文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信 No.99

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2008年(平成20年)4月28日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.99
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
2008前期4/14 4/21 4/28 5/12 5/19 5/26 6/2 6/9 6/16 6/23 
6/30 7/7 7/14 
  
2008年、読書と創作の旅
4・28下原ゼミ
4月28日(月)の下原ゼミ・ガイダンスは、下記の要領で行います。文ゼミ教室2
 1.出欠・自己紹介・ゼミ誌委員決め
 2.「2008年、読書と創作の旅」
      
 3.テキスト読みOr名作読み
  4.表現稽古(紙芝居か脚本読み)
     
 
12名の同行者あり
 2008年の読書と創作の旅は、21日現在、12名の参加登録者がありました。(1名が欠席)他の定員過剰ゼミからの追加者ありということで、まだ、確定人数ではありませんが、11名の顔ぶれと参加動機に頼もしさを感じました。いつのときも未来の旅は、引率者も初心者に過ぎません。車窓の風景を共に観察し、学んでゆきましょう。
「2008年、読書と創作の旅」の無事を祈願しての撮影
2008・4・21


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.99―――――――― 2 ――――――――――――――
車窓雑記
書くことの意義
 なぜ、読書をススメルのか。嘉納治五郎(1860-1938)の青年修養訓「精読と多読」でより理解できたと思います。では、なぜ書くのか、創作するのか。作家になりたい、ジャーナリストになりたい、マスメディアで活躍したい。おそらく世の中の創作する人は、ほとんど、こんな目的でしょう。文芸学科で学ぶ学生も、多くは、同じかも知れません。
 それが作家であれ、脚本家であれ、ちゃんと目的を持つことは、叶えられるにせよ、叶えられぬにせよ、よいことだと思います。しかし、それがたんに立身出世のため、自分の欲のためだけ、だというと別です。真の大学生とはいえません。目的は、常に理念を伴わなくてはいけません。理念がなければ、どんなに立派な職業についても、どんなに社会的成功を得たとしても、ろくな人間にはなりません。例えば、先日、インサイダー取引で逮捕された大手証券会社の2人の日本人社員と中国人社員も、そうした人間たちです。彼らは、きっと仕事的には優れていたのでしょう中国人は、京大出の優秀な社員だったそうです。しかし、彼らが、その優秀な能力を使ってやったこと、それは私腹肥やしだったのです。大学では、何を学んだのか。トップ企業の社員になって彼らは目的を果たした。しかし、理念がなければ、どうなるのか、このニュースは最も分かりやすい例となり得た。
 どんなに高い目的も、理念がなければ、たとえ達成したとしても、それは抜け殻のようなものです。政治家は政治屋に、経済人はただの予想屋に、マスメディア人は、ポン引きになり下がるのです。ただただお金と名誉だけが目的の人生となってしまうのです。
 志賀直哉の『暗夜行路』の主人公・時任謙作は、小説を書くために尾道に行く。しかし、書けない。夜な夜な彼は苦しみのなかで反芻する。「自分は、何のために書くのか」瀬戸内海の波の音も聞こえぬ深夜、彼は、ハタと気づく。自分が創作するのは、名声を得るためでも金をもらうためでもない。自分が、小説を書くのは、
人類全体の幸福に繋がりのある仕事
だからである。そのために自分は、書くのだと。志賀直哉が、小説の神様と呼ばれるのは、想像と真実の狭間を物語とした創作手法にもあるが、根底には、この崇高な理念があるから、と信じている。ロシアの文豪・ドストエフスキーが、なぜ多くの読者から注目されるのか。アインシュタイン、ニーチェはじめ人類の賢者が愛読書とするのか。
 それは、ドストエフスキーが明確な理念を持って創作を目指しているからである。文豪の作家への道は、17歳のときの、この理念からはじまった。
兄ミハイルへ 1839年8月16日 手紙
・・・・人間とは、謎です。謎は、解き明かせねばなりません。たとえ、それを解き明かすのに生涯かかったとしても、時間を浪費したとは言えません。
                          
 ドストエフスキーは、ロシアで、はじめての職業作家ではあるが、既に高校生のときから、自分はなんのために作家を目指すのか、しっかりと考えていたのである。
 何のために書くのか。その思いは、たとえお笑いコントであっても必要です。根底に常に、「人々を幸せにするため、人間を知るため」に書く。人類が成し得たすべての学問、発明、研究、芸術は、その理念の上に花開いているのです。
 この考えは、これからはじまる2008年、読書と創作の旅での車内観察でも同じです。偶然、乗り合わせた車内の人たちを観察する。そのちっぽけな、とるに足らぬ行為も、自分を、社会を、この世界を、そしてこの宇宙全体を知るため。そんな壮大なロマンの手はじめといえます。毎日、利用する電車の中には、無限の物語がある。観察を深めれば、きっと見えてくるでしょう。10人がいれば10話が、20人いれば20話がある。
 というわけで、乗客の一人、自分の「一日」も書いてください。それが世界を救うのです。
 
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2008年、読書と創作の旅
旅同行者の参加理由と自己PR
 ☆ 「2008年、読書と創作の旅」に寄せる参加者の動機と抱負。14日は、いつもながらの拙い授業説明でした。が、希望した皆さんには、この旅の意図することが伝わったようです。初心を忘れず、自分を磨きそれぞれの目標に向かって進みましょう!
 
この一年、一緒に旅する12名の皆さんです。(希望カード提出順・敬称略)
 さかもとよしあき  おおの なつみ  かわばた りか  ほんな ともこ
・阪本 義明 ・大野 菜摘 ・川端 里佳 ・本名 友子
 ながぬま ともこ  のじま りょう  おおたに りえ  たきざわりょうすけ
・長沼 知子 ・野島 龍  ・大谷 理恵 ・瀧澤 亮佑
 
