文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信 No.97

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2008年(平成20年)4月14日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.97
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
2008前期4/14 4/21 4/28 5/12 5/19 5/26 6/2 6/9 6/16 6/23 
6/30 7/7 7/14 
  
2008年、読書と創作の旅
4・14下原ゼミ
4月14日(月)の下原ゼミ・ガイダンスは、下記の要領で行います。文ゼミ教室2
 1.「2008年、読書と創作の旅」について
   ・目的  ・方法  ・テキスト
   
 2.授業の進め方
 3.紙芝居について
 4.自己紹介(参加者は、自分の希望など)
 5.その他(ビデオ鑑賞or私立中学模擬・公立高校入試国語試験の実施)
     
 
ゼミ開講にあたり
 皆さん、こんにちわ!大学生になって2年目がはじまりました。学生生活に慣れた人、まだ、なんとなく落ち着かない人、すでに将来の目標をみつけた人、様々だと思います。が、これだけは、はっきりしています。皆さんは、まだ人生のスタートラインにいるのです。たとえどんなに夢があっても、お金があっても、反対に夢も希望もなくても、この存在宇宙で20年前後過ごしたにすぎません。日にちにすれば7300日余りです。
 すべてが、これからです。時間の川は、タイムマシーンが発明されない限り、後戻りはできません。ですからしっかり見学していってください。もっとも、今日の授業説明だけでは不足かも知れません。が、それも人生です。自分の目と勘を信じてみましょう。
 ところで、本日、説明するのは、だいたいの授業計画です。ときには、旅の途中で下車することもあります。何事も計画通りゆかないものです。ご了承ください。
 授業評価の方法 → 筆記試験はなしなので以下の採点方法をとります。
出席 + 課題原稿 + ゼミ誌原稿 + その他(朗読・発表など)=
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テキスト一覧・車中観察作品=『網走まで』『正義派』『出来事』~『灰色の月』まで
       動物観察作品=『城の崎にて』『犬』~『ガマとやまかがし』


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.97 ―――――――― 2 ――――――――――――――
車窓雑記
「2008年、読書と創作の旅」とは何か
 下原ゼミは、毎年その年の西暦に合わせ「200何年、読書と創作の旅」と銘打って授業をすすめています。おそらくこのフレーズについては、どこかで聞いたような、と思う人もいるでしょう。そうです、先月、亡くなったアーサー・クラーク(1917-2008)の作品『2001年宇宙の旅』(1982)から、借りたものです。「人間は、どこから来て、どこに行くのか」この大テーマを背負った「2001年」は、小説より、こちらも近年亡くなったキューブリック監督の映画で有名である。1950年にアーサー・クラークは短編『前哨』を発表したが、これを読んだキューブリック監督が映画化に乗り出し、二人で映画製作と平行して共同執筆したのが小説『2001年宇宙の旅』である。
 この映画は、日本においては長いこと年末の深夜放映の十八番であった。しかし、熱烈なファン意外には、相当量の睡眠薬に匹敵するらしい。大方の観客は、暖かい暗闇の部屋でスクリーンに映る宇宙と、流れてくるリヒャルト・シュトラウス作曲の「ツァラトゥストラかく語りき」を聴けばイチコロ。深い深い眠りに入るらしい。
 下原ゼミで、なぜこれをキャッチフレーズというか看板にしたのか。理由は、簡単で、ゼミ担当者のわたしが、この作品のファンだからである。が、もう一つ真の動機は、ロシアの文豪ドストエフスキーの作品に関連性をみるからである。ドストエフスキーは17歳のとき「人間の謎を解くために小説を書くのだ」と決心した。そういえば、長い、くどい、眠くなる。これもドストエフスキー作品の特許らしい。が、文豪についてはまた後日。
 小説『2001年』当時、この本に対するニューヨーク・タイムズ・ブック・レビュー掲載の書評(エリオット・フリマント=スミス)はこのようで話題を呼んだ。
「映画をご覧になりましたね、では小説をお読みなさい。これは、ふつうにいう物事の順序ではないし、一般的にもおすすめできる方法ではない。しかし『2001年』に関する限り、これは異常ではなくなる。」
 
HPでみる経歴と作品(抜粋)
