文芸研究Ⅲ 下原ゼミ通信No.3

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2019年(平成31年)4月23日発行

文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信No.3

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
4/9 4/16 4/23 5/7 5/14 5/21 5/28 6/4 6/11 6/18 6/25 7/2 7/9 7/16 7/23 
観察から創作へ

2019年ゼミⅢ読書と創作の旅

4・23下原ゼミ

「令和」目前、実施まで、あと7日

4・16ゼミ報告 ゼミ参加4名 2名欠席 ゼミ誌担当者決め

・ゼミ自己紹介
・ドストエフスキー『罪と罰』講座1、「はじめに」熊谷元一研究1「一年生」
・書く基礎。観察力と筆記力。テキスト、志賀直哉「素人玄人」の玄人のか所を読む。
・提出課題「なんでもない一日」4人提出。
文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信No.3 ―――――――― 2 ―――――――――――――

社会観察   令和元年と日本人の神々 

 世はインターネットの時代である。書類も元号より西暦で書くことが多くなった。この傾向、今後ますます加速度を増していくに違いない。
もう元号は、なくてもよいのでは…。そんな声もある。が、元号のない日本は、わさびのない寿司のようなもの。何か足らない。元号は、やはり必要だ。元号にはそれぞれの時代を生きる共有感がある。
元号は、いつごろからあったのか。併せて実存天皇以前の日本は。ロシア人宣教師ニコライの解釈した『古事記』をみてみた。
 
【日本のはじまり】

 日本のはじまりは、即ち天皇のはじまりである。(日本書紀では、現存したと云われる)

☆初代は神武天皇

・皇紀元年(紀元前660年)初代天皇・神武天皇が即位された。このときから日本の実在天皇がカウントされる。

・皇紀80年(紀元前581)第二代天皇・綏靖(すいぜい)天皇
・皇紀113年(紀元前548)第三代安寧天皇
    ↓
・皇紀731年(西暦71)第12代天皇・景行天皇
    ↓
    ↓
・皇紀1305年(西暦645)大化元年 第36代天皇・孝徳天皇 初めて元号をつける。
・皇紀1310年(西暦650)白雉(はくち)元年 第36代・孝徳天皇
    ↓
    ↓
・皇紀2527年(西暦1867)明治元年 第122代天皇・明治天皇
・皇紀2528年(西暦1868)明治元年 明治天皇
・皇紀2572年(西暦1912)大正元年 第123代 大正天皇
・皇紀2586年(西暦1926)昭和元年 第124代 昭和天皇
・皇紀2649年(西暦1989)平成元年 第125代 今上天皇

・皇紀2650年(西暦2019)令和元年 第126代 令和天皇

ニコライ神父がみた『古事記』『ニコライの見た幕末日本〉講談社学術文庫 中村訳

 日本にはじめてドストエフスキーを紹介したニコライ神父(1836-1912)は、日本という国を知るために『古事記』を読んだ。実存ではない、神々の時代を、どのように見たのか。ニコライ著『―幕末日本』の道とはどのようなものか」』を読んでみる。コピー配布。
【ニコライとドストエフスキー】
 ドストエフスキー1880年6月3日 妻アンナ宛ての手紙
「きのう、お昼前、アレクセー副主教とニコライ〈ヤポンスキー〉を訪ねた。この人たちと知り合いになれて、とても嬉しかった。/二人ともわたしに対して心をひらいてはなしをしていた。ドストエフスキー58歳、ニコライ43歳のときである。
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2019年度下原ゼミⅢの皆さん

 4・16現在、下原ゼミⅢは6名の登録者がありました。少人数ですが、明るく楽しい旅になりそうです。

・西村 美穂(にしむら みほ)75A098-1

 書くこと、そして自分の考えを人に説明することによって「障害と文学」というテーマを深め、私の考えを読むことで誰かが「私も(僕も)登場人物にそういう人を加えてみようかな?と思えるようなものを作りたいです。ゼミ誌編集可。

