文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.383

公開日: 

-
日本大学藝術学部文芸学科     2019年(令和元年)10月22日発行

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.383

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
9/24 10/1 10/8 10/15 10/22 10/29 11/12 11/19 11/26 12/3 12/10 12/17 1/7 1/14 1/21 
観察と記録

2019年読書と創作の旅

10・22下原ゼミ

2019年度読書と創作の旅同行者です。8人の仲間です。
宇治京香  安室翔偉  梅田惟花  佐久間琴莉 (松野優作) 伊東舞七
大森ダリア  佐藤央康 (7名参加の日撮影)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

10・15ゼミ報告 参加、7名

 10月15日(火)は、参加7名あった。ゼミ雑誌原稿締め切り近しということで、編集会議にも活気がみられた。12日静岡・関東地方に上陸した史上最強、最大、記録にない台風19号は、各地に被害をもたらして北上したが、影響を直接受けた人はいなかった。
話題 秋、蜂とりの記憶
災害の避難生活の話から、ゲテモノ食品の話題になった。宇治さんが住む箱根・足柄山地域はハチの子を食べる習慣がある。宇治さんがそんな話をすると皆、驚いた。が、筆者の田舎(阿智村)にも、そんな習慣がある。この夏、ゼミ合宿で泊まった温泉郷、筆者が子供のころは原野だった。地蜂(高級食材)の巣がたくさんあって。棒に串刺したカエルを持って探した。スズメ蜂の巣もみつけた。夜、父と獲りに行った。もちろん食料としてである。
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.384―――――――― 2 ―――――――――――――

ゼミ観察  2019年後期前半、同行者出欠

9月24日からの点呼状況です。()は提出課題

・宇治京香 9/24 10/1 10/8 10/15
前期13/14
・伊東舞七 9/24 10/1   10/15
前期10/14      (2)
・梅田惟花 ゼミ誌原稿入り
前期7/14
・佐久間琴莉9/24 10/1   10/15
前期13/14
・大森ダリア9/24      10/15
前期8/14   (1)
・安室翔偉  9/24 10/1   10/15
前期11/14
・佐藤央康  9/24 10/1   10/15
前期10/14   (2)
・松野優作 9/24       10/15
 前期2/14  (1)
総計日   7   5   1   7
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ゼミ誌編集報告

10/15ゼミ参加者 → 宇治、佐久間、伊東、佐藤 安室 伊東 大森 松野

【ゼミ誌編集会議】宇治編集長 佐久間副編集委員

□印刷会社 → 新生社 15日、蜷川さん。原稿出ればOK。

□タイトル → 「暗夜光路」

ゼミ雑誌編集 10/15現在までに決まっていること  

②仮見積もり書の提出 → 10/25(金)迄に
③確定見積もり書提出 → 11/22(金)迄に
④ a.請求書提出
  b.納品書提出
  c.発行の冊子5部 紹介文(100字)を添えて大学編集局に提出
12月6日(金)締切
〈ゼミ雑誌の形態〉
サイズ → 文庫本 原 稿 → 夏休み明けに提出 10月8日(火)~ 提出
表 紙 → 佐久間琴莉さん担当

10/15までに提出されている原稿

・梅田惟花『ホームで、会いましょう』

―――――――――――――――――― 3 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.384

提出課題発表    
千葉県の台風被害に想う
伊東舞七

 私の家は特に台風の被害はなかったのですが、祖父の兄弟の家が房総にあり、電気は止まり、水は出ないなど被害が出たそうです先週あたりまでは、まだ水が出ない状況だったようです。あまりニュースでは報道されず千葉県内で台風の被害がそんなにも出ていることに驚きました。同じ千葉県に住んでいるのに全く違う状況になっていて、実際、自分の住んでいるところが…と考えるとゾッとします。ビル風によって家の屋根の瓦が吹っ飛んでしまったと聞いたこともあります。それによって負傷者は出なかったそうですが、もしでていたらと考えると怖いです。

□地震か津波――千葉県で起こる自然災害、このどちらかとおもっていたら、まさかの強風と、それに伴う電気停電でした。文明は脆いもの、それを痛感した千葉県台風被害でした。

私の夏休み

ハード過ぎたが楽しかった2019年の夏
伊東舞七

 英語のテスト出来が自分でも分かるほど最悪すぎて大きな大きなため息から始まった私の夏休み。バイトして遊んで、の繰り返しで家にいる時間は、ほとんどありませんでした。むしろ家にいるとめずらしいと言われるくらい。
 9月にあったゼミ合宿はとてもとても楽しかったです。自然豊かで、空が青く、空気がきれいで、ゆったりのびのびと過ごせました。星空、満点の☆、見たかったけれど、でもそれはもう天候しだいだから仕方ない。ゼミ合宿行けて良かったです。
 そんな感じで割とハードだった夏休み。なぜか夏休みが終わってから体調を崩した私。寝すぎて体力が落ちました。