 1960年代から1970年代にはロバート・A・ハインライン、アイザック・アシモフと並んでビッグ・スリーと称されるSF界の大御所として活躍。他の2人がエンターテイメント、SF叙事詩を志向したのに対して、クラークは豊富な科学的知識に裏打ちされた近未来を舞台にしたリアルなハードSF作品群と仏教思想に共鳴した「人類の宇宙的進化」を壮大に描く作品群とに特色がある。著書は『幼年期の終わり』、『2001年宇宙の旅』などSF多数。そのほとんどが邦訳されている。短編では『太陽系最後の日』や『時間がいっぱい』などが有名。1917年にイギリス・サマセット州マインヘッドにて生まれる。第二次世界大戦の時にはイギリス空軍の将校として電波探知法、レーダーの開発に取り組み、教官も務める。戦後、ロンドン大学のキングス・カレッジに入学、自然科学を専攻する。一時、大蔵省に勤めるがすぐに退職。1945年に衛星通信に関する論文を科学雑誌へ寄稿し、現在、通信の基幹となっている衛星通信の構想を初めて科学的に示した。1946年、『抜け穴』および『太陽系最後の日』で作家デビューする。1953年には人類の宇宙的な進化を描いた『幼年期の終わり』を刊行。現在でもSFのベスト級作品として評価されている。また、『太陽系最後の日』は日本でも「SFマガジン」最初期に翻訳され、強く支持された作品でもある。1973年には『宇宙のランデヴー』で、1979年には『楽園の泉』でヒューゴー賞とネビュラ賞を同時受賞。1987年、アーサー・C・クラーク賞が発足。1998年にはエリザベス女王よりナイトの称号を授与された。2008年3月19日午前1時30分(スリランカ標準時(UTC+5:30)と思われる。欧米では時差により18日のうちに訃報が流れた)、自宅にて心肺機能不全のため90歳で死去[1]。2007年12月には、生きている間に宇宙人のいるという確かな痕跡を見たかったと話していた。
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2008年、読書と創作の旅
1.「2008年、読書と創作の旅」について
2008年の旅を、どのよう過ごすか。正確ではありませんが、およその計画です。
 ○ 旅の目的 → 「人間とは何か」を知ること。ということは、観察力を培うこと。
 ○そのための方法  → 「読むこと・書くこと」の習慣化、日常化。
 ○テキストは → 志賀直哉の車中作品と動物観察作品。他、世界の名作、主に短編。
2.授業の進め方
 ○ 発表 → 毎日、乗る電車の中の観察、動物の観察を原稿用紙1枚~5枚程度を発表
        と感想。
 ○ 朗読 → テキストの朗読。感想。
 ○ 新聞 → 事件、出来事、問題を議論する。三面記事から短編を創作。
      
※ 発表することの意義は、他者の文を聞くことによって自分の文章の見直しと批評する目
  を育てる。
3.紙芝居について
 ○ サブカルチャーを知る。60年前のベストセラー劇画物語。
 ○ 口演することで演技性を身につける。
4.自己紹介
 ○ 参加者は、日芸で学びたいこと、身につけたいこと、将来の目標。
 
 ○ ゼミ担任の紹介(出身地、読書会紹介)
5.その他
 ○ 四谷大塚・平成18年有名私立中学入試模擬「国語」『ひがんさの山』から
   平成20年埼玉県公立高校入試問題「国語」『コロスケのいた森』から
   
※ 実施は、作者の手から離れた作品は、どう読まれるか。答えを知ることではなく、より
  多くの読み手の感想と印象を知るため。
 ○ 時間あれば、ビデオ鑑賞(日本テレビ番組「おんぼろ道場再建」2002年放映)
 番外として
 ○ 嘉納治五郎について(「精読と多読」のススメ)
 ○ ドストエフスキーについて(フセインも読んだドストエフスキーとは何か)
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嘉納治五郎の「青年修養訓」から読書のススメの紹介
第15 精読と多読
 
    『嘉納治五郎著作集 教育篇』(五月書房)
 精神の健全な発達を遂げようとするには、これに相当の栄養を与えなければならぬのであるが、その栄養を精神に与えるのは読書である。人は誰でも精神の健全な発達を望まないものはないにもかかわらず、実際その栄養法たる読書を好まない者も少なくないのは甚だ怪訝に堪えぬ。かくの如きは、その人にとっても国家にとっても実に歎(タン)ずべき事である。読書の習慣は学生にあっては成功の段階となり、実務に従事しいるものにあっては競争場裡の劣敗者たるを免れしむる保障となるものである。看よ、古来名を青史に留めたるところの文武の偉人は多くは読書を好み、それぞれの愛読書を有しておったのである。試みにその二、三の例をあげてみれば、徳川家康は常に東鑑(吾妻鏡)等を愛読し、頼山陽は史記を友とし、近くは伊藤博文は繁劇な公務の間にいても読書を廃さなかった。またカーライル(イギリスの歴史家・評論家)は一年に一回ホーマー(ホメロス)を読み、シルレルはークスピーアーを読んだ。ナポレオンは常にゲーテの詩集を手にし、ウエリントン(イギリスの将軍・政治家)はバットラーの著書(『万人の道』「生活と習慣」など)やアダムスミスの国富論に目を曝しておったということである。なすことあらんとする青年が、学生時代において読書を怠らないようにし、これを確乎とした一の習慣として、中年老年まで続けるようにするということの必要なるは多言を俟(ま)たないのである。
と、このように読書の必要性を説く。が、どんな本を読むかは、このように述べている。