・吉田 飛鳥(よしだ あすか)75A030-1

 ドストエフスキー(『罪と罰』)をもっと知りたいと思った。他にも新しい出会いを期待します。詩人・吉野弘(19)に感銘を受けた。意見交換して様々な考えに触れたい。

・中谷 璃稀(なかたに りき)75A073-7

 書く、発表するという方針に心打たれた。海外・国内文学を読み技術力を向上させたい。書きたいことを書くのが信念です。

・佐俣 光彩(さまた みさ)75A034-8

 これまで大人数のゼミで、なかなか自分の色彩をだせなかった。が、少人数ならより明るい自分の光と色彩をだせそうな気がする。

・東風 杏奈(こち あんな)75A097-0

 まだ、自分の目指すものがきまっていない。自由の雰囲気のなかで、出会いを期待します。

・山本 美空(やまもと みく)75A061-1

 元気がとりえです。

□6人の旅人。まとまりやすい人数です。仲良く、楽しく有意義な旅をしましょう!
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ゼミ誌について 皆さんで力を合わせて記念になるゼミ誌を創りましょう。

編集委員 西村美穂さん ・中谷璃稀さん
ゼミ誌ガイダンス 5月15日(水)12時20分~ 江古田校舎 W303

ゼミ合宿について 実施の場合 南信州の「昼神温泉郷」が有力

ゼミ合宿授業:熊谷元一写真童画館見学・満蒙開拓平和祈念館見学。
       観光として星空日本一を見物。
 
 計画:1.担当者(得意な人)2.日程 3.宿決め(二カ月前)4.バス予約(一カ月前)

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提出課題  何でもない(あるいは特別な)自分の一日を書く

 書くことの鍛錬は、まず、自分が一番知っていることを書く。それが一番です。自分の目で見、耳で聞き、肌で触った感覚を正確に書く。自分が暮らしている一日という空間を観察して客観的に書く。フィクション、ノンフィクション何れにせよ、ここからです。

中谷璃稀        チキンカツと朝日

 日付が今日に変わる頃、私はとある飲食店の厨房に立っていた。夜が更け、外を歩く人の影は見えなくなった。駅にほど近い、この店に残る人々も、次の瞬間にはその姿を消していた。チキンカツをバッターにつけこみ、徐々にパン粉の中に放りこむ。軽く体重をかけ手のひらで全体を押えつける。すると白い衣を纏ったチキンカツが姿を現す。空の容器に移し、次々と重ねる作業。いわゆる仕込みだ。自分のためではなく、人のために働く。チキンカツはランチでしか扱わない。陽の沈みきったこの時間に本当はしたくなかった。
 約30枚の肉塊に衣を装備させ、朝に向かう。冷蔵庫に入れて休ませている間も、人間は動きを止めている場合ではない。
 外に目を向ければ、ついさっきまでの闇が嘘のように明るく照らされていた。陽の光を浴びに出ると、そこには駅に向かう人々の姿。彼らが浴びるのは、陽よりも熱く燃えるもの。

□コンビニやスパーで見かけるチキンカツ弁当。夜半から夜明け前のチキンカツづくりの作業の様子、伝わってきます。「自分のためでなく」には心意気も感じます。最後の文面が少しわかりづらかったです。「陽よりも熱い」ものとは?

