文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.385

公開日: 

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日本大学藝術学部文芸学科     2019年(令和元年)11月12日発行

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.385

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
9/24 10/1 10/8 10/15 10/22 10/29 11/12 11/19 11/26 12/3 12/10 12/17 1/7 1/14 1/21 
観察と記録

2019年読書と創作の旅

11・12下原ゼミ

2019年度読書と創作の旅同行者です。8人の仲間です。
宇治京香  安室翔偉  梅田惟花  佐久間琴莉 (松野優作) 伊東舞七
大森ダリア  佐藤央康 (7名参加の日撮影)

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10・29ゼミ報告 入稿完了

10月29日(火)は、ゼミ雑誌原稿の最終締め切り日。8名全員提出で入稿完了とのこと。ゲラ待ち。この日の参加は、宇治、佐久間、佐藤、安室、大森。
平成の殺人鬼その後 人間の謎
4日読売新聞の三面に座間9人遺体事件(平成の殺人鬼)の取材記事があった。2017年10月30日、神奈川県座間市のアパートで若い女性8人と男性1人の遺体が見つかった。犯人は、その部屋の住人白石隆浩被告(29)「自殺の手伝いします」こんなネット呼びかけに次々集まってきた8人の女性(15~26歳)と恋人を探しに来た男性1人をロープなどで殺害、現金強奪。強制性交殺人、死体損壊の罪で起訴されている。被告は逮捕されたとき「本気で自殺したい子はいなかった」とうそぶいた。今回も記者の取材にたいし死刑は「しょうがない」と答えたという。人間は謎だ。
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ゼミ観察  2019年後期前半、同行者出欠

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後期ゼミ 口演と朗読 予定作品

ドストエフスキー『罪と罰』 志賀直哉

口演 ・脚本化で読む志賀直哉『范の犯罪』
・脚本化で読むドストエフスキー原作『罪と罰』
「金貸し老婆とその妹強盗殺人事件裁判」公判第1回 ~ 第5回
   ・脚本化で演じる冨田常雄原作『姿三四郎』 「獅子と白菊」
   ・脚本化で読む名作 ヘミングウェイ原作『殺し屋』
    
朗読 ・『ひがんさの山』四谷大塚中学入試問題実施
   ・『コロスケのいた森』大阪府立高校入試国語問題実施 
埼玉県立高校入試国語問題実施
   ・『山びこ学校』感想レポート

    ・志賀直哉生き物作品
    ・サローヤン短編
 

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ゼミ雑誌『暗夜光路』原稿提出報告

 宇治編集長から、入稿の報告がありました。

※編集長の宇治さんには、前期は緊急手術入院、後期は地元箱根が台風被害と、思ってもみない多大の災難に見舞われたにも関わらずゼミ誌ガイダンス参加はじめ、編集会議、原稿催促などに奔走してくれました。感謝です。

梅田惟花創作『ホームで会いましょう』

佐藤央康 創作『八月十三日』『八月十四日』『八月十五日』

お盆の三日間を『十三日』「迎え火」「葬式」「進路」「帰り道」「思い出」
        『十四日』「待ち合わせ」「将来」「彼女」
        『十五日』(十六日?)「映画」「送り火」

佐久間琴莉 創作『幼い報復の先」

伊東舞七 詩編『ナツのオモイデ』

大森ダリア『ヤマトナデシコ』

安室翔偉 創作『自殺コンサルタント』

松野優作 マンガ

宇治京香 創作『アンビバレンス』

ゼミ雑誌編集 11/15 ~ 刊行まで  

③確定見積もり書提出 → 11/22(金)迄に

④ a.請求書提出
  b.納品書提出
  c.発行の冊子5部 紹介文(100字)を添えて大学編集局に提出

12月6日(金)締切です!!

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1970年この年、どんな年

11月25日が近づくと、あの事件を思い出す。1970年は、忘れられない年だった。大阪万博、よど号ハイジャックなど大きな出来事、事件がつづいた。だが半世紀もたつと、それらほとんどは忘れ去られている。そんななかで、いまだ集まりがつづいている事件の会がある。11月25日に切腹自殺した作家三島由紀夫の会だ。マスコミも集まる人は作品の愛読者ではなく思想的に憑かれた人たちときく。
今年も11月25日が近づいた。「下原ゼミ通信」編集室は、あの事件を、どのように思ってきたか、見てきたか。これまで、発表してきたものを紹介する。
前期、『江古田文学』で発表した「三島事件とドストエフスキー」を朗読した。ここでは「ドストエーフスキイの会」会報98、会誌『場』、著作『ドストエフスキーを読みながら』2006年

