文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信 No.98

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2008年(平成20年)4月21日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.98
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
2008前期4/14 4/21 4/28 5/12 5/19 5/26 6/2 6/9 6/16 6/23 
6/30 7/7 7/14 
  
2008年、読書と創作の旅
4・21下原ゼミ
4月21日(月)の下原ゼミ・ガイダンスは、下記の要領で行います。文ゼミ教室2
 1.自己紹介・ゼミ誌委員決め
 2.「2008年、読書と創作の旅」への旅立ちに際して
      
 3.テキスト読みOr名作読み
  4.今日の話題について(「新聞の人生相談」から)
     
 
最近のニュースから
 春という季節に関係するか、どうかは知らないが、このところ奇怪な事件が相次いでいる。何の理由も動機もないのに他人を殺傷する。せつかく咲いて道行く人を和ませるチューリップの花を切り落とす。科学の粋を集めたイージス艦の衝突。「何が目的か分からない」被爆すると死亡する恐れもある危険物質イリジウムの盗難。映画「靖国」の上映中止などなど。「なぜ」「どうして」どれもが疑問を抱く事件・出来事ばかりである。すべてが謎に満ちている。そのなかで今月6日に起きた事件に注目してみた。この日、正午頃、山梨県警に110番通報があった。受話器の向こうからは、荒い息づかいだけですぐに切れた。警察側からかけなおすと十数分後に応答があった。女性の声で姓名を名乗り「どこにいるかわからない」と言って途切れた。県警は、その後もかけつづけたがつながらなかったことからイタズラではないかと思ったという。が、電話の主は、東京の女性(19)で、110番の前後、母親や友人に「殺される、助けて」「覚せい剤を打たれた」などと訴えていた。女性は、その直後から行方不明となった。その後の捜索で手提げかばん、ショルダーバック、ブーツは発見されているが、携帯や衣服、本人は依然として見つかっていない。この事件の全容が明らかになったのは、11日、車のナンバーから男(26)が監禁容疑で逮捕されたことからだった。事件の推移は、およそこのようだ。行方不明の女性は4日、友人宅に泊まった後の5日夕、「初めて会う男の人と亀戸駅で待ち合わせている」と言って駅に向かった。そして、6日正午の110番となる。事件は、おそらく出会い系サイトによって起き、県警の判断ミスで困難にしたとみられる。被害者の行方不明をのぞけば犯人の動機もはっきりしている。が、唯一謎といえば。なぜ彼女は、知らない人間に会いに行ったのか、である。若い女性の好奇心、遊び感覚と分析できるが、もっと他の依存性のものを想像できる。そして、昨今の不幸な事件は、ほとんどがそれによって起こされている、と思うわけである。(編集室)


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.98 ―――――――― 2 ――――――――――――――
車窓雑記
読書のススメ
 先週のゼミで、読書の必要性として嘉納治五郎(1860-1938)の青年修養訓「精読と多読」を朗読してもらいました。この中で治五郎は、人が人間として成長するには、読書する時間がある学生時代により多くの本を、それも質の良い本をたくさん、より丁寧に読まねばならない、と説いています。では、質のよい本とは、どんな本なのか。書店には、国民文学、ベストセラー、話題本。何々賞受賞作が溢れています。それらも悪いとはいいません。が、文学の本質を学ぶため、知るためというと疑問です。ここで「読んでください」と薦めることができるのは、話題の本よりそうした本を書いた作家たちが愛読した本です。
 たとえば昔、梶山季之(1930-1975)という流行作家がいました。週刊誌記者あがりの作家で『黒の試走車』『赤いダイヤ』などサスペンス風産業スパイものを書いて一世を風靡した流行作家でした。出身が広島ということで、そのころまるで弱かったプロ野球・広島球団のファンで、広島がたまに勝つと、カープの選手全員を連れて銀座のバーに繰り出したというから、どれほどの売れつ子作家だったかわかるというものです。この作家、香港に旅行中に客死しましたが、後で未完の遺稿が、見つかりました。この流行作家が最後に書きかけていたのは、隣りの山口県の作家・嘉村磯多(1897-1933)についての論文でした。嘉村磯多といっても、いまでは知る人は少ないと思います。最後の純文学作家といわれる葛西善蔵の口述筆記するうちに葛西の弟子になった作家で、37歳で早世しました。流行作家の梶山と比べれば、世俗的には雲泥の差です。小説は、ほとんど売れず赤貧のなかで死んだといいます。では、なぜ、流行作家の梶山は、この無名の作家のことなど書こうとしたのか。
