文芸研究Ⅲ 下原ゼミ通信No.6

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2019年(令和元年)5月21日発行

文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信No.6

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
4/9 4/16 4/23 5/7 5/14 5/21 5/28 6/4 6/11 6/18 6/25 7/2 7/9 7/16 7/23 
観察から創作へ

2019年ゼミⅢ読書と創作の旅

5・21下原ゼミ

5・14ゼミ観察  2019年度の旅、同行者10名に、参加4名
       
 4/14、聴講生1名追加。下原ゼミⅢは、10名の団体となった。
但しこの日の参加者は、西村、吉田、中谷、蓑野の4名

・裁判員裁判制度10年目に関する新聞記事 → コピー ① ~ ⑤を配布
・ドストエフスキー講座 → 視点(朝日新聞)のコピー「フセイン元大統領の謎」
・提出課題の読みと感想 → 西村、蓑野、吉田、中谷 (テーマ「令和と私」「私の一日」)

ミニ劇場  剃刀職人兵士殺害疑惑事件模擬裁判

テキスト・志賀直哉「剃刀」 → 脚本・編集室「剃刀職人兵士殺害事件の裁判」

〈配役〉
ナレーション … 西村美穂         証人 被害者家族 … 蓑野悦子
裁判長 … 中谷璃稀            証人 お梅   …  蓑悦子
被告人 … 吉田飛鳥            証人 錦公   …  蓑野悦子    
弁護士 … 西村美穂            証人 女中   …  蓑野悦子
検 察 … 西村美穂              

☆提出課題 → 「裁判員としての判断(量刑・理由」、「主文(裁判長の判決)」
※裁判長、被告ほかは、兼務
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ミニ劇場・模擬裁判の結果と報告 裁判員裁判制度10年目ということで裁判した。

【事件概要】(志賀直哉『剃刀』から)
1909年10月13日、午後10時24分頃、麻布十番四角交番に近くの「辰床」の店主、芳三郎(28)が客を殺したと自首してきた。勤番の山田巡査が「辰床」へ駆けつけると、客用イスに市ヶ谷連隊兵士・所航太(23)が首から大量の血を流して死んでいた。死因は出血死。凶器は「辰床」の商売用の剃刀。遺恨なし。業務上過失致死と無差別殺人の嫌疑で逮捕。1910年5月14日、第一回裁判。本人、殺害認めるも状況は曖昧。動機なし。被害者の母親は、重い刑を希望。

■検察は、故意殺人とみて有罪、無期懲役を求刑。弁護側は、心神耗弱で無罪を主張。

〈中谷璃稀〉 有罪、だが無期は重すぎる
 
本件の被告人は、「有罪」業務上過失致死とみなします。無期懲役は、さすがに酷すぎるのではないでしょうか。
 誰かが嘘をついている可能性も否めませんし、当時の状況の真偽が曖昧な気もします。これ以上、事故か事件か考えるのも頭が痛くなる。罪にかわりはないと思うので、まずは償っていただきたい。
 結果として、人が一人死んでいます。それも人の手によって。然るべき対応をとるのが筋ってもんじゃあないですかね。まずは人として、事実を受け入れましょう。
 これでは被害者もその家族も、ただただ悔いが残るばかりです。

〈西村美穂〉有罪、過失ではなく殺人としての刑を望む

有罪ではあると思う。一般的な客の立場としては、特に深い理由もなく殺される恐怖もなり、イラつきから剃刀を喉へ刺し直したのでは、やはり事故ではなく殺人ではないだろうか。
一方で、トラックの運転手が、ハンドルを切り違えて事故をおこすと業務用過失致死などとなるように、床屋としてたまたま扱っていた道具が剃刀で、その扱いを誤ってしまった、ともいえる。こちらはもし自分が床屋の立場だった場合、仕事中のミスのエスカレートで殺人ではないと訴えるかもしれない。床屋ではない、Ⅰ個人としては、やはり殺人と感じるので、それに見合った刑を求める。

