文芸研究Ⅲ 下原ゼミ通信No.22

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2019年(令和元年)11月19日発行

文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信No.22

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
9/24 10/1 10/8 10/15 10/22 10/29 11/12 11/19 11/26 12/3 12/10 12/17 1/7 1/14 1/21 
観察から創作へ

2019年ゼミⅢ読書と創作の旅

11・19下原ゼミ

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11・12ゼミⅢの授業報告 

 11月12日(火)は、ゼミ雑誌『是溢市(ぜみし)』作成会議。表紙などの選択。この日の参加は、西村、吉田、中谷。
人間の謎         1970年11月25日の記憶 
11月25日が近づくと、またぞろ一部の右翼系の人たちが、息を吹き返す。半世紀も前の、あの陰惨な事件を、さも思想的、政治的であるかのように祭り上げる。あの事件とは、1970年11月25日、作家の三島由紀夫が、自前の兵隊(学生)4人を連れ市ヶ谷自衛隊で、隊員たちにクーデターを呼び掛けたが、だれも同調せず、若者一人を道連れに自殺した事件だ。  文才は国宝級だが、一般常識においては、幼すぎる精神を持った大人。三島由紀夫をそう評する人もいる。が、当時、私は、この作家についてあまり知らなかった。あの日、小春日和りの空にヘリコプターがうるさく飛んでいた。新宿駅6番ホームで見上げていた。
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本日のゼミ、出版編集室で

本日。11月21日のゼミは、出版編集室に集合です。各自のゲラチェック、修正点は、その場で直してください。(ゼミ雑誌編集長)

―ゼミ誌『是溢市(ぜみし)』―

吉田飛鳥  童話『カラガラ丘』山

志津木喜一 (仮)官能小説『団地妻』

中谷璃稀 創作『馬鹿者たち』

西村美穂 創作『ふぞろいのラプソディ』

山本美空 創作『時は金なり愉快なり』

佐俣光彩 創作『繁華街』

松野優作

東風杏奈

神尾 颯

ゼミ雑誌出版に向けて今後の事務作業  

③確定見積もり書提出 → 11/22(金)迄に

④ a.請求書提出
  b.納品書提出
  c.発行の冊子5部 紹介文(100字)を添えて大学編集局に提出
12月6日(金)締切

今後のゼミ予定 口演と朗読 

今後のゼミは、卒論準備と併せて、主にドストエフスキーの『罪と罰』の脚本化を口演していきます。ほかに、児童文学作品の朗読も。

口 演 : 脚本化で読むドストエフスキーの『罪と罰』

「金貸し老婆とその妹強盗殺人事件裁判」公判第1回 ~ 第5回
   
    朗 読 四谷大塚中学入試問題作品
    大阪府立高校入試国語問題作品 
埼玉県立高校入試国語問題作品
    
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連載2回
ドストエフスキーと私 

 本論は、2006年、ドストエーフスキイの会例会で下原が報告した論文です。本論は、その後、会誌『ドストエーフスキイ「広場 16号」』に掲載された。また2011年に出版された下原康子との共著『ドストエフスキーを読みつづけて』にも収録された。
 後期は、ドストエフスキー『罪と罰』脚本化を口演稽古していきますが、ドストエフスキーとは何かを知るために、本論も併せて読んでいきます。

(三)
ドストエフスキー作品を、もっと広く多くの人々に読んでもらいたい。一般社会の人たちにススメたい。そんな目的で発足したのが「ドストエーフスキイの会」である。発起人の故新谷敬三郎先生と現・会代表の木下豊房氏が創案された「発足のことば」というのが1969年3月25日に発行された会報1号に載っている。読まれていない方も多いと思う。「初心忘るべからず」ということで、全文そんなに長いものではないので、ここで紹介したい。