 読書はこのように必要であるけれども、もしその読む書物が適当でないか、その読書の方法がよろしきを得なければ、ただに益を受けることが出来ないのみならず、かえって害を受けるのである。吾人の読む書物のどんなものであるべきかに関しては、ここにはただ一言を述べて余は他の章に譲っておこう。すべて新刊書ならば先輩識者が認めて価値が
あるというものを選ぶか、または古人のいったように世に出てから一年も立たないようなものは、必要がない以上はこれを後廻しとするがよい。また、昔より名著として世人に尊重せられているものは、その中から若干を選んで常にこれを繙(ひもと)き見るようにするがよいのである。
 どんな本を読んだらよいか。本によっては栄養になるどころか害になるという。嘉納治五郎が言うのは、先輩識者が認めた価値のあるもの。つまり世に名作といわれている本である。他は、現在、たとえどんなに評判がよくても、百万冊のベストセラーであっても後回しにせよということである。そうして古典になっているものは、常に手にしていなさいと教えている。本のよしあし、作家のよしあしは時間という評者が選んでくれる。
 さて、このようにして読む本を選んだら、次にどのようにして読むか。いらぬ節介ではあるが、全身教育者である嘉納治五郎は、その方法をも懇切丁寧に述べている。
 次に方法の点に移れば、読書の方法は、とりもなおさず精読多読などの事を意味するのである。精読とは読んで字の如くくわしく丁寧に読むこと、多読とは多く広く読むのをいうのである。真正に完全の読書をするには、この二つが備わらなければならぬ。
 つまり書物は偏らず、多くの書を読め、ということである。そうして読むからには、飛ばし飛ばし読むものには耳が痛いが、決していい加減にではなく、丁寧に読むべし、ということである。いずれももっともなことではあるが、人間、こうして指導されないと、なかなか読むに至らない。次に、折角の読書に陥りがたい短所があることを指摘し、注意している。
―――――――――――――――――― 5 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.97
 世に鵜呑みの知識というものがある。これは教師なり書物なりから得た知識をば、別に思考もせず会得もしないで、そのまま精神中に取込んだものをいうのである。かようなものがどうしてその人の真の知識となって役に立つであろうか。総じて知識が真の知識となるについては、まず第一にそれが十分に理解されておらねばならぬ。次にはそれが固く記憶されておらねばならぬ。
 鵜呑みの知識。よく読書のスピードを自慢する人がいるが、いくら早く読んでも、理解していなければ、ただ知っている、ということだけになる。
理解のされていない知識は他に自在に応用される事が出来ないし、固く記憶されていない知識は何時でも役に立つというわけにはいかない。したがってこれらの知識は、あるもないも同じ事である。かような理由であるから、何人たりとも真の知識を有しようと思うならば、それを十分咀嚼(そしゃく)消化して理解会得し、また十分確固明白に記憶しおくようにせねばならぬ。
 そのためには・・・・・
 さてこの理解記憶を全くしようとするにはどうしたらよいかというには、他に道は無い。その知識を受け入れる時に用意を密にする。すなわち書物をば精しく読まねばならぬのである。幾度か幾度か繰返し読んで主要点をたしかに捉えると同時に、詳細の事項をも落とさず隅々まで精確に理解をし、かつ記憶を固くするのである。こうして得た知識こそは真の栄養を精神に与え、また始めて吾人に満足を与える事が出来るのである。試みに想像してみれば分かる。何らかの書物をば百遍も精読し、その極その中に書いてある事は十分会得していて、どんな場合にも応用が出来、その知識は真のわが知識になって、わが血液に変じ筋肉と化しておったならば、その心持はどのようであろうか。真に程子(テイシ兄弟)のいったように、手の舞い足の踏むところを知らないであろう。書物の与える満足には種々あろうが、これらはその中の主なるものであって、また最も高尚なものである。
 書物を理解するには、繰り返し読むことが重要。精読まずは精読である。さすれば応用ができ真の知識となる、と説いている。また、この精読するということについても、こう語っている。
 かつまた一冊の書物の上に全力を傾注するという事は、吾人の精神修養の上から観ても大切である。何となれば人間が社会に立っているからには、大かり小なりの一事をば必ず成し遂げるという習慣がきわめて必要であるが、書物を精読し了するというのは、ちょうどこの一事を成し遂げるという事に当たるからである。今日でこそやや薄らいだようであるが、維新前におけるわが国士人の中には、四書(儒教の経典)の中の一部もしくは数部をば精読し熟読し、その極はほとんどこれを暗誦して常住座臥その行動を律する規矩(きく・コンパス)としておったものが多いのである。伊藤仁斎(江戸初期の朱子学儒者)は18,9歳の頃『延平問答』という書物を手に入れて反復熟読した結果、紙が破れるまでになったが、その精読から得た知識が大いに修養の助けとなり、他日大成の基をなしたという事である。また荻生徂徠は、13年のわびしい田舎住居の間、単に一部の大学諺解(ゲンカイ口語による漢文解釈)のみを友としておったという事である。程子は「余は17,8より論語を読み当時すでに文義(文章の意味)を暁りしが、これを読むこといよいよ久しうしてただ意味の深長なるを覚ゆ」と言っている。古昔の人がいかに精読に重きをおいたかは、これら2,3の事例に徴するも分明である。学問教育が多岐に渉る結果として、遺憾な事にはこのような美風も今日ではさほど行われないようである。