〈蓑野悦子〉精神や体調管理の甘さが招いた。突発的に同情も  

有罪であると思います。この事件は、どの要素を取ってみても決して「事故」ではないので。では、どれ程の刑を科すのが妥当かという点です。自分は法に疎いですが、被告人の心神喪失状態の原因を見るに、自己責任の範疇かなと思います。自身の精神や体調の管理が甘かったとしか言いようがありません。
これが他人から精神を脅かされているという状態に、常日頃置かれているというなら話は別です。完璧主義過ぎるが故に招いたものだと思いました。私は突発的に手が出るような気質はよく理解できます。彼もその兆候があったのでしょうか。
判決とは別に彼のことが気になります。

〈吉田飛鳥〉 すぐに結論はでない。考察したい。

☆5月21日 この裁判、最終結審です。あなたの最終判決は?!
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テキスト・朗読「自分の一日観察」として、テキスト『或る朝』を読みます。
「自分の一日観察」は、それ自体、短い独立したものだが、積み重ねれば、中編にも長
 編にもなる基盤というか要素を持っている。林芙美子の『放浪記』が、それです。
【『或る朝』について】
 この作品は、文字通りふつうの「或る朝」の出来事を書いたものである。が、例によって作者本人の、そのままというより軽い創作というオブラートがかかっている。
 元種は、日々の日記(自分観察)を土台にしたものである。次の日記は、その原形ではないかとみられている。
□ 明治41年1月13日 月曜日
 朝、起きない内からお婆さんとひと喧嘩して午前墓参法事。

この日記を種にして作品を書く。翌14日(火)の日記に
「朝から昨日のお婆さんとの喧嘩を書いて、(非小説、祖母)と題した。とある。
ちなみに作者志賀直哉は、この作品について「創作余談」で、このように述べている。

 27歳(数え年26歳の記憶ちがい)の正月13日亡祖父の三回忌の午後、その朝の出来事を書いたもので、これを私の処女作といっていいかも知れない。私はそれまでも小説を始終書こうとしていたが、一度もまとまらなかった。筋はできていて、書くとものにならない。一気に書くと骨ばかりの荒っぽいものになり、ゆっくり書くと瑣末な事柄に筆が走り、まとまらなかった。ところが、「或る朝」は内容も簡単なものであるが、案外楽に出来上がり、初めて小説が書けたというような気がした。それが27歳の時だから、今から思えば遅れていたものだ。こんなものから多少書く要領がわかってきた。

 この作品は、大正7年(1918)3月1日発行の『中央文学』に掲載された。書いてから10年が経っていた。祖母が、うるさく起こすので素直に起きる気をなくした孫の話。意地っ張りから祖母に悪態をついたことを反省するまで。家庭の日常で生ずるたわいもない喧嘩。これを捉えて、一つの作品にする。簡単なようだが、難しいものがある。それだけに「はじめて小説を書けたというような気がした」「書く要領がわかってきた」という作者の述懐は、作者の文学開眼の言葉ともいえる。つまり、この作品は、志賀直哉の内なる文学の芽。小説の神様へと通じる階段の第一段だともいえる。その意味では、『或る朝』は、志賀文学の重要な基盤、出発点となる作品である。この作品は、その後、父親との確執を描いた中編名作『和解』に繫がっている。そして、唯一の名作長編『暗夜行路』にと至る。
 核家族になった今日、いわゆる「オバアちゃんこ」はできにくい。起きる、起きないをめぐって祖母と信太郎二人の気持の機微が、描かれている。だれもが子供の頃、祖母や母親とで経験したことがある懐かしい家族の思い出である。

土壌館雑記
追悼に先史・古代展を観る
 
5月17日(金) 晴れ。今月はじめに亡くなった友人の供養に「国立歴史民俗博物館」を追悼見学した。この3月リニューアルオープンした《先史・古代》展が目的だった。大学時代の友人たちに声をかけると、9名(夫婦3組)が集まった。
通称「歴博」は、千葉県の佐倉市。不便なところにある。が、古希を過ぎたお年寄りには距離も時間も関係ないようだ。待ち合わせた京成「佐倉駅」改札午前11時きっかりに全員集まった。仕事現役の人もいたが、こちらが優先という気楽さ。
 「歴博」は、駅から徒歩20分程度。小高い丘の上にある。新緑の中を散歩がてら向かった。館内は、地元の小学校、中学校の子供たちでときどき、騒々しかったが、金曜日とあっ
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て子供たちの団体が過ぎると、がらんとした。ところどころ人気のない会場もあった。
リニューアルされた第1展示室(先史・古代)では、下記の展示を観た。

