文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.384

公開日: 

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日本大学藝術学部文芸学科     2019年(令和元年)10月29日発行

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.384

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
9/24 10/1 10/8 10/15 10/22 10/29 11/12 11/19 11/26 12/3 12/10 12/17 1/7 1/14 1/21 
観察と記録

2019年読書と創作の旅

10・22下原ゼミ

2019年度読書と創作の旅同行者です。8人の仲間です。
宇治京香  安室翔偉  梅田惟花  佐久間琴莉 (松野優作) 伊東舞七
大森ダリア  佐藤央康 (7名参加の日撮影)

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10・22ゼミ報告 参加、4名

 10月22日(火)は、ゼミ雑誌原稿締め切り日ということで、参加4名あった。宇治、佐久間、佐藤、松野の4名。安室、大森、伊藤は、どこかでパソコンと奮戦中。ゼミ誌原稿、集中の見通し。
新聞契約は慎重に
我が家は、なんとなく二紙の新聞をとっていた。左派系と右派系。比較は面白いが経済的ではないので一本化することにした。ところが、先に止めようとした新聞の応対に驚いた。解除の理由を「経済的」と告げたのを「家賃があがる」と解釈し。調べたら上がっていない「ウソをついた」といいがかり。主客転倒ぶりに呆れた。「インテリが作ってやくざが売る」この体質は変わらないようだ。どんなに顔見知りでも新聞の契約は慎重に…。
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.384―――――――― 2 ―――――――――――――

ゼミ観察  2019年後期前半、同行者出欠

9月24日からの点呼状況です。()は提出課題

・宇治京香 9/24 10/1 10/8 10/15 10/22
前期13/14
・伊東舞七 9/24 10/1 欠 10/15 欠
前期10/14      (2)
・梅田惟花 ゼミ誌原稿入り 欠  欠  欠
前期7/14
・佐久間琴莉9/24 10/1 欠 10/15 10/22
前期13/14
・大森ダリア9/24 欠  欠 10/15 欠
前期8/14   (1)
・安室翔偉  9/24 10/1 欠10/15 欠
前期11/14
・佐藤央康  9/24 10/1 欠10/15 10/22
前期10/14   (2)
・松野優作 9/24  欠  欠10/15 10/22
 前期2/14  (1)
総計人数  7  5  1  7  4
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ゼミ誌編集報告 10/22ゼミ参加者 → 宇治、佐久間、佐藤 松野

【ゼミ誌編集会議】宇治編集長 佐久間副編集委員

□印刷会社 → 新生社、蜷川さん。原稿出ればOK。

□タイトル → 「暗夜光路」

ゼミ雑誌編集 10/15現在までに決まっていること  

②仮見積もり書の提出 → 10/25(金)迄に
③確定見積もり書提出 → 11/22(金)迄に
④ a.請求書提出
  b.納品書提出
  c.発行の冊子5部 紹介文(100字)を添えて大学編集局に提出
12月6日(金)締切
〈ゼミ雑誌の形態〉
サイズ → 文庫本 原 稿 → 夏休み明けに提出 10月8日(火)~ 提出
表 紙 → 佐久間琴莉さん担当

10/22のゼミまでに提出された原稿

・梅田惟花『ホームで、会いましょう』(A4創作 9枚)
・佐藤央康『迎え火』(A4創作 22枚)
・伊東舞七『ナツのオモイデ』(A4詩編 6枚)

―――――――――――――――――― 3 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.384

創作ルポ     インドシナ近代史

 夏休み明けのゼミ。学生たちの話題は、ゼミ合宿から海外旅行の話になった。高校では東南アジアの各都市も修学旅行の候補地にもなっている。「ベトナム、アンコールワット見学もあったです」という。学生たちにとってベトナム戦争もポルポト時代も、はるか昔の歴史のようだ。筆者が体験したインドシナ近代史を創作ルポしてみた。

