文芸研究Ⅲ 下原ゼミ通信No.23

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2019年(令和元年)11月26日発行

文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信No.23

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
9/24 10/1 10/8 10/15 10/22 10/29 11/12 11/19 11/26 12/3 12/10 12/17 12/24 1/7 1/14 1/21 
観察から創作へ

2019年ゼミⅢ読書と創作の旅

11・26下原ゼミ

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11・19ゼミⅢの授業報告 

 11月19日(火)は、ゼミ雑誌『是溢市(ぜみし)』原稿の校正最終チェック。編集出版室に於いて。この日の参加は、西村、吉田、中谷、志津木。
人間の謎       昔、神隠し、現代はSNS隠しか 
令和に入ってから、女の子の行方不明ニュースがつづいている。今月17日大阪の自宅から、突然、姿を消した小6の女の子が24日、自宅から約430㌔離れた栃木県小山市で見つかった。まずは無事だったことに安堵した。それにしても12歳の女児が、なぜ1週間も不明だったのか。昔だったら「神隠し」と云ったところだが、少女はSNSで知り合った無職男性(35)の家にいたらしい。驚いたことに、その家には6月から捜索願いがだされている15歳の中学生の女の子もいたという。小6の女児は、怖くなって逃げ出し交番に駆け込み明るみにでたが、15歳の少女は、逃げずにいたようだ。人間の心理は謎だ。
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ゼミ誌『是溢市(ぜみし)』校正完了

11月19日、出版編集室にて各自のゲラチェック、校正完了しました。(ゼミ雑誌編集長からの報告)

―ゼミ誌『是溢市(ぜみし)』―

吉田飛鳥  童話『カラガラ丘』山

志津木喜一 (仮)官能小説『団地妻』

中谷璃稀 創作『馬鹿者たち』

西村美穂 創作『ふぞろいのラプソディ』

山本美空 創作『時は金なり愉快なり』

佐俣光彩 創作『繁華街』

松野優作 創作

東風杏奈

神尾 颯

ゼミ雑誌出版に向けて今後の事務作業  

③確定見積もり書提出 → 11/22(金)迄に

④ a.請求書提出
  b.納品書提出
  c.発行の冊子5部 紹介文(100字)を添えて大学編集局に提出
12月6日(金)締切

今後のゼミ予定(4年次含む) 口演と朗読 

今後のゼミは、卒論準備と併せて、主にドストエフスキーの『罪と罰』の脚本化を口演していきます。ほかに、児童文学作品の朗読も。

口 演 : 脚本化で読むドストエフスキーの『罪と罰』

「金貸し老婆とその妹強盗殺人事件裁判」公判第1回 ~ 第5回
   
朗 読 :四谷大塚中学入試問題作品
     大阪府立高校入試国語問題作品 
埼玉県立高校入試国語問題作品
    
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連載3回
ドストエフスキーと私 

 本論は、2006年、ドストエーフスキイの会例会で下原が報告した論文です。本論は、その後、会誌『ドストエーフスキイ「広場 16号」』に掲載された。また2011年に出版された下原康子との共著『ドストエフスキーを読みつづけて』にも収録された。
 後期は、ドストエフスキー『罪と罰』脚本化を口演稽古していきますが、ドストエフスキーとは何かを知るために、本論も併せて読みすすめてください。

【前回まで】これまでの検証からドストエフスキーはススメの復活で読み継がれてきたともいえる。しかし、依然として「なぜ読まれる」かは不明である。そこで先に注目した「世代間の共有体験」という見方を糸口に探ってみたい。ここでは筆者の世代、団塊世代を考察することで、謎解きの糸口をつかめればさいわいである。

第二部    団塊世代のドストエフスキー体験
      
(一)
 
ドストエフスキーのススメは、多くの読者を増やし様々なドストエフスキー体験を生むことになる。前記の会代表・木下氏はご自身のきっかけを著書『ドストエフスキーその対話的世界』あとがきで、体験の動機をこのように述べられている。

