文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.382

公開日: 

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日本大学藝術学部文芸学科     2019年(令和元年)10月8日発行

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.382

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
9/24 10/1 10/8 10/15 10/22 10/29 11/12 11/19 11/26 12/3 12/10 12/17 1/7 1/14 1/21 
観察と記録

2019年読書と創作の旅

10・8下原ゼミ

2019年度読書と創作の旅同行者です。8人の仲間です。
宇治京香  安室翔偉  梅田惟花  佐久間琴莉 (松野優作) 伊東舞七
大森ダリア  佐藤央康 (7名参加の日撮影)

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法政大学国際文化部

 飯田・下伊那地区研究第5回学習会テーマ「熊谷元一」に決まる
 法政大学国際文化部(高柳俊男教授)は、留学生から見た日本の地方文化ということで、一地域(飯田・下伊那地区)に焦点を当て、毎年、夏期合宿をおこなうなど、その研究をすすめているが、このたび第5回学習会のテーマを「熊谷元一」と決めた。
 この学習会は、市ヶ谷にある校舎で11月23日(土)午後3時から開催される。予定される学習内容は、熊谷を紹介したDVD観賞と関係者の話。
※熊谷元一(1909-2010)は、先のゼミ合宿で訪れた「熊谷元一写真童画館」の展示作品の作者『一年生』代表作品(第一回毎日写真コンクール一位入選)、「写しつづけて70年」など。
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ゼミ観察  2019年後期前半、同行者出欠票

9月24日からの点呼状況です。()は提出課題

・宇治京香 9/24 10/1
前期13/14
・伊東舞七 9/24 10/1
前期10/14      (2)
・梅田惟花 
前期7/14
・佐久間琴莉9/24 10/1
前期13/14
・大森ダリア9/24
前期8/14   (1)
・安室翔偉  9/24 10/1
前期11/14
・佐藤央康  9/24 10/1
前期10/14   (2)
・松野優作 9/24      
 前期2/14  (1)
総計日   7   5
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ゼミ誌編集報告

9/24ゼミ参加者 → 宇治、佐久間、伊東、佐藤 安室 伊東 大森 松野

【ゼミ誌編集会議】宇治編集長 佐久間副編集委員

□印刷会社 →  新星社 決まり

□タイトル → 「暗夜光路」決まり

ゼミ雑誌編集 10/1現在までに決まっていること  

〈制作上の編集日程〉
①進行状況の報告提出 → 10/11(金)迄に
②仮見積もり書の提出 → 10/25(金)迄に
③確定見積もり書提出 → 11/22(金)迄に
④ a.請求書提出
  b.納品書提出
  c.発行の冊子5部 紹介文(100字)を添えて大学編集局に提出
12月6日(金)締切
〈ゼミ雑誌の形態〉
サイズ → 文庫本 原 稿 → 夏休み明けに提出 10月8日(火)~ 提出
表 紙 → 佐久間琴莉さん担当

☆ゼミ誌ガイダンス → 10月8日(火)12時20分より W303教室

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提出課題発表    
千葉県の台風被害に想う
伊東舞七

 私の家は特に台風の被害はなかったのですが、祖父の兄弟の家が房総にあり、電気は止まり、水は出ないなど被害が出たそうです先週あたりまでは、まだ水が出ない状況だったようです。あまりニュースでは報道されず千葉県内で台風の被害がそんなにも出ていることに驚きました。同じ千葉県に住んでいるのに全く違う状況になっていて、実際、自分の住んでいるところが…と考えるとゾッとします。ビル風によって家の屋根の瓦が吹っ飛んでしまったと聞いたこともあります。それによって負傷者は出なかったそうですが、もしでていたらと考えると怖いです。

□地震か津波――千葉県で起こる自然災害、このどちらかとおもっていたら、まさかの強風と、それに伴う電気停電でした。文明は脆いもの、それを痛感した千葉県台風被害でした。

