文芸研究Ⅲ 下原ゼミ通信No.21

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2019年(令和元年)11月12日発行

文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信No.21

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
9/24 10/1 10/8 10/15 10/22 10/29 11/12 11/19 11/26 12/3 12/10 12/17 1/7 1/14 1/21 
観察から創作へ

2019年ゼミⅢ読書と創作の旅

11・12下原ゼミ

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10・29ゼミⅢゼミ雑誌編集経過報告 入稿近し

 10月29日(火)は、ゼミⅢ雑誌原稿の最終締め切り日。あと1名連絡とれず。この日の参加は、西村、山本、志津木、吉田。
平成の殺人鬼の記事 人間の謎
4日読売新聞の三面に座間9人遺体事件(平成の殺人鬼)の取材記事があった。2017年10月30日、神奈川県座間市のアパートで若い女性8人と男性1人の遺体が見つかった。犯人は、その部屋の住人白石隆浩被告(29)「自殺の手伝いします」こんなネット呼びかけに次々集まってきた8人の女性(15~26歳)と恋人を探しに来た男性1人をロープなどで殺害、現金強奪。強制性交殺人、死体損壊の罪で起訴されていた。記者の取材にたいし死刑は「しょうがない」と答えたという。8月死体を片づけようともせず犯行を重ねた被告。火に飛び込む夏の虫のように被告のアパートに行った女性たち。人間の謎を思う。
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ゼミ誌『是溢市(ぜみし)』提出原稿収集状況

ゼミ誌原稿、10月29日までに寄せられた原稿とタイトル。西村編集長はじめ尽力された皆さまには、ご苦労様でした。

吉田飛鳥  童話『カラガラ丘』山

志津木喜一 官能小説『団地妻』

中谷璃稀 創作『馬鹿者たち』

西村美穂 創作『ふぞろいのラプソディ』

山本美空 創作『時は金なり愉快なり』

佐俣光彩 創作『繁華街』

松野優作

東風杏奈

神尾 颯

ゼミ雑誌編集 10/29現在までに決まっていること  

③確定見積もり書提出 → 11/22(金)迄に
④ a.請求書提出
  b.納品書提出
  c.発行の冊子5部 紹介文(100字)を添えて大学編集局に提出
12月6日(金)締切

後期ゼミ 口演と朗読の予定

口演 ・脚本化で読むドストエフスキー原作『罪と罰』
「金貸し老婆とその妹強盗殺人事件裁判」公判第1回 ~ 第5回
   ・脚本化で演じる冨田常雄原作『姿三四郎』 「獅子と白菊」
   ・脚本化で読む名作 ヘミングウェイ原作『殺し屋』
    
朗読 ・『ひがんさの山』四谷大塚中学入試問題実施
   ・『コロスケのいた森』大阪府立高校入試国語問題実施 
埼玉県立高校入試国語問題実施
   ・『山びこ学校』感想レポート
   
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連載1回
ドストエフスキーと私 

 本論は、2006年、ドストエーフスキイの会例会で下原が報告した論文です。本論は、その後、会誌『ドストエーフスキイ「広場 16号」』に掲載された。また2011年に出版された下原康子との共著『ドストエフスキーを読みつづけて』にも収録された。
 後期は、ドストエフスキー『罪と罰』脚本化を口演稽古していきますが、ドストエフスキーとは何かを知るために、本論も併せて読んでいきます。

柳の下にどじょうはなぜ多いのか

二十一世紀になってもドストエフスキーは読まれている。書籍も、毎年、新刊本が相次いで出版されている。なぜドストエフスキーの読者は後を絶たないのか。トルストイもゲーテも、バルザックも年々、読まれなくなっている。にもかかわらず一人ドストエフスキーだけは、脈々と読みつづけられている。研究においても「柳の下にいつも泥鰌は居らぬ」はずなのに、ドストエフスキーに限って二匹目どころか何匹でも、出てくるのである。この作家に関する出版物をネットで検索すると、確かにその多さがわかるというもの。二00六年だけでも数冊はくだらない。なぜドストエフスキーだけがこのように読まれ研究されるのか。「人間は神秘です。それは解き当てなければならないものです。(米川正夫訳)」と書いたのはこの作家である。さすれば、この現象も神秘といえる。探究するに値する。と、いうことで平成18年最後の第177回例会報告は、この疑問の解明をテーマにした。
「団塊世代とドストエフスキー」と題して報告した。