 太平洋戦争の後、フランスは、ベトナム軍に敗れヨーロッパの自国に去った。後をひきついだのは、アメリカだった。1964年8月アメリカはベトナムのトンキン湾での衝突を口実にベトナム戦争を開始した。近代兵器を重装備したアメリカ軍を迎え撃つのは、ゴムぞうりを履いた徒手空拳のベトコンと貧弱な旧式の武器しかもたない北ベトナム軍だった。だれの目にも北ベトナムの早期敗北が予想された。だがしかし、戦況はそうはならなかった。米国は苦戦した。四年たっても勝利の予感すらつかめなかった。それどころか68年の激戦では多くのアメリカの若者の命が散った。勝てぬ原因は何か。アメリカは焦った。軍司令部は、夜間撮影した航空写真を前に地団駄踏んだ。真っ黒な写真に写っていたのは、放物線を描いて幾筋も延びた糸のような光の線だった。真っ暗な密林の中を、松明をかざしてベトコンや北ベトナム兵士に食糧、武器弾薬を運ぶ人々の列だった。米軍が勝利するための戦略は、ホーチミン・ルート、すなわちこの補給路をたたくことだった。しかし、できぬ相談だった。光線の曲線部分は隣国カンボジアの領土だった。カンボジアと米国は、国交がなかった。独裁社会主義という奇妙な政治形態を維持するカンボジアの統治者、シアヌーク殿下は、国内の共産勢力を弾圧しながら、アメリカとも張り合うことで国体を保っていた。それは東西冷戦上に張られた綱の上を歩くような危なっかしいものだった。が、その外交手腕は世界の脚光を浴び評価されていた。それだけにアメリカは簡単に手をだすことができなかった。
しかし、補給路への爆撃をアメリカ軍は、なんとしても実行したかった。シアヌークはノドに刺さった魚の骨。ベトナム戦争に勝利するために、南下する共産勢力を押し返すために是非に抜かなければならなかった。そのためには親米政権の樹立が必要だった。米情報局はひそかに、その作戦を開始した。一九七○年三月十九日、ついにカンボジアに無血クーデターが起き、親米のロン・ノル政権が生まれた。アメリカの画策は成功した。シアヌークは失脚しアメリカ軍は、カンボジア領内のホーチミン・ルート爆撃を可能にした。その作戦は、つり針作戦と名づけられ、さっそくに開始された。北ベトナムからつり針のような曲線を描いてカンボジア領に入り込んだ補給路への攻撃。泥沼にはまっていたアメリカ軍にとっては希望の作戦だった。手を焼いているベトナム戦争は好転し泥沼から脱出できる。そのように思われた。
 だがしかし、事態はそうはならなかった。アメリカ情報局は、三つの見誤りをしていた。一つは、シアヌーク政権下の反政府の共産ゲリラ、クメール・ルージュが、クーデター後あっさりシアヌークと手を握ってしまった。シアヌーク時代、犬猿の間柄にあったにもかかわらず、である。二つには、その結託したクメール・ルージュを三百人足らずの武装グループと推計していたこと。加えて、そのグループは、軍事組織にもなっていない、軍事訓練すら受けたことのない山賊集団と決めつけていたことである。そして、三つめに、最も重大な見過ごしをしていた。かつてカール・マルクスは、その書『共産党宣言』の冒頭で「ヨーロッパを得体の知れない怪物が歩き回っている」と記した。が、アメリカは知らなかった。フランス帰りの元小学校教師がカンボジアの密林の奥で、得体の知れぬ無慈悲な怪物となって蠢きはじめたことを。そして、その怪物が、赤いゲリラ、クメール・ルージュを徐々に支配し彼らのカリスマになりつつあったことを。アメリカはむろん、世界中の誰も知らなかった。
 彼の名は、サロト・サル(47)のちのポル・ボトだった。これは、「泥と炎のインドシナ」と呼ばれた時代の歴史的背景をとりいれた実験的創作ルポである。

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アプサラの微笑
                            下原敏彦

