文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信 No.104

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2008年(平成20年)6月9日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.104
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
2008前期4/14 4/21 4/28 5/12 5/19 5/26 6/2 6/9 6/16 6/23 
6/30 7/7 7/14 
  
2008年、読書と創作の旅
6・9下原ゼミ
6月9日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ教室2
 1.出欠・連絡事項・司会進行者指名
 2.課題提出原稿読みと感想  
      
 3.テキスト『或る朝』読み&『網走まで』関連作品読み
  4.「一日を記憶する」関連作品読み&表現・紙芝口演居(残り)
     
 
     車窓 なんとなく不安な世界
  いま、現時点の世界は、どんな風景が展開しているのか。ある日の車窓を覗いて見た。大雑把には、二つの時流が映っている。一つは、この星で武力的に最も力のある国の指導者を決めることに関する動向。いま一つは、やはり、かっては武力的に肩を並べ、一度は低迷したが近年再び、その勢力を盛り返してきた国の情勢である。米国とロシアがそれである。
 この星の車窓は、この二つの国の為政者の手腕によって、多少なりと風景が変わってくること必至である。ある日の車窓には、こんな光景が … 2008・6・7(読売)
・ヒラリー票狙うマケイン氏 現大統領とは微妙に距離
これは、長く続いた米大統領指名選で、民主党の候補にバラク・オバマ上院議員(46)がなったことを受け、共和党の指名候補ジョン・マケイン上院議員(71)が本選挙に向けて戦術を練りだしという記事。マケイン氏は、現政権に反する核軍縮構想や地球温暖化対策を打ち出しているが、武力解決を先行させるタカ派には変わりがない。「ブッシュ3期目」と反対者は多い。では、初の黒人大統領オバマ氏がいいのか、というと、これも心配だという。昨年、2007年ノーベル賞を受賞した英国の作家、ドリス・レッシング氏(88)は、このように危惧している。「オバマ氏は優秀な人材」だが、「オバマ氏が大統領に当選したら、暗殺されるだろう」米国には「決してなくならない人種的偏見が存在する」と断言している。南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)撤廃運動にかかわってきた人だけに、その予見は重い。自称世界の警察官アメリカの明日は、どちらになっても不安である。
・露大統領まだ独自色出せず プーチン首相が主導
 もう一つの車窓は、ロシアの怪である。大統領になってはみたものの。就任当初から世界の誰もがそう思っていたが、一か月経ってみて、やっぱりそうか、の雰囲気。「プーチン首相の絶大な影響力が露骨なのは、閣僚や大統領府の人事だ」シロビキ(旧ソ連、ロシア軍、情報関係者)が多い。2008年も半年。車窓は、霧が深くなるばかりである。(編集室)


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.104―――――――― 2 ――――――――
車窓雑記
アイヌ民族について
 テキスト『網走まで』の関連として、最近のニュースからアイヌ問題を紹介。日本という島は、開闢以来日本人のもので、単一民族。同じ言語を話し、同じ皮膚を持ち、同じ文化を共有し、一系の神、現人神、象徴天皇に仕える。たいていの日本人は、このように教わり、このように思ってきた。いまでこそ、天からではなく朝鮮半島から、国追われた貴族が一族郎党引き連れ渡ってきた、と想像する人が多くなった。が、なかにはいまだ頑強に『古事記』の世界を信じようとする人たちもいる。しかし、卑弥呼以前、この島にどんな人たちが住んでいたかはわからない。北から南からいろんな人たちがわたってきた。BCから数千年は続いてきたとみられる縄文人の生活形跡や遺跡が沖縄から北海道にかけて出土することから、一応文化を持つ人間が住んでいたことは明らかだが。日本人の源泉となる倭人。彼らの国、邪馬台国は、どこにあったのか。江戸時代、新井白石(1657-1725)が近畿説を、本居宣長(1730-1801)が提唱して論議になったが、その論争は、今日もつづいている。
 とにかく、この島のあちこちに多種の民族が住み生活を送っていたのは確かである。アイヌ民族は13世紀ごろには北海道、東北北部、サハリン、千島に千島に住んでいたといわれるが、それ以前にはもっと広範囲に住んでいたに相違ない。中国の史書『後漢書』のなかに107年倭国の王が生口(奴隷)160人を献上したとある。おそらく、その中の、何人かはアイヌ人(蝦夷)であったかも知れない。倭人は、この細長い島を制した。当然、元いた人々は反発する。斉明天皇(位655-61)のとき安倍比羅夫が水軍をひきいて秋田・津軽地方の蝦夷を傘下に治めた。さらに平安京時代(784)には、征夷大将軍の坂上田村麻呂が征伐した。以来、アイヌにとって苦難の歴史がつづく。江戸時代には松前藩に制限され、明治には「旧土人」と差別され、昭和の戦後になっても日本政府は、国連宣言で「先住民の定義」がないことを理由にアイヌ民族を先住民族と認めなかった。しかし、2008年の6月6日午後、衆院本会議において「政府はアイヌの人々を先住民族として認めること」と求める国会決議が採択された。政府としては、北海道は、昔からアイヌ民族の土地だった。平たく言えば先住民族である、と考えている。そのことを認める、というものだ。
尊厳回復 高まる期待 「アイヌの人々先住民族」6日政府認識
 ようやく、というかやっという歓迎もあるが、「差別・貧窮なお苦悩」と見出しにある。正確な数字はわからないが現在道内には2万3782人の人がいる。生活保護率は全国の3倍、大学進学率は三分の一。16.8%が「差別を受けた」とのアンケート結果。
【北海道におけるアイヌ民族の歴史】(2008・6・7 朝日)
□1669年 シャクシャインの戦い、松前藩の規制で交易が不自由になり、シャクシャイン
      を筆頭に蜂起。
□1869年 開拓使設置。蝦夷地を北海道と改称。
□1877年 北海道地券発行条例 アイヌ民族の居住地を官有地に。
□1878年 開拓使がアイヌ民族の呼称を「旧土人」に統一。
□1886年 北海道庁設置、北海道土地払下規則公布 官有未開地が払い下げられたが、ア
      イヌ民族は対象外。
□1899年 北海道旧ド人保護法公布 アイヌ民族の共有財産は政府管理に。
□1946年 北海道アイヌ協会設立(61年に北海道ウタリ協会)
□1986年 中曽根首相が「日本は単一民族国家」と発言。
□1994年 萱野茂氏、アイヌ民族初の国会議員。
□1997年 二風谷ダム裁判、札幌地裁で判決、ダムの土地収用をめぐる行政訴訟でアイヌ
      民族は先住民族と認めた。アイヌ文化振興法施行。
□2007年 「先住民族の権利に関する国際連合宣言」採択。
※アイヌ語の例 札幌は「サッ・ポロ」=「乾く・多い」、洞爺は「ト・ヤ」=「湖・岸」
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2008年、読書と創作の旅
「ゼミ2」船内名簿
 「2008年、読書と創作の旅」に参加した皆さんは全員で16名です。時空船「ゼミ2」号で、究極の目的「人間とは何か」を知るために、読むこと書くことの習慣化を目指します。が、お互いまだよく知り合っていないと思いますので、暫く掲示します。1年間、一緒に過ごす皆さんです。(希望カード提出順・敬称略)
 さかもとよしあき  おおの なつみ  かわばた りか  ほんな ともこ
・阪本 義明 ・大野 菜摘 ・川端 里佳 ・本名 友子
 ながぬま ともこ  のじま りょう  おおたに りえ  たきざわりょうすけ
・長沼 知子 ・野島 龍  ・大谷 理恵 ・瀧澤 亮佑
 