私の夏休み

ハード過ぎたが楽しかった2019年の夏
伊東舞七

 英語のテスト出来が自分でも分かるほど最悪すぎて大きな大きなため息から始まった私の夏休み。バイトして遊んで、の繰り返しで家にいる時間は、ほとんどありませんでした。むしろ家にいるとめずらしいと言われるくらい。
 9月にあったゼミ合宿はとてもとても楽しかったです。自然豊かで、空が青く、空気がきれいで、ゆったりのびのびと過ごせました。星空、満点の☆、見たかったけれど、でもそれはもう天候しだいだから仕方ない。ゼミ合宿行けて良かったです。
 そんな感じで割とハードだった夏休み。なぜか夏休みが終わってから体調を崩した私。寝すぎて体力が落ちました。

□星空、残念でしたね。でも、台風が多発した前後の天候を思うと、、あの日程、仕方でよかったのかとも思います。

遠い日、私の夏休みの思い出 紹介  

 毎年、ゼミ授業の一環として夏休みの思い出を課題にしている。3年前、私も学生時代に体験した、夏休みの思い出をゼミ誌に載せてもらった。創作ルポとして書いたが、書きっぱなしの常で、すっかり忘れてしまっていた。新しい年がはじまって、大学に出勤したときだった。文芸棟職員通路で、突然、呼び止められた。白のワイシャツに黒のズボン、メガネをかけた50代~60代の事務方の人だった。その人は、手にしていた下原ゼミのゼミ誌を見せていきなり言った。
「わたしも同じでした !」
私は、戸惑った。ゼミ誌は、熊谷元一研究と題してあるので、はじめ、掲載されている写真のことかと思った。それで
「写真、創刊号にも載せてありますから」と、とんちんかんな返事をした。
「はあ、そうですか…」
その人は、困ったような笑みを浮かべた。
 写真のことではなさそうと分かったが、他に何も考えられなかったのでそのまま頭を
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下げて別れた。事務方の人なので、いつでも会えるという安心感があった。しかし、その後、今日まで会うことはない。職員通路を通るたびに、それとなく探してみるのだが、どの人だったか思いだせない。もしかして、他に転属になって、ここにはいないのかもしれない。
いまにして思うと、あの人は、私の夏休みの思い出を読んで、自分も同じ体験をした、そのことを伝えたかった―――そのように思うところである。
青春時代の楽しい思い出は、すぐに忘れるが、辛かった体験やほろ苦い思い出は、いつまでも金剛石のように記憶にあって、昨日のことのように甦る。
 
創作ルポ
計根別まで  (校正しながら完成させる)
下原敏彦
 
七月の焼けつくような日差しの下、大学の学バスから降りた学生たちが、それぞれの学科棟に向かって歩いていく。繁れる青葉の下を行く女子学生のカラフルな服装が、余計にざわめきを感じさせる。夏休み前の大学は、なんとなく落ち着かない。ゼミの学生たちにきいてみた。「ことしの夏は、どうするんですか――」
「海外旅行の予定です」
「自転車で四国一周します」
「ボランティア活動しようと思います」
「ほぼバイトです」
「帰省して田舎でのんびり過ごします」
「ゲームで終わっちゃうかも」
学生たちの夏休みの過ごし方は様々だ。
「いろんな計画があっていいですね」私は、笑って授業に入った。
この日は、志賀直哉の短編『網走まで』をテキストとした。
全文を学生に音読させたあと、
「この作品はエッセイのようにも思えますね…」
と謎かけるように言って学生たちをみた。
 短い沈黙のあと、近くの女子学生が、恐る恐る聞いた。
「―― そうでは、ないのですか」
「作者は、小説として書いたようです」私は、そう明かしたあと「書かれている母と子を見たのは事実らしいですが、あとはまったくの創作と書いています。題も草稿では『小説網走まで』となっています」
そう言って私は、草稿『網走まで』の創作余談を読み上げた。

