文芸研究Ⅲ 下原ゼミ通信No.12

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2019年(令和元年)7月2日発行

文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信No.12

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
4/9 4/16 4/23 5/7 5/14 5/21 5/28 6/4 6/11 6/18 6/25 7/2 7/9 7/16 7/23 
観察から創作へ

2019年ゼミⅢ読書と創作の旅

7・2下原ゼミ

6・25ゼミ報告 2019年度の旅、5名
       
 この日の参加者、西村美穂、吉田飛鳥、中谷璃稀、山本美空、佐俣光彩の5名
    
【ゼミ合宿報告】 西村・事務局 → 銀行口座振り込み依頼書の配布 5名に  

【ナイフ投げ曲芸師妻殺害疑惑裁判・主文】神尾、西村、吉田、中谷

【にんじん「にわとり小屋」】を読む 児童虐待はあるかの議論 提出レポート4本有り

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現代の英雄たち ?

■6月28日、主要20カ国・地域首脳会議(G20サミット)開催地、大阪に集まった各国首脳・要人たちは、さしづめ現代の英雄であろうか。■ドストエフスキーの『罪と罰』でいえば、人類二分法「非凡人」「凡人」のふるいにかけ、めでたく「非凡人」の仲間になった人たちといえる。したがって、彼らには特権がある。法を越えても許される自由がある。■サウジアラビアの皇太子は、記者殺害疑惑があるのに、どこ吹く風、次回の議長国を笑顔で引き受けた。■アメリカ大統領トランプ氏の予測のつかない、経済第一主義の行動。彼も、また英雄なのだろう。もはや「自由主義は時代遅れだ」と、ロシア大統領プーチン氏は、鼻先でせせら笑う。■7月1日朝日新聞「天声人語」は、この流れを危惧してか、こう警鐘している。「ロシアに限らず権威主義や個人崇拝が幅を利かせる国が増えてきている。自由や民主が忌み言葉になる日が来ないといいが」と。(編集室)
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ゼミ合宿について

☆銀行口座振り込み依頼書配布 → 中谷、山本、佐俣、吉田、西村
           未配布 → 志津木、神尾、東風、松野

参加者 =  予定ゼミⅡ7、ゼミⅢ7。14名。

場 所 = 長野県下伊那郡阿智村昼神温泉郷

目 的 = ・「熊谷元一写真童画館」見学
      「一年生の写真」「山村70年の写真」「風化する山村の遊び」を知る。
・「満蒙開拓平和記念館」見学 
国策「満州国建設と山村の悲劇」を知る。 日本の近代史を学ぶ。

行 程 = 9月5日(木)~6日(金) 

5日 8時05分パスタ新宿発・飯田行→2時間→双葉(15分休憩)→2時間→
12時06分「伊賀良」下車(宿送迎車)→ 昼神温泉郷(12時40分昼食・
休憩)徒歩 → 3時半「熊谷元一写真童画館」見学 温泉郷散策(自由
時間)夕食後、8時頃バス → ロープウェイ駅 → 星空見物(雨天の
場合はなし)→11時宿に戻る就寝。

6日 朝市見物・朝食 →10時「満蒙開拓平和記念館」見学 → 東山道の宿場町「駒場」商店街を歩く、打ち上げ会場(南国飯店)まで→12時半昼食、名物五平もちなどで打ち上げ → 「伊賀良」りんごの里4時19分高速バス → 8時30分前後パスタ新宿着。解散

宿泊=ひるがみの森(ひるがみのもり)
 
5人部屋4室(8800円+TAX+ 入湯税/ ひとり)、1人部屋1室(9800円/ 先生)
 露天風呂あり 朝夜会場移動 ロビーのみWiFi あり

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凡その金額

高速バス往復(8000) + 宿泊(8800) + 5日昼食(1000) + 「熊谷元一写真館」入館料(350) + 「満蒙開拓平和記念館」入館料(500) + 6日 名物の五平もちを食べる。打ち上げ(南国飯店)1500程度
☆星見物の場合(ロープウエイ)乗車+3500 雨天中止の場合返却。
()内は前後金額、割引有る場合も
       