 あきやま ゆか   たやま ちかこ  かんだ たいすけ  おぐろたかゆき
・秋山 有香 ・田山 千夏子・神田 泰佑 ・小黒 貴之
 とねひらともや   はしもとしょうた いいじまゆうき   うすきともゆき
・刀祢平知也 ・橋本 祥大 ・飯島 優季 ・臼杵 友之
※出立の記念撮影は、全員が揃ったときに撮ります。
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「2008年、読書と創作の旅」における係
 この旅は、1年間という長旅に加え、同行者も定員の16名と小団体です。旅程をスムーズに快適にするために係を設置、お願いしました。幸いに自薦・推薦によりそれぞれの係が決まりました。協力し合って、よい旅にしましょう。どんなに小さな問題も自分だけで抱えこまないで皆で話し合って解決しましょう。
 自分だけではなく、皆がよくなれるように自他共栄の精神をもって当たりましょう。その思いは、巡って自分のためになります。情は人のためならず、です。
「2008年、読書と創作の旅」班長・副班長
 どんなに少人数の旅でも、まとめ役の人は必要です。意見や相談事の伝達、課外活動のまとめ、幹事役などに当たってくれれば幸いです。
◎ 班長・小黒貴之さん      ○ 副長・瀧澤亮佑さん
「2008年、読書と創作の旅」旅日誌作成編集委員
 この旅の最大の成果、旅日誌作成の音頭をとってもらいます。印刷会社との交渉もありますが、全員で協力して記念誌を作りましょう。
編集長  ・ 川端里佳さん   大野菜摘さん
副編集長 ・ 小黒貴之さん
編集委員 ・ 坂本義明さん   橋本祥大さん   
       飯島優季さん   瀧澤亮佑さん  補助委員・全員
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.104 ――――――――4 ―――――――――
Ⅰ「2008年、読書と創作の旅」7日目
はじめに  → 出欠、「ゼミ通信」配布と新聞記事等解説、連絡事項 (担任)
 
司会進行決め  →  毎回、順番にやってもらいます。担任が指名します。
司会者進行
1.ゼミ誌作成に関する報告 編集委員からガイダンスの様子
2.課題原稿読み
 ※提出原稿の本欄への掲載は、合評するので原則として原稿通りとしますが、あきらかな
  誤字、脱字、難読など不明個所は修正するか下線とします。
【車内観察】
僕の中央線
刀祢平 知也
 屋根のない電車があったらどれだけいいだろう。黒いスーツの軍団に周囲を固められ僕は天井を見つめていた。はげ上がった頭皮が目の前にあって、空調でふわりふわりとなびいている。このおっさんはどこで降りるのだろう。僕はちなみに御茶ノ水で降ります。
 車内はこんなに混んでいるのに、人々は黙りこくって、風景はCMのように流れ、流れていく。吊り広告は空調でひらりと一瞬よろめいては、止まり、またよろめく。狭い車内で携帯を打つスーツがいた。彼はメガネ、真面目カット、ストライプネクタイの無難な三拍子。その彼はメールで「愛している」と打っている。ニコリとも笑わずに。
 電車は新宿駅に止まった。人が流れていく。扉が閉まって電車は鈍い音を出して動き出す。予備校まであと二駅。少しすいた車内は軽快にスピードに乗り始める。逆そうしろ、逆そうしろ、爆発しろ、爆発しろ、僕は何度も唱えていた。
□ 満員電車のなかの孤独感、閉塞感が伝わってきます。
【普通の一日を記憶する】
引率の子
 編集室
 6月1日、日曜日。曇り空、天気予報では、平年より少し気温が低いとのこと。ほっとする。待ち合わせの7時50分に近くのコンビニに行く。店内から母子が出てきた。昨夜、市の武道センターで大会準備をしていると「仕事で応援に行けないので」と、電話があった。今日は、市民柔道大会。土壌館からは9名の選手が出場する。子供たちはたいてい家族と一緒に会場に行く。が、母子家庭の場合、母親が働いているので、子供は私と一緒に行って、後で母親がくる場合が多い。その6年生の男の子は、昨年、父親が亡くなった。最近そのことを知った。先の大会で、はじめて頼まれた。ずっと両親が応援に来ていたので、どうしたと聞くと「遠くに行った」と答えた。てっきり「単身赴任か」と思った。が、再度聞くと「ちがう、棺おけに入って行った」と、言う。一瞬、声を呑んだ。父親はよく覚えている。まだ若い、四十代前後だろう。「だから、もうこない」その子はあっさりつづけた。私は「そうか」と頷いた。この日はずっと黙っていた。試合は高校で、はしかが流行っていて、高校生は全員自粛、中学生は、三分の一の出場。その子は、1回戦で終わった。いつもは、簡単に負けたが、今回は、少しだけ耐えた。「今日は、長く頑張ったな」帰りの電車の中でほめると、「今度は頑張ります」とうれしそうに言った。なんとなくほっとした。
―――――――――――― 5 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.104
3.テキスト『或る朝』読み「一日を記憶」作品
 ゼミでは、提出課題で志賀直哉の観察作品をテキストに自らも書いた観察作品を発表し批評し合っています。テキストでは、車内観察で『網走まで』、生き物観察として『菜の花と小娘』を読みました。が、「一日を記憶する」の『或る朝』が、まだでした。
 志賀直哉の処女作三部作の一つ『或る朝』は、明治41年(1908)正月執筆が明示されている。日記をみると(岩波書店『志賀直哉全集』)
1月13日 月
 朝起きないからお婆さんと一と喧嘩して午前墓参法事
1月14日 火
 朝から昨日のお婆さんとの喧嘩を書い〈非小説 祖母〉と題した。
 この〈非小説 祖母〉が「一日を記憶する」の『或る朝』の原形とみられる。そのへんのところは「創作余談」でこのように語っている。
 27歳(26歳の記憶違い)の正月13日亡祖父の三回忌の午後、その朝の出来事を書いたもので、これを私の処女作といっていいかも知れない。私はそれまでも小説を始終書こうとしていたが、一度もまとまらなかった。筋は出来ていて、書くとものにならない。一気に書くと骨ばかりの荒っぽいものになり、ゆっくり書くと瑣末な事柄に筆が走り、まとまらなかった。所が、「或る朝」は内容も簡単なものではあるが、案外楽に出来上がり、初めて小説を書けたというような気がした。それが27歳の時だから、今から思えば遅れていたものだ。こんなものから多少書く要領がわかってきた。
 この作品は、大正7年(1918)3月1日発行の『中央文学』に掲載された。書いてから10年の歳月を経て。
○ 一日のなかでどんな些細なことでも書いてみる。書いたときは、ただの日記だが、あとで手の入れ方しだいでは文学作品となる場合もある。『或る朝』は、その見本。
4.テキスト関連作品読み・『三四郎』
 『網走まで』は先々週、完成作品を読んだ。この頃、時を同じくして発表された作品がある。前半が車中観察になっているので、取り上げてみた。夏目漱石の『三四郎』である。
 『網走まで』と『三四郎』。両作品の対象点、類似点をあげてみた。
○『網走まで』は、草稿末尾に「明治41年8月14日」と執筆月日が書いてある。
  作者、志賀直哉は25歳、小説を書き始めたばかりの、まったく無名の青年。
  この作品の主人公は、上野から宇都宮まで行くために乗車したが、同乗の北海道まで行
  く母子を観察し同情を寄せている。主人公の私は『三四郎』と同じくらい。秘められた
  政府の政策批判。女との接点は、純情ハンカチを直してやる。模索。
○『三四郎』は、同じ明治41年1908年に書かれ9月1日から朝日新聞に連載。作者の夏目
 漱石は、このとき41歳。すでに『我輩は猫である』の大ヒットで流行作家に。前年には
 一切の教職を辞して朝日新聞社に小説を書くために入社。世間を驚かせた。九州から東京
 に向う希望に燃えた書生。同乗の女。男。こちらは、その子持ちの女に誘われるというき
 わどい場面もある。政府批判は、はっきりとでている。読者を意識した作品。
5.テキスト関連作品読み『ひがんさの山』
 この作品は、「一日を記憶する」「生き物観察」「大人観察」、それに「うさぎ狩り観察」という複数観察を混合させた作品です。ある国立大教育学部ゼミでテキストにしたところ、内容に対極の感想がでたそうです。付随の模擬試験問題と併せて考えてみましょう。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・104 ―――――――― 6―――――――――
6・2ゼミ報告
 