※団塊世代とは昭和22年~24年に生まれた人たち。(終戦直後の増加)
 
一 ドストエフスキーのススメ
     (一) 
 なぜドストエフスキーは、読みつづけられるのか。この謎を探る前段階として、なぜロシア文学は日本に受け容れられたのか ―― からはじめたい。ロシア文学が初めて日本に紹介された経路と日本文学に浸透した理由などを簡単に検証してみた。
 まずロシア文学が、日本に入ってきたのは、明治以後であるが、そのへんの事情は故新谷敬三郎(早大教授)の著書『ドストエフスキイと日本文学』(海燕書房1976)に詳しく書かれている。抜粋だが経路について本書では、このように推察されている。

 日本にロシア文学が継続的、多少とも組織的に入ってきて、何らかの役割を果たすようになるのは明治以後、ほぼ一八八○年からである。ロシア文学移入の経路は、明治、大正期においては、大別して三つ考えられる。(一)東京外国語学校、(二)ニコライ神学校、(三)丸善、である。(「日本におけるロシア文学」)

 明治維新後、文明開化した日本に西洋文化が濁流のようにどっと流れ込んできた。文学においても例外ではなかった。翻訳ものがあふれるなかで、文学はおよそこの三つの経路からだという。そこにはロシア文学に限らずドイツ文学やフランス文学もあったに違いない。しかし、日本の文学者が興味を示したのはロシア文学だけだった。なぜゾラ、モーパッサン、ゲーテ、ディッケンズといった並み居る文豪たちではなかったのか。そのところについても、このように述べられている。
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…日本の文学がロシア文学を知り、それを受け容れ始めたのは、ヨーロッパで近代が終わり現代が始まろうとする変化のときで、そのヨーロッパの諸文学にロシア文学が意味を持ちはじめ、ロシア文学もまた生まれ変わろうとしていたときであった。そのとき、日本では、ロシア文学を受け容れるのに、大別して二つの態度が生まれた。それはひと口でいえば、(一)十九世紀的ロシア、とくにナロードニキ的心情を指向する態度、(二)象徴主義の胎から生まれた二十世紀的ヨーロッパの知性を指向する態度、である。この二つの指向性は、ほとんど今日に至るまでのロシア文学自体にも見られ、その創作の原動力となっている。…

 ロシア文学が、真綿に浸み込む水のように日本文学に浸透した。その要因は、当時のロシアと日本が似通った国情にあったと、著者は指摘する。「ナロードニキ的心情とヨーロッパの知性を指向する態度」この二つの態度があったからだと分析している。また「この二つの指向性は、ほとんど今日に至るまでのロシア文学自体にも見られ、その創作の原動力となっている。」とする見方は、今回の副テーマ「柳の下のドジョウの謎」を思うと興味深いものがある。
 このような受け容れ条件はあるが、それにしても世界から見ると日本人のロシア文学好き、ドストエフスキー好きは、特出している。なぜ日本人は、かくもロシア文学を好むのか、ドストエフスキーを読むのか。ドストエフスキーという柳の下には、常に何度でも二匹目のドジョウが現れるのか。この現象の謎についてドストエーフスキイの会代表・木下豊房氏は、その著書『近代日本文学とドストエフスキー』(成文社1993)のあとがきで、このように触れられている。抜粋紹介

