文芸研究Ⅲ 下原ゼミ通信No.4

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2019年(令和元年)5月7日発行

文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信No.4

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
4/9 4/16 4/23 5/7 5/14 5/21 5/28 6/4 6/11 6/18 6/25 7/2 7/9 7/16 7/23 
観察から創作へ

2019年ゼミⅢ読書と創作の旅

5・7下原ゼミ

社会観察     新聞報道と令和元年の4日間の記録
       
日本では新元号は、大きな行事。新聞各紙は、どんな見出しをつけたのか。

◇5月1日(水)読売一面「新天皇陛下即位」社説「平和と安定へ努力重ねたい」
        朝日一面「令和 新天皇即位」陛下退位「支えてくれた国民に感謝」
◇5月2日(木)読売一面「国民を思い 象徴の責務を果たす」社説「時代の幕開けを共に祝いたい 象徴の在り方の継承と模索と」
        朝日一面「令和 幕開け」陛下「国民に寄り添い象徴の責務果たす」
◇5月3日(金)読売一面「インフラ促進へ民間資金」象徴天皇「維持」を78%
        朝日一面日朝会談「条件つけず」改憲機運「高まらず」72%、9条「変えない方がよい」64% 三面自粛なく「前進」
◇5月4日(土)読売一面「離島防衛 海自艦に陸自隊員」「外国人村 特定964人受験」
        朝日一面「首相、9条改憲に意欲」
■新年号「令和」スタート4日目、新聞各紙、さすがに一面から新年号の見出しが消えた。

この4日間の新聞記事で、興味あったのは、4日朝日の社会面の記事だった。
「鳴き声 耳から離れない」豚コレラ殺処分 職員の心身に負担 発生8カ月で9万頭
豚コレラ発生のニュースを聞くたびに、気になっていた。9万頭もの豚を、どのようにして殺し、処分するのか。100頭以上をトラックに乗せ、ブルーシートをかけ二酸化炭素を送る。約19700人の県職員、自衛隊員が作業にあたった。

※番外4/2朝日・天声人語「忌野清志郎さん(58)没後10年に思う。5/2命日」
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日常観察  新天皇 国家にとって大きな出来事だが、個人の日常は

新しい年号、「令和」がスタートした。テレビも新聞も祝「令和」一色である。ちょうちん行列まで出たとのニュース。明治、大正、昭和、平成。時代は変われど日本人の本質は変わらない。たかが年号、されど年号である。社会的、国家的に大事件、大きな出来事、大きな災害があった日の日常を記録する。

5月1日(水)令和元年スタート 
予報は雨だったが小雨から曇り、晴れてくる。新年号スタートは、幸先よさそう。作
日から遊びにきていた娘と小中の孫、ゲーム大会に出かける。池袋に向かう。駅構内いつもより混雑か。2時東京芸術劇場会議室予約抽選会。22団体と少なめ。抽選順位6番で、8月10日の希望日確保。駅近くのファーストフード店で友人夫妻と食事。一昨日亡くなった友人通夜の打ち合わせ。5時雨、本降りに。東京駅キップ売り場に行列。皇居に行った人たちか。異変天気。令和の時代の暗示でないことを祈る。

5月2日(木)令和元年二日目
 小雨から雷雨、10時頃の雷で瞬間、電気消える。パソコン原稿消える。天気回復、晴れ
てくる。通夜にでかける。3時半、JR千葉駅改札で日大時代の友人たちと待ち合わせ。全
員で7名(夫婦連れも)。外房線に乗る。4時半「茂原」駅下車、葬儀会場へのバスを探す。
5時発が1本だけ。約30分乗車。車窓は田植えが終わった田園地帯。終点は山のなか。森
から鶯の鳴き声。徒歩20分。「長南聖苑」に着く。同時に通夜はじまる。若い住職の読経。
友人は享年74歳。焼香。友人たち大学一年のとき友人。お清めの後タクシーで茂原駅に。8
時2分の久里浜行きに乗車。※友人は29日夕方6時に逝去。