出席者・14名
 この日は、なんとなく全員が揃うような気がした。「航空公園」駅の下にあるスーパーでアメを17個、買う。紙芝居には、アメがつきものだ。せっかくの中日なので、作者生誕100年を祝って口演してもらうことにした。が、この日の出席者は14名、全員が揃うのはなかなか難しいようです。全員の参加があったとき、写真を撮ろうと思います。
 この日、6月2日の出席者は、以下14名の皆さんでした。
・阪本義明  ・川端里佳  ・大谷理恵  ・野島 龍  ・長沼知子 
・本名友子  ・田山千夏子 ・瀧澤亮佑  ・小黒貴之  ・飯島優季 
・臼杵友之  ・秋山有香  ・大野菜摘  ・神田泰佑
○ 「ゼミ通信103」配布。
○ ゼミ中日なので一休憩として紙芝居稽古実施の旨を伝える。
 
○ 司会進行は、秋山有香さん
1.課題原稿読みと感想 
【車内観察】長沼知子「立ち聞き」
感想 → 「女の人をA、Bに分ける必要があったのか?」「男性の格好良さのわかる文章
      がほしかった」「もうひとひねり工夫が」など。
作者 → あまり電車に乗らないので、ネタに困った。バイトのとき唯一乗る。
【一日を記憶】秋山有香「一日の出来事」
感想 → 「バイトの職種は具体的に書いたほうが」「遅刻ギリギリは変。ギリギリと遅刻
      を入れ替えたら」など。
作者 → バイト先は雑貨店、
【コラム】瀧澤亮佑「池波正太郎『散歩のとき何か食べたくなって』を読んで」
感想 → 「引用があればよかった」「散歩の途中に高級店はすごい」
作者 → 池波の時代小説は読んだことがない。
紙芝居『少年王者』口演
 