□星空、残念でしたね。でも、台風が多発した前後の天候を思うと、あの日程、仕方でよかったのかとも思います。

新聞週間に想う

インターネット時代の現代は、どうかは知らないが、昔、新聞は、社会の良心だった。世の中の悪と戦う正義の使者だった。そう思っていた。が、実際は、違っていたかも…。
戦時中のことを思い返せば、そんな疑念もでる。あの戦争を一番に支持し、後押ししていたのは、大新聞だった。大本営発表の名のもとに、嘘のニュースを流しつづけた軍部の代弁者だった。戦争が終わったとき、誰か責任をとったのか。8月15日に戦争賛歌記事を書いたのを恥じて辞職届けをだしたのはある大新聞社の記者ただ一人だった。(写真家・熊谷元一は。二カ月前に拓務省を退職したが)いまの新聞社は、はどうだろうか。インテリが作り、やくざが売る。この構図はなくなったろうか。それを試す出来事が生じた。経済的事情から契約解除しようと電話すると受け付けセンターにまわされた。でたのは美辞麗句の女性アナウンサーだったが、契約解除を告げると、とたん豹変した。尊大な口ぶりになった。「その件には担当の者が伺います」ときた。30年間の購読関係があるから「長年ご愛読ありがとうございました」の言葉を期待した。が、吹っ飛んだ。残念ながら体質は、いまも昔のままなのか。しかし、まだ新聞を信じている。次の対応に希望を抱いている。
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.384―――――――― 4 ―――――――――――――

 創作ルポ 「私の夏休みの思い出」改訂版

計根別まで 後編

【前編のあらすじ】

 1965年の夏、私は、下落合にある学生援護センターに夏休みのアルバイト探しに行った。掲示板に沢山の求人ビラが貼られていた。奥の方に離れて「北海道酪農手伝いの募集」ビラがあった。宿泊三食交通費付きで一日500円、40日間で労働時間は酪農家族と同じとあった。ラッキーなバイトと思った。500円は安いが、北海道観光もでき、おまけに大学からは農業実習の4単位ももらえることになった。一石三鳥、悪くないバイトと申しこんだ。いろんな大学の学生11名が集まった。8月初め、私たち北海道酪農バイト組は、上野で寝台特急に乗ると青森を目指した。青森から連絡船で函館。函館から札幌、釧路と2日間の旅。
私は、根釧原野のまんなかにある計根別という駅に降り立った。そこから農協のトラックで送られていったバイト先の農家は、開拓13年目の酪農家だった。40代の夫婦、中2の娘、小5の次女、小3の長男の5人暮らしだった。主人、原沢英四郎は。酪農の他に、午前中は周辺の各農家を回り牛乳を集めて牛乳工場に運んで行く仕事をしていた。母親のトキさんと一緒に仕事する時間が多かった。長女の道子はむろん次女の咲子、長男の健一にはそれぞれ酪農作業の仕事や水くみなど家の手伝いがあって黙々と働いていた。原沢家の子どもたちは実によく働いた。子どもたちには、勉強する時間も遊ぶ時間もなかった。

下原敏彦

原沢家には6頭のホルスタインと1頭の馬、それと十数羽のニワトリがいた。5頭が搾乳可能で、朝は、牛たちの世話に追われた。搾乳は、ちょうどミルカーという自動搾乳機がはいったばかりで、手で搾る必要がなくなって大いに助かった。食事でき驚いたのは、皆がごはんの上に大量のバターを乗せて食べることだった。うどんがご馳走だった。
毎日が、忙しくて一日が長かった。早くもバイトが終わる日が待ち遠しかった。それでも最初の日、寝る前、目をこすりながら日記をつけた。
一日目、旅の疲れもあって朝、起きたのは六時。家の中は、しんとしていた。台所はストーブが焚かれていたが誰もいなかった。あわてて外に出ると、一家総出で牛舎にいた。道子はミルカ―で搾乳する前、牛の乳房をお湯に浸した布できれいに拭っていた。咲子は、干し草を牛たちに食べさせていた。主人の英四郎は、出荷する牛乳を入れる缶を揃えていた。トキさんは、ニワトリを小屋に追ってタマゴを集めていた。健一は、馬小屋の掃除をしていた。皆、それぞれに仕事があるようだった。朝食後は、英四郎さんは、酪農家を回って牛乳集めに――ここまで書いて、猛烈な睡魔に襲われた。次の日は、2行しか書けなかった。出来事を全部書くのはあきらめた。以下は、後で書いた原沢家のだいたいの日課である。

