文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信 No.105

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2008年(平成20年)6月16日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.105
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
2008前期4/14 4/21 4/28 5/12 5/19 5/26 6/2 6/9 6/16 6/23 
6/30 7/7 7/14 
  
2008年、読書と創作の旅
6・16下原ゼミ
6月16日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ教室2
 1.出欠・連絡事項・司会進行者指名・ゼミ誌作成報告
 2.課題提出原稿読みと感想  
      
 3.テキスト『正義派』(&『出来事』)読み
  4.「一日を記憶する」関連作品読み&表現・紙芝口演居(残り)
     
 
     車窓 北朝鮮問題に想う①
 車窓に再び北朝鮮問題がちらつき始めた。「脱北女性が総連提訴」「地上の楽園は虚偽」(6月13日読売)「よど号・拉致容疑者、帰国へ」(6月14日朝日)「政府、制裁一部解除へ」(読売)などなど、このところ北朝鮮関連の記事が大見出しになっている。
 しかし、「時空ゼミ2号」搭乗の隊員は、大半が平成生まれ。この車窓を見ても、恐らくすぐには理解できないのではと想像する。そこで過去の車窓を呼び戻して見た。
 朝鮮問題のそもそもの発端は、1910年(明治43年)8月22日にある。「韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ、完全且永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲与ス」(第一条)の調印にある。が、いまさら歴史を紐解いて悔いてみても仕方がない。そこで、現在に通じる出来事。まず「総連提訴」「地上の楽園」とは何か、からみてみたい。韓国併合以来、朝鮮半島から大勢の人たちが日本に働きにきていた。なかには強制的に連れてこられた人たちもいる。日本は、西欧の真似をして植民地化していたのだ。しかし、1945年日本が戦争に敗れたことで、宙に浮いた。とたん朝鮮半島では、思想戦がはじまった。1950年朝鮮戦争勃発である。アメリカとソ連の代理戦争である。戦いは決着がつかず、北緯38度線付近(板門店)で停滞し1953年休戦協定が調印された。結果、朝鮮半島には二つの国家が誕生した。当然、日本は米国が助ける南朝鮮・韓国を応援した。が、その実、日本のマスメディア、インテリ層は、金日成という指導者がいる北を密かに応援していたのだ。1917年、ロシアは、革命によって社会主義国家を誕生させた。だれもが平等に暮らせる社会。ソビエト連邦は、人類の壮大な実験国家であった。北はその流れを汲む国とみた。「地上の楽園」の虚偽信仰は、まさにそこから生まれたといえる。1962年公開された日本映画「キューポラのある街」(浦山桐郎監督吉永小百合主演、ブルーリボン賞)は、帰還事業によって楽園の地に帰っていく在日の人々や日本人妻が描かれている。本当は、独裁者が支配する恐怖の収容所国家。だが、当時の日本の識者は、ひたすら新しい国づくりに燃える北の指導者に感動していただけだった。


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.105―――――――― 2 ―――――――――
車窓雑記
秋葉凶行の謎
 車窓には、早くも違う出来事が映っている。14日朝、発生の岩手・宮城内陸地震である。こちらは自然のなせる業。防ぎようはないが、それでも対策はある。しかし、先週の日曜日に起きた、事件は、対策のしようがない。8日の昼、秋葉原で起きたあの連続無差別殺傷事件のことである。先週のゼミで触れようかと思った。が、ちょうど新聞の休刊日にあたり事件の推移がまだよくわからなかった。それで話題にしなかった。他のゼミでは雑談の中で出たらしい。犯行時、現場近くにいた人もいたという。うちのゼミはどうだろうか。人気の街だけに、1人ぐらい行った人もいたのでは、と思ったが、そんな様子は感じられなかった。
 突然の凶行。不可解な事件だが、一週間過て、全貌が少しずつわかってきた。10日までの新聞、テレビによると犯人加藤智大容疑者(25)の経歴と評判、メールに書き込んだ自己解説などは、このようである。
