文芸研究Ⅲ 下原ゼミ通信No.19

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2019年(令和元年)10月22日発行

文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信No.19

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
9/24 10/1 10/8 10/15 10/22 10/29 11/12 11/19 11/26 12/3 12/10 12/17 1/7 1/14 1/21 
観察から創作へ

2019年ゼミⅢ読書と創作の旅

10・22下原ゼミ

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台風19号で10月読書会中止 芸術劇場臨時休館

ドストエーフスキイ全作品を読む「読書会」は10月12日(土)午後2時から池袋西口にある東京芸術劇場小会議室5に於いて開催予定だった。しかし、はるか南方で発生した戦後最大、100年に一度という強力台風19号は、衰えを知らずノロノロと北上してくるではないか。8日、9日あたりになると関東地方に直撃上陸は疑いの余地なし。読書会は、どうするか迷っていたが、各地の鉄道が運転を見合わせるとの報道に10日朝、早々と中止を決めた。東京芸術劇場に、その胸を連絡すると、開口一番は、「会場費はお返ししません」だった。が、昼過ぎて、同館は全館休館とすると決定した。抽選で支払った会場費は返却してくれるとのこと。

19号は、10月22日現在も各地に爪後を残している。
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ゼミ誌編集報告

10/15ゼミ参加者 → 中谷 交通事情か1名のみ

【ゼミ誌編集会】西村編集長 中谷、吉田編集委員

□印刷会社 → 新生社 15日、蜷川さんに会う、「原稿出ればOKです」

□タイトル → 「是溢市(ぜみし)」

ゼミ雑誌編集 10/15現在までに決まっていること  

②仮見積もり書の提出 → 10/25(金)迄に
③確定見積もり書提出 → 11/22(金)迄に
④ a.請求書提出
  b.納品書提出
  c.発行の冊子5部 紹介文(100字)を添えて大学編集局に提出
12月6日(金)締切
〈ゼミ雑誌の形態〉
サイズ → 文庫本 原 稿 → 夏休み明けに提出 10月22日(火)~ 提出
 
後期授業について

□表現力を磨きます。名作の脚本化口演で

ドストエフスキーの『罪と罰』を中心にゼミ授業をすすめます。

裁判員裁判10周年を記念して、『罪と罰』の法廷劇を行います。
前期は、二つの事件裁判を扱いました。
「剃刀職人客殺害疑惑裁判」と「ナイフ投げ美人妻殺害事件」です。

●「剃刀職人客殺害事件裁判」は、事故か傷害致死かの成り行き殺害。
●「ナイフ投げ奇術師美人妻殺害裁判」は、死ねばいいと願いながらのあやふや殺人。
●「継娘殺人未遂事件」殺意をもって実行したが、奇跡的に助かった事件。
●「金貸し老婆とその妹強盗殺人事件」は、明確に殺しが目的のはっきり事件。
  第一回公判 ~ 第五回公判、判決まで
  (NHK文化カルチャー柏 市民講座で口演中)

□自分の日常観察から創作 創作作品の朗読とテスト問題実施

『ひがんさの山』→ (四谷大塚 有名中学入試模擬)
『コロスケのいた森』→ (大阪府高校入試問題 埼玉県高校入試問題作品)
『やまびこ学校』

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遠い日、私の夏休みの思い出 紹介  2019年9月改訂

 毎年、ゼミ授業の一環として夏休みの思い出を課題にしている。私も学生時代に体験した、夏休みの思い出をゼミ誌に載せてもらったことがある。創作ルポとして書いたが、書きっぱなしの草稿で完成作品ではなかった。そこで今回、校正し直して紹介する。
青春時代の楽しい思い出は、すぐに忘れるが、辛かった体験やほろ苦い思い出は、いつまでも金剛石のように記憶にあって、昨日のことのように甦る。
 
創作ルポ
計根別まで  
編集室
 
七月末の焼けつくような日差しの下、大学の学バスから降りた学生たちが、それぞれの学科棟に向かって歩いていく。繁れる青葉の下を行く女子学生のカラフルな服装が、余計にざわめきを感じさせる。夏休み前の大学は、なんとなく落ち着かない。ゼミの学生たちにきいてみた。「ことしの夏は、どうするんですか――」
「海外旅行の予定です」
「自転車で四国一周します」
「ボランティア活動しようと思います」
「ほぼバイトです」
「帰省して田舎でのんびり過ごします」
「ゲームで終わっちゃうかも」
学生たちの夏休みの過ごし方は様々だ。
「いろんな計画があっていいですね」私は、笑って授業に入った。
この日は、志賀直哉の短編『網走まで』をテキストとした。
全文を学生に音読させたあと、
「この作品はエッセイのようにも思えますね…」
と謎かけるように言って学生たちをみた。
 短い沈黙のあと、近くの女子学生が、恐る恐る聞いた。
「―― そうでは、ないのですか」
「作者は、小説として書いたようです」私は、そう明かしたあと「書かれている母と子を見たのは事実らしいですが、あとはまったくの創作と書いています。題も草稿では『小説網走まで』となっています」
そう言って私は、草稿『網走まで』の創作余談を読み上げた。