□朝5時半起床。牛舎の掃除。6頭のホルスタインに牧草のえさやり。乳房を湯で洗いミルキーで搾乳。乳搾りが終わると、牛たちを牧場に放牧。
□7時、井戸の冷たい水で顔を洗う。ストーブの薪割り。朝食、バターのせご飯。
□8時半、牛糞山の移動。新しい牛フンを一輪車に乗せて堆肥置き場まで運ぶ。山となった牛糞は、時間があるとき外の牛糞小屋に移動させる。単純作業なので、私の仕事になった。文字通り糞まみれになっての作業だが、すぐ慣れた。
□10時お茶の時間。(8月中旬から子供たち学校)トキさんと二人で農作業。
□11時、英四郎さん牛乳集配から帰宅。じゃがいもの収穫。
―――――――――――――――――― 5 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.384

□正午、お昼、
□1時、午後からは、近くの酪農家たちと共同でサイロ詰め。農協のトラックターが集めてきた干し草を大きな煙突型のサイロに詰め込む作業。私の仕事は、他の大人たちと一緒にサイロの中に入って干し草を踏みしめる。頭の上から、機械で刻まれた干し草がバサバサと落ちてくる。サイロの中は発酵臭の草いきれと干し草の熱気でサウナのようだった。
□5時、原沢家に戻り、放牧の牛を子どもたちと牛舎にいれる。
□6時、二日か三日置きに風呂を焚いた。風呂の水は、近くの川の水を使っていた。馬のアオ号に荷車を引かせ、牛乳カンに水をつめて運んだ。子どもたちの仕事で、私も手伝った。
□7時、夕食。二日置きに風呂。
□9時、就寝。

以上が、私が原沢家のただいたいの日課である。あまりに疲れ過ぎて、夜は、ただ
ただやたら眠かった。とくに最初のころは、慣れない生活もあって、夕飯後は、すぐに部屋に入って寝てしまった。そんな私に子どもたちは不満だったようだ。なにしろ私は、東京からきた大学生のお兄ちゃんである。いろんな話をして欲しかったようだ。勉強もみてもらいたい。そんな期待もあったようだ。なのに私は、寝てばかり。とにかく眠い。眠かった。酪農仕事にくたびれ果てていた。どんなに眠く疲れていたか、日記のつもりで書いたノートをみればそれがわかる。支離滅裂な文字と内容だ。
 八月×日 農協のコンバインが来て、牧草を刈っていった。この季節一番の大忙し。一家総出で、牧草をまとめてアオ号の荷馬車に乗せサイロまで運ぶ。サイロは二つ、一つはエントツ型、もう一つは地下型。
 八月×日 眠い、疲れた、あと何日、干し草づくり、サイロ詰め
 八月×日 東京の生活がなつかしい。
 八月×日 ジャガイモの収穫、腰痛い、疲れた、あと何日
 
こんな最悪の状態のとき、面倒なことがおきた。咲子と健一が、夏休みの宿題を手伝ってほしいといってきたのだ。二人は、内緒の話があるからと、こっそり入ってきた。私は、眠い目をこすりながらみてやった。当然だが。小学生の問題は、苦労なくできた。二日ほどして、こんどは道子が入ってきて
「わたしの宿題もみて」といった。
英語と数学を教えてくれというのだ。中学二年生の英語は、辞書を片手になんとかできたが、苦手の数学は、お手上げだった。自信なかった。道子は、勉強はできる方と聞いていたので「眠くて限界、勘弁して」と断った。
そしたら突然、
「なんなの、わたしのはみてくんないの」と、怒りだした。
「みてるよ、ちゃんとこうして、これ」
私は、一問解いてみせた。
「違ってるわ」道子は憮然と言った。
「違ってるのがわかるの。それだったら聞きにこなくたっていいのに」
「なんだ、できないんだ。できないんならできないっていってよ。眠気のせいにして」道子は腹をたてると「大学生のくせに」と捨て台詞を残して部屋を出ていった。
 次の日から道子と顔をあわすのがなんとなく気まずかった。

 八月×日 道子、まだ怒っていた。井戸で顔を会わせても挨拶しない。それまで用意してくれたタオルもわたしてくれない。代わりに咲子が持ってきてくれた。すれちがうとき小声で「大学生のくせに、わからんなんてバカじゃないの」「もっと頭のいい大学生がよかった」と悪態をついた。聞こえぬふりをした。
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.384 ―――――――― 6 ―――――――――――――