4・23ゼミ報告 ゼミ参加4名(神尾、西村、吉田、中谷)課題レポート配布

4/23ゼミⅢグラフティ

ゼミ開始3日目。ゼミ人数、まだ変動ありそう。講師休憩室で、コピーした配布資料を整理していると、面会希望者1名。「どのゼミにしょうか」と迷っている様子。が、説明中、突然、意を決したようだ。「ここのゼミにします」と、宣言。希望カードを書きはじめた。これで7名となった。彼から「もしかして、もう1人くるかも」との情報あり。
この日の参加者4名。新年号「令和」についての感想を聞いてみる。公的書類に西暦を書き慣れたせいか、それほどの感慨はないようだ。新年号の行事、祝う会などの催しに参加予定はないとのこと。明治、大正、昭和生まれがもつ年号にたいするこだわりはみられなかった。このあいだから騒いでもりあがっているのは、マスメディアだけかも。
先週ゼミで提出され掲載の「なんでもない一日」についての雑談。チキンカツバイト時間給1100に50年前の学生時代のバイトを思いだす。大学に入って最初のバイトは江の島方面にある日本石油のガソリンスタンド。社員が帰宅する夕方6時から、社員が出勤してくる翌朝7時まで。更衣室の折りたたみベットが部屋。夜間は、お得意さんへの給油。月1万円。
髪カット二人。一人はさっぱりしたのはバイト探しのため。もう一人の5年ぶりは、心機一転か。新年号で喧騒の世相。それぞれのゼミ出発である。
テキスト読みは、米国文学紹介サローヤン『空中ブランコに乗った大胆な青年』
アメリカにもいた、こんな文学青年。
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2019年度下原ゼミⅢの皆さん

 4・23現在、下原ゼミⅢは8名の登録予定者があります。以下が予定されている8人の皆さんです。全員揃ったら写真撮ります。

・神尾 颯(かみお そう)75A107-9

ゼミⅡのゼミ誌『自主創造』を読んで興味をひかれました。ハッピーエンド主義者です。

・予定者?()

5月7日ゼミで判明します。

・西村 美穂(にしむら みほ)75A098-1

 書くこと、そして自分の考えを人に説明することによって「障害と文学」というテーマを深め、私の考えを読むことで誰かが「私も(僕も)登場人物にそういう人を加えてみようかな?と思えるようなものを作りたいです。ゼミ誌編集可。

・吉田 飛鳥(よしだ あすか)75A030-1

 ドストエフスキー(『罪と罰』)をもっと知りたいと思った。他にも新しい出会いを期待します。詩人・吉野弘(19)に感銘を受けた。意見交換して様々な考えに触れたい。

・中谷 璃稀(なかたに りき)75A073-7

 書く、発表するという方針に心打たれた。海外・国内文学を読み技術力を向上させたい。書きたいことを書くのが信念です。

・佐俣 光彩(さまた みさ)75A034-8

 これまで大人数のゼミで、なかなか自分の色彩をだせなかった。が、少人数ならより明るい自分の光と色彩をだせそうな気がする。

・東風 杏奈(こち あんな)75A097-0

 まだ、自分の目指すものがきまっていない。自由の雰囲気のなかで、出会いを期待します。

・山本 美空(やまもと みく)75A061-1

 元気がとりえです。

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ゼミ誌について 皆さんで力を合わせて記念になるゼミ誌を創りましょう。

編集委員 ・西村美穂さん ・中谷璃稀さん

※ゼミ誌ガイダンス 5月15日(水)12時20分~ 江古田校舎 W303
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ゼミ合宿について 実施の場合 南信州の「昼神温泉郷」希望が多い感じ

写真は、ゼミ合宿候補の昼神温泉郷

ゼミ合宿授業:実施方向 熊谷元一写真童画館見学・満蒙開拓平和祈念館見学。
            観光として星空日本一を見物。(天気次第)
 
 企画1.担当者(得意な人)2.日程 3.宿決め(二カ月前)4.バス予約(一カ月前) 

熊谷元一写真童画館 熊谷元一とは何か。写真童画館見学で、その功績を知る。

アニメの巨匠も絶賛

今、見てもすごい写真だ !! 宮崎駿監督、感銘
               
2011年(平成23年)、旅先の旅館で熊谷の写真をはじめて目にしたアニメの巨匠宮崎駿監督は、「こんな写真家がいたのか」とおもわず声をあげた。「今後の映画作品制作に役立てたい」と知人への手紙。熊谷は前年101歳で亡くなっている。

満蒙開拓平和記念館 終戦3カ月前、5月1日新緑の故郷伊那谷から、はるか海を超えて、中国大陸東北部(満州国)に向かって旅立った村人たちがいた。60名の子供たちと教師も一緒だった。村人たちは、なぜ、ソ連軍が明日にも攻めてくる国境の開拓村を目指したのか。「満蒙開拓平和記念館」見学で、そのなぞが解ける。
星空日本一 お天気次第です。
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ドストエフスキーのススメ 講座. ナポレオン生誕250周年に寄せて

