文芸研究Ⅲ 下原ゼミ通信No.14

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2019年(令和元年)7月16日発行

文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信No.14

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
4/9 4/16 4/23 5/7 5/14 5/21 5/28 6/4 6/11 6/18 6/25 7/2 7/9 7/16 7/23 
観察から創作へ

2019年ゼミⅢ読書と創作の旅

7・16下原ゼミ

7・9ゼミ報告 2019年度の旅、2名
       
この日の参加者、西村美穂、吉田飛鳥、
    
【ゼミ合宿報告】 西村・事務局依頼 → 高速バス予約吉田1カ月前8/5  

【ルピック家観察】「猟銃」「もぐら」

エッセイ紹介 「ドストエフスキーと三島事件」下原
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日中戦争の開始

■1937年(昭和12年)7月7日夜、東京の下町では、昼間七夕祭りがおこなわれ浴衣姿の子どもたちが楽しげに遊びまわっていた。どの家の門にも笹の葉が飾られ、願いが書かれた色とりどりの短冊が、時おり吹く風に揺れていた。平和な風景だった。■東京から海を越え遠く離れた北京郊外の盧溝橋付近、朝からピリピリした緊張感が張りつめていた。夜になっても、その緊張は解かれなかった。しだいに闇が濃さを増すなかで、辺りに聞こえるのは虫の音のみであった。その虫の音がよけいに静寂を深めていた。暗闇のなかで銃を構えた兵隊たちはビクとも動かない。■突然、長い沈黙を破って一発の銃声。つづいて橋左右から、ものすごい爆発音と火柱、白煙。まっ暗闇だった盧溝橋付近は、突如線上となった。辺りは飛び交う砲撃で昼間のように明るい。長くつづくぬかるみ、ヒロシマ、ナガサキへとつづく日本転落の序曲は、こうしてはじまった。(創作ルポ・編集室)

※参加者数によってDVD「追悼熊谷元一」NHK長野。特番「黒板絵」朝日長野放送を観賞
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ルピック家観察報告 ルピック家に虐待はあるのか。観察者のレポート。

以下、未読

佐俣光彩・報告    精神的苦痛を与えている

 「尿瓶」も「うさぎ小屋」もどちらの話も虐待だと感じた。母親は、どうしてにんじんだけ差別と迫害を続けるのだろうか。お兄さんやお姉さんには尿瓶が容易されているとかかれているいたし、わざとにんじんにだけ尿瓶を用意せず、漏らしてしまったことを知ってから尿瓶をこっそり持ってきて最初からあったように見せたことも全て他の兄姉との差別だしいじめだと思った。騒ぎ立てて家族を呼び出し近所の人たちまで集めて、あきらかににんじんに精神的苦痛を与えている。
 「うさぎ小屋」も母親が実際にメロンが嫌いで、メロンを食べていないのだろうか。母親が食べていないからと言ってにんじんにも食べさせないのは、どちらにせよ、おかしいと思った。子どもに自由を与えない、選択肢を与えないのも、十分虐待だと言える。

□お母さんは、兄や姉が怖いのかもね。にんじんだけが損な役回り。

山本美空・報告     にんじんが可哀そう

 にんじんは、母親の言うことを素直に聞いている、だなんて優しいものじゃなく、にんじんは、母親から一種のマインドコントロールをされているような気がした。〈〉の中のにんじんの言葉は、まるで自分自身に言い聞かせて無理やり落とし込んでいるようないんしょうがあった。母親の前でもメロンは嫌いなものではなく美味しいものなのに、母親の前で食べることは許されないにんじんは、今後メロンが好きだと思える日が来ないというのが、かわいそうだ。
 好きなものを好きと言えない環境は個人を尊重されない最悪の状態だと思った。