山本美空        私の一日の終わり

 一般的な一日のはじまりが、私にとっては終わりだ。スーツを着込んで、駅に向かう人の波に抗って、大きなあくびをしながら反対方向に進む。ひと仕事を終えた後の疲労と眠気を感じながら、職場で一番仲の良い友人と、朝ごはんを食べて、コンビニでミルクティーを買ってから、私の家へ帰って、一緒に寝る。それがお決まりの、一日の終わりだった。
 しかし、14日の朝、私は一人だった。たまたま相方に用事があって、真っ直ぐ実家に帰ってしまったのだ。少しの寂しさを感じながら、朝ごはんは断念して、コンビニでおにぎり一つとミルクティーを買った。家に着く少し手前に大きな公園がある。ふと足元に目をやると、桜色の花びらがピンク色の絨毯を作っていた。私は公園の中まで一面ピンク色に染まっていることに気付いた。その中を歩く、小さなハトと一緒に絨毯を踏みしめる。少しの間、寂しさを紛らわせて家に帰った。ハトは友達。

□眠らない街の終わりとはじまり。都会は、紛らわしいですね。友人のいない仕事明けの寂しさがよく書けています。花びらの絨毯、小さなハト。情景も浮かびます。

吉田飛鳥        自由は楽し、されど辛い

 3月の終わり、所沢から練馬へと引越した。それを期に、一年間勤めたバイト先から退きニートになった。学生でありながら、ニートなのである。
 もし本質を大事にするのであれば、バイトはほどほどに、学業を優先すべきであろう。ただそれでは遊べん、食えん、ムーミンの小説も買えんで、授業のない時間にお金を稼いでいたのだ。
 今は、それをしていない。江古田まで自転車で往復し、少しだけ料理もして、後は好きな
事をするだけ、ギターも弾くし本も読む。なんだか、有り余る時間の中に限りない自由を感じていた。
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 そして日曜日、遂に持て余した。気が付くとベットの上でピンと身体を伸ばして、如何に自分がこの対角線になれるか、という遊びをしていた。一人、驚いていた。
 このままでは腐ってしまう。僕は急いで、バイトを探してスマホを開くのであった。

□所沢から江古田に。大きく変わった日常生活。短い文のなかで状況がよく書けています。文体も特徴あっていいですね。

西村美穂       5年ぶりのカット

 夕方、予想外れて晴れ。/居酒屋の並びにひっそりと紛れる、古びたビルの3F。独特の潤いある匂いに囲まれながら、再三の確認をとられる。
「いいんですね。恨みっこなしですからね」
 いかにも深刻そうな顔。耳元ではチャキチャキと警戒にハサミが鳴り、次々と落ちて行く濡れた毛束、毛束、毛束。
 斜め向かいのおばさんは、、カラーリング待ちで頭にラップを巻き、雑誌を抱えながら船をこいでいる。時折、様子を確かめに来る若いお兄さんは、ちょっとお腹が出ている。
「髪は途中で何をしても意味なくてね。最後乾く寸前に軽く、ひっぱってあげるとうまくいくんですよ」
 ドライヤーの音の隙間から、何か素敵なアドバイスが聞こえる。曖昧に頷くと首の角度を戻された。
「どうでしょう。だいぶスッキリしましたね」
 5年ぶり。やっぱり首のうしろがチクチクする。
 
□美容院での様子、5年ぶりのカット。緊張感が伝わってきます。

下原敏彦         日大時代の仲間

 千葉がんセンターに入院しているY君から、電話があった。「もうそろそろいけねえよ。令和までは無理だな」そう言って豪傑にワッハッハと笑った。声は、相変わらず元気だが、病魔は全身に転移していると聞いた。病院側も、治療はなく退院を望んでいるらしい。
Y君は、54年前、私が日大農獣医に入ったときの学友だ。教養課程の藤沢の六会校舎で新学期早々、隣に座ったのが彼だった。
そのとき私は、日本石油のスタンドで夜、住み込みバイトをしていた。彼は、房総の出身で下宿を探していた。バイトを一緒にやらないか、と持ちかけると、OKした。
日大の六会校舎では、多くの友人ができた。が、4年のときの日大紛争で、散り散りになった。長い年月の後、学友たちは、故郷を目指すように集まってきた。
そうして毎年、旅行、お花見、暑気払いで楽しんでいる。だが、寄る年波。突然、一人減り二人減りしている。いつ逝っても、可笑しくないそんな歳になったのだ。
そんなわけで、元気なうちにと見舞いに行くことにした。千葉駅で待ち合わせたたら、8人きた。お見舞いには多い人数だ。末期のがん病棟に爺さん連中が8人もドドヤドヤ行っては ―― と心配になった。杞憂だった。案じることはなかった。面会室は誰もいず、貸し切り状態だった。Y君も、懐かしい顔をみて元気がでたようだ。学生時代にかえって大声で二時間近く談笑しあった。別れ際、Y君はうれしそうに「日大でよかったよ」と手を振った。8人の学友たちも、笑顔で「またくるよ」「おれのほうが先かも知れん」などと冗談言って、別れを告げた。
病院前の桜が満開だった。

