文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.369

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2019年(令和元年)5月14日発行

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.369

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
4/9 4/16 4/23 5/7 5/14 5/21 5/28 6/4 6/11 6/18 6/25 7/2 7/9 7/16 7/23 
観察と記録

2019年読書と創作の旅

5・14下原ゼミ

2019年度読書と創作の旅同行者です。1人増えて8人の仲間になりました。
宇治京香  安室翔偉   梅田惟花  佐久間琴莉  松野優作  伊東舞七
大森ダリア  佐藤央康 (写真全員のとき)

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【5・14ゼミ予定】
□今週の気になる新聞記事、コピー配布。「裁判員制度」10年目。
□提出レポート読みと感想「なんでもない1日」「はるか令和騒動を離れて」
□テキスト志賀直哉「出来事」読みと感想
□ドストエフスキー講座3ドストエフスキー五大長編「ギャンブルとドスト」
□提出レポート「車中観察」電車のなかで見た出来事、いつも思うことなど
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【5・7ゼミ報告】
■参加6名 宇治、安室、佐久間、伊東、佐藤、松野
■大型連休の過ごし方。アルバイトが多かった。昔も今も変わらないのを感じた。
■気になった新聞記事配布「豚コレラ 9万余頭の殺処分の方法」
■テキスト『網走まで』の謎についての考察と推理。議論。
■ドストエフスキー講座2
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.369―――――――― 2 ―――――――――――――

ゼミ観察  2019年、読書と創作の旅、同行者の紹介

5月14日現在、以下8名の皆さんの提出がありました。

・宇治 京香(うじ きょうか)さん 85A111-3

ドストエフスキーなどロシア文学に関心あります。日本一美しい星空が見える村へのゼミ合宿に憧れます。今年は、意欲的に創作と取り組みたいです。

・伊東 舞七(いとう まな)さん 85A028-5

  自分なりに作品を読み説いて、創作につなげる力をつけたい。詩―歌詞ばかり書いてきましたが、書くことで、さらに創作力をあげたいと思います。ゼミ雑誌は多彩にしたい。

・梅田 惟花(うめだ ゆいか)さん 85A093-5

朗読することで理解を深める、というところに魅力を感じた。ドストエフスキーにも興味がわいた。写真家・童画家の熊谷元一についても学んでみたい。

・佐久間 琴莉(さくま ことり)85A011-0

熊谷元一写真童画館があるゼミ合宿地の昼神温泉郷に興味あり。小説にかぎらず絵や、漫画、詩なども表現していきたい。創作活動でないことも学んでいければと思っています。

・大森 ダリア(おおもり だりあ)85A125-3

ドストエフスキーが好きです。ロシア語ができます。

・安室 翔偉(やすむろ しょうい)85A092-3

実践的な創作力を身につけるため。好きなもの、野球、競馬、麻雀、ラーメンなどです。

・佐藤 央康(さとう ひさやす)85A049-2

ゼミガイダンスの雰囲気が良かったので。

・松野 優作(まつの ゆうさく)

遅れてきた同行者です。年上の人からよく、あの松田優作だね、と言われる。(趣味や、好きなものを早口で話すことができる。)

□8人様々な個性を感じます。楽しいゼミになりそうです。
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ゼミ雑誌について  皆で協力し合ってよいゼミ誌を創りましょう!!

編集委員・宇治京香さん ・佐久間琴莉さん (ゼミ合宿についても)

ゼミ誌ガイダンス 5月15日(水)12時20分~ 江古田校舎 W303

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ゼミ合宿について 希望地として南信州の「昼神温泉郷」があがっている。
           大学に確認。ダメな場合は、日大施設。

写真は、ゼミ合宿候補の昼神温泉郷

希望地での授業内容  : 熊谷元一写真童画館見学・満蒙開拓平和祈念館見学。
             観光として星空日本一を見物。(天気次第)
日大施設での授業内容 : マラソン朗読会
 