 ここで読書のススメになります。もうわかると思いますが、ベストセラーや話題の作品は、時代の表層に過ぎません。上記の例なら、梶山より、嘉村の作品を読んだ方が、嘉村を読めば、さらにこの作家が敬服していた作家・葛西善蔵を。そして、その葛西を読めば、葛西が、尊敬していた志賀直哉やドストエフスキーが、ということになります。このように読書のススメは、表層から、奥に奥にとススメがつづいているのです。せっかく文芸学科に入ったからには、表層の花だけ見るのでは損です。ススメの道を分け入ってみましょう。
或る一日を記憶する(書くことの習慣化を目指す)
読書会
4月12日 日曜日 晴れ ドストエーフスキイ全作品を読む「読書会」開催日
 この日、今年2回目の読書会。早めに昼食をとり午後1時に池袋西口の東京芸術劇場に着く。開場は1時半だが、東京新聞が取材にくるというので早めに会場の第7会議室を開けて待つ。目下、巷では亀山氏(東京外語大)の新訳でドストエフスキーブームがつづいている。今日の取材はその流れかと思った。が、やってきたY記者の話から、ドストエフスキーとはまったく関係ないことがわかった。記者自身、ドストエフスキーとは無縁のようだった。「読書会が流行っているんです」Y記者は、失笑気味に言った。それで首都圏各地で開かれている読書会を取材しているとのこと。なんでもアメリカで「ジェイン・オースティンの読書会」という映画が評判。Y記者が言うにはテレビの「デスパレートの妻たち」が火付けになったという。約3時間の読書会を取材した記者は、予想とは違ったようだ。「こんなに真面目にやってるなんて知りませんでした」と首をかしげながら、まだ納得がいかないのか養老の瀧で開いた二次会に出席した。「記事になるときは連絡します」そういって池袋の雑踏に消えた記者の背中が妙に心細げだった。その後、わかったことだが、12日からロードショーの映画『読書会』は、内容は出会い系サイトかコンパのような話らしい。オースティンが聞いたら卒倒するに違いない。ちなみに、オースティンの『高慢と偏見』は、世界文学不朽の名作、必読書である。
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2008年、読書と創作の旅
4・21ゼミ
 本日までの、下原ゼミ受講希望は、7名です。まだ追加入もあるかも知れませんが、今日から授業をはじめたいと思います。
 授業は、以下の予定で進めていきます。
Ⅰ「2008年、読書と創作の旅」の前に
1.はじめに  → ゼミ担任の話(本日のテキスト配布・課題原稿・課題原稿集めについ
          てなど)
ゼミ開始
2.司会進行決め  →  毎回、順番にやってもらいます。ゼミ担任が指名します。
3.自己紹介(出身、自分の長所・短所、趣味、特技、将来の希望など)一年間、一つとこ
 ろで無事に仲良く協力しながら旅するには、まず、相手のことを知り、自分のことも知っ
 てもらうことが大切です。
 「己の欲せざる所は人に施すなかれ」論語
(自分の好まぬことは、他の人にとっても同様であるから、いやなことは他人にさせてはいけない。)この精神をもって、この一年楽しく、有意義に過ごしましょう!
4.ゼミ誌編集委員を2名決めてください。自選、他薦どちらでも。
 (本日でなくても4月~5月中に必ず選出してください)
ゼミ雑誌発行は12月15日厳守です。
遅れると問題が発生します。必ず守ってください。ゼミ誌作成計画は以下の要領です。
1. 6月上旬 → ゼミ雑誌作成ガイダンス。編集委員は必ず出席してください。
        ○ゼミ誌作成説明  ○申請書類を受け取ります。
2. 6月中旬 → ①「ゼミ誌発行申請書」の提出。出版編集室に
3. 6月~  → 全員でゼミ雑誌の装丁を話し合う。題名・内容・サイズ・印刷会社など
        ※印刷会社は、過去に依頼した会社は文芸学科スタッフに問い合わす。初
        めてのところは必ずスタッフに相談する。(なるべく初めてのところでな
        い方がよい。以前、苦労したことがある。会社も慣れないので大変)
4. 7月下旬 → 原稿依頼し、締め切り日を決める。だいたい夏休み明けがよい。
ゼミ誌原稿締め切り厳守
5. 9月末  → 編集委員にゼミ誌原稿を提出。
6. 10月上旬 → 編集委員は、内定の印刷会社から②「見積書」をもらう。
7. ~11月 → 「見積書」の提出。印刷会社と相談しながらゼミ雑誌作成。
8. 12月 → 15日までにゼミ誌提出、③「請求書」提出
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Ⅱ「2008年、読書と創作の旅」に際して