〈或時東北線を1人で帰って来る列車の中で前に乗り合わしていた女とその子等から、勝手に想像して書いたものである〉

「このように書いてあります。列車も下りではなく上りです」と言ってからこのように、説明した。
「作者は、この作品を帝國大学の『帝國文学』に投稿しました。が、結果は没でした。なぜ不採用になったのか、その原因について、作者は、作品の出来より原稿の字がきたない為であった、と考えました。しかし、字がきたない、そんな表層的なことで、初歩的理由で帝國文学の編集者は、没にしたのでしょうか。作家の悪筆は、珍しいことではありません」
学生たちは、訝しげに私を見た。沈黙したままだった。
「では、なぜ、題名を網走にしたのか。それから考えてみましょう」私は、学生たちを見まわしてから言った。「この作品を書いた明治41年(1908)ですが、網走には、鉄道は通っ
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ていなかった。北見が終点でした。とすれば北見までとしてもよかったはずです。作者は、どんな意図があって網走まで、としたのでしょうか」
私は、ふたたび質問した。暫しの沈黙のあと、先ほどの女子学生が小さく手をあげて再度質問した。
「志賀直哉は、網走に何か特別な思いがあったのでしょうか」
「さあ、わかりません」私は、首を小さくひねって答えた。「作者は、43年後、68歳のとき、一人でリック一つ背負って北海道に行っています。しかし、網走には行かなかったということです」
「そうですか…」
彼女は、不思議そうに小首を傾げた。納得しない不満そうな顔だった。
「では、そこを夏休みの課題とします。なぜ題名を網走にしたのか。帝國文学の編集者はなぜ没にしたのか。考えてきてください。理由はいくつでもかまいません」
私は、そう言ってテキスト授業を終えた。そのあと、大学名の入ったレポート用紙を配りながら
「残った時間、夏休みについて思うことを書いてください。計画でも想像でもなんでもかまいません。夏休み明けに発表してもらいます。書き終わった人は提出してでていってください。今期の授業は終わりです」
学生たちは一斉に書き始めた。
私は、椅子を窓際に寄せて窓外を仰ぎ見た。繁れる銀杏の若葉の間に初夏の青空がまるでサファイアを散りばめたように、きらきら光っていた。私は、見るともなしにぼんやりながめながら、『網走まで』を書いた小説家のことを思った。
 作者、志賀直哉は、なぜ突然に北海道に行ったのか。年譜には各地を二週間ほど旅したとある。漠然と旅したのか。否、もしかしたら、どうしても行ってみたいところがあったのか。自分だけの思い出の場所が…。
私は、毎年、夏がくるたび、今年こそ北海道に行ってみよう。そんな衝動にかられる。しかし、結局は、その願いは叶うことなく五十年の歳月が流れてしまった。
レポート用紙に走るペンの音を聞きながら私は、懐かしい北海道の風景を思いだしていた。広大な牧草地、どこまでも広がる青い空。
いつしか私は夢の世界に漕ぎだしていた。時を超えて半世紀も前の青春時代の一コマに向かって――

あの夏の日の午後、私は計根別の駅に降り立った。両足でしっかり根釧原野の大地を踏みしめ、頭上いっぱいにひろがる大空をながめていた。これが北海道の空。これが北海道の大地。ついに来たんだ。喜びがふつふつと沸きあがった。

十日前、あの日がすべてのはじまりだった。あの日、私は、夏休みのバイト探しに、下落合にある学生援護センターに行った。センター内は、既に多勢の学生たちがいて、皆それぞれ掲示板に貼られた求人ビラとにらめっこをしていた。配達、製本、皿洗い、清掃、たいてい一日八時~五時で八百円前後だった。求人が少なければ、選んでいる余裕などないが、まだ夏休み前ということで、ビラの方が多かった。それでもセンター内は、苦学生六割、旅行資金づくりのお気楽学生四割でごった返していた。私は、むろん苦学生だが、海外無銭旅行の資金作りもあった。五十円でも多い求人広告を探していた。
なかなか気に入ったバイトは見つからなかった。疲れてきたので、ビラから目を離して回りを眺めた。一番奥まったところにある求人広告板に何人かの学生が集まってながめていた。そこには求人ビラが一枚だけ貼ってあるようだった。が、学生たちは、熱心に見ている様子はなかった。何のバイトだろう…私は好奇心から見にいった。
壁に貼ってあったのは、所定の求人票ではなく、ワラ半紙に手書きで書かれたものだった。
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そこには、こんな求人募集文句が書かれていた。