【南信州、昼神温泉の場合】費用は日大施設より多額に…

熊谷元一写真童画館見学 「熊谷元一写真童画館」見学で熊谷の功績を知る。

満蒙開拓平和記念館 終戦まで後3カ月。昭和20年5月1日、新緑の伊那谷を後にして遠い中国の北東部(当時満州国)に旅立った村人家族と、その子どもたちと教師。総勢195名がいた。彼らは、なぜ、ソ連軍が迫る国境の開拓村に向かったのか。悲惨な逃避行を生んだ国策の謎。同館見学で、その謎が解ける。

星空日本一 日本で星空が一番きれいに見える村として話題。但しお天気しだい。

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5・7提出課題感想 書くことの鍛錬は、まず、自分が一番知っていることを書く。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の肌で触った感覚。そして自分の頭で考えたことを正確に書くこと。簡潔さと客観性+分かりやすさの確認。以下、5/7提出分輪読。

【遥か令和を離れて】

・佐藤 央康    掃除に夢中、気づいたら 

 平成から令和にかわる瞬間、私は部屋の掃除をしていた。それは別にまえから計画していたことではなくあまりの自室の汚さに思わず机の片付けをしてしまったことからはじまった。一度はじめると、、どうしてだろうか、手は止まらない。掃除はしだいに熱をおび、やがて家具の配置の見直しにまでおよんだ。気がついた頃には平成は終わっていた。
 部屋の掃除が終わり、床についた私が目覚めたのは翌日の午後1時頃であった。しかし、そこで片付いた部屋をながめる私には、ある違和感があった。ノドが痛いのである。どうやら風をひいてしまったようであった。もちろん原因は昨夜のそうじにあった。マスクをつけずにしたために大量の埃を吸い、タンス等の重量のある家具をもちあげたことにより汗をたくさんかいたせいである。
 だが令和初日、私には友人との遊びや食事の約束があった。ふだんなら予定をキャンセルするだけだ。しかし、これは令和初日のことだった。私は、予定を断ることができなかった

□平成と令和を掃除していた。

・安室 翔偉    人生初、令和初のギャンブルは…
 
 平成最後の日は、私は競輪場にいた。元号が変わるといって、特にすることもなかった。しかし、完全に何もしないのもどうかと思い、足を運んだのが、人生初の競輪場だった。
 松戸競輪場は、北松戸の駅から3分ほどだ。小雨が降り、肌寒い気候ではあるが、それ以上の熱気を感じた。私は熱気の中、5千円をスッて大人しく帰路についた。財布と心は冷えていた。
 元号は変わっても、何も変わらない。元旦と同じようなものだ。騒ぐやつは騒ぐし、静かかなやつは静かだ。そんなことを思いながら5月1日を迎えた。とりあえず今日の負けは競艇で取り返す。令和はじめの抱負はしょぼいものになった。

□ドストエフスキーはギャンブル依存症に苦しみましたが、ある日突然、依存が消えました。

・松野 優作  陽が沈むころにはもう眠っていた

 改元という人生に一度でも経験するかどうかといった大きな節目であったわけだが、あろうことか私は陽が沈むころにはもう眠っていた。早くに寝すぎたせいか、午前五時に目が覚めた。台所で湯をわかし、コーヒーを淹れていた。透かし窓から空がもう白んでいるのが窺えていつもより薄いコーヒーを飲んだ。そういえば、自分は、誕生日や元旦、クリスマスなどの数ある節目を無視しきっているな、とそんなことを考えていた。
 人々は何かと自分の人生に区切りをつけたがる。変化を求め、あるいは自戒の為であろうか。日々は断続していくもので、明日に期待していてもしょうがない。時間など相対的で、やりようによっては、待ってくれないこともない。そう考えながら、やっぱり少し薄いコーヒーを流しに捨てた。テレビではどうして頭が痛くなる程、令和を報道しているのだろう。つける気がしないので、無理に二度寝した。

□令和を眠って迎えた。善い思い出になるかも知れませんね。
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・佐久間 琴莉  「令和」実感がわくのは、これから