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ルピック家観察報告 虐待のニュースが後を絶たない。児相はじめ、学校、教育委員会、警察と子ども救うべき公的機関は万全。法律的権限ももっている。
しかし、子どもたちを救うことはできない。なぜか? 観察力、想像力のなさが要因のようだ。ルナール(1864-1910)の『にんじん』の家族を観察しながら想像力を養ってみよう。

令和元年の6月のある午後、3ゼミ教育委員会にこんな電話があった。
「ルピックさんの家族、おかしいんです」
「どこが、です ? 」
「さあ、どこといっても…」声の主は、戸惑い躊躇し受話器をおいた。
「ルピック家に家族問題があるとか――」
「まさか、いたずらでしょう」一家をよく知る職員は、笑い飛ばした。
「お父さんとお母さんは厳格で教育熱心だが、しっかりした家庭です。中学生の長男と長女は、勉強もできてクラス委員です。小学生の末っ子は、いたずらっ子で元気がいいです」他の職員も口添えする。
「ようするに、ルピック家は、典型的な幸せ一家、家族問題とは無縁です。不埒者がねたんだのでしょう」皆は、その意見に納得した。
「たぶん、そうでしょう。でも観察はしてみましょう」もう一人の職員が言った。
「そうですね」皆は、同意した。
 そんなわけで6月25日からルピック家の観察がはじまった。
 
ルピック家 →  郊外の一戸建て、畑もある 暮らしは中流上、5人家族。
ルピック氏 → お父さん セールスマン、亭主関白
ルピック夫人 → お母さん 口やかましい
フェリックス → お兄さん 中学3年生ぐらい 性格 長男の甚六 
エルネスティーネ → お姉さん 中学2年生ぐらい 性格 調子いい
にんじん → 主人公、小学校4~5年 性格 わんぱく坊主
オノリーヌ → 家政婦(67)
ピムラ → 犬の名前
家畜 → ニワトリ、うさぎ

「にわとり小屋」を観察

報告書・中谷璃稀  家族の対応、にんじんが可哀そう 虐待は ?

 ただただ可哀そうな気持ちに苛まれた。同時に、にんじんの家族はなんて薄情なのだと呆れた。しかしながらその中でも二番目のお姉さんは、少しばかり情けがある人なのかもしれない。にんじんが決心して家を出るとき、ろうそくを持って途中まで連れていくときは、優しい一面の持ち主なのだろうと思った。
 だがろうそくの日が消えるや否や、なんの迷いもなく撤退。にんじんを待つことなく戻っていく。それに加えて、にんじんが帰ってきたときには、なんの声もかけてやらない。かなり悪質な態度だ。
 完全に丸投げする一番年上のお兄さんもなかなか商魂が腐っている。といっても、最上級に悪いのがお母さんだろう。最初から最後まで酷いやり方をする。
 結果的に、にんじんの仕事へと強制的に移行させたことが極めて悪質な対応だ。にんじんの誇らしさが、一瞬で消え去ってしまう感覚だった。
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報告書・佐俣光彩    にんじんの心情が切なく悲しい

 精神への暴力も立派な虐待なので、ルピック家の母親はにんじんに対して児童虐待をしていると思う。今回は「にわとり小屋」しか読んでいない為、断言はできないが、ルピック家に普通の家族とは少し違うように感じた。
 普通の家族だったら、まず大人である母親が率先していくべきだし、もし子どもたちに行かせるなら、二人組で行かせるだとか、そうでなくても幼い男の子が一人で暗いところまで勇気を持って行ったんだから、ほめてあげるだろう。母親のにんじんがやって当たり前、という態度がお兄さんやお姉さんにも影響を与えてしまっていっそうにんじんが孤立してしまっているように感じる。
また、にんじんは「きっとほめてくれるにちがいない」と、家族をまだ信じているであろう心情がとても切なく悲しい。

