文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信 No.103

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2008年(平成20年)6月2日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.103
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
2008前期4/14 4/21 4/28 5/12 5/19 5/26 6/2 6/9 6/16 6/23 
6/30 7/7 7/14 
  
2008年、読書と創作の旅
6・2下原ゼミ
6月2日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ教室2
 1.出欠・連絡と解説・司会進行者指名
 2.課題提出原稿読みと感想
      
 3.『少年王者』と『灰色の月』について
  4.表現・紙芝居『少年王者』稽古 「第一集おいたち編」
     
 
     車窓 普通の一日の新聞(2008・5・28朝日)
 
 新聞の三面記事は、時間列車の車窓風景である。時間列車は、はるか何百億年の昔、ビックバン爆発の祝砲に送られて出発した。車窓に、幾多の銀河の誕生を見た。幾多の星々の盛衰を見た。私たちが乗車した時間列車は、35億年前、銀河のはずれにできた惑星に到達した。有機体が存在する星だった。車窓に見え過ぎてく彼らの進化と後退。微生物から巨大生き物。様々な生き物が栄えては滅んでいった。つい最近のことだが、暫しの眠りから目を覚ますと、二足歩行の生き物がこの星を制していた。大氷河時代を生き延びた生き物。彼らは社会をつくり帝国をつくり、戦争と繁栄と破滅をくりかえし、車窓をあきさせない。普通の生き物は、この悠久の自然に調和している。が、この二足歩行だけが違っている。
 なんでもない普通の一日、世界で五番目に安全といわれる国の一日。車窓には、どんな景色が映っているのか。惑星時間2008・5・28車窓を見た。
・勤務中81人が株取引 最多5千回 NHK第三者委が公表
・小額5年生の女児連れ去り容疑の男(27)逮捕。福島 
・わいせつ容疑テレビ朝日記者(29)10日間の出勤停止 路上で公然わいせつ
・わいせつ行為で停職1年の処分 国立印刷局の男性職員(40代)
・全裸に目出し帽 待ち伏せて暴行 埼玉・容疑の男(36)供述「裸になると興奮する」
・マッキンリーで日本人2人不明。
・75歳、76歳、世界最高峰エベレストに登頂。登頂者は、すでに3000人。
・妹殺害 懲役7年 心神喪失 切断は無罪
・被害者参加――法廷は? 「遺族の訴え、量刑とは別」「感情的発言、混乱しないか」
・我那覇選手が「勝訴」点滴は医療行為・スポーツ仲裁裁判
人間は、謎である。


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.103―――――――― 2 ――――――――
車窓雑記
失踪事件の謎
 奇怪な事件も、全容が明らかになれば、単純な事件である。この5月18日の金曜日に江東区のマンションで起きた若い一女性(23)の失踪事件も、その人一例である。
 防犯カメラが何台も設置された新築マンション。9階にある自室に午後6時過ぎに帰宅した女性がいなくなった。一緒に住む姉に、「いま帰ったところだ」と携帯メールを送った直後だった。玄関には壊れた耳飾り、壁には微量の血痕。靴はきちんと揃えられていた。8時45分帰宅した姉は、室内に異変を感じ9時15分に110番通報した。セキュリティの完備した新築マンション。女性は入居2ヶ月目。あちこちに設置してある防犯カメラには、女性が帰宅する姿はあるが、出て行く姿は映っていない。事件は、簡単に解決するように思われた。女性は、このマンション内にいる。だが、捜査は難航した。警察は、全部屋を調べたが、女性を発見することができなかった。彼女は、どこに行ったのか。「神隠し」そんなオカルトめいた言葉がマスメディアにみかけるようになった。合理的、科学的に分析しようとするテレビも現れた。防犯カメラの一つに死角があるというのだ。非常階段のところで50㌢前後がレンズ視覚に入らない場所があると証明した。しかし、そこをすり抜けるのは、一人が爪先立ちしてやっと。でなければ到底無理とのこと。二人の人間が共にすり抜けるのは不可能である。とすると、そこから引き出される合理的解釈は、二つある。一つは、彼女が自分の意思で、用心深くすり抜けていった。二つ目は、女性はマンション内にいる、である。
 事件は、神隠しでも自由意志でもなかった。犯人は、隣りの部屋の男だった。ゲームソフト会社に派遣社員として勤める33歳のこの男は、暴行目的で、帰宅直後の隣人を襲い殺害し、驚くべき素早さで死体を始末した。死体は、どこに行ったのか。男は、バラバラにしてトイレに流したという。29日の新聞には、「遺骨か、下水道で発見」とあるが、多くの謎が浮かぶ。大勢の人が注目するなかで、そんな大ごとができたのか。なぜ、警察は、気づかなかったのか。一人の人間を、短時間に細切れにしてトイレに流すことは可能か。いまも人気かどうか知らないが、昔、さいとうたかお原作の漫画『ゴルゴ13』という人気漫画があった。題名通り、ゴルゴダの丘の13番目の男。つまり神をも恐れぬ殺し屋ということか。この殺し屋の生い立ちを描いた話のなかに死体をトイレに流して処理したことを想像させる場面がある。ホテルの一室に二人いたはずが、丸一日経って出てきたのは、主人公だけ。完全に消えたもう一人はどこに。敏腕刑事の推理は、バラバラにしてトイレに流した。しかし、『死体は語る』などの著書で知られる元解剖検察官の話では、人間一人をトイレに流すのは、難しいらしい。大腿骨や頭蓋骨を砕くには、相当な音や振動がでるという。
 もし、トイレ処理が本当だったとすしても謎が残る。テレビのインタビューから犯人はメーターを気にする性格らしい。警察は、水道メーターを調べなかったのだろうか。
 最近になって(21日の供述)犯人は、出勤途中に別のマンションのゴミ捨て場に捨てたと言っている。と、すると、そのとき警察は張り込みしていなかったのか。という疑問もわく。なにしろ、一人の女性が自室から忽然と消えたのである。神隠しでなければ、女性は、マンション内部にいる。拉致・監禁・殺人なら犯人は内部の人間しかいない。最初から、しっかり見張っていれば、事件は、もっと早く解決したはずである。
 なぜ、発覚、逮捕が遅れたのか。考えられるのは、やはり初動捜査のミスである。当初、全部屋を捜査したと発表したが、警察は、110番で駆けつけた時点、被害者の女性は、なんらかの個人的理由、姉にも話していない異性問題で、自分から失踪した。そのように思い込んでしまったのだろう。後のニュースでは、冷蔵庫の中までとあるが、最初は、部屋を覗くぐらいだったかも。「どうせ、すぐに出てくる」と、思いながら。それが、いまだ遺体発見を難航させている要因となっている。
 それにしても憎むべきは犯人である。この人間は真に何者か知る必要がある。犯行の異常性、残虐性に1997年5月18日、いまから11年前だが、神戸のある中学校正門に行方不明児童の首が置かれてあった14歳少年の事件を思いだした。
―――――――――― 3 ―――――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.103
2008年、読書と創作の旅
「ゼミ2」船内名簿
 「2008年、読書と創作の旅」に参加した皆さんは全員で16名です。時空船「ゼミ2」号で、究極の目的「人間とは何か」を知るために、読むこと書くことの習慣化を目指します。が、お互いまだよく知り合っていないと思いますので、暫く掲示します。1年間、一緒に過ごす皆さんです。(希望カード提出順・敬称略)
 さかもとよしあき  おおの なつみ  かわばた りか  ほんな ともこ
・阪本 義明 ・大野 菜摘 ・川端 里佳 ・本名 友子
 ながぬま ともこ  のじま りょう  おおたに りえ  たきざわりょうすけ
・長沼 知子 ・野島 龍  ・大谷 理恵 ・瀧澤 亮佑
 