 新元号が目前に迫った4月30日はまるでお祭りムードでした。浮き足立った雰囲気に乗る気もないまま、令和に変わるという事実だけがありました。
 5月1日の0時、令和という時代が始まったとき、私はバイトのクローズを終えて武蔵境駅のホームで中央線を待っていました。一緒にいたバイトのメンバーに、12時になりましたよ、と声をかけましたが、疲れていたのか、二人はあいまいな返事をするだけでした。今思えば私は、楽しみにしていたのかもしれません。世間のお祝ムードにやられ、まるで信念を迎えるかのように、0時になる瞬間を心待ちにしていました。けれども実際、新元号を迎えてみても、何のお祝いムードも感じることなく、いつも通り電車に乗っている人たち顔は暗いし、バイトメンバーも疲れ切っていて元気がないし、本当に令和を迎えたのかと心配になるほどでした。
 平成が終わり、令和になった実感がわくのはこれからでしょう。新年号をお祭り騒ぎで迎えられる時代に自分が生きているということが、いちばん嬉しいことです。

□お疲れ様でした。ゼミも落ち着いたら静かに令和を感じてください。

・宇治 京香  希望に満ちあふれた新年号

 平成から令和へと元号が変わる時、私は眠りに就こうとしていました。世間の令和フィーバーなど知らず知らずのうちに過ぎ去ってゆきました。まるで正月のように盛り上がっていたので驚きました。しかし、よく考えてみたら、新天皇の即位が平成天皇がご健在のうちに取り行われることはとてもめでたいことであるのは確かだと思いました。昭和天皇がお亡くなりになった時は、世間がお葬式ムードで一年間は大変だったようですが、この新しい元号の幕開けはとても明るく希望に満ちあふれたものだったのではないでしょうか。11月には大嘗祭も控えていて、これもなかなか見られるものではないと思うので、テレビ放送などは楽しみではあります。
 令和へと変わった5月1日は、10日間の大型連休であったことは、大きな経済効果を生んだとも報じられていたので、騒ぎ過ぎはどうかと思いましたが、わりとこの改元は悪いものではないかもと思いました。

□そうですね。昭和天皇崩御ではじまった平成は、どこか暗く重い感じでした。

・伊東 舞七  少しだけ身が引き締まります

 ゼミのメンバーが最終確定し、「読書と創作の旅」を共にできることが、すごく嬉しく思いました。楽しいゼミにしてゆきたいです。
 今日のゼミで話にでた「令和元年」どんな年になるのでしょうか。あまり変わらない気もするけれど、平和であって欲しいと願うばかりです。平成という年を思い返してみると自分が生まれた年でもあるし、いろいろなことが起こった年でもありました。時代の変化というものには抗えないし、進んでいくばかりです。令和になった年に私は20歳になります。特に何も変わらないかもしれないけれど、何故だか、少しだけ身が引き締まります。大学もこのゼミも頑張っていきたいです。GWは、きっとバイトばかりですが、それはそれで楽しみたいと思います。元号が変わる瞬間、自分が何をしているのか、できれば笑っていたいです。

□どんな瞬間でしたか。笑顔でしたか。バイトも+志向、令和いい人生になりそうですね。

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【テキスト感想】志賀直哉『網走まで』

・宇治 京子   行く先を案じる文章構成

 志賀直哉の『網走まで』を読んで彼の観察力と文章表現力の高さに改めて驚かされました。そして、受験勉強の際に現代文の問題で読んだことがあるような気がしました。(既視感)。まず、混雑して熱気のこもった電車内が安易に想像でき、まるで自分がその場にいるかのような臨場感すら感じられました。二人の子どもをあやす母親の様子が、ごくありふれた母子の状態でありながらも電車内の環境と会話などの要素によってどこか不安定で落ち着きのないように感じられ、どことない気持ち悪さが私の中ではありました。
 途中で、子どもがトイレに行きたいと言い出したあたりからの母親の焦燥感となんとかして落ち着こうとする二つの感情がぶっかり合っているところは、特に、母子の不安定な様子を連想させる要素であったと思います。「この人たちは大丈夫だろうか?」とゆく先を自然と案じられるような文章校正になっていて、なかなか常人にはできることではないと思いました。