□母親は、どうして「にんじん」ばかりを叱るのか。

東風杏奈・報告   にんじんに自覚がないのが怖い

にんじんが素直な性格、ママの言うことに絶対ということは分かりました。閉鎖的空間、関わる人の少なさからも、ほぼ洗脳に近いものだと思いました。にんじん自身は、それがおかしいことに、間違っていることに気づきなどしないでしょう。相違というものは比べるものがあって初めて違うと気づくのです。ママが絶対である空間に居続けるかより、にんじんはメロンが嫌いです。ママが悪いと言ったら自分が悪いのです。
きっと私たちからしたらにんじんが不憫だと思う人の方が多いかも知れませんが、この話の怖いところは、にんじん自身が不幸と感じている様子がないところです。彼は、それを風と感じ、自分の環境になんの疑問も抱くことはないでしょう。いつか素直なにんじんがその現実に直面してしまった時が一番恐ろしいなと私は思いました。

□思春期になったら、「にんじん」どうなるでしょうね。

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西村美穂・報告  なぜ、こんな家庭になったか、原因はどこに

 どうか全てにんじんの被害妄想であってほしい。何の変哲もないきれいなスープ、実はにんじんがそうであってほしいと願っただけで、ベットの下にちゃんと置いてあった尿瓶…。思わず救済を求めてしまうほど悲しくなる話だった。ひとつ考えるとするならば、全ての話が、にんじんの視点から描かれているという点だろうか。小学4、5年の一番わんぱくざかり、よもや、お母さんも赤ちゃんの時から辛くあたることはないはずだ。
何がきっかけで、どのタイミングで一家がこうなったのか。ターニングポイントがあるはず。上の二人の兄姉が優秀というのも要因かもしれない。
一般的に見れば、普通のにんじんも、一人目、二人目と手のかからない子育てしか経験していないお母さんから見れば、悪魔の子に見えるのかもしれない。もっとも、お母さんの法にどこかヒステリックな病魔を強く感じた。