 我が家の居間の壁に縦一・三〇㍍、横五十五㍍の拓本画が飾ってある。クメールの踊り子アプサラである。一九六九年頃であったか、いまは亡き田所先生夫妻がアンコールワットに旅した折り、土産にいただいた拓本絵である。先生と奥様は、その拓本絵を二枚、買ってこられた。私が知り合いの建具師に表装を依頼し一枚は、鵠沼の先生宅の応接間に、もう一枚は我が家の居間に飾ることになった。
 その後、勃発した内戦でアンコールワットの多くの像が破壊されたときく。無法地帯となった遺産は、砕かれて持ち去られたり射撃訓練の標的にされたらしい。拓本画のアプサラ像は無事だったろうか。内戦がつづいた間、我が家の居間で、深夜、ふとアプサラの拓本絵を見たとき、そんな安否が脳裏をよぎったものだ。
そして、何年かの後、漸く戦火はやんだ。テレビニュースでアンコールワット修復作業の報に安堵しながらも、こんどは、鵠沼の先生宅の応接間にあったもう一つのアプサラの拓本絵のことが気になった。あのアブサラはどこに行ったのか。先生宅の居間で何をみたのか。彼女だけが知っている。そんなふうに思えるのだ。
アンコール王朝の盛衰はもとより幾多の時代を見てきたアブサラ。先生夫妻の悲劇の謎も見てきたに違いない。そう思うのである。あの事件のあと彼女は、どこに行ったのか。誰の家の壁で、あの妖艶な舞いをみせているのか。知るすべはない。もし、会うことができたら尋ねてみたい気がする。
「あの日の前夜、先生宅でなにがあったのか」と。

 あの日、1976年9月15日午後四時ごろ。羽田空港は国際線、国内線入り乱れての離発着する飛行機でラッシュの最中にあった。そのなかにジャンボ機のあいだをぬうようにして一機のセスナ機がダッチロール状態で滑走路にたどりつこうとしていた。青ざめる管制官。空港に鳴り響く緊急警報。走り出す消防車。が、セスナ機は無事に停止した。かけつけた緊急隊員たちが目にしたものは、顔面血みどろになって操縦席にうずくまっ
ていた操縦士と、同じように血だらけになっていた同乗者だった。傷だらけの二人は、助かったという思いからか、ぼう然自失の体で座っていた。セスナ機の機内でなにがあったのか。病院で語られた出来事は驚愕すべきことだった。捜査員に話したのは
「前より予約のあった老夫婦を乗せた。伊豆半島沖で突如、老夫婦が襲ってきた。武器はカミソリだった。激しく抵抗すると、老夫婦は自分でドアを開け、九月の海に飛び降りていった。」というものだった。
 セスナ機という密室の、それも空の上で起きた事件ということもあって、事件は大々的に取り扱われた。そして、その特殊性に加え、老夫婦の身元が判明するに至り、事件はよりセンセーショナルに報じられた。マスメディアのかっこうの材料となった。テレビのショー番組や週刊誌でセンセーショナルに報じられたが、最終的には、結局は商売に行き詰まった貿易商夫婦の無理心中事件として終わった。一件落着した。