ナポレオンになりたかった青年の物語(校正しながら連載)

-ドストエフスキー『罪と罰』を読む― 

才能ある若者は、なぜ殺人者になったのか。2003年12月、故郷の穴倉で米軍に拘束されたイラクのフセイン元大統領は、なぜ『罪と罰』を所持していたのか。その謎に迫る。
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【はじめに】ことしは、ナポレオン生誕250周年です。本講は、その一環として『罪と罰』を紹介します。世界史の英雄ナポレオンとロシアの文豪ドストエフスキーの『罪と罰』とどこが関係するのかと疑問に思う人もいるかと思います。が、既に『罪と罰』を読まれた人は、頷けるでしょう。まだの人も、読みはじめればすぐに「そうか」と、わかると思います。
そうしたことから、この講座のタイトルを「ナポレオンになりたかった青年」としました。この作品には、宗教、思想、心理といったいろんな分野からのアプローチがありますが、ここでは、ナポレオンの英雄主義との結びつきに注目しました。
それに不思議な縁ですが、その年譜においても偶然の出来事があります。1821年がそれです。ナポレオンはこの年の5月5日、孤島セント・ヘレナで52歳の短い、しかし波乱の生涯を終えます。この年の10月30日、遠く離れたロシア、モスクワの校外で生まれたのがフョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(四男四女の次男として)です。
ナポレオンが死んだ年に生まれた。この生没年一致の事実は、ドストエフスキーにとって、誇らしいことのようだった。(英雄や偉人との類似点の喜びは、誰しも同じ。文豪とて同じだったようだ)1860年3月14日にこんな手紙(友人の妻)を書いています。
「第一、筆跡はわたしとナポレオンとの唯一の類似点ですし」などと―筆跡が似ているということを自慢そうに述べています。
 こんなところから、文豪は、いつかナポレオンに関連した物語を書きたい。そんな野心というか夢を描いていたかもしれません。それ故、生誕41年後、1866年に発表した『罪と罰』は、生没年一致に夢みた決意の具現化と信じるところです。
こんな動機もあってナポレオン生誕250周年に『罪と罰』を再読し、この物語のなかにある謎について考察してみようと思ったのです。
 加えて、いま、『罪と罰』を改めて紹介しなければと思ったのは、ドストエフスキー作品を愛読してきた者の使命もある。いつの時代もそうですが、現代もまた、『罪と罰』のテーマ、英雄主義の悪用が、そこかしこにみられる、時代だからです。
例えば、一昨年、相模原で起きた重身障者殺害事件がそれだ。他に一向になくならない「オレオレ詐欺」。犯人たちの供述に改心も罪悪感もない。ことし春、NHKテレビで放映されたドキュメントドラマ「詐欺」のなかで、「受け子」「かけ子」と呼ばれる若者がプロ詐欺犯からレクチャーされている映像があった。人をだますことを教えているのか、と思えば、そうではなかった。プロの詐欺犯たちが、熱心に訓示しているのは、「お年寄りの家に眠っているお金を、必要な人たちにわけ与え、明るい社会をつくること」などと言っていた。ドストエフスキーの『罪と罰』を愛読してきた者としは見過ごせないシーンである。
もっとも、私は、ロシア文学の専門家でも、ドストエフスキーの研究者でもない。たんにドストエフスキーに魅せられて40余年間、ドストエフスキーを読みつづけてきた市井の一読者に過ぎない。私が対抗できるのは、あくまでも一般読者の目線からの解釈です。

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難解と敬遠されがちなドストエフスキーですが。この講座で、ドストエフスキーが作品に託した崇高な理念(人類の恒久平和)が、新しい時代「令和」にひろがることを祈念して、はじめの言葉とします。
※ちなみに下原はゼミでは、志賀直哉をテキストにした創作指導と、個人的には、写真家・童画化の熊谷元一研究、併せて、柔道の創始者、嘉納治五郎の研究です。

第一講 『罪と罰』とは何か

・ドストエフスキー作品について

 ドストエフスキーの代表作、いわゆる五大長編は『罪と罰』からはじまった。五大長編とは『罪と罰』(1866)、『白痴』(1868)、『悪霊』(1872)、『未成年』(1875)『カラマーゾフの兄弟』(1880)である。