この夏
北海道で働いてみませんか。
仕事 酪農の手伝い。期間四十日間
三食宿泊付きで五百円。
交通費全額負担

北海道酪農農業協同組合

北海道は行ったことがない。往復の切符代もでて三食宿泊付きで五百円、つまり四十日間で手づかずで二万円もらえる。悪くないと思った。
さっそく受付に行って、申し出た。
「あのう、外の求人、まだ大丈夫ですか」
「北海道のですか!?」
中年の男性事務員は、驚いた顔で私をみた。
「もう、いっぱいですか」
「いやいや、大歓迎です。大歓迎――」
そう言いながら職員は、気がなさそうに書類箱に何かを探しはじめた。
奥歯にものがはさまったような言い方に私は、ちょつぴり不安を感じた。もう〆切ってしまった。そんなふうにみえた。
「ああ、これだこれだ」職員は、ひとりごちながらプリント紙をとりだすと言った。「説明会があるんですよ。北海道は、明後日なんですが――」
「説明会?!」
「そうなんですよ。現地、遠いですからね。しっかり聞いてから決めてもらうのです」
職員の言い方は、なぜか曖昧だった。ぜひとすすめながらも、積極的ではなかった。。
「はあ」
私は、狐につままれたような気持ちで援護会を後にした。
北海道――その地名の響きは、私の心を弾ませた。北海道には、都会の雑踏、四畳半の下宿。中部地方にある郷里への帰省。そうした平凡な日常生活から解放してくれる。そんな力のようなものがあった。
援護会の小さな窓口は、冒険がはじまる別世界への窓口のように思えた。明後日が待ち遠しかった。
 午後三時、説明会が援護会の小会議室ではじまった。十三名の男子大学生が集まった。坊主頭の体育系もいればモシャモシャ頭にヒゲ面もいる。が、さすがに牧場ということで流行りのアイビー族はいなかった。
 説明は、懇切丁寧だった。が、バイト仕事の内容は厳しいものがあった。一戸一戸の家にひとりずつ入って家族のひとたちと同じように働く。その家のひとたちが朝五時に起きれば五時から、六時なら六時、夕がたも同じ。朝起きて、夜寝る迄、要するにその家の人たちと生活を共にする。もちろん泊るのは、その農家。つまり労働時間は、決まりがない。そこまで聞いて二人の学生が、手をあげすごすごと出て行った。
「いいんです、いいんです。勇気がありますよ。いま決断されるということは。北海道、すばらしいところです。広い大地、広がる青空。だれだって行ってみたいと思います。ですが、牧場の仕事はきついんです。こんなはずじゃなかった。みんな思うんです。しかし、向うに行ってから途中で帰ってしまうと、農家の人たち困るんです。農作業が予定通りすすまないと死活問題ですからね。それだけ当てにしているんです。だから、いまの時点で判断してもらうと助かるんです。去年は、三人いました。一人の学生さんは着いた翌朝、五時に起きられなくて、トラックターのエンジンをかけたら、嫌がらせされたと訴えて、そのまま荷物を
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まとめて帰ってしまったんです。あとの二人は、牛舎の掃除に耐えきれなくて、泣く泣く帰った。家畜の糞の山に驚いたらしいです。牧場の仕事というと、なにか爽やかなかっこいいようにおもわれるんですが、大変な重労働です。汚くて、きつくて長い。しっかり覚悟していかないともちません」
言葉はやわらかだが、そのあとも職員は、さんざん脅した。だが、席を立つ学生はいなかった。バイト先は、稚内、釧路があげられた。稚内は遠いという印象だが、三名の希望があった。あとの八名は釧路になった。私は釧路組にした。その場で往復の切符をわたされた。行き先をみると「計根別」とあった。はじめて知る駅名だった。地図で見ると根釧原野のど真ん中にある駅だった。夢がひろがった。実家には帰省できないことを伝え、大学にも届けた。戦前は拓務省にいて満蒙開拓に関係していたという主任教授は、大いに喜んでくれ実習授業の四単位を約束してくれた。個人的バイトで、単位がとれる。いま思えばいきな計らいをしてくれた。北海道見物ができ、単位がもらえる私には一石三鳥の好バイトだった。このときは、酪農作業の手伝いの厳しさを知る由もなかった。

