文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信 No.100

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2008年(平成20年)5月12日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.100
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
2008前期4/14 4/21 4/28 5/12 5/19 5/26 6/2 6/9 6/16 6/23 
6/30 7/7 7/14 
  
2008年、読書と創作の旅
5・12下原ゼミ
5月12日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ教室2
 1.出欠・正副班長、ゼミ誌編集委員決め、新聞紹介
 2.「2008年、読書と創作の旅」愛読書紹介・提出原稿発表など
      
 3.テキスト読みOr名作読み
  4.表現稽古(紙芝居『少年王者』)時間あれば
     
 
祝100号記念に想う
 「文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信」は、今回100号を発行するに至った。本通信は、毎回ゼミごとの発行である。一回も、欠かしたことがないので、ゼミ100回記念ともいえる。が、感慨はない。気がついたら100号になっていただけである。
 創刊号は2004年(平成16年)4月19日であるから、期間にすればまる四年のあいだの発行である。年割りにすれば年間25通だから、1ヶ月に2通強の割合で発行したことになる。これが多いか少ないかは、知らぬところである。が、ゼミ誌以外、授業形跡として形で残ったものは、これだけである。この先、何号までつづくかは、何の予定も無い。ただなんとはなしに出していって、少しでも面倒になったら廃刊しようと思っている。
 しかし、せっかくの100号なので考えてみた。100回目と聞いて何を連想するか。100という数字は、いつもビリの方だった運動会の100㍍走がせいぜいだが、最近ニュースで知った「ブラジル移民100年」という出来事が思い浮かぶ。今年が、その年に当たるらしい。東海地方に出稼ぎ日系人が多い町があって、そこで記念行事があるとの話題。
 いまの若い人たちは、ブラジルと聞けばサッカーか、アマゾンのエコツアー、それにリオのカーニバルぐらいか。移民100年と聞いてもピンとこないかも知れない。日本国民の海外移民は明治政府の国策からはじまった。はじめは北海道の開拓が最初だった。2004年製作の日本映画・行定勲監督『北の零年』にも描かれているが当時は藩ごともあった。本ゼミでテキストにする志賀直哉の車内観察『網走まで』は、北海道開拓を暗々裏に危惧した作品ともいえる。国民を国策で大量に移住させる。それが北海道ならまだよい。国内だから失敗しても逃げ場はある。が、海外となると悲惨な結果になる。明治政府がとった中南米移民政策は、ほとんど失敗に終わった。現地で提供された肥沃なはずの土地は、草も生えぬ荒野だった。誇大な宣伝文句に乗せられた着の身着のままの移住者たちは哀れである。挑戦した多くの人は、過酷な人生を歩んだ。最近、その保証問題の裁判判決があったが、ほとんど


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.100―――――――― 2 ―――――――――
車窓雑記
報われなかった。中南米移民で失敗した政府は、その国策をこんどは南米や中国大陸に向けた。密林地帯が大半のブラジルは火種にはならなかったが、何千年の文化と歴史のある中国では、戦争に発展し、ヒロシマ、ナガサキの悲劇をみるまでに至った。しかし、歴史に「たら」はない。100年前、明治政府は、大々的に移民を奨励し、一攫千金の誇大宣伝で国民を過酷な異国の地に送りつづけた。明治41年(1908年)4月28日、781名(うち10名は自由渡航)を乗せた移民船笠戸丸は、移住者希望者の夢を乗せて地球の反対側にある新天地に向った。それから100年、現在ブラジルには140万人の日系人がいるという。 
 第一回のブラジル移民から22年。日本は依然として国民を外国に送り出していた。1930年(昭和5年)3月8日、氷雨の神戸港から出航する移民船らぷらた丸には、950名の移民団が乗っていた。大半が東北地方の貧しい農民だった。その中に、大学を中退した24歳の若者がいた。彼もまた、新天地ブラジルに希望を抱いた一人だった。雄飛、大農園主。移住者の誰もが思い描いた夢。だが、若者が、船内やかの地で目にした現実は…。
「私はこれまでにこんなに巨大な日本の現実を目にしたことはなかった。そしてこの衝撃を、私は書かねばならぬと思った」。彼は後日『出世作のころ』で、そのときの心情をこう述懐している。移民の過酷さに若者は、日本に逃げ帰った。そうして、同人誌に小説を書き始めた。彼には使命があった。ブラジル移民とは何か、富国強兵策を強引に押し進める大日本帝国とは何か。ひたすら戦争へ、戦争へと歩を進める日本を止めるには、船内での移民観察、現地で見た、聞いた移民たちの現実。それを作品にして世に知らしめるしかない、と。
 「1930年3月8日、神戸港は雨である。…」彼は、あの日を思い出してこう書きはじめた。そうして6月18日目的の地ブラジル、サントスに着いた移民たちの悲惨な人生を追っていく。苦労のなかで伴侶を亡くし、子を亡くし、未来も失った者たち。しかし、かれらは共に助け合って生きていく。作品は、そこに一縷な希望をたくして終わる。読者は、当時の日本という国家に絶望しながらも、そこに微かな希望をみるのである。
 青年が乗った移民船が目的の地サントスに着いた頃、銀座にあるカフェ「ホリウッド」に頻繁に出入りする大学生がいた。大学生は、この年の晩秋。有名な観光海岸で、心中事件を起こした。事件の推移は、およそこのようである。この年の晩秋、正確には1930年、つまり昭和5年11月29日の午前8時ごろである。場所は、神奈川県鎌倉郡腰越町にある小動(こゆるぎ)神社裏手の海岸。早朝の漁にでた漁師が、海岸で、若い男女がもつれ倒れて苦しがっているのを発見した。漁師は、すぐに警察と医者に連絡、救助にあたった。(このとき二人は入水していたのか、いなかったのか。現東京都副知事・猪瀬直樹氏は、その著『ピカレスク』でしていないと断定している)漁師が苦しがっていると見た二人のうち、女のほうは、すでに死亡していた。が、男は、まだ生きていて近くの七里ケ浜恵風園に収容された。二人が服用した薬品はカルモチンであった。嚥下時刻は、前日の28日夕刻から夜半のあいだと推定された。死んだ女は小柄で、生き残った男は大柄だったことから、カルチモンの中毒作用が体に比例したとみられた。後で男は睡眠薬常用者と判明。これにより女だけ死ぬ可能性が大いとわかった。男に自殺幇助の嫌疑がかけられた。鎌倉署の調べで、二人の身元が判明した。死んだ女は、銀座のカフェー「ホリウッド」のウエイトレス田辺あつみ、本名・田部シメ子(十七歳)広島県安佐郡字小河内出身だった。長篠康一郎著『…七里ケ浜心中』によると澄んだひとみに白い歯が似合う愛らしい美人だった。新劇女優を目指して上京、大半の劇団女優がそうであるように生活のためのカフェー勤めだった。12月2日生まれというから、18歳目前の死だった。生き残った男から調書をとりはじめた刑事は、男の身元を聞いて驚いた。帝国大学の21歳の学生というのもあるが、出身地を聞いて、肝をつぶした。刑事も同じ郷里だった。「青森県金木町」これだけで、生き残った若い男が何者かわかった。担当刑事は、大あわてで横浜地方裁判所の所長に連絡した。所長は、男の縁者だった。所長は、即金木町に住む男の長兄に知らせた。実家は県下有数の大地主。亡父は貴族院議員。長兄は青森県会議員。生き残った大学生は起訴猶予になり無罪放免となった。4頁に
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2008年、読書と創作の旅
旅同行者は16名、ほぼ決まる
 「2008年、読書と創作の旅」に寄せる参加者は、4月28日までに4名の追加者があり、16名となりました。ほぼ決定
 
2008年を一緒に旅する16名の皆さんです。(希望カード提出順・敬称略)
 さかもとよしあき  おおの なつみ  かわばた りか  ほんな ともこ
・阪本 義明 ・大野 菜摘 ・川端 里佳 ・本名 友子
 ながぬま ともこ  のじま りょう  おおたに りえ  たきざわりょうすけ
・長沼 知子 ・野島 龍  ・大谷 理恵 ・瀧澤 亮佑
 