『ドストエフスキーを読みながら』「第三章ドストエフスキーの人たち」から

16年目に見えてきたこと 1986年に想う

あれから十六年。今、なぜ三島由紀夫か、これまでの「ドストエーフスキイの会」会報を繰って見ても不思議と三島に関する論評が見当らない。なぜか。あの全世界に衝撃波を走らせた三島の死は当時発足二年目にあって意気揚々としていた新生ドスエーフスキイ会にとって格好の孝材ではなかったか。現にその年の事務局だよりには、「ドスト文学を手がかりに問いつめよう」と意欲のあるところをみせている。
しかしながら今日までついに会では、三島は論じられることがなかった。対照的に巷には彼に関する記事や出版物が横溢した。ハリウッド製作の映画にまでなった。このように多方面から言及されつづけているにも拘らずドストエーフスキイの会でのかくも長き沈黙はいったい何故か。
ドストエフスキーの執刀をもってすれば如なる人間の深層心理をも腑分けでき垣間見ることができる――そう信じる読者にとって大いなる疑問は無理からぬところである。が、ここであらためて客観的に回顧検証してみるとその理由がわかる気がする。多分、当時は三島は湖水に落ちたばかりの石であったのだろう。舞いあがった塵芥が水を濁していてその位置を確めるには辛抱強く待つしかなかったのだ。こう解釈すれば納得できる。然るに今、十六年の歳月を得て徐々に澄みつつあると見る。で、もはや語り尽されたかもしれない三島像をドストエフスキー的見地から(と言っても独断ではあるが)想像してみたくなったのである。
はじめに三島は、学生時代、どれほどドストエフスキーに憑かれていたか、である。が、深化についての実証は不可能である。そこで、目に見えるものから想像して行きたい。まず両者を結ぶものはどこにあるのか。生前三島はドストエフスキーについて多くを語ってはいない。が、真っ先に思い浮かぶのは、三島の代表作『仮面の告白』の序文を『カラマーゾフの兄弟』の一節で長々と飾っていることだろう。またある作家との対談の中で真の小説家はドストエフスキーと言う話になって三島は二度までもうれしそうにわが意を得たりといわんばかりに「そうだ」と領いていることもある。
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こうしたちょっとした所に彼のなみなみならぬドスエフスキー熱が感じられる。もっともこんな風に勝手に推量できるのは、折りよくあの事件直後にドスエフスキー体験できた者からかも知れない。
もしドストエフスキーを読まなかったら三島由起夫という作家のことなど永久に考えこともなかったに違いない。私にとってドスト体験以前の三島は時代錯誤な思想を持った、それでいて倒錯した性を感じる何やらグロテスクな薄気味の悪い有名人に他ならなかった。むろんあの事件はその見方を広げただけである。ところが、ドストエフスキー体験で変化した。三島は、それまでの作りあげた肉体美を誇らし気に見せるピエロではなかった。そこには絶望の淵に佇む孤独な芸術家がいた。良質の種を持ちながら撒くべき土壌を持てなかった貧しき農夫がいた。瞳若してこのように三島像を感じたとき、やはり三島もドストエフスキーに向かっていたのだ、と確信した。以前、三島は出版社のインタビューで好きな小説家はと問われてトーマス・マンと即答している。これまで幾重にも虚飾の言動をめぐらせてきた作家だけに信じがたいが、ドストエフスキーと答えなかったのは多くの憑かれた人たちがそうであるように彼もまたその名をロにするのを憚ったのだろう。ドストエフスキー体験者にとって、ドストエフスキーは常に事物の対象外であったりする。ドストエフスキーを読むということは自分だけの秘密でもあるのだ。閉された幼年時代を送ったと言われる三島はもしかしてドストエフスキーだけが唯一人の友であり話し相手であったのかも知れない。思えばそのことが形を見る前に魂を知ってしまう、といった人生を遡航するような生涯になってしまったのでは。
青春期、彼は一度だけ自分のドストを他者と語ってみたい衝動に解られたことがある。太宰治との会見をそうとるのはあまりに空想的過ぎるだろうか・・・。
ともあれ彼が太宰を訪ねたのは事実である。三島はその時の情景を季節の記憶も定かでないと断わりながらも克明に記している。会うのに懐ろにヒ首をのんで出かけるテロリスト的心境と豪語しているが、おそらくはそんな勇ましさより、故郷を同じくするものを訪ねる心境に近かったのでは。太宰は、大流行作家ではなく竹馬の友なのだ。なつかしく語り合いたい。そんな思いがあったに違いない。