一週間後、夏休みがはじまったと同時に私たちは北海道へ出発した。上野から夜行列車、総勢十一人、いろんな大学の学生がいたが目的が一つということで、すぐに打ち解けた。現地に着く迄の同行の旅。ほとんどがモサ連中で気がよかった。三人ばかり学ランに高下駄という威勢のよいのもいた。駅弁を食べ終わると宴会になった。「北帰行」や「さすらい」「東京流れ者」など、モサ連中は、自分のおはこを披露した。皆、なかなかのノド達者、藝達者だった。寝台列車の窓から見える東北の夜は、ほとんど真っ暗闇の世界だった。列車は若者たちの一期一会を乗せて一路、青森に向かった。朝、青森駅に着くと、休む間もなく連絡船に乗り函館に向かった。函館に着くと、五稜郭も見物せず、こんどは札幌行きの列車に乗車した。列車は、密林のような林のなかを走っていく。車窓に大きなふきの葉っぱがこすれた。なにか未開の土地に入り込んで行くような気がした。
突然視界がひらけ町に入った。札幌についたのだ。皆で時計台まで歩いていってラーメンを食べた。そのあと、別れを惜しんでそれぞれの目的地に散って行った。計根別までは、五名となった。もう一夜、普通列車に揺られるのだ。深夜、倶知安という駅でうどんを食べた。七月末なのに、ひどく寒かった。そのぶん熱いうどんがおいしかった。
オンボロ列車の旅は、釧路、中標津を経て、ようやく目的地、計根別駅に着いた。昼過ぎだった。上野をでてまる二日だった。駅舎をでると、一面の青空が広がっていた。十一人いた学生は、私を入れて五人に減っていた。短い旅だったが気の合った彼らとは、東京で再会を誓って別れた。だが、彼らとはあの日以来会っていない。五十年の歳月があっという間に過ぎてしまった。
「迎えのない学生さんたちは、順番に各農家まで送ります。タクシーでなくてすまんですが」人のよさそうな中年の農協の職員は、そう言って農協の小型トラックで一人一人を送った。迎え荷きた農家は一軒だけだった。私は三番目で一時間、待ったあとだった。
「なにしろ、あっちこっちに点在しているもので」農協の職員は、わびながらトラックを走らせた。国道は穴だらけで、揺れがひどかった。
 このときになって、私は、手伝うことになる酪農農家のことが気になった。どんな家族だ
ろう。子どもはいるだろうか。草原の一本道をトラックはひたすら走る。
「原沢さんとこは、五人家族です。お姉ちゃんは中学生、小学生の妹と弟がいるかな」
運転の農協職員は、説明しながら、なんども大変な仕事ですからを繰り返した。
切れ切れの話を総合すると私が入ることになった酪農農家は、開拓十三年目の農家で、四十歳代夫婦と子供三人の家庭だった。
計根別駅から二十分ばかりか。原沢家は大草原のなかにあった。丸太小屋づくりの西部開拓史の映画を彷彿させるような家だった。このへんの農家はみなそんな作りだった。
母親のときさんと子どもたちが出迎えてくれた。子どもたちは、長女 道子中学二年生、
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次女咲子小学五年生、健一小学三年生。主人の英四郎さんは、午前中、牛乳集めの仕事をしていたが、この日は夜になって帰ってきた。真っ黒に日焼けした、たくましいお父さんだった。私にエビをご馳走するため、町まで行ってきたらしい。跳ねるエビを歓迎にストーブの上で焼いてくれた。朝晩はストーブをたいた。原沢家は、ストーブがある食堂兼台所の他に、六畳間ばかりの部屋が三つあった。原沢夫婦の寝室と、子どもたちの寝室兼勉強部屋。私には客間が容易されていた。その晩は長旅の疲れで九時には寝てしまった。
夕食のとき、英四郎さんから聞いた原沢家の仕事は、搾乳、牛舎の掃除、ジャガイモの収穫、ビートの間引き、野菜の草取り、牧草のサイロ詰めだった。
次の日の朝、5時半に起きた。原沢家の家族は全員、庭にでていた。子どもたちは、井戸のまわりで顔を洗っていた。私も井戸で顔を洗った。井戸水は、ものすごく冷たかった。英四郎さんは、牛舎で新式の搾乳機で搾乳していた。この春まで手でしぼっていたが、ミルカーというこの自動搾乳機ができたので、ずいぶん楽になったらしい。私はほっとした。原沢家には6頭ホルスタインがいる。搾乳機がなければ手で搾ることになった。私の仕事は、湯で搾った布巾で牛の乳房を拭くことだ。搾乳の後は、牧場に牛たちを放牧。そのあと牛舎の掃除。7時頃、母屋に戻る。井戸で手を洗い、朝食前の仕事は、終わりとなるが、まだ準備できていないときは、ストーブの薪割りをした。
つづく