 あきやま ゆか   たやま ちかこ  かんだ たいすけ  おぐろたかゆき
・秋山 有香 ・田山 千夏子・神田 泰佑 ・小黒 貴之
 とねひらともや   はしもとしょうた いいじまゆうき   うすきともゆき
・刀祢平知也 ・橋本 祥大 ・飯島 優季 ・臼杵 友之
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この旅を希望する理由
■ 遅れて参加した皆さんの心意気を紹介します。(順不同・敬称略)
小説が書きたい
「小説が書きたい。文芸の勉強がしたいから。」
最適だと思った
「指導が丁寧、かつ親切であるとの話を友人から聞き、私が活動する上で、このゼミが最適だと思ったからです。」
文章能力を高める方針に興味
「ゼミを見学して実践的な内容を行って文章能力を高めるという方針に興味を持ったので希望しました。」
シラバスを見た印象で
 
「時間的な理由もありますが、シラバスを見た印象で、このゼミにしようと決めました。」
□ 前回の参加者同様、遅れて参加した人たちも自分のなかにある創作欲とシラバスの一致で、このゼミを選んだことがわかりました。月曜日の5時限は、人気のない時間帯のようです。あえて、この時間帯に挑戦したことで心意気がわかります。楽しく、有意義な旅にしましょう。
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2008年、読書と創作の旅
抱負と自己PR
自分の文章能力を高めたい
 自分の文章能力をもっと高めたいと思っています。(H・S)
真面目です
 真面目だけがとりえです。(U・T)
やるからには、頑張ります
 やるからには、一生懸命、頑張ります。1年間よろしくお願いします。(I・U)
創作の他に、小論や詩にも興味
 小説をメディアには発表するまでには、至りませんが、家では少しずつ書いています。他にも、小論や詩など色々なことに興味があるので、頑張っていきたいと思います。(T・T)
総評 ゼミに対する皆さんの、熱い思がつたわってきてうれしく思いました。
    「初心忘るべからず」この思いを失うことなく、褪せさせることなく、自分の目標に向かって歩んでいってください。
2頁のつづき
1930年、11月29日午前8時ごろ神奈川県の七里ケ浜で漁師に発見された心中未遂事件。大柄な21歳の男は助かって、小柄な17歳の女は死んだ。不自然な心中未遂。男は前歴から自殺趣味魔とみられた。大学に入る前、故郷の弘前高校3年の11月に「町の娘」と郊外でカルチモン心中をはかって失敗。12月に一人で多量のカルチモンを飲み、長時間昏睡状態になる。三度目の自殺だった。が、今回は若い女の命が無残に散った。男に自殺幇助罪の嫌疑がかかった。しかし、男は東北地方の貴族会議員という名家の出だった。担当の警察関係者も縁者だった、などの偶然で醜聞は葬られた。一説には大金をはらったとの風評もある。男は何事もなかったように東京の下宿家に帰り、心中未遂の体験を小説としながらも、再び自殺体験してくれる自殺志願者たちを探しはじめていた。皮肉なことに男の名は高まっていく。昨今、練炭自殺、薬品自殺、自殺サイトで仲間を探しては、集団自殺する人が多くなった日本だが、この帝国大学生がその先がけだったかも知れない。
 そのころ、遠くブラジルからほうほうの体で逃げ帰ってくる若者がいた。大学を中退して、南米に雄飛を夢みて移民船に乗り、地球を半周してブラジル・サントスに着いたものの、開拓の大変さ、生活の過酷さに、自分では無理だと判断しての帰国だった。独り身の気軽さもあるが、その判断は間違っていなかった。しかし、若者は、ただ敗北移民者として逃げ帰ったのではない。自分のなかにある文才を生かして、移民船での体験と観察したすべてを作品としたい。作品にしなければ、そんな強い決意があった。日本は、とんでもないところに行ってしまう。そんな危機感もあった。
 かくて1935年、昭和10年、第一回芥川賞の選考作品のまな板に、二人の若者の作品が乗った。生き残った男の絶望、国家に見捨てられた移民たちの絶望と希望。生き残った男は、すでに文壇で活躍しはじめていた。あの手この手と選考委員に参拝した。しかし、選考委員たちが選んだのは無名のブラジル帰りの青年の作品だった。
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私の愛読書
「2008年、読書と創作の旅」に集まった皆さんは、どんな本を読んで、読もうとしているのでしょうか。アンケート紹介します。
(順不同・敬称略)
秋山 有香
○浅田次郎著『壬生義士伝』
 幕末の様子が新撰組の内部を通してよく分かる。新撰組ファン必見!
○スアド著 松本百合子訳『生きながら火に焼かれて』
 主人公が実際、体験したことを物語化しているので、リアル。こんなことがあるのかと悲しくなった。
小黒 貴之
○村上春樹著『ねじまき鳥クロニクル』
 28年生きてた中で最も強い振動を感じた一冊。重濃な世界観と死のにおいと生の強さを体感させられました。生き急いでいるなと自らに感じるときに開くと深深と自己に入れます。
○ブラッド・ベリ著『死ぬときはひとりぼっち』
 深い霧に沈む遊園地とイタリア街を背景におきる殺人事件。しかし、何より特筆すべきは闇と霧をはらうように文中で光る登場人物の人生観と誇り高さであす。
○星野道夫著『森と氷河と鯨』
 今は亡き写真家の著作、アラスカの自然に生きるエスキモーたちとの生活を素直で深い心境からつづっている。現代の神話と呼んでもいいでしょう。
○カレル・チャペック著『山椒魚戦争』
 人の言葉を解するさんしょううおたちと人間の海をめぐる半SF小説。風刺的意味あいがあるのだろうけど読み物としてもじゅうぶん楽しめる。
他:漫画「JOJOの奇妙な冒険」「ピンポン」「蒼天航路」
  絵本「100万日生きた猫」「スーホーの白い馬」「ビロードのうさぎ」「腹ぺこ青虫」
大野 菜摘
○よしもとばなな著『なんくるない』
 よしもとばななさんの短編がつまった文庫本。沖縄の話がたくさん載っていました。日常の細やかな描写。
瀧澤 亮佑
○向田邦子著『無名仮名人名簿』
 有名脚本家のエッセイである。上品、かつユーモアのある文章はすごい。向田邦子の鋭い目で見た「人」には共感も多い・・・はず。
○上田秋成著『雨月物語』
 角川文庫から現代風に訳されて出版されている。江戸時代の有名な怪談話。映画も有名。まだ見ていないが・・・。
○綿谷りさ著『夢を与え』
「インストール」「蹴りたい背中」に続く作品(多分)。この作品からプロになった気がする。
○阿部和重著『アメリカの夜』
 阿部和重のデビュー作。気楽なフリーター生活を奪われそうになる男の話。クセがあるので好き嫌いが分かれるのではなかろうか。
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川端 里佳
○島本里生著『クローバー』
 著者の島本里生さんの大ファンなのですが、世界観が今回も凄く好みで気に入っています。人の不器用さやカッコ悪さがテーマになっている作品です。
○村山由佳著『星々の舟』
 私の中で印象深い作品です。一家族の恋模様をそれぞれの視点から書いているのですが、それが一つにつながっていて、大好きな作品です。
○江國香織・辻仁成著『冷静と情熱のあいだ』
 同じ物語を違う視点で書いていく、という形が私は好きでなので、この作品は気に入っています。余韻で終わる形も好きです。
阪本 義明
○アガサ・クリスティー著『ゼロ時間へ』
 色々とびっくりするから読んでみろ、と友だちに言われ、現在読んでいる作品。これから話が軽がっていくと思うので楽しみだ。
○アガサ・クリスティー著『五匹の子豚』
 まだ読んでいないので、、『ゼロ時間へ』を読み終えたら読むつもりだ。
○ミュージカル「ミー アンド マイガール」
 宝塚月組の公演を観て感動した。突然、貴族の血が流れていると言われ、一般市民であった青年が豪邸で暮らすようになり、マナー等の教育を受ける。そんな中で青年と付き合っている彼女は自分は彼につり合わないと思いはじめる。話のまとめ方は普通だったが、全体的に明るい雰囲気で、訳者の存在感もすごかった。ぜひもう一度観たい。
○イタリア映画・「ライフ・イズ・ビューティフル」
 ロベルト・ベニーニ監督、主演、脚本。1939年のイタリアが舞台で、前半は主人公が父親になるまでをコメディータッチで描き、後半はナチスにより強制収容所に入れられるという悲劇的なストーリーが展開される。こんな父親が欲しい、なりたいと思わせる作品だった。
愛読書と必読書
 一緒に旅する皆さんは、日頃どんな本を読んでいるのか。いらぬ節介と思いながら、なんとなく知りたくて、毎年、アンケートをとっています。一概に、これだけで傾向はわかりませんが、現在、皆さんはどんな本や作家に興味をもっているのか、読んでいるのか読もうとしているのか、およそのところ知ることができました。
 ところで、愛読書と必読書の違いは何か。愛読書は、文字通り自分が好みの、現在夢中で読んでいる本です。当然、自分にとって面白い本です。アンケートからわかるように推理もの、人気作家の本、歴史ものと人それぞれです。では、必読書とは、いったいどんな本でしょう。ここでいう必読書は、あくまでも文学のうえでの本で、生活や勉強に必要な実用書とは違います。必読書は、自分が興味がなくても、読む必要のある本です
 例えば、この世には、古今東西、多くの作家がいます。それらの作家は、生まれ落ちてすぐ作家になったのではありません。彼らもまた様々な本と出合い、その本を自分の進む道標としてきたのです。それを意識してみると、彼らの道標に共通なものがあるのがわかります。そして、それは日本の作家にも、外国の作家にも、また時代を超えても共通するのです。必読書は、古今東西の賢者たちが、人生のなかで共通にしている本ということになります。
 