〈或時東北線を1人で帰って来る列車の中で前に乗り合わしていた女とその子等から、勝手に想像して書いたものである〉

「このように書いてあります。列車も下りではなく上りです」と言ってからこう説明した。
「作者は、この作品を帝國大学の『帝國文学』に投稿しました。が、結果は没でした。なぜ不採用になったのか、その原因について、作者は、作品の出来より原稿の字がきたない為であった、と考えました。しかし、字がきたない、そんな表層的なことで、初歩的理由で帝國文学の編集者は、没にしたのでしょうか。作家の悪筆は、珍しいことではありません」
学生たちは、訝しげに私を見た。沈黙したままだった。
「では、なぜ、題名を網走にしたのか。それから考えてみましょう」
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私は、学生たちを見まわしてから言った。「この作品を書いた明治41年(1908)ですが、網走には、鉄道は通っていなかった。北見が終点でした。とすれば北見までとしてもよかったはずです。作者は、どんな意図があって網走まで、としたのでしょうか」
私は、ふたたび質問した。暫しの沈黙のあと、先ほどの女子学生が小さく手をあげて再度質問した。
「志賀直哉は、網走に何か特別な思いがあったのでしょうか」
「さあ、わかりません」私は、首を小さくひねって答えた。「作者は、43年後、68歳のとき、一人でリック一つ背負って北海道に行っています。しかし、網走には行かなかったということです」
「そうですか…」
彼女は、不思議そうに小首を傾げた。納得しない不満そうな顔だった。
「では、そこを夏休みの課題とします。なぜ題名を網走にしたのか。帝國文学の編集者はなぜ没にしたのか。考えてきてください。理由はいくつでもかまいません」
私は、そう言って授業を終えた。そのあと、大学名の入ったレポート用紙を配りながら
「残った時間、夏休みについて思うことを書いてください。計画でも想像でもなんでもかまいません。夏休み明けに発表してもらいます。書き終わった人は提出して帰ってもいいですよ。今期の授業は終わりです」
学生たちは一斉に書き始めた。
私は、椅子を窓際に寄せて窓外を仰ぎ見た。繁れる銀杏の若葉の間に初夏の青空がまるでサファイアを散りばめたように、きらきら光っていた。私は、見るともなしにぼんやりながめながら、『網走まで』を書いた小説家のことを思った。
 作者、志賀直哉は、なぜ突然に北海道に行ったのか。年譜には各地を二週間ほど旅したとある。漠然と旅したのか。否、もしかしたら、どうしても行ってみたいところがあったのか。自分だけの思い出の場所が…。
私は、毎年、夏がくるたび、今年こそ北海道に行ってみよう。そんな衝動にかられる。しかし、結局は、その願いは叶うことなく五十年の歳月が流れてしまった。
レポート用紙に走るペンの音を聞きながら私は、懐かしい北海道の風景を思いだしていた。広大な牧草地、どこまでも広がる青い空。
いつしか私は、夢の世界に漕ぎだしていた。時を超えて半世紀も前の青春時代の一コマの風景に向かって――
あの夏の日の午後、私は計根別の駅に降り立った。両足でしっかり根釧原野の大地を踏みしめ、頭上いっぱいにひろがる大空をながめていた。これが北海道の空。これが北海道の大地。ついに来たんだ。喜びがふつふつと沸きあがった。