・1982年9月青森市で生まれる。2人兄弟の長男。近所では評判の秀才。が、自己解説は、両親が書いた作文、画いた絵で賞をとった。両親とも教育熱心で、話題はテストの点。10日夜、父親が謝罪するニュースがあったが、「本人がきっちり自供するでしょう」など謝罪にしては、他人事のような会見だった。見かけで判断すべきではないが、チェックのシャツという何ともラフな服装に違和感があった。別居中の母親も一緒だったが、その場に倒れた。
・1998年4月青森県立青森高校入学。報道では有数の進学校。秀才中の秀才がはいるとか。ちなみに太宰治こと津島修治もここの卒業生とのこと。小中と、常に成績はトップだったが、高校では、三百何人中三百番前後ぐらい。理数系大学受験するが失敗。両親は周囲にいい大学にいっていると話していた。このころから母親に暴力をふるう。担任は、インタビューで「印象のない、おとなしい生徒だった」しかし、自己評価は、キレる、ごうじょう。
・2001年4月中日本自動車短大自動車工学科入学
・2003年3月短大卒業、青森、茨城県などで職を転々とする、派遣社員。
・2007年11月派遣社員として静岡市にある自動車工場に勤務。
・2008年6月8日、秋葉原で無差別殺傷事件をおこす。
 この25歳の凶悪男は、なぜ、あのような残忍な犯罪を起こしたか。その動機を本人、識者がいろいろと分析している。とくに本人の自己分析は、冷静そのものだ。テレビ、新聞などのマイメディアで報じられていた原因を、いくつかあげてみた。
 まず本人の自己分析=①教育熱心だった親に責任がある。死んで自分にお詫びしろ。
②自分の顔が不細工だから女にもてない。③自分はモノとして扱われているなど。④事件は誰かがとめてくれると思った。
 識者・専門家の分析=①キレやすい性格。②派遣を生んだ社会構造に問題が。③自己中心的人生。④劣等感のかたまり。⑤ネットに問題が…
 さまざまな動機が、容疑者を凶行に走らせたようだ。が、結局は、犯人の特異な性格による犯行だったのでは。以前、昼のワイドショーを見ていたら、九州のプールで起きた銃乱射事件について、ある作家がこんなコメントをしていた。「犯人について、だれかを想像すれば、ドストエフスキーの『罪と罰』のラスコーリニコフとか、三島事件です」と。夜も昼も事件を起こすことばかり考えて、ついには凶行するからだという。なるほどと思う。ラスコーリニコフは、英雄になりたい一心で、事件を起こす。秋葉の犯人も夢はワイドショー独占だった。そういえば三島事件の三島由紀夫も、前々から事件を起こすようなことを公然と話、書き、創作していた。彼らにあるのは、恐ろしいほどの、病的とも思える劣等意識である。
 このことで思い出したが、ときどき道場に、彼らを彷彿する見学者が現れる。子供だったり、高校生だったり、青年だったりする。彼らの目的は、強くなりたい、だが、投げられるのはイヤ。技だけを覚えたいと、訴えるのだ。修業期間の欠落。そうして、その論を受け入れてもらえないことへの不満をいつまでも話す。彼らは、たいてい学業は優秀と自己評価する。自己批判、自己反省がないことに戦慄する。
――――――――――― 3 ―――――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.105
2008年、読書と創作の旅
「ゼミ2」号乗員名簿
 「2008年、読書と創作の旅」に参加した皆さんは全員で16名です。時空船「ゼミ2」号で、究極の目的「人間とは何か」を知るために、読むこと書くことの習慣化を目指します。が、お互いまだよく知り合っていないと思いますので、暫く掲示します。1年間、一緒に過ごす皆さんです。(希望カード提出順・敬称略)
 さかもとよしあき  おおの なつみ  かわばた りか  ほんな ともこ
・阪本 義明 ・大野 菜摘 ・川端 里佳 ・本名 友子
 ながぬま ともこ  のじま りょう  おおたに りえ  たきざわりょうすけ
・長沼 知子 ・野島 龍  ・大谷 理恵 ・瀧澤 亮佑
 
 あきやま ゆか   たやま ちかこ  かんだ たいすけ  おぐろたかゆき
・秋山 有香 ・田山 千夏子・神田 泰佑 ・小黒 貴之
 とねひらともや   はしもとしょうた いいじまゆうき   うすきともゆき
・刀祢平知也 ・橋本 祥大 ・飯島 優季 ・臼杵 友之
※出立の記念撮影は、全員が揃ったときに撮ります。
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「2008年、読書と創作の旅」における係