 ひとつのものを徹底して読む。この美風、すなわち習慣は、現代においては、ますます為
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されていない。が、学生は、すすんで挑戦しようという気まがえがなくてはならぬ。と、いっている。
 しかし現に学生生活を送り近い未来において独立すべき青年らには、各率先してこの美風を伝播しようと今より覚悟し実行するように切望せねばならぬ。
 読書ということは、このような効能の点からいっても満足の点からいっても、また精神修養の点からいってもまことによいものであるが、しかしまた不利益な点を有せぬでもない。すなわち精読は常に多くの時間を要するということと、したがって多くの書物が読めないようになるから自然その人の限界が狭隘(キョウヤク)になるを免れないということである。例えていえば、文字において一作家の文章のみを精読しておったならば、その作家については精通しようが思想の豊富修辞の巧妙がそれで十分に学べるということは出来ない。どんなに優秀な作家とても、その長所を有すると同時に多少の欠点を有するものであるから、一作家の文章が万有を網羅し天地を籠蓋(ロウガイ)するというわけにはいかぬ。そこで精読によって益を受けるにしても、またその不備な点が判明したならば、これを他の作家の作物によって学び習うという必要が起きる。すなわち他の作物にたよるということは、多読をするという事に帰するのである。
 
 またこの外の人文学科、たとえば歴史修身等においても、もしくは物理化学等の自然学科においても、一の著者の記述説明に熟すると同時に、他の著者はそれをどんなに記述し説明しているかを参照してみる必要がある。このように参照してみることは知識を確実にする上にきわめて多大の効能があるから、決して煩雑無用のことではない。精読はもとより希うべきであるが、また一面には事情の許す限り多読をして、その限界を狭隘にせぬようにするがよい。精読でもって基礎を作り、多読でもってこれを豊富にするは学問の要訣(ヨウケツ)であってこのようにして得られた知識こそ真に有用なものとなるのである。
 さらに精読と多読との仕方の関係を具体的に述べてみれば、、まず精読する書物の中にある一つの事項に対して付箋または朱黄を施し、かくてその個所が他の参照用として多く渉猟(読みあさる)する書中にはどんなに記述説明されているかを付記するのである。換言すれば精読書を中心として綱領として、多読所をことごとくこれに関連付随させるのである。また学問の進歩の程度についていうならば、初歩の間は精読を主とし相当に進んだ後に多読を心掛くべきである。けれどもどんな場合においても精読が主であって多読が副である。そうしてこの両者のうちいずれにも偏してはならないことは無論であるが、もしいずれに偏するがよいかといえば、精読に変する方がむしろ弊害が少ないのである。精読に伴わない多読は、これは支離散漫なる知識の収得法であって、濫読妄毒となるに至ってその幣が極まるのである。
 また鼠噛の学問といって、あれやこれやの本を少しずつ読むのでいずれをも読みとおさずに放擲するなどは、学に志すものの固く避くべきことである。世に聡明の資質を抱きながらなすこと無くして終わるものの中には、この鼠噛(ソコウ)の学問といって、あれやこれやの本を少しずつ読むのでいずれも読み通さずに放擲するなどは、学に志すものの固く避くべきことである。世に聡明の資質を抱きながらなすこと無くして終わるものの中には、この鼠噛の陋(ロウ)に陥ったものも多いのである。実に慎み謹んで遠ざくべき悪癖である。
以上、嘉納治五郎の説く読書の必要性を紹介した。どんな本を読めばいいのか。どんなふうに読めばよいのか。人それぞれの好き嫌いもある。それに、世に古典といわれる良書は山ほどある。となると読書も簡単ではない。が、文学の手本なら志賀直哉である。
(編集室)
 
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2008年、読書と創作の旅
自己紹介代わりに学生時代の旅を紹介します(2004年ゼミ誌掲載に加筆)
一九六八年、アジアの旅
     
                                 下原 敏彦
いまでは外国に行くことは、珍しいことではなくなった。後期明け学校に向かうバスの中で女子学生たちが、夏休みにまるで浦安のデズニーランドにでも行ってきたように外国の話をしているのをよく耳にする。還暦を過ぎた私の世代でも大学の忘年会で会ったりすると、ごく日常的に海外に行ってきた話がでる。東南アジアや中国、アメリカを仕事のため毎月のように往来している友もいる。もっとも、私を含め同級生たちは皆農獣医学部拓植学科(現、生物資源科学部国際地域開発学科)出身だからということもある。文芸学科の学生が文芸について学び、創作するように、私たちも熱帯農業を学び、作物を作った。で、自然そんな話題になるのは当然ともいえる。が・・・それにしても今日、本当に外国に出掛けることは、特別なことではなくなった。