十日前、あの日がすべてのはじまりだった。あの日、私は、夏休みのバイト探しに、下落合にある学生援護センターに行った。センター内は、既に多勢の学生たちがいて、皆それぞれ掲示板に貼られた求人ビラとにらめっこをしていた。配達、製本、皿洗い、清掃、たいてい一日八時~五時で八百円前後だった。求人が少なければ、選んでいる余裕などないが、まだ夏休み前ということで、ビラの方が多かった。それでもセンター内は、苦学生六割、旅行資金づくりのお気楽学生四割でごった返していた。私は、むろん苦学生だが、海外無銭旅行の資金作りもあった。五十円でも多い求人広告を探していた。
なかなか気に入ったバイトは見つからなかった。疲れてきたので、ビラから目を離して回りを眺めた。一番奥まったところにある求人広告板に何人かの学生が集まってながめていた。そこには求人ビラが一枚だけ貼ってあるようだった。が、学生たちは、熱心に見ている様子はなかった。何のバイトだろう…私は好奇心から見にいった。
壁に貼ってあったのは、所定の求人票ではなく、ワラ半紙に手書きで書かれたものだった。
そこには、こんな求人募集文句が書かれていた。
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北海道は行ったことがなかった。往復の切符代もでて三食宿泊付きで五百円、つまり四十日間で手づかずで二万円もらえる。悪くないと思った。
さっそく受付に行って、申し出た。
「あのう、牧場の求人、まだ大丈夫ですか」
「北海道のですか!?」
中年の男性事務員は、驚いた顔で私をみた。
「もう、いっぱいですか」
「いやいや、大歓迎です。大歓迎――」
そう言いながら職員は、気がなさそうに書類箱に何かを探しはじめた。
奥歯にものがはさまったような言い方に私は、ちょつぴり不安を感じた。もう〆切ってしまった。そんなふうにみえた。
「ああ、これだこれだ」職員は、ひとりごちながらプリント紙をとりだすと言った。「よかった、説明会があるんですよ明後日に。北海道は、別口なもので――」
「説明会?!」
「そうなんですよ。現地、遠いですからね。しっかり聞いてから決めてもらうのです」
職員の言い方は、なぜか曖昧だった。ぜひとすすめながらも、積極的ではなかった。。
「はあ」
私は、狐につままれたような気持ちで援護会を後にした。
北海道――その地名の響きは、私の心を弾ませた。北海道には、都会の雑踏、四畳半の下宿。中部地方にある郷里への帰省。そうした平凡な日常生活から解放してくれる何かがあった。夢をもたせてくれた。都会での配達や製本づくりのバイトより、よほどいい。
援護会の小さな窓口は、冒険がはじまる別世界への窓口のように思えた。明後日が待ち遠しかった。
 明後日の午後三時、説明会が援護会の小会議室ではじまった。十三名の男子大学生が集まった。坊主頭の体育系もいればモシャモシャ頭にヒゲ面もいる。が、さすがに牧場手伝いということで流行りのアイビー族やシテイボーイ風な学生はいなかった。
 説明は、懇切丁寧だった。が、バイト仕事の内容は厳しいものがあった。一戸一戸の家にひとりずつ入って家族のひとたちと同じように働く。その家のひとたちが朝五時に起きれば五時から、六時なら六時、夕がたも同じ。朝起きて、夜寝る迄、要するにその家の人たちと生活を共にする。もちろん泊るのは、その農家。つまり労働時間は、決まりがない。そこまで聞いて二人の学生が、手をあげすごすごと出て行った。
「いいんです、いいんです。勇気がありますよ。いま決断されるということは。北海道、すばらしいところです。広い大地、広がる青空。だれだって行ってみたいと思います。ですが、
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牧場の仕事はきついんです。こんなはずじゃなかった。みんな思うんです。しかし、向うに行ってから途中で帰ってしまうと、農家の人たち困るんです。農作業が予定通りすすまないと死活問題ですからね。それだけ当てにしているんです。だから、いまの時点で判断してもらうと助かるんです。去年は、三人いました。一人の学生さんは着いた翌朝、五時に起きられなくて、トラックターのエンジンをかけたら、嫌がらせされたと訴えて、そのまま荷物を
まとめて帰ってしまったんです。あとの二人は、牛舎の掃除に耐えきれなくて、泣く泣く帰った。家畜の糞の山に驚いたらしいです。牧場の仕事というと、なにか爽やかなかっこいいようにおもわれるんですが、大変な重労働です。汚くて、きつくて長い。しっかり覚悟していかないともちません」
言葉はやわらかだが、そのあとも職員は、さんざん脅した。だが、席を立つ学生はいなかった。バイト先は、稚内、釧路があげられた。稚内は遠いという印象だが、三名の希望があった。あとの八名は釧路になった。私は釧路組にした。翌日、往復の切符をわたされた。行き先をみると「計根別」とあった。はじめて知る駅名だった。地図で見ると根釧原野のど真ん中にある駅だった。夢がひろがった。実家には帰省できないことを伝え、大学にも届け
た。戦前は拓務省にいて満蒙開拓に関係していたという主任教授は、大いに喜んでくれ実習授業の四単位を約束してくれた。私的バイトで、単位がとれる。いま思えばいきな計らいをしてくれた。北海道見物ができ、単位がもらえる私には一石三鳥の好バイトだった。このときは、酪農作業の手伝いの厳しさを知る由もなかった。
一週間後、夏休みがはじまったと同時に私たちは北海道へ出発した。上野から夜行列車、総勢十一人、いろんな大学の学生がいたが目的が一つということで、すぐに打ち解けた。現地に着く迄の同行の旅。ほとんどがモサ連中で気がよかった。三人ばかり学ランに高下駄という威勢のよいのもいた。駅弁を食べ終わると宴会になった。「北帰行」や「さすらい」「東京流れ者」「蒙古放浪歌」など、モサ連中は、自分のおはこを披露した。皆、なかなかのノド達者、藝達者だった。寝台列車の窓から見える東北の夜は、ほとんど真っ暗闇の世界だった。列車は若者たちの一期一会を乗せて一路、青森に向かった。朝、青森駅に着くと、休む間もなく連絡船に乗り函館に向かった。函館に着くと、五稜郭も見物せず、こんどは札幌行きの列車に乗車した。列車は、密林のような林のなかを走っていく。車窓に大きなふきの葉っぱがこすれた。なにか未開の土地に入り込んで行くような気がした。
突然視界がひらけ町に入った。札幌についたのだ。皆で時計台まで歩いていってラーメンを食べた。そのあと、別れを惜しんでそれぞれの目的地に散って行った。計根別までは、五名となった。もう一夜、普通列車に揺られるのだ。深夜、倶知安という駅でうどんを食べた。七月末なのに、ひどく寒かった。そのぶん熱いうどんがおいしかった。
オンボロ列車の旅は、釧路、中標津を経て、ようやく目的地、計根別駅に着いた。昼過ぎだった。上野をでてまる二日だった。駅舎をでると、一面の青空が広がっていた。十一人いた学生は、私を入れて五人に減っていた。短い旅だったが気の合った彼らとは、東京で再会を誓って別れた。だが、彼らとはあの日以来会っていない。五十年の歳月があっという間に過ぎてしまった。
「迎えのない学生さんたちは、順番に各農家まで送ります。タクシーでなくてすまんですが」人のよさそうな中年の農協の職員は、そう言って農協の小型トラックで一人一人を送った。迎えにきた農家は一軒だけだった。私は三番目で一時間、待ったあとだった。
「なにしろ、あっちこっちに点在しているもので」農協の職員は、わびながらトラックを走らせた。国道は穴だらけで、揺れがひどかった。
 このときになって、私は、手伝うことになる酪農農家のことが気になった。どんな家族だ
ろう。子どもはいるだろうか。草原の一本道をトラックはひたすら走る。
「原沢さんとこは、五人家族だっぺ。お姉ちゃんは中学生、小学生の妹と弟がいる」
運転の農協職員は、説明しながら、なんども大変な仕事ですからを繰り返した。
それらの話をまとめると私が入ることになった酪農農家は、開拓十三年目の農家で、四十
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歳代夫婦と子供三人の家庭だった。
計根別駅から二十分ばかりか。原沢家は大草原のなかにあった。丸太小屋づくりの西部開拓史の映画を彷彿させるような家だった。このへんの農家はみなそんな作りだった。
母親のトキさんと子どもたちが出迎えてくれた。子どもたちは、長女 道子中学二年生、
次女咲子小学五年生、健一小学三年生。主人の英四郎さんは、午前中、牛乳集めの仕事をしていたが、この日は夜になって帰ってきた。真っ黒に日焼けした、たくましいお父さんだった。私にエビをご馳走するため、町まで行ってきたらしい。まだ生きていて飛び跳ねるエビを歓迎にストーブの上で焼いてくれた。八月でも朝晩はストーブを焚かないと寒かった。
原沢家は、ストーブがある食堂兼台所の他に、六畳間ばかりの部屋が三つあった。原沢夫婦の寝室と、子どもたちの寝室兼勉強部屋。私には八畳間ほどの客間が用意されていた。その晩は長旅の疲れで九時には寝てしまった。普段は長女の道子が使っていた。
「きついから、のんびりやるべえさ」寝る前にトキさんと英四郎さんが挨拶がわりに
そう言ってくれたのでほっとした。
原沢家には6頭のホルスタインと1頭の馬、それと十数羽のニワトリがいた。5頭が搾乳可能で、朝は、牛たちの世話に追われた。搾乳は、ちょうどミルカーという自動搾乳機がはいったばかりで、手で搾る必要がなくなって大いに助かった。食事でき驚いたのは、ごはんの上に大量のバターを乗せて食べることだった。うどんがご馳走だった。
最初の日、寝る前、目をこすりながら日記をつけた。
一日目、旅の疲れもあって朝、起きたのは六時。家の中は、しんとしていた。台所はストーブが焚かれていたが誰もいなかった。あわてて外に出ると、一家総出で牛舎にいた。道子はミルカ―で搾乳する前、牛の乳房をお湯に浸した布できれいに拭っていた。咲子は、干し草を牛たちに食べさせていた。主人の英四郎は、出荷する牛乳を入れる缶を揃えていた。トキさんは、ニワトリを小屋に追ってタマゴを集めていた。健一は、アオ号に水を飲ませていた。皆、それぞれに仕事があるようだった。朝食後、英四郎さんは、酪農家を回って牛乳集めに――ここまで書いて、猛烈な睡魔に襲われた。次の日は、2行しか書けなかった。出来事を全部書くのはあきらめた。以下は、後で書いた原沢家のだいたいの日課である。