 あきやま ゆか   たやま ちかこ  かんだ たいすけ  おぐろたかゆき
・秋山 有香 ・田山 千夏子・神田 泰佑 ・小黒 貴之
 とねひらともや   はしもとしょうた いいじまゆうき   うすきともゆき
・刀祢平知也 ・橋本 祥大 ・飯島 優季 ・臼杵 友之
※出立の記念撮影は、全員が揃ったときに撮ります。
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「2008年、読書と創作の旅」における係
 この旅は、1年間という長旅に加え、同行者も定員の16名と小団体です。旅程をスムーズに快適にするために係を設置、お願いしました。幸いに自薦・推薦によりそれぞれの係が決まりました。協力し合って、よい旅にしましょう。どんなに小さな問題も自分だけで抱えこまないで皆で話し合って解決しましょう。
 自分だけではなく、皆がよくなれるように自他共栄の精神をもって当たりましょう。その思いは、巡って自分のためになります。情は人のためならず。
「2008年、読書と創作の旅」班長・副班長
 どんなに少人数の旅でも、まとめ役の人は必要です。意見や相談事の伝達、課外活動のまとめ、幹事役などに当たってくれれば幸いです。
◎ 班長・小黒貴之さん      ○ 副長・瀧澤亮佑さん
「2008年、読書と創作の旅」旅日誌作成編集委員
 この旅の最大の成果、旅日誌作成の音頭をとってもらいます。印刷会社との交渉もありますが、全員で協力して記念誌を作りましょう。(お詫び、前号で誤りがありました)
編集長  ・ 川端里佳さん   大野菜摘さん
副編集長 ・ 小黒貴之さん
編集委員 ・ 坂本義明さん   橋本祥大さん   
       飯島優季さん   瀧澤亮佑さん  補助委員・全員
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.103 ――――――――4 ―――――――――
Ⅰ「2008年、読書と創作の旅」6日目
1.はじめに  → 出欠、「ゼミ通信」配布と解説、連絡事項 (担任)
 