明治以後のわが国知識人の精神史に、ドストエーフスキイ文学のあたえた影響は、今日にいたるもその持続度と深さにおいて、他に類をみないものがある。それだけわたしたちの精神とこの19世紀ロシアの作家との対話の歴史は古い。いわばそこには一つの精神の潮流のごときものが形成され、そこにかもされる渦や流れの形は時代とともに変わってきた。しかしその変化をつくりだしてきたものは歴史のまにまに漂う精神の惰性ではなかった。それは常に源流に向かって遡ろうとする精神の姿勢であり、時代の変転の中で人間の根源的なものへ問いかけようとするまなざしであった。
 今わたしたちが共有している精神史のなかに、わたしたちは故米川正夫氏のドストエーフスキイ全集の訳業をはじめとして、数々の人たちによる作品や研究の翻訳、あるいは数多くのすぐれたドストエーフスキイ論、あるいは「私のドストエーフスキイ」を持っているであろう。
 こうしたわたしたち一人一人のドストエーフスキイとの長い対話の歴史のなかで、今日その広場をさらにひろげ、その質を高めるために、この作家を愛好する人々相互の、生き生きとした自由の結びつきを必要としないであろうか。この作家へのおのおのの問いかけを提示しあうことによって、現代に生きるわたしたち自身の精神の相貌を明らかにするために、ドストエーフスキイをあいだにはさんだ対話を必要としないであろうか。
 「ドストエーフスキイの会」は以上のような欲求を持って自発的に寄りつどった人びとの自由な集まりである。
                       ドストエーフスキイの会

 一般社会の人たちに呼びかけたこの「発足のことば」は感動的である。このススメによって当時、青春の最中にあった多勢の団塊世代はドストエフスキーを知り読むようになったであろうことは想像にかたくない。これによってドストエフスキーのススメは、小道から大道へと踏み出したのである。その意味で「ドストエーフスキイの会」の発足は、社会的にも文学的にも画期的出来事であったといえる。
 発足以来「ドストエーフスキイの会」開催は、毎回新聞の催し欄で紹介されていた。発足した一九七十年前後は、革命の嵐がまだ吹き荒れて予測不能な世界だった。混沌としたこの時代にあって「ドストエーフスキイの会」は、進むべき道を模索する人たちの一つの道標と
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なった。日本でドストエフスキーと市民との真の対話は、このときから始まったといっても過言ではない。
       (四)
 社会の人々に向けてのドストエフスキーのススメ――この行為は、既にロシアで実行されていた。「いまこそドストエフスキーを読まなければならない」と聴衆に訴えていた人がいるのである。いまから六九年前、一九三八年「ソヴェト文学の敵」と断罪されて共産主義アカデミーから追放されたロシアの文芸批評家、文学史家ヴァレリャン・フョードロヴィチ・ペレヴェルゼ(1882-1968)である。おそらくこの文芸批評家が世界ではじめてドストエフスキーのススメを発信した人ではなかったろうか。一九一七年にロシアに革命が起きた。ゴーリキー(1868-1936)はむろんチェーホフ(1841-1904)も密かに待望していた革命である。すべての人びとが平等で幸せになる。そんな楽園社会をつくるという世紀の大実験。世界中の人々は期待と不安をもって注目した。資本家や王様は恐れ、労働者や知識層は歓迎した。ペレヴェルゼフ自身、ハリコフ大学在学中に革命運動に参加、一九〇五年に逮捕されシベリヤ流刑になっている。それだけに革命の成就は感無量なものがあったに違いない。
 しかし革命から五年が過ぎたとき、ペレヴェルゼフの心に疑念が生じた。何か変だ・・・。これが、すべての人が平等で幸福になれる社会か。いや違う!この社会はドストエフスキーが描いた『悪霊』に近づきつつある世界ではないか。そんな不吉な予見を感じはじめていた。そのへんはロシアの研究者ではないのでわからない。が、作家・長瀬隆訳のペレヴェルゼフ著『ドストエフスキーの創造』(「わが結語」「ドストエフスキーと革命」)を読むとそんな感想を持つた。ペレヴェルゼフの心にわいた不安。彼は、人びとにドストエフスキーをススメることによって、その不安を広く知らそうとした。やがてくる悪夢を防ごうとした。ペレヴェルゼフのドストエフスキーのススメの抜粋を紹介します。
 一九二二年 … それはドストエフスキーの生誕100年にあたる年であった。革命後、社会主義アカデミー(後の共産主義アカデミー)の会員に選ばれていたペレヴェルゼフは、その記念集会で基調報告ともいうべき「ドストエフスキーと革命」という講演を行った。(訳者・長瀬隆)
ドストエフスキーと革命
…ドストエフスキーは依然として現代の作家であり、この作家の創作のなかで展開されている諸問題は今日まだ解決を見ておらず、したがって、ドストエフスキーについて語るということは、、依然として、今日の生活のもっとも痛切にして深刻な諸問題について語るということになるのだ。偉大な革命の竜巻にわしづかみにされ、それによって提起された諸課題の渦中で奔走し、情熱的かつ痛切に革命の悲劇の全変転に対処しつつ、私たちはドストエフスキーのうちに自分自身を見いだすのであり、彼のうちに、あたかも作家が私たちとともに革命の雷鳴を聞いているかのように、革命の峻烈な問題の提起を認めるのである。…予言者であろうがなかろうが、ドストエフスキーが革命の心理的世界を深く知っていたこと、彼が生きていた当時はもちろん、いな、革命の日々においても多くの者が予想だにしなかったことを、革命に先立って彼がそのうちに鮮明に見ていたことを――これは議論の余地のない事実である。…革命の日々にドストエフスキーを想起しなければならないのは、ただたんに生誕百年歳にあたるからではない。革命そのもののため、革命の自己認識のためなのだ。ドストエフスキーの革命への態度は、指を口にくわえてぽかんと傍観しているのではなく、積極的に革命を意味づけようと努めつつ、現下の諸問題に対処しているすべての人々の深く研究しなければならぬものなのである。
 ペレヴェルゼフは、革命政府のドストエフスキー非難を精一杯、擁護しながらも、講演最後に、なぜドストエフスキーを読まなければならないかを、こう締めくくっている。自身の危険を顧みずに。
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 …息づまる革命の広範な心服に酔いしれることなく、そのめくるめく失敗によって恐慌におちいることなく、革命の雷雨にあって思考の明晰と平静な確信を保持し、革命のありとあらゆる変転に正しく対処しようとする私たちを、ドストエフスキーは援けてくれるのである。小市民的革命性の心理のもっとも秘められた隅々を私たちに知らしめることによって、ドストエフスキーはその狡猾な力にたやすく騙されない心がまえを培い、現下の革命の過程におけるもっとも急激な変転に対処しうる者たらしむるのだ。小市民的勢力の圧力がとくに強く、プロレタリアートの波濤がこの勢力に強く呑みこまれた現下においてこそ、ドストエフスキーを想起し、革命ロシアの心理分析に捧げられた彼の洞察に満ちた深刻なページを再読することは、まことに適切にして時宜に適ったことといえよう。1922年 モスクワ