□事実であって事実でない。創作であって創作でない。そこに志賀文学の真髄です。

テキスト考察 『網走まで』の謎「なぜ網走か」「なぜ没に」

 網走まで』は、僅か20枚程度の作品である。(草稿は二十字二十五行で十七枚)この作品には大きな謎が二つある。一つは、前述したが題名の「網走」である。志賀直哉は、何故に網走としたか。志賀がこの作品を書いたのは、1908年(明治41年)である。草稿末尾に8月14日と明記されている。志賀直哉二25歳のときである。一見、エッセイふうで、経験した話をそのまま書いた。そんなふうに読めるが、そうではない。この作品は完全なる創作である。志賀は、創作余談においてこの作品は、「或時東北線を一人で帰ってくる列車の中で前に乗り合わせていた女とその子らから勝手に想像して書いたものである」と明かしている。そうだとすれば、なにも「網走」でなくてもよかったのでは、との思いも生ずる。当時、あまり知られていない網走より、「青森」とした方がより現実的ではなかったか、と思うわけである。網走同様、青森という地名の由来も諸説ある。が、一応、370年前、寛永2年頃(1625年)開港されたときにつけられた、というから一般的にも知られてはいたというわけである。題名にしても歌手石川さゆりが熱唱する「上野発 夜行列車降りたときから 青森駅は雪だった・・・」の青森に違和感はない。当時としては、網走よりはるかに現実的だったに違いない。なぜ「青森まで」ではなく、「網走まで」なのか。もし作者が北海道にこだわるのなら函館でもよかったのではないか。そんな疑問も浮かぶ。函館には、歴史の郷愁がある。既に40年の歳月が過ぎているとはいえ、函館(箱館)といえば、あの新撰組副長土方歳三(35)が戦死した土地。明治新政府と榎本武揚(34)北海道共和国が戦った城下である。現代では百万ドルの夜景と、観光名所にもなっている。それ故に当時も一般的知名度は、それなりに高かったのではと想像する。
 しかし、時は明治全盛期である。過去に明治政府に反抗した都市ということで、よろしくないとしたら、札幌はどうだろう。「札幌まで」としても、べつに遜色はないように思える。1876年(明治九年)あの「青年よ大志を抱け」のクラーク博士ほか数名の外国人教師を迎えた札幌農学校のある「札幌」は、それから三十余年北海道開発の拠点として、大いに発展しつつあったはず。「札幌」の名は、全国区であったに違いない。にもかかわらず「札幌」ともしなかった。なぜか・・・・。ではやはり当時、「網走」は人気があったのか。それとも作者志賀直哉に何か、よほど深い思い入れが、題名として使いたい理由があったのか。どうしても行き先が「網走」としなければならない何かが・・・次回へ。
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ドストエフスキー講座..   ナポレオン生誕250周年に寄せて

ナポレオンになりたかった青年の物語(校正しながら連載)

才能ある若者は、なぜ殺人者になったのか。2003年12月、故郷の穴倉で米軍に拘束されたイラクのフセイン元大統領は、なぜ『罪と罰』を所持していたのか。その謎に迫る。
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第一講 『罪と罰』とは何か