 あきやま ゆか   たやま ちかこ  かんだ たいすけ  おぐろたかゆき
・秋山 有香 ・田山 千夏子・神田 泰佑 ・小黒 貴之
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この旅を希望する理由
下原ゼミを希望する皆さんの心意気を紹介します。(順不同・敬称略)
今年は創作を
「去年のゼミでは、批評を中心としたゼミだったので、今年は創作をしたいと希望しました。また、朗読で作品への理解を深める授業に興味あります。」
「人間とは何か」に近づきたい
「たまに、例えば夜寝る前や電車に乗っている時、部屋でテレビを見ている時など、私は考えてしまいます。ずばり「人間とは何か」と。しかし、考えても答えなどは見つかりませんでした。そんな答え、一人で考えても一生見つからないでしょう。大人数で考えても、見つからないかもしれません。ですが、一人で考えこむよりは幾分かましなように思います。このゼミに入り、討論や創作を通じてその答えに近づいていきたいです。
日常を創作活動に活かしたい
「『読書と創作を習慣づける』というゼミの方針に関心を持ちました。私は読書も創作も、もちろん好きですが、日常のなかで毎日、行うことができていないので、ぜひこのゼミで学び、自分の創作活動に活かしたいと思っています。
観察を自分の作品に
 
 このゼミの授業では観察に重点をおき、また読書と創作の習慣化を目標としているということで興味を持ちました。私も人間観察というのは、文章表現をする上で非常に役立ってくるものだと思っています。なので、このゼミを通して、日々の観察を自分の作品に生かせる力を見つけたいと思います。
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2008年、読書と創作の旅
情景描写を養いたい
 
 去年、情景描写が少ないと言われたので、このゼミでそれを養いたいと思いました。
人間観察が大好きです
 
 人間観察がとても大好きで、それを題材に作品を作るということに興味をもちました。また、それが自分の情景描写の力になればいいなと考え、このゼミを希望しました。
観察の習慣化を今後の執筆活動に
 