5.「2008年、読書と創作の旅」旅立を記念として、二つの、まったく違った旅
 立ちの作品を読んでみます。             
 
文学の奥義を極める旅 (不朽の名作を生んだ旅の旅立ち)
○ 紀行文の不朽の名作『おくのほそ道』の「発端・旅立ち」までを読みます。この旅は文学の奥義を極めるための旅であるが、一応、計画的な旅。
 ※『おくのほそ道』は、松尾芭蕉(1644-1694)が元禄2年(1689)芭蕉46歳の春から秋にかけて奥羽・北陸地方を旅程150日かけての旅の記。紀行の本文は、3月27日江戸を出立し、9月6日美濃の大垣より舟に乗って伊勢の遷宮を拝みにでるところで終わっている。
まったく未知で不安の旅 だが生きている (世界的、文豪を誕生させた旅)
○ ドストエフスキーが1849年12月22日付けで兄ミハイルに出した手紙の読み。
 ※1849年4月23日ドストエフスキー(28歳)は、国家反逆の廉で逮捕される。判決は
死刑。12月22日の朝、刑場に連れ出された。大勢の見物客。が、一転シベリア送りに。酷寒の地で極悪人たちとの獄舎生活。はたして、作家は、生きて再びペテルブルグに帰ることができるのか。死刑にならなかった喜び、シベリアのへ不安、さまざまな気持が交差し、揺れる心があらわれている。だが、そこには希望もある。
Ⅲテキスト・名作読み
テキスト読みとして、志賀直哉の一番最初の作品『菜の花と小娘』を読む。
感想、5分でまとめる。名作読みもある。
テキスト一覧・車中観察作品=『網走まで』『正義派』『出来事』~『灰色の月』まで
       動物観察作品=『城の崎にて』『犬』~『ガマとやまかがし』
Ⅳ新聞を読む「人生相談」から
 友人からの恋愛相談。自分はどうアドバイスするか。
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4・14ゼミ報告
 4月14日のゼミは、見学者多数だった。(十数人か)。ゼミ見学をはじめたばかりの人、他のゼミをいくつか回ってきた人。さまざまなようだったが、まだ、はっきり決めた人は少ないようだった。授業説明として、以下の内容を話した。
このゼミの目的は、「書くこと」、「読むこと」の習慣化・日常化を目指す。
補足として「書くこと」は、車内、生き物観察・一日を記憶する・感想・コラム
・車内観察 = 毎日利用する電車内の観察・出来事・乗客評
・一日を記憶する = 毎日の生活の中からの断面。
・感想 = テキスト、名作の感想。
・コラム = 社会の出来事に対する評。本通信「車窓雑記」に載せる。
※ 提出は、毎週のゼミはじめ。
補足として「読むこと」は、志賀直哉の車中作品・動物作品&世界名作
テキスト車中作品について
  
 下原ゼミでは、テキストに志賀直哉の車中作品をとりあげている。なぜ車中作品か。(毎年、ガイダンスで説明しているが)、志賀直哉の車中作品には、創作の基本があるからである。創作の基本とは、観察力である。事実を的確に精緻する目と、想像する目。この二つの目がしっかりしているから志賀文学は、不偏である。よく志賀直哉の作品は、私事や家庭の葛藤のみで社会を描いていないと言われる。が、それは誤りである。この作家の視点は、常に「私」から「家族」「社会」、そして「全人類」を見つめている。世界の大文豪ドストエフスキーは、神や人類の問題を描いたが、その視線は常に人間個人の心の中を照射し、突き抜け魂の裏側に届いている。逆もまた真なりで、そこに志賀直哉の真髄がある。
 志賀直哉は、「小説の神様」と呼ばれている。それは何故か。それを知るには、まず車中作品を読み解くこと。それが解決への糸口と思っている。同時に、志賀文学を理解することだと信じている。
志賀直哉(1883-1973)の主な車中作品&車中関連作品の紹介
(編集室にて現代漢字に変更)
□『網走まで』1910年(明治43年)4月『白樺』創刊号に発表。27歳。
□『正義派』1912年(大正1年・明治45年)9月『白樺』第2巻9号に発表。29歳。
□『出来事』1913年(大正2年)9月『白樺』第4巻9号に発表。30歳。
○犯罪心理観察作品として『児を盗む話』1914年(大正3年)4月『白樺』第5巻4
 号にて発表。31歳。
○電車関連作品として『城の崎にて』1917年(大正6年)5月『白樺』第8巻第5号。
 34歳。
□『鳥取』1929年(昭和4年)1月『改造』第11巻第1号。46歳。
□『灰色の月』1946年(昭和21年)1月『世界』創刊号。64歳。
□『夫婦』1955年(昭和30年)7月1日「朝日新聞」学芸欄。72歳。
車中作品の名作は『灰色の月』 生き物観察作品の名作は『城の崎にて』
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推薦図書  必読書です
 その若者は学校を卒業すると、1年半ほど勤めた。が、結局、彼のいうところの「もう