 ロシアの…評論家のカリャーキンを、1985年にモスクワの自宅に訪ねた時には、彼はトルストイの戦争と平和を比較して、『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』に見られる「突然(ヴドゥルク)」という言葉の頁毎の頻出度を赤の棒グラフで視覚的に示す図表を見せてくれた。そして日本人がドストエフスキーをよく理解する理由として、自分の推定を次のように語った。
 日本人はドストエフスキーの小説に頻発する「突然(ヴドゥルク)」の危機に、歴史的に絶えず脅かされてきたのではないだろうか。例えば地震、原爆、第二次大戦後の価値転換など。19世紀には、ドストエフスキーが「プーシキン演説」でのべているように、ロシアが全世界的なものを理解する受容能力を持っていたが、現在では日本がそうではないのか、と。…

 このカリャーキンの推測について著者は
こうした説明に私達が納得させられるかどうかはともかくとして…
と、断りながらもこのように解説されている。
 …日本人とドストエフスキーというテーマは、私達自身の自己認識の切り口として、無視できない価値を持っているように思われる。むろん私達が自分の内部の目で見つめたドストエフスキーとの出会いは、カリャーキンの指摘よりもはるかに複雑で屈折した様相を呈しているにちがいない。なぜ日本人がドストエフスキーを愛読するかという問いに、一義的な解答をあたえることはおそらく困難であろう。しかしドストエフスキーの読者には世代間の共有体験があって、それが出発点になっていることを指摘することは出来るかもしれない。私のドストエフスキーとの出会いもまた、この世代的な特徴を帯びているように思われる。…
としてご自身の、きっかけをこう述べられている。
私が昭和30年代の大学時代、ドストエフスキーのとりこになったのも、スターリン批判、ハンガリー事件などの後の学生運動の状況と無縁ではなかった。
 
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六十年安保闘争の時代で全学連運動最中の体験ということになる。
 ロシア文学によって知らされた「私」の発見というか認識は、それまで集団・連帯主義的社会で生きてきた日本人にとって衝撃だった。その発見は日本人の心に知性の喜びを与えたが、一種トラウマともなった。最近観た映画『三丁目の夕陽』のなかで文学青年が自転車修理店の親父と喧嘩する場面がある。文学青年は、何々「したこともないくせに!」と生活態度を罵られ悔し紛れに「ロシア文学も読んでないくせに」と罵り返す場面がある。ロシア文学を読んでいない。いまではどうか知らないが、かつては文学を志す者にとって、この罵声はかなりインパクトを持つものだったのかも知れない。想像するに1800年代のロシアでは、「フランス文学もしらないくせに」が同義語的だった。兄ミハイルへの手紙に、よく「あなたはラシーヌを読みましたか」とか「お読みなさい、哀れな人、読んでコルネーユの足下に跪きなさい」などといった文面を見かける。日本におけるロシア文学観は、それと同じ現象だったのかも知れない。

       (二)
 新谷敬三郎著『ドストエフスキイと日本文学』によると、日本に最初に紹介されたロシア文学は、トルストイ、カラムジン、プーシキンなどの作品であった。が、このなかからドストエフスキーは突出してきたようである。本書のなかで
 …ロシア文学でいえば、もっぱらドストエフスキイであった。
と述べている。ドストエフスキー読者としては歓迎すべきことではあるが、著者は、その受け容れ様には、不満を持っていて、つづけてこのように皮肉っている。

 しかもそれは現代ヨーロッパの知性に照射されたドストエフスキイであった。この二つの課題は戦後にまで持ちこされたので、というのも、昭和の初年に青春をすごした世代、例えば「近代文学」の人たち、が戦後文学の最初の担い手となったからだが、そこでドストエフスキイの思想と表現は、彼らの激変に耐えて屈折した意識のなかで、さらにそれに感染した次の世代のなかで、もっぱら信念更生(転向)の物語が強調されて、折角昭和十年前後に提出された伝統や文明の問題は後景に押しやられ、むしろタブー視され、民衆文化や国民文化の問題、ロシアでいえばナロードの問題にすりかえられてしまった。実をいうと、ヨーロッパの近代の理念に対して伝統や文明の問題を提起したことこそ十九世紀ロシアの思想と文学の独創であったのに。