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Ⅰ「2008年、読書と創作の旅」3日目
1.はじめに  → 出欠、本日のテキスト配布、課題原稿、愛読書アンケート集め
 「2008年、読書と創作の旅」正副班長指名(引率者の補助・緊急の連絡などの役目)
 話題について → 最近の新聞記事から(小林多喜二の記事紹介)
2.司会進行決め  →  毎回、順番にやってもらいます。ゼミ担任が指名します。
司会者進行
3.ゼミ誌編集委員を決める
編集委員の未決に思う
 恐らく、というか多分、まだ手をあげる人が出ないのは、皆さんの奥ゆかしさと、10名以上の集団心理からくるものだと思います。(ちなみに少人数のときは、自薦者が多く、じゃんけんで泣く泣くあきらめてもらいました)たしかに編集作業は大変です。しかし、その労力は、自分が成長するのにすばらしい体験となります。就職時にも大いに役に立ちます。
 文芸学科のほとんどの卒業生は、おそらくマスメディア志望と思います。面接で、必ず聞かれるのは、「編集は、好きですか」「好きです」と答えれば、「経験はあるのですか」「ある」と答えれば、「どれくらいですか」と質問されます。実際、面接試験で「一年のときも二年のときも三年、四年のときもゼミ雑誌やサークル誌の編集を担当しました」こう答えた人を知っています。この人は、、即、採用され、現在、業界紙記者として働いています。
 ※ たいていの出版業界は、日芸のゼミ誌づくりは調査済みです。
 ということで、編集作業に興味がある人、2年後就職活動で利用したいという実質的目的のある人、校正や、印刷業者との交渉で苦労してみたいという人、遠慮せずに名乗りをあげてください。ゼミ誌は、自分のことでもあるので根本的には16名全員が編集委員になるという心構えが必要です。が、一応、形として以下の人選を行ってください。
 もし、どうしても決まらない場合は、残念ながらPTAの役員決めと同じようにクジ引きとなります。(正副班長作成)
 