これ以上勤務することが出来なかった」と、辞表を出した。理由は、「一身上の都合」だった。が、本当は、小説を書く為、それを職業にしたい、であった。◆この時代、この国では、文学だけで生活する職業作家は、まだいなかった。学生時代、バルザックやシェクスピアーに夢中だった若者は、夢の実現に向かって歩き出した。◆若者は、ペテルブルグのヴラヂーミルスキー大通り11番にある下宿屋に同じ志しを抱く友人と一緒に住んだ。◆作家志望の若者、彼が「寝起きし、仕事をし、居間にもしていた狭い部屋には、机と、寝台代わりの長椅子と数脚の椅子があった。机の上にも椅子の上にも、床にも、本と、文字をいっぱいに書き込んだ紙があった」工兵団製図局をやめたとき「ぼくはこれから猛烈に働きます」と若者は宣言した。そして、その言を実践した。◆若者は、一日中、夜も昼も机に向かって、せっせと小説を書いていた。が、友人に、作品のことは、何も話さなかった。小説は遅々としてすすまなかった。彼は、兄に手紙を書いた。「こいつが今度ぼくに大変な労働を課してきたのです。いっそのこと、こんなものを書き始めなかったのに」と。◆それは五月のある爽やかな朝だった。若者は、友人を自分の部屋に呼んだ。そして、言った。「昨日清書を終えたばかりなんだ。読むから聞いてもらいたいんだ」と。友人は、はじめ眠そうな顔をしていた。が、すぐに真剣な表情で聞き始めた。友人は、その作品に感動した。◆「雑誌『現代人』を出版している詩人を紹介するよ」友人は、言った。1845年5月のある午後、若者は、原稿を持って行き、詩人であり出版人でもあるN・A・ネクラーソフに会った。相手はロシアの民主主義的傾向を代表する詩人。若者は、きまり悪そうに渡した。握手しただけで、ほとんどひとことも口をきかずに別れた。はたして読んでくれるだろうか・・・・若者は心配しながら帰った。◆白夜の街を若者が帰ってきた。彼は部屋に入ると、ベツトに入るとすぐに寝た。と、突然にベルが鳴った。若者はびっくりして飛び起きた。午前四時。こんな時間に誰だろう。部屋に入ってきたのは二人の人間だった。友人と詩人のネクラーソフ。ネクラーソフがなぜ?若者が考えるまもなく二人は叫んだ。「寝てる場合じゃない!!」◆彼らは、前の晩、若者の原稿を試しに読みあった。手紙小説――どうせ、退屈な話だろう。詩人は思った・・・10頁読んだ・・・なんだろうこれは・・・あと10頁・・・あと・・・もはややめられなかった。彼らは朝まで一晩中声をだして読みあった。そうして読み終わると言った。「これから直ぐにドストエフスキイのところへ行こう!!」
◆10頁、読んだらやめられない、その足で作者のところに駆けつけたくなる小説、そんな小説がこの世にあるのだろうか。そんな疑問から6月のある日、『貧しき人々』を読んだ。
 本当にやめられなかった。これまで読んだどの冒険小説より面白かった。この日からドストエフスキーへの旅がはじまった。35年前のことである。
 ということで、今ゼミ推薦図書の第一号は、ロシアの文豪ドストエフスキーの処女作
『貧しき人々』を紹介します。
併せて、このドストエフスキーを愛読していた北條民雄の作品
『いのちの初夜』を紹介します。
 ある意味では、全日本文学のなかで、この作品に勝る作品はない!!
「こんな小説を書かれたのでは、私たちはどうしたらいいのかわからない」遠藤周作
「一読して決して忘れる事ができず/技術の巧拙など問うところではない」福永武彦
(北條民雄 昭和12年12月5日逝去24歳)
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2008年、読書と創作の旅
担任自己紹介の代わりに学生時代の旅を紹介します。前号のつづきです。
一九六八年、アジアの旅②
     
                                 下原 敏彦
 いまだ解決されていないが、日本では、5年前の日朝首脳会議から拉致事件が大きな問題となっている。「行方不明の留学生が北朝鮮にいた」このニュースをはじめて聞いたとき、背筋が寒くなる思いがした。と、いうのも海外渡航でパスポートをとりに行ったとき、係官からしつこいほどに注意されたのは、パレスチナの難民キャンプに行かないこと。それにヨーロッパ、とくにスペインやイタリアあたりでむやみに書類にサインしないこと。この二点だった。難民キャンプを見た若者は同情して赤軍派に入ってしまう。また、ヨーロッパでアルバイトと言われてうっかりサインしてしまう。が、それは外人部隊の勧誘で、いったん契約すると破棄することができないしろものだという。月二万円という薄給で二年間も砂漠の中で酷使されるらしい。ご丁寧にサハラ砂漠の駐屯地で月を見ながら泣いている二人の日本人青年の新聞記事を見させられた。(ちなみに、この頃の平和部隊、つまり海外技術協力隊の給料がたしか五万円といっていたから、場合によっては命まで張るのに外人部隊は極端に安いといえる)。しかし、その他の国については、あまりうるさくなかった。このころ誰も北朝鮮に行くなとは言わなかった。1960年からはじまった帰還事業によって、人権と自由のない国とわかりはじめていたにもかかわらず、である。いま振りかえって思えば、政治家もマスコミ、知識人も、こぞって「北朝鮮はすばらしい国」と、言っていたような気がする。