 しかし、ペレヴェルゼフの深刻な訴えは聴衆に届かなかった。その警鐘は、革命の嵐にかき消された。そうしてロシアと世界は『悪霊』への道をひた走ることになる。粛清と収容所国家への道。だが、企業は国家のもの、計画経済、競争生産はしない、の絵に描いた理想は、世界の多くの人たちから歓迎された。彼は、そんな激動の世界を眺めながら四七年後の一九六八年に没した。その死から二十三年後、一九九一年ソ連が崩壊するのを知る由もなかった。もちろん日本人とて同じであった。ペレヴェルゼフが亡くなった時代は、依然として社会主義への願望は高かった。革命の嵐は、世界のいたるところでくすぶりつづけていた。二00六年末、南米チリの独裁者ピノチェトが寿命を全うしたが、当時は、チリの社会党党首が大統領に当選する勢いにあった。ベトナム戦争を社会主義革命の一端として捉えることもできた。ポルポトの台頭も歓迎していた。そして、あの拉致国家をまだ見ぬ楽園とみていた。世界は革命を賞賛し社会主義国家の実現をメディアを含めて知識層は待ち焦がれていた。
 こうした世界情勢と社会状況での中で「ドストエーフスキイの会」は発足した。偶然か意識してかまるで、前年に亡くなったペレヴェルゼフに手向けるように、である。新聞に掲載された「ドストエーフスキイの会」のススメは、同時期に青春にあった多くの団塊世代を引き寄せた。会場は常に満席だったという。世界稀に見る一般市民に呼びかけたドストエフスキーのススメは、大成功のうちにはじまったのである。ちなみに私は昭和二十二年一月三日生まれであることから団塊世代の旗持ちともいえる。
 ドストエフスキーのススメは、ロシアでは革命直後一九二二年のペレヴェルゼフの講演からはじまった。日本では内田魯庵によって明治二十五年から受け継がれ、
…大正期、昭和10年前後、戦後、そして昭和40~50年代と…
                (木下豊房著『ドストエフスキーその対話的世界』)
幾度もススメの成果ともいえる隆盛期があった。
 が、戦後までは、文学者間のススメだった。市民へのススメとなったのは、昭和四十年~五十年の戦後第二期隆盛期においてであった。多分に一九六九年に発足した「ドストエーフスキイの会」が大いに貢献していると想像する。の発足でようやく市井の人びとへのススメとなった。そうして、それは平成十八年の今日までつづいている。