解説 → 車内観察『灰色の月』との絡み。戦後作品。
     『灰色の月』は飢えで死ぬ間際にある少年。
     『少年王者』は、何もなかった当時の子供たちに夢と勇気を与えた。
     作者山川惣治生誕100歳記念
口演 → 出席者14名
監督 → 秋山有香
講評 → 声にイントネーションがつくといい。擬音を利用しながらやると臨場感がでるの
     では。
―――――――――――――― 7 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.104
ゼミ誌について
ゼミ雑誌発行は12月15日厳守です。
 ゼミの実質的成果は、決められた期日までのゼミ雑誌発行にあります。毎年、納品日の遅れが指摘されています。一年間の大切な成果なので、しっかり守って、よい雑誌をつくりましょう。本ゼミは、二人編集長と一人副編集長に四人の編集委員が、アシスト、全員が協力します。ゼミ誌は自分の作品でもあるので、全員一丸となって当たりましょう。
ゼミ誌原稿について
 ゼミ誌原稿は、そのために書くというより、日々の授業のなかで育てることをすすめます。締め切り前あわてて書くより、発表した観察作品を草稿として完成品に高めるよう創意工夫してみてください。それには、皆の感想、自分の耳で聞いた印象を参考に。
・編集委員長=川端里佳 大野菜摘
・編集副委員長=小黒貴之
・編集委員=阪本義明 橋本祥大 飯島優季 瀧澤亮佑 
・補助委員=本名友子 長沼知子 大谷理恵 野島 龍 田山千夏子 臼杵友之 
      秋山有香 神田泰佑 刀祢平知也
ゼミ誌作成実施と予定は以下の要領です
済み 6月3日(火) → ゼミ雑誌作成ガイダンス。編集委員は必ず出席してください。
             ○ゼミ誌作成説明  ○申請書類を受け取ります。
1. 6月中旬 → ①「ゼミ誌発行申請書」の提出。出版編集室に
2. 6月~  → 全員でゼミ雑誌の装丁を話し合う。題名・内容・サイズ・印刷会社など
        ※印刷会社は、過去に依頼した会社は文芸学科スタッフに問い合わす。初
        めてのところは必ずスタッフに相談する。(なるべく初めてのところでな
        い方がよい。以前、苦労したことがある。会社側も慣れないので大変)
3. 7月下旬 → 原稿依頼し、締め切り日を決める。だいたい夏休み明けがよい。
4. 9月末  → 編集委員にゼミ誌原稿を提出。
5. 10月上旬 → 編集委員は、内定の印刷会社から②「見積書」をもらう。
6. ~11月 → 「見積書」の提出。印刷会社と相談しながらゼミ雑誌作成。
7. 12月 → 15日までにゼミ誌提出、③「請求書」提出
注意事項!!
◎ ①【ゼミ誌発行申請書】、②【見積書】、③【請求書】以上3種類の書類が提出されない
  場合はゼミ誌の発行はできません。補助金の支払いも認められません。
◎ 予算金額は、ゼミ雑誌作成ガイダンスで発表される。
◎ 過去にゼミ雑誌の印刷を依頼したことのある主な印刷会社の連絡先は、文芸学科スタッ
  フまで問い合わせる。それ以外の印刷会社を利用したい場合は、必ず事前に学科ス
  タッフに相談すること。厳守。
 ※ 印刷会社は、学科スタッフに相談した方が、スムーズに運びます。
◎ 外部(一般の人)と関係しない。(インタビュー、依頼原稿など)
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「2008年、読書と創作の旅」の記録
□4月14日 参加者約20名。旅説明と嘉納治五郎の青年訓「多読と精読」読み。
□4月21日 司会=小黒、登録11名出席。旅立ちに際して紀行文と書簡の読み。『おくの
      ほそ道』「発端」「旅立ち」。ドストエフスキーが国家反逆罪の罪でシベリアに
      向う朝、兄に書いた手紙を読む。志賀直哉の車中作品についての説明。
□4月28日 司会=田山、15名出席、名作紹介・サローヤン『空中ブランコに乗った大胆
      な青年』読みと感想と解説。議論・新聞「人生案内」愛の告白について〈私な
      らこう答える〉、登録者16名に。
□5月12日 司会=本名、13名出席、ゼミ正副班長指名、ゼミ誌編集委員決め。新聞記事
      紹介。「小林多喜二『蟹工船』」と志賀直哉の関係。紙芝居『少年王者』の作者
      山川惣治の本が刊行される。東京新聞取材のドストエフスキーの全作品を読む
      会「読書会」の宣伝。提出原稿6本の読みと合評。
     【車内観察】5本
      ・本名友子「台風一過」・瀧澤亮佑「タイムスリップ」・秋山有香「新入生」
      ・川端里佳「ランデブーは車内で」・大野菜摘「園児とサラリーマン」 
      【生き物観察】1本
      ・小黒貴之「スカーフ猫は喉を鳴らさない」
□5月19日 司会=飯島、12名参加、新聞記事紹介=「『蟹工船』再記事について」「五月
      病記事について」「候補漢字220字について」など。提出原稿1本の読み。
      【一日観察】
      ・野島 龍「夜明けからの一日」
      【テキスト読み】
      ・『菜の花と小娘』 ・草稿『小説 網走まで』
□5月26日 司会=川端、12名参加、小黒班長=ゼミ合宿の有無。合宿なしで決定。
      名作読みA・ランボー「谷間に眠るもの」、車内観察テキスト見本「夫婦」
      完成作『網走まで』感想
□6月2日 司会=秋山、14名参加 『少年王者』と『灰色の月』の関係。
      【車内観察】1本
      ・長沼知子「立ち聞き」
      【一日を記憶する】1本
      ・秋山有香「一日の出来事」
      【コラム】1本
      ・瀧澤亮佑「池波正太郎『散歩のとき何か食べたくなって』を読んで」
      【少年王者】紙芝居口演
      ・14名全員が口演。約1時間。三分の二。 
時空旅日誌 
 6月2日、曇り時々雨 西日本の方は梅雨入りしたらしい。で、折り畳みを持って学校に向かう航空公園駅にあるスーパーで飴玉を買う。ゼミは、早いもので今日が中日。箸休めに紙芝居を口演。皆にアメを配りながら、思った。なぜ、紙芝居屋は、アメを売るのか。紙芝居で子供を集めて、何かを売る。別にアメでなくても、と思ったが、やはりアメでないとダメだと思った。おもちゃでは、紙芝居を見てくれない、話をしてうるさい。アメなら、話はできない、なめながら見るほかない。つまり一石二鳥ということである。秋山さんの進行で14名全員が口演できた。皆が面白いと思ったら、またつづけたい。が・・・・・。
―――――――――――― 9 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.104
2008年、読書と創作の旅
 担任自己紹介の代わりに学生時代の旅を紹介します。が、想像・推測・個人問題もあるので創作ルポタージュとします。
一九六八年、アジアの旅⑧
                                   下原 敏彦
 1976年初秋の午後、立川の私の下宿に羽田署外事課の二人の刑事が、調書を取りにきた。半月前に起きた遊覧セスナ機心中事件で、相模湾の海に飛び降りた元学長夫妻について、知っていることをすべて話してくれとのことだった。私は、承知して8年前の出会いから話しはじめた。若い刑事は、ちゃぶ台にひろげた調書にペンを走らせた。
 元学長夫妻の心中は、ムルソー(『異邦人』)の殺人よりも深い謎にだった。私は、記憶の糸を探りながら、慎重に言葉を選んで話した。二階の開け放たれた窓外に武蔵野の蒼穹があった。澄み切った高い空は、あの日のプノンペンの青い空を思い出させた。
 