八月×日 道子、母親に叱られる。咲子が告げ口したようだ。
「道子、おまえの勉強のためにきたんじゃないからね。どうしてそんなこというのかい、一生懸命手伝ってくれてるのに」
「お金のためでしょ。バカなくせして」
「バカはおまえだよ。いい学生さんじゃないか。咲子も健一も、なついている。どうしておまえだけが、なれんことでくたびれてるんだよ」
ふすまの向こうからこんな会話が聞こえてきた。
 しかし、道子と私の溝は深くなるばかりだった。
八月×日 夜中、にわかにおなかが痛くなり、トイレに起きた。トイレは、庭の隅にあった。掘立小屋のなかに掘った穴に二本の板をかけた簡単なものだった。夢中でとびこんだ。バリバリと音がしてトイレの板が壊れて落ちた。私もいっしょに落ちて、腰まで糞尿のなかにすっぽりうまってしまった。物音を聞いてか母屋に明りがついて、皆ぞろぞろでてきた。道子もいた。懐中電灯に照らされた私は、動くこともままならずみじめな状態だった。英四郎さんにひっぱりだしてもらい、ようやく糞尿の中から脱出することができた。
「川に行って洗ってきます」私は、そう言って川に向かった。英四郎とトキは止めたが、井戸水はあまりに冷たかったし、井戸で洗うにはあまりに臭く不衛生に思えた。
 夜道は、月の明りで歩きやすかった。夜の川は静かに流れていた。私は、首まで水につかった。水は、意外と暖かかった。私は水のなかで浴衣と下着を脱いで洗った。
「おにいちゃん」だれか呼ぶ声がした。道子の声だった。
「ここだよ」私は大声で答えた。彼女は、着替えをもってきてくれたのだ。私は急いで川からあがろうとしたが、丸裸なのに気がついた。私は洗った浴衣を岸辺に放り投げ、水にもぐった。水面に首をだして仰ぐと月がきれいだった。
「風邪ひくよ」道子が心配そうに叫んだ。
 岸にあがって急いで浴衣をきた。体がぽかぽかしてきた。
「夜中にトイレに落ちたなんて笑い話にもならないね」私は、冗談のつもりで言った。すると、突然、道子゛、真剣な声で叫んだ。
「お兄ちゃん、帰らないで、帰らないで」
「帰る!?」
「こんなことがあったんで、嫌になって帰っちゃうって母さんが」
「こんなことで、――あまくみられたね」私は笑って言った。「そんなことより、頭、わるいから嫌われちゃつてるほうがつらいよ」
「ごめん、ごめんなさい」道子は、突然、泣きだした。
「いいんですか、中学二年生の数学もわからん大学生で」
「ちっとも、ちっとも、わたしがバカよ」道子は叫んで、私の胸にとびこんできた。
 私は、伝わってくる彼女の体温と、胸の柔らかさに、あわてて彼女を突き放した。
「ばか、お兄ちゃんのばか」
「いいの いいの、わかったから」私は、笑って彼女と手を繋いだ。彼女はしっかりにぎりしめてきた。月の光が草原の夜露に反射しキラキラ輝き、神秘さをかもしだしていた。
光に満ちた草原の道を歩いて行く二人。このときのメルヘンチックな光景は、いまもくっきりと脳裏に焼き付いている。
「お母さん、むかし歌上手だったんだって」いきなり道子は言った。「ここにきて牛の世話に追われているうち声がつぶれちゃったって」
「道子さんは、上手…」
「すこしだけ」
「じゃあ、うたってみて」
空には月が煌々と輝いていた。
「なにか、ここ砂漠みたい。砂漠を歩いているみたい」
―――――――――――――――――― 7 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.384