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自分の一日 テキスト紹介 米国文学のススメ  

 アメリカの青春小説は、サリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』が有名だが、文学を目指す者にとっては、サローヤンの『空中ぶらんこ』の方が忘れがたい。
 生活に困窮した作家志望の若者の話。自分と周囲の状況観察から成っている。

ウィリアム・サローヤン『空中ぶらんこに乗った大胆な若者』1934年
原題 The Daring Young Man on the Flying Trapeze 古沢安二郎訳 早川書房

 1930年代、アメリカの大不況時代。職のない文学青年が仕事を探してサンフランシスコの街をさまよう自伝的短編小説。サローヤン27歳のときの作品。
 この短編小説は、評判になって「飛行する・・・に乗った大胆な若者」という言い方がアメリカで流行った。いまでも使われているという。
■サローヤン(1908-1981)について、あとがきのなかで訳者は、このように紹介している。
 作家はアルメニア人の二世である。1908年カリフォルニャのフレズノ市で、アルメニア長老教会の牧師の息子として生まれたが、二歳で父の死に会い、しばらく孤児院にはいっていた。7歳の頃でる。アメリカの多くの作家のように、彼もまた正規の学校教育を受けずに、様々な職業を転々とした。「20歳になったとき」「私は自分を退屈させるような仕事をして、暮らしを立てようとすることをやめ、作家になるか、放浪者になるつもりだ、とはっきり名乗りをあげた」1939年頃から劇作を手がけ「君が人生の時」がピューリッツァー賞に撰されるが辞退した。
「商業主義は芸術を披護する資格がない」が理由。『わがこころ高原に』など
作品は、次のようなものがある。
【ハヤカワNV文庫】に収録
『わがこころ高原に』題字、『7万人のアッシリア人』、『きみはぼくの心を悲嘆に暮れさせている』、『蛙とびの犬コンテスト』、『トレーシィの虎』、『オレンジ』など。
【新潮文庫】サローヤン短編集
『1作家の宣言』、『人間の故郷』、『ロンドンへの憧れ』、『気位の高い詩人』、『友人たちの没落』、『冬の葡萄園労働者たち』、『柘榴林に帰る』、『むなしい旅の世界とほんものの天国』他。
【角川文庫】三浦朱門訳『我が名はアラム』
『美しい白鳥の夏』、『いわば未来の詩人でしょうか』、『サーカス』、『川で泳ぐ三人の子供と、エール大学出の食料品屋』、『あざける者への言葉』など。
【ベスト版】
『人間喜劇』ウイリアム・サローヤン 小島信夫訳 晶文社 1997

★ サローヤンを読むと、自分も書いてみようと創作意欲がでます。

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テキスト紹介    『ひがんさの山』文・絵 下原敏彦

 この作品は、下原の子ども時代の思い出の一つ。記憶に残った、ある一日の出来事を書いた。観察したことに想像を加えた。最初の小説作品。

※伊那谷童話賞受賞作品 平成12年11月19日 
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ドストエフスキーのススメ 講座 2. ナポレオン生誕250周年に寄せて