 ・ゼミ雑誌作成・編集長1名  →
 ・副編集長(1名)       →
 協力要員
 ・ゼミ誌編集委員(数名)    →
 ・編集委員補助要員、残り全員   
4.課題原稿読み 朗読することで文の流れ、文章のまとまり具合などをみる
4月28日ゼミでの提出者
4月28日ゼミで、課題原稿を提出した人は下記の皆さんです。
【車内観察】5本
・本名友子「台風一過」       ・瀧澤亮佑「タイムスリップ」 
・川端里佳「ランデブーは車内で」  ・大野菜摘「園児とサラリーマン」 
・秋山有香「新入生」
【生き物観察】1本
小黒貴之「スカーフ猫は喉を鳴らさない」
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課題原稿読み
 課題原稿は、書くことの基本である観察です。観察するということは、見たものをただ正直に、正確に書けばよい、というものだけではありません。ただ正確にだけなら写真でもいいわけです。観察に必要なのは、現在・過去・未来をもしっかり捉えることです。
 仏つくって心を入れず。という言葉がありますが、せっかく文章を書いても気持が入らなければ、その文は死に体です。どうしたら心が入った文章になるのか、考えながら書いてみましょう。車内観察、一日観察、生き物観察、社会観察
 ①光景がすぐ伝わってくるか ②話が一つの話になっているか ③簡潔な描写か
 ④直すとすれば何を
車内観察
台風一過
本名 友子
 うわぁぁあああん。
 耳をつんざくようにまだ幼い子供 ―― 四歳くらいだろうか ―― の泣き声が響いている。それも絶え間なく。
 子供が元気なのは良いことだ。しかし、これだけ力いっぱい声を発し続けてなお、子供はまた走り回ったりはしゃいだりするのだから凄い。そうか、子供というのはその小さな体に詰め込まれたエネルギーを、1日の間に余すことなく使いきるんだな。そんなふうに思って、私は妙に感心してしまった。
 人で溢れ返る車内は、大抵その人の多さに反比例するかのごとく静かだ。むしろ人の多さこそが、人々を無口にさせていると言ってもいい。だからこそ、この元気いっぱいな子供の声は、私も乗るこの車両どころか、隣、さらにはその隣の車両にまで届いているのではないかと思わせる程だった。
 横目でちらりと親子を伺うと、母親らしき人物は人差し指を立て唇に持っていき、シーッという仕草を何度も繰り返していた。何とか我が子を静かにさせようと躍起になっている。その目は、「お願いだから静かにして!」と、我が子に訴えかけていた。子供のほうも母親に目を見てそれをされると一度は静かになるのだが、母親の目が自分から逸らされるとまたすぐにその顔をくしゃりと歪めて、うわああんと大声を張り上げた。まるで「僕のほうを向いてよ」と言わんばかりのその様が、なんだかひどく可愛らしく思えて、ほの温かい気持になった。私も昔はあんなふうに泣いて、親を困らせたりしたのだろうか。…どうだっただろう。思い出せない。
 親子から視線を外し再び横目で周りを伺う。すると、心配するように親子を見つめるおばあさん、いかにも煩わしそうに子供のほうを見る女の子などが目に入った。そして、あえて何も聞こえないかのように振る舞う。大多数の人々。けれどよくよく見てみれば、なんら気にしていないように見える人の中にも、たまに眉を歪める人や、おもむろに音楽を聴き始める人もいた。確かに、この超音波のような子供の泣き声には、考えてみれば嫌気のさす人のほうが多いに決まっている。いや、もしかしたらそれらの行動は、子供の声とは何の関係もないのかもしれないけれど。
「まもなく○○駅に止まります。お降りの方は忘れ物のないよう――」
 不意に耳に流れ込んできた車内放送が思考を遮った。ああもうこの光景も終わりだろうか、と考える。次の駅はほとんどの乗客が乗り換え等で降りてゆく大きな駅で、私はそこから目的地までのがらんとした人気の無い車内が好きだった。
「○○駅、○○駅。ご乗車有難うございました――」
 我先にとばかりに降りていく人波の中、あの親子のほうを見ると、母親が子供の左手を握
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りもう立ち上がっていて、やはりこの駅で降りていくのだということが見てとれた。子供のほうはというといつのまに泣きやんでいて、その顔はまだ少し不満そうに歪められてはいたが、その手はぎゅうっと母親の手を強く握り締めていた。その小さな体も母親との間に隙間が出来るのを嫌がるように母親の足に密着させられていた。母親は多少歩きにくそうにしながらも、何も言わず子供の手を引き降りて行った。
 あっというまに人の居なくなってしまった車内は、先ほどまでとはまた違った静寂に包まれていた。周りに人が居なくなってようやく、窓の外に広がる青空と、差し込む光の強さに気づく。今日は雲ひとつない。そういえば日焼け止めを塗ってくるのを忘れてしまった。まあ、気にするのはやめにしょう。
 なんだか眠くなってきて、私は頭を少しだけ前へ倒した。落とした目線の先、何か揺れる影が目に入る。ぼうっとしたまま少し目線を上げると、吊革が揺れていた。誰に掴まれることもなく、ゆらゆらと。また次に誰かが掴んでくれるその瞬間を、待っているのかもしれない。
 駆け抜けていく景色。電車の揺れに身を任せる、吊革とわたし。緩やかな時間はまるで自分の体のすみずみまで柔らかくしてしまったようだと思った。綺麗な青空はそれに拍車をかける。ああ、溶け込めたらいいのに。
 また、こんなふうに座りながら、柔らかな時間の中で、空の青を、見れたらいい。
□観察は、はじめは、泣き止まない子供のうるささ。乗客や私の反応を見ている。そしてほとんどの乗客が降りてしまったあとの車内様子が書かれていますが・・・・。
合評
タイムスリップ
瀧澤 亮佑
 電車で一番びっくりしたことは、電車の中で「行商のおばさん」に会ったことである。
 とはいっても東京の下町、総武線の亀戸駅でそのおばさんは乗ってきたのであるが、今時、この21世紀の日本で、しかも東京で見たのだから、びっくりした。
 そのおばさんは「もんぺ」をはき、今まで歴史の教科書やら旧い日本映画で見たような典型的な”昭和30年代の農民”みたいな格好をしていた。
 その電車は、千葉方面へ行く電車だったので、きっと千葉のどこか農村から上京して、商売をした帰りに違いない。
 それにしても、この時代に東京へ来る行商のおばさんがいる事に驚いた。あのおばさんは毎日、総武線に乗って、東京へ商売に行くのであろうか。
 もう一つ、驚いたというか、面白い光景をその車内で見た。その行商のおばさんの隣に、いわゆる”ギャル男”と呼ばれる若い男が座ったのである。その時のJR総武線津田沼行の車内は、まるでタイムマシンに乗ったようであった。
□そうですか、思わぬカルチャーショックでしたね。私も、何年か前、朝の京成線で、ある光景をみて、「まだあるんだ」と、驚いたことがあります。通勤客で混んでいる車両ですが、最後尾の一両だけ、ガラガラ。何だろうと不思議に思ってのぞくと、行商スタイルの数人のおばちゃんたちがなにか食べてながら雑談していた。床にはダンボール箱、座席には荷物が置いてあった。それで行商専用車両とわかった。まだ、走っていたのだと驚いたものです。
合評
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.100―――――――10 ―――――――――――
ランデブーは車内で
川端 里佳
 誰ひとり乗っていない車両が次々と男の前を通り過ぎた。徐々にスピードが落ちていく。ようやく止まった電車を少し眺め、一番近いドアから中へ入った。
 自由の中にある法則。男は迷うことなく長椅子の端に座った。それはまるでもう決まっていたかのように素早く、当たり前であるかのように自然な動きだった。意味もなく携帯をいじり、ふと顔をあげると数人の乗客がいた。
 ベビーカーで赤ちゃんを連れているお母さん。我が子の寝顔を撮ろうとしているのか、カシャ、カシャっとカメラの音が響く。通勤ラッシュを逃れてゆったりしているサラリーマン。微かに鼻歌が聞こえてくる。ギターを持ったまま爆睡している女の子。肩にかけていた鞄はだらしなくずり落ちているが、よほど大事なのだろう、ギターだけはしっかりと抱きかかえている。座ることで更に短くなるスカートを気にして座ったり立ったりを繰り返しているお姉さん。男の視線に気付くなりキッとにらみつけて鞄を膝の上に乗せた。
 男は開いたまま膝に置いていた携帯に手を伸ばし、一言「先頭車両にいる」と打った。一分も経たないうちに携帯は振るえ、画面にはやはり一言「了解」とだけ書かれていた。出発のアナウンスが流れ、ドアが閉まった。ガタンと大きく震えた後、電車はゆっくりと進み出した。左から右へと流れていく景色を見ているのは男だけだったが、全員が長椅子の端に座っていた。しだいに落ちていくスピード。ホームにいる人の顔が鮮明になっていく。そして、見つけた。同時に男は端から一人分内側にずれた。
 ドアが開くと女は決まっていたかのように素早く男のそばに向かい、当たり前であるかのように自然に
「どうぞ、お嬢様」
「いい心掛けですこと」
 男が空けた一人分の席に座った。
□車内の乗客を観察している座席の男。でも、観察されていたのは男。車内を待合場所にしていたのだ。小話がつくれそうですね。
合評
園児と勤め人
大野 菜摘
 もそもそしたお尻を持ったそれは、靴をはいたまま座席の上に立った。母親はそれを優しく制し、それは一度座り直して靴を脱がされてから、また席の上に立った。
 可愛らしい高い声で、それは歌いだす。曲は『きしゃポッポ』。幼稚園で習ったんだろう。窓に掌と額をくつつけ、上下にリズムをとりながら、それは歌った。上手く回らない舌とは違い、頭はよく回るようで。歌詞をちゃんと覚えている辺りには感心してしまった。
 それが歌の途中で隣に座る母親に見せた垂れた目尻と小さい前歯が、とても可愛らしかったのをよく覚えている。
 それはある程度歌うと満足したのか、席にちゃんと腰を掛けた。大人しくするのかと思ったがそうではなく、今度は左右に揺れだす。右隣は母親、左隣はサラリーマン。母親の腕に頭を押し付け、それは笑う。母親も斜め上からそれを見下ろし、微笑んでみせる。だがサラリーマンは違った。
 それが左に頭を押し付けると、サラリーマンはあからさまに嫌な顔をしてみせる。それくらい良いだろうと思うのだが、ジェンダーの違いだろうか、サラリーマンは小さなそれを一瞥してから舌打ちをする。それは何も分かっていないのか、嬉しそうに笑ったままだった。
□どんなに可愛い子供でも、そう見えない人もいるようです。電車にはいろんな乗客がいます。でも子供は、少しも頓着しない。合評
――――――――――――― 11 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.100
新入生
秋山 有香
 四月は、真新しい制服を着た新入生がよく目に入る。最近も、大学帰りの電車内で、新入生であろう男子学生と遭遇した。まだピカピカの鞄を持ち、二人組のうちの一人は履き慣れないせいで靴ずれをしたのか、ローファーの踵を潰して履いている。友達になったばかりなのだろう。二人の会話は、まだぎこちない。
「部活、決めた?」
「まだ。決めた?」
とか
「明日の授業なんだっけ?」
「一時間目が数学だった」
という、お決まりの会話に、時折沈黙が交る。出会ったばかりでの沈黙は重いんだよなあと、一年前の自分を思い出した。
 ふと、彼らと反対側のドアに目をやると、彼らと同じ制服を着た男子学生が目に映る。真新しい制服を着ているところをみると、彼もまた新入生だろう。ドアに寄りかかり、おもむろに携帯電話を取り出す。音楽機器を聞きながら、一心不乱に形態電話をいじっている姿に、友達できなかったのかなぁと勝手に切なくなった。
 反対側のドアの二人は、まだぎこちない会話をつづけている。
「今、何所?南浦和か」
と、一人が独り言のように呟くと、もう一人がちらっとホームに目をやり、駅名を確認する。
「お前、何所で降りるの?」
「俺、新三郷」そうなんだ、と相槌を打つ男子学生を見ながら、その会話にあの子も入れてあげて!ドアに一人でいる彼も仲間に入れてあげて!とお節介なことを思った。
 だが、そんな私の心の叫びが彼らに届くわけもない。彼らは、お互いの下車駅までぎこちなくても一生懸命な会話を繰りひろげ、また明日、と電車を降りて行った。その様子を微笑ましく思いながら携帯電話に目をやると、一年前、自分が必死になって声をかけた友達から、メールが届いていた。
□新入生の観察。ぎこちない会話。友人からのメールがオチで一つの話になっている。
合評
生き物観察
スカーフ猫は喉を鳴らさない
小黒 貴之
 井の頭公園沿いの喫茶店ドナテロウズでくつろいでいる彼のあだ名はスカーフ猫、背中は黒くて腹は白い。首に赤色の柄の入ったスカーフをここの顔だとばかりに巻いている。ある漫画に似たような風貌の猫がいるが、お好み焼きやホルモンを焼いたりはしない。
〈No Smoking〉と書かれた看板の置かれた椅子が指定席で、コーヒーの香り漂う中いつも頭を右側にして丸まっている。私は読書に飽きると、黒光りする大きなテーブルに陣取って、飽くまで彼を眺めることにしている。猫に限らず、言葉を持たないものに話しかけるとき、人が自己の内面を語り出すのが面白いのだ。
「あーっ、猫!猫!」
 アイスクリームでべたつく手の小さな女の子が恐る恐る手をのばしても、インテリ風の老婦人が寂しそうに頭に触れても、シャイそうな青年がこっそり尻尾に触れても、私がカメラを構えても微動だにしない。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.100―――――――12 ―――――――――――
 もうそんなの慣れてんだよね、俺、ここ長いからさ。
 そういわんばかりに丸まったまま、浅い眠りの中で何かの夢を見ているんだろう。たまに眠ったまま身震いして毛を逆立てている。他の猫より少しばかり毛が長いのがわかる。
 店には、猫はあんまり触られると神経性の下痢になるから撫でるなと貼紙がしてあるが、たいていのお客は貼紙よりもまず猫に目が行くのでひとしきり「よしよし」してから、あら、触っちゃいけなかったのねともらす。
 ある夏の日、韓国人の留学生とこの店にやってきたことがあった。前もって、彼女に猫アレルギーはないかと尋ねると苦笑いされた。
「日本の人、猫好きですね。韓国人、あんまり猫好きません。良くない動物だと思われているから。韓国の猫、人みると逃げるけど、日本の猫、近くきて恐いですね」
 化け猫みたいなイメージが向こうにもあるんだろうか。それなら他の喫茶店に行くかいと尋ねたが、彼女はここでいいと中に入った。コーヒーとシャーベットを頼んでテーブルに着く。大きな窓から夏色に染まる青々した井の頭の梢が目に飛び込んでくる。彼女はいつもの席で眠っているスカーフ猫をまじまじと見つめて開口一番にいった。
「やっぱり猫、可愛いいですね!」
思わずコーヒーを吹き出しそうになりながら私は笑った。不吉な動物だから近づかないっていったのはどこへやら。そういうと彼女は照れくさそうにはにかんで、
「私、トトロにでてくる猫バス大好きよ」
と、手をのばして居眠りするスカーフ猫に触れた。僅かに琥珀色の眼が覗いたが、すぐに瞼を下ろしてしまう。尻尾がぱたぱたと蝿でも追うように椅子を叩く。あっち行ってコーヒー飲んでろよとでもいいたそうだ。それでも猫をくすぐりやめない彼女がなんだか可笑しくて、私は肩をすくめた。
 もう五年以上の付き合いになるが、スカーフ猫は何を考えて生きているんだろうか。蝉時雨の季節も降雪の頃も、椅子に寝そべっている喫茶店の番猫として過ごす一生というのも悪くなさそうだ。喉に触れてやっても決してごろごろ鳴いたりしない。彼の額に指で「の」の字をなぞる。狭くて軟らかい猫のひたい。じゃあな、と席を立ってもニャアとさえいわない、そんな彼がときに羨ましい。
□猫は何を考えているか。悠然、泰然と暮らす猫の様子ですが、何かいろいろな物語に発展しそうな雰囲気もありますね。テキスト志賀直哉の作品にも「猫」があります。
合評
新聞・東京新聞 2008年(平成20年)5月1日木曜日
本を語るひととき 読書会、人気じわり
ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」紹介される。
・・・・・・・
 日本にも読書会はある。米国のようにカジュアルではない。例えば、39年も続いている「ドストエーフスキイ全作品を読む会」。二ヶ月に一度、池袋にある東京芸術劇場の会議室で開かれる。会員制ではないが、大学生から老人まで、登録した約130人には会報が送られている。内容は極めてまじめで、「トリビアリズムで読む『悪霊』」「『白痴』の謎」などのテーマが並ぶ。時には研究的になることもあるが、基本は一般読者が自由に語れる場だ。世話人の下原康子さんは、長く続く理由を「宗教、科学、社会、哲学、心理学などを総動員して書かれているドストエフスキーの深さでしょう」とみる。
――――――――――――― 13 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.100
ゼミ誌について
ゼミ雑誌発行は12月15日厳守です。
 ゼミの実質的成果は、決められた期日までのゼミ雑誌発行にあります。毎年、納品日の遅れが指摘されています。一年間の大切な成果なので、しっかり守って、よい雑誌をつくりましょう。編集委員は二人ですが、ゼミ誌は自分の作品でもあるので、全員でサポートする、その考えで手伝いましょう。
4月14日 → 編集委員決め。決まらず・・・・
4月21日 → 編集委員決め。決まらず・・・?!
ゼミ誌作成計画は以下の要領です
1. 6月上旬 → ゼミ雑誌作成ガイダンス。編集委員は必ず出席してください。
        ○ゼミ誌作成説明  ○申請書類を受け取ります。
2. 6月中旬 → ①「ゼミ誌発行申請書」の提出。出版編集室に
3. 6月~  → 全員でゼミ雑誌の装丁を話し合う。題名・内容・サイズ・印刷会社など
        ※印刷会社は、過去に依頼した会社は文芸学科スタッフに問い合わす。初
        めてのところは必ずスタッフに相談する。(なるべく初めてのところでな
        い方がよい。以前、苦労したことがある。会社も慣れないので大変)
4. 7月下旬 → 原稿依頼し、締め切り日を決める。だいたい夏休み明けがよい。
ゼミ誌原稿締め切りの徹底化
5. 9月末  → 編集委員にゼミ誌原稿を提出。
6. 10月上旬 → 編集委員は、内定の印刷会社から②「見積書」をもらう。
7. ~11月 → 「見積書」の提出。印刷会社と相談しながらゼミ雑誌作成。
8. 12月 → 15日までにゼミ誌提出、③「請求書」提出
注意事項!!
◎ ①【ゼミ誌発行申請書】、②【見積書】、③【請求書】以上3種類の書類が提出されない
  場合はゼミ誌の発行はできません。補助金の支払いも認められません。
◎ 予算金額は、ゼミ雑誌作成ガイダンスで発表される。
◎ 過去にゼミ雑誌の印刷を依頼したことのある主な印刷会社の連絡先は、文芸学科スタッ
  フまで問い合わせる。それ以外の印刷会社を利用したい場合は、必ず事前に学科ス
  タッフに相談すること。厳守。
 ※ 印刷会社は、学科スタッフに相談した方が、スムーズに運びます。
◎ 外部(一般の人)と関係しない。(インタビュー、依頼原稿など)
ゼミ誌発行期限は、12月15日です。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.100―――――――14 ―――――――――――
4・28ゼミ報告
 