 この旅は、1年間という長旅に加え、同行者も定員の16名と小団体です。旅程をスムーズに快適にするために係を設置、お願いしました。幸いに自薦・推薦によりそれぞれの係が決まりました。協力し合って、よい旅にしましょう。どんなに小さな問題も自分だけで抱えこまないで皆で話し合って解決しましょう。
 自分だけではなく、皆がよくなれるように自他共栄の精神をもって当たりましょう。その思いは、巡って自分のためになります。情は人のためならず、です。
「2008年、読書と創作の旅」班長・副班長
 どんなに少人数の旅でも、まとめ役の人は必要です。意見や相談事の伝達、課外活動のまとめ、幹事役などに当たってくれれば幸いです。
◎ 班長・小黒貴之さん      ○ 副長・瀧澤亮佑さん
「2008年、読書と創作の旅」旅日誌作成編集委員
 この旅の最大の成果、旅日誌作成の音頭をとってもらいます。印刷会社との交渉もありますが、全員で協力して記念誌を作りましょう。
編集長  ・ 川端里佳さん   大野菜摘さん
副編集長 ・ 小黒貴之さん
編集委員 ・ 坂本義明さん   橋本祥大さん   
       飯島優季さん   瀧澤亮佑さん  補助委員・全員
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.105 ――――――――4 ―――――――――
「2008年、読書と創作の旅」8日目
はじめに  → 出欠、「ゼミ通信」配布、連絡事項、その他 
 
司会進行決め  →  毎回、順番にやってもらいます。担任が指名。
司会者進行
1.ゼミ誌作成に関する報告 
 川端・大野編集長、小黒副編集長、坂本・瀧澤・橋本・飯島編集委員
2.課題原稿読み
 ※提出原稿の本欄への掲載は、合評するので原則として原稿通りとしますが、あきらかな
  誤字、脱字、難読など不明個所は修正するか下線とします。
【普通の一日を記憶する】
300円以下の時間
 長沼 知子
 今日は自分のためだけに行動しようと一週間前から決めていた。一ヵ月半ぶりの本当に何もないオフの日。正確には何も予定を入れないという予定をしていたけれど。
 朝はもちろん目覚ましなど掛けずにだらだら寝て、おはようとは言えない時間に布団から這い出す。ガミガミうるさいお母さんのためになんか起きない。寝巻きのままソファへダイブ。そのまま昼食がでてくるまで占領。朝食を摂らなかったために言うまでもなく空腹の私は、箸を取ってからラーメンどんぶりの底を拝むまで咀嚼するため以外に口を開けることはなかった。いただきます、も言ったか、記憶にございません。
 こんな無駄に見える半日も実は意味がある。
 私は体中いっぱいいっぱいですぐにでも皮膚が裂けて溢れ出しそうだった。容量オーバーです、他のデーターを消して下さいといった状態で、これは一度電源を落として冷まさなきゃいけないと思いながら何とか今日まで持ち堪えてきた。だから今日こそ他の何をさておいたとしても休まなければいけない。この機会を逃したら、かなり笑えないことになるかもしれない…とさえ思っていた。
 午後はたんすの中を引っかき回して、あれでもないこれでもないと服を着ては脱ぎ、脱いでは着、たっぷり時間を掛けて普段の嗜みとは違う化粧をした。単に外出するためでも好きな人のためでもない、自分のためだけのお洒落をじっくり楽しんだ。
 満足するとノートと筆記用具、それと読みかけの本を鞄につめていそいそと家を出た。自転車にまたがり、久しぶりに晴れた午後の風景に微笑む。いつも秒単位で時間と競うようにペタルを漕ぐ道も、腕時計を一切見ないだけで色を持った風景として息づいてくる。それは電車のために急がないからだ。
 のんびりとホームに降りると、案外早く電車がきた。物事ってそういうもんなんだよね。そういうことすら忘れてた。隣り駅までの乗車時間は考えごとをするのにちょうどいい。
 カツカツという小気味いい自分のヒールの音に少しくすぐったくなりながら、改札を抜けて全国チェーンのコーヒーショップへ入った。実は一人で入るのは初めてだったが常連顔でおかわり自由のカフェオレを頼んだ。店の中で唯一知っている声であるヘッドフォンの歌声の音量を上げることで少しづつ自分のスペースを作る。さて、何をしようかしら。
 今から何でもできると思うと私はうっとりした。この一か月夢見てきたささやかだけど実現できなかったことが何だってできる。それだけでカフェオレの最初の一杯を飲み干せた。 
―――――――――――― 5 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.105