 完
1970年この年、どんな年

11月25日が近づくと、あの事件を思い出す。1970年は、忘れられない年だった。大阪万博、よど号ハイジャックなど大きな出来事、事件がつづいた。だが半世紀もたつと、それらほとんどは忘れ去られている。そんななかで、いまだ集まりがつづいている事件の会がある。11月25日に切腹自殺した作家三島由紀夫の会だ。もっとも集まる人は作品の愛読者ではなく右翼思想的に憑かれた人たちときく。
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今年も11月25日が近づいた。「下原ゼミ通信」編集室は、あの事件を、どのように思ってきたか、見てきたか。これまで、発表してきたものを紹介する。前期、『江古田文学』で発表した「三島事件とドストエフスキー」を朗読した。ここでは「ドストエーフスキイの会」会報98、会誌『場』、著作『ドストエフスキーを読みながら』2006年

『ドストエフスキーを読みながら』「第三章ドストエフスキーの人たち」から

16年目に見えてきたこと 1986年に想う

あれから十六年。今、なぜ三島由紀夫か、これまでの「ドストエーフスキイの会」会報を繰って見ても不思議と三島に関する論評が見当らない。なぜか。あの全世界に衝撃波を走らせた三島の死は当時発足二年目にあって意気揚々としていた新生ドスエーフスキイ会にとって格好の孝材ではなかったか。現にその年の事務局だよりには、「ドスト文学を手がかりに問いつめよう」と意欲のあるところをみせている。
しかしながら今日までついに会では、三島は論じられることがなかった。対照的に巷には彼に関する記事や出版物が横溢した。ハリウッド製作の映画にまでなった。このように多方面から言及されつづけているにも拘らずドストエーフスキイの会でのかくも長き沈黙はいったい何故か。
ドストエフスキーの執刀をもってすれば如なる人間の深層心理をも腑分けでき垣間見ることができる――そう信じる読者にとって大いなる疑問は無理からぬところである。が、ここであらためて客観的に回顧検証してみるとその理由がわかる気がする。多分、当時は三島は湖水に落ちたばかりの石であったのだろう。舞いあがった塵芥が水を濁していてその位置を確めるには辛抱強く待つしかなかったのだ。こう解釈すれば納得できる。然るに今、十六年の歳月を得て徐々に澄みつつあると見る。で、もはや語り尽されたかもしれない三島像をドストエフスキー的見地から(と言っても独断ではあるが)想像してみたくなったのである。
はじめに三島は、学生時代、どれほどドストエフスキーに憑かれていたか、である。が、深化についての実証は不可能である。そこで、目に見えるものから想像して行きたい。まず両者を結ぶものはどこにあるのか。生前三島はドストエフスキーについて多くを語ってはいない。が、真っ先に思い浮かぶのは、三島の代表作『仮面の告白』の序文を『カラマーゾフの兄弟』の一節で長々と飾っていることだろう。またある作家との対談の中で真の小説家はドストエフスキーと言う話になって三島は二度までもうれしそうにわが意を得たりといわんばかりに「そうだ」と領いていることもある。
こうしたちょっとした所に彼のなみなみならぬドスエフスキー熱が感じられる。もっともこんな風に勝手に推量できるのは、折りよくあの事件直後にドスエフスキー体験できた者からかも知れない。
もしドストエフスキーを読まなかったら三島由起夫という作家のことなど永久に考えこともなかったに違いない。私にとってドスト体験以前の三島は時代錯誤な思想を持った、それでいて倒錯した性を感じる何やらグロテスクな薄気味の悪い有名人に他ならなかった。むろんあの事件はその見方を広げただけである。ところが、ドストエフスキー体験で変化した。三島は、それまでの作りあげた肉体美を誇らし気に見せるピエロではなかった。そこには絶望の淵に佇む孤独な芸術家がいた。良質の種を持ちながら撒くべき土壌を持てなかった貧しき農夫がいた。瞳若してこのように三島像を感じたとき、やはり三島もドストエフスキーに向かっていたのだ、と確信した。以前、三島は出版社
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のインタビューで好きな小説家はと問われてトーマス・マンと即答している。これまで幾重にも虚飾の言動をめぐらせてきた作家だけに信じがたいが、ドストエフスキーと答えなかったのは多くの憑かれた人たちがそうであるように彼もまたその名をロにするのを憚ったのだろう。ドストエフスキー体験者にとって、ドストエフスキーは常に事物の対象外であったりする。ドストエフスキーを読むということは自分だけの秘密でもあるのだ。閉された幼年時代を送ったと言われる三島はもしかしてドストエフスキーだけが唯一人の友であり話し相手であったのかも知れない。思えばそのことが形を見る前に魂を知ってしまう、といった人生を遡航するような生涯になってしまったのでは。
青春期、彼は一度だけ自分のドストを他者と語ってみたい衝動に解られたことがある。太宰治との会見をそうとるのはあまりに空想的過ぎるだろうか・・・。