我が青春のプノンペン
 寝る前に、木内女史(仮名)から渡された本、『物語 カンボジア史』をベットの上でひろげた。隣りのベットのシーツの中にもぐりこもうとしていたA君が、ヒゲ面の顔を驚かせて聞いた。
「え、いまから読むのか」
「ちょっとな。眠くなくなっちゃったんだ」
「うそだろ、オレはもうだめだ。じゃあ明日な」A君は、そう言ったまま静かになった。もう眠り込んでいた。
 私は、ずっと新聞社の地下で夜通しバイトをしていたので、体が、すっかり夜型になっていて、すぐに眠気がこなかった。昼寝したせいもある。私は、本をながめた。1957年・近藤書店。少年少女のための歴史ものがたり。私が、この国のことで知っているのは、どこかジャングルにアンコールワットという遺跡があることと、間違っているかもしれないが、カボチャの語源の国。それぐらいだ。何の因果か、自分は、そのよく知らない国の要人アパートのベットの上にいる。少しは、知らなければ。そんな妙な義務感がわいてきて、1ページをめくった。とにかく読んでみようと思った。日本を出て早1ヶ月になる。が、この間一冊の本も読んでいなかった。小高親著『物語 カンボジア史』
第一篇 神代 その一 神話時代
世界のどこの国でも、有史以前のことは分かりません。しかし世界のどこの国でも自分の国にふさわしい神話を持っていて、永く子孫にまで伝わっています。ヨーロッパにはギリシャ神話、日本には古事記、そしてカンボジアには、西側のおとなりインドの影響を多分にうけて、そのながれを汲んだ神話が沢山あります。その中でも面白いお話をまず御紹介してみましょう。1.蛇王子 ・・・・・
 いきなり眠くなった。夜更けとはいえあまりに静けさに、ベトナムでは激戦がつづいているのに、なぜ、聞こえてこないのだ・・・そんな変なことが、ちらっと浮かんだが、あとは泥のような眠りに引き込まれていった。
 その本は、毎晩、寝る前に睡眠薬代わりに読むことになった。
「まあ、いいわねえ。わたしは睡眠薬飲まなきゃとても眠れないわ」木内女史は、羨ましがった。プノンペンの夜が、静かすぎるというのだ。
 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.104―――――――10 ――――――――――
 プノンペンの朝は、早い。まだ、夜も明けやらぬ暗いうちから、街は、にわかに騒々しくなる。プノンペン駅には、人と荷物を詰め込んだ地方からの列車が到着する。四方の田舎から屋根にまで肥沃なメコンデルタの恵を満載したバスが、次々とバザールに向っていく。シクロの車夫たちは、いっせいにペタルを踏み、若者はオートバイを走らせる。大通りは、自転車の洪水。それらをながめながらの散歩の楽しさ。
 私たちのプノンペンでの生活がはじまった。雨季明けの時期にきたことも幸いした。激しい雷雨のあとに晴れ渡る清清しいほどの空の青。私は、この都が気にいった。
 私たちが食客になって、T先生宅は規則正しくなった。それまでは、夫人も貴子女史(仮名)も起きたときが朝食だったが、私とA君が、6時に起床し、街を散歩して戻ると二人とも起きて待っていた。先生は、まだ寝ていた。二人とも先生抜きで、気兼ねなく4人で朝食をとるのが楽しそうだった。タンさんの用意する朝食は、いつも同じだ。フランスパン一本と、目玉焼き二個のベーコンエッグ。そしてコーヒー。バターとジャムをつけて食べた。はじめのうちは、その朝食を気に入っていたが、次の朝も、また次ぎの朝も同じだと、さすがに、あきてきた。が、タンさんは、すぐには思いつかないと、デザートにパパイヤをつけてくれたが、頑強に目玉を作りつづけた。習慣は恐ろしいもので、しまいには慣れてしまった。日本に帰ってから、細いフランスパンと二個の目玉焼きがなつかしく思えた。四人のと
きは、映画や東京の街のことなどで談笑していたが、先生が起きてきて加わると、新聞記事の話になった。検閲などで数日遅れの新聞には、日大闘争の記事が多かった。
 可笑しなことだが日大闘争には、大学にいるときは、あまり興味なかった。春、新学期がはじまったころ、私が所属していた柔道部の部室に、「どこかの教室でよからぬ集会があるらしいから、爆竹をなげこんでやれ」こんな話というか指令がもちこまれた。しかし、実際に爆竹を投げこみに行った部員はいなかった。それに、あとで聞いたことだが、集会の責任者に柔道部の先輩がいたらしい。当時、学科ごとにクラス会をひらいて、問題を話し合っていた。マスメディアは日大の不正疑惑を大々的にとりあげていた。しかし、笛吹けど踊らず、学生の10人に1人が日大生だという10万日大生は、表面的には沈黙を守っていた。世間の見方は、冷ややかだった。マンモス大学、ポン大生。そんな蔑称が公然とささやかれた。
「どんどん学生を入学させたからでしょ」木内女史は、大学事情には詳しいらしく、同情しながらも、半ば呆れ顔で言った。「教室、定員オーバーだったでしょう」
 あとで『日大闘争の記録』で知った。どの学部の学科も、教室に入りきれないくらい学生があふれていたらしい。
 私とA君の学科は、他とは少し事情がちがった。確かに定員はオーバーだった。戦前はあったが、植民地政策に加担したというこから廃止され、昭和39年、こんどは国際貢献するとの目標を掲げ復活した学科だったが、45名の定員なのに、学生名簿は170名。実に3倍以上の人数を入学させていた。あまりに多すぎて東京世田谷の本館では無理と判断したのか、1年の教養課程は、神奈川県藤沢にある校舎だった。
 私の友人は、現在、私が教職にあることを意外に思う。が、私のなかには整合性がある。というのも、最初の受験は県下の教育学部だった。別に、教員にという目的意識はなかったが、何かの道を進むには、まずは教職課程をと思ったのだ。しかし、失敗した。どうしようか迷っていたとき、町の書店で「美しき花を咲かそう海の外」の標語の学科を見つけた。第三次募集だった。私大は入学金も授業料も高い。信州の山奥の山村からはとても無理、と思ったが、標語の力に引き寄せられた。面接は、その標語の作者、後藤連一主任教授だった。「平和部隊(海外技術協力隊)に入りたいんです」「初心を貫いてください」教授は笑って大きく頷いた。育英会が間に合った。なんとかなるさ、で入学金をかき集め、東京にでてきた。下宿は、まだ決まっていなかった。はじめて、学校に行ったときのことを、いまもはっきりおぼえている。
 
日大闘争の記録『反逆のバリケード』を読む
――――――――――――― 11 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.104
聞記事紹介 20008年6月4日水曜日朝日新聞夕刊
敗戦後のヒーローよ
  