1976年(昭和51年)9月16日 木曜日 朝日新聞

遊覧機から飛び降り心中 高森経済大の元学長夫妻

「――さん、――さあん」
階下から大家の女将さんが呼んでいる声がする。のぞくと
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「電話です」と言ってから、彼女は、なにやら深刻そうな顔で階段を小走りにあがってきてささやいた。「警察とかなんとか言ってました」
 ああ、あのことで。とっさに私は察して
「わかりました」とうなずいた。
が、彼女は、納得するものでない。心配そうな怪しむような、それでいて是非、知りたいといった好奇心満杯の複雑な顔で立っている。しかたなく私は
「知り合いが、事件というか事故で亡くなったんで、それで話を聞きにくるというのです」と説明した。
女将さんは、まだなにか聞きたそうであったが、私が部屋を片づけ始めたのであきらめて下りていった。
一時間後、二人の刑事が私の六畳間にやってきた。一人は三十前後、もう一人は五十前後といったところか。年配者が名刺をだした。羽田警察外事課 加藤何某とあった。
「いや、羽田からきたものですから、お待たせして申し訳ない」
年上の刑事は詫びた。が、私はなぜか二人は立川にいて、すぐちかくにある立川警察から、電話をかけてきたように思った。
 若い刑事は、私が同じくらいの年齢か。それで興味をもったのか、
「ここ一部屋ですか」と何度もきいたあと、ものめずらしそう部屋の中をながめた。壁際に本が積んであるだけで、他に何もない。不思議に思ったのだろう。
「お仕事はなにを――」
「いまのところはなにも」
私は答えた。いまでいうフリーターの私は防水工事の仕事で、塗装職人の親方について東北地方をまわっていて、岩手から帰ったばかりだった。シンナーのにおいが体にしみついていて、若い刑事は、それを怪しんだのかも知れなかった。
「電話帳に書かれてあった皆さんには、全員、電話したのですが、こちらだけが連絡つかなかったもので」年配の刑事は、説明した。
「とっちゃん、としか書いてなかったんですよ」若い刑事は、こちらに落ち度があるような口ぶりで言った。
 なんど電話をかけても女将さんに
「そんな人は知りません、下宿にはいません」
と、言われたようだ。そのことを根に持っていたかも。
「大家さんは、ぼくが、そう呼ばれているのを知りませんから」
「そうですか…」まだなにか質問したそうな若い刑事を遮って初老の刑事が
「田所さんのことについて、ききたいんですが」といった。
「無理心中だったんでしょ。新聞にはそう書いてありました」
「まあ、それはそれですから・・・」年輩の刑事は曖昧に言った。
「原因、わかったんですか」
「いや、関係者全員の調書をとってから結論をだそうと思いましてね。こうして回っているわけですよ」
「関係者全員ですか。ぼくなんか、関係者のなかに入りませんよ」
「それは、わたしどもがきめることですから」
若い刑事は気色ばんだ。
「なんでもいいんです。知っていることを全部話してください。」
初老の刑事は、おだやかな口調でいった。
 私は言葉に窮した。田所先生について、知っていることをなんでも話せといわれても、私が、知っているのは、ときどき先生宅を訪問したとき垣間見る先生の日常生活の断片
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ぐらいだ。そのなかに事件を解明できる糸口があるとは思えなかった。
私は先生ご夫妻について、何を知っていたのだろう。記憶の切れ切れを集めてみた。