しかし、三十六年前は、まだ外国は遠い地だった。夢と冒険に満ちた未知の土地でもあった。一九六五年、大学一年の夏、横浜埠頭から南米のブラジルに移住する先輩夫妻を見送ったとき、自分もいつかはと、ひそかに心躍らしたものだ。まだブラジルは希望の国だった。「美しき花を植えよう海の外」が、学科主任教授の掲げた学科のスローガンだった。(もっとも真にその目的で入学したのは一握りの学生だけだった。文芸にも本気で作家やジャーナリストになりたいからと入った学生が、はたして何人いるだろうか。そのへんは昔も今も変わらない。)
外国に行くチャンスは早くきた。二年の夏、大学の関係機関が北米の農業実習生を募った。一年間農場で季節労働者として働けば、実習単位が習得でき、なおかつ一週間ごとに日当がもらえ、一ヶ月十万円にはなるという。当時の大卒給料は三万円前後だからアメリカはまさに夢の国だった。申し込んだのはI君(現国際地域開発学科教員)と、ブラジル移住を希望して他薬科大学から転入してきたA君、それに私の三名だった。米国行きを祈願して農場実習した八ヶ岳原村にある国営農場の合宿では、受験者組としてマラソン大会に参加した。英会話の授業も真面目に受けた。そして、試験の日を迎えた。当時はなんと下半身までみせての身体検査だった。診察は、荒っぽい医師と中年看護婦。恥ずかしかったことを覚えている。英会話のテストと作文もあった。
結果はI君一人が合格。私とA君は次回に見送られた。落胆したが、その後、茨城県内原にある青年海外協力センターで拓大生のB君や二人の農大生、それに同級生のY君、T君らと大型特殊免許を習得した。夢は平和部隊、いまでいう海外技術協力隊に入ることにかわった。こちらは月五万円の給料だが発展途上国なので、数倍の値打ちがあるとの噂だった。が、応募資格を得るまでには、まだ遠かった。目先の目標はなにもなかった。が、今思えば、あの時代、それは平和な一時だったといえる。柔道部の稽古も休むことはなかった。相模平野にある農場での農業実習もサボることはなかった。深夜は、皇居お堀前にある新聞社の地下でバイトした。その新聞社の臨時職員となっていたのだ。作業は、輪転機から刷りあがってくる新聞の梱包作業。いろんな大学の学生が大勢働いていた。金を貯めるのに夢中な学生、学生運動に熱心な学生アイビー服装に凝る学生。エレキバンドに熱狂する学生など、様々な目的をもった学生がいた。が、ここでも一番の話題は外国に行くことだった。イスラエルのキブツの農場に行くという中大生、キューバのさとうきび畑に応援に行くという拓大生。ヨットで世界一周を計画している専大生とさまざまだった。
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同級生たちは次々、外国に旅立って行った。北米、南米に。親友のY君もインドネシアの軍隊に空手指導員として渡ることになった。羽田空港で盛大に壮行会が開かれ、Y君は日大節に送られ、はるか南の島に発っていった。
おりしも日大闘争がはじまろうとしていた。巷では西川一三の『西域潜行八年』や小日向白朗の『馬賊戦記』がベストセラーとなっていた。中国では紅衛兵の嵐が起きようとしていた。遠く南米で革命の英雄ゲバラが散った。中東ではアラブ諸国対イスラエルの戦争が始まった。バングラディッシュ独立、ベトナム戦争激化。世界は、七○年という新しい時代の前で騒然としていた。そんな時代のなかで私の気持ちは、米国農場実習行き再挑戦からアジア・ヨーロッパへの無銭旅行に変わっていた。
そのころA君もブラジル行きから、すっかり心が離れていて一緒に日本脱出をしようということになった。その計画がどうして学科教授の松崎雄二郎先生の知るところとなったのか、忘れてしまったが、先生から自宅に遊びにくるように誘われた。先生の家は西武池袋線の東大泉にあった。私とA君は昼過ぎ訪ねた。先生はお一人で暮らしておられた。ご家族は、どこかにいるとのことだった。先生は大学では中国語を教えられていた。私はインドネシア語を専攻していたので、先生の授業は受けたことはなかった。が、先生はこのころベトナム問題を専門にしておられたので、いつか話を聞きたいと思っていた。前々年、つまり六十六年に作家の開高健が『饒舌な思想』を刊行した。この書のなかで作家は『文藝春秋』に掲載された福田恆存の「アメリカを孤立させるな」というベトナム問題の論文について激しく批判していた。論戦の標的として、作家は福田氏が松崎先生のべトナム旅行の体験談を基盤にしているところを大いに問題にしていた。そのあたりを抜粋するとこうである。
「松崎氏がヴェトナム学のどんな経験ゆたかな大家であるかということについては何も書いてない。/氏が松崎氏の体験談についてはまるで幼稚園児のようにあどけない全肯定している」