 二杯目は所帯染みているが、欲しい物とやりたいことを書き出し、それにかかる費用と貯金を計算しているうちになくなった。三杯目は読書をと思ったのだが、私の後ろがうるさすぎる。店に入った時からずっとガマンしていたのだが、女子中学生くらいのグループの甲高い笑い声は私のヘッドフォンを突き破って脳へ直に響く。始めは私も昔はこんな、いやもっとうるさかったかなと思い耽る余裕があったが、二杯目が冷え切るころにはいい加減にしろよ!?と振り返りたくて仕方なかった。だが、この300円に満たない294円のカフェオレとこの店で得られる時間は、冷えきった手足に感覚が戻るように私の隅々をほぐしてくれているのだから、ゆとり世代が騒ごうが店員が三杯目のおかわりに嫌な顔をしても関係ないじゃないか。そう思い直し私はめげずに読書に取り掛かった。感動して涙ぐみそうになっても彼女らの声のおかげで一気に現実へ引き戻されて、公共の場で涙を流させないでくれた。
 オレンジの夕日がより赤みを増すころ、三杯目を流し込み本を閉じた。いつの間にか中学生たちもいなくなっていた。昨日の私と今の私は決定的に違う。300円でおつりがきて私が帰ってきた。今度は帰りの時間を気にしながら改札へ急いだ。
□ なんとなくミステリアスなはじまり。「300円以下の時間」というタイトルも、謎めいている。どんな一日だろう。読者の興味を大いにそそります。私を変えたものは何か。はっきり説明してしまうというのも微妙ですが・・・・。
【車中観察】
広告という名の電車
  小黒 貴之
 日曜の正午前、京葉線が鉄橋を通過していく。列車の進行方向とは逆さまに、鉄骨の描く三角形のシルエットが車内の陽だまりを刻んでいる。乗客もまばらで静かな車両をアナウンスの声が抜けていく。車窓から臨む東京湾の波は穏やかだ。
日常にある風景のはずだが、穏やかすぎてかえって非日常に感じる。もう何年と朝夕新宿方面の電車を使ったおかげで体に染みついてしまった、車内とは殺伐とした喧騒にひしめいているものだという印象が薄らいでいく。ここは本当に東京なのかなと和やかな雰囲気の中、図書館で借りた本のページをめくっていた。
これで吊り輪広告さえなければ、車内は真っ白になり実に気分もすがすがしいのだろうが。僕はメントスを一つ口に放りこんで頭上ではためく宣伝文句を見上げた。
年金問題、就職&進学、有名人の死、何かこの内の一つでも、現在の自分に必要不可欠な情報があるだろうか、おそらく、無い。僕は図書館でバイトしているので雑誌のバックナンバーを目にする機会があるのだが、まずこの手の謳い文句というやつに信憑性はないといっていい。世相の不安と鬱憤、そして購買意欲を煽りたてているだけだ。
犬の散歩仲間の老婦人がパリから戻ったとき、土産話のおしまいに、日本の電線と広告の多さにはうんざりさせられますとつけくわえたのを思い出す。ヨーロッパでは街の景観を保つために規制があるのだそうな。だからこそ観光パンフレットの町並みも映える。
また実際、僕も中国から帰国した際に東京駅から乗った電車の中では文字に酔った。視界に飛び込んでくる文字が読みたくもないのに読めてしまう。水がなくても飲める胃薬、紫外線カットの化粧品、そんなものがひしめいていて言語中枢に侵入してくる。不必要な情報の羅列に船酔いを起こしているような気色悪さがあった。
もちろん中国にも看板や宣伝は無数にあふれていたが、向こうの看板は漢字であるが意味がわからない。わからない以上、文字がただの模様と化していた。それが日本に返ってきてあまりにも言葉が溢れているものだから、僕は眩暈に似た感触を覚えたというわけだ。
降りた新木場の改札口から、鋭利なフォルムの三枚羽の巨大な風車が見えた。風力発電所らしい。遠巻きに眺めると陶器のように白い羽は快晴のブルーによく映える。ともすると、
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いつか人はあの翼にさえ広告を貼りつけろと言いたがるかもしれない。
そういう無粋な真似だけはして欲しくないものだと思いながら、僕はカメラを向けて真っ白い羽が空を刻む姿を撮影した。
□そうですね。どうして日本は、こう広告が多いのでしょう。西欧のことは、すべてマネし模倣するのに、なぜか広告だけは――です。もっとも、これで減ったといえば驚くでしょう。昔の映画を観ればわかりますが、昭和40年代頃まで、看板は野や山にまで溢れていました。
3.テキスト『正義派』(&『出来事』)読み
 ときどき電車が急停車する。時間通り発車しない。原因は、「架線のトラブル」「線路内に人が入った」など様々だが、アナウンスで耳慣れしているのは、「人身事故がありました」である。遠い電車の話なら、「またか」といったうんざりした雰囲気が車内に漂うが、自分が乗った電車だと、嫌な気持になる。昨年の今頃だったか、所沢から乗った特急が、途中駅で急停車した。その直前、電車になにかが当たる鈍い振動を感じた。人身事故と放送された。おそらく助かるまい、という思いもあってか、後味悪く残っている。