 私が昭和三十年代の大学時代、ドストエフスキーのとりこになったのも、スターリン批判、ハンガリー事件などの後の学生運動の状況と無縁ではなかった。

 昭和三十年代という時代もまた、「ドストエフスキーを想起しなければならない」時代であったようだ。想像するに、このときのドストエフスキー体験が、後のドストエーフスキイの会設立への原動力となったのではないかとみている。
 では団塊世代のドストエフスキー体験は、どうであったか。その時代は、果たしてドストエフスキーを「想起しなければならない」時代であったのか。私のドストエフスキー体験を団塊世代の一読者の体験として検証してみることにする。
 私の場合、いまから三十五年前、二十五歳のときはじめてドストエフスキーを読んだ。椎名麟三の『重き流れの中に』のあとがきがススメとなった。そこで紹介されていたのが処女作『貧しき人々』のデビュー秘話だった。たぶん『作家の日記』(米川正夫訳『作家の日記』1877年1月)のこの部分だったと思われる。抜粋

 …わたしが帰って来たのはもう午前四時ごろで、昼のように明るいペテルブルグの白夜であった。ちょうど素晴らしい気持のよい時候だったので、わたしは自分の部屋へ入っても、床につかず、窓を開けて、窓際に腰をおろした。とつぜんけたたましいベルの音がして、わたしをひと通りならず驚かした。やがてグリゴローヴィチとネクラーソフが、歓喜の絶頂といった様子で、わたしに飛びかかって抱擁をはじめる。二人ともほとんど泣かないばかりなのである。彼らは前の晩、早く家へ帰って来て、わたしの原稿を取り出し、試しに読みはじめた。「十ページも読んでみたら見当がつくだろう」というわけだったのである。けれども十ページ読んでしまうと、さらにもう十ページ読むことにした。それからはもう原稿から手を放すことができず、一人が疲れると、代わって朗読するというふうにしながら、とうとう朝まで座り通してしまったのであった。…
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…読み終わったとき、さっそくわたしのところへ押しかけようと異口同音に決議した。「眠ってたってかまやしない。たたき起こしたらいいんだ。これは睡眠以上だからね!」

 これが、私とドストエフスキーのすべてのはじまりだった。『貧しき人々』を読み終わった瞬間、私がこれまで読んできた書物は、すべて吹っ飛んだ。それほどの衝撃だった。どんなに血沸き肉踊る冒険小説より面白かった。頁をめくるのが惜しかった。こんな本が世にあるのか。街にでて誰彼にススメたい気持でいっぱいだった。世界がまるで変わってしまった。なんの変哲もない手紙小説は新たな宇宙を創るビックバンであったのだ。
 余談になるが、アメリカで、こういった意識を持ち得た作家がいた。ヘンリー・ミラーは、自身の体験を『南回帰線』大久保康雄訳で主人公にこう語らせている。抜粋紹介

 ある晩、私は、はじめてドストエフスキーを読んだ。その経験は、私の生涯で、もっとも重大なできごと、初恋よりも重大なできごとであった。それは私にとって意味のある最初の自発的、意識的な行為であった。それは世界の相貌を一変させた。私が最初に深い吐息をついて顔をあげた瞬間、実際に時計が止まっていたかどうかはー、それは知らない。だが、その一瞬、世界が停止したという事実だけは、はっきりと知っている。私は人間の魂の奥底を、はじめて瞥見したのだ。いや、もっと単純に、ドストエフスキーこそ自己の魂を切り開いて見せてくれた最初の人間であった。
………いまとつぜん世界から完全に隔絶されて、私は、はっと目をさました。あまりにも衝撃が大きかったので、身動きひとつできなかった。いったん動いたなら、雄牛のように突進するか、ビルの壁をよじのぼるか、さもなければ奇声を発して踊り狂うという結果になりそうだったからだ。ふいに私はその理由についてさとった。それは私がドストエフスキーの兄弟であるからなのだ。…ドストエフスキー二世氏は…

 ミラーは、自分のことをドストエフスキーの弟、あるいは二世と名乗った。日本では「私の唯一の神であり」「恩人であり」「聖母である」と讃えた詩人もいた。こうした意識は、呼び名こそ違うが洋の東西を問わず同じ意識や感覚から生まれでた思いといえる。

                 (二)

