです。

・伊東 舞七(いとうまな) 性差別、日芸では感じないが…

現代でも性差別はあるのだろうか。私は考えてみました。今、自分が生きている環境や周りでは実感することはあまりないと思いました。そもそも男と女が在る環境に長くいることが大学生になってから少なくなったのも理由の一つだと思います。でも実際、私の周りではなくても、日本全体で見てみれば、性差別は横行しているのだろう。
日芸では、あるのだろうか。私自身はあると思ったことはないが、もしかしたら…という事もあり得るのかもしれないと思いました。

可愛らしさだけでなく、残酷さも表現している

今日のゼミで志賀直哉の作品に触れるのは久しぶりのようだった気がします。『菜の花と小娘』は、初めて読みました。童話のような心温まる感じの作品のように思いました。
また、それと同時に、菜の花を川に流して移動させる場面とか、菜の花の言葉を聞き入れないところから、少女の可愛らしい部分だけでなく少し残酷さを表現しているな、と思いました。

□性差別のない日芸。もっと自慢してもいいですね。

□志賀直哉作品からは学ぶべきものが多くあります。一緒に読んでいきましょう。

・安室翔偉(やすむろしょうい) 何が面白いか分からなかった

 文は、丁寧で読みやすいが、何が面白いか分からなかった。NHKのお話しの国でやっていそうなやつだった。

□いつか、本当に面白い本にめぐりあえる。それを信じて多読と精読しましょう。
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・大森ダリア(おおもりだりあ) 二人が一人のように思えた

 『菜の花と小娘』を読んだ。小娘が菜の花と話をする、夢のある不思議な世界。小娘は花を村まで持ってってあげようと、様々な運び方をする。(しかし)花にとって、それは、不安と恐怖であり、小娘はそれを嬉しそうに追っていくだけである。この2人の関係性は、とても面白く、花は途中で小娘が走って息が上がっていることを心配する。互いに気を使い合いながら進む2人は一人のように思われた。起こっていく物事に対して、ただただ身を任せている様は、〈自然〉と同調している。
この物語は、小娘と花との2人の間のやりとりで、小娘の生き方、人生そのものをあらわしているように思えた。

□川の流れの中の菜の花。小娘の人生にもみえますね。〈自然〉でよかったですか。

・宇治京香(うじきょうか) 情報過多で、難しい時代に

 東京大学の入学式での印象的な女性に関する内容の祝辞に大きな反響がありましたが、今現在、日本を含み、世界中の国々で、ジェンダーに関する問題が明るみに出ていて非常に興味深いです。もはや「女だから、こうあるべき」という言葉は禁句となっていて、自分自身が自らの性を模索し、理解し、自分に合った型にあとはまっていく時代になりつつあると私は感じています。
 しかしながら、このようなことに敏感になり過ぎている世の中だからこそ息が詰まります。インターネットの普及によって情報は豊かになり、便利になりましたが、情報の氾濫が起こり、今まであった形が少しずつ崩れ、分裂してそれらを取捨選択していかなければなりません。女性のあり方もその一つであり、最近では性被害をSNSで告白するmee to運動などが起こっていますが、過剰な反応は逆に人を傷つけるし、冤罪にも成りうる訳です。このようなことも含めて女性の有り方については難しい問題であると思いました。

□本当に難しい時代になりましたね。その意味では、女性は、いつの時代も厳しいです。

・編集室(下原) 怪しまれた訪問

 先週、大学に来る前、もうすぐ101歳になる女性宅を訪問した。私が主催している読書会の会員だが、書道・和歌教室の師匠だった。2002年ドストエフスキーのひ孫が来日して講演した時、新聞で知って読書会に参加。それ以来、熱心なドストエフスキー読者になった。しかし、ここ1、2年、加齢で参加が辛くなった。電話での会話も耳が遠くなって成立しなくなった。そこで、お元気なうちにと親しい女性会員二人が、自宅を訪問することにした。編集室の私も、親しかったので同行した。彼女の家は、誰も知らなかった。ハガキの住所を頼りに駅前からタクシーに乗った。15分ほどのところにあった。玄関ドアを開けて迎えたのは、初老の女性(書道家の二女)だった。彼女は、私たちを不審そうに出迎えた。自立心が強い書道家の会員は、読書会に参加していることを家人に話していなかった。毎月、どこかに出かけて行く。老齢の身の心配もあって快く思っていなかった。
それ故、101歳の耳の遠い、一人暮らしのお年寄りのところに訪ねてくる人は、いったい何者。そんな不安と恐れが先に立ったようだ。特殊詐欺のニュースもある。
書道家の会員は、久しぶりの再会を喜んだ。谷津干潟散策、高尾山ハイキング。そして、ドストエフスキー作品のこと。積もる話は、たくさんあった。が、すぐに送りタクシーがきた。「こんどは、いつ」書道家の彼女は、寂しげな笑いで手を振った。「またきますよ」私は笑って答えた。家族の表情に安堵がみえた。これが最後になるかもと思った。だった。。
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テキスト読み2  志賀直哉の車内観察 『網走まで』を読む
編集室
                   二「網走」のなぞ