 ドストエフスキーの作品は、全人類の幸せと世界の調和を目指して書かれたものである。それなのに、後々までも「転向」物語として強調されてきたことに、著者は地団駄する思いをみせている。が、ここではテーマが違うのでこの点は考えないことにする。
 ドストエフスキーは、明治二十五(1882)年に内田魯庵によって『罪と罰』が英語訳から重訳された。というから、移入経路は、おそらく丸善あたりかも知れない。一番最初の本をみると印刷明治二十五年十一月四日、出版十一月十日となっている。この名作の余りに有名な出だしを少し紹介すると、記念すべき第一作のはじまりはこのようである。

小説 罪と罰 上篇 第一回
 七月上旬或る蒸暑き晩方の事、S……「ぺレウーロク」(横町)の五階造りの家の道具附の小坐敷から一少年が突進して狐疑逡巡の体でK……橋の方へのツそり出掛けた。
 
この作品のすごさは、小説としての面白さもあるが、ストーリー展開のなかで読者に向けられた人間社会の作り方にもある。一人を救うために後の九十九人を犠牲にできるのか。九十九人を救うために一人を犠牲にできるのか。人類に提起された永遠の問題である。はじめて訳して読んだ内田魯庵は、そのときの感想をこのように書いている。

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 恰(あたか)も曠野に落雷に会ふて眼眩(くらめ)き耳聾(ろう)ひたる如き、今までに曽(かっ)てない甚深の感動を与えられた。(「二葉亭余談」)

 この衝撃と感動は、これ以降、文学者から文学者にと受け継がれてきた。その波紋は、明治、大正、昭和、平成と止まることはない。

       (三)
 明治から現在まで、ドストエフスキーがよく読まれた――よく研究された、ということは、研究者や読者が周囲や次世代に熱心に薦めた、ということでもある。ドストエフスキーの名前は出てこないが、東京外国語学校の授業でロシア文学をススメていたというこんな記述がある。(明治四十二年六月「新小説」、岩波版『二葉亭四迷全集』第九巻所収、同級生大田黒五郎「種々なる思ひ出」から)

 …上級になると、ロシアの有名な小説家を教えられる。ロシア人が二人いて、一人はコレンコ、もう一人はアメリカへ亡命したグレー、このグレーが大変朗読が上手でテキストがたくさんないから先生が読んできかす。トルストイ、カラムジン、プーシキンなどの作品を生徒は黙ってきいていて、読み終わると、その小説に現れた主人公の性格を批評したリポートを提出する。先生がそれを見て直してくれる。(『ドストエフスキイと日本文学』)

 当時このように授業で、積極的にロシア文学をススメル、ロシア人教師もいたようだ。当然、ドストエフスキーをススメル人もいたはずである。一八六一年に函館に派遣されてきたイワン・ドミトリエヴィチ・カサトキン(のちのニコライ大主教1836-1912)は明治五年(1872年)に東京へきて、神田駿河台に居を定め伝道学校を設立するが、

 このニコライ大主教自身、文学の愛好者で、とくにゴーゴリ、ドストエフスキイを読むことをすすめた。(『ドストエフスキイと日本文学』)

※このニコライについては、前期ゼミで『ニコライの見た幕末日本』(講談社学術文庫)「神道とはどのようなものか」を朗読してもらった。ニコライの『古事記』解釈。

とあるから、日本でのドストエフスキーのススメは、この伝道学校が発信地ということになる。明治二十九年にニコライの正教神学校に入学した昇曙夢(1878-1959)も『虐げられし人びと』(大正三年 新潮社)を訳したりしてドストエフスキーのススメに尽力した。このように、最初、伝道・神学校の生徒からはじまったドストエフスキーのススメは、その後、神学校から離れ、文学を志す者たちの間に広まっていった。
「ドストエフスキーを読みなさい」戦前の作家たちは、よくこんな言葉を口にした。多くの文学者がドストエフスキーについての記述を残している。川端康成は、訪ねてくる文学青年たちに誰彼となくドストエフスキーをススメていたという。例えば『いのちの初夜』の北條民雄には、繰り返しこのようにススメていた。
□川端康成から北條民雄への書簡 (『北條民雄全集』)