 個々のドストエフスキー体験によって、次に起きるものは何か。故事を覆す日本独自の現象である。つまり柳の下に何匹も集るドジョウ現象である。先の例会で木下氏は「武田泰淳とドストエフスキー」を報告し、武田泰淳はじめドストエフスキー体験者たちの戦後の動向を考察されたが、それによると体験者の一人埴谷雄高は、自分たちのことをこのように呼んだという。『広場』15号「武田泰淳とドストエフスキー」から引用

…「戦後、何処からともなく現れたパルチザン達が次第に一ヶ所に集ってくると、同時代者である私達はまぎれもなく同一問題を負わざるえなくなったドストエフスキイ族であることが明らかになった…

 論者・木下氏がこのドストエフスキイ族(椎名麟三、武田、埴谷)のなかで、とくに武田泰淳をとりあげたのは、この作家が経験したより強く深刻な時代体験だった。椎名や埴谷は思想や哲学といった転向や脳内世界の問題だったが、武田には「深い殺人論の延長線上」という戦争の現実があった。それ故に体験意識もより強烈とみたのである。
 ドストエフスキー体験について前記のヘンリーミラーは

まるで私は、あまりにも長年月にわたって塹壕のなかにおり、あまりにも長年月ににわたって砲火の下をくぐってきた人間のようであった。

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と書いているが、武田は現実に双方を体験したのである。
ここに戦場で武田泰淳がどんな体験をしたか彷彿できるルポがあります。武田は召集され中国へ一兵卒として派遣されました1937年10月。この兵士たちを見つめた目があります。従軍記者として12月に南京を目指した石川達三です。石川は、創作ルポ『生きている兵隊』を1938年3月『中央公論』に発表しますが、本は即日発禁になります。
どんなルポだったのか、戦争を知るためにも少し紹介します。引用12
場面は、戦闘で民家にいた母親が死んだ。17、8の娘が遺体にしがみついて泣いている。

 夜が更けるとともにこの女の泣き声は一層悲痛さを加えて静まり返った戦場の闇をふるわせていた。・・・聞いている兵士は誰も何とも言わなかったが、しんしんと胸にしみ透る哀感にうたれ更に胸苦しい気にさえもなっていた。はげしい同情を感じ同情を通り越してからはもの焦立たしい気になっていた。・・・

そして、ついに「ええうるせえツ!」と一人の兵士が塹壕を飛び出して行く。5、6人の兵が、ダダツと彼の後を追う。引用14

 彼等は真暗な家の中へふみこんで行った。砲弾に破られた窓から射しこむ星明りの底に泣き咽ぶ女の姿は夕方のままに蹲っていた。平尾は彼女の襟首を掴んで引きずった。女は母親の屍体を抱いて放さなかった。一人の兵が彼女の手を捻じあげて母親の屍体を引きはなし、そのままずるずると下半身を床に引きずりながら彼等は女を表の戸口の外まで持って来た。
「えい、えい、えいツ!」
 まるで気が狂ったような甲高い叫びをあげながら平尾は銃剣をもって女の胸のあたりを三たび突き貫いた。他の兵も各々短剣をもって頭といわず腹といわず突きまくった。ほとんど十秒と女は生きて居なかった。・・・

 この小隊の指揮官で大学の研修医である倉田少尉は、兵隊たちの行為は「それは正当な理論でありやむを得ないことである」としながらも苦しんでいた。が、兵士の殺して
「勿体ねえことをしやがるなあ・・・」の放言に救われる。戦争の個人的な意味の痛ましさは様々だ。最初に泣き声に耐え切れなくて娘を殺した兵士はどうであったか。
 いま、女は死に、泣き声は絶えた。そして戦場の夜は文字通りの死の沈黙であった。するとこのこの寂として音もなく冴えた夜の静けさが再び平尾にとって耐え難いものになりはじめた。彼はむらむらと腹の底から何か叫びたくなってきた。大言壮語すべきときであった。しかしこの場所でそれは出来ないことであった。彼は唇を尖らしてかすかに口笛を吹きはじめた。