ともあれ彼が太宰を訪ねたのは事実である。三島はその時の情景を季節の記憶も定かでないと断わりながらも克明に記している。会うのに懐ろにヒ首をのんで出かけるテロリスト的心境と豪語しているが、おそらくはそんな勇ましさより、故郷を同じくするものを訪ねる心境に近かったのでは。太宰は、大流行作家ではなく竹馬の友なのだ。なつかしく語り合いたい。そんな思いがあったに違いない。
しかし、その期待は見事に裏切られた。会席は彼が思い描いていたような場所でも雰囲気でもなかった。大ぜいの人が居並んで酒宴を開いていたのだ。とても故郷の話をする場所ではなかった。このときの三島の言葉を借りれば、「ひどく甘ったれた空気が漂っていた」のだ。はじめて知遇を得ようとした人から盃をもらいながらも若き三島の胸中は失望と後悔で溢れていた。「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」煮えノ湯を飲まされた思いで吐露したこの一言は用意してきたものではなくその場で咄嗟に出た言葉ではなかったか。そして本当はこう捨て台詞叶きたかったのでは「あなたはドストエフスキーなんか、これっぽちもわかっていない」と。「そのキリスト気取りの顔」、そう毒づくなかに勝手にではあるが信じていた者に裏切られた三島の口惜しさが汲取れる。
以後、彼は懐にドスをしのばせた刺客になろうとはしなかった。かわりにそのドスをひたすら自分の心の奥に向けていった。それは刀剣愛好家が倉の隅で名刀をこっそりほくそ笑んで眺めるような、屈折した固執した対話ではなかったか。それによって三島の精神はより孤独に研ぎ澄まされていった。が、それはまた悲劇の序章でもあった。ドストエフスキー文学は、あくまでも魂の自由の尊厳にある。にもかかわらず、三島の文学は、太宰同様、人間を追い詰める不自由な文学となってしまったのだ。
もはや、ドストエフスキーに通じる道はない。暗たんたる絶望のなかで三島が思いついたことはもう一度人生を元に戻すことだった。金ビカの衣装を脱ぎ捨てて初心に帰る。三島の好んだ行動学とやらはここから生まれたのかも。そうすれば世間をア然とさせた彼の奇異な生活のすべてが理解できる。三島はドストエフスキーへの旅を目指していた
のだ。虚飾を重ねることは彼の言う行動のためのぜんまいを巻くことだった。若者たちを集めてデパートの屋上で奇妙な軍事行進練習をしていたのは、この目的実行のためだったのか。
そしてあの日、三島はついに巻ききったぜんまいを解き放した。行動ははじまったら止まらない。むろんゆるみきった最終地は計画通り死である。がしかし最終地はもう一点あった。生か死の二点である。生はドストへの門であり、死は文字通り死である。当然彼の選択は生であったはず、それがあの計画のすべてであったのだ。
荒唐無樺な発想かもしれないが彼は撃肘されることを信じていた。もしかして銃口から生還したドストのあの茶番を演ずる余裕すらあったかも-そこまで空想の羽をのばせないとしても切先を脇腹に突き刺す間まで生への望みを捨てなかったと誰が否定できよう。部屋の外には多勢の兵士が突入の合図を待っている。生も死も彼等の掌中にあ
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るのだ。その緊迫の中で最後の五分間どう過したろうか。脳裡に浮んだものは…脇差を前にした榎本武揚か、いやそうではなく装填しながらもまだこの決闘が信じきれずに彼方に目をやるかのロシアの大詩人だったろうか。
しかし使者は来ず拳銃は発され、俸大な詩人は死んだ。だが彼はドアが蹴破られ雪崩れこんでくる勇者に賭けたろう。1849年12月22日、晴れ渡った白銀のセミョーノフ処刑場。雪を蹴散らして届いた中止命令。あの瞬間、ドストエフスキーが味わった感動を自分も味わいたい。誰でもいい一足たりと踏み込んでくれたら即座に白刃を投げ捨てるのに。『金閣寺』の主人公溝口がカルチモソの瓶を谷底めがけて投げたほどあっさりと。生きのびたらまず煙草を吸ってみょう、うまいだろう・・・小春日和りの光の中で彼はそんな夢に酔いしれたかも。だがしかしつぎの瞬間、彼の首に衝撃が走った。二度、三度と醜くほとばしるは落ちた。彼は死を乗り超えて人生をやり直すことはできなかった。
けれど、もう飾ることのない永遠の安らぎを得たかもしれない。三島と親交のあったへソリー・スコット=ストークスは事件の報を開いたとき阻止できなかった自分を責めた。「友達を見捨てた私の罪は許すべからざるものである」(『三島由紀夫 死と真実』1985)と。その悲痛な叫びはなぜか彼を救えなかった我々日本人に向けられているような気もする。そしてまたその念は偉大なる詩人をむざむざ死に至らしめてしまったロシアの貴族社会に対するドストエフスキーの怒号ともとれるのはいささかこじつけだろうか。
とまれ同氏は自著『死と真実』の終りにこう述べている。「人間としても作家としても彼と共通点の多いジイドになぞらえられるようになるかもしれない」と。この言葉はドストエフスキーと三島とを結ぶ手がかりになるような気がする。 完
(「ドストエーフスキイの会」、会報から)