 読みはじめにる前に、文豪と作品について簡単に紹介します。

・ドストエフスキーの代表作品について

 ドストエフスキーの代表作品は、一般的には、五大長編がよく知られています。個人的には、中編作品もいくつかあげたいところです。特に、処女作『貧しき人々』、二作目の『分身』(『二重人格』とも訳されています)、シベリア監獄生活の創作ルポ『死の家の記録』、自伝的作品『虐げられし人々』などです。他に『罪と罰』の基盤とも言える『地下生活者の手記』も、加えたいところです。が一般的には、五大長編がよく知られています。
五大長編とは『罪と罰』(1866)、『白痴』(1868)、『悪霊』(1872)、『未成年』(1875)『カラマーゾフの兄弟』(1880)です。今回ここで連載するのは、『罪と罰』です。この長編作品は、ドストエフスキーの人生のなかでトップバッターとして登場します。
この作品は、物語の分かりやすさ、面白さ、影響力の強さから五大長編のなかでも特に人気があります。世界中に多くの読者がいます。評論の多さも群を抜いています。おそらくいちばん、論文やエッセイ集が多いのではないかと思います。この講座の宣伝文としてあげましたが、イラクのフセイン元大統領も、逃亡生活で持参していたほどです。
 しかし、ドストエフスキーと言うと、たいていの人は、「難しい小説」「長すぎる、重すぎる、終わりまで読めなかった」そんなネガティブの感想を口にします。
2000年のはじめ、日本では第3次のドストエフスキーブームがありました。この現象にNHKはHPで
「百人に一人しか読破できないと言われるドストエフスキー/なぜ今人気なのか」と驚いたコメントを載せています。そうして007年8月25日、土曜日の朝、「おはよう日本」の番組のなかで「なぜ人気、ドストエフスキー」と題してレポートしました。私が参加している「ドストエーフスキイ全作品を読む会・読書会」も紹介されました。
ブームの火付け役は、ドストエフスキー研究者で当時東京外国語大学学長だった亀山郁夫氏。光文社から『カラマーゾフの兄弟』の新訳本をだしたことに端を発しました。
この訳書は、若者を中心に売り上げをのばし、古典としては何十万部という驚異的数字を記録しました。その後も長編が続々翻訳されました。亀山氏は、『悪霊』なども訳されて、すっかりベストセラー訳者となりました。それについて、こんな感想をもらしています。
「本を買っても実際に読む人は少ないと思います。千人に一人、五千人に一人かも知れません」この言葉通り、ドストエフスキーブームは、たちまちのうちに去りました。
もっとも、読書会参加者は、ブームの前も、後も変わりありませんでした。いつの20人前後でした。このことは、ブームに関わらず、ドストエフスキーを読む人は、ある一定量存在する、という証明でもあります。ドストエフスキーの作品には、それぞれ、しっかり読者がいる。その証明でもあります。
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.369 ―――――――― 8 ―――――――――――――

熊谷元一研究      熊谷元一生誕110周年に寄せて

岩波写真文庫『一年生』を読む。昭和28年入学小学一年生の記録

紹介1 文集『こども かけろよ ひのてるほうへ』昭和29年3月発行

もくじ(だしたじゅんは、おそくうまれたほうをさきにしました)()は家業 黒字は死亡

えんのこ・・・・・・・・・・・・こうさか しずえ(農業)
かなりや・・・・・・・・・・・・あんどう けんじ(勤人)
そり・・・・・・・・・・・・・・ふくしま たいし(林業)
あそんだこと・・・・・・・・・・はら さちこ(薬屋)     
おつかい・・・・・・・・・・・・まきしま たかよし(林業)  
たばこや・・・・・・・・・・・・こもり きよと(茶屋)
あそんだこと・・・・・・・・・・いとう さちこ(林業)
おつかい・・・・・・・・・・・・おりやま たかいち(農業)
けんか・・・・・・・・・・・・・ますだ しげこ(農業)
スケート・・・・・・・・・・・・あらい ひでかず(酒屋)   
ねこ・・・・・・・・・・・・・・すぎやま ちずこ(農業)
いちにち・・・・・・・・・・・・あらい きよし(桶屋)
ゆきがっせん・・・・・・・・・・おかもと みつよ(農業)
ゆうびんきょく・・・・・・・・・しもはら としひこ(農業)
せつぶん・・・・・・・・・・・・やまだ まさこ(農業)
とりのけんか・・・・・・・・・・みずの のぶゆき(農業)

残り半分は次号で紹介。
・・・・・・・・・・・・・・掲示板・・・・・・・・・・・・・

一緒にドストエフスキーを読みませんか

読書会のお知らせ ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」
どなたでも自由に参加できます。下原まで
月 日 : 2019年6月15日(土) 開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)
 作 品  :『カラマーゾフの兄弟』三回目 報告者 : 菅原純子さん