 …先づドストエフスキイ、トルストイ、ゲェテなど読み、文壇小説は読まぬこと。…(S10・11・17)。三笠書房のドストエフスキイ全集新版(46版)には、特製本がありますか、あなたの特製本といふのは旧菊版のことぢゃないでせうか。新版は旧版の改訳訂正版ゆえ、本は粗末でも、新版の方がよいのです。新旧版とも訳のよいのもありませうが、新版の方が大分よくなっているのです。新版に特製本あるか否か調べ、あれば買ひ送ります。…(S11・10・31)。三笠のド全集、小生旅中おくれましたが、まだそちらでお買ひにならぬなら、手配します。…(S11・11・30)
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 ハンセン病のため東村山の病院にいた北條は川端の、このススメによって励まされた。これを受けて北條も、次のような手紙を何通も出している。
□北條民雄から川端康成への書簡 (『北條民雄全集』)

 村山でみつちりトルストイとドストエフスキーを研究するつもりです。(6・23)
 ドストエフスキーとトルストイに没頭しやうと思ってをります。(6・26)

 北條は川端のススメを真摯に受けとめ、熱心にドストエフスキーを読みつづけた。白樺派の作家たちもそうであったが、尾崎士郎、宇野千代、室生犀星ら馬込村の作家たちはドストエフスキーをよく読みよくススメた人たちだった。が、この時代のススメは、多分に文学を志すものにのみに向かってのススメだったように思われる。「文学をやるのなら、ドストエフスキーを読みなさい」。戦前戦後を通じ、当時のドストエフスキーのススメは、こんな文壇的仲間意識からのススメであったように思われる。
 もっともドストエフスキーのススメは、文学者だけでなく、心理学者、哲学者、犯罪学者、そして科学者といった異なった専門分野内においてもススメられた。例えばアインシュタインの「彼はどんな思想家よりも多くのものを、すなわちガウスよりも多くのものを私に与えてくれる」といった言葉や「結局、本棚に最後に残った本はドストエフスキーだった」という湯川秀樹の述懐は、科学を目指す若者へのススメになったに違いない。
 このように明治から各分野にススメられていったドストエフスキーだが、そのススメは戦前戦後まで、繰り返しになるがあくまでも文学仲間だけの内輪のススメであったように思える。市井の読者は、孤独に読み人知れず消えていくだけであった。シベリア抑留体験をドストエフスキーの『死の家の記録』になぞらえた『死の家の記録 シベリア捕虜収容所・四年間の断想』(西田書店1989)の作者蝦名熊夫もそうした名もなき一市民であった。昭和二十七年自宅で「もうすこし生きていたかった。もうすこし…ドストエフスキー…」と絶叫して三十六歳の短い生涯を終えた。兄のドストエフスキー熱を惜しんで大学教授だった弟の蝦名賢造氏が原稿を編纂三十五年後に本書を出版した。孤独な読みでしかなかった。戦前戦後を通し、一市民のドストエフスキー読者は、荒海に浮かぶ木の葉のように、寄るべき舟なく、岸辺もなく漂うしかなかった。が、ついに一般市民にススメが向けられることになる。
 ドストエフスキー作品を、もっと広く多くの人々に読んでもらいたい。一般社会の人たちにススメたい。そんな目的で発足したのが「ドストエーフスキイの会」である。発起人の故新谷敬三郎先生と現・会代表の木下豊房氏が創案された「発足のことば」というのが1969年3月25日に発行された会報1号に載っている。読まれていない方も多いと思う。「初心忘るべからず」ということで、全文そんなに長いものではないので、ここで紹介したい。