4・23ゼミで『網走まで』を読んだ。この作品には大きな謎がいくつかある。作品を手にとると、まず、題名から立ち止まってしまう。なぜ「網走」かである。網走は、現代なら映画の舞台や刑務所、メロン産地、オホーツクの流氷やカニなどでよく知られている。が、この作品が発表された明治四十三年(1910)当時は、どうであったろうか。一般的にはほとんど無名だったのではないかと想像する。そんな土地を作者志賀直哉は、なぜ題名にしたのか。旅の目的地にしたのか。大いに疑問に思うところである。そんなところから、作品検証としては、まず題名の「網走」から考えてみたい。
 インターネットで調べてみると網走は、元々魚場として開拓民が住み着いたところらしい。地名の由来は諸説あるが、いずれもアイヌ語が語源とのことである。
 例えば「ア・バ・シリ」我らが見つけた土地。「アバ・シリ」入り口の地。「チバ・シリ」幣場のある島。である。(ウィキペディア)
 また、作品が書かれた頃までの網走の歴史は以下のようである。
• 1872年(明治5年)3月 北見国網走郡の名が与えられる(網走市の開基)。アバシリ村が設置される。
• 1875年(明治8年) 漢字をあてて、網走村となる。
• 1890年(明治23年) 釧路集治監網走分監、網走囚徒外役所(現在の網走刑務所の前身)が開設
• 1891年(明治24年) 集治監の収容者の強制労働により北見方面への道路が開通
• 1902年(明治35年) 網走郡網走村、北見町、勇仁村(いさに)、新栗履村(にくりばけ)を合併し2級町村制施行、網走郡網走町となる。
明治政府は、佐賀の乱や西南の役などの内紛に加え荒れた世相で犯罪人が激増したことから、またロシアの南下対策として彼らを北海道に送ることにした。(屯田兵として利用する)。明治十二年伊藤博文は、こんな宣言をしている。
「北海道は未開で、しかも広大なところだから、重罪犯をここに島流しにしてその労力を拓殖のために大いに利用する。刑期を終えた者はここにそのまま永住させればいい」
なんとも乱暴が話だが、国策、富国強兵の一環として、この計画はすすめられた。
 そして、明治十二年に最初の囚人が送られた。以後十四、十七年とつづき、網走には明治二十三年に網走刑務所の前身「網走囚徒外役所」ができ千三百人の囚人が収容された。囚人は、札幌―旭川―網走を結ぶ道路建設にあたった。こうしたことでこの土地は、刑務所の印象が強くなったといえる。が、作品が書かれた当時、その地名や刑務所在地がそれほど全国に浸透していたとは思えない。第一、当時、網走には鉄道はまだ通っていなかった。従って
「網走」という駅は、存在していなかったのである。では、作者はそんな地名を、なぜ、わざわざ題名にしたのか。あたかも網走という駅があるかのように書いたのか。
 しかし、この作品はどう読んでも網走駅までの印象は強い。「網走まで」は駅までではない。そう言われても最初から大きな謎である。ということで、なぜ「網走」か、について、考えてみたい。推察してください。

■課題「網走」にした理由は、何か。なぜ網走としたのか。
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ドストエフスキー講座..   ナポレオン生誕250周年に寄せて

ナポレオンになりたかった青年の物語(校正しながら連載)