-ドストエフスキー『罪と罰』を読む―

才能ある若者は、なぜ殺人者になったのか。2003年12月、故郷の穴倉で米軍に拘束されたイラクのフセイン元大統領は、なぜ『罪と罰』を所持していたのか。その謎に迫る。
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〈前号まで 『罪と罰』を読む前に〉
ナポレオン生誕250周年にドストエフスキーの『罪と罰』をとりあげる理由。既に『罪と罰』を読んだ人は、わかります。主人公が英雄「ナポレオン」に憧れ、物語のなかで直接、その名前をあげているから。
「つまりね、ぼくはナポレオンになりたかった」
というように物語のなかでナポレオンの名前を連発している。
直接的は、1821年という年にある。この年の5月にナポレオンはせんと・ヘレナ島で52歳の波乱の生涯を閉じる。この年の、秋10月にドストエフスキーはモスクワで生まれた。意味はないが、生没年の一致が二人を結びつけている。このことはドストエフスキーにとって誇らしいことのようだった。1860年3月14日の手紙に自慢そうに書いている。
〈ドストエフスキー評論について〉
 たとえ、ナポレオンの名がでてこなかったとしても「ドストエフスキーとナポレオン」は比較論として立派に成り立つ。ナポレオンでなくても、たとえば『アインシュタインとドストエフスキー』『ニーチェとドストエフスキー』といったように何々とドストエフスキーは枚挙にいとまがない。対象者は、作家、科学者、哲学者、心理学者と多岐にわたる。このようにドストエフスキーには多くの比較論の出版物がある。研究者は、むろん一般市民に至るまでドストエフスキー評論を上梓している。かくいう筆者の私も『ドストエフスキーを読みながら』共著『ドストエフスキーを読みつづけて』を出版している。日芸の清水正教授は、半世紀にわたって作品批評をつづけている。その評論群は、膨大なものだ。河合塾の芦川進一講師は、聖書と作品の関係をおいつづけている。これほど批評されろんじられる作家は古今東西をみても稀である。
これはドストエフスキーという作家が、どれほど幅広く、またどれほど深いのか。それを証明する証拠でもある。それ故に、この作家に関する研究者も多い。
ちなみに、それらの書評のなかで私の書評をいくつかを紹介すればこんなものがある。

清水正著『志賀直哉とドストエフスキー』書評(20003年11月22日図書新聞)配布

作品の中にある見えざるもの、書かざるものを照射する。日大芸術学部で文芸批評を講じる著者、清水正氏の評眼は、常にそこにある。氏独自の評論手法、創造・想像批評である。十七歳でドストエフスキー作品に触れて以来、実に三十七年もの間、ドストエフスキー作品と格闘しつづけている著者は、この評論手法で、これまで多くの作品を俎上に載せドストエフスキーとの関連性を追究してきた。宮沢賢治童話からはじまり現代小説、映画、漫画、アニメとその対象作品は幅広い。本書は、その一環ともいえる。
人類の諸問題と格闘するドストエフスキー文学と家庭内の確執に拘泥する志賀文学。その作品世界においてあまりにも次元が違い過ぎる両作家である。この両者をどう論ずるのか。両作家の読者ならずとも大いに関心がもてるところである。

―――――――――――――――――  8 ――――― 文芸研究Ⅲ下原ゼミNo.2

テキスト研究 熊谷元一生誕110周年記念に寄せて

岩波写真文庫『一年生』―ある小学教師の記録―』

2000年7/29-9/17、東京の江戸東京博物館で開催された「近くて懐かしい昭和展」は、昭和をなつかしむ大勢の人たちでにぎわった。美空ひばり、力道山、長島茂雄。戦後の昭和を飾った著名な人たちの記録や映像が人気を博していた。そのなかにあって、ひときわ入場者の関心を引いた写真展があった。昭和28年(1953年)写真家・教師だった熊谷元一が、教え子の一年生を一年間、撮影した写真だった。
この一年生が50歳になったとき、88歳になった熊谷は、50歳になった一年生を撮るために全国行脚した。その様子をNHKはドキュメンタリー番組「教え子たちの歳月」として1996年(平成8年)11月24日「にっぽん点描」で放映し多くの人に感動を与えた。