ドストエフスキーと聞くと、たいていの人は、「難しい小説」「長すぎて重すぎて、終わりまで読めなかった」そんなネガテヴの感想をききます。2000年のはじめ、第3次のドストエフスキーブームがありました。火付け役は、ドストエフスキー研究者の亀山郁夫氏。光文社から『カラマーゾフの兄弟』の新訳本をだしたことに端を発した。本書は、若者を中心に売り上げをのばし、その売り上げ部数は古典としては何十万部という驚異的数字を記録した。
これにたいして当時NHKは、HPで
「百人に一人しか読破できないと言われるドストエフスキー/なぜ今人気なのか」と疑義を呈していた。「読書会」にも取材にきて朝のニュース番組「おはよう日本」で放映した。ベストセラー訳者となった亀山氏は、こう述べていた。
「本を買っても実際に読む人は少ないと思います。千人に一人、五千人に一人かも知れません」

・ドストエフスキーが五大長編に託したもの

 ドストエフスキーが五大長編作品に託し目指したものとは何か。それは、「善い思い出は人間を救う」といった人間愛、人類愛ではないでしょうか。私は、そう推理し、結論しました。原点となったのは、ドストエフスキーが少年時代の夏に過したダーロヴォエ村の「少年時代」と推察する。その頃の思い出をドストエフスキーは、『作家の日記』(1876年2月)に書いている。
小作品にした、百姓マレーとの思い出がそれだ。――夏の真昼間の野で10歳の少年フェージャ(ドストエフスキー)は、突然、狼が来る!という幻聴に襲われる。異常な恐怖感におののく少年をゆったりと抱いて背をなぜさすり緊張をほぐしてくれたのが、近くで畑を耕していたマレーだった。この少年時代の記憶について、ドストエフスキーは「ノート」にこのように書いている。
「あの百姓のマレーは私の頬をべたべたとたたいて、小さな頭をなでてくれたっけ」/懲役へ行って初めて思い出した。あの思い出のお陰で、懲役暮らしを耐え抜くことができた。(ノート)。ドストエフスキーの根本理念を生んだトゥーラ県のダーロヴィエ村の「黄金時代」美しい自然と、『百姓マレー』の純朴なやさしさ、懐かしさ。それら子ども時代の思い出は、ドストエフスキーの理念・理想となった。ドストエフスキーが願ったのは、調和と融和ある社会。人間一人ひとりの幸福だった。つまり全人類救済の目標だった。
「善い思い出は人間を救う」楽園実現のためにドストエフスキーは、五代長編作品でその方法を試みた。『罪と罰』は、その1番バッターとして登場した。調和ある社会、楽園をつくる方法の一つとして。しかし… 
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テキスト研究 熊谷元一生誕110周年記念に寄せて

岩波写真文庫『一年生』―ある小学教師の記録―』

2000年7/29-9/17、東京の江戸東京博物館で開催された「近くて懐かしい昭和展」は、昭和をなつかしむ大勢の人たちでにぎわった。美空ひばり、力道山、長島茂雄。戦後の昭和を飾った著名な人たちの記録や映像が人気を博していた。そのなかにあって、ひときわ入場者の関心を引いた写真展があった。昭和28年(1953年)写真家・教師だった熊谷元一が、教え子の一年生を一年間、撮影した写真だった。
この一年生が50歳になったとき、88歳になった熊谷は、50歳になった一年生を撮るために全国行脚した。その様子をNHKはドキュメンタリー番組「教え子たちの歳月」として1996年(平成8年)11月24日「にっぽん点描」で放映し多くの人に感動を与えた。

熊谷は、写真のほかに一年生の「絵」「声」「文集」「黒板絵」を残した。

紹介1 文集『こども かけろよ ひのてるほうへ』昭和29年3月発行

本欄「熊谷元一研究」では、熊谷が残した学校教育の功績を紹介する。
紹介1 文集『こども かけろよ ひのてるほうへ』昭和29年3月発行

会地小学校一年生の【一年中のおもだった事】1953年度(昭和28年度)
 4月 1日 入学式 東組担任。熊谷元一 男子22名、女子13名 計35名
 4月18日 春の遠足 伍和宗円寺、学校へ行く。
 4月28日 家庭訪問はじまる。
 5月 5日 子供の日 小運動会。
 6月14日 春の農繁休みはじまる。
 8月 1日 夏休みはじまる。
 8月17日 二学期はじまる。
 8月24日 はじめて掃除をする。
10月 3日 校庭大運動会。
10月13日 山本村奈々久里神社へ遠足。
10月18日 秋の農繁休みはじまる。
11月 3日 全国小中学校版画コンクールに7人共同制作の紙版画「どうぶつえん」1等。
      「まち」佳作。
11月16日 「家庭よみうり」から写真撮影にくる。
12月 9日 保護者懇談会はじまる。
12月28日 二学期終了。年末休みはじまる。
1月 1日 年のはじめの式。
1月18日 小森清人君の版画年賀が秀逸入選。
3月 8日  学芸会「さるかに合戦」を公演。
3月22日 卒業式 版画コンクールの賞状と記念品を受けとる。