□病魔…そうですねお母さんも可哀そうな人かもしれませんね。
 
【報告された疑いの虐待】第三者委員会判定結果は

6月太宰治命日に寄せて 『江古田文学』69号 20008年秋特集号から

加山雄三と太宰治
 下原敏彦

 太宰治と聞いて思い浮かぶシーンがある。いつごろか記憶は定かではないが、以前、テレビで「知ってるつもり」という人気番組があった。そこで太宰治をとりあげたときのことである。そのときの場面は、心許ないが、こんなふうではなかったかと想像する。
 たしか四十分くらいの番組で、作家の生い立ちや作品、生き方が波乱万丈風に紹介された。ゲストやパネリストには、むかし文学青年、文学少女だったらしい人が多く、会場にも太宰ファンの若い人が大勢いた。そのせいか、スタジオは、異様な熱気につつまれた。司会者も、太宰ファンか、かなり入れ込んでいた。番組の最後に作品か手紙の一節が読み上げられると、スタジオはしんみりした雰囲気につつまれた。その余韻がつづくなか司会者は、満足げに微笑みながら一人の出演者にたずねた。
「どうでしょう。見方が変わったでしょう」
 皆の視線が、一斉にその出演者に注がれた。思えばつぎの場面は、台本にあるかないかは知らないが、この番組の最高のクライマックスとなったはずである。なぜならその出演者は、番組がはじまるとき、太宰治について、作品はまったく読んでいないが、人物については、
あまりいい印象は持っていないと答えていたからである。放映された苦悩の作家の人生は、見るもの誰もの魂を揺さぶるに十分なできだった。おそらく、熱烈な太宰信奉者たちの手によってつくられたのだろう。
 皆は、待った。その出演者が感動と興奮に震えて称賛するのを・・・。
 だが、つぎの瞬間、会場の誰もが耳を疑った。
「いやあ、ますます理解できなくなりました。どうしてこんな人を」
その出演者は、呆れたように大声でアッケラカンに言い放った。
 一瞬の静寂のあと、会場にブーイングのようなため息がもれた。予想外の答えに司会者は、狼狽気味に視線を漂わせた。が、そこは教養も経験もあるベテラン司会者。すぐに笑顔を取り戻すと、慇懃無礼とも思えるほどのゆっくりした口調で
「そうですか、わかりませんか」と、小首を傾げた。
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 それにあわせたように会場のあちこちから失笑がもれた。ゲストや他の出演者たちの何人かは、苦笑しながら隣同士ささやきあっていた。
「人間の弱さが書かれていてるんですがねえ―」「やっぱり、―さんにはわかりませんか」
などといっているようにみえた。
「しかし、少しは興味がもてたでしょう・・・」
司会者は、なおもあきらめ切れない顔で、たずねた。
 大団円に水さされたのが、よほど残念だったようだ。が、やぶ蛇だった。その出演者は、困惑しながらも満面の笑みを浮かべてふたたび快活に言った。
「いゃあ、よけいに読む気がしなくなりましたよ、この人の本は」そう言って、大きく首を振ると自問するようにつぶやいた。「どうして、こんな人を・・・」
 その様子に、会場から忍び笑いが漏れた。嘲笑的な笑いだった。おそらく、その出演者が大物でなければ、お調子者の芸人が、飛び出していって
「アンタが大将。人間失格」とかなんとか揶揄して笑いをとるところだ。
 その出演者は、大物中の大物、加山雄三さんだった。歳はとっても無敵の若大将である。皆は苦笑するほかなかった。多様化された現在の芸能文化のなかで比較するのは難しいが、1960年代、加山さんの活躍は凄かった。黒澤映画や『若大将』シリーズなど銀幕での活躍をはじめ、歌手としても数々のヒット曲を歌った。また弾厚作の名で作詞作曲するなどシンガーソングライターの草分け的存在でもあった。まさにヒーロー中のヒーローだった。
 その加山さんでも、失笑される。このことは、裏を返せば太宰治は、それほどに神格化された存在ともいえる。どんなに時代が過ぎようと太宰人気は健在。太宰治は永遠に不滅。図らずも偶然に、そのことを強く印象づけた場面だった。おそらく、私も若いときなら、「やっぱり若大将だ」と皮肉まじりに苦笑していたに違いない。だが、このときの加山さんの感想は、まともに思えた。文学と縁のない人たちが思う普通の感覚にみえた。
 それにしても、加山さんは、なぜあんなにも、はっきりと、あっさり断言したのか。長年つづくバラェテイー番組の常連出演者である。社交辞令に「読んでみたくなりました」と答えてもよかったはず。その方が番組的には盛り上がったし、失笑もされなかった。
 しかし、意表を突く健康的な感想。加山さんらしいといえば、それまでだが、あまりにも加山さんらしかった。能天気ふうだった。それがかえって不自然にみえた。加山さんが太宰に対して何か確固たる信念をもっているように思えた。