しかし、その期待は見事に裏切られた。会席は彼が思い描いていたような場所でも雰囲気でもなかった。大ぜいの人が居並んで酒宴を開いていたのだ。とても故郷の話をする場所ではなかった。このときの三島の言葉を借りれば、「ひどく甘ったれた空気が漂っていた」のだ。はじめて知遇を得ようとした人から盃をもらいながらも若き三島の胸中は失望と後悔で溢れていた。「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」煮えノ湯を飲まされた思いで吐露したこの一言は用意してきたものではなくその場で咄嗟に出た言葉ではなかったか。そして本当はこう捨て台詞叶きたかったのでは「あなたはドストエフスキーなんか、これっぽちもわかっていない」と。「そのキリスト気取りの顔」、そう毒づくなかに勝手にではあるが信じていた者に裏切られた三島の口惜しさが汲取れる。
以後、彼は懐にドスをしのばせた刺客になろうとはしなかった。かわりにそのドスをひたすら自分の心の奥に向けていった。それは刀剣愛好家が倉の隅で名刀をこっそりほくそ笑んで眺めるような、屈折した固執した対話ではなかったか。それによって三島の精神はより孤独に研ぎ澄まされていった。が、それはまた悲劇の序章でもあった。ドストエフスキー文学は、あくまでも魂の自由の尊厳にある。にもかかわらず、三島の文学は、太宰同様、人間を追い詰める不自由な文学となってしまったのだ。
もはや、ドストエフスキーに通じる道はない。暗たんたる絶望のなかで三島が思いついたことはもう一度人生を元に戻すことだった。金ビカの衣装を脱ぎ捨てて初心に帰る。三島の好んだ行動学とやらはここから生まれたのかも。そうすれば世間をア然とさせた彼の奇異な生活のすべてが理解できる。三島はドストエフスキーへの旅を目指していた
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のだ。虚飾を重ねることは彼の言う行動のためのぜんまいを巻くことだった。若者たちを集めてデパートの屋上で奇妙な軍事行進練習をしていたのは、この目的実行のためだったのか。
そしてあの日、三島はついに巻ききったぜんまいを解き放した。行動ははじまったら止まらない。むろんゆるみきった最終地は計画通り死である。がしかし最終地はもう一点あった。生か死の二点である。生はドストへの門であり、死は文字通り死である。当然彼の選択は生であったはず、それがあの計画のすべてであったのだ。
荒唐無樺な発想かもしれないが彼は撃肘されることを信じていた。もしかして銃口から生還したドストのあの茶番を演ずる余裕すらあったかも-そこまで空想の羽をのばせないとしても切先を脇腹に突き刺す間まで生への望みを捨てなかったと誰が否定できよう。部屋の外には多勢の兵士が突入の合図を待っている。生も死も彼等の掌中にあるのだ。その緊迫の中で最後の五分間どう過したろうか。脳裡に浮んだものは…脇差を前にした榎本武揚か、いやそうではなく装填しながらもまだこの決闘が信じきれずに彼方に目をやるかのロシアの大詩人だったろうか。
しかし使者は来ず拳銃は発され、俸大な詩人は死んだ。だが彼はドアが蹴破られ雪崩れこんでくる勇者に賭けたろう。1849年12月22日、晴れ渡った白銀のセミョーノフ処刑場。雪を蹴散らして届いた中止命令。あの瞬間、ドストエフスキーが味わった感動を自分も味わいたい。誰でもいい一足たりと踏み込んでくれたら即座に白刃を投げ捨てるのに。『金閣寺』の主人公溝口がカルチモソの瓶を谷底めがけて投げたほどあっさりと。生きのびたらまず煙草を吸ってみょう、うまいだろう・・・小春日和りの光の中で彼はそんな夢に酔いしれたかも。だがしかしつぎの瞬間、彼の首に衝撃が走った。二度、三度と醜くほとばしるは落ちた。彼は死を乗り超えて人生をやり直すことはできなかった。
けれど、もう飾ることのない永遠の安らぎを得たかもしれない。三島と親交のあったへソリー・スコット=ストークスは事件の報を開いたとき阻止できなかった自分を責めた。「友達を見捨てた私の罪は許すべからざるものである」(『三島由紀夫 死と真実』1985)と。その悲痛な叫びはなぜか彼を救えなかった我々日本人に向けられているような気もする。そしてまたその念は偉大なる詩人をむざむざ死に至らしめてしまったロシアの貴族社会に対するドストエフスキーの怒号ともとれるのはいささかこじつけだろうか。