 電車は、始発から終電まで、間断なく走っている。1時間に1本、半日に1本のところもあれば、山手線のように多いときは3分に1本のホームもある。それだけに今日、人身事故は、決して珍しいものではない。が、まだ電車がそれほど多くなかった大正はじめの時代においても、人身事故は、よくあったようだ。本日とりあげるテキスト『正義派』(時間あれば『出来事』)は、子供の事故の話である。事故は、いつでも痛ましいが、この作品は、後の『出来事』と対極にある。『出来事』は、助かった子供の話だが、この話は、事故にあって死んでしまった子供を目撃した人からの創作である。観察において『出来事』は、自分の目で見、体験した話。方や、『正義は』は、人から聞いて想像した話。現場も、電車の外、車内の『出来事』とは、対照的である。
■『正義派』1912年(大正元年)9月1日発行の雑誌に発表された。
1912年(明治45年)5月2日の日記に
 夜少し仕事をした。(興奮という題の)
5月5日には、
 「興奮」という題の小説を書き上げた。
5月17日には、
 「線路工夫」を少し書いてみた。
5月28日には、
 夜「正義派」の…書き了つた。感心すべき物ではない。
8月25日に、
 とうとう「正義派」を書き上げる。悪い小説ではない。
【創作余談】
 「車夫の話から材料を得て書いたもので、短編らしい短編として愛している」
■ 『出来事』1913年(大正2年)『白樺4号』にて発表。
4.テキスト関連作品読み『ひがんさの山』
 この作品は、「一日を記憶する」「生き物観察」「大人観察」、それに「うさぎ狩り観察」という複数観察を混合させた作品です。ある国立大教育学部ゼミでテキストにしたところ、内容に対極の感想がでたそうです。付随の模擬試験問題と併せて考えてみましょう。
―――――――――――――― 7 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.105
6・9ゼミ報告
 
出席者・13名
 電車の窓外が途中から明るくなった。「航空公園」駅を出ると、日差し。が、路面は濡れている。短時間に強い雨が降ったようだ。梅雨入りの前触れか。九州地方は梅雨入りのニュース。鬱とおしい季節。出席者が気になった。
 この日、6月9日の出席者は、以下13名の皆さんでした。
 
・川端里佳  ・大谷理恵  ・野島 龍  ・長沼知子  ・刀祢平知也
・田山千夏子 ・瀧澤亮佑   ・小黒貴之  ・飯島優季   ・臼杵友之  
・秋山有香  ・大野菜摘  ・神田泰佑  
○ 「ゼミ通信103」配布。
○ 司会進行は、瀧澤亮佑さん
1.ゼミ誌ガイダンス&作成計画報告 川端編集長、小黒副編集長
 ○印刷会社 → 決まり 昨年依頼した。フジワラ印刷(株)
 ○作成計画 → 予定 雑誌の大きさ=A4の半分ぐらいのもの
            内容(未定)=創作か詩編
            数(未定) =1人1作か、枚数制限有りかも
            締め切り  =夏休み中に書いて、明けに提出           
2.課題原稿読みと感想 【車内観察】1本
刀祢平知也「僕の中央線」
(この後、サークルの「オチケン」があるということで浴衣姿の出席でした)
感想 → 「逆そうしろ、爆発しろの繰り返しに臨場感がある」「閉塞した状況がでている」
作者 → 予備校に通っていたときの気持。字数が少なかったので伝えることができたか。
3.テキスト『或る朝』読み
 この作品は「一日を記憶する」の手本として取り上げた。4、5頁掲載の長沼さんの作品『300円以下の時間』のなかで「ガミガミうるさいお母さんのためになんか起きない」と書いていますが、まさにそんな状態を描いた作品です。12歳のとき母を亡くしている作者にとって祖母との関係は普通の孫、祖母の関係より深く強いと思います。肉親が故に、親しいが故に、ちょつとしたことで意地を張り合ってしまう。作者志賀直哉の文学は、ほとんどが、家庭の問題を扱っています。名作『和解』は、父親との些細な行き違いを確執にまで発展させてしまつた話です。この作品は、祖母への愛情の裏返しがよく描けています。
感想 → 「末尾の方の炬燵で遊ぶ子供の描写が生き生きしている。」「自分も祖母に育てら
     れたので、この状況がよくわかる。作者のあまのじゃくぶりが身にしみる。