司会進行決め  →  毎回、順番にやってもらいます。担任が指名します。
司会者進行
2.課題原稿読み
 ※提出原稿の本欄への掲載は、合評するので原則として原稿通りとしますが、あきらかな
  誤字、脱字、難読など不明個所は修正するか下線とします。
【車内観察】
立ち聞き
長沼 知子
 私の後に並んだ人は話し声からすると女二人だった。もしかしたらOLかもしれない。22時半過ぎのホームは私と同じ仕事終わりの人が多い。なかなか電車が来ず、私は随分と長い時間彼女らの会話を聞かざるをえなかった。
 大体の内容は、片方の女Aが格好いい男友達を好きになってしまったが、格好いい男と付き合うには色々と難題があると友人の女Bに相談しているといったものだった。自分と釣り合いが取れない、一緒にいる時の周りの反応が怖い、格好よさを自覚している男は見下してくるなど次第に当初の相談内容から逸れて世の格好いい男について話題が移っていった。だが彼女らの主張や解釈は筋が通っていて、なかなか納得できるものだった。論点はずれにずれて、最終的には「女を見た目で選ぶ男はどんなに格好よくても心がなくて嫌い」という結論に達そうとしていた。確かにその通りだが何という浅い論議だろうか。しかしそんな中身のない話を十数分も盗み聞きしてしまった私も何て暇だろう。
 そうこうしているうちにホームに電車が滑り込んできた。ドアが開くと並んだ列の塊が中へ押し出される。比較的前の方へ並んでいたため人気の高い三人掛けの一番奥の端へと腰を降ろすことができた。仕事の疲れでぐったりしていたのでやっと落ち着くことができた。しかし、次の瞬間、私はあ然とした。先程の声の主である彼女らが目の前に座ったのだが、
OLどころかどう見ても高校生、いって大学一年生くらいの少女だったのだ。
 しかし、私が最もあ然とした理由は他にあった。彼女らの目は明らかに私を値踏みしている。相変わらず好きな格好いいなんとか先輩の話をしているが、二人とも互いを見ることことなく私の足先から頭の先まで楽しむように眺めまわしているのだ。あんたらさっき何て言ったよ!!見た目で判断する人は何だって?!と私は叫んだ。もちろん心の中で。だが情けないことに表情に出すことも彼女ららの好奇の眼差しをはね返すこともできなかった。彼女らのギラギラした勢いは怖い。彼女らはいわゆるギャルだったが、それ以上に恐れや挫折を知らない、根拠のない自信に満ちていた。わかりやすく言うと「あたしかわいいでしょ」という目をしていた。
 その時の私には自信やら気力が欠片も残っていなかった。実は始めたばかりのバイトの初出勤で、あまりに多くの仕事を教えられ、なかなか覚えられない自分にしょげていた。自信どころか自己嫌悪に陥り始めていた。その状況で私がとった行動は単純だ。寝た。電車は便利だ。疲れても、現状から逃げたい時も、寝ればいい。私は、結局、終点まで彼女らの視線をグサグサ受けながら寝続けた。フラフラと座席から立ち上がり電車から降りると乗った時の数倍の疲労感を感じた。
□ 視線や会話。電車の中は、ときには疲れる場所です。
―――――――――――― 5 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.103
僕の中央線
刀祢平 知也
 屋根のない電車があったらどれだけいいだろう。黒いスーツの軍団に周囲を固められ僕は天井を見つめていた。はげ上がった頭皮が目の前にあって、空調でふわりふわりとなびいている。このおっさんはどこで降りるのだろう。僕はちなみに御茶ノ水で降ります。
 車内はこんなに混んでいるのに、人々は黙りこくって、風景はCMのように流れ、流れていく。吊り広告は空調でひらりと一瞬よろめいては、止まり、またよろめく。狭い車内で携帯を打つスーツがいた。彼はメガネ、真面目カット、ストライプネクタイの無難な三拍子。その彼はメールで「愛している」と打っている。ニコリとも笑わずに。
 電車は新宿駅に止まった。人が流れていく。扉が閉まって電車は鈍い音を出して動き出す。予備校まであと二駅。少しすいた車内は軽快にスピードに乗り始める。逆そうしろ、逆そうしろ、爆発しろ、爆発しろ、僕は何度も唱えていた。
□ 満員電車のなかの孤独感、閉塞感が伝わってきます。
【普通の一日を記憶する】
一日の出来事
          秋山 有香
 朝、携帯に届いたメールの着信音で目が覚めた。人ごとに変えた着信音も覚醒しきらない頭では、誰からメールが届いたのか判別することが出来ない。
 誰だ?と確認のために携帯を手に取る。画面には中学時代の友人の名前。何事かとメールを読むと”来週の日曜日、暇?”の一行。バイトだよ、と心の中で返事を打った。
 メールを見たついでに、時間を確認する。画面の数字は11時30分。数秒の思考停止の後、慌ててベットから飛び起きた。しまった。今日は13時からバイトなのに、寝坊した。
 大急ぎで仕度を整えて、父親にバイト先まで送ってもらう。遅刻ギリギリだったものの、何とかバイトには間に合った。肩で息をしていると、「おはようございます」と、年下のバイト仲間の男の子に声をかけられた。笑顔が眩しい。普段はそのまま世間話でも始めるところだが、今日は日曜日なので、そんなことをしている余裕はない。レジに並ぶお客さんの数にげっそりしながら、レジに向った。忙しかったせいか、あっという間に休憩時間になった。後半も忙しいと嫌だな、とちょっと暗い気持になりながら休憩室で野菜ジュースを飲み干す。
あまりの忙しさに携帯を見る気力もない。休憩時間終了間際に、鞄の中で携帯が鳴った。
 後半は昼間ほど混まなかったものの、包装を頼むお客さんが多かった。レジ内で包装をしていると、バイト仲間の男の子に話しかけられた。
「秋山さんて、親の誕生日に何かあげたりします?」
「そうですね。父親だったらネクタイとか、母親だったら花とかあげますね」
手を休めず答えると、
「そうですか。どうしようかな」
と、独り言のような呟きが返ってくる。
「どっちか誕生日なんですか?」
リボンを選びながら尋ねる。
「母が」
と、小さく返事をされた。悩んでいる姿を、横目で見ながら、包装し終わった商品をお客さんの小さな女の子に手渡す。店を出て行く時に、「お母さん、喜んでくれるかな?」と、父親であろう人に話しかける声が聞こえた。
「何を包装したんですか?」
「マグカップです。お母さんにマグカップでもどうですか?」
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・103 ―――――――― 6―――――――――
 冗談のつもりで悪戯っぽく笑うと
「それ、いいですね」
と、笑顔を見せられた。眩しい。
 閉店後、21時39分の電車で帰宅。家に着き玄関を開けると、父親と母親はすでに寝ているようで、家中しんとしている。鞄を置きながら台所のカレンダーに目をやって、ふと朝のメールの主を思い出した。あいつ、来週の日曜日誕生日だ。朝のメールを返信しなくて良かったと思いながら、昼のメールを確認すると、送り主は朝のメールと同一人物で、画面には、”やっぱりバイト?”の一文が。忘れててごめん。心の中で謝りながら、”あけてある”と、覚えていると言わんばかりのメールを打った。
□贈り物の相談、微妙な中学時代の友人、いろいろあった一日。
【愛読書紹介】
池波正太郎著『散歩のとき何か食べたくなって』
瀧澤 亮佑
 池波正太郎というと、『鬼平犯科帳』のイメージが強い。けれど池波正太郎は、「食べ物エッセイ」の大家でもある。
 単に、あれがおいしい、これがおいしいと夕方のニュースの特集でやる様な下品なエッセイではない。
 池波正太郎が注目するのは「人」であり、「時代」であるのだ。何もかも画一されたファミレスやファストフードのはんらんする様な現代では考えられないが、昔のレストランにはこの道一筋といった料理人が必ずいる。その事に池波正太郎はちゃんと言及しているのだ。
 戦前のモダンな資生堂パーティ。ここで若き日の池波正太郎は、給仕のチーフに注目する。彼は、客の食べ残したものを食べて、何故残したのか研究し、キッチンと相談するのだという。
 もちろん僕はこの本で紹介されている店に行った事はない。どれもこれも高級な店ばかりである。だから今は、この本を読んで想像するばかりであるが、将来死ぬまでにはせめて資生堂パーティぐらいには行ってみたいと思った。
 戦前、ハンバグステーク(原文)が六十銭だったそうである・・・・・。
□そうですね。一度は、そんな高級店で高級料理を味わってみたいですね。恐らく戦前は、料理にも道があったのでしょう。しかし、食材豊富な現在は、道はただ名前だけになったような気がします。高級店にして老舗「船場吉兆」廃業のニュースあり。有名無実、残念ながら近ごろそんな高級店が多くなった。
■お断り
長沼さんの「立ち聞き」と、刀祢平さんの「僕の中央線」は前号と重複します。
(発表は、本人不在の場合、先延ばしにすることから)
■お詫び
 前号の提出原稿で飯島さんの「時の楽しみ方」が【生き物観察】となっていましたが、
【一日を記録する】でした。
―――――――――――――― 7 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.103
3.『灰色の月』と『少年王者』について
 テキスト志賀直哉の車中作品『灰色の月』と、山川惣治画・文『少年王者』は一見なんの関係も関連性もない二つの作品におもえる。が、その実、両作品は表裏一体を成す。
 両作品が書かれたのは、『灰色の月』が、終戦直後の昭和20年10月16日。『少年王者』が出版されたのは、昭和22年12月。2年間の差はあるが、どちらも終戦直後の暗い時代に書かれたことに間違いはない。しかし、両者を比較すると、対極的に特徴がある。下記に、その特徴をあげてみよう。
□まず、長さである。
『灰色の月』は10ページ足らずの物語ともエッセイともつかぬ作品である。
『少年王者』は、第三集からなる長編絵巻物語である。
□内容も、対極にある。
『灰色の月』は、「暗澹たる気持のまま渋谷で電車を降りた」と絶望的だが
『少年王者』は、ゴリラに育てられた日本人の赤ん坊が成長し、活躍する希望溢れる物語。
□評価は、
『灰色の月』は、太宰治はじめ、多くのマスメディアに非難された。しかし、いまも名作文
 学として残っている。今後も名作としてあり続けるに違いない。
『少年王者』当時、少年少女から大人まで大ベストセラーとなった。だが、いまは、山川惣治の名も『少年王者』の物語も知る人は少ない。今後も忘れられていく運命にある。
『少年王者』について
 いつの時代もサブカルチャーの運命は、はかない。あんなに注目されたのに、あんなに売れたのに、あんなに面白かったのに。いまは誰も振り返らない。
 「少年王者」も、その運命だった。しかし、本当面白い物語なら、たとえ、幾百年地底にあろうとも、機があれば必ずや復活する。『少年王者』はそんな作品だと思っている。
4.紙芝居稽古『少年王者』「生いたち編」
 作者・山川惣治生誕100年記念として公演する
『少年王者』とは何か
 この物語は、アフリカがまだ暗黒大陸といわれていた時代のお話。その頃、ケニヤは英国が、カメルーンはフランスが、コンゴはベルギーが植民地にしていた。しかし、奥地は人跡未踏で謎につつまれていた。その魔境で日本の少年が活躍する。
 『少年王者』第一集「おいたち編」が出版されたのは1947年(昭和22年)戦後すぐである。敗戦で打ちのめされた日本。そんななかで子供たちにとって、真吾少年の活躍は、胸のすく物語だった。たちまちに大ベストセラーとなった。
 