-ドストエフスキー『罪と罰』を読む―

【はじめに】ことしは、ナポレオン生誕250周年です。本講は、その一環として『罪と罰』を紹介します。世界史の英雄ナポレオンとロシアの文豪ドストエフスキー。どこが関係するのかと疑問に思う人もいるかとおもいます。が、既に『罪と罰』を読まれた人は、充分に得心するでしょうし、まだの人も、読みはじめればすぐに「そうか」と、うなずけます。そんなわけから、この講座のタイトルを「ナポレオンになりたかった青年」としました。
 『罪と罰』とナポレオンには、思想、心理など多方面から関連するものがあります。それに不思議な縁ですが、その年譜においても偶然の一致があります。1821年がそれです。ナポレオンはこの年の5月5日、孤島セント・ヘレナで52歳の短い、しかし波乱の生涯を終えます。この年の10月30日、遠く離れたロシア、モスクワの校外で生まれたのがフョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(四男四女の次男として)です。
ナポレオンが死んだ年に生まれた。この生没年一致の事実は、ドストエフスキーにとって、誇らしいことのようだった。(英雄や偉人との類似点の喜びは、誰しも同じ。文豪も同じだった)1860年3月14日にこんな手紙(友人の妻)を書いています。
「第一、筆跡はわたしとナポレオンとの唯一の類似点ですし」などと―筆跡が似ているということを自慢そうに述べています。
 こんなところから、文豪は、いつかナポレオンに関連した物語を書きたい。そんな野心というか夢を描いたかもしれません。それ故、生誕41年後、1866年に発表した『罪と罰』は、生没年の一致に夢みた決意の具現化と信じるところです。
こんな動機もあってナポレオン生誕250周年に寄せて『罪と罰』を再読して、考察してみようと思ったのです。
 加えて、いま、『罪と罰』真の理念について改めて紹介しなければと思ったのは、ドストエフスキー作品を愛読してきた者の使命からもあります。いつの時代もそうですが、現代もまた、『罪と罰』のテーマ英雄主義の悪用が目立つからです。
英雄主義の悪用とは何か。例えば、一昨年、相模原で起きた重身障者殺害事件がそれだ。他に一向になくならない「オレオレ詐欺」。犯人たちの供述に改心も罪悪感もない。ことし春、NHKテレビで放映されたドキュメントドラマ「詐欺」のなかで、「受け子」「かけ子」と呼ばれる若者がプロ詐欺犯からレクチャーされている映像があった。人をだますことを教えているのか、と思えば、そうではなかった。プロの詐欺犯たちが、熱心に訓示しているのは、「お年寄りの家に眠っているお金を、必要な人たちにわけ与え、明るい社会をつくること」などと言っていた。ドストエフスキー作品を愛読してきた者としは看過できない。
もっとも、私は、ロシア文学の専門家でも、ドストエフスキーの研究者でもありません。私は、たんにドストエフスキーに魅せられて、この40余年間、読みつづけ「読書会」に参加してきた、市井の一読者に過ぎません。故に私ができることは、一般市民の読者の目線からドストエフスキーが目指したものを紹介することだけです。
ときには、難解と敬遠され、ときには歪曲されるドストエフスキーですが。この講座でドストエフスキーが作品の目的とした崇高な理念(人類の恒久平和)を、新しい時代「令和」にひろげることができれば幸いです。つづく
※ちなみに下原の研究対象は、写真家・熊谷元一、教育者・嘉納治五郎です。
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.368 ―――――――― 8 ―――――――――――――

熊谷元一研究      岩波写真文庫『一年生 ―ある小学教師の記録―』

本欄「熊谷元一研究」では、熊谷が残した学校教育の功績を紹介する。
紹介1 文集『こども かけろよ ひのてるほうへ』昭和29年3月発行

会地小学校一年生の【一年中のおもだった事】1953年度(昭和28年度)
 4月 1日 入学式 東組担任。熊谷元一 男子22名、女子13名 計35名
 4月18日 春の遠足 伍和宗円寺、学校へ行く。
 4月28日 家庭訪問はじまる。
 5月 5日 子供の日 小運動会。
 6月14日 春の農繁休みはじまる。
 8月 1日 夏休みはじまる。
 8月17日 二学期はじまる。
 8月24日 はじめて掃除をする。
10月 3日 校庭大運動会。
10月13日 山本村奈々久里神社へ遠足。
10月18日 秋の農繁休みはじまる。
11月 3日 全国小中学校版画コンクールに7人共同制作の紙版画「どうぶつえん」1等。
      「まち」佳作。
11月16日 「家庭よみうり」から写真撮影にくる。
12月 9日 保護者懇談会はじまる。
12月28日 二学期終了。年末休みはじまる。
1月 1日 年のはじめの式。
1月18日 小森清人君の版画年賀が秀逸入選。
3月 8日  学芸会「さるかに合戦」を公演。
3月22日 卒業式 版画コンクールの賞状と記念品を受けとる。

◇転校生 園原恒利君(60年後「写真童画館」で再会) 大島智幸君

・・・・・・・・・・・・・・掲示板・・・・・・・・・・・・・
一緒にドストエフスキーを読みませんか

読書会のお知らせ ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」
どなたでも自由に参加できます。下原まで
月 日 : 2019年6月15日(土) 開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)
 作 品  :『カラマーゾフの兄弟』三回目 報告者 : 菅原純子さん

※ 連絡090-2764-6052下原 メール:toshihiko@shimohara.net     

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