1965年の夏、北海道。酪農手伝い、原沢家では、どんな日々がまっているのか。

・・・・・・・・・・・・・・掲示板・・・・・・・・・・・・・

熊谷元一生誕110周年記念「一年生」写真展常設のお知らせ

月 日  2019年(令和元年)10月~11月
会 場  土壌館下原道場
時 間  午後3時 ~ 6時(水)
交 通  JR津田沼駅北口、バス3番乗り場 
「船橋役所 二宮出張所」下車 徒歩3分坂道下る。
      土壌館事務局 連絡 090-2764-6052

読書会のお知らせ ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」

月 日 : 2019年10月12日(土) 開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室(池袋西口徒歩3分)
 作 品  :『カラマーゾフの兄弟』5回目 報告者 : フリートーク
連絡090-2764-6052下原 メール:toshihiko@shimohara.net 

以下、草稿、

農作業とホルスタイン牛の世話に追われる毎日。単調な日々で、日にちも曜日もわからなくなってきた。それで、寝る前、目をこすりながらノートに走り書きした。それがこれである。
小学校三年の健一君が、いつまでもじっとみつめているのが気になった。
「じろじろみるんじゃないよ。おにいちゃんかえっちゃうよ」
ときに、よく叱られていた。
あとでわかったことだが、一点を見つめる性癖だった。それ以外は普通の子どもたちだった。が、北海道の子はよく働く。それが印象的だった。
朝五時に目が覚めた。新聞配達のバイトもやっていたことがあるので早起きには自信あった。
が、旅の疲れもあって起きたのは六時だった。母家の中には誰もいなかった。あわてて外に出ると、
8月×日
一日の仕事を日課表てきに書きだすとこのようになる。
朝五時起床、牛舎に行く。十六頭のホルスタインに乾燥した牧草を食べさせる。その間に
乳房を湯で洗い、そのあとミルキーという最新乳搾り機器で乳搾りする。乳搾りが終わると、全部の牛たちを放して牧場まで追いたてる。そのあと牛乳缶を国道まで馬に荷車つけて運ぶ。牛舎の掃除、牛糞を一輪車に乗せて、堆肥置き場まで運ぶ。山となった牛糞は、暇なとき古い山に移動させる。朝食前の仕事、井戸の冷たい水で顔を洗う。母屋に戻ると七時を過ぎていた。
 八月とはいえ朝は寒く薪ストーブに当たりながらの朝食。驚いたのは、家族皆、ごはんの上にバーターをのっけて食べていた。八時からは畑に出てビートのまびき、ジャガイモの収穫、それが終わると牧草刈りと行きつくひまがない。農協のトラック田―が刈って行った牧草を集める。乾燥餌は、サイロ
  