山川惣治 – 絵物語作家。福島県出身。 (1908年2月28日~1992年12月17日)
■代表作 『少年王者』『 少年ケニヤ』『 荒野の少年』がある。
 後の山川惣治は、出版社経営に失敗し、横浜でレストラン「ドルフィン」を経営するなど、順風満帆な人生ではなかったが、このたび『山川惣治』をまとめた中村圭子さん(文京区・弥生美術館学芸員)は「少年が、そのまま大人になったような人だった。数々の日本のアーティストに影響を与えたその作品を知ってほしい」と話している。(5月6日読売)
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.103―――――――― 8 ―――――――――
5・26ゼミ報告
 
出席者・12名
 新学期が始まって、中日となりました。同行者は16名ですが、全員が揃うのはなかなか難しいようです。全員の参加があったとき、写真を撮ろうと思います。
 この日、26日の出席者は、以下12名の皆さんでした。
・阪本義明 ・川端里佳 ・大谷理恵 ・野島 龍 ・橋本祥大 ・本名友子
・瀧澤亮佑 ・小黒貴之 ・飯島優季 ・臼杵友之 ・秋山有香 ・大野菜摘
「通信102号」配布とゼミ誌ガイダンス、「ゼミ合宿」提案
○ゼミ誌ガイダンスのお知らせ 6月3日(火)を川端・大野編集長に通達。
 
○学生課から「ゼミ合宿」申し込み有無について要請がありました。締め切りは5月30日までとのこと。急でしたので、班長の小黒さんに皆の総意をまとめてもらいました。
小黒班長 「夏休みにゼミ合宿があります。挙手で決めたいと思います。」
ゼミ合宿希望の人  →  なし (11名中)
 希望者がないので、「2008年、読書と創作の旅」下原ゼミでは、ゼミ合宿を行わないことにします。異論なし。
※ 但し30日締め切りは軽井沢の施設使用です。他に那須塩原などがあります。
○司会進行は、川端里佳さん
1.課題原稿読みと感想 
【車内観察】橋本祥大「車内百景」・変わり映えのないものへの視点。・モノの表記について。
    小黒貴之「履歴書オクトパス」・見たままを書いた(作者)。・面白かった。など。
【一日】飯島優季「時の楽しみ方」・デート中に人間観察がすごい。・キーホルダーについて
【生き物】大谷理恵「伝書鳩の行方」・誤謬「青」を「真」に。・伝書鳩の存在。
 
2.テキスト『菜の花と小娘』について、完成作品『網走まで』読み
 
【『菜の花と小娘』について】
書いた頃の作者の環境、心境が表れた作品との仮定。
【『網走魔で』の読みの感想】
「草稿の方がよかった」と「完成の方がすっきりしていていい」の二つの見方があった。
『網走まで】の謎
 