熊谷は、写真のほかに一年生の「絵」「声」「文集」「黒板絵」を残した。

紹介1 文集『こども かけろよ ひのてるほうへ』昭和29年3月発行

〈はじめに〉
みんながはじめて がっこうへ来たときは、
まだ、じはあまりかけなかった。
それが一がっき、二がっきとたつうちに 
じもかけるようになり、ぶんもつづれるようになった。
 ここにあつめたのは みんなが一ねんのときにかいた 
さくぶんです。しずかに おうちの人といっしょによんでみてください

4・23提出レポート 「車内観察」「ある日の出来事」

・・・・・・・・・・・・・・掲示板・・・・・・・・・・・・・・

一緒にドストエフスキーを読みませんか

読書会のお知らせ ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」
どなたでも自由に参加できます。下原まで

月 日 : 2017年6月15日(土)
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)
 開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分
作 品  : 『カラマーゾフの兄弟』四回目
報告者 : 菅原純子さん

※ 連絡090-2764-6052下原  toshihiko@shimohara.net

本書は、両作家の比較文学論である。が、読みながら感じるのは、生前「憎しみと軽蔑を感じていた」著者自身の父親に対する愛と三十七年間「どうしても受けつけないものがあった」志賀直哉への素直な思いである。
もう三十余年も前になる。千葉県と茨城県の県境にある我孫子市という町に度々、遊びに行った。その地に新しい団地ができ、入居抽選に当選した友人が一人住まいはじめたからである。都内の陽の差さない六畳一間の安アパートに住んでいたから、新築の団地の3DKは郊外とはいえ羨ましい限りだった。その頃、高度成長真っ盛りの最中で、省線のあちこちで駅前再開発事業が行われていた。途中の隣り町では、何の変哲もない田舎の駅、柏駅が、華やかな都会の街に生まれ変るべき連日連夜、槌音を轟かせていた。電車の車窓に町々の喧騒が映えていた。
しかし、さすがに我孫子まで来ると風景は一転した。成田線沿線の所々に造成地は見え隠れしていたが、点在する雑木林と丘陵や畑から都会から遠く離れた感を受けた。小鳥の声が聞こえていた。見上げた空は高く青かった。小高い丘の上にできた団地からの眺めはすばらしかった。眼下に広がる一面の田、その向こうに横たわる大きな沼。よく河畔を散歩した。春の日、岸辺の背の高いヨシの繁みの中でよしきりが、うるさいほど鳴いていた。が、それもまたいっそうの田舎の静寂となっていた。沼に浮かぶ魚取りの小舟。白サギたちの群れ。沼をとりまくなにもかもが風物詩だった。その後、沼は、日本でもっとも汚染度の高い水質。そんな汚名をきることになってしまった。が、当時は本当にのどかな田園地帯そのものだった。あるとき、れんげ花が咲き乱れる土手道を歩いていて、ふと、一時期この土地に志賀直哉が住んでいたことを思いだした。「菜の花と小娘」「清兵衛と瓢箪」「小僧の神様」など教科書で読んだ作品がなつかしく頭に浮かんだ。同時に、もしかして住んでいた家が残っているかも・・・そんな思いが過った。その後、都市化の波のなかであの田園風景がどんなになったか知らない。が、我孫子は今でも志賀直哉を彷彿させる。
本書の著者清水正氏は、この我孫子に生まれ、我孫子で育った。今も暮らしている。「武者小路實篤邸跡の脇道を小学校時代の昔から通っていた」というから白樺派の作家たちは身近だった。それだけに本書は必然の帰結といえる。