と云った具合である。要は学者(松崎教授)が一日二日、歩き回って何がわかる。そんなものを根拠にした論文はナンセンスだと述べているのである。今でいえば、イラクにちょっと行って、さも事情通のように話すジャーナリストやアナリストがいる。松崎教授もそうだというらしい。むろん、私は先生がインドシナについてどれほど詳しいか知る由もない。が、先生は戦前ずっと大陸におられたというから、ベトナムにも行ったことがあるのかも知れない。故に開高健の俄か専門家の指摘は的外れだろうと思っていた。(この年、この作家は『輝ける闇』というベトナム滞在の体験小説のような本を出版しているが・・・)。論戦は、こうである。日本の知識人が「ベトコン」を和平交渉の当事者として認めろ。といっているのに対して、福田氏は、松崎教授の体験談をもとに、「それは事実認識の誤りだということにほかならない」と斬っているのである。先生の意見は、和平交渉するならベトコンより北ベトナム政府だという。現在の拉致問題に置き換えていえば、会議などいくらやっても無駄。金正日、本人とでなければ意味がない、ということか。(はっきりした答えがでるのは、いつも日朝首脳会談のときだけ、ということをみれば、頷ける)
この夜、遅くまで先生はベトナムの話をされた。当時、私は写真家岡村昭彦の『続ベトナム従軍記』を愛読していて、アメリカのアジア侵略に大いに憤慨していた。しかし、この頃の私は「読書と創作」とは無縁であった。不勉強と知識の無さ。それゆえに、この人気作家と人気翻訳家の論争は、正直言ってよくわからなかった。後になって思うと福田氏の論が大局的には正しかったのではないかとみる。その証拠にサイゴン陥落後、表舞台に立ったのは北の正規軍だった。伝え知るところによるとベトコンの勇者たちは、
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南北統一後、結局のところ地方に追いやられという。あの世界最強を誇る米特殊部隊グリーンベレーを恐れさせ、打ち破ったベトコンも政治的にはまったく無力であったわけである。南ベトナムの英雄だったベトコンの失墜。その後、「ボート・ピープル」の悲劇を生んだ要因の一端はそこにあるのでは、と私は思う。粗末な漁船に乗って祖国を逃げ出した人々。海賊と難破。助かった人々は幸運である。一説には百万もの人たちが海の藻屑となったという。
先生の話を聞いているとき、一人の訪問者があった。先生と同年輩の人だった。大学関係者にも会社勤めの人にも見えなかった。この人物を先生は
「むかし満州で馬賊をやってたんだ」と、紹介した。
 痩せた気弱そうな人で、そのときは、とてもそんな(満州の大地を騎馬で疾走していたような)ふうにみえなかった。が、あとになって想うと、気弱に見えた感じは、むしろ不気味な静けさだったような印象に思えた。
先生と友人はなつかしそうに満州時代の話をされていた。先生が満州でどんなお仕事をされていたのか、知る由もないが、二人の話は、まるでつい昨日の出来事のように生き生きとしていた。会話のなかで、いまでも鮮烈に覚えているのは先生が
「彼が頭にナイフが突き刺さったまま歩いてきたときは驚いたよ」
と、説明された、友人の武勇伝である。
友人は先生に指差され、白髪まじりの髪をかきわけそのときの頭の傷をみせてくれた。私たちは、ただ驚くばかりであった。すっかり夜も更けて終電近くなった。先生は不眠症というので、私とA君はおいとますることにした。たしか、その友人も一緒に出たように思う。が、すぐに夜の闇に消え去った。駅までの道のり、馬賊の話を聞きたかった私は残念に思ったものである。その後、ふたたび東大泉の先生宅を訪問することはなかった。先生とも、その夜が最後だった。(暫くして先生は、金沢大学に移られ、かの地で客死されたと聞く。いま、毎週月曜日、所沢校舎に行くためにこの駅を通りすぎる。気がつくたびにあの夜のことを思い出したりする。)
帰り際、先生はご自分の名刺を二枚とりだし
「もし、バンコックとプノンペンに行くようだったら訪ねてみなさい」
と、言われて紹介状がわりに名刺裏に走り書きしてくださった。
 バンコックがF・某という人物で、プノンペンは市立T経済大学の元学長でT・Sという人物だった。紹介文は「私の生徒です」といった簡単なものだった。
このときは、その名刺が、それほど重要なものとも、役に立つとものとも思えなかった。だが、結果的に、その名刺は、私たちの旅の目的を大きく変える重要なものとなった。日大闘争の火の手が、あちこちの学部であがっていた。大学の不正を糾弾する集会に参加するか。右翼に加担するか。それともノンポリでいるか。十万日大生に投げつけられた選択肢だった。しかし、このとき私の頭には、日本脱出の計画しかなかった。地下鉄東西線の「高田馬場」ホームで、偶然、早大のM君と会った。半年前まで皇居前にある毎日新聞社の地下で一緒にバイトをしていた友である。彼は早大の空手部だったので、柔道部にいた私とは、同じ体育会系ということで気があってよく話した。「これから集りがあるんだ、行かないか日大の連中もいるぜ」彼はなつかしそうに誘った。が、私の心は外国の旅に向いていた。「じゃあ、帰ったら」私たちは互いに手をあげて別れた。それがM君を見た最後となった。二年後、彼は狂った中年作家の犠牲になった。生きていたら元気で還暦を迎えていたに違いない。政治家になりたいと言っていたから、国会にいたかも。そう思うと悔しい限りである。
一九六八年、この年の夏の終り。九月の青い空の下。私とA君は横浜の通称メリケン波止場から旅立った。ドラが鳴り響くなか船はゆっくりと岸壁を離れた。テープが次々