◇転校生 園原恒利君(60年後「写真童画館」で再会) 大島智幸君

4・23提出レポート 「車内観察」「ある日の出来事」

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提出レポート 「令和と私の一日」

・・・・・・・・・・・・・・掲示板・・・・・・・・・・・・・・

熊谷元一研究関連 法政大学国際文化学部の高柳教授からの報告

 4月の第2回学習会は、当時実際に飯田に疎開(学童集団疎開、縁故疎開)した体験者をはじめ、幸い30人ほどの参加者を得て、無事終了しました。
伊那谷を舞台に、戦争に関して、当時といまを考える場になったのではないかと思います。引き続き、第3回目の学習会を以下のような形で実施します。
よろしかったら、どうぞご参加ください。

※配付資料を準備する都合上、参加の前日までにメール等でご一報願います。

●日時:2019年5月25日(土)15:00~18:00
●会場:法政大学市ヶ谷キャンパス ボアソナードタワー3階 0300教室
●テーマ:伊那谷と養蚕
●内容:伊那谷の歴史にとって、かつての主力産業で、多くの住民が携わった養蚕は欠かすことができない。伊那谷の養蚕農家を描いた岩波映画「ひとりの母の記録」(1955年)をはじめ、組合製糸である下伊那の天龍社、上伊那の龍水社、それに蚕の神を祀る蚕玉様信仰に関するものなど、養蚕にまつわる映像をまとめて視聴する。

一緒にドストエフスキーを読みませんか

読書会のお知らせ ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」
どなたでも自由に参加できます。下原まで

月 日 : 2019年6月15日(土)
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)
 開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分
作 品  : 『カラマーゾフの兄弟』四回目
報告者 : 菅原純子さん

月 日 : 2019年8月10日(土)
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)
 開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分
作 品  : 『カラマーゾフの兄弟』5回目
報告者 : さん