連絡090-2764-6052下原 メール:toshihiko@shimohara.net 

-ドストエフスキー『罪と罰』を読む―

  1.日本人は、なぜロシア文学が好きか【『罪と罰』を読む前に】

 作品読みに入る前に、ロシア文学と日本人について、考えてみた。なぜ、日本人はロシア文学が好きか。第177回例会・下原報告「団塊世代とドストエフスキー」が、その謎について検証している。明治・大正・昭和と日本人は、ロシア文学を愛読してきた。その理由は何か。抜粋で紹介すます。
21世紀になってもドストエフスキーは読まれている。書籍も、毎年、新刊本が相次いで出版されている。なぜドストエフスキーの読者は後を絶たないのか。トルストイもゲーテも、バルザックも年々、読まれなくなっているという。にもかかわらず一人ドストエフスキーだけは、脈々と読みつづけられている。研究においても「柳の下にいつも泥鰌は居らぬ」はずなのに、ドストエフスキーに限って二匹目どころか何匹でも、出てくるのである。この作家に関する出版物をネットで検索すると、確かにその多さがわかるというもの。二00六年だけでも数冊はくだらない。なぜドストエフスキーだけがこのように読まれ研究されるのか。「人間は神秘です。それは解き当てなければならないものです。(米川正夫訳)」と書いたのはこの作家である。さすれば、この現象も神秘といえる。探究するに値する。と、いうことで平成十八年最後の第一七七回例会報告は、この疑問の解明をテーマにした。
 