『網走まで』には、大きな謎が二つある。
1つは、題名の「網走」である。当時鉄道はまだ敷かれてなかった、この地をなぜさも駅があるかのごとく母子の行き先にしたのか。なぜ「網走」か、である。
2つ目は、この作品は「帝國文学」に応募した。が、没になった。作者は字の汚さをあげたが、なぜ不採用となったか。その雑誌に向いていなかったのでは、といった意見。
―――――――――――――― 9 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.103
ゼミ誌について
ゼミ雑誌発行は12月15日厳守です。
 ゼミの実質的成果は、決められた期日までのゼミ雑誌発行にあります。毎年、納品日の遅れが指摘されています。一年間の大切な成果なので、しっかり守って、よい雑誌をつくりましょう。本ゼミは、二人編集長と一人副編集長に四人の編集委員が、アシスト、全員が協力します。ゼミ誌は自分の作品でもあるので、全員一丸となって当たりましょう。
ゼミ誌原稿について
 ゼミ誌原稿は、そのために書くというより、日々の授業のなかで育てることをすすめます。締め切り前あわてて書くより、発表した観察作品を草稿として完成品に高めるよう創意工夫してみてください。それには、皆の感想、自分の耳で聞いた印象を参考に。
・編集委員長=川端里佳 大野菜摘
・編集副委員長=小黒貴之
・編集委員=阪本義明 橋本祥大 飯島優季 瀧澤亮佑 
・補助委員=本名友子 長沼知子 大谷理恵 野島 龍 田山千夏子 臼杵友之 
      秋山有香 神田泰佑 刀祢平知也
ゼミ誌作成実施と予定は以下の要領です
1. 6月3日(火) → ゼミ雑誌作成ガイダンス。編集委員は必ず出席してください。
        ○ゼミ誌作成説明  ○申請書類を受け取ります。
2. 6月中旬 → ①「ゼミ誌発行申請書」の提出。出版編集室に
3. 6月~  → 全員でゼミ雑誌の装丁を話し合う。題名・内容・サイズ・印刷会社など
        ※印刷会社は、過去に依頼した会社は文芸学科スタッフに問い合わす。初
        めてのところは必ずスタッフに相談する。(なるべく初めてのところでな
        い方がよい。以前、苦労したことがある。会社側も慣れないので大変)
4. 7月下旬 → 原稿依頼し、締め切り日を決める。だいたい夏休み明けがよい。
5. 9月末  → 編集委員にゼミ誌原稿を提出。
6. 10月上旬 → 編集委員は、内定の印刷会社から②「見積書」をもらう。
7. ~11月 → 「見積書」の提出。印刷会社と相談しながらゼミ雑誌作成。
8. 12月 → 15日までにゼミ誌提出、③「請求書」提出
注意事項!!
◎ ①【ゼミ誌発行申請書】、②【見積書】、③【請求書】以上3種類の書類が提出されない
  場合はゼミ誌の発行はできません。補助金の支払いも認められません。
◎ 予算金額は、ゼミ雑誌作成ガイダンスで発表される。
◎ 過去にゼミ雑誌の印刷を依頼したことのある主な印刷会社の連絡先は、文芸学科スタッ
  フまで問い合わせる。それ以外の印刷会社を利用したい場合は、必ず事前に学科ス
  タッフに相談すること。厳守。
 ※ 印刷会社は、学科スタッフに相談した方が、スムーズに運びます。
◎ 外部(一般の人)と関係しない。(インタビュー、依頼原稿など)
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.103―――――――10 ―――――――――
「2008年、読書と創作の旅」の記録
□4月14日 参加者20名。旅説明と嘉納治五郎の青年訓「多読と精読」読み。
□4月21日 司会=小黒、登録11名出席。旅立ちに際して紀行文と書簡の読み。『おくの
      ほそ道』「発端」「旅立ち」。ドストエフスキーが国家反逆罪の罪でシベリアに
      向う朝、兄に書いた手紙を読む。志賀直哉の車中作品についての説明。
□4月28日 司会=田山、15名出席、名作紹介・サローヤン『空中ブランコに乗った大胆
      な青年』読みと感想と解説。議論・新聞「人生案内」愛の告白について〈私な
      らこう答える〉、登録者16名に。
□5月12日 司会=本名、13名出席、ゼミ正副班長指名、ゼミ誌編集委員決め。新聞記事
      紹介。「小林多喜二『蟹工船』」と志賀直哉の関係。紙芝居『少年王者』の作者
      山川惣治の本が刊行される。東京新聞取材のドストエフスキーの全作品を読む
      会「読書会」の宣伝。提出原稿6本の読みと合評。
     【車内観察】5本
      ・本名友子「台風一過」・瀧澤亮佑「タイムスリップ」・秋山有香「新入生」
      ・川端里佳「ランデブーは車内で」・大野菜摘「園児とサラリーマン」 
      【生き物観察】1本
      ・小黒貴之「スカーフ猫は喉を鳴らさない」
□5月19日 司会=飯島、12名参加、新聞記事紹介=「『蟹工船』再記事について」「五月
      病記事について」「候補漢字220字について」など。提出原稿1本の読み。
      【一日観察】
      ・野島 龍「夜明けからの一日」
      【テキスト読み】
      ・『菜の花と小娘』 ・草稿『小説 網走まで』
□5月26日 司会=川端、12名参加、小黒班長=ゼミ合宿の有無。合宿なしで決定。
      名作読みA・ランボー「谷間に眠るもの」、車内観察テキスト見本「夫婦」
      完成作『網走まで』感想
名所見学 前期の旅も、気がつけばもう半ば、桜舞った街路樹も、いまはしげれる青葉。季節の流れの速さに戸惑うばかりです。毎年、この季節になるとランボオのこの詩「谷間に眠るもの」を思い出します。光り輝く季節。青葉あふれる谷間。「ゆく雲のした、草のうえ」そこに眠っているものは。世界文学に燦然と輝くランボオの凄さがわかる1節。興味がもてたら『ランボオ詩集』『地獄の季節』を読んでみてください。簡単な系譜
1854年10月20日 北フランスアルデンヌ地方で生まれる。父は職業軍人。母は百姓家
1869年15歳 ラテン語で詩作 詩の処女作「みなしごたちのお年玉」
1870年16歳 普仏戦争。フランスはプロシアに破れる。9月家出、10月家出。
1871年17歳 3度目の家出。大作「酔っぱらいの舟」をつくる。詩人ヴェルレーヌと知り
    合い彼の家に同居。
1872年18歳 ベルレーヌと二人で外国放浪。『地獄の季節』書き始める。争いからヴエル
    レーヌが拳銃を発射。ランボオ左手負傷。ヴェルレーヌ禁固刑2年。
1873年19歳 完成した『地獄の季節』の大部分を暖炉に投げこみ二度と再び筆をとろう
    としなかった。
1880年26歳 アフリカて銃器の商人。
1891年37歳 足の関節に腫瘍ができフランスに戻る。マルセイユ病院に入院。母、妹
    見舞いにくる。11月9日息をひきとる。
19歳で詩を書くのをやめ、37歳で突然死んだ、反逆詩人。
―――――――――――――― 11 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.103
名作まで
 先々週は、草稿『小説網走まで』、先週は、完成作の『網走まで』を読んだ。草稿と完成は、盆栽でいえば、挟みを入れる前と入れてからの景観ということになる。草稿はのばし放題のばした盆栽。完成は、余分な枝を剪定し見栄えのよくなった盆栽、ということである。 
 しかし、先週のゼミでは、完成作より、草稿の方が馴染みがある、といった評がけっこう多かった。読書は、その人の読み方なので、一概に完成作だからよいとも言えないところがある。が、草稿と、完成品の差がはっきりしているのは『菜の花と小娘』である。
『菜の花と小娘』が名作となるまでの過程を、少し紹介する。
■明治37年(1904)鹿野山にて書く。題名『花ちゃん』
 奈何いふ風に吹かれて、こぼれた種の生へて咲いたか、この山奥にたった一本、それはそれは可憐な菜花が、痩せもせず咲いていた。
 麓の村から柴を取りにきた、花ちゃんという子は野生への九つ。お祭りとお正月とお盆とに着るものとしていた「三ツ三」の赤糸のはいった二子のいいおべべはもう着られないそだち。今日も白い新しい手拭いをもらって、それを姉さん被りにして嬉々と目の荒い背負い籠に集めた柴を入れている。
「花ちゃん」
「エ、」と花ちゃんは、しゃがんだ儘振り返ったが誰もいない。
「花ちゃ――ん」と可愛いい声でまた呼ぶものがある。
「だァーれ」と立ち上がってあたりを見た。人影は愚か、鳥も飛ばぬ。
「私呼ぶの誰よ」と云ったが誰も返事をするものがない。花ちゃんはなんだか薄気味悪くなって、
「早く出て来なきゃあ私、もう、帰って仕舞ってよ」とそろそろ籠を背負い掛ける。
「花ちゃん、私よ、ホ、、、、、」
 最初の出だしである。小娘には「花ちゃん」という名がある。着ている服装なども観察している。菜の花も、どんな花か紹介している。この作品は、2年後、千葉県我孫子で改題、改稿された。そして、大正9年(1920)児童雑誌『金の船』に「菜の花と小娘」として掲載される。400字原稿用紙にして僅か五枚にも満たない作品だが、完成までに16年の歳月を費やしている。完成品は、草稿の伸びた枝、しげった葉をかなり剪定している。
或る晴れた静かな春の日の午後でした。一人の小娘が山で枯れ枝を拾っていました。
 やがて、夕日が新緑の薄い木の葉を透かして赤々と見られる頃になると、小娘は集めた小枝を小さい草原に持ち出して、そこで自分の背負ってきた荒い目籠に詰めはじめました。
 ふと、小娘は誰かに自分が呼ばれたような気がしました。
「ええ?」小娘は思わずそう言って、立ってそのへんを見回しましたが、そこには誰の姿も見えませんでした。
「私を呼ぶのは誰?」小娘はもう一度大きい声でこう言ってみましたが、矢張り答えるものはありませんでした。
 小娘は二三度そんな気がして、初めて気がつくと、それは雑草の中からただ一本わずかに首を出している小さな菜の花でした。
 小娘は頭にかぶっていた手ぬぐいで、顔の汗を拭きながら、
「お前、こんなところで、よくさびしくないのね」と言いました。
「さびしいわ」と菜の花は親しげに答えました。
「花ちゃん」という子は、小娘に代わり、文章も、説明調のごたごたから、すっきりした。菜の花との出会いも自然になっている。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.103―――――――12 ――――――――――
 