※ 連絡090-2764-6052下原  toshihiko@shimohara.net

本書は、両作家の比較文学論である。が、読みながら感じるのは、生前「憎しみと軽蔑を感じていた」著者自身の父親に対する愛と三十七年間「どうしても受けつけないものがあった」志賀直哉への素直な思いである。
もう三十余年も前になる。千葉県と茨城県の県境にある我孫子市という町に度々、遊びに行った。その地に新しい団地ができ、入居抽選に当選した友人が一人住まいはじめたからである。都内の陽の差さない六畳一間の安アパートに住んでいたから、新築の団地の3DKは郊外とはいえ羨ましい限りだった。その頃、高度成長真っ盛りの最中で、省線のあちこちで駅前再開発事業が行われていた。途中の隣り町では、何の変哲もない田舎の駅、柏駅が、華やかな都会の街に生まれ変るべき連日連夜、槌音を轟かせていた。電車の車窓に町々の喧騒が映えていた。
しかし、さすがに我孫子まで来ると風景は一転した。成田線沿線の所々に造成地は見え隠れしていたが、点在する雑木林と丘陵や畑から都会から遠く離れた感を受けた。小鳥の声が聞こえていた。見上げた空は高く青かった。小高い丘の上にできた団地からの眺めはすばらしかった。眼下に広がる一面の田、その向こうに横たわる大きな沼。よく河畔を散歩した。春の日、岸辺の背の高いヨシの繁みの中でよしきりが、うるさいほど鳴いていた。が、それもまたいっそうの田舎の静寂となっていた。沼に浮かぶ魚取りの小舟。白サギたちの群れ。沼をとりまくなにもかもが風物詩だった。その後、沼は、日本でもっとも汚染度の高い水質。そんな汚名をきることになってしまった。が、当時は本当にのどかな田園地帯そのものだった。あるとき、れんげ花が咲き乱れる土手道を歩いていて、ふと、一時期この土地に志賀直哉が住んでいたことを思いだした。「菜の花と小娘」「清兵衛と瓢箪」「小僧の神様」など教科書で読んだ作品がなつかしく頭に浮かんだ。同時に、もしかして住んでいた家が残っているかも・・・そんな思いが過った。その後、都市化の波のなかであの田園風景がどんなになったか知らない。が、我孫子は今でも志賀直哉を彷彿させる。
本書の著者清水正氏は、この我孫子に生まれ、我孫子で育った。今も暮らしている。「武者小路實篤邸跡の脇道を小学校時代の昔から通っていた」というから白樺派の作家たちは身近だった。それだけに本書は必然の帰結といえる。
「小説の神様」といわれている志賀直哉は、はたしてドストエフスキーをどこまで読んでいたか。また、その作品は、ドストエフスキーの影響をどれほど強く受けていたか。本書は、この疑問を創造・想像批評によって検証・考察するものである。代表作『暗夜行路』をはじめ『濁った頭』『大津順吉』『或る男、其の姉の死』の四作品をとりあげ、主にドストエフスキー作品『罪と罰』のラスコーリニコフを投影させている。また、白樺派の作家たちの著作や伝記から志賀直哉のドストエフスキー度を探っている。が、本書は、両作品の共通性を指摘するというより「テキストを一つの統一された画像に構築する」つまり「ドストエフスキー山脈の見える部屋の窓ガラスに志賀直哉の小説をあてて見る」という技巧をとっている。その結果、そこに「思わぬ光景」が映し出されるとしている。それは如何なる文学的、神学的風景なのか。
本書読了後、感じたのは、難解な比較文学論でも意味深な作品論でもなかった。志賀直哉をスライドさせた窓ガラスに映ったもの。そこには、威厳をたたえながらも寂寥感をにじませる「父」の姿であった。かつてバルザックは「ルイ十六世の首を斬ることによって、革命はあらゆる家庭の主人の首を斬ってしまったのだ。今日ではもう家庭は一つとして残っていない」と嘆いた。現代においてすっかり影が薄くなった「父」。著者清水正氏の父親も、まさにそんな人であったようだ。氏は、その「父」像を、志賀文学に見たのかも知れない。志賀文学を至高の芸術と崇めていた小津安二郎の映画に「父」を感じるように。
秋のある午後、駅前の書店の店頭に名もなき父の死を悼んで書いたノンフェクション作家沢木耕太郎の『無名』を見かけた。創造・想像批評の手法において本書は、その書以上に父を物語っている。そんな気がした。「平凡を絵に描いたような父であったが、その平凡の中に埋め込まれた悲しみを思うと胸が詰まる。この著書は父に捧げるものである」静かに語る著者清水氏の言葉が心にしみる。本書は、志賀直哉との和解と同時に著者自身の父親との『和解』の書でもあるのだ。本書によって改めて志賀文学の普遍さ、奥深さを知る。そこにドストエフスキー文学との接点をみた。
代表作一つ『罪と罰』を読むまえに、「ドストエフスキーとは何か」を今一度、紹介しておきたい。
〈ドストエフスキーとは何か〉資料として1986年3月発行『ドストエフスキー写真と記録』(代表編者 V・ネチャーエワ 訳 中村健之介)から『罪と罰』までの作家の人生を知る。
 はじめにドストエフスキーという姓についてみてみる。日本の家系図は、先祖は、ほとんど藤原鎌足や源氏や平家につながるいい加減なものであるが ロシアでは、その真偽はどうか知らない。参考資料には、このように書いてある。

ドストエフスキーという姓は、16世紀の中ごろ、ドストエヴォという村(ビンスク市の近く)の名から派生して出来たものである。すでに1572年、この姓を名乗っていた者の一人に「留守番役(ドモーヴニク)」のフョードル・ドストエフスキーという者がいた。「留守番役」というのは、信任された配下。貴族だった。(グロスマンによれば)
M・A・ドストエフスキー(1789-1839 作家の父)は。ブラツラフの町(元ボドーリャ県)の司祭長である父が聖職者になってほしいと願っていたのに背いて、まだ若いうちに家をでてしまった。彼(作家の父親)は、1813年モスクワの医学専門学校を卒業し、同地で最初は、陸軍病院で、後に慈善病院で医師として働いた。

作家ドストエフスキーは、

次号へ

NHKカルチャー柏教室 2019.7-12 AM10:30~
「ナポレオンになりたかった青年の物語」講師・下原敏彦
イラクの独裁者フセイン元大統領は、なぜ『罪と罰』を持っていたか。隠れ家の穴倉にあったのか。その謎に迫る。
     

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