 物語を書くことが好きで、昔から小説を書いていました。日常生活を題材にすることが多く、シラバスに載っていた授業内容が、自分には合っていると思い希望しました。また、日常的に仏事を観察することで、それが習慣化され、3、4年になった時の執筆活動に活かせると考えました。
『旅』というものに興味を
 自分は旅行部に所属するほどに『旅』というものに興味を抱いています。そこで今回のゼミのテーマにも興味を引かれました。他人(作家)が旅を通じて出会うものに対しどう感じたのか、それと自分が旅をして感じたことの違いなどを、このゼミを通して考えていきたいと思っています。
紙芝居口演にも魅せられて
 僕は小説を書きたい、という希望があったので前から興味のあった志賀直哉の作品を題材としているこのゼミを志望します。また、ガイダンスでお聞きしたのであるが、単なる創作だけではなく、紙芝居を口演したりと様々な表現の仕方を勉強できるだろうと思ったので志望しました。
「人間とは何か」を知ることに惹かれた
 ゼミの内容紹介の冊子に載っていた志賀直哉と人間とは何かを知るというワードに惹かれました。
授業計画に魅力を
 シラバスに書いてある授業計画に魅力を感じたから。
自己の課題と国語的と文芸的の狭間を追究したい
 情景描写の苦手を克服するのが、自己の課題だと思っているので、観察したことを文章におこうという講義内容にひかれました。また、ガイダンスのときに提示された入試問題について、国語的に読むことと文芸・物語的に読むことの狭間にあるひらきに思うことがあるので、追求、研究してみたいと思っています。
感想 皆さんの目標が、観察、創作、表現にあること。それによって書く力、読む力を身につけたい、という思いがよく伝わってきました。授業説明をしっかり汲み取っていただきありがとうございました。
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それぞれの抱負と自己PR
2008年の旅を前にした各参加者には、どのような抱負やPRがあるでしょうか。
(順不同・敬称略)
新しい自分だけの言葉を
 自分は読書は好きですが、実作の方はほとんど経験がないと言っていいほどです。しかし、自分の中で蓄積してきたもの、新しい自分だけの言葉を表現したいという気持は強く持っています。その思いを作品というカタチにしていきます。(K・T)
いろいろと伸ばしていければ
 小説を何年か前から書いてはいます。去年のゼミでもずっと小説を書いてきました。描写よりストーリーで魅せる方だと言われましたが、そうは思わないので、色々と伸ばしていければ良いなと思っています。(O・N)
自身との対話で何かが掴めれば
 私は詩と小説が好きなのですが、正直、今の自分にアピールできる程の書き手としての力(魅力)は無いように感じます。”自分”の文章とは何か、どんなものが書きたいのか…。このゼミを受けながら、その中で書き手としての自分自身との対話も大切にし、何かつかんでいければいいなと思います。(H・T)
ゼミ雑誌作成には役立ちたい
 昨年のゼミ誌の編集を担当しました。今年は、編集の仕事もとっているので、ゼミ誌作成時には、役に立てると思います。(A・U)
幅広いジャンルに触れたい
 私は、角田光代さんや、よしもとばななさん、梨木香歩さんなどの現代女流作家の作品が主に好きです。彼女らのような日常を人と違う視点から描く作風を志しています。
 また読書は、それらのジャンルに偏ってしまっているので、幅広いジャンルの作品に触れていくということが、これからの課題です。(N・T)
今年は全力投球したい
 昔から創作活動が大好きでした。今年は自分のやりたいことが出来るゼミに入り、本気で頑張りたいと思います。自分のやりたいことのためなら全力投球できる自信があります。
(T・T)
物事の核心に近づきたい
 様々なことを知って、物事の核心に近づきたいです。
作品とか、芸術とかではなく、実人生においての身の振り方も考えなくてはとおもいます。
(N・R)
独学で創作活動を
 中学生の頃から小説、物語を書いています。高校を中退して後、独学でフリーターをつづけながら活動していました。今後も精進していきたいと思っています。(O・T)
大学生活の良否はゼミで
 ゼミは文芸学科の中での核となる一番重要な授業だと思います。一年間の大学生活の良し悪しもゼミで決まるといっても過言ではないと思います。その重要なゼミをここで受講したいと思います。                            (T・R)
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明るさの中の闇を目指した作品を
 童話か児童小説を書くことに興味あります。最近は大学の友だちとラジオドラマを作っています。春期休暇中に一件目の収録が終わり、今は次回作の脚本を書いています。一件目では役を演じました。今回のお話はファンタジーでした。
 好きな作家は、桜庭一樹、唯川恵、米澤穂信です。特に好きな作品は、桜庭一樹著の『少女には向かない職業』です。行き場の無い少女たちの葛藤が痛々しく胸に響く作品です。私も桜庭一樹のような明るさの中の闇が描かれた作品を目指しています。   (O・R)
文章力と文芸への意識を高めたい
 本が大好きで、純文学を筆頭にライトノベルやマンガなども読んでいます。詩や写真集、エッセイ集などにも興味があり、本というものがすごく自分の中でウエイトを占めています。文芸学科に来ているので、自分の文章力、そして文芸への思いを高めていきたいと思っています。                                (K・R)
プロとは何か、アマとは何か
 皆、プロになるには、相当な覚悟がいると言うし、理屈ではわかっている。だが、実際その覚悟を背負っている人間はそうそういない。僕は日本大学芸術学部に通っている一方で、日芸とは違った視点から芸術という分野を見てみたいと思い、明治大学演劇研究部にも所属している。そこでであった人たちを通して見えてきたことは、本気で望んでいることは確かだが、この先も演劇で生活するかと言われるとそうでもないらしく、非常に曖昧なプロ意識と日芸生との温度差だった。言ってみれば彼らはプロを装ったアマチュアである。
 二年次のゼミでは、自分自身もプロ気取りのアマチュアであることをしっかり自覚し、学業とは何か、部活とは何か、プロとは何かという根本的なことを再確認し、そこから自分の考えを発展させていきたい。                      (S・Y)
感想
 やはり文芸学科の学生ですね。ほとんどの人が創作を目的として、なかには子供のころから書いてきている猛者もいます。文章は、楽しいもの、退屈なもの、感動するもの、難しいものなどそれぞれです。この旅で、書きながら、読みながら、自分の文体づくりをめざしてください。文も絵と同じで、まず、誰が書いたか、即、わかることが大切です。どんなに綺麗な字でも、きちんとした文体でも、誤字脱字がなくても、特徴がなければ、ただの看板です。
ゼミの12名という数字に、下記の作品が思い浮かびました。映画も話題になった。
推薦図書  瀬戸内海の小島で樽職人として生計をたてる夫婦は、10人の子だ
くさんだった。祖母もいてその日ぐらしの生活だったが、夫婦は二人の孤児も引きとって育てた。それで12人もの子供がいる大家族だった。それなのに、家運は下り坂で母親も病気で半身不随となった。しかし、家の中はにぎやかだった。五女は無口だが明るかった。いつも大勢の兄弟姉妹たちをじつと眺めながら、こんなことを考えていた。この家族のことを、すばらしい両親に育てられた12人のこどもたちのことを、いつか小説に書いてみたい、と。「24の瞳」という題名で。しかし、なかなか書けなかった。何年か後、小説は「その題名だけはそのままで、一つの家に育った12人の子供の話ではなく、一つの小さな村に生まれ育った12人の同じ年の子供の物語になった」
壷井 栄著『二十四の瞳』
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Ⅰ「2008年、読書と創作の旅」日程2日目
1.はじめに  → 出欠、本日のテキスト配布、課題原稿、愛読書アンケート集め
2.司会進行決め  →  毎回、順番にやってもらいます。ゼミ担任が指名します。
3.自己紹介 → 前回欠席した人
 一年間、一つところで無事に仲良く協力しながら旅するには、まず、相手のことを知り、自分のことも知ってもらうことが大切です。
 「己の欲せざる所は人に施すなかれ」(論語)
(自分の好まぬことは、他の人にとっても同様であるから)
 自他共栄(嘉納治五郎)
(自分だけではなく、皆が良くなるように)
この精神をもって、この一年楽しく、有意義に過ごしましょう!
4.前回ゼミ追記 → 新聞話題「人生相談」に関して
大樹の種も、元は芥子粒
 前回、議論ネタとして新聞から「人生案内」をとりあげました。大学生になったばかりの18歳の男子学生からの相談です。高校時代、勉強や人間関係で悩んでいるとき、やさしくしてくれた養護の先生に恋してしまった。どうしたらよいか、アドバイスを、といった相談でした。昔から恋の病にはつける薬がない、といいますが、皆さんの印象は、まさにその通りで、それほど深刻ではないと捉えたようです。11名中、「告白してしまえば」が6名、「それより新しい大学生活を」が4名、「聞いていられない」が1名でした。私が相談されても同じような答えです。「告白でなくて、やさしくしてもらったお礼にたずねてみなさい。そして、新しくはじまった大学での生活に目をむけましょう」平凡なアドバイスです。
 この相談には、彼女の年齢が書いてありません。相談者の年齢からも、この恋は、決して成就する恋とはいえません。年上で、結婚していて、子供もいるかも知れません。こうしたマイナス状況を組み入れて想像すると物騒なパターンがいくつか考えつきます。
 告白をすすめたために不倫騒動に発展、亭主や、相談者の家族から恨まれる。相手にされない場合は、ストーカーになり警察沙汰になる。など、いずれも悪い予想が多いようです。では、すすめない場合は、どうでしょうか。告白をすすめないのを怪しく思い「おまえが好きなんだろう」と邪推され、不仲になったり、最悪では刺されるかも知れません。どちらもまずいようです。新聞の回答者は、こんなアドバイスをしています。
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 回答者の増田さんが独身なので、養護の先生も独身と思ってしまったふしがありますが、皆さんと、そう変わりはありません。
 この相談は、たしかに小さすぎる些細な問題です。しかし、皆さんは、「読書と創作の旅」に出た以上、この相談をたんなるちっぽけな初恋談議に終わらせてはいけません。とるに足らぬ相談と侮ってはいけません。たとえどんなに小さな種、芥子粒ほどの種でも、大きな大きな木に成長することもあります。古今東西に名を成す大恋愛小説は、もとはといえばみんな、この新聞の人生相談のような些細な話からはじまっています。恋しても成就できぬ恋なら、作家たちは苦心の末に主人公にこんなアドバイスをして物語るのです。「もし、本当に彼女のことを好きだったら、彼女が、幸福でいられるよう見守ってあげることです」あるいは「彼女の苦境を救ってあげることです」。映画にもなった岩下俊作原作で伊丹万作監督の『無法松の一生』、西部劇史上に燦然と輝く原作ジャック・シェーファーでジョージ・スティーヴイス監督の『シェーン』のラストシーンが甦る。
 九州一の暴れん坊の車引きは、なぜ軍人未亡人一家に尽くしたのか。破れ障子から見えるラストに涙するたびに思う。なぜこの作品が第10回直木賞にもれたのか、と。
「人を殺した人間はいてはいけないのだ」そういい残して去っていくガンマン。見送る少年。あまりに有名なシーンだが、観客の耳にはこんな台詞になって聞こえてくる。「恋してはいけない人を恋したら、いてはいけないのだ」
 こんな活劇でなくても、この相談記事を読んでいて頭に浮かんだのは、こんな光景である。フランスのトゥールという美しい谷間の村。そこに住む不遇の22歳の若者、彼は自分にやさしく接した人妻に恋をした。彼女は28歳、病弱の夫と二人の子供の面倒をみていた。到底、成就できぬ恋。相談しても、「パリの社交界にいけば、もっと若い可愛い女性が一杯いますよ」一笑に付されそうな恋の悩み。しかし、文豪バルザックは、このちっぽけな若者の恋、自伝でもあるが、世界文学の最高峰に輝く不朽の名作に作り変えた。
 いまはパリの社交界で成功の階段を昇っていく伯爵フェリックス。華やかな世界のなかで彼の心にある一点の曇り。恋人ナタリィは、その曇りがなにであるか知ろうとする。根負けしたフェリックスは、トゥールの谷間に咲いた一輪の百合、この世で最も美しく悲しかったアンリェットの人生について長い長い手紙を書く。感動の河内清訳『谷間の百合』書き出しは、こんなふうにはじまっている。
 アンリェットの恋に全世界の読者が泣いた。
恋愛文学世界文学最高峰『谷間の百合』
ナタリィ・マネルヴィル伯爵夫人に
 たってのお望みとあればやむをえません。愛するよりずっと多く愛されている女性の特権は何事につけても良識の掟を忘れさせてしまうことです。わたしたち男性は、あなたがたが額に皴をお寄せになったり、ほんのわずかな拒絶にあっても気持をそこねて、お唇をふくらしたりなさるのを防ぐために、不思議なほど幾山川でも越えますし、血もささげれば、未来も捨ててかえりみません。今日あなたはわたしの過去を知りたいとおっしゃいました。ここにそれを送ります。
バルザック年譜
1799年 フランス中部トゥールに生まれる。
1816年 パリ大学法学部 17歳
1824年 25歳 生活のため通俗小説を書き続ける。
1829年 30歳 はじめて実名で「人間喜劇」第一作『最後のふくろう党員』発表。
1850年 51歳 8月永眠
作品は、『従妹ベット』『従兄ポンス』『ゴリオ爺さん』『純愛』など 
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5.テキスト読み 配布
『菜の花と小娘』『網走まで』の朗読と感想
『網走まで』27歳 20行25字=17枚
明治43年(1910年)4月1日発行の『白樺』第1巻第1号に発表され、大正7年(1918年)3月、新潮社より刊行された白樺同人の作品集『白樺の森』に現在のものにもっとも近いかたちになおして収め、「明治41年8月14日と執筆年月日が示された。
「菜の花と小娘」「或る朝」「網走まで」は、いわゆる三つの処女作といわれている。
「網走まで」は、のちの創作余談において、作家が
当時東北線を一人で帰って来る列車の中で前に乗り合わせていた女とその子等から、勝手に想像して書いたものである。これは当時帝国大学に籍を置いていた関係から「帝国文学」に投稿したが、没書された。原稿の字がきたない為であったかも知れない。
と回想されている。
6.名作読み、現代アメリカ文学の源泉。テキスト配布
ウィリアム・サローヤン『空中ぶらんこに乗った大胆な若者』1934年
原題 The Daring Young Man on the Flying Trapeze 古沢安二郎訳 早川書房
 1930年代、アメリカの大不況時代。職のない文学青年が仕事を探してサンフランシスコの街をさまよう自伝的短編小説。サローヤン27歳のときの作品。
 この短編小説は、評判になって「飛行する・・・に乗った大胆な若者」という言い方がアメリカで流行った。いまでも使われているという。
■サローヤン(1908-1981)について、あとがきのなかで訳者は、このように紹介している。
 作家はアルメニア人の二世である。1908年カリフォルニャのフレズノ市で、アルメニア長老教会の牧師の息子として生まれたが、二歳で父の死に会い、しばらく孤児院にはいっていた。7歳の頃でる。アメリカの多くの作家のように、彼もまた正規の学校教育を受けずに、様々な職業を転々とした。「20歳になったとき」「私は自分を退屈させるような仕事をして、暮らしを立てようとすることをやめ、作家になるか、放浪者になるつもりだ、とはっきり名乗りをあげた」1939年頃から劇作を手がけ「君が人生の時」がピューリッツァー賞に撰されるが辞退した。
「商業主義は芸術を披護する資格がない」が理由。『わがこころ高原に』など
作品は、次のようなものがある。
【ハヤカワNV文庫】に収録
『わがこころ高原に』題字、『7万人のアッシリア人』、『きみはぼくの心を悲嘆に暮れさせている』、『蛙とびの犬コンテスト』、『トレーシィの虎』、『オレンジ』など。
【新潮文庫】サローヤン短編集
『1作家の宣言』、『人間の故郷』、『ロンドンへの憧れ』、『気位の高い詩人』、『友人たちの没落』、『冬の葡萄園労働者たち』、『柘榴林に帰る』、『むなしい旅の世界とほんものの天国』他。
【角川文庫】三浦朱門訳『我が名はアラム』
『美しい白鳥の夏』、『いわば未来の詩人でしょうか』、『サーカス』、『川で泳ぐ三人の子供と、エール大学出の食料品屋』、『あざける者への言葉』など。
★ サローヤンを読むと、自分も書いてみようと創作意欲がでます。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.99―――――――10 ―――――――――――――――――
ゼミ誌について
ゼミ雑誌発行は12月15日厳守です。
 ゼミの実質的成果は、決められた期日までのゼミ雑誌発行にあります。毎年、納品日の遅れが指摘されています。一年間の大切な成果なので、しっかり守って、よい雑誌をつくりましょう。ゼミ誌作成計画は以下の要領です。
1. 6月上旬 → ゼミ雑誌作成ガイダンス。編集委員は必ず出席してください。
        ○ゼミ誌作成説明  ○申請書類を受け取ります。
2. 6月中旬 → ①「ゼミ誌発行申請書」の提出。出版編集室に
3. 6月~  → 全員でゼミ雑誌の装丁を話し合う。題名・内容・サイズ・印刷会社など
        ※印刷会社は、過去に依頼した会社は文芸学科スタッフに問い合わす。初
        めてのところは必ずスタッフに相談する。(なるべく初めてのところでな
        い方がよい。以前、苦労したことがある。会社も慣れないので大変)
4. 7月下旬 → 原稿依頼し、締め切り日を決める。だいたい夏休み明けがよい。
ゼミ誌原稿締め切りの徹底化
5. 9月末  → 編集委員にゼミ誌原稿を提出。
6. 10月上旬 → 編集委員は、内定の印刷会社から②「見積書」をもらう。
7. ~11月 → 「見積書」の提出。印刷会社と相談しながらゼミ雑誌作成。
8. 12月 → 15日までにゼミ誌提出、③「請求書」提出
注意事項!!
◎ ①【ゼミ誌発行申請書】、②【見積書】、③【請求書】以上3種類の書類が提出されない
  場合はゼミ誌の発行はできません。補助金の支払いも認められません。
◎ 予算金額は、ゼミ雑誌作成ガイダンスで発表される。
◎ 過去にゼミ雑誌の印刷を依頼したことのある主な印刷会社の連絡先は、文芸学科スタッ
  フまで問い合わせる。それ以外の印刷会社を利用したい場合は、必ず事前に学科ス
  タッフに相談すること。厳守。
 ※ 印刷会社は、学科スタッフに相談した方が、スムーズに運びます。
◎ 外部(一般の人)と関係しない。(インタビュー、依頼原稿など)
ゼミ誌発行期限は、12月15日です。
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4・21ゼミ報告
 毎年、ガイダンスの後のゼミは気になる。4・14大勢いた見学者のうち、はたして何人が、このゼミを選ぶのだろう。そんな不安と期待が交差する。ゼミは、多すぎても少なすぎても、かといって何人ぐらいが、過去、最高が17名、最低が5名だった。が、どちらもゼミ生にはめぐまれて、多い少ないで苦になったことはない。で、今年は、今年、と割り切ることにした。ゼミ希望カードを受け取ると12枚、12名ということ。何故かほっとした。
初日の出席者・11名
初日は、1名欠席で11名でした。出席者は、次の皆さんでした。
・阪本義明 ・大野菜摘 ・川端里佳 ・本名友子 ・長沼友子 ・野島 龍 ・大谷理恵
・瀧澤亮佑 ・秋山有香 ・田山千夏子・小黒貴之
○司会進行のトップバッターは小黒貴之さん
自己紹介
 ゼミ希望の動機として、いつもは、サークル先輩の紹介という人が多かったが、今年は、シラバスやガイダンスで、という人がほとんどでした。口コミや、推薦は当たりハズレは少ないと思いますが、今年は自分の目を信じたようです。
※ 9名が自宅通学者 1名群馬県、1名新潟県出身でした。
  ちなみに下原は長野県の伊那谷出身 1947年生まれ A型 日芸講師の他は、執筆活
  動。創作、エッセイなど。『伊那谷少年記』、『ドストエフスキーを読みながら』など。
  ボランティア活動として地域で青少年に柔道指導と中高年向けに自彊術体操。池袋西口
  東京芸術劇場で一般市民対象に読書会開催。2ヶ月ごと。5月1日東京新聞で紹介。
ゼミ誌編集委員選出、先送りに
 ゼミの実質的最終目的は、納品期日までのゼミ雑誌の刊行である。ゼミ誌編集委員の役割は重大である。それ故、慎重になったのか、自薦者がでず、先送りとなる。このゼミのモットーは「精力善用・自他共栄」精神である。「力はよいことに、皆で助け合って」である。一人で背負うという意識ではなく、皆で協力してやるという考えで「我こそは」と委員に立候補して欲しいと願います。きっとよい経験と自信になると思います。
旅立ちを祝して「旅立ち」関係書物の読み
 毎年、旅立ちを祝して「旅立ち」に関係した書物を読みます。『おくのほそ道』や『コロンブス航海日誌』などです。今年は、芭蕉の名作とドストエフスキーブームがつづいているのでシベリアに収監される前のドストエフスキーの書簡読みをしました。突然の死刑中止、酷寒の地、シベリア送り、歓喜と不安の心境で臨場感あふれています。
 ちなみに目下、亀山訳『カラマーゾフの兄弟』が数十万部と、かってない売れ行きとのこと。が、この翻訳をめぐって、誤訳だ、めちゃくちゃだという反論が研究者のあいだで出ています。この騒動について当ゼミとしては、国語と文学の違いを論じているので、物語の意味がわかれば、翻訳の違いは気にしない、気にならない、としています。
人生案内をとりあげた意図
 新聞からこの「人生案内」をとりあげた意図は、二つあります。答えと創作です。一見、些細な相談です。答えは、退屈なものです。が、創作すると、いろんなものに発展します。たとえば9年前のある日、先月高校を卒業したばかりの少年が、相談にきたとします。彼は「同じ団地内で、親切にしてくれる女性を好きになった」といいます。その後、知るニュースは、若いお母さんと11ヶ月の赤ちゃんの惨殺。あの光市の事件ですが、犯人が最初に相談したとすれば、聞く人には、なんでもない相談に思えたかも知れません。一つの相談も多角的に見る。それが創作です。
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2008年、読書と創作の旅
 担任自己紹介の代わりに学生時代の旅を紹介します。が、想像・推測・個人問題もあるので創作ルポタージュとします。前号のつづきです。
一九六八年、アジアの旅③
     