(次号につづく)
読書会のお知らせ ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」

月 日 : 2020年1月11日(土) 開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室(池袋西口徒歩3分)
 作 品  :『カラマーゾフの兄弟』5回目 報告者 : フリートーク

         ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」

月 日 : 2020年2月29日(土) 開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室(池袋西口徒歩3分)
 作 品  :『カラマーゾフの兄弟』6回目 報告者 : フリートーク
連絡090-2764-6052下原 メール:toshihiko@shimohara.net
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2019年度下原ゼミⅢ後期出欠記録
        
・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 掲示板 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

熊谷元一研究情報

法政大学国際文化学部のお知らせ

伊那谷の映像を観る会の第5回目は、以下を予定しています。
あくまでも内部学習会の位置づけですので、「参加」を事前ご連絡の上、どうぞお出でください。当日は祝日ですが、法政大は通常の授業日です。

●日時:11月23日(土)15:00~18:00
●会場:法政大学 市ヶ谷キャンパス ボアソナードタワー3階 BT0300教室
●テーマ:熊谷元一―教師・写真家・童画家の三足の草鞋を履いて
●内容:熊谷元一(1909~2010年)は現在の阿智村に生まれ、児童画を描いて武井武雄に認められます。同時に、阿智村の何気ない日常生活を写真で記録し続け、また教師として生徒一人一人の個性を伸ばし、性格に合った指導をするためにも、写真を有効に活用します。そうした教師・写真家・童画家としての三足の草鞋を履き、101歳まで活躍した熊谷元一について、その活動やそれが現在の私たちに語りかけるものを、関連する映像を観ながらともに考えます。著名な写真集『一年生』(岩波写真文庫)に登場し、恩師熊谷元一を顕彰する活動を続けている下原敏彦氏にも当日、会場にお越しいただく予定です。

具体的には、以下のような作品の上映を予定しています。

熊谷元一の絵を使った伊那谷のふるさと歳時記/阿智村の変貌する昭和史を熊谷元一の写真で構成した番組/熊谷元一自らが教え子たちのその後を追った番組/三足の草鞋を履いた熊谷元一が残したものを考える番組、など

 明治以後のわが国知識人の精神史に、ドストエーフスキイ文学のあたえた影響は、今日にいたるもその持続度と深さにおいて、他に類をみないものがある。それだけわたしたちの精神とこの19世紀ロシアの作家との対話の歴史は古い。いわばそこには一つの精神の潮流のごときものが形成され、そこにかもされる渦や流れの形は時代とともに変わってきた。しかしその変化をつくりだしてきたものは歴史のまにまに漂う精神の惰性ではなかった。それは常に源流に向かって遡ろうとする精神の姿勢であり、時代の変転の中で人間の根源的なものへ問いかけようとするまなざしであった。
 今わたしたちが共有している精神史のなかに、わたしたちは故米川正夫氏のドストエーフスキイ全集の訳業をはじめとして、数々の人たちによる作品や研究の翻訳、あるいは数多くのすぐれたドストエーフスキイ論、あるいは「私のドストエーフスキイ」を持っているであろう。
 こうしたわたしたち一人一人のドストエーフスキイとの長い対話の歴史のなかで、今日その広場をさらにひろげ、その質を高めるために、この作家を愛好する人々相互の、生き生きとした自由の結びつきを必要としないであろうか。この作家へのおのおのの問いかけを提示しあうことによって、現代に生きるわたしたち自身の精神の相貌を明らかにするために、ドストエーフスキイをあいだにはさんだ対話を必要としないであろうか。
 「ドストエーフスキイの会」は以上のような欲求を持って自発的に寄りつどった人びとの自由な集まりである。
                       ドストエーフスキイの会