Ⅰ.最終氷期に生きた人々 260万年前~   Ⅱ.多様な縄文列島 約1万1千年前~
Ⅲ.水田稲作のはじまり 紀元前10世紀頃   Ⅳ. 倭の登場 弥生時代 1~2世紀
Ⅴ.倭の前方後円墳と東アジア 3~7世紀   Ⅵ. 古代国家と列島世界 7世紀以後

 古代の展示作品を観ていて、いつも思うのは、古代人と現代人の違いは何かということだ。IT時代スマホ文化を謳歌する現代人だが、生活力や芸術的センスにおいて、はるかに及
ばない気がした。帰路、ステーキハウスで打ち上げ。親しい仲間と飲んで食べているときが
一番。人間の楽しみは、いつの時代も変わらない。(編集室)

世界名作案内

5月の詩「谷間に眠るもの」

 新緑がまぶしい。この季節になると、この詩を思い出す。5月の光が燦々と降り注ぐ谷間。青葉しげる泉。詩人がそこにみたものは・・・・。『ランボオ詩集』金子光晴訳
アルチュール・ランボオ(1854-1891)37歳没 第一詩集(1870-1872)に収録。
 この詩の背景は普仏戦争。ランボー16歳、家出を繰り返していた時期。普仏戦争とは
普仏戦争1870年~1871年

プロイセンとフランス間で行なわれた戦争。スペイン国王選出問題をめぐる両国間の紛争を契機として開戦。プロイセン側が圧倒的に優勢でナポレオン3世はセダンで包囲され、1870年9月2日同地で降伏、退位。パリでは共和制の国防政府が樹立され抗戦を続けたが、1871年パリを開城して敗戦。フランスはフランクフルト条約でアルザス・ロレーヌ(アルザス・ロレーヌ地方)の大部分を割譲、賠償金50億フランを支払った。戦争終結直前の1871年1月8日、プロイセン王・ヴィルヘルム1世がベルサイユ宮殿でドイツ皇帝に即位し、ドイツ統一が達成された。
プロイセン・フランス戦争、独仏戦争とも。(HP)

普仏戦争と名作

 戦争は、いつの時代でも悲惨で忌むべき出来事である。が、不幸な中に幸いを見つけるとすれば、この戦争を材料にした、多くの名作が生まれたことである。『月曜物語』「最後の授業」のアルフォス・ドーテ(1840-1897)、短篇「二人の友」「母親」などのギ・ド・モーパッサン(1850-1893)が、そうである。

☆「谷間に眠るもの」「感覚」『ランボオ詩集』A・ランボオ 金子光晴訳 角川文庫

詩編2作紹介
アルチュール・ランボオは1854年10月20日北フランス生まれ、1891年11月9日マルセイユ病院にて死去37歳。大作「酔っぱらいの舟」17歳のとき。

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金子光晴訳『ランボオ詩集』1870-1872から
Sensation(サンサシオン)
 
 夏の爽やかな夕、ほそ草をふみしだき、
ちくちくと麦穂の先で手をつつかれ、小路をゆこう。
夢みがちに踏む足の 一足ごとの新鮮さ。
帽子はなし。ふく風に髪をなぶらせて。

              話もしない。ものも考えない。だが、
             僕のこのこころの底から、汲めどつきないものが湧きあがる。
             さあ。ゆこう。どこまでも。ボヘミヤンのように。
             自然とつれ立って、――恋人づれのように胸をはずませ・・・

谷間に眠るもの

 立ちはだかる山の肩から陽がさし込めば、
ここ、青葉のしげりにしげる窪地の、一すじの唄う小流れは、
狂おしく、銀のかげろうを、あたりの草にからませて、
狭い谷間は、光で沸き立ちかえる。

           年若い一人の兵隊が、ぽかんと口をひらき、なにもかぶらず、
          青々と、涼しそうな水菜のなかに、ぼんのくぼをひたして眠っている。
          ゆく雲のした、草のうえ。
          光ふりそそぐ緑の褥(しとね)に蒼ざめ、横たわり、