報告書・山本美空  母親の外道に違和感、「厳しさ」を越えている

 普通の家族ではないと思った。あげて行くと切りがないくらい、この話は異質な部分が多い。特に気になった点をあげるなら、三番目の男の子に「にんじん」とあだ名をつけたのが母親であるという点だ。他の二人がどんな容姿をしているのかは描写がないので分からないが、たとえにんじんだけが赤髪でそばかすだらけでも普通の母親であれば、容姿など気にせず、愛情をもって接するはずである。
 母親の言動は、子どもへ対する「厳しい」の域を越えており、にんじんになら何をしても良いという空気が漂っている。にんじんが実の息子じゃなければ少しは納得できた。

報告書・西村美穂  家庭内のいじめのようにみえる

 いつもこれを読むたびに、逆ならばまだ理解できるのに、と思う。にんじんが一番お兄ちゃんなら、あるいは「―――もうそんなに大きくなったというのに―――」の台詞通り子どもへの教育として長男がたまたま矢面に立つ構図がありそうだ。
 しかし一番年下であるはずのにんじんに対し一番辛辣にあたり、家政婦という家族「外」の人の仕事をにんじんの仕事にしてしまう。どことなく学校内のグル―プでのいじめのような、お互いを信頼しきれていない雰囲気を感じる。もしこれが現代で、にんじんが一時的に家族から離されたとしたら、二番目のエルネスティーヌがにんじんのようになるのではないだろうか。

虐待ニュース あとを絶たない虐待死事件のニュース

■小4虐待死 母に猶予判決 朝日新聞 2019.6.27

千葉県野田市の小4年、栗原心愛(みあ)さん(当時10)が虐待死したとされる事件で、生涯幇助罪に問われた母親のなぎさ被告(32)に対し、千葉地裁は26日、懲役2年6カ月保護観察付執行猶予5年(求刑懲役2年)の判決を言い渡した。
主文 「刑務所に入れることも考えたが、社会で更生する道を与えた」

■2歳衰弱死 再逮捕へ 札幌 母ら遺棄致死容疑

 札幌市の池田詩梨(ことり)ちゃん(2歳)が衰弱死し母親の池田莉菜容疑者(21)と交際相手の藤原一弥容疑者(24)が逮捕された事件で再逮捕が決まった。
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7/2ゼミ 家庭観察 テキスト『にんじん』訳高野 優       
        
「ヤマウズラ」「犬」「悪夢」「人に言えないこと」を観察しましょう。

Q.家族総出の作業「ヤマウズラ」、家族の団結は、どうでしたか。

  1.普通    2.何かへん   3.ひどすぎる

Q.「犬」では、にんじんと家族の態度をどう思いましたか。

1.普通    2.何かへん   3. 異常

Q.「悪夢」では、母親をどう思いましたか。

 1.普通   2.変だ   3.可愛がっている(一緒に寝るので)

Q.「人に言えないこと」、母親の行為は真実か。

 1.本当かも  2.ありえない  3.こらしめのための演技

Q.「人に言えないこと」、母親の行為を弁護するとすれば。

 1.なおそうと努力している。 2.にんじんが努力しないから 3.にんじんは鬼っ子だから

□「ヤマウズラ」「犬」「悪夢」「人に言えないこと」から、この家族の印象。

 1.平凡な 5人家族  2.幸福な一家  3.不安な一家  4.児相に連絡する

土壌館日誌     道場は今日も開店休業
 
 「どうせ、だれもこないんでしょ」家人はあきれ顔で言った。今春、最後の小学生が卒業してから子供がいなくなったわ土壌館道場。開設30余年、こんなことは1度もなかった。新学期がはじまってから、この3カ月、ただの一人も見学者なし、入門者なし。
しかし、だれも来ないからといって道場を閉めておくわけにはいかない。客がこないからと店を閉めておくようなものだ。そんなわけで、水曜日は、いつも通り、時間まで道場を開け、電気をこうこうとつけての一人受け身と一人体操している。
友人がきて、クーラーがないせいだといってクーラーを取り付けていった。畳が痛いからではと、大人の門下生が、投げ込みマットを自前で注文した。そんな助けに、このオンボロ町道場、まだしばらくはつづけてみようと思う。子どもがだめならお年寄りがあるさ、というわけで、こんなビラをはった。
「転ばぬ先の受け身」一緒に、受け身の稽古しませんか。高齢者歓迎 !
「誰も来ないわよ」と家人は笑う。が、昨夜、出会った84歳になる自治会のお年寄り、「みんなに呼び掛けていますから。そのうちゆきますよ」との頼もしい返事。
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ゼミ合宿・熊谷元一写真童画館 ゼミ合宿に備えて