 一般社会の人たちに呼びかけたこの「発足のことば」は感動的である。このススメによって当時、青春の最中にあった多勢の団塊世代はドストエフスキーを知り読むようになったであろうことは想像にかたくない。これによってドストエフスキーのススメは、小道から大道へと踏み出したのである。その意味で「ドストエーフスキイの会」の発足は、社会的にも文学的にも画期的出来事であったといえる。
 発足以来「ドストエーフスキイの会」開催は、毎回新聞の催し欄で紹介されていた。発足した一九七十年前後は、革命の嵐がまだ吹き荒れて予測不能な世界だった。混沌としたこの時代にあって「ドストエーフスキイの会」は、進むべき道を模索する人たちの一つの道標となった。日本でドストエフスキーと市民との真の対話は、このときから始まったといっても過言ではない。
       (四)
 社会の人々に向けてのドストエフスキーのススメ――この行為は、既にロシアで実行されていた。「いまこそドストエフスキーを読まなければならない」と聴衆に訴えていた人がいるのである。いまから六九年前、一九三八年「ソヴェト文学の敵」と断罪されて共産主義アカデミーから追放されたロシアの文芸批評家、文学史家ヴァレリャン・フョードロヴィチ・ペレヴェルゼ(1882-1968)である。おそらくこの文芸批評家が世界ではじめてドストエフスキーのススメを発信した人ではなかったろうか。一九一七年にロシアに革命が起きた。ゴーリキー(1868-1936)はむろんチェーホフ(1841-1904)も密かに待望していた革命である。すべての人びとが平等で幸せになる。そんな楽園社会をつくるという世紀の大実験。世界中の人々は期待と不安をもって注目した。資本家や王様は恐れ、労働者や知識層は歓迎した。ペレヴェルゼフ自身、ハリコフ大学在学中に革命運動に参加、一九〇五年に逮捕されシベリヤ流刑になっている。それだけに革命の成就は感無量なものがあったに違いない。
 しかし革命から五年が過ぎたとき、ペレヴェルゼフの心に疑念が生じた。何か変だ・・・。これが、すべての人が平等で幸福になれる社会か。いや違う!この社会はドストエフスキーが描いた『悪霊』に近づきつつある世界ではないか。そんな不吉な予見を感じはじめていた。そのへんはロシアの研究者ではないのでわからない。が、作家・長瀬隆訳のペレヴェルゼフ著『ドストエフスキーの創造』(「わが結語」「ドストエフスキーと革命」)を読むとそんな感想を持つた。ペレヴェルゼフの心にわいた不安。彼は、人びとにドストエフスキーをススメることによって、その不安を広く知らそうとした。やがてくる悪夢を防ごうとした。ペレヴェルゼフのドストエフスキーのススメの抜粋を紹介します。
 一九二二年 … それはドストエフスキーの生誕100年にあたる年であった。革命後、社会主義アカデミー(後の共産主義アカデミー)の会員に選ばれていたペレヴェルゼフは、その記念集会で基調報告ともいうべき「ドストエフスキーと革命」という講演を行った。(訳者・長瀬隆)
ドストエフスキーと革命
…ドストエフスキーは依然として現代の作家であり、この作家の創作のなかで展開されている諸問題は今日まだ解決を見ておらず、したがって、ドストエフスキーについて語るということは、、依然として、今日の生活のもっとも痛切にして深刻な諸問題について語るということになるのだ。偉大な革命の竜巻にわしづかみにされ、それによって提起された諸課題の渦中で奔走し、情熱的かつ痛切に革命の悲劇の全変転に対処しつつ、私たちはドストエフスキーのうちに自分自身を見いだすのであり、彼のうちに、あたかも作家が私たちとともに革命の雷鳴を聞いているかのように、革命の峻烈な問題の提起を認めるのである。…予言者であろうがなかろうが、ドストエフスキーが革命の心理的世界を深く知っていたこと、彼が生きていた当時はもちろん、いな、革命の日々においても多くの者が予想だにしなかったことを、革命に先立って彼がそのうちに鮮明に見ていたことを――これは議論の余地のない事実である。…革命の日々にドストエフスキーを想起しなければならないのは、ただたんに生誕百年歳にあたるからではない。革命そのもののため、革命の自己認識のためなのだ。ドストエフスキーの革命への態度は、指を口にくわえてぽかんと傍観しているのではなく、積極的に革命を意味づけようと努めつつ、現下の諸問題に対処しているすべての人々の深く研究しなければならぬものなのである。