                                 下原 敏彦
1976年秋、私は郊外の下宿屋にいた。国鉄立川駅南口から徒歩10分ほどの所で木造二階建ての昔ながらの下宿屋だった。大家は棟つづきの一軒屋に住んでいた。近くに高等学校や神社、桑畑がある閑静な住宅地だった。私は半年前、業界紙記者を辞め、今でいうフリーターになっていた。前年のベトナム戦争終結で、インドシナは混乱の最中にあった。カンボジアは1970年の政変でシアヌーク殿下の独裁社会主義体制は終わり、軍人ロンノルの民主主義国家に生まれ変わった。が、それも束の間、昨年’75年、アメリカ軍の敗走と撤退で、暗雲が閉ざす闇と化していた。インドシナで何が起きているのか、世界は何も知らなかった。情報は、その闇の世界から粗末な舟で脱出してくる人々からでしかなかった。が、無事、救出された人たちは幸運である。たいていは、海賊や遭難で、海の藻屑と消えた。そうした、いわゆるボートピーピルになった人たちは、一説には100万人ともいわれている。ベトナムの悲劇である。新生カンボジアは、それ以上に情報が閉ざされていた。まったく謎につつまれていた。私は、ふたたびインドシナに帰るとしたら、観光客でも農業者でもなく、ルポライターとして戻りたかった。岡村昭彦の『続ベトナム従軍記』それが目標だった。そのため業界紙記者となって書くことの修業に励んだ。が、ドストエフスキーを読んだことで、私の目標は文学に変わった。インドシナは、にわかに色あせた。同時に本を読まなければ、そんな焦りが駆り立てた。何かに縛られている不自由さも感じた。それで記者を辞めすっかり自由になったが、生活は窮した。食費と下宿代を払うために最低限の金は稼がねばならない。自由になったつもりが不自由になってしまった。春は、防水工事業者について、桜を追って東北地方をのぼって青森まで行った。夏のあいだ、駅北口にあるデパート10階の大食堂で、皿洗いのバイトをした。戦場のような昼時の洗い場。業界紙の記者をのんびりやってきた私には、きつかったが、面白かった。支配人とコック長が「デパート社員に推薦するから」と親切に言ってくれたが、一週間余分に働いて先週やめた。私の目下の目標は、近くにある図書館の世界文学全集を読破することだった。が、一向にすすまなかった。
この日も、朝から出かけようと思いながらなかなか腰があがらなかった。二階の部屋の開け放なたれた窓から武蔵野の青空が見えていた。午前10時ごろだったろうか。階段下で大家の女将さんの呼ぶ声がした。下宿人は、私のほかに10人ほどいた。が、皆勤め人で昼間、いるのは私一人だ。大家の主人は、小学校教師、子供二人は中学生で全員出払っていた。顔をだすと、掃除の最中らしい女将さんは、困惑顔で、
「また電話なんですが、トッちゃんって人いるかしら、ここに」と、聞いた。
私の幼い頃の呼び名だった。
「それ、ぼくのことかな・・・」私は曖昧にうなずいた。
「えっ!シマハラさんのこと?!」女将さんは、驚いて言った。「じゃあ、電話でてくれます。昨日も一昨日もかかってきて、聞かれるから、そんな人、いません、知りません、ってきってたんです。が、またかかってきたので。なんだ、そうだったんですか」
 郷里のだれからか・・・。一瞬、そう思った。が、女将さんから
「ケイシチョウとかなんとか言ってましたが、警察のことですか」と、聞かれた
そのひとことで、すべて理解した。
「ええ、まあ、そうだと思います」私は頷いた。やっぱりきた、その思いが強かった。
「えっ!すると何か・・・・」
大家の女将さんは、警察と聞いて驚き声をあげ、訝しげに私をみつめた。
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「ちょっとした調書のことだと思いますよ。知り合いが、起こした事件のことで」
私は、なんでもないといった顔で言った。あの事件との関りは、大家には話していなかった。
 あの事件とは…一カ月前の9月15日である。この日の夕刻、正確には五時を過ぎたばかりの時刻。国際線、国内線でごった返す羽田空港は、非常事態に陥っていた。緊急警報のサイレンが鳴り響き、救急車、消防車が出動し、待機していた。午後五時22分に管制塔にこんな緊急連絡が入ったのだ。「操縦士が重傷で操縦できず不時着する」と。
 今日、羽田空港は、国内線のみであるが、当時は国際線も一緒だった。成田空港は、建設中であった。(自由国民社=1971年2月22日 反対闘争が行われていた成田空港建設予定地で、建設反対派の土地にたいする第一次強制執行が、この日から一か月にわたって行われた。動員された警官はおよそ2万5000名といわれ、反対派約2万名と大乱闘、500名近い逮捕者をだした。9月16日からは第二次の強制代執行も行われ、反対派の拠点はほぼ撤去された。成田空港開港式は1978年5月20日 17年の歳月を費やし、死者6名、負傷者8000名以上、逮捕者2000名以上の犠牲者があった。)この時期、1973年10月の第4次中東戦争が原因の石油ショックで、日本経済は、高度成長期の終盤にあったが、海外旅行ブームは、はじまったばかりだった。離着陸する飛行機の数は年々増していた。そうした状況下で、ただでさえ混雑している羽田空港だが、夕方は、いっそうのラッシュアワーとなる。その只中に、一機のセスナ機が、突然に、迷い込んできたのだ。それもダッチロール状態…つまりふらついた状態で。管制塔の呼びかけに返ってくるのは、息も絶え絶えの「着陸したい」の応答だけだった。このときの危機的状況を、新聞はこう伝えている。
 1976年(昭和51年)9月16日 木曜日 朝日新聞
ラッシュ時の羽田ひやり 「大惨事回避はラッキー」
 