現に、実習か授業でサボった南の友人が担当教師から「いま北の人たちは、一生懸命に国づくりをやっているのに(きみはなんだね)」と説教されているのを見たことがある。アメリカがたいした理由もなく毎日ハノイに爆弾を落としていた。南の村では平然と虐殺を繰り返していた。おそらくそんなこともあってマスメディアは金日成英雄伝説を支持したのかも知れない。今、アメリカのイラク攻撃で世界は揺れている。そのせいか昨年まで韓国では金正日支持の若者が多かったという。なんとなくあの頃の状況と似ているような気がする。
いま拉致事件に戦慄するのは、もし、あのとき旅の途中で「平壌に行ってみませんか」と声をかけられたら自分も十中八九ついて行ったかも知れない、いや、確実について行った。そう思うからである。当時、拓植では「海外事情」という授業があったにもかかわらず、実際の、現実の世界情勢は何一つ教えてくれなった。それほどに東西冷戦は、厳しかったのかも知れない。北朝鮮はベールに包まれた夢の国だった。笑えぬ冗談である・・・。
1968年・プノンペン
カンボジアの名前が日本でよく知られるようになったのは、ポル・ポト政府による国民の大量虐殺と1993年春にUNTAC(国連カンボジア暫定行政機構)のもとに行われた総選挙のときである。自衛隊、国連ボランティア、文民警察官など大勢の日本人が行った。二人の日本人青年も死んで、毎日のようにテレビのレポーターが取材し、茶の間に流れていた。その後、めったにこの国のニュースは聞かない。フランスの植民地、独裁、軍事政権、恐怖政
治、そしてまだ問題はあるが一応選挙による民主政治。ニュースのないのはよい証拠。なんとか落ちついたようだ。同級生の中には、この国の観光事業を手がけている人もいる。
1968年、その頃のカンボジアはどんな国だったか。私もA君もあまり知らなかった。カボチャの語源の国、アンコールワットという遺跡がある国、シアヌーク殿下と呼ばれる王様が独裁専制政治を行っている国。一般知識として、それぐらいだった。
バンコックからわずか一時間足らずの旅。降り立った空港(といえるものかどうか)は、管制塔らしき小さな建物が一つあるだけの赤茶けた土のグランドだった。バンコックとはえらい違いに驚いた。あとでそこはポーチェントムという所と知ったが、そのときはてっきり首
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都プノンペンと思っていたので戸惑った。なにしろ周囲は潅木の原野、空港もどきのグランドの他は何もないのである。制服を着た人に聞いてみたが日本語はむろん英語も通じなかった。なんとかプノンペンのことを聞く。バスを教えてもらった。
バスは、かなり古びていて屋根にカゴやら袋やら荷物を山のように積み上げていた。満員だった。日本語がめずらしいとみえて、なにやら話しかけてくるのだが、さっぱりで笑顔で答えるしかなかった。少々心配になった。無け無しの金をはたいて来たが、松崎先生から紹介された人物。バンコックのときは容易だったが、ここで探すのは難しいかもしれない。それに会ったとして、どうするというのだ。別に用事も目的も相談事もあるわけではない。たんに旅の途中である。そもそも来る必要があったのか。たとえ会えたとしてもバンコックのときのように開拓でもすすめられたら・・・前途を予見するような突然の黒雲、ものすごい稲妻と激しい豪雨。悔いと不安が入り混じったプノンペン入りであった。
 1968年のプノンペンは写真や映画で見たパリの街角を彷彿させる美しい清楚な都だった。街に着いた時は、さきほどの豪雨がうそのように晴れて空一面の青空だった。後で知ったが、ちょうど雨季の終わりだった。白雨に洗われた街は、すがすがしく感じた。広い道路には花壇がありブーゲンビリアをはじめ色とりどりの花が咲き乱れていた。太い街路樹が涼しげに葉々を繁らせていた。象使いが、のんびりと象を歩かせていた。バスはバサール(市場)が終点だった。昼近くだったが、賑やかで活気があった。道路を50CCのオートバイが何台もうるさく走りまわっていた。
 バスを降りた私とA君は市場の雑踏のなかで途方に暮れた。松崎先生から紹介されたT・S氏には、どうしたら会えるのか。住所も電話も知らない。日本大使館はあるだろうか。タクシー代わりに走っているシクロの運ちゃんに聞くと、よく知っているというそぶり「ジャポン バンハイ、バンハイ」と笑って繰り返す。案内するとすすめるが、この国の通貨リエルの価格がわからないので歩いて探すことにした。どのようにして探したか、今は記憶が定かではない。大使館に入ったときのことは、よく覚えている。黒い背広に蝶ネクタイをした小柄な中年の男が出てきた。彼は、にこりともせず私たちを頭のてっぺんから足のつま先まで眺めまわした。下駄ばきなのが、気にさわったのか顔をしかめた。(後で知ったが、彼は大使館で執事のような仕事をしている台湾の人だった)