 太宰死して61年。相変わらずその人気は高いようだ。こうして特集も組まれている。あの芥川賞作家の綿矢りささんも太宰ファンらしい。受賞のときのコメントにそんな言葉があったようにおぼえている。いつの時代も文学青年や文学少女は、太宰を避けて通れないようである。かく云う私も、若いとき人並みに太宰ファンだった。太宰は、日本文学のなかにあって特別な存在だった。が、私のなかではいつのころからか落ちた偶像となった。
 私の父は、十年前に亡くなった。1909年生まれで卒寿だった。あるとき、父が太宰と同
い年ということに気がついた。一瞬、感激した。が、そのうち父親が太宰のような生き方をしたら、と思うようになった。私の父親は、信州の山奥のどん百姓で猟師だった。とても比較にはならないが、結論は、たとえどんなに偉い才能ある人間だったとしても、心中願望の生き方は許せたものではない。(死ぬなら一人で死ね。他者をまきぞえにするな。それは如何なる正論があろうとホロコーストへの道)。こう考えると、文学という衣装がとれた。
 すると、それまで覆い隠されていた真実が見え始めた。その一つに、作家長篠康一郎がなめるように検証した七里ケ浜心中がある。日本中が不況のどん底にあった昭和5年3月8日、氷雨の神戸港から出航する移民船があった。日本が国策としてはじめた移民事業は22年目に入っていた。が、日本は相変わらず国民を外国に棄てていた。この日も、多くの人々が夢と希望を抱いて新天地に旅立っていった。950名の移民団、そのほとんどは東北の貧しい農家の家族だった。この移民船が目的地のサントスに着くころ、銀座にあるカフェ「ホリ
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ウッド」に頻繁に出入りする大学生がいた。東北出身の帝國大学仏文学科の学生で実家は大地主。郷里には結納をすませた芸者の婚約者までいた。そのことで勘当騒動まで起こしていた。まさに絵にかいた放蕩息子。この大学生は、何度かカフェに足を運び、店の女給と親しくなると江ノ島にある海岸で、心中事件を起こした。事件の推移は、長篠氏の検証によると、およそこのようである。
 この年の晩秋、正確には1930年、つまり昭和5年11月29日の午前8時ごろ。場所は、神奈川県鎌倉郡腰越町にある小動(こゆるぎ)神社裏手の海岸。早朝の漁にでた漁師が、海岸で、若い男女がもつれ倒れて苦しがっているのを発見した。漁師は、すぐに警察と医者に連絡、救助にあたった。漁師が苦しがっていると見た二人のうち、女のほうは、すでに死亡していた。が、男は、まだ生きていて近くの七里ケ浜恵風園に収容された。二人が服用した薬品はカルモチンであった。嚥下時刻は、前日の28日夕刻から夜半のあいだと推定された。死んだ女は小柄で、生き残った男は大柄だったことから、カルチモンの中毒作用が体に比例したとみられた。後で男は睡眠薬常用者と判明。これにより女だけ死ぬ可能性が大いとわかった。男に自殺幇助の嫌疑がかけられた。鎌倉署の調べで、二人の身元が判明した。死んだ女は、銀座のカフェー「ホリウッド」のウエイトレス田辺あつみ、本名・田部シメ子(十七歳)広島県安佐郡字小河内出身だった。長篠康一郎著『…七里ケ浜心中』の表紙にその愛くるしい写真が載っている。新劇女優を目指して上京、大半の劇団女優がそうであるように生活のためのカフェー勤めだった。12月2日生まれというから、18歳目前の死だった。生き
残った男から調書をとりはじめた刑事は、男の身元を聞いて驚いた。帝国大学の21歳の学生というのもあるが、出身地を聞いて、肝をつぶした。刑事も同じ郷里で、実家は学生の家の小作農だった。生き残った若い男が何者かわかった。担当刑事は、大あわてで横浜地方裁判所の所長に連絡した。所長は、男の縁者だった。所長は、即青森県金木町に住む男の長兄に知らせた。実家は県下で知らぬ者がいない旧家。亡父は貴族院議員。長兄は青森県会議員。大学生は起訴猶予になり無罪放免となった。
 大学生は心中オタクだった。高校時代から心中未遂を繰り返しては、それをネタに小説を書いた。男は、それで名を成し、女たちは闇の底に消えた。高まる男の名声。女たちの肉親は、どんな思いでその名を聞いただろう。これも、いつだったか忘れたが、テレビドラマで、佐藤B作演じる男(田部シメ子の兄を彷彿する役)が、またしても玉川の濁流に女を残して自分だけ助かろうとする心中作家を、こんどは、そうはさせまいと蹴り落とす場面があった。名も無き薄幸な女たちが溜飲を下げたシーンである。

 加山さんの父親は、美男日本一と称された超有名な男優である。週刊誌か何かで読んだが、晩年の父親には頭を痛めたようだ。それに加え自身も実社会では辛酸をなめて死ぬことも考えたという。テレビでは、能天気にわからない、と答えた加山さんだが、もしかして本当は、作家のことはわかっていた。だからこそ、その生き方に対し堂々と、理解できない、そんな人の作品に興味がもてないと宣言できたのでは。いまは、そう思えて仕方ない。
 せっかくの太宰治特集。青春時代に夢中で読んだよき思い出をと思った。が、頭に浮かんだのは、テレビでみた加山さんの感想だった。一見、若大将のように単純明快にみえた。が、加山さんは、確信もって、ご自分の人間観を人生観を述べられた。そのように思えてならない。来年は、太宰治生誕百年、祝うべく記念の年だが、この作家のことを思うと、拭えぬ光景として、あの番組のあのシーンがよみがえるのである。