 ペレヴェルゼフは、革命政府のドストエフスキー非難を精一杯、擁護しながらも、講演最後に、なぜドストエフスキーを読まなければならないかを、こう締めくくっている。自身の危険を顧みずに。
 …息づまる革命の広範な心服に酔いしれることなく、そのめくるめく失敗によって恐慌におちいることなく、革命の雷雨にあって思考の明晰と平静な確信を保持し、革命のありとあらゆる変転に正しく対処しようとする私たちを、ドストエフスキーは援けてくれるのである。小市民的革命性の心理のもっとも秘められた隅々を私たちに知らしめることによって、ドストエフスキーはその狡猾な力にたやすく騙されない心がまえを培い、現下の革命の過程におけるもっとも急激な変転に対処しうる者たらしむるのだ。小市民的勢力の圧力がとくに強く、プロレタリアートの波濤がこの勢力に強く呑みこまれた現下においてこそ、ドストエフスキーを想起し、革命ロシアの心理分析に捧げられた彼の洞察に満ちた深刻なページを再読することは、まことに適切にして時宜に適ったことといえよう。1922年 モスクワ
 しかし、ペレヴェルゼフの深刻な訴えは聴衆に届かなかった。その警鐘は、革命の嵐にかき消された。そうしてロシアと世界は『悪霊』への道をひた走ることになる。粛清と収容所国家への道。だが、企業は国家のもの、計画経済、競争生産はしない、の絵に描いた理想は、世界の多くの人たちから歓迎された。彼は、そんな激動の世界を眺めながら四七年後の一九六八年に没した。その死から二十三年後、一九九一年ソ連が崩壊するのを知る由もなかった。もちろん日本人とて同じであった。ペレヴェルゼフが亡くなった時代は、依然として社会主義への願望は高かった。革命の嵐は、世界のいたるところでくすぶりつづけていた。二00六年末、南米チリの独裁者ピノチェトが寿命を全うしたが、当時は、チリの社会党党首が大統領に当選する勢いにあった。ベトナム戦争を社会主義革命の一端として捉えることもできた。ポルポトの台頭も歓迎していた。そして、あの拉致国家をまだ見ぬ楽園とみていた。世界は革命を賞賛し社会主義国家の実現をメディアを含めて知識層は待ち焦がれていた。
 こうした世界情勢と社会状況での中で「ドストエーフスキイの会」は発足した。偶然か意識してかまるで、前年に亡くなったペレヴェルゼフに手向けるように、である。新聞に掲載された「ドストエーフスキイの会」のススメは、同時期に青春にあった多くの団塊世代を引き寄せた。会場は常に満席だったという。世界稀に見る一般市民に呼びかけたドストエフスキーのススメは、大成功のうちにはじまったのである。ちなみに私は昭和二十二年一月三日生まれであることから団塊世代の旗持ちともいえる。
 ドストエフスキーのススメは、ロシアでは革命直後一九二二年のペレヴェルゼフの講演からはじまった。日本では内田魯庵によって明治二十五年から受け継がれ、
…大正期、昭和10年前後、戦後、そして昭和40~50年代と…
                (木下豊房著『ドストエフスキーその対話的世界』)
幾度もススメの成果ともいえる隆盛期があった。
 が、戦後までは、文学者間のススメだった。市民へのススメとなったのは、昭和四十年~五十年の戦後第二期隆盛期においてであった。多分に一九六九年に発足した「ドストエーフスキイの会」が大いに貢献していると想像する。の発足でようやく市井の人びとへのススメとなった。そうして、それは平成十八年の今日までつづいている。

 完

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