道子は、そう言って突然、歌いだした。きれいな声だった。

月の砂漠を はるばると
旅のらくだが 行きました
金と銀との 鞍置いて
二つならんで 行きました

 夜のしじまに歌声がしみわたっていった。このとき、はじめて北海道にバイトにきてよかったと思った。

 四十日目、とうとう最後の日になった。長かったようで終わってみれば短かった。朝、おそかったが、日曜日だったので、子どもたちは全員いた。原沢家の庭は別れの場となった。
「兄ちゃん、来年、まってるぜ」健一は生意気そうにいった。
「さんすうできなくたっていいんだって」
咲子が笑ってからかう。
「来年もぜったいきてくんろ」トキさんは涙ぐむ。
「くるよ、ぜったい」
私は、大声で言った。本当に来るぞ、ぜったいくるんだ。そのときは本気でそう思った。
「やくそくだよ」
咲子は、言ってふりかえって姉の姿を探す。
「おねえちゃんたちどこ」
「柵なおしにいっとる。うるさいもんで」
牧場の柵がこわれていて、一頭、逃げ出し、昨日から、境界線の騒動になっていた。三キロ離れている隣から文句がきたのだ。
「とうちゃんと道子からも、よろしくって、わるいね、見送れなくて」
トキさんは、かすれた声で何度わびた。
私は、トラックの荷台に乗った。トラックは走りだした。
咲子は、万歳して手を振った。健一は、立ちつくしたまま叫んでいる。
草原のなかに立つ原沢家の丸木太小屋。つらい農作業や乳牛の世話からやっと開放されたという安堵感と、40日間寝食をともにした家族と別れるさびしさがあった。
トラックは、そんな感傷を跳ね飛ばすようにパウンドしながら国道に向かって走っていた。
「あれ、ミチ坊だ」農協の運転手は、バックミラーをみると、声をあげた。
振り返ると、遠くの土手にそって草原の中を馬が一頭駆けてくる。アオ号だ。
道子が乗っていた。
「また、きてね―」そう叫びながら手をふっている。
トラックは、国道にでると右折した。一本道が、ずっと地平までつづいている。アクセルを
踏んだ。トラックはいきおいをました。青号は、国道の手前で止まった。遠くから見る道子は泣き顔だった。
私は、別れの寂しさもあったが、ほっとした感が強かった。
「ご苦労様、お疲れ様でした」
運転手の農協職員は微笑んで言った。
その言葉に本当に終わったのだ。そんな実感が一気にわきあがった。
とたん、目頭が熱くなった。
「なれたとこで、来年もおねがいますだ」
「はい、きっときます」私は、大きく何度も頷いた。

後期がはじまった。道子とトキさんから何通も手紙が届いた。筆不精の私は、ときどき東
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.384―――――――― 8 ――――――――――――――

京の絵ハガキに「来年も、おねがいします」とだけ書いてだした。本当に楽しみだった。
だが、翌年春、フランスで起きた学生運動は、またたくまに世界を席巻した。日本にも飛び火した。たちまちのうちにうちに日本中の大学は火の海となった。
私の大学も例外ではなかった。私は、学園紛争に身を投じた。デモ行進、機動隊との衝突。気がつくと季節は秋になっていた。寝袋一つで逃げ回るうちに道子やトキさんの手紙は、散逸してしまった。やがて学生運動は、セクト争いの内ゲバにかわっていった。私は嫌気がさして、外国放浪の旅にでた。横浜港からフランスの貨客船「ラオス」号で、マルセルユをめざした。一年の帰国後、学校には、席はなかった。原沢家のことも、子どもたちや道子との約束も、遠い昔に思えた。私が行かなくても、新しいバイト学生が行ったかも知れない。原沢家の人たち私のことなど忘れてしまったにちがいない。
そう思いながらも、なぜか私は、もう一度黄色の野の花が咲く、原野のただなかにあった、あの牧場に行ってみたい。そんな気持ちがわいてくるのだ。五十年という歳月が流れたが、いまも昨日のことのように鮮やかによみがえる。青い大空と緑の草原の波が…

「先生、先生」
不意の声に私ははっとした。いつのまにか眠っていたのだ。
「書き終えました」
「そうか」
学生たちは次々立ちあがって原稿用紙を提出するとでていった。私は、窓外にひろがる梅雨明けの青空をみあげて、そうだ今年こそ、計根別まで行ってみようと思った。

・・・・・・・・・・・・・・掲示板・・・・・・・・・・・・・

飯田・下伊那地区研究第5回学習会テーマ「熊谷元一」に決まる
 法政大学国際文化部(高柳俊男教授)は、留学生から見た日本の地方文化ということで、一地域(飯田・下伊那地区)に焦点を当て、毎年、夏期合宿をおこなうなど、その研究をすすめているが、このたび第5回学習会のテーマを「熊谷元一」と決めた。
 この学習会は、市ヶ谷にある校舎で11月23日(土)午後3時から開催される。予定される学習内容は、熊谷を紹介したDVD観賞と関係者の話。
※熊谷元一(1909-2010)は、先のゼミ合宿で訪れた「熊谷元一写真童画館」の展示作品の作者『一年生』代表作品(第一回毎日写真コンクール一位入選)、「写しつづけて70年」など。
2019年9月5日 (木)熊谷元一写真童画館にてゼミⅡゼミⅢ

090-2764-6052下原 メール:toshihiko@shimohara.net

シェアありがとうございます

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket

コメントを残す

PAGE TOP ↑