山川惣治生誕100年の回顧展  少年たちに夢とロマン
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.104―――――――12 ――――――――――
掲示板
提出原稿について
○ 車内観察 → 電車の車内で観察したこと(創作・事実どちらでも)
○ 1日の記録 → 自分の1日を観察する(自分のことをどれだけ晒せるか)
○ 社会観察 → 社会の出来事を観察、自分の意見もいれてみる
○ 生き物観察 → 人間、動物、草木、生あるものすべての観察(宇宙人の目で)
 締め切りはありません。書けた人は、どんどん提出し、皆の評価をみてみましょう。何事も切磋琢磨です。
ゼミ誌・課題・その他+提出原稿(2×)+出席(1×)=評価(60~120)
ドストエフスキー情報
6月14日(土) : 全作品を読む会「読書会」 会場は東京芸術劇場第一会議室
           作品『悪霊』3回目 報告者・金村 繁氏 
8月 9日(土) : 全作品を読む会「読書会」暑気払い。「『悪霊』払い祭り」
               会場は東京芸術劇場第一会議室
出版
 ☆復刻版・岩波写真文庫『農村の婦人』6月発売「写真文庫ひとくちばなし」下原
☆新刊・熊谷元一白寿記念写真集『信州 昭和の原風景』一草舎2200円
★旧刊・下原敏彦著『伊那谷少年記』鳥影社「昭和30年の原風景」
 理論社 2008・3・21 定価1200
★文・藤井誠二 マンガ・武富健治『「悪いこと」したらどうなるの?』
  ★山下聖美『国文学4』「ケータイ小説 クリエイターの卵たちはどう読むか」
★福井勝也著『日本近代文学の〈終焉〉とドストエフスキー』
      のべる出版企画 2008・1・10
★芦川進一著『「罪と罰」における復活』河合文化研究所・河合出版2007
★清水 正著『ドストエフスキー論全集1』D文学研究会2007
★下原敏彦著『ドストエフスキーを読みながら』鳥影社2006 2月点字図書
★國文学別冊『ギャンブル』下原敏彦・文「ドストエフスキーとギャンブル」
演劇
劇団「昴」公演『ジュリアス・シーザー』あうるすぽっと(豊島区舞台交流センター)
6月19日~29日(日) 訳・福田恒存 演出・ニコラス・バーター                                  
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編集室便り
☆「2008年、読書と創作の旅」内容は、本通信に掲載します。
☆ 原稿、歓迎します。学校で直接手渡すか、下記の郵便住所かメール先に送ってください。
 「下原ゼミ通信」編集室宛
  住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
☆本通信はHP「土壌館創作道場」に掲載されています。
清水正氏が読む『悪霊』
同情  解説
清水正氏が読む『悪霊』
同情  解説
志賀直哉 1883年(明治16年)2月20日~1971年(昭和46年)10月21日88歳
連載1    学生と読む志賀直哉の車中作品(推敲2回目)
土壌館・編集室
三部作は志賀文学の根幹

 小説の神様といわれる志賀直哉の作品といえば唯一の長編『暗夜行路』をはじめ『和解』『灰色の月』『城の崎にて』といった名作が思い浮ぶ。浮かばない人でも『小僧の神様』『清兵衛と瓢箪』『菜の花と小娘』と聞けば、学生時代をなつかしく思い出すに違いない。最近は、そうでもないようだが、これらの作品はかつて教科書の定番であった。また、物語好きな人なら『范の犯罪』や『赤西蠣太』は忘れられぬ一品である。他にも『正義派』『兒を盗む話』など珠玉の短編がある。いずれも日本文学を代表する作品群である。こうしたなかで、「いわゆる三つの処女作といわれている」『網走まで』『菜の花と小娘』『或る朝』は、一見、なんの変哲もない小説ともエッセイとも思えぬ小作品である。が、その実、志賀直哉の文学にとって重要な要素を含んでいる。三篇とも志賀文学の根幹を成すといっても過言でない。
 かつて川端康成は、志賀直哉を「文学の源泉」と評した。しかし、その意味について正直、若いとき私はよくわからなかった。ただ漠然と、文学を極めた川端康成がそう言うから、そうなのだろう・・・ぐらいの安易な理解度だった。ところが、この数年大学のゼミにおいてテキストにとりあげ、学生たちとあらためて志賀文学を再読、再々読するなかで、自然その意味することがなんとなくわかってきたような気がする。そうして、川端康成が評した「源泉」は、処女作三篇にある。そのように思えてきたのである。
 そして、この三篇、『或る朝』、『菜の花と小娘』、『網走まで』を読解できなければ、志賀直哉の文学を理解できない。この三篇が評価できなければ、志賀文学というものを終生、わかることができない。もしかして、とんでもない思い違いをしているかも知れない。が、そのように読み解いたのである。

 処女作三篇は、いずれも明治三十九年から四十一年の間に着手されたものだが、完全なものとして雑誌に掲載されるまで歳月を要した。『菜の花と小娘』は大正九年に、『或る朝』『網走まで』は大正七年にである。このなかで、志賀直哉が「これを私の処女作といっていいのかもしれない」と言っているのは『或る朝』である。この作品は、明治41年(1908)正月と執筆が明示されている。日記をみると(岩波書店『志賀直哉全集』)
1月13日 月
 朝起きないからお婆さんと一と喧嘩して午前墓参法事
1月14日 火
 朝から昨日のお婆さんとの喧嘩を書い〈非小説 祖母〉と題した。
とある。直哉は、この作品について「創作余談」でこのように語っている。
 【27歳(26歳の記憶違い)の正月13日亡祖父の三回忌の午後、その朝の出来事を書いたもので、これを私の処女作といっていいかも知れない。私はそれまでも小説を始終書こうとしていたが、一度もまとまらなかった。筋は出来ていて、書くとものにならない。一気に書くと骨ばかりの荒っぽいものになり、ゆっくり書くと瑣末な事柄に筆が走り、まとまらなかった。所が、「或る朝」は内容も簡単なものではあるが、案外楽に出来上がり、初めて小説を書けたというような気がした。それが27歳の時だから、今から思えば遅れていたものだ。こんなものから多少書く要領がわかってきた。】
 この作品は、大正7年(1918)3月1日発行の『中央文学』に掲載された。書いてから10年が経っていた。話は、たわいもない孫と祖母のこじれだが、感情面の葛藤を文章表現にするのは、案外難しい。「はじめて小説を書けたというような気がした」「書く要領がわか
ってきた」という文学開眼は、おそらくそのこじれが文章表現できたと思ったからではないだろうか。このことは絵画でも写真でも同じといえる。
 小説『網走まで』は、当時の原稿用紙(20×25)十七枚余りの、ちょっと見にはエッセイふうの小作品である。が、ある意味でこの作品は、金剛石の要素を持っている。光り輝くか否かは、読者の読解力の有無にかかっている。
 1910年『白樺』第一号に発表された志賀直哉の初期作品『網走まで』は、400字詰原稿用紙で21枚足らずの創作である。たまたま乗り合わせた母子をヒントに書いた、筋らしい筋もない物語。たいていの読者は、見逃してしまう初期作品である。むろん私も全く記憶になかった。四年前、ゼミでテキストに選んだ折り、何度か読み返してみて、はじめてこの作品の非凡さに気がついた体たらくである。
 しかし、どんな高価な金剛石でも、磨かなければただの石である。『網走まで』も、ただざっと読んだだけでは、なんの変哲もない作品である。「こんなものが、はたして作品と呼べるのか」そんな感想も無理からぬことである。だがしかし、しっかり繰り返し読めば、いつかははたと気がつき目からうろこが落ちた思いがするに違いない。
 では、『網走まで』とはいったいどんな作品なのか。         
 