熊谷元一年譜

・1909年(明治42)熊谷元一、長野県伊那谷会地村(現阿智村)に生まれる。
・1923年(大正12)14歳、長野県立飯田中学校に入学。
・1930年(昭和5)21歳、智里東小学校に代用教員として勤務。
・1931年(昭和6)22歳、童画家武井武雄に師事。
・1932年(昭和7)23歳、市田小学校吉田部校へ転勤。投稿童画「ねぎぼうず」が入選。『コドモノクニ』5月号に掲載。
・1933年(昭和8)24歳、『コドモノクニ』で「すもう」発表。2・14赤化事件に連座し、2月20日市田小学校退職。
・1934年(昭和9)25歳、童画家武井武雄の依頼により、カメラを借りはじめて「かかし」を撮る。
・1936年(昭和11)27歳、パーレットの単玉を17円で求め毎日村をまわり村人の生活を撮る。
・1938年(昭和13)29歳、朝日新聞社刊『會地村』刊行。
・1939年(昭和14)30歳、拓務省嘱託、満蒙開拓青少年義勇軍撮影。
・1945年(昭和20)36歳、4月東京で空襲にあい満州関係のネガ消失。6月拓務省退職、7月応召、熊本で終戦。10月智里東国民学校勤務。5年担任。
・1949年(昭和24)40歳、会地小学校へ転勤。
・1953年(昭和28)4月1日「一年生」入学 65名 東組担任。
・1953年(昭和28)44歳、岩波写真文庫『一年生』を撮る。
・1955年(昭和30)46歳、『一年生』刊行。第一回毎日写真賞受賞。
・1956年 (昭和31) 47歳 『一年生』4年まで受け持つ。
・1966年 (昭和41) 57歳 教員を退職 一家で上京。清瀬に転居。
・1968年 (昭和43) 59歳 絵本『二ほんのかきのき』を出版。
・1971年 (昭和46) 62歳 清瀬市の自然の写真を記録しはじめる。
・1976年 (昭和51) 67歳 清瀬市自然を守る会快調に就任。
・1981年 (昭和56) 72歳 「伊那谷を写して50年展」。
・1986年 (昭和61) 77歳 「教え子たちの歳月」「清瀬の365日」展。
・1988年 (昭和63) 79歳 昼神温泉に「ふるさと童画写真館」開館。
・1990年 (平成2)  81歳 日本写真協会功労賞受賞。
・1994年 (平成6)  84歳 地域文化功労者文部大臣賞受賞。
・1995年 (平成7)  86歳 第二回信毎賞受賞。
・1996年(平成8)  88歳、50歳になった一年生撮影で全国行脚。
・2001年(平成13) 92歳、写真集『五十歳になった一年生』。
・2010年(平成22) 100歳、記念文集『還暦になった一年生』。
・2010年(平成22) 101歳 11月6日、逝去。

2000年7/29-9/17、東京の江戸東京博物館で開催された「近くて懐かしい昭和展」は、昭和をなつかしむ大勢の人たちでにぎわった。美空ひばり、力道山、長島茂雄。戦後の昭和を飾った著名な人たちの記録や映像が人気を博していた。そのなかにあって、ひときわ入場者の関心を引いた写真展があった。昭和28年(1953年)写真家・教師だった熊谷元一が、教え子の一年生を一年間、撮影した写真だった。
熊谷は、写真のほかに一年生の「絵」「声」「文集」「黒板絵」を残した。
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ドストエフスキー市民講座 「ナポレオンになりたかった青年の物語」

『罪と罰』を読む

 ドストエフスキーの作品のなかで人気があるのは、世界的にも『罪と罰』のようだ。とりわけ日本ではよく読まれ、評論集も多い。日本で、ドストエフスキーの作品が最初に読まれたのは、明治25年(1882年)『罪と罰』が英語訳から重訳されたときからである。最初に読んだのは訳者の内田魯庵という小説家。初版は、明治25年11月4日、出版は11月10日となっている。この名作の余りにも有名な出だしを少し紹介すると、記念すべき第1作のはじまりはこのようであった。