 二つの足は水仙菖蒲なかにつっこみ、
病気の子供のような笑顔さえうかべて、一眠りしているんだよ。
やさしい自然よ。やつは寒いんだから、あっためてやっておくれ。

          いろんないい匂いが風にはこばれてきても鼻の穴はそよぎもしない。
         静止した胸のうえに手をのせて、安らかに眠っている彼の右横腹に、
         真っ赤にひらいた銃弾の穴が、二つ。

ドストエフスキー講座. ナポレオン生誕250周年に寄せて

ナポレオンになりたかった青年の物語(追記しながら連載)
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才能ある若者は、なぜ殺人者になったのか。2003年12月、故郷の穴倉で米軍に拘束されたイラクのフセイン元大統領は、なぜ『罪と罰』を所持していたのか。その謎に迫る。
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五大長編は、人類救済(人間一人ひとりの幸福)を目的として書かれた。物語は、その手段を探る。『罪と罰』は、そのトップバッター。方法は人類二分法。
戦国時代や世の中が乱れていると、人々を救うために英雄待望論がもちあがる。英雄がいたら、独裁者でもワンマンでもいい、英雄が欲しい。当時の英雄は、ナポレオンだった。ナポレオンのようになれるなら、犯罪は許される。将来、平和と安定をもたらすのなら殺人だって許される。主人公は、なぜかこんな考えに囚われてしまう。英雄依存症候群か…。、
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2019年度下原ゼミⅢの皆さん

 5・21現在、下原ゼミⅢは9名の登録者+1聴講生、刑10名の受講生があります。以下が参加の10人の皆さんです。全員揃ったら写真撮ります。

・志津木 喜一(しづき きいち)5/7

・神尾 颯(かみお そう)4/16 4/23 5/7

・松野 優作(まつの ゆうさく)5/7

・西村 美穂(にしむら みほ)4/9 4/16 4/23 5/7 5/14

・吉田 飛鳥(よしだ あすか)4/9 4/16 4/23 5/7 5/14

・中谷 璃稀(なかたに りき)4/9 4/16 4/23 5/7 5/14

・佐俣 光彩(さまた みさ)4/9 4/16 
 
・東風 杏奈(こち あんな)4/9 4/16 

・山本 美空(やまもと みく)4/9 4/16 4/23 

・蓑野 悦子(みのの えつこ) 5/14

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ゼミ誌について 皆さんで力を合わせて記念になるゼミ誌を創りましょう。

編集委員 ・西村美穂さん ・中谷璃稀さん

※ゼミ誌ガイダンスが5月15日(水)12時20分~ 江古田校舎 W303でありました。

ゼミ誌ガイダンス報告

報告者 → 西村美穂さん ・中谷璃稀さん

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【ドストエフスキー講座】『罪と罰』を読む 事件まで6分の一
 
物語は、ドストエフスキーの口癖で言えば、突然に、いきなりにはじまる。日本で一番最初に読んで訳した内田魯庵は、このようにはじめている。

「七月上旬或る蒸暑き晩方の事。S(なにがし)…ペレウーロク(横町)の五階造りの道具附の小座敷から一少年が突進して狐疑逡巡の体でK…橋の方へのっそりと出掛けた。」この少年は、どこへなにしに行くのか。読者の耳目を集めて、彼、未来の英雄は、夢夢遊病者のように歩いて行く。しっかりとした目的をもって。この日は、その予行演習なのだ。
 自分は選ばれた人間。自意識過剰な若者なら、だれもが陥る青春の陥穽。
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ゼミ合宿について

☆実施の場合 南信州の「昼神温泉郷」希望の声が多かった。宿泊地が日大施設ではないので、大学に確認をとる。ダメなら軽井沢か他の日大施設。
・昼神温泉郷の場合 :  熊谷元一写真童画館見学・満蒙開拓平和祈念館見学。
           観光として星空日本一を見物。(天気次第)
・軽井沢日大施設  : マラソン読書会(ドストエフスキー作品)