※ 「知ってるつもり」番組は、日本テレビが1989~2002年3月まで放映した。が、こ
   の番組の放映月日は不明。シーンの会話は推測です。
※ 佐藤B作出演のドラマは「グッドバイ 私が殺した太宰治」平成4年フジテレビ放映
  (役所広司主演)
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ゼミ合宿・満蒙開拓平和記念館見学を前に

2019年6月28日(金)大阪で世界主要20カ国・地域首脳会議(G20サミット)が開かれた。2日間で国際機関や招待国を含めた37の国・期間が経済や環境などの問題を話し合った(海洋プラスチックごみの削減など)。参加国は、それぞれに内情はあるだろうが、平和への意志をみせた。これからは地球と人類を守る約束を実行してほしい。
80年前、日本は暴走に暴走を重ね戦争への道をひた走っていた。見る目も聞く耳もなく、植民地時代は、終わろうとしているのに、あろうことか前世紀の西欧諸国の真似をして大陸にのりだしていた。中国東北部に勝手に国をうちたて貧しい農民を送り込んでいたのだ。だが、終戦時、民間人救出が第一優先時のはずが、なんと関東軍は開拓団を置き去りにして遁走した。あとに残された開拓民たちの悲劇の逃避行がはじまった。
満蒙開拓団は、国策に協力させられた犠牲者の集団である。

【HPで知る昭和近代史・満蒙開拓団の真実】

昭和恐慌と試験的移民期[編集]
満蒙開拓団の事業は、昭和恐慌で疲弊する内地農村を中国大陸への移民により救済すると唱える加藤完治らと屯田兵移民による満州国維持と対ソ戦兵站地の形成を目指す関東軍により発案され、反対が強い中、試験移民として発足した。1936年(昭和11年)までの5年間の「試験的移民期」では年平均3000人の移民を送り出した。
二・二六事件と本格的移民期[編集]
しかし、同年の二・二六事件により政治のヘゲモニーが政党から軍部に移り、同事件により高橋是清蔵相も暗殺され、反対論も弱まり、広田弘毅内閣は、本事業を七大国策事業に位置付けた。同年末には、先に関東軍作成の「満州農業移民百万戸移住計画」をもとに「二十カ年百万戸送出計画」を策定した。その後の1937年(昭和12年)には、満蒙開拓青少年義勇軍(義勇軍)の発足、1938年(昭和13年)に農林省と拓務省による分村移民の開始、1939年(昭和14年)には日本と満州両政府による「満洲開拓政策基本要綱」の発表と矢継ぎ早に制度が整えられた。1937年(昭和12年)から1941年(昭和16年)までの5年間は「本格的移民期」にあたり年平均送出数は、3万5000人にのぼる。
日中戦争と移民崩壊期[編集]
日中戦争の拡大により国家総力戦体制が拡大し内地の農村労働力が不足するようになると、成人の移民希望者が激減したが、国策としての送出計画は変更されなかった。 国は計画にもとづきノルマを府県に割り当て、府県は郡・町村に割り当てを下ろし、町村は各組織を動員してノルマを達成しようとした。具体的には補助金による分村開拓団・分郷開拓団の編成、義勇軍の義勇軍開拓団への編入などである。それでも、予定入植戸数(一集団の移民規模;200から300戸)に達しない「虫食い団」が続出した。「移民崩壊期」である。
1940年(昭和15年)には、同和地区からも開拓団が編成され、1941年(昭和16年)からは統制経済政策により失業した都市勤労者からも開拓団を編成した結局、青少年義勇軍を含めると約32万人が移住したことになる。
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開拓民が入植した土地はその6割が漢人や朝鮮人の耕作していた既耕地を買収した農地であり、開拓地と言えない土地も少なくなかった。
ソ連参戦と終焉[編集]
太平洋戦争末期の戦局の悪化により、開拓団からの招集も増えるようになり、特に1945年7月の「根こそぎ動員」では、約4万7000人が招集された。同年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、関東軍は開拓移民を置き去りにして逃亡した。ソ連参戦時の「満蒙開拓団」在籍者は約27万人であり、そのうち「根こそぎ動員」者4万7000人を除くと開拓団員の実数は22万3000人、その大半が老人、女性、子供であった。男手を欠いた開拓移民は逃避行に向かい、その過程と難民生活で約8万人が死亡した。主に収容所における伝染病感染を含む病死、戦闘、さらには移民用地を強制的に取り上げられ生活の基盤を喪っていた地元民からの襲撃、前途を悲観しての集団自決などが理由である。敗戦時に旧満州にいた日本人は約155万人といわれるが、その死者20万人の4割を開拓団員が占める。
自決や殺害の危機を免れ辛うじて牡丹江やハルピンに辿りついた人々は、麻袋の底をくりぬいて身に纏う避難民の姿が目立った。運よく貨車を乗り継いで、長春や瀋陽にまで辿り着いた人々もいたが、収容所の床は剥ぎ取られ、窓ガラスは欠け落ち、吹雪の舞い込む中で飢えと発疹チフスの猛威で死者が続出した。孤児や婦人がわずかな食料と金銭で中国人に買われていった。満州に取り残された日本人の犠牲者は日ソ戦での死亡者を含めて約24万5000人にのぼり、このうち上述のように8万人を開拓団員が占める。満州での民間人犠牲者の数は、東京大空襲や広島への原爆投下、沖縄戦を凌ぐ。
内地に生還した元開拓移民も、引き揚げ後も生活苦にあえぎ、多くが国内開拓地に入植したが、南アメリカへの海外移民になった者もいた。
その他に約1万人の残留孤児、残留婦人が存在する。この帰還は、1972年(昭和47年)の日中国交正常化から21世紀まで続く現代的な問題である。
開拓団員と義勇隊員併せて3万7000人の移民を送り出した長野県内に満蒙開拓平和記念館(同県下伊那郡阿智村)がある。同記念館は、2014年に、開拓団の生活やソ連軍侵攻後の逃避行についての聞き取り調査する活動を、中国人目撃者から聞き取る活動を行った。黒竜江省方正県大羅密村の最年長男性によると、ソ連国境近くにいた開拓団民が同村まで徒歩で逃れてきたが「開拓団民はみなぼろを着て、女性は丸刈りだった。生活は苦しく、中国人に嫁いで子供を産み、何年もしてやっと帰国できた」などの体験談などを得ている
満蒙開拓平和記念館は、なぜ阿智村に
総出数概要