小説 罪と罰 上篇 第1回 内田魯庵訳

 7月上旬或蒸暑き晩方の事、S…「ペレウーロク」(横町)の5階造りの家の道具付の小座敷から1少年が突進して狐疑逡巡の体でK…橋の方へのツそり出掛けた。

この作品を一番先に読んだのは訳者の内田魯庵だが、その感想は、劇的なものであった。

恰も、荒野で落雷に会って眼くらめき耳ろうひたる如き、今までにかってない甚深の感動を与えられた。(二葉亭余談)
この衝撃と感動は、これ以降、訳者が変わっても明治、大正、昭和の時代を文学者から文学者にと受け継がれていく。例えば昭和41年初版発行の江川卓訳は

 七月はじめ、めっぽう暑いさかりのある日ぐれどき、ひとりの青年が、S横丁のせまくるしい間借り部屋からおもてに出て、のろくさと、どこかためらいがちに、K橋のほうへ歩きだした。
と訳されている。が、その衝撃度訳は変わらなかった。内田魯庵の感動から戦後の「族」、そして現在の「好き」とつづく体験者の存在が証明している。いま、この瞬間でも、どこかで誰かが、あらゆる観念が崩壊する深甚の衝撃と感動を受けているに違いない。
 ドストエフスキーが読者に与えた衝撃と感動。そこには、危険なものもある。例えば『罪と罰』この作品は、文字通り犯罪行為の罪と罰を問うたものだが、もう一つ別のテーマも掲げている。それは非凡人と凡人思想だ。1人を救うために99人を犠牲にできるのか。99人を救うために1人を犠牲にできるのか。人類に提起された永遠の問題である。富国強兵策で新しい国づくりを急ぐ明治政府は、次第に国民に犠牲を強いるようになっていった。
 『罪と罰』は、戦後は国家の英雄主義から個人の英雄主義に転じた。40年に渋谷で起きた猟銃乱射事件以降その傾向が多くみられた。そして、その個人の英雄主義は、より先鋭化して平成の今日までつづいている。他者を省みない怪物は国家から社会に、社会から家庭に入り込み夫婦、両親、兄弟内での殺人事件を起こしている。(「団塊とド」下原)

『罪と罰』に関する研究書・評論書も多い。何冊かを紹介する。

「『罪と罰』における復活」芦川進一著 河合文化教育研究所 2007.12.5
「ドストエフスキー・ノート『罪と罰』の世界」清水孝純著 九州大学出版会 1981.6.1
「謎解き『罪と罰』」江川卓著 新潮選書 1986.5.15
「『罪と罰』の世界」清水正著 D文学研究会 2008.9.20
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2019年度下原ゼミⅢ日誌

 なんともすばらしい日になった。100%とはいかなかったが、あと1人で全員出席、そんな夢が実現しそうになった。9名出席!
 6・18現在、下原ゼミⅢは9名の登録者+1聴講生、計10名の受講生です。以下が参加の10人の皆さんです。

・志津木 喜一         5/7       5/28     6/11

・神尾 颯  4/16    4/23 5/7   5/21 5/28 6/4   6/11  6/18

・松野 優作         5/7              6/11 

・西村 美穂 4/9 4/16 4/23 5/7 5/14 5/21 5/28 6/4 6/11  6/18 6/25

・吉田 飛鳥 4/9 4/16 4/23 5/7 5/14 5/21 5/28 6/4 6/11  6/18 6/25

・中谷 璃稀 4/9 4/16 4/23 5/7 5/14 5/21 5/28 6/4 6/11  6/18 6/25

・佐俣 光彩 4/9 4/16                6/4 6/11     6/25
 
・東風 杏奈 4/9 4/16  6/11

・山本 美空 4/9 4/16 4/23       5/21    6/4         6/25

・蓑野 悦子             5/14

 
       7  6  5  5 6  4  5  5  5  6   8  4   5

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読書会のお知らせ ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」
どなたでも自由に参加できます。下原まで