 ラッシュ時は一分四十秒に一機の割合で大型ジェット旅客機が離着陸する羽田空港で、突然飛び込んできた小型機が大惨事につながらなかったのは、――ちょうど出発機がとぎれた瞬間で、「まさにラッキーだった」と、羽田の管制塔では「二次災害」を避け得たことに胸をなでおろした。
 セスナ機が羽田空港の管制塔に着陸の意思表明したのは、同空港の主滑走路に着陸する、わずか一、二分前だった。管制塔の話では突然、とぎれとぎれで「調布」、「出血多量」、「救急車」などの交信がとびこんだが、ほとんど意味不明だった。
 この時間帯はアンカレッジ経由の北回りの欧州線、香港への最終便の出発機をはじめとする羽田空港の夕方のラッシュ時間の始まりにあたる。風向きの加減から管制塔では二本ある滑走路のうち主滑走路の西側からの離陸を許可していた。たまたまこの時間に出発機のなかったことが大惨事を防いだが、もし出発機が離陸滑走に入っていたら、滑走路上での正面衝突という事態にもなったわけだ。ノースウェスト機のジャンボ機は同滑走路反対側から着陸態勢に入っていたが、まだ高度約三百㍍、滑走路から五・五㌔の地点だったため、管制塔はとっさに着陸許可を取り消し、高度をあげて着陸をやり直すように指示、事なきを得た。
 十五日夕、空港中の日立が見守るなかセスナ機は、やっとのことで主滑走路に滑り込んだ。そして小さなバウンドを繰り返しながらも無事、着陸した。駆けつけた救急隊の隊員、消防車の消防士、彼らが目にしたのは、操縦席で血だらけで操縦かんを握ったままうつ伏せている機長と、これもまた血だらけになって仰臥している同乗のカメラマン、この二人だった。が、空席の後ろ座席もおびただしい血の海となっていた。他に乗客がいた形跡。
 セスナ機の中で何があったのか。乗客は何処に――。
 この日は、よく晴れて暑かった。敬老の日で休日だったことから、下宿に姉が二人の幼い子供を連れて来た。公園の川で終日、遊んで姉と甥たちは帰った。駅まで送った後、下宿に戻って寝てしまった。事件のことは(テレビは無く)まったく知らなかった。 次号に
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写真集観察 岩波写真文庫143(1955)『一年生』&28会編集『五十歳になった』
『一年生』&『五十歳になった一年生』を読む
熊谷元一の写真②
 