 夜のしじまに流れる口笛。聞き浸る兵士。ロマンチックな風景。戦争の本質を見事に描き出したルポである。戦後のドストエフスキー派は、この不条理を体験しドジョウとなった。それだけに彼らしかわからない精神もあるのも事実だ。それが、分かり合う者同士で群れる、ということになるのかも知れない。
 先の例会で、木下氏は、武田泰淳をとりあげ、戦争が動機となったことを報告された。が、
 昭和30年代、戦後派と団塊世代にはさまれたこの時代のドストエフスキー派ほど見えにくいものはない。世界は、東西冷戦構造がはっきりし、ドストエフスキーの予見と警鐘は杞憂となっていたのではないでしょうか。ソビエト社会主義国はガカーリンの宇宙ロケット成功で西側を一歩リードしていました。日本の知識層はこぞって水晶宮の社会主義体制を賞賛していました。このような状況下でのドストエフスキー体験は、一億
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総動員、軍国主義を体験したドストエフスキー族とは、違うものがあるかも知れません。
 これはあくまでも想像ですが、木下氏はじめとする戦後と団塊の中間にあるドストエフスキー体験者は、国家という呪縛から解き放たれながらも、なお思想や主義という暗雲の下で密かにドストエフスキーを語らなければならなかったのでしょうか。このころ世界制覇を目指して広がる社会主義革命。ドストエフスキーは、色あせるばかりです。そんな状況下で、「ドストエーフスキイの会」は発足したのです。
 発起人のなかには、ひょっとしてドストエフスキーは終わった・・・いや、そうではない。こんなジレンマと疑念があったのではないかと思います。
 ドストエフスキーは、もはや過去の遺跡に過ぎない、と言ったのはD・S・ミルスキーです。(E・H・カー『ドストエフスキー』松村達雄訳)引用17

…真の近代的思想というべきものは、ドストエフスキーの影響を受けておらず、今後も受けないであろう。…(1931)

しかし、読み続けられた。会発足者の一人木下氏は、著書『ドストエフスキーその対話的世界』(生誕百五十周年に寄せて)のなかで、ドストエフスキーが過去の作家でないことをこう述べている。引用18

…19世紀の世界の作家のなかで、ドストエフスキーくらい現代的な作家はいないといっても、あながち言い過ぎではない。この作家の作品にふくまれる問題性、芸術方法は今世紀に入ってにわかにクローズアップされ、現代の世界の作家たちに、思想、方法の両面にわたって強い影響をあたえてきた。…

 ドストエフスキーの現代性を訴えた思いは、団塊世代の心をとらえた。「ドストエーフスキイの会」発足時の、例会がそれを証明しています。当時、会場だった新宿厚生年金会館の例会会場は、毎回立ち見がでるほど熱く燃えていた。そうして参加者の大半は若い人たちだった。つまり団塊世代の青春群像だったのです。
 彼らは何ゆえに、集ってきたのか。反ドストエフスキーの時代に・・・・。

(三)  団塊世代とは何か

 1970年前後。東京の例会会場に集ってきたドジョウたち。彼らは、団塊ドジョウたちは、いったい如何なる体験から、「精神と肉体」から柳の下を目指したのでしょう。
 その前に団塊世代とは何かを考えてみます。最近この世代のことがよく話題になります。(資料2)、昨日17日の読売新聞でも、このように大きく取り扱っています。
 そこで、一般知識としてHPの「団塊世代」をみてみました。以下、このように紹介してありました。引用19