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切れていくなか私の心は、はじめての外国の旅に躍っていた。六月に埴谷雄高や佐古純一郎らがデモ支持声明を発表したことも、どしゃぶりの雨のなか神田三崎町界隈で日大生のデモ隊と機動隊が激しくぶつかりあっていたことも、その現場でずぶぬれの雑誌記者柳田邦夫が「不滅の夏」を書きなぐっていたことも、デモに参加した友人たちが、江古田校舎に迫っていたことも、私は、知る由もなかった。日本中を巻き込んだ日大闘争は、はじまったばかりだった。が、私の頭には学校のことはなにもなかった。考えてもみなかった。
私は舳先に立って蒼穹の下にどこまでも広がる海原を眺めていた。乗船したのは一万三千トンのフランス定期貨客船「ラオス号」。懐には、終点マルセーユまでの往復船切符と、わずかばかりのお金。当時は十万円までが持ち出し可能だったが、私の所持金はその十分の一。船にいるあいだは三食昼寝つきだが、そのあとはどうするのか、考えてもみなかった。しかし、何の心配も不安もなかった。すでに四日が過ぎた。爽快な船旅。
まるで油を流したようなどろんとした南シナ海を船は、ひたすら西に向かっていた。イルカや海ヘビが並んで泳いでいた。甲板には、ヒッピーから自転車世界一周を目指す若者、写真家志望の青年、インド美術を学びに行く留学生、お茶の水女子大の「東アジア探検隊」の面々などなどいろんな国の若者がごちゃまぜになって寝転び思い思いに時を過ごしていた。私は、日本で柔道を学びスイスに帰るという青年と柔道をしたりして時間を過ごした。将棋が得意なA君はトッポジージョとあだ名したチェス好きのイスラエル人と終日、チェスで対戦していた。いま振りかえると、私の人生の中で今でも黄金石のように輝いているのは、あのときの船上での日々だったように思う。
船はマニラ、香港を経由してバンコックに帰港した。下船した私たちは、船上で知り合った気のあった他大学の学生や一人旅の外国人、フリーカメラマンら十数人でメナム川を観光した。そのあと、せっかく松崎先生から紹介の名刺をいただいているという思いもあって、一応、その人物に会うことにした。あとになって考えれば、はじめての外国の街で住所も知らぬ人を訪ねることなど無茶であった。が、そのときは若さもあって簡単に考えていた。運がよかったのか、その人物に会うのに、たいして手間はかからなかった。どこでどう連絡したか忘れてしまったが、その人の居場所はすぐにわかった。そして、早々に会えることになった。
 松崎先生から訪ねてみたらと紹介されていたF氏は、日大の学科OBで、いまはバンコックの日本人会の会長という肩書きをもつ五六十の人だった。私たちは、氏にレストランでカレーライスをご馳走になった。食事しながら氏はタイのことをいろいろ話された。覚えているのは、タイ人は経済発展させた日本人のことをすごいと思って揉み手はしているが、それは表面上で本心はエコノミックアニマルと軽蔑している。背広着て、長袖のワイシャツを着てネクタイと眼鏡して威張っている日本人を憎んでいるというのだ。氏の日本人批判は、思い当たるふしがあった。マニラで下船したときだった。同船の若者たち何人かと市内を見物しての帰り、あまりの暑さに夜だったこともあり、シャツを脱ぎ上半身裸になった。船では、同室のアメリカの若者たちは、室内にいるときは平気に全裸になっていたし、甲板でもショートパンツ一つで寝転んでいる。マニラ市内とはいえ、港のすぐ近くだったので、気にしなかった。
 ところが、タクシーの運ちゃんと屋台のおっちゃんたちがなにやら騒ぎだした。椰子の木の道路沿いにずらりと並んだ白衣を着た娼婦たちも拳骨をあげている。さっぱりわからなかった。仲間内で、けんかでもはじめたのだろうと思っていたらポン引きのあんちゃんたちまで、私たちを指差してわめきだした。呼びこみではなくあきらかに怒っているのだ。原因は私たちにあるらしかった。が、皆なんのことかわからず戸惑った。だが、すぐに言葉のわかる誰かが叫んだ。
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「まずい。畜生!とかバカにするな!とか言ってるぞ」
「はだか、まずいんだ」
「何言ってんだ、あの外人だって」
誰かが、同じように裸で歩いている白人を指差した。
が、私たちは、急いでシャツを着て船に逃げ帰った。この国の人にとって他の外国人はともかく、日本人が上半身裸で歩くのは我慢ならないようだ。それほど日本人は嫌われているということか。バンコックもそうらしい。
その日、F氏は用事があるというので別れた。目的がないのなら、なにか仕事を頼みたいようなことを言っていた。うまい話だったら、私とA君は、残って話しを聞くことにした。列車を乗り継げば、船にはシンガポールかボンベイあたりで乗船できるだろうと気楽に考え、二三日市内で過ごした。最初の夜は、木賃宿に泊まった。が、安心して眠れなかった。家族連れが多く、子供が泣いたり騒いだりとうるさい限りなのである。夜、遅くなってようやく静かになったと思いきや、こんどはドアをしょっちゅうノックされる。開けると中年の女性が立っている。地方から出稼ぎで春を売りにきているらしい。金はないと言ってもなかなか信用しない。次ぎの日は公園にした。(以前、テレビの番組「電波少年」を見て、あんなふうだったと思い出したものだ)