新たに4名の同行者が加わった。全員で16名の団体に。
出席者・15名
 この日は、連休のはじめの谷間ということで、出席率が懸念された。が、1名欠席のみで15名の皆さんが出席した。出席者は、次の皆さんでした。
・阪本義明 ・大野菜摘 ・川端里佳 ・本名友子 ・長沼友子 ・野島 龍 ・橋本祥大
・瀧澤亮佑 ・秋山有香 ・田山千夏子・小黒貴之 ・飯島優季 ・臼杵友之 ・神田泰佑 
・刀祢平知也
○司会進行は田山千夏子さん
【自己紹介】
 ・飯島優季 ・臼杵友之 ・神田泰佑 ・刀祢平知也 ・橋本祥大
【ゼミ誌編集委員決め】
結果 → 先送りに
 ゼミの実質的最終目的は、納品期日までのゼミ雑誌の刊行です。その意味では、ゼミ誌編集委員の役割は責任重大といえます。それ故、皆さんは慎重になっているのだと思います。が、考えを変えれば、これほど勉強になる役割はありません。一番、美味しいご馳走といえます。本来なら早い者勝ちです。このゼミのモットーは「精力善用・自他共栄」精神である。「力はよいことに、皆で助け合って」である。わからないこと、問題、校正などの労力は一人で背負うのではなく、その都度、皆で相談してすすめていきましょう。きっとよい経験と自信になります。
【人生相談】私は、卒業した高校の擁護の先生に恋をした。どうしたらよいのか
「感謝の気持を手紙に書く」という新聞の回答者。各人の感想は
・「回答としてはよいのでは。大人の受け応えだと思った」
・「相談者は、相談したことで戻れない。どちらもすすめられない。むずかしい」
・「回答は、人生の重みがある。いい選択肢とおもった」
・「一つの意見の考えとして受けとめるが、すすめられない」
・「長い目が必要。面白みに欠ける」・「感謝では答えになっていないのでは」
・「恋愛の仕方としてはダメである」
・「告白、あきらめる。どちらの道を選んでも、その後のことをどれだけ受け容れられるか」
・「相手の反応をみてから」・「煙にまいた回答のような木がする」など
【名作案内】ウイリアム・サローヤン『空中ぶらんこに乗った大胆な青年』の読みと感想
・「リズムがある文章だが、1で単語が並べてあるのがわからない」
・「カタカナが読みづらい。一回の読みでは」カタカナが問題有り多数。
・「個人的には好きな作品。リズム、単語の並びもいいのでは」
・「スケールの大きな比喩の作品」・「極限に追いつめられている迫力。『罪と罰』のラスコーリニコフを思い出した」・「1の眠りはカオスをよく現している。大好きな作品」
・「観念的だがリアル。後半が駆け足のように感じた」など
※一回の輪読で即、感想は乱暴だったかも知れません。小説には(映画もそうですが)二つのタイプがあって、「ああ面白かった」と「これって、なんだだろう」があります。この作品は、後者です。後で、だんだん気になってきたら、あなたはもう立派な文学青年です。書き手の側に入ったことになります。
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2008年、読書と創作の旅
 担任自己紹介の代わりに学生時代の旅を紹介します。が、想像・推測・個人問題もあるので創作ルポタージュとします。前号のつづきです。
一九六八年、アジアの旅④
     