月 日 : 2019年8月10日(土)
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)
 開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分
作 品  : 『カラマーゾフの兄弟』4回目
報告者 : 石田民雄さん

※「ゼミ通信」掲載は、メール可

連絡090-2764-6052下原  toshihiko@shimohara.net

昭和恐慌と試験的移民期[編集]
満蒙開拓団の事業は、昭和恐慌で疲弊する内地農村を中国大陸への移民により救済すると唱える加藤完治らと屯田兵移民による満州国維持と対ソ戦兵站地の形成を目指す関東軍により発案され、反対が強い中、試験移民として発足した[2]。1936年(昭和11年)までの5年間の「試験的移民期」では年平均3000人の移民を送り出した[2]。
二・二六事件と本格的移民期[編集]
しかし、同年の二・二六事件により政治のヘゲモニーが政党から軍部に移り、同事件により高橋是清蔵相も暗殺され、反対論も弱まり、広田弘毅内閣は、本事業を七大国策事業に位置付けた[2]。同年末には、先に関東軍作成の「満州農業移民百万戸移住計画」をもとに「二十カ年百万戸送出計画」を策定した[2]。その後の1937年(昭和12年)には、満蒙開拓青少年義勇軍(義勇軍)の発足、1938年(昭和13年)に農林省と拓務省による分村移民の開始、1939年(昭和14年)には日本と満州両政府による「満洲開拓政策基本要綱」の発表と矢継ぎ早に制度が整えられた[2]。1937年(昭和12年)から1941年(昭和16年)までの5年間は「本格的移民期」にあたり年平均送出数は、3万5000人にのぼる[2]。
日中戦争と移民崩壊期[編集]
日中戦争の拡大により国家総力戦体制が拡大し内地の農村労働力が不足するようになると、成人の移民希望者が激減したが、国策としての送出計画は変更されなかった[2]。
国は計画にもとづきノルマを府県に割り当て、府県は郡・町村に割り当てを下ろし、町村は各組織を動員してノルマを達成しようとした[2]。具体的には補助金による分村開拓団・分郷開拓団の編成、義勇軍の義勇軍開拓団への編入などである[2]。それでも、予定入植戸数(一集団の移民規模;200から300戸)に達しない「虫食い団」が続出した。「移民崩壊期」である[3]。
1940年(昭和15年)には、同和地区からも開拓団が編成され、1941年(昭和16年)からは統制経済政策により失業した都市勤労者からも開拓団を編成した[4]。結局、青少年義勇軍を含めると約32万人が移住したことになる[1]。
開拓民が入植した土地はその6割が漢人や朝鮮人の耕作していた既耕地を買収した農地であり、開拓地と言えない土地も少なくなかった[4][5][6]。
ソ連参戦と終焉[編集]
太平洋戦争末期の戦局の悪化により、開拓団からの招集も増えるようになり、特に1945年7月の「根こそぎ動員」では、約4万7000人が招集された[2][7]。同年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、関東軍は開拓移民を置き去りにして逃亡した[2]。ソ連参戦時の「満蒙開拓団」在籍者は約27万人であり、そのうち「根こそぎ動員」者4万7000人を除くと開
拓団員の実数は22万3000人、その大半が老人、女性、子供であった[8]。男手を欠いた開拓移民は逃避行に向かい、その過程と難民生活で約8万人が死亡した[2]。主に収容所における伝染病感染を含む病死、戦闘、さらには移民用地を強制的に取り上げられ生活の基盤を喪っていた地元民からの襲撃、前途を悲観しての集団自決などが理由である[2]。敗戦時に旧満州にいた日本人は約155万人といわれるが、その死者20万人の4割を開拓団員が占める[1]。
自決や殺害の危機を免れ辛うじて牡丹江やハルピンに辿りついた人々は、麻袋の底をくりぬいて身に纏う避難民の姿が目立った[8]。運よく貨車を乗り継いで、長春や瀋陽にまで辿り着いた人々もいたが、収容所の床は剥ぎ取られ、窓ガラスは欠け落ち、吹雪の舞い込む中で飢えと発疹チフスの猛威で死者が続出した[8]。孤児や婦人がわずかな食料と金銭で中国人に買われていった[8]。満州に取り残された日本人の犠牲者は日ソ戦での死亡者を含めて約24万5000人にのぼり、このうち上述のように8万人を開拓団員が占める[9]。満州での民間人犠牲者の数は、東京大空襲や広島への原爆投下、沖縄戦を凌ぐ[9]。
内地に生還した元開拓移民も、引き揚げ後も生活苦にあえぎ、多くが国内開拓地に入植したが、南アメリカへの海外移民になった者もいた[10]。
その他に約1万人の残留孤児、残留婦人が存在する[10]。この帰還は、1972年(昭和47年)の日中国交正常化から21世紀まで続く現代的な問題である[10]。
開拓団員と義勇隊員併せて3万7000人の移民を送り出した長野県[11]内に満蒙開拓平和記念館(同県下伊那郡阿智村)がある[1]。同記念館は、2014年に、開拓団の生活やソ連軍侵攻後の逃避行についての聞き取り調査する活動を、中国人目撃者から聞き取る活動を行った[1]。黒竜江省方正県大羅密村の最年長男性によると、ソ連国境近くにいた開拓団民が同村まで徒歩で逃れてきたが「開拓団民はみなぼろを着て、女性は丸刈りだった。生活は苦しく、中国人に嫁いで子供を産み、何年もしてやっと帰国できた」などの体験談などを得ている