『網走まで』解説(『志賀直哉全集』岩波書店)
 明治43年(1910)4月1日発行の『白樺』第1巻第1号に発表され、大正7年(1918)3月、新潮社より刊行された白樺同人の作品集『白樺の森』に、現在のものにもっとも近いかたちになおして収め、「明治41年8月14日」と執筆年月が・・・明記されている。
 
『網走まで』を読む

 『網走まで』を手にとると、まず、題名から立ち止まってしまう。なぜ「網走」かである。網走は、現代なら映画の舞台や刑務所、メロン産地、オホーツクの流氷やカニなどでよく知られている。が、この作品が発表された明治四十三年(一九一○)当時は、どうであったろうか。一般的にはほとんど無名だったのではないかと想像する。そんな土地を作者志賀直哉は、なぜ題名にしたのか。旅の目的地にしたのか。疑問に思うところである。そんなところから、作品検証は、まずはじめに題名「網走」から考えてみたい。
 インターネットで調べてみると網走は、元々魚場として開拓民が住み着いたところらしい。地名の由来は諸説あるが、いずれもアイヌ語が語源とのことである。
 例えば「ア・バ・シリ」我らが見つけた土地。「アバ・シリ」入り口の地。「チバ・シリ」幣場のある島。である。(ウィキペディア)
 また、作品が書かれた頃までの網走の歴史は以下のようである。
? 1872年(明治5年)3月 北見国網走郡の名が与えられる(網走市の開基)。アバシリ村が設置される。
? 1875年(明治8年) 漢字をあてて、網走村となる。
? 1890年(明治23年) 釧路集治監網走分監、網走囚徒外役所(現在の網走刑務所の前身)が開設
? 1891年(明治24年) 集治監の収容者の強制労働により北見方面への道路が開通
? 1902年(明治35年) 網走郡網走村、北見町、勇仁村(いさに)、新栗履村(にくりばけ)を合併し2級町村制施行、網走郡網走町となる。
明治政府は、佐賀の乱や西南の役などの内紛に加え荒れた世相で犯罪人が激増したことから、またロシアの南下対策として彼らを北海道に送ることにした。明治十二年伊藤博文は、こんな宣言をしている。
「北海道は未開で、しかも広大なところだから、重罪犯をここに島流しにしてその労力を拓殖のために大いに利用する。刑期を終えた者はここにそのまま永住させればいい」
なんとも乱暴が話だが、国策として、この計画はすすめられた。
 そして、明治十二年に最初の囚人が送られた。以後十四、十七年とつづき、網走には明治二十三年に網走刑務所の前身「網走囚徒外役所」ができ千三百人の囚人が収容された。囚人は、札幌―旭川―網走を結ぶ道路建設にあたった。こうしたことでこの土地は、刑務所の印象が強くなったといえる。が、作品が書かれた当時、その地名や刑務所在地がそれほど全国に浸透していたとは思えない。第一、当時、網走には鉄道はまだ通っていなかった。従って「網走」という駅は、存在していなかったのである。では、作者はそんな地名を、なぜ、わざわざ題名にしたのか。あたかも網走という駅があるかのように書いたのか。
 とにかく、どう読んでも網走駅までの印象は強い。最初から大きな謎である。が、この謎が解けなければはじまらない。ということで「網走」についてもう少し検証してみることにする。

 『網走まで』は、僅か二十枚程度の作品である。(草稿は二十字二十五行で十七枚)この作品には大きな謎が二つある。一つは、前述したが題名の「網走」である。志賀直哉は、何故に網走としたか。志賀がこの作品を書いたのは、一九○八年(明治四一年)である。草稿末尾に八月十四日と明記されている。志賀直哉二十五歳のときである。一見、エッセイふうで、経験した話をそのまま書いた。そんなふうに読めるが、そうではない。この作品は完全なる創作である。志賀は、創作余談においてこの作品は、「或時東北線を一人で帰ってくる列車の中で前に乗り合わせていた女とその子らから勝手に想像して書いたものである」と明かしている。そうだとすれば、なにも「網走」でなくてもよかったのでは、との思いも生ずる。当時、あまり知られていない網走より、「青森」とした方がより現実的ではなかったか、と思うわけである。網走同様、青森という地名の由来も諸説ある。が、一応、三七○年前、寛永二年頃(一六二五年)開港されたときにつけられた、というから一般的にも知られてはいたというわけである。題名にしても歌手石川さゆりが熱唱する「上野発 夜行列車降りたときから 青森駅は雪だった・・・」の青森に違和感はない。当時としては、網走よりはるかに現実的だったに違いない。なぜ「青森まで」ではなく、「網走まで」なのか。もし作者が北海道にこだわるのなら函館でもよかったのではないか。そんな疑問も浮かぶ。函館なら、こちらもよく知られてもいる。歌手北島三郎が歌う「はーるばる来たぜ函館!」は演歌の真髄だ。他にも函館には、歴史の郷愁がある。既に40年の歳月が過ぎているとはいえ、函館(箱館)といえば、あの新撰組副長土方歳三(35)が戦死した土地。明治新政府と榎本武揚(34)北海道共和国が戦った城下である。現代では百万ドルの夜景と、観光名所にもなっている。それ故に当時も一般的知名度は、それなりに高かったのではと想像する。
 しかし、時は明治全盛期である。過去に明治政府に反抗した都市ということで、よろしくないとしたら、札幌はどうだろう。「札幌まで」としても、べつに遜色はないように思える。一八七六年(明治九年)あの「青年よ大志を抱け」のクラーク博士ほか数名の外国人教師を迎えた札幌農学校のある「札幌」は、それから三十余年北海道開発の拠点として、大いに発展しつつあったはず。「札幌」の名は、全国区であったに違いない。にもかかわらず「札幌」ともしなかった。なぜか・・・・。ではやはり当時、「網走」は人気があったのか。それとも作者志賀直哉に何か、よほど深い思い入れが、題名として使いたい理由があったのか。どうしても行き先が「網走」としなければならない何かが・・・そんな疑念が浮かぶ。
 しかし、四十一年後、一九五一年(昭和二六年)六八歳のとき、志賀直哉は、リックサック一つ背負い一人ではじめて北海道を旅した。が、網走には行かなかったという。と、すると、深い思い込んみでもなさそうだ。だとすると、「網走」という土地名は、たんなる思いつきか。それともサイコロを転がせて決めただけの偶然の産物であったのか。