                                 下原 敏彦
 1976年、アジアの旅はまだ終わっていなかった。大量虐殺、大量難民、インドシナは、混乱のはじまりだった。そして、私たちの旅も・・・・。
 1976年9月16日未明。私は、部屋に誰かが入ってきたので目覚めた。15日の宵からぐっすり寝込んでいたので、時間がわからなかった。一人が勝手に明かりをつけた。A君とT君だった。二人は大学の友人である。A君は一緒にカンボジアに行った相棒で、T君は、あの国のクーデター騒ぎが治まったら一緒に行くことになっていた。が、内紛が益々激しくなったことであきらめ、私の後釜として業界紙の記者になっていた。時計を見ると午前1時を過ぎたところだった。二人とも家は、北千住や柏の方で遠い。
「なんだよ、こんな時間に?」私は寝ぼけ眼をこすって聞いた。
「えっ、知らんのか」「ニュースはみてないのか」二人とも驚いたが、それ以上に深刻な様子だった。T先生夫妻が相模湾上空でセスナ機から飛び降りたと説明した。
 私は驚いたが、すぐには信じられなかった。T先生夫妻には、カンボジアでよくしてもらった。息子同然に接してくれた。そんな縁で日本に帰国してからも、ときどき遊びに行っていた。つい34カ月前、アプサラの掛け軸の件で鵠沼の自宅にお邪魔したばかりである。
 ※アプサラ(カンボジアの王宮の踊り子)アンコールワットの回廊の壁に彫られてある。その拓本をT先生夫妻が土産に2枚買って持っていた。が、ポル・ポト軍に占拠され破戒されているとのニュースを知ったことで、貴重なものになると私が1枚もらった。実際、その後のニュースでポル・ポトの兵士は、石像を射撃練習の標的にしていた。私は、2枚を知り合いの建具屋に頼んで額にしてもらった。縦120㌢、横55㌢の額。
 T先生夫妻に最後に会った日のことを思い出した。が、とりたてて変わったところはなかったように思う。ただ、プノンペンにいるとき、自宅に爆弾を投げこまれたことから、夫人はすっかり神経質になり睡眠薬を大量に服用するようになっていた。帰国してからも、服用する量は減らなかった。T先生はもともと不眠症で、常用していたから、夫婦そろってかなりの睡眠薬中毒にはなっていた。それで、たまに伺ってみると、言動に矛盾がみられることもあった。例えば「明日、マダムシンバルがくることになっているから」食料の買物に行ってきて欲しいとか、「タンさんは、どうしたのか」。マダムシンバルはカンボジア人の富豪に嫁いだ日本人妻で夫人とは仲良くしていた。が、1975年4月のポル・ポト軍のプノンペン支配から、消息不明になっていた。タンさんは、ベトナム人のお手伝いさんだつたが、1970年の政変から姿が見えなくなった。あのとき大勢のベトナム人が虐殺されたので、夫人はいつも行方を心配していた。もしかして、瞬間的に日本とプノンペン、どちらにいるかわからなくなるのでは、そんなふうに思ったりした。覚えていないがあの日も、そんな様子がなかったとはいえない。しかしだからといって、それが、遊覧セスナ機から夫婦そろって飛び降りることには、どうしても繋がらなかった。
「まさかなあ」A君は、落ち着きなくため息をつくばかりだ。何事かを心配しているようだった。が、あえて聞かなかった。A君は、海外移住の目的で他大学から編入してきたので、私より二つばかり年上だった。なかなかのやり手で、車の運転も上手だったので、プノンペンでも日本でもT先生の車の運転をしていた。「昨日は、あの元政治家に会った」など、そんな話をしていたから、なんとなくはっきりしないT先生の日本での生活のことを少しは
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知っていたかもしれない。しかし、セスナ機からの飛び降りは、私と同じ青天の霹靂だった。二時半だったが、私は、二人を残して朝刊を買いに外に出た。深夜の通りは暗かったが、一軒だけ明かりがついていた。新聞店である。行くと、数人の従業員が広告入れの作業をしていた。私は、なぜか緊張した。誰かに見られている。そんな気持になった。
 新聞を手にすると大急ぎで下宿に戻った。
遊覧機から飛び降り心中 大島 → 江ノ島 突然、操縦士らを刺す
 