2008年、読書と創作の旅
 担任自己紹介の代わりに学生時代の旅を紹介します。が、想像・推測・個人問題もあるので創作ルポタージュとします。
一九六八年、アジアの旅⑦
                                   下原 敏彦
 1976年10月初めのよく晴れた午後、私は立川の私の下宿で、調書をとりにきた羽田署外事課の二人の刑事とちゃぶ台を前に向き合っていた。半月前に起きた遊覧セスナ機心中事件の捜査協力で、心中した元学長夫妻について、知っていることをすべて話し始めたところだった。若い刑事は、ひたすら調書のペンを走らせた。初老の刑事は、ときどき話を遮って質問した。私にとっても、警察にとっても元学長夫妻の心中は、ムルソー(『異邦人』)の殺人よりも深い謎にだった。私は、記憶の糸を探りながら、慎重に言葉を選んで話した。開け放たれた窓外に武蔵野の中秋の青い空があった。澄み切った高い空は、あの日のプノンペンの青すぎる空を思い出させた。「リエルとは何です」初老の刑事が聞いた。
「カンボジアの紙幣です。一リエル六円でした。公定ルートですが」私は答えた。
 
我が青春のプノンペン
 私とA君が昼寝から覚めて三階のT先生宅の居間に入っていくと、T先生夫妻と秘書のY女史の三人が私たちを待っていた。藤椅子にどっかと座ったT先生は、私たちの話しを聞いたが、たいした目的がないとわかると、こう言われた。
「ついでだから、この国を見てから旅すればいい。なにかの縁だ」
「ええ・・・」私とA君は、返事に迷った。
 先生(以後、こう呼ぶ)のすすめは、行き当たりばったりの旅をしている私たちにとって、あまりにも渡りに船すぎた。それで、即答に窮したのだ。が、どのみち、その言葉に甘える他なかった。私とA君は、ちょっと相談するふりをしてから
「そうします。この国を見てからにします」と、言った。
 ビザのことも、滞在費のことも、何も考えていなかった。無銭旅行の旅である。
「そうと、決まればだ、な」
先生は、いきなりポンと膝を打って立ち上がった。そして、夫人が渡した財布からお札をだしてテーブルに並べはじめた。どの札もこの国の国家元首シアヌークの写真入りである。カンボジアのリエル紙幣のようだった。
 先生は、テーブル一面に札を並べ終わると
「これが、この国の紙幣だ」と教えてくれた。そして、並べた半分を手で仕切って、
「こっちをとりなさい」と、言った。
 私もA君も、意味がわからず困惑して顔を見合わせた。
「街にでたとき使いなさい。この国は、公定と闇では何十倍も違う。公定は1リエル6円だが、闇では60円になるときもある」先生は、そう言って可笑しそうにカッカと豪快に笑った。「だから教えても、すぐにはわからん。まずは街で、お茶を飲んだり、日用品を買ってみるんだ。たいした額じゃない。ふんだくられたって勉強になる」
「お小遣いよ。よかったわね。無一文なんでしょ」秘書のY女史は、くすくす笑いながら言った。「先生は、経済学者だけど、生きた経済学が好きなのよ」
「はあ」
私たちは、生返事をして、曖昧に頷いた。
 私は、状況をまだよく理解できなかった。ちらっと、バンコックでのことが頭を過ぎった。日大拓友会のOBで日本人会の会長だというF氏の場合。レストランでカレーライスをご馳走になったが、密林の開墾をすすめられた。私たちは、まったくその気がなかった。
―――――――――――――― 13 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.103
 それで、逃げるようにバンコックを後にした。あんなことになりはしないだろうか。そんな疑問と不安が頭の隅にちょっぴりわいた。が、その懸念は、すぐに吹っ飛んだ。
「じゃあ、今晩は、ご馳走にしましょう!」夫人が、うれしそうにベトナム人のメイドの名を呼んだ。「タンさん、タンさん」
 タンさんは、四十歳前後のベトナム人のメイドで、先生宅で、三人の食事の用意と、掃除を受け持っていた。片言の英語、クマイ語、日本語、広東語、フランス語が話せるようだ。が、決して自分からは話さず、いつも笑顔で両手を合わせて話しを聞き、わからないところだけ英語かクマイ語で聞き返した。小学生の娘が一人いると聞いた。
 タンさんの他に、クメール人、カンボジア人のことだが、もう一人運転手がいた。先生は、日常は自分で運転していたが、週に何回か役所に行くときは彼が送っていた。三十五ぐらいの色の黒い小男で、いつも薄笑いを浮かべて話した。その表情がどこか狡賢そうで、いい印象をもてなかった。アメリカ帰りで英語が少し話せるということで雇われていた。先生は英語が流暢だったが、この国は、五年前までフランス語を母国語としていた。それで英語を話す人が少なかった。彼は、私たちが先生宅の食客になったことを快く思わなかった。特に英語が少しできて気が強いA君には、敵愾心を抱いたようだ。先生が公用で出かけるとき、ときどき私たちも途中まで同乗することがあった。彼にとって、若い私たちを乗せて運転するのは嫌だったようだ。先生は、ときどきA君に運転をすすめたが、運転の得意なA君に、ハンドルをにぎられるのは、尚、嫌だったようだ。それが原因と想像できるが、後になって彼は私たちを、この国から追い出すよう密告していた。おかげで、私たちは一度、東京に戻って長期滞在ビザを収得しなければならない羽目になった。しかし、皮肉にも、そのことが私たちを救ったことにもなった。いわば命の恩人ということだ。