 現在、東京都下の清瀬市に住む熊谷元一は、アマチュアながら日本の写真家40人(岩波書店)に列挙される写真家でもある。この7月で99歳になる。が、いまも現役である。熊谷が写真家として認められた一番の業績は、信州の一山村を実に70年にも及ぶ長きにわたり撮り続けたことにある。この間、撮影した写真は約5万点がCDに収録されている。出版された写真集も、多数ある。それらはいまや貴重な記録、時代の証言物となっている。なかでも戦前1938年に朝日新聞社から刊行された『会地村-一農村の写真記録』と戦後1955年に岩波写真文庫から出された『一年生』は、日本写真界の金字塔といっても過言ではない。『会地村』は、当時、「アサヒカメラ」に一ページ大の広告が掲載された。それによって「『会地村』は、たんなる一農村の記録にとどまらない評価を次第に得ていく」(矢野敬一著『写真家・熊谷元一とメディアの時代』)熊谷の撮り続けるという手法は、写真技術の進んだドイツでも高く評価され、翻訳化もされた。「この当時、『会地村』は地方翼賛文化運動の高揚に伴ってさまざまな機会に取り上げられていく。熊谷の撮影意図とは別に、ともすれば『会地村』は、「愛郷心」の延長線上にあるとされた「愛国心」と結び付けられて」(上記同書)いた。一農村写真が愛国教育の手本となる。驚きだが、これだけみても熊谷の写真の奥深さ、幅広さを窺い知ることができる。一昨年暮れ教育基本法が改正された。これによって日本では、法律によって愛国心教育がすすめられることになる。が、熊谷の写真は、押し付けることなく、義務づけることなく郷土愛を伝えていたのだ。
 熊谷の名がひろく世に知られたのは1955年に毎日新聞社が写真文化の向上を目標に新しく制定した第一回毎日写真賞だった。教え子たちを撮った『一年生 ―ある小学教師の記録―』が第一回毎日賞に輝いたのである。写真批評家飯沢耕太郎は、『日本の写真家17』(岩波書店)において、その快挙をこのように紹介している。「土門拳、木村伊兵衛、林忠彦らの名だたる候補作家を押しのけての受賞は、『一年生』がいかに大きく共感の輪を広げ、読者に新鮮な驚きをもって迎えられたかを示している」。作品は、多くの写真関係者から絶賛された。メディアにおいても「書評はいくつものカメラ雑誌だけではなく、「週刊朝日」「朝日新聞」他のメディアにも掲載された(上記同著書)」とある。写真家としての輝かしい功績。確かに熊谷は写真において、すばらしい仕事をした。貴重な記録を残した。が、熊谷が真に伝えんとしたことは他にある。熊谷は、自伝としてエッセイ集『三足のわらじ』を出版している。本書は、写真家、童画家、そして小学校教師としての自分を顧みた書である。本書で強く印象づけられるのは、熊谷が写真家、童画家である前に教師である、教育者であろう、という思いである。
 熊谷の教師生活は、昭和5年、郷里信州の山村で小学校代用教員としてスタートした。元々画家志望であったというから、一途に教師を目指したわけではない。戦時下、「教員赤化事件」に連座して教職を離れたが、戦後、再び郷里の小学校教員として復帰した。そして写真家、童画家として大成しながらも、定年まで生涯一教師を貫いた。真に熊谷の信念は教育にあったといえる。私は、1953年、小学校に入学した。担任は熊谷だった。熊谷は、教え子たちの一年を撮りつづけた。教室、校庭、通学路、いたる所で、子供たちの日常が的確に捉えられている。熊谷の写真のすばらしさの秘密は、徹底した観察である。今日、日本の教育は混迷を極めている。観察することの大切さを教えている。そこに教育救済への道がある。翻って志賀直哉の作品も、観察することで文学の本道を伝えんとしている。
 フリー映像の宮内は、新聞記事によってはじめて熊谷の写真を知った。宮内は、どうしても映像にしたいと思った。宮内60歳、熊谷88歳のときである。  つづく
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評論観察 小説と評論『カプリチオ』第11号に掲載された評論から『網走まで』『灰色の月』の箇所を抜粋、紹介します。
もう一つの志賀直哉
                             藤原栄子(エッセイスト)
 