高崎経済大の元学長夫妻
 
一面も三面もこの事件の記事だった。五段抜きの大見出しだった。記事を読んだが、わかったのは「なぜ?」という疑問だけだった。
「どうする」A君が聞いた。が、どうする、といっても、知人が起こした事件である。私たちに関係があるとは、思えなかった。が、現在、日本において一番に親しくしていたのは私たちだけだったのでは、という思いもあった。むろんご夫妻には、都内に親戚もいた。T先生は一人っ子なので兄弟はいないが、父親が画家だったという夫人は、複数の兄弟がいて、都内にいる兄弟の家には、行ったことがある。外資系企業の重役だと聞いた。
「とにかく家に行ってみよう」A君は、鵠沼の自宅に行きたがった。私たちは、A君の車で江ノ島に向った。車の中で、私たちは、ご夫妻が死ななければならない理由について、あれこれ話した。理由は、病気、睡眠薬中毒、不動産屋とのトラブルなどいくつかあげられるが、いずれも自殺などしなくても解決できるような気がした。
「職業は、なんて書いてある?」A君が聞いたので、新聞を見直した。3、4年前T先生と秘書のY女史は、新宿京王プラザホテルで強盗の被害者になったことがある。このとき初の高層ホテルでの犯罪ということでマスコミから注目された。このときセンセイの職業は新聞では貿易商となっていた。週刊誌でY女史は愛人にされてしまっていた。Y女史も私はよく知っている。そんな関係ではない、と断言できる。
 朝日新聞の三面記事の末尾には、このように書いてあった。
「同大学を辞職した後は、ベトナムやカンボジアでゴムなど戦略物資などを手がける国際的貿易商をしていたり…1976・9・16朝日」
「またかよ」A君は、あきれたようにつぶやいた。
「なぜかなあ」私も、そう首をひねるほかなかった。正直言えば、私は、先生がインドシナでどんな仕事をされていたのか、知らない。推測はできるが、断じて貿易ではなかった。
 プノンペンにいるとき、先生が貿易の仕事をしている所を、ただの一度も見たこともない。貿易に関する話も聞いたこともなかった。先生のところに取材にきた記者も、質問はいつもカンボジアやインドシナの情報収集や政治情勢だった。
 ただ一度、先生にも闇の部分があるのかと疑ったことがあった。刑務所に用事があるというので、一緒に行ったときのことだ。そこは、プノンペン市内にある刑務所で、ポルポト時代には、大量虐殺の場所になったところである。用事は、密輸犯罪で服役している囚人の面会だった。囚人との面会は、はじめての経験である。映画の場面を想像した。しかし、そうはならなかった。先生は、勝手知ったる所のようにどんどん中に入って行った。誰も呼び止めなかった。廊下の右手にはちいさな運動場があり、全体は、高い塀で囲まれていた。まさに塀の中である。先生は、躊躇することなく、葉巻をくわえたまま刑務官たちがいる事務室に入って行った。刑務官たちは、皆、机についていた。一人だけ、机の上に腰をおろして雑談していた中年の男がいた。先生を見ると、大げさに喜んで、握手しにきた。その男が囚人だった。早口の英語で何か頼んでいた。
「奴っこさん、刑務所が一番安全だと言っていた」先生は、そう言って可笑しそうにカッカ
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ッと豪快に笑い葉巻をくねらせていた。
 夜が明けかかった頃、鵠沼にある先生の家に着いた。先生の家は、帰国してホテル暮らしをしていたが、インドシナには戻れそうにないとわかって、借りた家である。一緒に探した物件である。大家の広い庭の中にある新築一軒家で、記憶に間違いがなければ家賃は7万円だった。大卒が3~4万円の時代だから安いとはいえない。海が近いので先生は、江ノ島にボートを持った。A君は、私物を先生の家に置いていたようだ。が、車の中から見ると、家の周りは、紐のようなもので囲ってあった。進入禁止のあれらしい。早朝で、人影はなかったが、家に入るのはあきらめることにした。私たちは、江ノ島の浜で暫くぼんやりしていたが帰ることにした。「1968年、アジアの旅」は、まだつづくかと思われた。が、突然に終わった。予想もしなかった結末で。
 