 この運転手君、シナタという名前だが、映画『座頭市』のファンで、なぜか私と二人だけになると、映画の話しをしたがった。彼の知っているだけの数少ない日本語の語彙と、私の覚えている、これも数少ない英語の単語の組み合わせのやりとりから想像すると、彼は、座頭市を日本に本当にいた歴史上の人物と思いこんでいて、どうしたら目の見えない者が、あのように強くなれるのかを知りたがった。もっとも、このことは当時のたいていのカンボジア人がそうであった。プノンペンにある映画館では柔道映画が大人気で、『花の講道館』や『任侠柔一代』などが上映されていて、柔道も映画のように人を空高く投げ飛ばせると思っていた。空手も、人気で、政府高官からシクロの運転手に至るまで習いたがっていた。もっとも、指導者もいなかったし、場所もなかったようだ。このとき、プノンペンには、講道館から派遣された柔道家が一人いたが、空手家はいなかった。もう少し、この運転手君の話をしよう。彼、シナタが密告していた相手は、現政権の秘密警察だった。(当時、日本政府は、米軍との関係で現政府寄りではなかった)ところが70年3月にクーデターによって政権が変わると、彼は素早く米国と国交を結んだ新政権側につき、アメリカ帰りを売り物に軍事物資の商売で大もうけしたらしい。高級車に乗って先生宅に現れたそうだ。が、75年4月ポルポト以降の彼の消息は知らない。抜け目のない彼のことだ、あの恐怖時代も生き延びたような気がする。
「バザールで買物して、ベンコックを散歩して、それから夕食。にぎやかにね」
夫人は、子供のようにはしゃいでいた。
 はじめは、表面上、そうみせているのかと思ったが、本当に、根っからの少女のような素直な性格の人だった。この時代、外国で生活するのはエリートだった。アメリカでもヨーロッパでも、海外に住む日本人たちはその国国で特権意識を持ち格式ばった閉鎖社会をつくっていた。アフリカや東南アジアでは、人数が少ないだけ、より強固な閉鎖社会ができていた。子供のような無邪気な夫人は、その中に入れなかった。日本人の閉鎖社会は、夫の身分によって地位が決まっていた。たいていは、大使夫人か領事人が中心となり、大使館員の奥さん、一流企業の社員やその連れ合いとつづくのである。しかし、この国では、夫人、つまり先生の奥さんが顔をだすと、その強固な社会構造が崩れてしまうらしい。というのも、先生の身
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分が、あきらかでないせいであった。日本では、貿易商と報じられた先生の仕事は、この国では、政府経済省の顧問だった。そのころソン・ブン・コンというフランス帰りの経済企画庁長官を指導していた。長官は、郊外の大邸宅には美人のフランス人妻と、子供たちと暮らしていた。私たちも何度か遊びに行った。彼は、空手に興味をもっていて、プノンペンに指導者がいないことを残念がった。誰か紹介してほしいというので、インドネシアで師範をしている友人に遊びにきてはどうかと手紙を書いた。
 話が逸れた。先生の仕事のことだった。確かに独裁社会主義国の主、シアヌーク殿下は鎮座していたが、実際の政治は若手の官僚や政治家が動かしていた。そして、その彼らが慕い相談するのは、いつもT先生だった。先生は、突然、この国に現れて、日本大使館には、なんの相談もなくこの国の政治の中枢にはいりこんだのである。現地滞在の日本人は、苦々しく思った。が、現状を変えることはできなかった。元学長というT氏は何者。誰もが謎に思っていたらしい。表向きの職名は、コロンボ・プランの派遣職員だったが、外国人要人専用の高級アパートに婦人と秘書と住み、突然来訪した不明の二人の日本人若者をも空き部屋に泊めることの権限は、いったいどこからでるものか。外務省でも分からぬことだった。Y女史の話によると、先生たちがプノンペンに住むようになって暫くして、それまで胡散臭く思っていたこの国の閉鎖社会の日本人たちをあきらめさせる出来事が東京で起こったという。
 それは首相官邸で晩餐会が開かれたときのことである。首相が大使たちに声をかけ、その国の事情を直接聞く順番は、当然であるが米国、英国、欧州といった先進諸国の順である。が、その夜に限って、順序が違った。いまではどうか知らないが、そのころカンボジアといっても一般の人は、どこにあるのかもよく知らなかった。加えて独裁社会主義体制という日本とは縁のない政治国である。大使は首相に声をかけられても最後のほうで、しかも挨拶程度と思っていた。ところが、そのとき日本政界において絶大な政治力をもっていた首相、佐藤栄作は、早くにカンボジア大使のところにくるとこう尋ねたという。
「Tさんは、お元気ですか」
 はじめ大使は、だれのことかわからなかった。が、すぐ頭に浮かんだ。Tは、謎の人物の、元学長しかいない。驚いていると
「佐藤が、よろしくと伝えてください」首相は、そう言って去って行った。
 その言葉は社交辞令ではなく、親しい友人のことを話すようだった。大使は、呆然と見送ったが首相とTの関係を受け容れるしかなかった。謎は、いっそう深まったが、先生の立場は、インドシナにおいて日本の外交官とは別なところにあることが判明した。もっとも、そのことがすべてわかるのは1970年3月まで待たねばならなかった。
 そうした事情と夫人の性格もあって、夫人は、プノンペンの日本人社会とは付き合わなかったが、代わりに、この国に嫁いできた日本人妻たちと、親しくしていた。彼女たちには、私たちも大変世話になった。が、悲しいことにほとんどの人たちが、あのポルポト時代に犠牲者となってしまった。
 その日の夕方、私たち5人は、先生の運転するくるまで、バザールに行き、ジャポンと呼ぶサンダルと腰に巻く布サロンを買ってベンコックに行った。ベンコックはプノンペンの街となりにある大きな沼で、大勢の市民が夕涼みにきていた。釣りをしている人もいた。魚かとおもったらカエルを釣っていた。食べるためらしい。その夜のタンさんの料理は、シチューと、牛の脳の揚げものだった。東京生まれのA君は、脳とわかって悲鳴をあげ、皆の爆笑をかった。にぎやかにプノンペンの夜はふけた。
「この本、読んでこの国のこと勉強しなさいよ」
寝る前、部屋に入るときY女史から一冊の本を渡された。
 11年前に出版された本だった。小高親著 近藤書店 昭和33年発行 230円
『物語 カンボジア史』
~ 夢と神秘の国の歴史ものがたり ~
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新聞記事紹介 20008年5月24日朝日新聞夕刊
漱石「幻の講演」
  