ドストエフスキー講座  ゼミ合宿に寄せて 『罪と罰』編

熊谷元一とドストエフスキー

 ドストエフスキーの強みというか便利さは、どんなことにも対処でき、論じることができるということだ。例えば、『アインシュタインとドストエフスキー』(B・クズネツォフ著 小箕俊介訳 れんが書房新社1985.6.30)のような場違いの分野、科学者との比較もあれば、『聖書とドストエフスキー』(芦川進一著 河合文化教育研究所2007.12.5)のように宗教との比較もある。『ドストエフスキーとマルクス』(河原宏著 彩流社2012.6.1)といった思想家との比較もある。何々とドストエフスキー、ドストエフスキーと誰々など、あげていったらきりがない。
そんなわけで、むろん今年のゼミ合宿で見学活動する「熊谷元一写真童画館」「満蒙開拓平和記念館」も例外ではない。両者も、しっかり比較評論することができる。
しかし、山村の一小学教師・熊谷元一と戦前の満蒙開拓記念館。どちらもドストエフスキーとは、関係なさそうにみえる。熊谷は、山村のアマチュアカメラマン。満蒙開拓平和記念館は、戦前の日本の国策の悲劇を伝える資料館。どこにドストエフスキーが入り込む余地があるのか。接点があるのか。あったのです。『罪と罰』を再読していたら両館が、色濃く重なりました。
この夏、南信州の山村で知る、ある写真家の『罪と罰』。

満州国と熊谷元一

熊谷元一写真童画館と満蒙開拓平和記念館、見学だけではドストエフスキーは見えてこない。両館には、謎があるからだ。その謎とは何か。
戦前、大日本帝国が中国の北東部に創った傀儡国家「満州国」。この国家と熊谷元一は深いかかわりがある。しかし、熊谷元一写真童画館では、その事実を知ることはない。なぜか、展示作品に満州の写真も「満州国」資料も展示されていない。目にした覚えがないからだ。満蒙開拓平和記念館においても同様である。この館には、熊谷元一の名は、どこにもなかった。むろん展示物も…こちらもそのように記憶している。
しかし年譜には、熊谷と満州の関係は、以下のようにしっかり記されている。

(熊谷元一著『三足のわらじ』南信州新聞社出版局 平成14年)
・昭和14年(1939年)30歳 
      写真集『会地村』により6月拓務省(大東亜省)嘱託となり上京する。満蒙開拓青少年義勇軍関係の仕事をする。
8月、約1カ月満州に出張する。
・昭和16年(1941年)32歳
      満州へ1カ月出張。
・昭和18年(1943年)34歳
      満州へ1カ月出張。