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4.テキスト関連作品読み 夏目漱石『三四郎』
 先に読んだ『網走まで』と『三四郎』についての感想
・「25歳の志賀直哉と41歳の夏目漱石の作品を比較するのは無理」
・「サークルで『三四郎』の映像をやるところだったので、ちょうどよかった」
・「田舎から上京するあいだに、大人の女性や男性客と同席したことで心境が変化している。
 成長を感じる」
□当時は、無名の文学青年と、中年の大流行作家の作品。比べようもないが、時を経ていま、両作品に作者の年齢の差は感じない。『網走まで』は創作の手本として、『三四郎』は面白い教養小説として時代を生き抜いてきたことを知るのみである。
ゼミ誌について
ゼミ雑誌発行は12月15日厳守です。
 ゼミの実質的成果は、決められた期日までのゼミ雑誌発行にあります。毎年、納品日の遅れが指摘されています。一年間の大切な成果なので、しっかり守って、よい雑誌をつくりましょう。本ゼミは、二人編集長と一人副編集長に四人の編集委員が、アシスト、全員が協力します。ゼミ誌は自分の作品でもあるので、全員一丸となって当たりましょう。
ゼミ誌原稿について
 ゼミ誌原稿は、そのために書くというより、日々の授業のなかで育てることをすすめます。締め切り前あわてて書くより、発表した観察作品を草稿として完成品に高めるよう創意工夫してみてください。合評したとき、皆の印象や意見を参考に。
・編集委員長=川端里佳 大野菜摘
・編集副委員長=小黒貴之
・編集委員=阪本義明 橋本祥大 飯島優季 瀧澤亮佑 
・補助委員=本名友子 長沼知子 大谷理恵 野島 龍 田山千夏子 臼杵友之 
      秋山有香 神田泰佑 刀祢平知也
ゼミ誌作成の進行状況と予定は以下の通りです
○決定事項 6月9日報告 → 印刷会社、フジワラ印刷(株)             
1. 6月中旬 → ①「ゼミ誌発行申請書」の提出。出版編集室に
2. 6月~  → 全員でゼミ雑誌の装丁を話し合う。題名・内容・サイズ・印刷会社など
        ※印刷会社は、過去に依頼した会社は文芸学科スタッフに問い合わす。初
        めてのところは必ずスタッフに相談する。
3. 7月下旬 → 原稿依頼し、締め切り日を決める。だいたい夏休み明けがよい。
4. 9月末  → 編集委員にゼミ誌原稿を提出。
5. 10月上旬 → 編集委員は、内定の印刷会社から②「見積書」をもらう。
6. ~11月 → 「見積書」の提出。印刷会社と相談しながらゼミ雑誌作成。
7. 12月 → 15日までにゼミ誌提出、③「請求書」提出
注意事項!!
◎ ①【ゼミ誌発行申請書】、②【見積書】、③【請求書】以上3種類の書類が提出されない
  場合はゼミ誌の発行はできません。補助金の支払いも認められません。
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「2008年、読書と創作の旅」の記録
□4月14日 参加者約20名。旅説明と嘉納治五郎の青年訓「多読と精読」読み。
□4月21日 司会=小黒、登録11名出席。旅立ちに際して紀行文と書簡の読み。『おくの
      ほそ道』「発端」「旅立ち」。ドストエフスキーが国家反逆罪の罪でシベリアに
      向う朝、兄に書いた手紙を読む。志賀直哉の車中作品についての説明。
□4月28日 司会=田山、15名出席、名作紹介・サローヤン『空中ブランコに乗った大胆
      な青年』読みと感想と解説。議論・新聞「人生案内」愛の告白について〈私な
      らこう答える〉、登録者16名に。
□5月12日 司会=本名、13名出席、ゼミ正副班長指名、ゼミ誌編集委員決め。新聞記事
      紹介。「小林多喜二『蟹工船』」と志賀直哉の関係。紙芝居『少年王者』の作者
      山川惣治の本が刊行される。東京新聞取材のドストエフスキーの全作品を読む
      会「読書会」の宣伝。提出原稿6本の読みと合評。
     【車内観察】5本
      ・本名友子「台風一過」・瀧澤亮佑「タイムスリップ」・秋山有香「新入生」
      ・川端里佳「ランデブーは車内で」・大野菜摘「園児とサラリーマン」 
      【生き物観察】1本
      ・小黒貴之「スカーフ猫は喉を鳴らさない」
□5月19日 司会=飯島、12名参加、新聞記事紹介=「『蟹工船』再記事について」「五月
      病記事について」「候補漢字220字について」など。提出原稿1本の読み。
      【一日観察】
      ・野島 龍「夜明けからの一日」
      【テキスト読み】
      ・『菜の花と小娘』 ・草稿『小説 網走まで』