「何しにきたんですか」と、彼はきいた。あきらかに怪しんでいる態度だつた。
「T・Sという人に会いたいんですけど。住所教えてください」
私たちの答えと質問は、彼をひどく慌てさせた。急に揉み手となって
「ご親戚かなにかですか・・・」と、丁寧になった。
「いえ、関係ありません。紹介されたので、ただ挨拶にきたのです」
「じゃあ、センセイはまったくご存知ないんですね。なにもご存知ないんですね」
彼は念を押した。センセイは、元大学の学長だから、そう呼ばれているのかと思った。
「はい」
「でも挨拶といっても、何か用事が・・・」
「なにもありません。ほんとうに、ただ寄っただけです」
私たちは、正直に言った。
 すると彼は、ますます慌てて「突然、来ても困る」
とかなんとかぶつぶつつぶやいていた。
「地図、描いてもらえれば、訪ねていきますから」
A君が急かすと、あたふたした様子で
「電話で連絡してみますから」
と、そくさくと奥に消えた。が、すぐに出てきて
「行きましょう」と言った。
彼も一緒に行くというのだ。
 なんと大使館の車でT氏の自宅まで送ってくれるという。
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うまい話すぎて騙されている気分だった。もしかして、このまま、空港まで行って追い払われたりして。そんな疑いさえ抱いた。この時代、ヒッピーが世界各地に出没して顰蹙を買っていたが、同じように無銭旅行する「ほうぼう」と呼ばれる日本の若者も現地大使館では嫌
われていた。いまや経済大国となろうとしている日本。その国の若者が放浪者のように、あっちこっちを徘徊するのは、みっともないというのだ。優雅な今の、若者たちの海外旅行とは、まったく違うものだった。車中、コマエ某氏(大使館の執事)は、なんとかして、私たちの目的を聞き出そうと、あれこれ聞いたりすすめたりした。T氏を訪ねるのは、何か魂胆があると睨んでいるのだ。車中、
「アンコールワットはすばらしいですよ」「カンボジアからどこに」矢継ぎ早に言葉やら質問を浴びせてきた。そして、しまいには「学生さんなら、日本に帰って授業に出なさいよ。学校はじまってるでしょ」といらぬ節介まで焼く始末だった。想像するに、松崎先生から紹介されたT・Sという人は、彼にとってかなり偉い人で、できるなら会わせたくないようだ。
 尋ね人のT・S氏の住まいは、プノンペン中央駅近くの高層建築が並ぶ、高級住宅街にあった。政府の外国要人の宿舎で5、6階のどっしりした白いビルだった。
「ここですが、先に私がちょっと」コマエ氏は、あたふた階段を上っていった。
「なんだ、あいつは」短気なA君は、腹を立て始めた。「なにか面倒だな、このままラオスの方に行くか」そんなことも言い始めた。
私は、周囲をながめた。隣りに議事堂があって、警護の兵士が銃を枕に昼寝していた。大通りの向こうに鉄道が走っていて、その向こうは、ただただひろい沼地が広がっていた。一ヶ月前、東大泉にある松崎先生のお宅をたずねなかったら、ここにいないのだ。今頃は、まだラオス号の船上。そう思うとここに立っているのが不思議に思えた。
 すぐに私たちは三階にあるT氏の部屋に呼ばれた。そのときの様子は、いまでもはっきり覚えている。広い居間の中央に、T氏は網椅子に座っていた。肌着のうえから太鼓腹をバスタオルで巻いていた。顔が異常に大きかった。すっかり禿げあがった大きな額。丸い眼鏡の奥の細い眼。短躯であるが、精悍に見えた。全体的な印象は、まるで白ダルマが座っているような、そんな雰囲気というか光景だった。
 氏は、葉巻をくねらせながら松崎先生の名刺をながめていた。が、不意に頷いて
「うん、思い出したぞ」と声をあげた。「東京で開かれたベトナム問題のシンポジュウムで椅子が隣りだった」
 そのことは、松崎先生からお聞きしていたが、それ以後お付き合いがあったと思っていた。が、そうではないようだ。それほど深い知り合いでないことがわかって、私は冷や汗がでてきた。バンコックの藤島氏は、拓友会にいたというから、大先輩ということで少しは繋がりがある。が、T氏は、日大とも拓植ともまったく関係のない人物である。
 幸いのことに、田中氏は、それ以後、松崎先生のことには、まったく触れなかった。どんな質問をされたか、忘れてしまったが、私たちの旅が、まったくあてもないと知ると、愉快がって
「あきれた連中だ」と豪快に笑うばかりだった。
そのとき、どこにいたのか二人の中年の日本人の女性が椅子を運んできたので、私たちは腰をおろした。驚いたのは大使館のコマエ氏だった。