 再びF氏と会った。やはりレストランだったと思う。氏は、はじめのうち日本の大学紛争のことなど話題にしていたが、しばらくしてタイで働いてみないかと言った。「旅行などしていても仕方がない」というのだ。
「若い時は、仕事をしろ」
私もA君も頷くほかなかった。たしかにその通りである。タイで働くなら口をきいてもいいと言うので、一瞬その気になった。以前、週刊誌でエビを冷凍にして日本に送ったとかで大金持ちになった人の記事を読んだことがあった。A君も私もなにか大もうけができるのではないか、そんなセコイ考えを思い浮かべたのだ。
しかし、紹介してくれるその場所がタイの奥地で、仕事も密林の開墾らしいと聞いて夢はシャボン玉のようにかき消えた。私は、米国の農場実習をあきらめての旅。A君は南米移住をあきらめての旅である。なにもタイの奥地で開墾するぐらいならアメリカやブラジルに行った方がまし、と思うのも当然である。私たちは、互いに顔を見合わせ無言で頷いた。そして
「待ってるよ」
と送るF氏の声を背中にそそくさと外にでた。
むろん、戻るつもりはなかった。松崎先生には申し訳ないと思ったが、F氏とはその後、会うことはなかった。ただ「なんだいまどきの日大の学生は」と舌打ちされたに違いないと思うと、後ろめたかった。最初から断わればよかった、と悔やんだ。しかし、ずっとあとになって、こんなふうに思えた。日大OBのF氏は、多分、後輩の私たちのことを思って、開墾の話を持ち出したのかも。日大が大変な時期なのは新聞で知っているに違いない。「外国でふらふらしてないで、日本に戻れ」そういいたくて逃げだすのを承知で奥地の開墾話を持ち出したのかも。あれは脅しだったのかも・・・歳をとるにしたがって、この考えをより確信するようになった。だが、このときは、すっかり真に受けていたのでこれからは気をつけなければと思った。(しかし、このあとカンボジアに入ってからも私たちは、こりずに日大の水泳部だった先輩から儲け話に乗りかけた)
 ラオス号はすでに出航していた。私たちは船のことは、どうでもよくなっていた。せっかく下りたので、あちこち回りたくなったのだ。それでクワランプール行きの列車でシンガポールまで行き、そこからインドネシアに渡って空手の師範をしているY君のところに寄ることにした。が、駅に向かいかけて足をとめた。松崎先生からもう一人の人
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物、T・S氏を紹介されていたことを思いだしたのである。
「どうせなら、会って行こうか」
私とA君は、なぜか、義理堅くそうしなければならないと思った。
しかし、そのT・S氏がいるのはタイ隣国カンボジアの首都プノンペンだった。当時、カンボジアは独裁社会主義国で鎖国状態にあり旅行者が入るには空路しかなかった。私たちは、松崎先生との約束を果たすために無け無しの金をはたいてフランス機に搭乗した。わずか一時間足らずの空の旅。はじめての飛行機の旅だった。
懐は、ほとんど無一文に近かった。T・S氏を訪ねた後はどうするか。ラオスにでも行ってみようか・・・のほかは何もなかった。タイの空港を飛び立ったときは晴れ渡ってていたのに、気がつくと激しい雨が機体を打っていた。黒雲が空一面覆っていた。その中を飛行機は、着陸体勢に入った。地上がどんどん近づいてきた。しかし、空港らしきところはどこにもなかった。眼下には潅木の平地がひろがるばかりだった。
「一九六八年、アジアの旅」は、はじまったばかりだった。未知の国カンボジアで私たちを待つものは何か。T・S氏とはどんな人物か。にわかに私は心細くなった。同時にプノンペンとは、どんな都か、そんな興味もわいてきた。しかし、私のなかで街の印象は、いつか読んだマルローの『王道』からこんなものだった。
「その悪臭にクロードは、プノンペンで憐れな人々の集まりのまんなかに見かけた盲人のことを思い出した。盲人は原始的なギターの伴奏に合わせてラーマーヤナを吟唱していた。崩壊してゆくカンボジアが、もはやその英雄詩によって、まわりを囲む乞食や婢の心を動かすばかりの老人の姿にしのばれた。」
民主国家となった現在のプノンペンはどんな都か知らない。が、一九七十年前のプノンペンは、水と森に囲まれたそれは美しい都だった。
このあと私たちはどうなるのか。
後編は、2008年、読書と創作の旅の本通信で「我が青春のプノンペン」編として連載で話そうと思います。
                                  (続く)
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編集室便り
☆「2008年、読書と創作の旅」は、本通信からスタートします。
☆課題原稿、社会評、創作など歓迎します。学校で直接手渡すか、下記の郵便住所かメール先に送ってください。
「下原ゼミ通信」編集室宛
住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
☆本通信はHP「土壌館」に掲載されています。

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