とまれ同氏は自著『死と真実』の終りにこう述べている。「人間としても作家としても彼と共通点の多いジイドになぞらえられるようになるかもしれない」と。この言葉はドストエフスキーと三島とを結ぶ手がかりになるような気がする。
                                場四号
清水正著『「仮面の告白」を読む』に寄せて
三島由紀夫は謎の多い作家である。私も個人的に気になる点がいくつかある。そのなかの三点ほどを清水正氏の『仮面の告白』批評を読みながら考えてみた。その三点とは、一つは三島が、いわゆるドストエフスキー作家であったか否か。二つ目は、私が割腹自殺した三島の年齢、つまり四十五歳になったとき、若者を道連れにできるか、大義のために一緒に死んでくれと命ずることができるか否か。三つ目は、三島事件とは完全犯罪だったのか、である。
まず三島由紀夫がドストエフスキー作家であったか否かである。知る限り書かれた本の中に言及したものは少ない。好きな作家はトーマス・マンと答えている。しかし、この作家が師と仰ぐ川端康成は、自分のところに来る文学青年たちに、だれかれとなくドストエフスキーを読みなさいとすすめていたという。また、三島研究の英国人ヘンリー・スコット氏の印象も三島は「アンドレ・ジードになぞらえられるようになるかもしれない」と評している。
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これらの印象から、三島はドストエフスキーを十分知り得ていたと想像つく。それに、なによりも『仮面の告白』の冒頭を『カラマーゾフの兄弟』の引用で長々と飾っているという事実。つまるところ三島由紀夫という作家は、好むと好まざるとに関わらず、ドストエフスキーをびしょ濡れに浴びるほどの環境下にあった。ドストエフスキー作家としての資格は十分に持ちえていたといえる。だがしかし、あの事件を起こしたことで、私のなかで三島は決定的にドストエフスキーと遠い存在となった。今回、三十五年ぶりに三島由紀夫を批評対象にした清水正氏も本論初頭でこう述べている。「第一、文学の天才が若い青年に首を切らせるような真似をするかい」この文が否定の全てである。ドストエフスキーの究極の目的は精神の解放である。他者を救うことはあっても、他者の精神の自由を束縛し、なおかつ肉体までに犠牲を強いることは絶対にない。それ故に長らく収容所国家であったソビエト時代は忌み嫌われてきたのだ。三島はドストエフスキーを読んでいたとしても、その意を汲み取ることはできなかったといえる。
 二つ目は、私が、四十五歳になったとき若者と死ねるか、という問いである。三島事件を知ったとき、私は強い衝撃を受けた。割腹自殺という時代錯誤の死に方に驚愕した。が、それより衝撃が胸のなかにいつまでも残ったのは、一緒に死んだ若者が知人だったからである。二年前、森田必勝君はバイト仲間だった。その頃は政治家になりたいと語っていた。バイトをやめた後、東西線の高田馬場駅で偶然会った。彼は「これから会に行くところだ」といって誘った。私はパスポートをみせて外国に無銭旅行に行くのだといった。私たちは「じゃあ」と別れた。それが最後になった。そして二年後、その死を知った。なぜ三島についていったのか。なぜあんな死に方をしたのか。そんな疑問ばかり先に立った。三島由紀夫のことは、ボディビル好きの作家という以外ほとんど知らなかった。ただ四十五歳という年齢が気になった。著名な流行作家。そんな人間が、人生半ばで、若者と死んでいく。なぜか。二十三歳の私には想像できなかった。その歳になればわかるかも知れない。ぼんやり思った。それから二十一年後、『江古田文学』でドストエフスキーの特集を組んだことがあった。そのとき当時編集長だった清水正氏から原稿を依頼された。森田君への追悼文のつもりで「ドストエフスキーと三島事件」と題したエッセイを書いた。このとき、私は三島由紀夫が死んだ年齢と同じになっていた。自分だったらどう考えるか。非凡人と凡人では、話にならん、といわれればそれまでだが、四十五歳の私の答えは、明白だった。たとえどんなに崇高な大義があったとしても、私は二十歳も年の離れた若者を、しかも自分を信じてついてきている若者を、断じて死なせはしない。