 田所精一は、上州のある城下町で明治43年に生まれた。家は代々、その藩の城代家老の家柄であった。東大時代に書いた論文「金融論」が評価されて、経済学者として出発。満州国の経済顧問として活躍。辻正信大将に意見して怒鳴られたエピソードを聞いた。関東軍を秘密裏に南下させる作戦に苦言を呈したというのだ。
「満州の同胞はどうなるんです。ソ連は攻めてきますよ。」
「馬鹿者!ロスケなんぞ放っておけ」の一喝だった。
「結局は、満州はあんな悲惨なことになって。おどろくは、その辻が、代議士となって復活したことだ。」先生は過去の話になるといまいましそうにはき捨てていた。(辻は、戦後、東南アジアを外遊中、行方不明になった)
田所精一は、戦後四十何歳で故郷高森市の市立高森経済大学の学長に就任した。史上最年少の学長として話題を呼んだ。身長百五十五センチ、体重八十キロ。ウエストはゆうに一メートルを越す文字通りの短くの体であった。が、禿げあがった人の二倍はありそうな大きな顔、眼鏡の奥から発する鋭い眼光は、身体以上にその異様さをみせていた。達磨大師を連想させた。葉巻が好きで常にくわえていたところから、葉巻ダルマの異名をとっていた。彼は学長としての手腕を発揮した。いろんな改革をおこなった。その結果、一地方の新規大学は名実ともに誇れる大学となった。経済ならここに学べ。全国から多勢の学生たちが第一目標に掲げるまでになった。
 学長室の窓から、蛇のようにくねった坂を上ってくる数人の男たちがみえた。あつらえの背広を着た恰幅の良い紳士ばかりだ。このまちの有力者たちである。
 田所は、葉巻の煙りをくねらせながら、一行を見下ろすともなく眺めていた。もう腹は決まっていた。さきほど押しかけてきた学生運動の代表者らと面会したばかりだった。この大学もご多分に漏れず、全国に広がりつつある大学紛争の火種がくすぶりはじめていたのである。
「なんだね、きみたち。」
異形と、鋭い眼光に押されて学生たちは、一瞬たじろいだが、持参の直訴状をつきつけ
「ぼくらは断固闘います。このまえの回答を」
以前提出されたいくつかの「学園民主化のための要求」。そのなかに重要課題としてこの春から改訂を迫る項目があった。その一つに市在住学生を優遇する推薦枠の即刻廃止があった。市立とはいえ卑しくも公立大学である。一部受験生への優遇枠は教育の公正さにかける。受験の平等化の要求。学生たちの訴えは最もなことだ。しかし、大学側に立てばのめない提訴である。学長就任の折りにもそのことは、自分も了承した。おかしなことはおかしい。そう提訴し、一歩もゆずらぬ学生たちの真剣な眼差しに、はるか昔、関東軍の秘密撤退を批判した若き日の自分と重なったのである。
「学長、市長と市議会議員の皆様がおみえです。」
秘書の塚本女史が困り顔で伝えにきた。
「わかった。いまいく。」
 応接室には市長、市議会議長をはじめ、このまちの有力者、お歴々が、厳しい顔で待ち構えていた。田所が入っていくと、私立高校の経営者でもあり、政界の大物代議士の後援会長でもある金満家が、まっさきに怒鳴った。
「学長、どういうことですか。推薦枠の廃止とは」
「市立ですから市在住の生徒を優先に合格させるのは当然じゃないですか」
「ここまでに大学を高めた手腕は認めるが、市在住の子弟を優先的に入学させる。それ
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くらいの郷土愛があってもいい」
田所は葉巻の煙りをゆらしながら黙していた。紳士然とした輩がそれぞれの意見批判を言い終えたとき、その大きな頭をゆっくり動かし、彼ら一人一人を射るように眺めてから言った。
「皆さんは、この大学を私に任せるとき何といいました」田所はゆっくりと、言った。「いい大学にして欲しい。たしかそんな要望だった。市長さん、そうですよね」
「はい、たしかに」
「だから廃止するんですよ。」
「デモ学生に味方するのか。」
「馬鹿者!学校をよくするのに、味方もヘチマもあるものか」
怒鳴り声は、窓ガラスを揺らせた。
 気迫に押されて、反撃するものはなかった。彼らはすごすごと引き上げていった。
「議会にかけますから」が議長の最後の抵抗だった。
 しんとした応接間で一人椅子に背をもたせ葉巻を吸っていた。
「大丈夫でしょうか」
「なにが」
「皆様、すっかり怒って」
「ふん、自分のことしか考えない連中だ」
「どうなるんです」
「うーん」居れないだろうことはわかった。廃止の権限は自分にある。
 田所は学生たちの要求をのんだ。そのことにたいして市の有力者たちは公然と嫌がらせをはじめた。怪文書がとんだ。意に介さなかったが、結局は、大学を辞さなければならなくなった。そして、先祖伝来の地からも。田所は家屋を処分し、東京中野のマンション住まいをはじめた。喜んだのは夫人の君子だった。君子は東大時代、タイピストとして研究室に臨時に働きにきていたところを見初め、強引に求婚した。
 浪人の身となった田所。辻が東南アジアを目指したように皮肉にも彼もまた辻と同じようにインドシナに向かわせた。世界の目がインドシナにあったからだ。南下するソ連。北爆を開始したアメリカ。戦火が広がるインドシナ。サイゴンに降り立った田所はおもった。「インドシナに平和をもたらしたい」と。
南下する共産勢力に、かって満州で経験したソ連南下の恐怖を感じた。戦火を消し去るにはどうしたらよいか。隣国の国王シアヌーク殿下に興味を抱いた。このインドシナにあって中立を貫きアメリカに一歩もひけをとらない。いま脚光を浴びてはいるが、近い将来、戦火に巻き込まれるのは必至。そのまえに手を打たなければ。
当時鎖国状態にあったカンボジアにはタイ、バンコックから空路で入るしかなかった。
経済学者の田所は、シアヌークに批判的な経済企画庁長官ソン・ブン・コンと会う。ソン・ブン・コンは将来を嘱望されたこの国の若きエリートだった。王室の血もひいている。フランスに留学。美人のフランス女性と結婚していた。
「この国に経済なんてものはありません」
シアヌーク殿下を独裁者として公然と批判した。
「平和ではないか」
「平和?!それがなんです」
「もし日本で、アメリカ人が主人で、中国人や韓国人が召使。日本人は、家もなく道路でねる人々だとしたら、あなたそれでも平和といえますか」
「このカンボジアが、まさにそうです。一握りの王室関係者が政治と称して国会を晩餐
の場とし、中国人は店を経営し、ベトナム人がお金を勘定し、この国の国民は、いった
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.384―――――――― 8 ――――――――――――――