※団塊の世代(だんかいのせだい)は第二次世界大戦直後の日本において1947年から1949年(1951年、または1956年生まれまで含む場合もあり)にかけての第一次ベビーブームで生まれた世代である。作家の堺屋太一が1976年に発表した小説『団塊の世代』によって登場した言葉である。団塊世代とも言われる。また、その子の世代は団塊ジュニアと呼ばれる。なお、日本のみならず米国等でも同様の現象がみられ、ベビーブーマーと呼ばれる。
定義にはいくつかある。
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一番多いものは、1947年(昭和22年)から1949年(昭和24年)の3年間に生まれた世代を指す。この場合、厚生労働省の統計では約800万人(出生数)である。通常、この解釈が一番多い。堺屋太一の原著でも3年間としている。
680万人とする説もあるが、こちらは人口推計における、昭和22年から24年生まれの世代が到達しているであろう年齢の人口を足し合わせたものである。(同統計は毎年の10月1日現在であり、その時点で当該年齢に達している人)
また、1951年(昭和26年)ないし1956年(昭和31年)生まれまで含む場合もあるが、マーケティングの分野では広めに解釈する場合が多いようである。
[編集] 団塊の世代の特徴
団塊の世代は、人口ボリュームが大きいうえ、その直前の世代が太平洋戦争の影響で出生が極端に少なく、急激に出生が増えたことから、同世代の競争が激しく、青年期を迎える頃には、他の世代に比べてとりわけ自己主張が激しくなったとされる。その反面、「平等」に強いこだわりを持つともされる(競争への指向も強い一方、悪平等になりうる面もある)。
上記のように一般的には自立心が強く、物事を切り開いてきたイメージがあるが、一方で自立した人物はごく一部であり、大多数は指示待ち症候群であるという意見も根強く、少数精鋭が求められる現代社会においては決して高い能力を有している世代とは言い難い面もある。しかし、実はこの傾向が高度経済成長期においては功を奏しており、指示に対して忠実に行動することで、大量の人物が必要であった当時の勤務状況を切り抜けられたとも言われる。
後述のように人口ボリュームが他世代と比較して大きく、知らず知らずに競争を繰り広げたため、競争意識と劣等感が強い場合が多く、また劣等感が強いため責任感に乏しい場合が多い。責任感が乏しいにも関わらず、競争心が強いため、周囲から認められない理由を周囲に押し付ける傾向が強い。 一般的に人間社会においては責任のある行動を取らなければ周囲に認められることは少ないため、この世代の人物がなぜ周囲に認められ難いかは、容易に気付くことが出来ない場合が多い。
団塊の世代は議論好きであるといわれる。団塊の世代は思春期に日米安全保障条約に反対する大人たちの闘争を見ており、また、戦争についても両親や周りの人間から悲惨さを語られ、文字どおり戦後教育を受けた世代であり、戦争に関連することへ強烈な拒否反応を持つ傾向がある。その一方、団塊世代の属する50歳代の自民党支持率は40%を超え民主党とほぼ拮抗しているという調査結果[1]があり、団塊世代が左翼であるという傾向が成り立つわけではない。
ライブドアによるフジテレビ買収騒動の最中、ライブドア社長堀江貴文を支持するかというアンケートで若い世代を押さえ、圧倒的に「支持」という答えが出たのが団塊の世代であった。このアンケート結果に団塊の世代の特徴がよく現れている。 つづく

文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信No.23 ―――――――― 8 ―――――――――――――

2019年度下原ゼミⅢ後期出欠記録

()は提出課題レポート
  
・志津木喜一 9/24  ―  10/8   ―   ― 10/29 ―  11/19                 
  前期4/14
・神尾 颯  ―   ―  ―  ―    -
  前期8/14
・松野 優作 9/24 ―   ―   ―   10/22     ― -
  前期2/14
・西村 美穂 9/24 10/1 10/8 ―   10/22 10/29 11/12 11/19
  前期14/14
・吉田 飛鳥 9/24 10/1 ―   ―   10/22 10/29 11/12 11/19
  前期14/14  (1)
・中谷 璃稀 9/24 10/1 10/8 10/15 10/22 ―  11/12 11/19
  前期13/14  (1)
・佐俣 光彩  ―   ―   ―   ―   ―   ―   ―
  前期6/14
・東風 杏奈  ―   ―   ―   ―   ―   -   -
  前期4/14
・山本 美空 9/24   ―   ―  ―   ―   10/29  ―
  前期7/14
        6   3  1  4   4   4   3    4
       

読書会のお知らせ ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」

月 日 : 2020年1月11日(土) 開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室(池袋西口徒歩3分)
 作 品  :『カラマーゾフの兄弟』5回目 報告者 : フリートーク

         ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」

月 日 : 2020年2月29日(土) 開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室(池袋西口徒歩3分)
 作 品  :『カラマーゾフの兄弟』6回目 報告者 : フリートーク