□朝5時半起床。牛舎の掃除。6頭のホルスタインに牧草のえさやり。乳房を湯で洗いミルキーで搾乳。乳搾りが終わると、牛たちを牧場に放牧。
□7時、井戸の冷たい水で顔を洗う。ストーブの薪割り。朝食、バターのせご飯。
□8時半、牛糞山の移動。新しい牛フンを一輪車に乗せて堆肥置き場まで運ぶ。山となった牛糞は、時間があるとき外の牛糞小屋に移動させる。単純作業なので、私の仕事になった。文字通り糞まみれになっての作業だが、すぐ慣れた。
□10時お茶の時間。(8月末から子供たち学校)トキさんと二人で農作業。
□11時、英四郎さん牛乳集配から帰宅。じゃがいもの収穫。一むね200㍍はある。
□正午、お昼、
□1時、午後からは、近くの酪農家たちと共同でサイロ詰め。農協のトラックターが集めてきた干し草を大きな煙突型のサイロに詰め込む作業。私の仕事は、他の大人たちと一緒にサイロの中に入って干し草を踏みしめる。頭の上から、機械で刻まれた干し草がバサバサと落ちてくる。サイロの中は発酵臭の草いきれと干し草の熱気でサウナのようだった。
□5時、原沢家に戻り、放牧の牛を子どもたちと牛舎にいれる。
□6時、二日か三日置きに風呂を焚いた。風呂の水は、近くの川の水を使っていた。馬のアオ号に荷車を引かせ、牛乳カンに水をつめて運んだ。子どもたちの仕事で、私も手伝った。
□7時、夕食。二日置きに風呂。
□9時、就寝。