終戦末期の特攻隊しかり、現在のイスラム過激派自爆テロ犯しかり。また無理心中の親しかりである。人間は生まれてくるときも死ぬときも一人なのだ。太宰治が情死したときに、志賀直哉は、「死ぬなら何故、一人で死ななかったらうと思った」と感想を述べた。全く同感である。なぜ三島は希望ある若者に生への道を残さなかったのか。「人柄については真面目で、立派な人だと思う。あんなふうに死んだのはそんな事がなければ今でも生きていて、自由に仕事ができたのにと思うと非常に残念な気がする。」と小林多喜二の死を悼んだこれも志賀直哉の言葉が思い出される。あんなことがなければ、森田君は、いまごろ国会で中堅議員として活躍していたかも知れないのだ。私の年は、三島が死んだ年齢からさらに十四年を加えた。前途ある若者を犠牲にするなど、私にはますます考えられなくなっている。人間の精神は、いついかなるときも自由でなければならない。ドストエフスキーはいまも人類に呼びかけている。三つ目は、三島事件は完全犯罪か、である。ドストエフスキーの真髄は懐疑である。百人が百人、千人が千人、同じ意見であったとしても、まず「本当だろうか」と問うところからはじまる。それは、たとえ相手が神であっても変わることはない。三島事件は、作家の日頃の言動や凄惨な結果もあって、ほぼ計画通りに運んだとみられている。つまり完全犯罪だったというわけだ。が、はたして本当にそうだろうか。歴史に「たら」はないが、三島事件の推移には、この禁句があまりに多すぎる。結果的には、二人の割腹自殺で幕を閉じた三島事件。だが、三島が真に夢みたのは、割腹寸前に取り押さえられた惨めな己の姿ではなかったか。
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そもそも三島事件とは、どんな事件だったのか。三島由紀夫と四人の学生が市ヶ谷にある自衛隊東部方面駐屯地へおもむき、総監たちを監禁して自衛隊員に決起を促す。失敗したら皆の見ている前で割腹自殺する、といった筋書きである。計画は実行され決起失敗で、当初の計画通り自殺した。建前的には成功だった。だが、この事件を完全犯罪とみるには疑わしい。衆人環視のなかで、一時間以上も時間をかけて実行する自殺計画。どう考えても完遂率は半分以下としか思えない。もし正門で衛兵が規則通りに刀を預かったら。総監室の小競り合いでもう少し自衛隊員が強かったら。バルコニーから引きずりおろされていたら。割腹前に催涙弾を撃ち込まれていたら。どこで潰えてもおかしくない犯罪計画である。三島は、なぜ実行したのか。『仮面の告白』に「私はただ生まれ変わりたかった」とある。が、事件から想像できるのはその言葉通り、失敗して人生をやり直したかった。三島の真の狙いは計画の完遂ではなく、計画の挫折にあった。「名誉の戦死」を夢みながら、徴兵を逃れることができたように。「武士らしい割腹」を夢みながら、政治犯として収監される。それを見越しての、行動だった。そんな気がしてならないのである。『金閣寺』の最後の場面は、そのことを実証するかのようだ。
「気がつくと体のいたるところに火ぶくれや擦り傷があって血が流れていた。手の指にも、さっき戸を叩いたときの怪我とみえて血が滲んでいた。私は遁れた獣のようにその傷を舐めた。ポケットをさぐると、小刀と手巾に包んだカルチモンの瓶とが出て来た。それを谷底めがけて投げ捨てた。別のポケットの煙草が手に触れた。私は煙草を喫んだ。一ト仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。」
 清水氏は、本論の『仮面の告白』批評で主人公の心情を「死を恐れながらも、死を欲求し、死を欲求しながらも、死を恐れる」と指摘し、その信念のなさを「たとえばドストエフスキーの人物たちのようには生きていない」と切っている。この主人公の頼りなさ、臆病さはどこからきたものか。生後四十九日目にして母親から離された孤独。その一点を照射する本論に作者平岡公威の素顔と三島事件の真相が見え隠れしている。
 以上、三島由紀夫とその事件について不審に思っていたところを、自分なりに推理検証してみた。しかし、これはあくまでも空想の域をでるものではない。これらの問題が清水氏の想像・創造批評によってきちんと解析されることを期待したい。清水氏は「『仮面の告白』の中に三島由紀夫の<死>の秘密は潜んでいたという確信を得た。」としている。