 「網走」という地名。現代ではどんな印象があるのか。最近の若い人は、網走と聞けば、オホーツクの自然を目玉にした観光地のイメージだろう。観光用に刑務所そっくりな宿泊施設もある、と、テレビかなにかの旅宣伝でみたことがある。刑務所も観光地化されているようだ。こうした現象は、たぶん山田洋次監督の「幸せの黄色いハンカチ」という映画が発生源となっているに違いない。網走刑務所を出所した高倉健演じる中年男と武田鉄也・桃井かおり演じる若い男女が車で一緒に出所男の家まで旅する話である。舞台は、網走ではないが、網走という地名を観客に強く焼き付けた映画だった。
 同じ高倉健主演でも私たち団塊と呼ばれる世代では、網走と聞けば、やはり東映映画『網走番外地』である。一作目はポールニューマン主演の『暴力脱獄』を彷彿させる一種文芸的
作品だった。手錠で結ばれた二人の囚人の脱獄物語だった。が、第二作目からガラッと変わった。完全なやくざ映画というわけである。一作目は白黒だったが、二作目からは総天然色と高倉健の唄で、激動の昭和四十年代を熱狂させた。話のパターンは水戸黄門と同じで、網走刑務所を出所してきた流れ者やくざ高倉健が、悪いやくざにいじめられつくされている弱いやくざを救う。それも出入りに助っ人として加担するのではない、万策尽きた弱くて良いやくざ(というのも変だが)その正しいやくざのために最後の最後、たった一人でドスを片手に、多勢の強面が待つ敵陣に乗り込むのだ。その背中に、発売禁止となった「網走番外地」の唄が流れる。
ドスを ドスを 片手になぐりこみ
どうせ おいらの行き先は 網走番外地
 とたん、立ち見で立錐の余地もないほど入った超満席の映画館の場内から一斉に拍手がわく。今、思い出せば異様な光景である。が、強いものに立ち向かう一匹狼。それは、しだいに強力になっていく機動隊や政府、そして企業に対峙する自分を重ねたのかも知れない。当時の若者、全共闘世代にとって「網走」は畏怖しながらも一種憧れの土地でもあったのだ。
 で、当然といえば当然だが、そんなわけで一九六十末~七十年代、網走は、刑務所のある町。といった印象だった。そして、その印象も、小菅や岐阜のようなコソ泥や詐欺師の収監される場所ではなく仙台一歩前の犯罪人の行くところ。極悪人=網走であった。。
 『網走まで』が書かれた時代、作者志賀直哉は、この町にどんなイメージをもっていたのか。知るよしもないが、草稿のなかで「北見の網走などと場所でしている仕事なら、どうせジミチな事業ではない。恐らく熊などのいるところであろう。雪なだれなどもあるところであろう。」と書いているところから、刑務所、監獄という印象より、金鉱の町。得体の知れない人間が集まる未開の地。そんなイメージでなかったかと思う。
 子供のころ観たアメリカ映画で『縛り首の木』というのがあった。砂金掘りが集ってできた、いわゆる無法の町の話だ。そこにはろくな人間はいない。皆、欲に目がくらんだ、すねに傷持つものばかりの住人である。当時の「網走」も、映画の砂金掘りの町。そんな町だったのかも。文明開化がすすむ東京にいて、文学をつづける志賀直哉からみれば「網走」は、未開のなかの未開の町。そんなところに見えたのかも知れない。もっとも「網走」、というより北海道は、その後55年たっても遠いところとだった。
 余談だが、1965年、昭和40年、今から42年前だが、筆者は、はじめて北海道に行った。2ヶ月間牧場でアルバイトをするためであった。説明会で斡旋の学生援護会から、きつい仕事、途中で逃げ出す学生が多いから、覚悟のほどを注意された。が、大学の実習授業(4単位)と住み込み三食つき500円につられた。(当時、バイト日給600~800円が相場)
 信州の山奥で育った私は北海道がどんなところかまったく知らなかった。広いところだというので、憧れはあった。が、遠い所だった。知っている地名は、札幌、函館、稚内、旭川ぐらいだったか。行き先の切符をもらった。「計根別」とあった。はじめて聞く地名、駅名
―――――――――――――― 13 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.104
だった。地図でみると根釧原野のただなかにある。釧路から近いらしい、とわかったが、なにせ、地図のうえでは想像のしようがなかった。とにかく行けばわかるさ。大学一年18歳の夏、「計根別まで」が私のはじめての長旅となった。余談ついでに、当時を思い出した。
 7月の前期終了日、担当教授から激励された。希望者は二十人はいたろうか。計根別までが一番多く数名、あとは稚内や知らぬ土地だった。上野駅から夜行列車で出発する。夜のとばりがおりはじめた西郷像の下に多勢の学生が集合した。その面々、明治、拓大、農大などなどいろんな大学の学生がいた。が、やはり単位修得込みの私の学部の学生が多かった。
 皆、学生服に靴か高下駄。学帽もかぶっていた。肩には大きな信玄袋。中には作業服と下着。筆記道具とノート。それだけだった。このころアイビースタイルが流行っていたが、北海道でバイトしようという学生は、なぜか学ラン組が多かった。
 
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.103―――――――14 ―――――――――
 
 11年前に出版された本だった。小高親著 近藤書店 昭和33年発行 230円
『物語 カンボジア史』
~ 夢と神秘の国の歴史ものがたり ~
――――――――――――― 15 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.103
 
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.104―――――――16 ――――――――――

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