旧満州、地元紙にあった 「人間は三様」文明観説く
 
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.103―――――――16 ―――――――――――
掲示板
提出原稿について
○ 車内観察 → 電車の車内で観察したこと(創作・事実どちらでも)
○ 1日の記録 → 自分の1日を観察する(自分のことをどれだけ晒せるか)
○ 社会観察 → 社会の出来事を観察、自分の意見もいれてみる
○ 生き物観察 → 人間、動物、草木、生あるものすべての観察(宇宙人の目で)
 締め切りはありません。書けた人は、どんどん提出し、皆の評価をみてみましょう。何事も切磋琢磨です。
ゼミ誌・課題・その他+提出原稿(2×)+出席(1×)=評価(60~120)
ドストエフスキー情報
6月14日(土) : 全作品を読む会「読書会」 会場は東京芸術劇場第一会議室
           作品『悪霊』3回目 報告者・金村 繁氏 
8月 9日(土) : 全作品を読む会「読書会」暑気払い。「『悪霊』払い祭り」
               会場は東京芸術劇場第一会議室
出版
 ☆復刻版・岩波写真文庫『農村の婦人』6月発売
☆新刊・熊谷元一白寿記念写真集『信州 昭和の原風景』一草舎2200円
★話題・下原敏彦著『伊那谷少年記』鳥影社
 理論社 2008・3・21 定価1200
★文・藤井誠二 マンガ・武富健治『「悪いこと」したらどうなるの?』
  ★山下聖美『国文学4』「ケータイ小説 クリエイターの卵たちはどう読むか」
★福井勝也著『日本近代文学の〈終焉〉とドストエフスキー』
      のべる出版企画 2008・1・10
★芦川進一著『「罪と罰」における復活』河合文化研究所・河合出版2007
★清水 正著『ドストエフスキー論全集1』D文学研究会2007
★下原敏彦著『ドストエフスキーを読みながら』鳥影社2006
★国文学別冊『ギャンブル』下原敏彦・文「ドストエフスキーとギャンブル」
演劇
劇団「昴」公演『ジュリアス・シーザー』あうるすぽっと(豊島区舞台交流センター)
6月19日~29日(日) 訳・福田恒存 演出・ニコラス・バーター                                  
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編集室便り
☆「2008年、読書と創作の旅」内容は、本通信に掲載します。
☆ 原稿、歓迎します。学校で直接手渡すか、下記の郵便住所かメール先に送ってください。
 「下原ゼミ通信」編集室宛
  住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
☆本通信はHP「土壌館創作道場」に掲載されています。

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