「小説の神様」といわれている志賀直哉は、はたしてドストエフスキーをどこまで読んでいたか。また、その作品は、ドストエフスキーの影響をどれほど強く受けていたか。本書は、この疑問を創造・想像批評によって検証・考察するものである。代表作『暗夜行路』をはじめ『濁った頭』『大津順吉』『或る男、其の姉の死』の四作品をとりあげ、主にドストエフスキー作品『罪と罰』のラスコーリニコフを投影させている。また、白樺派の作家たちの著作や伝記から志賀直哉のドストエフスキー度を探っている。が、本書は、両作品の共通性を指摘するというより「テキストを一つの統一された画像に構築する」つまり「ドストエフスキー山脈の見える部屋の窓ガラスに志賀直哉の小説をあてて見る」という技巧をとっている。その結果、そこに「思わぬ光景」が映し出されるとしている。それは如何なる文学的、神学的風景なのか。
本書読了後、感じたのは、難解な比較文学論でも意味深な作品論でもなかった。志賀直哉をスライドさせた窓ガラスに映ったもの。そこには、威厳をたたえながらも寂寥感をにじませる「父」の姿であった。かつてバルザックは「ルイ十六世の首を斬ることによって、革命はあらゆる家庭の主人の首を斬ってしまったのだ。今日ではもう家庭は一つとして残っていない」と嘆いた。現代においてすっかり影が薄くなった「父」。著者清水正氏の父親も、まさにそんな人であったようだ。氏は、その「父」像を、志賀文学に見たのかも知れない。志賀文学を至高の芸術と崇めていた小津安二郎の映画に「父」を感じるように。
秋のある午後、駅前の書店の店頭に名もなき父の死を悼んで書いたノンフェクション作家沢木耕太郎の『無名』を見かけた。創造・想像批評の手法において本書は、その書以上に父を物語っている。そんな気がした。「平凡を絵に描いたような父であったが、その平凡の中に埋め込まれた悲しみを思うと胸が詰まる。この著書は父に捧げるものである」静かに語る著者清水氏の言葉が心にしみる。本書は、志賀直哉との和解と同時に著者自身の父親との『和解』の書でもあるのだ。本書によって改めて志賀文学の普遍さ、奥深さを知る。そこにドストエフスキー文学との接点をみた。
代表作一つ『罪と罰』を読むまえに、「ドストエフスキーとは何か」を今一度、紹介しておきたい。
〈ドストエフスキーとは何か〉資料として1986年3月発行『ドストエフスキー写真と記録』(代表編者 V・ネチャーエワ 訳 中村健之介)から『罪と罰』までの作家の人生を知る。
 はじめにドストエフスキーという姓についてみてみる。日本の家系図は、先祖は、ほとんど藤原鎌足や源氏や平家につながるいい加減なものであるが ロシアでは、その真偽はどうか知らない。参考資料には、このように書いてある。

ドストエフスキーという姓は、16世紀の中ごろ、ドストエヴォという村(ビンスク市の近く)の名から派生して出来たものである。すでに1572年、この姓を名乗っていた者の一人に「留守番役(ドモーヴニク)」のフョードル・ドストエフスキーという者がいた。「留守番役」というのは、信任された配下。貴族だった。(グロスマンによれば)
M・A・ドストエフスキー(1789-1839 作家の父)は。ブラツラフの町(元ボドーリャ県)の司祭長である父が聖職者になってほしいと願っていたのに背いて、まだ若いうちに家をでてしまった。彼(作家の父親)は、1813年モスクワの医学専門学校を卒業し、同地で最初は、陸軍病院で、後に慈善病院で医師として働いた。

作家ドストエフスキーは、

次号へ

NHKカルチャー柏教室 2019.7-12 AM10:30~
「ナポレオンになりたかった青年の物語」講師・下原敏彦
イラクの独裁者フセイン元大統領は、なぜ『罪と罰』を持っていたか。隠れ家の穴倉にあったのか。その謎に迫る。
     

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