いどこにいるとおもいます。よければ床そうじかシクロの運ちゃん。おおかたの国民は道路で寝起きしている。こんな国いいと思いますか。なにが立派な指導者ですか」
シアヌークにかみつき、怒鳴りつけられた長官を田所は若き日の自分に重ねた。
ソ連国境に捨て置かれる同胞とクメール人が重なった。
次号に

・・・・・・・・・・・・・・掲示板・・・・・・・・・・・・・

飯田・下伊那地区研究第5回学習会テーマ「熊谷元一」に決まる
 法政大学国際文化部(高柳俊男教授)は、留学生から見た日本の地方文化ということで、一地域(飯田・下伊那地区)に焦点を当て、毎年、夏期合宿をおこなうなど、その研究をすすめているが、このたび第5回学習会のテーマを「熊谷元一」と決めた。
 この学習会は、市ヶ谷にある校舎で11月23日(土)午後3時から開催される。予定される学習内容は、熊谷を紹介したDVD観賞と関係者の話。
※熊谷元一(1909-2010)は、先のゼミ合宿で訪れた「熊谷元一写真童画館」の展示作品の作者『一年生』代表作品(第一回毎日写真コンクール一位入選)、「写しつづけて70年」など。
2019年9月5日 (木)熊谷元一写真童画館にてゼミⅡゼミⅢ

090-2764-6052下原 メール:toshihiko@shimohara.net

田所はソン・ブン・コンの経済顧問となる。
突然、現れ、大使館になんの相談もなしに、この国の最重要ポスト経済企画大臣顧問になった田所に日本大使館は、大使をはじめ怪しんだ。
「彼は何者か」外務省に打診してもわからなかった。
だが、その謎はすぐに判明した。大使が公務で帰国した折り、ある晩餐会があった。出席した大使に、ときの佐藤総理が近づいてきた。戦後歴代総理のなかでも群を抜く実力者。その彼がギョロ目を光らせて向かってくる。東南アジアの小国の大使のところに。大使は緊張した。佐藤栄作は、笑みを浮かべていきなり聞いた。
「田所君は、元気にしてますか」
突然のことで呆然となる大使に首相は訝しんで
「きみはカンボジアの大使ですよね」と、聞いた。
「は、はい」小石は、あわてて頷きながら、恐る恐るたずねた。
「田所氏とお知り合いですか」
「兄者の親友だが、私も友人だよ、きみ」首相は、笑顔のなか一瞬鋭い眼光を放った。「佐藤がよろしくといっとったと伝えてください」
小石大使は大汗をかいた。兄者、即ち岸信介前総理の盟友でもあるのだ。一刻も早くプノンペンにもどらねば、と思った。
 プノンペンでの力の差は逆転した。特派員たちも、自然、大使館よりも田所のところに集るようになっていた。しかし、田所のことは依然として謎だった。彼はなぜプノンペンにいるのか。解けぬ謎だった。
 1968年9月、乾季から雨季にはいろうとしていた時期、
 その謎が解けたのは、カンボジアに無血クーデターが起きた後だった。1970年3月、カンボジアにクーデターが起きた。元首シアヌーク殿下が外遊中に、謀反を起こし政権
の座についたのは、米国陸軍士官学校帰りのロンノル将軍だった。長いこと鎖国状態にあったカンボジアは開国してクメール民主共和国となった。そして、アメリカと国交回復した。とたんアメリカ軍のカンボジア領内での爆撃がはじまった。米軍は、北ベトナムからカンボジアを経由してくる補給路に悩まされていたのだ。国交断絶状態では、爆撃はできなかったが、世界の目を気にすることなくこの補給路を叩くことができた。カンボジアは、たちまち戦火に巻き込まれた。1970年3月のことだった。独裁者シアヌークを追いだしたカンボジアは、米国を後ろ盾に新しい民主国家に生まれ代ろうととしていた。経済企画庁長官だったソン。ブン・コンは国立銀行の総裁に治まった。顧問だった田所精一は、

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