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最初の一日は緊張していて、なにがなんだかわからなかったが、三日目には、もう、へとへとだった。一カ月と二十日が永遠につづきそうに思えた。とにかく、くたびれた。夕飯をすますと、一時も早くふとんに入って眠りたかった。はじめのうちは、風呂に入るのも億劫だった。さいわい原澤家は、、二日か三日、置きに風呂をたいた。風呂の水は、近くの川の水を使っていた。あおに荷車を引かせ、牛乳カンに水をつめて運ぶのは子どもたちの仕事だったが、私も手伝った。
夏休み宿題
夜の時間 中学の数学がわからんで

健一と咲子の小学生の問題、が、道子の中学二年生になると、英語は、辞書を片手になんと
かできたが、数学、代数、はときどき答えが違った。美智子は、途中から見切りをつけた。
有名大学のお兄ちゃんならよかった。
「この問題」
学校では勉強ができるという道子の眼は、試している
「えっ、数学」私は、厭な顔をして言った。
「できないの」
「うーん、苦手だから」
「わからないの」道子は顔に軽蔑の表情があった。
「うーん、苦手だからな」
私は笑ってごまかした。
「やりたくないもんだから」
「ちがうよ、ほんとにわからないんだ」
「なんだ、やっぱりできないんだ。もういいわ」道子は腹をたてると、」
「大学生のくせに」と捨て台詞を残して出ていった。
嫌になる。道子と顔をあわすのがなんとなく気づまりになった。
「道子、おまえの勉強のためにきたんじゃないからね。どうして、あんなこと言ったんだい。いま、気を悪くして帰られたら、困るじゃないか
件一と咲子は宿題帳をもってきた。見ているうちに眠くなった。
「まだ、終わってないよ」
それから道子との関係が悪くなった。声をかけることがなかった。気づまりだった。

が、あの出来ごとが私と道子の柵を取り払ってくれた。

トイレ事件

夜なか、にわかにおなかが痛くなり、トイレに起きた。トイレは、庭の隅にあった。掘立小屋のなかに掘った穴に二本の板をかけた簡単なものだった。夢中でとびこんで
トイレ板壊れて落ちる。
いえに明りがついた。
「どうしました」
「トイレに落ちました。板が折れて」
「そりゃたいへんだ」
夜の川 帰り道
「おかあちゃん、むかし歌上手だったんだって。
「ここにきたら牛を追ったりするんで声がつぶれちゃった」

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空には月が煌々と輝いていた。
「なにか、ここ砂漠みたい」
「そういえばね。草原なのに」
道子は、そう言って歌いだした。