「センセイ、彼らは・・・」と聞きかけたが、T氏が「いいよ。ありがとう」と言うと、何度も頭を下げながらそくさくと帰っていった。
「昼飯は食ったか」T氏は、唐突に聞いた。私たちが空腹とわかると「おい、飯食わしてやれ」怒鳴って奥に消えた。あとは昼寝してからだ。そんなふうに言われた。
 私とA君は、昼飯をご馳走してくれると聞いて感激。頭には昼飯意外なにもなかった。こうしてプノンペンでの生活がはじまった。
次回へ
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.98―――――――10 ―――――――――――――――――
写真集を読む 岩波写真文庫143(1955)『一年生』&28会編集『五十歳になった』
『一年生』&『五十歳になった一年生』を読む
NHKアーカイブス「教え子たちの歳月」①
 2004年1月23日(金)霞ヶ関にある日本プレスセンターで、前年暮れに不慮の死を遂げた一人のテレビカメラマンの偲ぶ会が開かれた。広い会場の壁いっぱいに飾られた写真パネルの数々が故人の仕事の多様さを示していた。会場に駆けつけたひとたちもマスメディア関係者から被写体になった人たちまで様々だった。そのなかに私たち28会の顔もあった。28会とは、昭和28年に長野県のある山村の小学校に入学した人たちの集まりである。 
 偲ぶ会発起人の一人で、テレビ時代からの仲間・田原総一郎氏は、突然に友人を失ったショックと悲しみからまだ立ち直っていなかった。挨拶は、「大きな大きな戦友を失って、大きな穴があきっぱなしです」と、言葉少なかった。故人の名は宮内一徳(享年68歳)フリー映像プロダクション社長兼カメラマンだった。私たち28会の面々が、なぜ宮内の偲ぶ会に参加しているのか。すべては7年前の4月のあの日からはじまった。
その日、宮内は神田神保町にある会社で終日、ある写真集をながめていた。写真集は、さきごろ毎日出版文化賞を受賞した熊谷元一というアマチュア写真家の作品『一年生』であった。1955年に岩波写真文庫として出版されたものだった。宮内は、もう何度も頁を繰っていた。見終わるごとに、腕を組みため息をついて天井を仰いだ。そうしてしばらくぼう然としていた。が、またふたたび写真集を開いて見はじめた。
岩波写真文庫の『一年生』は、宮内に強い衝撃を与えた。それはドキュメンタリーカメラマンを志したものにしか分からないショックだった。どうして、これまで目にしなかったのか、知らなかったのか。40年間も・・・宮内は、そのことを恥じ悔やんだ。先日、新聞で毎日文化賞の記事を読むまで、宮内はこの写真集の存在も、撮ったカメラマンのことも、まったく知らなかったのである。
宮内が、強いショックを受けたのも無理からぬことだった。『一年生』は1955年第1回毎日写真賞で土門拳、木村伊兵衛、林忠彦といった名だたる写真家の作品を押さえて受賞した、その筋においては評判の作品であったのだ。それなのに、まったく知らなかった。写真とは、畑違いの映像カメラマンであるとはいえ、面目なかった。その負い目も手伝ったのか、宮内は、たちまちに『一年生』に魅せられた。そうして、この写真集を、なんとか映像にしたい。そんな思いにとり憑かれていった。が、仲間たちの反応は、冷やかだった。
「40年以上も前の、田舎の小学一年生に、どんな価値があるのか」
「学校にも村にも歴史的出来事があったわけでもない。その中から立志伝的人物が出たわけでもない。写真は普遍でも、映像にするには、話題も材料もなさ過ぎる」平凡すぎる。
 しかし、宮内はあきらめなかった。写真の野原に集った子供たちの笑顔を忘れることができなかった。あの瞬間から、43年以上が過ぎた。あの一年生は、どこにいったのか。高度成長期の時代の中で、どんな人生を過ごしたのか。その軌跡を追ってみたい。34、35頁に写されている大勢の一年生に焦点を当て、あそこから皆それぞれに旅立って43年の時空を旅する。そんな映像が宮内の頭の中に次々浮かんでいた。彼はその物語を、もはや捨て去ることはできなかった。まず、あの写真を撮った現場に行かなければ、そうして是非あの写真の一年生に会わなければ・・・・・。彼らは、今は50歳になっているはず。
 はやる気持ちを押さえて写真の村の村役場に電話した。善は急げ。宮内が耳にしたのは、思ってもみなかった幸運だった。もしかしたら、既にいないかも、そう思っていた撮影者が、いまも健在だった。そうして、折りよく、50歳になった教え子たちを写真に収めようと行脚の旅に出ようとしていた。88才の老体を押して。思いは必ず叶う。宮内は、まだ見ぬ一年生を思い浮かべながら美味い酒を呑んだ。撮影開始、三ヶ月前のことである。
          
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土壌館情報
速報!第24回千葉県少年柔道大会
兼第28回全国予選