 電話を知らせた大家の女将さんは、電話の呼び出し相手が私とわかって、ほっとしたが、「ケイサツ」「ジケン」の言葉に再び眉をひそめた。そして
「なんの事件かしら・・・・」と、詮索をはじめた。
 私は、女将さんの興味深々のつぶやきを背中にききながら大家の玄関に行って、下駄箱の上に置いてある黒い受話器をとった。
「はい、かわりましたが」
「あなた、トッちゃんといいます?」わりと明るい声が返ってきた。警察というから、もっと重い声を想像していたのだ。
「はあ、そうです」私も、間延びに答えた。「小さいころ田舎の方で、そう呼ばれてました」
「ああよかった。電話帳にトッちゃんとだけしか書かれてないもので」本当かわざとかわからないが受話器の向こうから、ほっとしたため息がきこえた。先生の家にあった電話帳を見て、端からかけているのだと言ったあと、にわかにあらたまった声で
「私、警視庁羽田署のものですが、今日、これから伺います、お願いします」と告げた。
 あくまで丁寧だが、こちらの都合などまったく聞く様子はなかった。友人のA君から二三日前に、電話をもらっていた。警察に二度調書をとられ険悪になったという内容だった。そのとき、警察は、なぜA君に私のことを聞かなかったのか、不思議に思った。後で考えると、知っていることは知らないこととして、知らないことは知っていることとして、調書をとっているようだ。それにしても調べればすぐわかる私のことを半月もわからなかったという、ことに、なんとなく不気味さを感じた。
不安になったが、やましいものはなにもない。羽田署からだと二時間はかかると言った。私は、了解して近所に住む作家のH・Mさんに図書館に行かないことを知らせた。いつものように午後、待ち合わせて町を徘徊することになっていた。
「ああ、あの事件か」新聞もテレビもみないH・Mさんだが、さすがにあの事件のことは知っていた。小さく何度か頷いたが、あまり関心はなさそうだった。
 私は、夕方、伺うことを約束して下宿に戻った。女将さんが玄関先に水をまいていて
「遠いですからねえ」と、道路に出ていって駅の方角を見ていた。
 二時間きっかり二人の刑事がやってきた。女将さんが、二階の私の部屋に案内した。一人は中年の、もう一人は三十前後の刑事だった。名刺をもらった。外事課とあった。
「羽田空港は、すべて外事課の管轄なんですよ」中年の刑事が言った。電話の声だった。わりと気さくだった。若い方は、私と年が近いせいか、ちょっと格好つけている。そんな感じがした。壁のアプサラの拓本を見て、何事か考えていたので私は
「向こうの玄関にもあったでしょう。二枚あったので額にして一枚もらったのです」
「ああ、そういうこと」若い刑事は、先を読まれたのが気に入らなかったのか、アプサラの話は、それでやめてしまった。私は、ちゃぶ台を出して二人に座布団をすすめた。部屋の戸は開けたままにしておいた。女将さんが、廊下を掃除するふりをして戸の外側に座り込んでいたからである。母屋によほどの用事がなければ立ち上がらない、そんな様子だ。
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 私は、茶をすすめると聞いた。
「遺体は、どうなったのでしょうか」
「見つかりませんねえ、捜索はしましたが」中年の刑事は、あっさり言ってからエラの張った顔を渋らせて説明した。「たぶんですねえ、海面にあたった時点でバラバラになってしまうじゃないですか。なにしろ高度千、二千からですからね。海面は、コンクリートと同じですから。仏さんには申し訳ないですが」
「そうですか」私は、頷くよりほかなかった。
「仏さんのことは、もう詮索したくはないんですが、なにしろ仕事ですから」
中年の刑事は、配慮のつもりかそう言って、若い刑事に頷いて合図した。
 若い刑事は、鞄から便箋用紙とボールペンを出し、ちゃぶ台の上に乗せた。中年刑事は、さっそく切り出した。
「T夫婦に一番、最後に会われたのは、いつでしょうか」
「あの事件の三か月か四ヶ月くらい前です」
「何月何日か、わかりませんか」
「わかりません。もしかしたら、もっと前だったかも―」
「はっきりわかりませんか」刑事は、執拗にもう一度聞いた。
「ええ」私は曖昧に頷いた。本当は3月頃と、記憶していたが、最初に曖昧に言ったので、訂正するのが面倒になり、あとはなんとはなしに不明を押し通すことにした。
 すると、中年の刑事は不意に質問をやめて、
「すみませんが、出会ったときからの話をしてもらえませんか」と、言った。それから、ちらっと若い刑事をみて命令口調で言った。「じゃあ、調書、はじめようか」
「はい」若い刑事は、姿勢を正してボールペンを立てた。
 私は8年前のことを思い出しながら話はじめた。若い刑事は、大きな字で一字一時書き取りはじめた。以下、そのとき二時間余り語った調書を、第二部「1968年、アジアの旅 我が青春のプノンペン」とする。
 が、その前に、謎多いT先生とは、いったいどんな人物なのか、本人、夫人、秘書から直接聞いたこと、また週刊誌などのマスメディアから知ったことをまとめてみた。
 T先生の出生は、1908年東京・本郷となっているが、郷里は高崎市と聞く。江戸時代藩の家老職を代々継いできた名家である。昭和6年東大経済学部を卒業。経済学に秀で学生のとき「金融論」を発表、注目されたとある。昭和32年創立した市立高崎経済大学教授、39年に同大第三代目学長(56)に就任する。当時としは最年少の学長として注目された。
 日大はじめ、全国の大学に吹き荒れた学生運動、つまり全共闘は1968年からはじまったが、高崎経済大では、創立当初から火種があった。「地元からの大量委託学生入学の問題」である。市立であるから、市側としては、市民の意を汲んで、入試に際して、住民の子弟を優先的に採用すべきと申し入れてきた。当然、県外の学生たちの反発を招いた。これが原因で学園紛争が激化した。ここで、普通の学長であったら市側と妥協し、学生たちにも恩恵を与えて、鎮静化しただろうが、T先生の性格は、それができなかった。こともあろうにT先生は、抗議にきた学生たちと意気投合してしまったのだ。
「はじめは、連中の話たけ聞いて、追い返すつもりでいたが、真剣さに打たれてね」君らが正しいと言ってしまったという。それが理由で、昭和40年8月31日付けで市側に辞表を提出することになった。退職理由は、市側の希望で「一身上の都合」とした。
 大学を退いたT先生は、戦火のインドシナを放浪することになった。そして・・・
我が青春のプノンペン
 私が、T先生夫妻にはじめて会ったのは、1968年の9月半ばです。日にちは何日だったか覚えていません。場所は、T先生の自宅。そこはカンボジアの首都プノンペンにある外国要人専用のマンションの3階にある部屋の居間でした。
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新聞話題から
☆5月2日(金)読売新聞 夕刊の一面トップにこんな記事が載っていた。
『蟹工船』悲しき最脚光
格差嘆き若者共感   古典では異例の増刷
 小林多喜二の『蟹工船』は、79年前の作品だが、なぜ現代に甦ったのか。新聞記事コピーを配布するが、その理由を書いた冒頭部分を本欄で紹介する。
 プロレタリア文学を代表する小林多喜二(1903-1933)「蟹工船・党生活者」(新潮文庫)が、今年に入って”古典”としては異例の2万7000部を増刷、例年の五倍の勢いで売れている。過酷な労働の現場を描く昭和初期の名作が、「ワーキングプア」が社会問題となる平成の若者を中心に読まれている。2008・5・2 読売
小林多喜二 1908年、秋田県生まれ、小樽高商(現・小樽商科大)卒業後、北海道拓植銀行に勤務した。29年に解雇された後、非合法下の共産党に入党。33年に逮捕されも東京の築地署で拷問を受けて死亡した。
 なぜ小林多喜二の記事をとりあげたか。『蟹工船』が名作であることもあるが、本ゼミでテキストにしている志賀直哉とも、大いに関係するところがあるからである。文学とは何か、創作とは何か。当時、多喜二に語った志賀直哉の思いは、若き多喜二には通じなかった。が、時を経て甦ったことで文学が持つ力を再認識する。
1931年(昭和6年)11月はじめ小林多喜二、はじめて志賀直哉宅を訪問。一泊する。この夜の文学談議で48歳の志賀直哉は28歳の多喜二にその才能を惜しんで「文学は、主もちでないほうがよい」と話す。しかし、多喜二が思想と党組織の深まりから抜け出すには遅すぎた。2年後、昭和8年2月20日逮捕。築地署で3名の特高警察により残虐な拷問を受け惨殺される。
小林多喜二が志賀直哉に出した手紙やハガキは多くあるが、最後のハガキを紹介します。
昭和6年11月9日 東京市外杉並町馬場375より 奈良市上高畑 志賀直哉様へ
 先日は突然お訪ねし、色々とお世話になり、非常にありがとう御座いました。
 殊に奥様には、沢山のお子さんでお忙しいところへ、お気心をお掛けして、大変ごめいわくをしたのではないかと、思って居ります。くれぐれもお礼を申し上げておきます。
 帰るといきなり又忙しい仕事が待ち構えており、駆けづり回されています。又いつか是非沢山の話題をもって、お会いできる日を待っております。皆さまによろしく。若山為三氏にも、留女さんその他にも。
☆紙芝居『少年王者』の著者・山川惣治の作品と生涯を紹介した本出版される
『山川惣治』河出書房新社 1600円
山川さんの生誕100年を機に、出版美術研究家の三谷薫さんと、東京都文京区の弥生美術館学芸員の中村圭子さんが本にまとめた。
※ 授業で紙芝居の口演稽古として『少年王者』を少しずつやっていきます。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.100―――――――20――――――――――
掲示板
提出原稿について
○ 車内観察 → 電車の車内で観察したこと(創作・事実どちらでも)
○ 1日の記録 → 自分の1日を観察する(自分のことをどれだけ晒せるか)
○ 社会観察 → 社会の出来事を観察、自分の意見もいれてみる
○ 生き物観察 → 人間、動物、草木、生あるものすべての観察(宇宙人の目で)
 締め切りはありません。数制限もありません。書けた人は、どんどん提出し、皆の評価をみてみましょう。何事も切磋琢磨です。(提出原稿+出席+ゼミ貢献=評価)
ドストエフスキー情報
5月17日(土) : ドストエーフスキイの会・例会 会場は千駄ヶ谷区民会館
           総会 報告者・松本健一氏 (会場費500円)
6月14日(土) : 全作品を読む会「読書会」 会場は東京芸術劇場第一会議室
           作品『悪霊』3回目 報告者・金村 繁氏 
8月 9日(土) : 全作品を読む会「読書会」暑気払い「『悪霊』払い祭り」
出版
      2008・4・20
☆新刊・熊谷元一白寿記念写真集『信州 昭和の原風景』一草舎2200円
 理論社 2008・3・21 定価1200
★文・藤井誠二 マンガ・武富健治『「悪いこと」したらどうなるの?』
 学燈社 定価1600 特集ケータイ世界『国文学4』 
★山下聖美「ケータイ小説 クリエイターの卵たちはどう読むか」
福井勝也著『日本近代文学の〈終焉〉とドストエフスキー』
      のべる出版企画 2008・1・10
芦川進一著『「罪と罰」における復活』河合文化研究所・河合出版2007
清水 正著『ドストエフスキー論全集1』D文学研究会2007
下原敏彦著『ドストエフスキーを読みながら』鳥影社2006
国文学別冊『ギャンブル』下原敏彦・文「ドストエフスキーとギャンブル」                                  
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編集室便り
☆「2008年、読書と創作の旅」内容は、本通信に掲載します。
☆ 原稿、歓迎します。学校で直接手渡すか、下記の郵便住所かメール先に送ってください。
 「下原ゼミ通信」編集室宛
  住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
☆本通信はHP「土壌館創作道場」に掲載されています。

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