連絡090-2764-6052下原 メール:toshihiko@shimohara.net

熊谷元一研究情報

法政大学国際文化学部

●日時:11月23日(土)15:00~18:00 35人参加
●会場:法政大学 市ヶ谷キャンパス ボアソナードタワー3階 BT0300教室
●テーマ:熊谷元一―教師・写真家・童画家の三足の草鞋を履いて

[編集] 団塊の世代のキーワード
• ニューファミリー
• サブカルチャー
• ジーンズ
• アイビールック
• 長髪
• マンガ週刊誌
• 全共闘
• 学生運動
 団塊世代とは何か。引用19の解説で、その外貌はいくらかわかったかと思います。もう一つ、ここに団塊世代の性格を表現した引用があります。 
 森 毅著『団塊の主張』という本です。11年前(1995・11・10AG出版)、本書の序文に司会者森氏の「団塊の世代よ!」という年長者からみた評があります。見方はさまざまですが一つの印象として紹介します。ちなみに、本書には、ドストエーフスキイの会員で『村上春樹とドストエフスキー』の著者もある横尾和博さんも、遅れてきた世代を代表して文をよせています。引用20

・引用20

 …団塊の世代と言うと、進学・就職・結婚と、いつでも被害者のように語られてきた。しかし、戦後を支えたハタラキバチの上の世代を量と新しいスタイルによっておびやかし、団塊の世代そのものは、いろいろな新しい可能性を開いていたのに、その下の世代は彼らの残したものにとらわれた。学生運動にしても、いくらかええかげんで楽しかったはずの全共闘が神話になって、下の世代は「正義」の枠にしばられた。だから、上の世代をおびやかし、下の世代にツケを残した。加害者の世代だったのではないか。…戦後の日本は、彼らとともに進んだ。波がしらは、いろいろなものを飲みこみながら、どんどこ進んでいくものだ。…団塊世代にとっては、道は一つに決まっていたのではなく、ナンデモアリだったとぼくは思う。

 なんと、この評では、団塊世代はナンデモアリの加害者の世代だといいます。辛らつな評価であります。が、納得できるところもあります。先日、国会で教育基本法改正法案が通過しました。団塊の世代は、この基本法ができた昭和22年に生まれ、昭和29年、自衛隊が発足して日本が独立国家として歩みだしたときから教育を受けていのです。 
 このころ、いまもそうですが民主主義、自由主義といえば聞こえはいいが、要するにタガが外れてしまった国家です。見本もないなんでもありの社会です。団塊の世代は、こんな社会状況下でそだったのです。彼らが自分たちをとりまく権威や決まりが、たんなる戦前の遺跡にすぎないと理解するには、そう時間がかかりませんでした。で、こわしはじめると、これが簡単に壊れていく。彼らは、公然と権威や国家にたてつきはじめたのです。17日の読売のアンケートでマイナス面で「モラルや道徳心が失われてきた」とありますが、これは団塊世代の責任ではないと思います。昭和40年、東京は排気ガスに覆われていました。そのころ団塊世代は、大学生になったばかりでした。
 団塊の世代は、アメリカという大審問官から自由とパンを何の苦労もなしに与えられた大人たちに疑問を感じはじめていました。つぎに、彼らの精神を揺さぶったのはどんな時代かです。

 
                

 完

 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 掲示板 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●内容:熊谷元一(1909~2010年)は現在の阿智村に生まれ、児童画を描いて武井武雄に認められます。同時に、阿智村の何気ない日常生活を写真で記録し続け、また教師として生徒一人一人の個性を伸ばし、性格に合った指導をするためにも、写真を有効に活用します。そうした教師・写真家・童画家としての三足の草鞋を履き、101歳まで活躍した熊谷元一について、その活動やそれが現在の私たちに語りかけるものを、関連する映像を観ながらともに考えます。著名な写真集『一年生』(岩波写真文庫)に登場し、恩師熊谷元一を顕彰する活動を続けている下原敏彦氏にも当日、会場にお越しいただく予定です。

具体的には、以下のような作品の上映を予定しています。

熊谷元一の絵を使った伊那谷のふるさと歳時記/阿智村の変貌する昭和史を熊谷元一の写真で構成した番組/熊谷元一自らが教え子たちのその後を追った番組/三足の草鞋を履いた熊谷元一が残したものを考える番組、など

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