 なぜドストエフスキーは、読みつづけられるのか。この謎を探る前段階として、なぜロシア文学は日本に受け容れられたのか ―― からはじめたい。ロシア文学が初めて日本に紹介された経路と日本文学に浸透した理由などを簡単に検証してみた。
 まずロシア文学が、日本に入ってきたのは、明治以後であるが、そのへんの事情は故新谷敬三郎先生の著書『ドストエフスキイと日本文学』(海燕書房1976)に詳しく書かれている。抜粋だが経路について本書では、このように推察されている。
 日本にロシア文学が継続的、多少とも組織的に入ってきて、何らかの役割を果たすようになるのは明治以後、ほぼ一八八○年からである。ロシア文学移入の経路は、明治、大正期においては、大別して三つ考えられる。(一)東京外国語学校、(二)ニコライ神学校、(三)丸善、である。(「日本におけるロシア文学」)
 明治維新後、文明開化した日本に西洋文化が濁流のようにどっと流れ込んできた。文学においても例外ではなかった。翻訳ものがあふれるなかで、文学はおよそこの三つの経路からだという。そこにはロシア文学に限らずドイツ文学やフランス文学もあったに違いない。しかし、日本の文学者が興味を示したのはロシア文学だけだった。なぜゾラ、モーパッサン、ゲーテ、ディッケンズといった並み居る文豪たちではなかったのか。そのところについても、このように述べられている。
…日本の文学がロシア文学を知り、それを受け容れ始めたのは、ヨーロッパで近代が終わり現代が始まろうとする変化のときで、そのヨーロッパの諸文学にロシア文学が意味を持ちはじめ、ロシア文学もまた生まれ変わろうとしていたときであった。そのとき、日本では、ロシア文学を受け容れるのに、大別して二つの態度が生まれた。それはひと口でいえば、(一)十九世紀的ロシア、とくにナロードニキ的心情を指向する態度、(二)象徴主義の胎から生まれた二十世紀的ヨーロッパの知性を指向する態度、である。この二つの指向性は、ほとんど今日に至るまでのロシア文学自体にも見られ、その創作の原動力となっている。…
 ロシア文学が、真綿に浸み込む水のように日本文学に浸透した。その要因は、当時のロシアと日本が似通った国情にあったと、著者は指摘する。「ナロードニキ的心情とヨーロッパの知性を指向する態度」この二つの態度があったからだと分析している。また「この二つの指向性は、ほとんど今日に至るまでのロシア文学自体にも見られ、その創作の原動力となっている。」とする見方は、今回の副テーマ「柳の下のドジョウの謎」を思うと興味深いものがある。
 このような受け容れ条件はあるが、それにしても世界から見ると日本人のロシア文学好き、ドストエフスキー好きは、特出している。なぜ日本人は、かくもロシア文学を好むのか、ドストエフスキーを読むのか。ドストエフスキーという柳の下には、常に何度でも二匹目のドジョウが現れるのか。この現象の謎についてドストエーフスキイの会代表・木下豊房先生は、その著書『近代日本文学とドストエフスキー』(成文社1993)のあとがきで、このように触れられている。抜粋紹介
 ロシアの…評論家のカリャーキンを、1985年にモスクワの自宅に訪ねた時には、彼はトルストイの戦争と平和を比較して、『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』に見られる「突然(ヴドゥルク)」という言葉の頁毎の頻出度を赤の棒グラフで視覚的に示す図表を見せてくれた。そして日本人がドストエフスキーをよく理解する理由として、自分の推定を次のように語った。
 日本人はドストエフスキーの小説に頻発する「突然(ヴドゥルク)」の危機に、歴史的に絶えず脅かされてきたのではないだろうか。例えば地震、原爆、第二次大戦後の価値転換など。19世紀には、ドストエフスキーが「プーシキン演説」でのべているように、ロシアが全世界的なものを理解する受容能力を持っていたが、現在では日本がそうではないのか、と。…
 このカリャーキンの推測について著者は
こうした説明に私達が納得させられるかどうかはともかくとして…
と、断りながらもこのように解説されている。
 …日本人とドストエフスキーというテーマは、私達自身の自己認識の切り口として、無視できない価値を持っているように思われる。むろん私達が自分の内部の目で見つめたドストエフスキーとの出会いは、カリャーキンの指摘よりもはるかに複雑で屈折した様相を呈しているにちがいない。なぜ日本人がドストエフスキーを愛読するかという問いに、一義的な解答をあたえることはおそらく困難であろう。しかしドストエフスキーの読者には世代間の共有体験があって、それが出発点になっていることを指摘することは出来るかもしれない。私のドストエフスキーとの出会いもまた、この世代的な特徴を帯びているように思われる。…
としてご自身の、きっかけをこう述べられている。
私が昭和30年代の大学時代、ドストエフスキーのとりこになったのも、スターリン批判、ハンガリー事件などの後の学生運動の状況と無縁ではなかった。
 六十年安保闘争の時代で全学連運動最中の体験ということになる。
 ロシア文学によって知らされた「私」の発見というか認識は、それまで集団・連帯主義的社会で生きてきた日本人にとって衝撃だった。その発見は日本人の心に知性の喜びを与えたが、一種トラウマともなった。最近観た映画『三丁目の夕陽』のなかで文学青年が自転車修理店の親父と喧嘩する場面がある。文学青年は、何々「したこともないくせに!」と生活態度を罵られ悔し紛れに「ロシア文学も読んでないくせに」と罵り返す場面がある。ロシア文学を読んでいない。いまではどうか知らないが、かつては文学を志す者にとって、この罵声はかなりインパクトを持つものだったのかも知れない。想像するに千八百年代のロシアでは、「フランス文学もしらないくせに」が同義語的だった。兄ミハイルへの手紙に、よく「あなたはラシーヌを読みましたか」とか「お読みなさい、哀れな人、読んでコルネーユの足下に跪きなさい」などといった文面を見かける。日本におけるロシア文学観は、それと同じ現象だったのかも知れない。
       (二)
 新谷著『ドストエフスキイと日本文学』によると、日本に最初に紹介されたロシア文学は、トルストイ、カラムジン、プーシキンなどの作品であった。が、このなかからドストエフスキーは突出してきたようである。本書のなかで
 …ロシア文学でいえば、もっぱらドストエフスキイであった。

※     

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