※熊谷は、大東亜省(拓務省)時代のことを、自伝『三足のわらじ』(南信州新聞刊)でこのように書いている。

「昭和20年6月退職するまで、全国各県で催された義勇軍募集のための講習会、写真撮

影、満州へも14年、16年、18年と3回行った。18年には私の飯田中同級生の原為二
さんが団長で、会地村出身者が5名いる北満のイラハ訓練所を尋ねた。
 一望千里の実に広々とした畑で、大きなキャベツやジャガイモを収穫する様子を写真に
納めた。皆元気で活躍されている姿を見て安心した。開拓団では木曽の「読書村」北信の
「大日向村」水曲柳の「川路村」なども廻った。
私ことだが家内の弟の17年に入隊した
白子富雄君を安寧舞台に訪ね、昼食を共にさせてもらい、川路出身の牧内君と一緒にしば
らく話し合えてよかった。写真は禁止されているが背景はいれないようにとのことで注意
して写させてもらった。
 別れてから程遠くないソ連国境の町、黒河まで行った。黒竜江をへだててブラコチチェ
ンスクの町を望んだ時、その静かな風景に驚くとともにはるばる来たのを痛感した。昭和
18年8月28日のことであった。川の小石をそっと三つ拾ってきたことを思いだす。」
(2年後、ソ連軍は条約を破って突然の進撃。満州は地獄絵と化した)

熊谷元一の踏み越え

2010年11月6日、熊谷は都下の老人施設で101歳の生涯をとじた。そのとき、マスメディアは、写真家、童画家としての熊谷を称え惜しんだ。そこに1行の満州も見いだすことはできなかった。「人間万事塞翁が馬」のごときだった熊谷の人生を辿れば、満州時代は、熊谷に輝かしい舞台を与えてくれた場所だった。人生の華々しい頂点のはずだった。
信州の山村で生まれ育った熊谷は、画家をめざすが、図らずも童画家の世界に、そして写真家の道にと舵をきったが、突然の大東亜省官吏は、願ってもみなかった職場だった。
画家を夢みて東京に向かうはずだった熊谷は、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いにあった拓務省(大東亜省)の官吏として上京した。青少年義勇軍の撮影班だった。社会的には、華々しい出世街道だった。信州の山奥の村から、いきなりの檜舞台。手放しで喜ぶべき現実。
清国との戦争は、連戦連勝。戦勝景気に沸く東京の街。それは、熊谷にとってラスコーリニコフの前に聳える山脈だった。踏み越えなければならない一線だった。英雄になるためには、越さなければならない障害物。日本は必死だった。満州国という理想国家を完成させるためには、日本の貧しき人々の協力という犠牲が必要だった。
【ゆけ、満蒙の地に】世界から非難されていた傀儡国家満州。日本は、中国東北部に理想国家を建設するため、恥も外聞も捨てて邁進した。満州は、熊谷にとって踏み越えなければならない一線だった。写真家として飛躍するために、画家への道を開くために。
『罪と罰』の主人公、ラスコーリニコフは、人々に幸福と平和をもたらすため、人類救済のため、ナポレオンのような英雄になりたいと願望した。自分を非凡人と仮定したかった。非凡人、即ち英雄には、どんなことも許されている。
英雄になるための資格。それは、強欲でシラミのような金貸し婆さんを殺すことだ。奇妙な論理に取り憑かれた彼は、なんども空想し、下見しついには実行する。彼は、英雄になれたか ? 否、殺人行為を悔いるという心、、そんな心がでてきたことに苦しめられる。本当の英雄なら、悔いる心は生まれない。更なる殺人を積み重ねていく。1人殺せば殺人犯、3人殺せば殺人鬼、100人殺せば英雄だ。

踏み越えからの引き返し

人間を殺したという罰の心。その心に苦しむラスコーリニコフは、ついに持ちこたえられなくなって自首してしまう。もし、かれが罰する心に打ち勝って、そのままの道を歩んでいたら、第2、第3の殺人を重ねていたら、彼は、英雄になれただろうか。
満州という一線を踏み越えてしまった熊谷だが、その満州で、プロパガンダ撮影を認識した。たとえ敗戦となっても、熊谷の未来は東京において輝いていた。しかし…

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