月の砂漠を はるばると
旅のらくだが 行きました

金と銀との 鞍置いて
二つならんで 行きました

夜のしじまに

「お兄ちゃん、帰らないで」
「帰る」
「いやになって」
「逃げやせんよ」
「中学生の数学もわからん大学生」
「ごめんなさいそんなこと、気にしてないわ。きになんかしてない」
道子は、叫んで私の胸に飛び込んできた。
「やあ」
「さて、こまったな、なにしようか」
私は、彼女から伝わってくる体温の温みと体の柔らかさを感じた。
私は、道子をぐっと押しやって、彼女から離れた。
「ばか、お兄ちゃんのばか」
「来年も、きっときてね」
「さんすうできなくたっていいんだって」
咲子がわらってからかう。
健一は、じっとみつめたまま、
「だあら、来年もぜったいきてくんろ」と、いった。
「くるよ、ぜったい」
私は、大声で言った。本当に来るぞ、ぜったいくるんだ。そのときは本気でそう思った。
「やくそくだよ」
咲子は、言ってふりかえって姉の姿を探す。
「おねえちゃんたちどこ」、
「柵なおしにいっとる。うるさいもんで」
牧場の柵がこわれていて、一頭、逃げ出し、昨日から、境界線の騒動になっていた。隣りの家、二キロは離れているのだが、から文句がきていたのだ。
「いいよ、いいよ、忙しいから」
「とうちゃんからも、よろしく」
ときさんは、かすれた声で
私は、トラックの荷台に乗った。トラックは走りだした。
咲子は、万歳して振った。健一は、立ちつくしたまま
草原のなかに立つ原澤家の丸木太小屋。つらい農作業や乳牛の世話からやっと開放されたという安堵感と、一カ月寝食をともにした家族と別れるさびしさがあった。トラックは、そんな感傷を跳ね飛ばすようにパウンドしながら国道に向かって走っていた。
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遠ざかっていく
「あれ、ミチ坊た」
農協の運転手は、バックミラーをみると、声をあげた。
振り返ると、遠くの土手にそって馬が一頭駆けてくる。アオ号だった。
道子が乗っていた。
アオ号に乗って手をふる

トラックは、国道にでると右折した。一本道が、ずっと地平までつづいている。アクセルを
踏んだ。トラックはいきおいをました。
道子と青号は、国道の手前で止まった。

私は、別れの寂しさもあったが、ほっとした
手紙をもらった。
来年もいくからね。ハガキをだした。本当に行くつもりだった。
だが、翌年五月、フランスで起きた学生運動は、またたくまに世界を席巻した。日本にも飛び火した。たちまちのうちにうちに日本中の大学は火の海となった。私の大学も例外ではなかった。私は、学園紛争に身を投じた。そのときなんどか下宿をかわるうちに、道子からの手紙は、散逸してしまった。学生運動は、長引くとセクト争いの内ゲバにかわっていった。私は嫌気がさして、外国放浪の旅にでた。横浜港からフランスの貨客船「ラオス」号で、マルセルユをめざした。一年の帰国後、学校には、席はなかった。私は、日本のなかで、夢をもとめて放浪をくりかえした。そのあいだに原澤家のことも、子どもたちとの約束も、道子とのやくそくも、うすれていった。私が行かなくても、新しいバイト学生が行ったかも知れない。彼らも一夏の私のことなど忘れてしまったにちがいない。そう思いながらも、なぜか私はあ、もう一度黄色の野の花が咲く、あの草原の牧場に行ってみたい。そんなきもちがわいてくるのだ。五十年という歳月が流れたが、いまも昨日のことのように鮮やかに記憶にのこっている。

「先生、先生」
不意の声に私ははっとした。いつのまにか眠っていたのだ。
「書き終えました」
「そうか」
学生たちは次々立ちあがって課題要紙をおくとでていった。私は、窓外にひろがる梅雨明けの青空をみあげて、来年は、行ってみようと思った。計根別まで。

.文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.382―――――――― 12 ―――――――――――――

2019年9月5日 (木)熊谷元一写真童画館にてゼミⅡゼミⅢ

・・・・・・・・・・・・・・掲示板・・・・・・・・・・・・・

熊谷元一生誕110周年記念「一年生」写真展常設のお知らせ

月 日  2019年(令和元年)10月~11月
会 場  土壌館下原道場
時 間  午後3時 ~ 6時(水)
交 通  JR津田沼駅北口、バス3番乗り場 
「船橋役所 二宮出張所」下車 徒歩3分坂道下る。
      土壌館事務局 連絡 090-2764-6052

読書会のお知らせ ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」

月 日 : 2019年10月12日(土) 開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室(池袋西口徒歩3分)
 作 品  :『カラマーゾフの兄弟』5回目 報告者 : フリートーク
連絡090-2764-6052下原 メール:toshihiko@shimohara.net 

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