志賀直哉にはある種の割りきれなさを扱った作品がある。『網走まで』、『正義派』、『小僧の神様』をへて『灰色の月』にいたる系列の作品である。/今日までの志賀直哉論は、主に『暗夜行路』を中心とする主流的作品が扱われ、それも自我作家としての分野が特に論じられている。私はそれらの作品に関心をもつことなく、志賀直哉を遠い存在とみてきた。しかし、偶然のことから『灰色の月』を読み直す機会をもち、急速にこの作家が身近に感じられるようになったのである。『灰色の月』は、志賀直哉とみられる「私」が、敗戦直後の夜、山手線の電車の中で偶然出会った餓死寸前の少年工に同情をよせながら、ふとよりかかってきた少年を反射的に肩で突き返してしまう。そのため一層同情をよせるのだが、結局何もしてやることができずに暗い気持ちを抱いたまま別れるという話である。彼の自伝的作品が、自我貫徹、あるいは調和的世界に入るなど、何らかの解決を与えられているのに対して、ここには何の解決も見出せないまま、また、自分の気持ちを割り切ることができずに暗澹たる
思いに沈み込む別の志賀直哉の姿があった。それは彼の強烈な自我をもってしても処理できない社会、それも戦災という不条理を前に立ちすくんだ姿でもあった。志賀直哉のその姿と題材との関係は私の興味を引かずにはおかなかったのである。
 志賀直哉は、社会を描かなかった。あるいは社会の動きに背を向けて自己の調和的世界に安住の地を求めたなどとよく言われる。たとえば杉浦明平氏は、初期の『網走まで』から直哉は「つねに傍観者の立場を固守しなければならなかった」として、「明治末年以来わが国に萌え出した人民解放運動をその家庭の内に反映して父やその他とたたかったが、しかし、そのたたかいを社会的ひろがりに拡大し、これを原初の運動に結び合わせる、いな近づけることすらこころみなかった」(「志賀直哉」-「志賀直哉の危機」-『現代日本の作家』所収)と批判されている。中村光夫氏もまた、「彼は生活に『どうにもならぬ』ことがあるのをみとめません。内心に解決できぬ矛盾がなく、・・・生活のなかの気に入らぬ部分を『破って了ふ』ことは、いつでも自分の意志でできると信じて疑わぬやうです。」と自我作家としての志賀直哉を論じ、だから彼の自我の内面の劇が終わると、「それが無限の自己肯定と外界に関する無関心といふ、作家にとって致命的な形で現れた。ときめつけている。直哉が自我の解放を社会的広がりに拡大し、作品化させなかったという指摘に対してはうなずける。しかし、社会問題に背を向け、「傍観者の立場を固守」したという批判には少し異論がある。/(この評論は、『三田文学』で好評でしたので抜粋を紹介させていただきました。なお、藤原氏の『灰色の月』のみに関しての評論は、改めて掲載します)
志賀直哉(1883-1973)の主な車中作品&車中関連作品の紹介
(編集室にて現代漢字に変更)
□『網走まで』1910年(明治43年)4月『白樺』創刊号に発表。27歳。
□『正義派』1912年(大正1年・明治45年)9月『白樺』第2巻9号に発表。29歳。
□『出来事』1913年(大正2年)9月『白樺』第4巻9号に発表。30歳。
□『鳥取』1929年(昭和4年)1月『改造』第11巻第1号。46歳。
□『灰色の月』1946年(昭和21年)1月『世界』創刊号。64歳。
□『夫婦』1955年(昭和30年)7月1日「朝日新聞」学芸欄。72歳。
車中作品の名作は『灰色の月』 生き物観察作品の名作は『城の崎にて』
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土壌館日誌(或る一日を記憶する)
 