【南真宗昼神温泉郷の場合】
 
熊谷元一写真童画館 熊谷元一とは何か。写真童画館見学で、その功績を知る。

展示作品 「一年生」「村の記録」「童画作品」など

           
満蒙開拓平和記念館 戦前の日本の国策を知る。

終戦3カ月前、5月1日、新緑の伊那谷から、はるか海を超えて、中国大陸東北部(満州国)に向かって旅立った村人たちがいた。60名の子供たちと教師も一緒だった。村人たちは、なぜ、ソ連軍が明日にも攻めてくる国境の開拓村を目指したのか。「満蒙開拓平和記念館」見学で、そのなぞが解ける。

☆星空日本一 お天気次第です。

熊谷元一研究 写真家・熊谷元一生誕110周年に寄せて 熊谷元一の謎

 熊谷元一は1909年(明治42年)7月、長野県伊那谷の山村に生まれた。ちなみにこの年に生まれた著名人に太宰治がいる。幼少より画家をめざすが、東京の美術学校不合格で、自分で練習する。22歳のとき童画の才が認められ、小学校教師となるが赤化事件に巻き込まれ退職。童画の師・武井武雄に頼まれて「かかし」の写真を撮ったことから、村人撮影に興味をもつ。板垣鷹穂の『芸術界の基調と時潮』の中の「グラフの社会性」に感銘をうけ写真の一部を板垣に送る。
板垣は、『アサヒカメラ』に推薦。熊谷28歳、写真集『会地村』が朝日新聞社から出版される。内外に大きな反響。熊谷は、内務省→大東亜省の嘱託カメラマンに抜擢。主に満蒙開拓青少年義勇軍の撮影を命じられ満州に行くことになる。画家への、写真家への道が大きく開けた瞬間だった。だが、熊谷は終戦2カ月前、すべての道を絶って故郷伊那谷に帰った。なぜ熊谷は、空襲で燃え盛る東京を後にしたのか。絶好のシャッターチャンスだったはず。なぜ熊谷は、満蒙開拓団の悲惨な最期を記録しようとおもわなかったか。どれもこれも大きな謎といえる。(編集室はゼミ誌『熊谷元一研究4』「恩師の告白」でその謎に迫った)
故郷の村に帰った熊谷は、小学校教師となって村人を撮りつづけた。軍国教育から民主主義教育に変わった子供たちの日常を撮りつづけた。1955年、写真集『一年生』が出版された。その写真集は第1回毎日写真賞で、土門健、木村伊兵衛など、並みいるプロのカメラマンを押えて入賞した。その写真集は、今もって写真界の金字塔である。
 だが、熊谷はうごかなかった。生涯一小学校教師を貫いた。なぜか…。
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・・・・・・・・・・・・・・掲示板・・・・・・・・・・・・・・

熊谷元一研究関連 法政大学国際文化学部の高柳教授からの報告

 4月の第2回学習会は、当時実際に飯田に疎開(学童集団疎開、縁故疎開)した体験者をはじめ、幸い30人ほどの参加者を得て、無事終了しました。
伊那谷を舞台に、戦争に関して、当時といまを考える場になったのではないかと思います。引き続き、第3回目の学習会を以下のような形で実施します。
よろしかったら、どうぞご参加ください。

※配付資料を準備する都合上、参加の前日までにメール等でご一報願います。

●日時:2019年5月25日(土)15:00~18:00
●会場:法政大学市ヶ谷キャンパス ボアソナードタワー3階 0300教室
●テーマ:伊那谷と養蚕
●内容:伊那谷の歴史にとって、かつての主力産業で、多くの住民が携わった養蚕は欠かすことができない。伊那谷の養蚕農家を描いた岩波映画「ひとりの母

の記録」(1955年)をはじめ、組合製糸である下伊那の天龍社、上伊那の龍水社、それに蚕の神を祀る蚕玉様信仰に関するものなど、養蚕にまつわる映像をまとめて視聴する。

一緒にドストエフスキーを読みませんか

読書会のお知らせ ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」
どなたでも自由に参加できます。下原まで

月 日 : 2019年6月15日(土)
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)
 開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分
作 品  : 『カラマーゾフの兄弟』3回目
報告者 : 菅原純子さん

月 日 : 2019年8月10日(土)
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)
 開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分
作 品  : 『カラマーゾフの兄弟』4回目
報告者 : 石田さん

※「ゼミ通信」掲載は、メール可

連絡090-2764-6052下原  toshihiko@shimohara.net

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