□5月26日 司会=川端、12名参加、小黒班長=ゼミ合宿の有無。合宿なしで決定。
      名作読みA・ランボー「谷間に眠るもの」、車内観察テキスト見本「夫婦」
      完成作『網走まで』感想
□6月2日 司会=秋山、14名参加 『少年王者』と『灰色の月』の関係。
      【車内観察】1本
      ・長沼知子「立ち聞き」
      【一日を記憶する】1本
      ・秋山有香「一日の出来事」
      【コラム】1本
      ・瀧澤亮佑「池波正太郎『散歩のとき何か食べたくなって』を読んで」
      【少年王者】紙芝居口演
      ・14名全員が口演。約1時間。三分の二
□6月9日 司会=瀧澤、13名参加、編集委員=ゼミ誌報告、印刷会社決定など
      【車内観察】1本 
        ・刀祢平知也「僕の中央線」
      テキスト読み『或る朝』、車中観察関連作品夏目漱石の『三四郎』上京まで
      
時空旅日誌 
 6月9日、車中は、スポーツ新聞を読んでいる人が多かった。新聞休刊日なので、当然ともいえるが、それを上回る乗客、絶対にスポーツ紙を読まない人たちまでが、熱心に読んでいる様子。皆の集中は、秋葉の事件の記事である。まだよくわからないのでゼミでは話題にしなかった。帰りも車中は、夕刊に見入る人が多かった。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.105―――――――10 ―――――――――― 
志賀直哉 1883年(明治16年)2月20日~1971年(昭和46年)10月21日88歳
6月9日で『網走まで』『菜の花と小娘』『或る朝』3部作を読み終える。
3部作のまとめ   学生と読む志賀直哉の車中作品(推敲2回目)
時空船「ゼミ2」号・編集室
志賀文学の出発点
 小説の神様といわれる志賀直哉の作品といえば唯一の長編『暗夜行路』をはじめ『和解』『灰色の月』『城の崎にて』といった名作が思い浮ぶ。浮かばない人でも『小僧の神様』『清兵衛と瓢箪』『菜の花と小娘』と聞けば、学生時代をなつかしく思い出すに違いない。最近は、そうでもないようだが、これらの作品はかつて教科書の定番であった。また、物語好きな人なら『范の犯罪』や『赤西蠣太』は忘れられぬ一品である。他にも『正義派』『兒を盗む話』など珠玉の短編がある。いずれも日本文学を代表する作品群である。こうしたなかで、「いわゆる三つの処女作といわれている」『網走まで』『菜の花と小娘』『或る朝』は、一見、なんの変哲もない小説ともエッセイとも思えぬ小作品である。が、その実、志賀直哉の文学にとって重要な要素を含んでいる。三篇とも志賀文学の根幹を成す作品といっても過言でない。最終駅『和解』『暗夜行路』へとつづく長い旅程の始発駅ともいえる。
 かつて川端康成は、志賀直哉を「文学の源泉」と評した。しかし、その意味について正直、若いとき私はよくわからなかった。ただ漠然と、文学を極めた川端康成がそう言うから、そうなのだろう・・・ぐらいの安易な理解度だった。ところが、この数年ゼミにおいてテキストにとりあげ、学生たちとあらためて志賀文学を再読、再々読するなかで、自然その意味することがなんとなくわかってきたような気がする。そうして、川端康成が評した「源泉」は、処女作三篇にある。そのように思えてきたのである。
 そして、この三篇、『或る朝』、『菜の花と小娘』、『網走まで』を読解できなければ、志賀直哉の文学を理解できない。この三篇が評価できなければ、志賀文学というものを終生、わかることができない。もしかして、とんでもない思い違いをしているかも知れない。が、そのように読み解いたのである。ゼミでは、この処女作を出発点として主に車中作品をとりあげ毎年、読みつづけてきた。平成二十年、今年もこの三部作を読み終えたことで、これまで書き足してきた論に新しい考察を加えてみた。本稿がそれである。
 なお、その前にこれらの処女作についての後年の作者の感想を紹介したい。1947年(昭和22年)『網走まで』が細川書店より出されたとき、64歳の志賀直哉は、あとがきにこのように記している。※細川書店版『網走まで』あとがき(全集八、編集室が現代表記)
 発表した順からいうと、この小説が私の処女作ということになるが、私にはそれ以前に、「菜の花と小娘」というお伽話と、「或る朝」という小品があって、初めて一つの話が書けたという意味では「菜の花と小娘」を、また、書く要領をいくらかでも会得したという点では「或る朝」を私は自分の処女作と思っている。しかしまた、多少小説らしい形をしたものとして、かつ最初に発表したものとして、やはり、この「網走まで」を処女作といっていいようにも思い、つまり、私には色々な意味での三つの処女作があるわけだと考えている。