・全国 270000人 ・長野県 33744人
(飯田・下伊那8389人 全国の3.1%、長野県の24.9%)

送出比率は阿智村が、断トツ。なぜ阿智村が 
原安治著『還らざる夏』がその謎に迫る。
文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信No.14 ―――――――― 8 ―――――――――――――

2019年度下原ゼミⅢ出欠記録

  6・18現在、下原ゼミⅢは9名の登録者+1聴講生、計10名の受講生です。以下が参加の10人の出欠状況です。

・志津木 喜一       5/7     5/28     6/11

・神尾 颯  4/16    4/23 5/7   5/21 5/28 6/4   6/11  6/18

・松野 優作         5/7              6/11 

・西村 美穂 4/9 4/16 4/23 5/7 5/14 5/21 5/28 6/4 6/11  6/18 6/25 7/2  7/9

・吉田 飛鳥 4/9 4/16 4/23 5/7 5/14 5/21 5/28 6/4 6/11  6/18 6/25 7/2  7/9

・中谷 璃稀 4/9 4/16 4/23 5/7 5/14 5/21 5/28 6/4 6/11  6/18 6/25 7/2

・佐俣 光彩 4/9 4/16                6/4 6/11     6/25 7/2
 
・東風 杏奈 4/9 4/16  6/11        7/2

・山本 美空 4/9 4/16 4/23       5/21    6/4         6/25  7/2

・蓑野 悦子             5/14

 
       7  6  5  5 6  4  5  5  5  6   8  4   5  6  2

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読書会のお知らせ ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」
どなたでも自由に参加できます。下原まで

月 日 : 2019年8月10日(土)
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)
 開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分
作 品  : 『カラマーゾフの兄弟』4回目
報告者 : 石田民雄さん

※「ゼミ通信」掲載は、メール可

連絡090-2764-6052下原  toshihiko@shimohara.net

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