 3月23日(日)船橋市武道センターで行われた第24回千葉県少年柔道大会団体戦における土壌館下原道場の試合結果は、以下の通りでした。選手の皆さんは大将が欠場でしたが頑張りました、応援の保護者の皆様にはご苦労様でした。
2回戦では2勝1分け
         大将戦決めとなりましたが、大将不戦敗で惜敗。
一回戦
土壌館下原道場(0勝+1不戦敗)×(4勝+1不戦勝)浦安・柔道協会
二回戦
土壌館下原道場(2勝+1分+1不戦敗)×(1勝+1不戦勝+2敗)隆道館橘道場
先鋒 : 辻元翔太選手 ◎  ―  × 長沼 昴選手
次鋒 : 三好弘将選手 △  ―  △ 飯島健太郎選手
中堅 : 青栁尚慈選手 ×  ―  ○ 尾添幸平選手
副将 : 小柏駿太選手 ○  ―  × 飯塚将光選手
大将 : 柳下 誠選手 欠  ―  ○ 根本拓哉選手
※ 三好・青柳選手は練習量の少ないなかよく頑張りました。辻元・小柏選手は日頃の成果が出せた試合でした。
三回戦
土壌館下原道場(0勝+1不戦敗)×(4勝+1不戦勝)明倫館杉崎道場
優勝は、三回戦対戦相手の、明倫館杉崎道場でした。
準優勝は、千葉の紅柔道少年団でした。
講評 全国大会予選ということで、強豪ぞろいの大会でした。が、一生懸命に練習していれば一試合でも勝てる。不可能ではない。それがわかったと思います。試合前後の礼は、よかったです。来月からは新学期です。稽古は、自分のためです。言われる前にすすんでやりましょう。上級生は、自覚をもってまとめていってください。
2008年度柔道大会予定
○6月初旬 春季市民柔道大会 → 武道センター 個人戦
○9月初旬 千葉県少年柔道大会 → 県武道館 個人・団体戦
○10月初旬 千葉県柔道道場大会 → 武道センター 選抜個人戦
○11月初旬 秋季市民柔道大会 → 武道センター 個人戦
○2009年3月末 千葉県少年大会 → 武道センター 団体戦
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.98―――――――12 ―――――――――――――――――
土壌館日誌(或る一日を記憶する)
 
土壌館劇場・紙芝居公演 協力・下原ゼミ 口演・07年下原ゼミT・K
4月 6日 日曜日 晴れ 「6年生を送る会」にて
 自宅前の駅通りの桜並木満開、早くも散り始める。朝8時30分に道場に行く。テーブルを出すなど「6年生を送る会」の準備。子供たち弁当を持って集まる。9時から稽古。10時07年ゼミ学生だったT君から電話。駅に着いたとのこと。T君には紙芝居公演の口演を依頼してあった。ゼミの紙芝居稽古で鍛えている。航空自衛隊教官のT師範に任せ迎えに。11時30分から『少年王者』開演。子供たちの親、友人夫婦なども来て観客20名余り。弁士T君、昨年の「おいたち編」を弁舌爽やかに紹介。20分程度。そのあといよいよ本番の「赤ゴリラ編」。観客弁当を食べながら観劇。長時間公演なので、低学年はあきるのではと危惧したが、皆、熱心に観ていた。T君、しだいに調子が乗ってくる。長いので心配したが、台詞のあいだに、ゲームや学校の話題を入れるなど、芸達者をみせ大いに受ける。途中、菓子とジュースを配る。公演時間約1時間10分、大団円。6年生、6年間の感想と抱負。解散。子供たち、迎えにきた親たちと帰る。道場でT君、友人夫婦たち5人で昼食とりながら雑談。4時、T君を駅まで送る。夕方5時から「受身の会」中高年、お年寄り6名参加。
ドストエフスキー情報
5月17日(土) : ドストエーフスキイの会・例会 会場は千駄ヶ谷区民会館
           総会 報告者・松本健一氏 (会場費500円)
6月14日(土) : 全作品を読む会「読書会」 会場は東京芸術劇場第一会議室
           作品『悪霊』3回目 報告者・金村 繁氏 
☆ 近刊・旧刊
福井勝也著『日本近代文学の〈終焉〉とドストエフスキー』
      のべる出版企画 2008・1・10
芦川進一著『「罪と罰」における復活』河合文化研究所・河合出版2007
清水 正著『ドストエフスキー論全集1』D文学研究会2007
下原敏彦著『ドストエフスキーを読みながら』鳥影社2006
                                  
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編集室便り
☆「2008年、読書と創作の旅」は、本通信からスタートします。
☆課題原稿、社会評、創作など歓迎します。学校で直接手渡すか、下記の郵便住所かメール先に送ってください。
「下原ゼミ通信」編集室宛
住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
☆本通信はHP「土壌館」に掲載されています。

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