2019年度下原ゼミⅢ後期出欠記録

()は提出課題レポート
  
・志津木喜一 9/24  欠  10/8 欠   欠   10/29  欠                  
  前期4/14
・神尾 颯  欠   ―  ―
  前期8/14
・松野 優作 9/24 欠   欠   欠   10/22     欠
  前期2/14
・西村 美穂 9/24 10/1 10/8 欠   10/22 10/29 11/12
  前期14/14
・吉田 飛鳥 9/24 10/1 欠   欠   10/22 10/29 11/12
  前期14/14  (1)
・中谷 璃稀 9/24 10/1 10/8 10/15 10/22    11/12
  前期13/14  (1)
・佐俣 光彩  欠   欠   欠   欠   欠   欠   欠
  前期6/14
・東風 杏奈  欠   欠   欠   欠   欠
  前期4/14
・山本 美空  欠   欠   欠  欠   欠   10/29  欠
  前期7/14
        6   3  1  4   4   4   3
       

(次号につづく)
読書会のお知らせ ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」

月 日 : 2020年1月11日(土) 開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室(池袋西口徒歩3分)
 作 品  :『カラマーゾフの兄弟』5回目 報告者 : フリートーク

         ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」

月 日 : 2020年2月29日(土) 開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室(池袋西口徒歩3分)
 作 品  :『カラマーゾフの兄弟』6回目 報告者 : フリートーク
連絡090-2764-6052下原 メール:toshihiko@shimohara.net

 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 掲示板 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

熊谷元一研究情報

法政大学国際文化学部のお知らせ

伊那谷の映像を観る会の第5回目は、以下を予定しています。
あくまでも内部学習会の位置づけですので、「参加」を事前ご連絡の上、どうぞお出でください。当日は祝日ですが、法政大は通常の授業日です。

●日時:11月23日(土)15:00~18:00
●会場:法政大学 市ヶ谷キャンパス ボアソナードタワー3階 BT0300教室
●テーマ:熊谷元一―教師・写真家・童画家の三足の草鞋を履いて
●内容:熊谷元一(1909~2010年)は現在の阿智村に生まれ、児童画を描いて武井武雄に認められます。同時に、阿智村の何気ない日常生活を写真で記録し続け、また教師として生徒一人一人の個性を伸ばし、性格に合った指導をするためにも、写真を有効に活用します。そうした教師・写真家・童画家としての三足の草鞋を履き、101歳まで活躍した熊谷元一について、その活動やそれが現在の私たちに語りかけるものを、関連する映像を観ながらともに考えます。著名な写真集『一年生』(岩波写真文庫)に登場し、恩師熊谷元一を顕彰する活動を続けている下原敏彦氏にも当日、会場にお越しいただく予定です。

具体的には、以下のような作品の上映を予定しています。

熊谷元一の絵を使った伊那谷のふるさと歳時記/阿智村の変貌する昭和史を熊谷元一の写真で構成した番組/熊谷元一自らが教え子たちのその後を追った番組/三足の草鞋を履いた熊谷元一が残したものを考える番組、など

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