毎日が、ここの日課の繰り返し、雨の日は、近くの川に釣りに行った。  後編は次号
文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信No.19 ―――――――― 8 ―――――――――――――

2019年度下原ゼミⅢ後期出欠記録
()は提出課題レポート
  
・志津木喜一 9/24  欠  10/8                     
  前期4/14
・神尾 颯  欠   ―  ―
  前期8/14
・松野 優作 9/24 欠   欠       
  前期2/14
・西村 美穂 9/24 10/1 10/8
  前期14/14
・吉田 飛鳥 9/24 10/1 欠
  前期14/14  (1)
・中谷 璃稀 9/24 10/1 10/8 10/15
  前期13/14  (1)
・佐俣 光彩 欠   欠  欠
  前期6/14
・東風 杏奈 欠   欠  欠
  前期4/14
・山本 美空 欠   欠  欠
  前期7/14
       6名 3名 3名 1名
        
・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 掲示板 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

飯田・下伊那地区研究第5回学習会テーマ「熊谷元一」に決まる
 法政大学国際文化部(高柳俊男教授)は、留学生から見た日本の地方文化ということで、一地域(飯田・下伊那地区)に焦点を当て、毎年、夏期合宿をおこなうなど、その研究をすすめているが、このたび第5回学習会のテーマを「熊谷元一」と決めた。
 この学習会は、市ヶ谷にある校舎で11月23日(土)午後3時から開催される。予定される学習内容は、熊谷を紹介したDVD観賞と関係者の話。
※熊谷元一(1909-2010)は、先のゼミ合宿で訪れた「熊谷元一写真童画館」の展示作品の作者『一年生』代表作品(第一回毎日写真コンクール一位入選)、「写しつづけて70年」など。

読書会のお知らせ ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」

月 日 : 2020年1月11日(土) 開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室(池袋西口徒歩3分)
 作 品  :『カラマーゾフの兄弟』5回目 報告者 : フリートーク
連絡090-2764-6052下原 メール:toshihiko@shimohara.net 

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