4月21日 月曜日 朝小雨、午前中曇り 夜小雨
 ゼミ授業、今日が初日。登録者は何人。どんな同行者。毎年、気になるところである。幸いのことに毎年、よい同行者にめぐまれての旅だった。よいことばかりは続かないかも。そんな不安もあった。この日の失敗は、配布する印刷物の準備が遅れたこと。還暦を過ぎたころから、物忘れが多くなったようだ・・・(笑)紙芝居の画も忘れた。登録者は12名。先週のガイダンスが多かったので安堵。司会を登録者最後に記されていた小黒さんに指名。すぐ、意図を汲み取り完璧な司会進行。1人欠席は、ちょっと気になるが、11名の希望はしっかりしていた。今年も幸先よさそうだと胸をなでおろす。写真撮影で、シャッターを隣の清水ゼミの顔見知りの一年生に頼む。帰り、山手電車が二回、人身で停車するが、長い停車ではなかった。たいした事故ではなさそう。まずまずの旅立ちといえる。駅を降りると、雨はあがっていた。
 
ドストエフスキー情報
5月17日(土) : ドストエーフスキイの会・例会 会場は千駄ヶ谷区民会館
           総会 報告者・松本健一氏 (会場費500円)
6月14日(土) : 全作品を読む会「読書会」 会場は東京芸術劇場第一会議室
           作品『悪霊』3回目 報告者・金村 繁氏 
話題
理論社 2008・3・21 定価1200
文・藤井誠二 マンガ・武富健治『「悪いこと」したらどうなるの?』
学燈社 定価1600 特集ケータイ世界
『国文学4』 
山下聖美「ケータイ小説 クリエイターの卵たちはどう読むか」
☆ 近刊・旧刊
福井勝也著『日本近代文学の〈終焉〉とドストエフスキー』
      のべる出版企画 2008・1・10
芦川進一著『「罪と罰」における復活』河合文化研究所・河合出版2007
清水 正著『ドストエフスキー論全集1』D文学研究会2007
下原敏彦著『ドストエフスキーを読みながら』鳥影社2006
『ギャンブル』下原敏彦「ドストエフスキーとギャンブル」                                  
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編集室便り
☆「2008年、読書と創作の旅」は、本通信からスタートします。
☆課題原稿、社会評、創作など歓迎します。学校で直接手渡すか、下記の郵便住所かメール先に送ってください。
「下原ゼミ通信」編集室宛
住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
☆本通信はHP「土壌館」に掲載されています。
主なテキスト志賀直哉1883年(明治13年)~1973年(昭和48年)
 テキストにする志賀直哉の車中作品のなかで、特に注目するのは、以下の2作品です。
『灰色の月』62歳
1946年(昭和21年)『世界』創刊号に発表。「続続創作余談」には、
『灰色の月』はあの通りの経験をした。あの場合、その子供をどうしてやったらいいか、仮に自家へ連れて来ても、自家の者だけでも足りない食料で、又、自身を考えても程度こそ異ふが、既に軽い栄養失調かかっている時で、どうする事も出来なかった。全くひどい時代だった。
とある。
「じけんですか!?」彼女はびっくりて聴いた。「なんの事件ですか・・・・」
 私は、女将さんの興味深々のつぶやきを背中にききながら大家の玄関に行って黒い受話器をとった。
「はい、かわりましたが」
「あなた、トッちゃんといいます?」
「はい、そうです」私は答えた。「小さいころ田舎の方で、そう呼ばれてました」
「ああよかった。トッちゃんとだけしか書かれてないもので」
本当かわざとかわからないが受話器の向こうから、ほっとしたため息がきこえた。つづいてあらたまった声で言った。「私、警視庁羽田署のものですが、今日、これから伺いますから、お願いします」
 丁寧だが、こちらの都合などまったく聞く様子はない。友人のA君から二三日前に、電話をもらっていた。警察に二度調書をとられ険悪になったという内容だった。やっぱりきたか。
不安になったが、やましいものはなにもない。羽田署から二時間はかかる。が、私は、図書館行きをやめて部屋で待つことにした。アジアの旅はまだ終わっていなかった。

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