・・・・・・・・・・・・・・掲示板・・・・・・・・・・・・・

法政大学国際文化学部のお知らせ
伊那谷の映像を観る会の第5回目は、以下を予定しています。
あくまでも内部学習会の位置づけですので、「参加」を事前ご連絡の上、どうぞお出でください。当日は祝日ですが、法政大は通常の授業日です。

●日時:11月23日(土)15:00~18:00
●会場:法政大学 市ヶ谷キャンパス ボアソナードタワー3階 BT0300教室
●テーマ:熊谷元一―教師・写真家・童画家の三足の草鞋を履いて
●内容:熊谷元一(1909~2010年)は現在の阿智村に生まれ、児童画を描いて武井武雄に認められます。同時に、阿智村の何気ない日常生活を写真で記録し続け、また教師として生徒一人一人の個性を伸ばし、性格に合った指導をするためにも、写真を有効に活用します。そうした教師・写真家・童画家としての三足の草鞋を履き、101歳まで活躍した熊谷元一について、その活動やそれが現在の私たちに語りかけるものを、関連する映像を観ながらともに考えます。著名な写真集『一年生』(岩波写真文庫)に登場し、恩師熊谷元一を顕彰する活動を続けている下原敏彦氏にも当日、会場にお越しいただく予定です。

具体的には、以下のような作品の上映を予定しています。
熊谷元一の絵を使った伊那谷のふるさと歳時記/阿智村の変貌する昭和史を熊谷元一の写真で構成した番組/熊谷元一自らが教え子たちのその後を追った番組/三足の草鞋を履いた熊谷元一が残したものを考える番組、など。

2019年9月5日 (木)熊谷元一写真童画館にてゼミⅡゼミⅢ

090-2764-6052下原 メール:toshihiko@shimohara.net

田所はソン・ブン・コンの経済顧問となる。
突然、現れ、大使館になんの相談もなしに、この国の最重要ポスト経済企画大臣顧問になった田所に日本大使館は、大使をはじめ怪しんだ。
「彼は何者か」外務省に打診してもわからなかった。
だが、その謎はすぐに判明した。大使が公務で帰国した折り、ある晩餐会があった。出席した大使に、ときの佐藤総理が近づいてきた。戦後歴代総理のなかでも群を抜く実力者。その彼がギョロ目を光らせて向かってくる。東南アジアの小国の大使のところに。大使は緊張した。佐藤栄作は、笑みを浮かべていきなり聞いた。
「田所君は、元気にしてますか」
突然のことで呆然となる大使に首相は訝しんで
「きみはカンボジアの大使ですよね」と、聞いた。
「は、はい」小石は、あわてて頷きながら、恐る恐るたずねた。
「田所氏とお知り合いですか」
「兄者の親友だが、私も友人だよ、きみ」首相は、笑顔のなか一瞬鋭い眼光を放った。「佐藤がよろしくといっとったと伝えてください」
小石大使は大汗をかいた。兄者、即ち岸信介前総理の盟友でもあるのだ。一刻も早くプノンペンにもどらねば、と思った。
 プノンペンでの力の差は逆転した。特派員たちも、自然、大使館よりも田所のところに集るようになっていた。しかし、田所のことは依然として謎だった。彼はなぜプノンペンにいるのか。解けぬ謎だった。
 1968年9月、乾季から雨季にはいろうとしていた時期、
 その謎が解けたのは、カンボジアに無血クーデターが起きた後だった。1970年3月、カンボジアにクーデターが起きた。元首シアヌーク殿下が外遊中に、謀反を起こし政権
の座についたのは、米国陸軍士官学校帰りのロンノル将軍だった。長いこと鎖国状態にあったカンボジアは開国してクメール民主共和国となった。そして、アメリカと国交回復した。とたんアメリカ軍のカンボジア領内での爆撃がはじまった。米軍は、北ベトナムからカンボジアを経由してくる補給路に悩まされていたのだ。国交断絶状態では、爆撃はできなかったが、世界の目を気にすることなくこの補給路を叩くことができた。カンボジアは、たちまち戦火に巻き込まれた。1970年3月のことだった。独裁者シアヌークを追いだしたカンボジアは、米国を後ろ盾に新しい民主国家に生まれ代ろうととしていた。経済企画庁長官だったソン。ブン・コンは国立銀行の総裁に治まった。顧問だった田所精一は、

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