『或る朝』を読む
 処女作三篇は、いずれも明治三十九年から四十一年の間に着手されたものだが、完全なものとして雑誌に掲載されるまでには歳月を要した。『菜の花と小娘』は大正九年に、『或る朝』『網走まで』は大正七年に発表された。いずれも十余年の歳月を要している。このなかで、作者、志賀直哉が前記で紹介したように「これを私の処女作といっていいのかもしれない」と言っているのは『或る朝』である。
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 この作品は、明治41年(1908)正月と執筆が明示されている。日記には、このように書いている。(岩波書店『志賀直哉全集』編集室にて現代表記)
1月13日 月
 朝起きないからお婆さんと一と喧嘩して午前墓参法事
1月14日 火
 朝から昨日のお婆さんとの喧嘩を書いて〈非小説 祖母〉と題した。
とある。直哉は、この作品について「創作余談」でこのように語っている。
 【27歳(26歳の記憶違い)の正月13日亡祖父の三回忌の午後、その朝の出来事を書いたもので、これを私の処女作といっていいかも知れない。私はそれまでも小説を始終書こうとしていたが、一度もまとまらなかった。筋は出来ていて、書くとものにならない。一気に書くと骨ばかりの荒っぽいものになり、ゆっくり書くと瑣末な事柄に筆が走り、まとまらなかった。所が、「或る朝」は内容も簡単なものではあるが、案外楽に出来上がり、初めて小
説を書けたというような気がした。それが27歳の時だから、今から思えば遅れていたものだ。こんなものから多少書く要領がわかってきた。】
 この作品は、大正7年(1918)3月1日発行の『中央文学』に掲載された。書いてから10年が経っていた。祖母が、うるさく起こすので素直に起きる気をなくした孫の話。意地っ張りから祖母に悪態をついたことを反省するまで。家庭の日常で生ずるたわいもない喧嘩。これを捉えて、一つの作品にする。簡単なようだが、難しいものがある。それだけに「はじめて小説を書けたというような気がした」「書く要領がわかってきた」という作者の述懐は、作者の文学開眼の言葉ともいえる。つまり、この作品によって作家志賀直哉が誕生し、小説の神様への道を歩き出したのだ。この作品は、その一歩である。その意味では、『或る朝』は、志賀文学の重要な基盤となる作品である。その後の父親との確執を描いた中編名作『和解』に?がっている。核家族になった今日、いわゆる「オバアちゃんこ」はできにくい。学生たちに感想を聞いたところ、天邪鬼で祖母を困らせた経験者は少なかった。が、一人の男子学生が「ぼくは祖母と一緒に暮らしているので、この話が身にしみてわかります」と述べた。感銘のこもった声に、改めて志賀作品の確かさを知った。
『菜の花と小娘』を読む

 『或る朝』では、喧嘩した祖母にすぐにやさしい気持と反省をみせる主人公だが、実際の作者志賀直哉は、いったいどんな人間か。心の中は、だれもわからない。が、この作品『菜の花と小娘』は、それがかい間みえる、想像できる作品である。
 この作品は、明治37年5月5日の日記に「作文は菜の花をあんでるぜん張りにかく」と記し同年、作文「菜の花」として書かれ、明治39年(1906)23歳のとき「花ちゃん」に改題、改稿し大正9年(1920)に児童雑誌『金の船』に『菜の花と小娘』と題されて掲載された。擬人法で書かれたこの作品は、このころ、愛読していたアンデルセン童話がヒントになったと考えられている。実際、昭和二十五年に出した『志賀直哉文芸童話集』のはしがきに「『菜の花と小娘』というのは童話のつもりで書いた」と記している。
 この作品は、一見、なんでもない、誰でもすぐに書けそうな作品に見える。が、この作品は日本文学において名作線上にある。それだけに、現在、若い人たちにあまり読まれていないことは残念です。この作品には、若き日の志賀直哉の全てがあるといっても過言ではない。

 では、この作品のどこに作者の全てが秘められているのか。のっけから大きな謎です。解明には、この作品が書かれたときの作者の生活、心理状況を知る必要がある。先の学生たちの感想のなかに、この作品は、女の子が実際に、菜の花を川に流して遊んでいるのを見て思いついたのでは、といった指摘がありました。
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 確かに、作者は、菜の花を見て、この話を思いついたようです。しかし、子供たちが遊んでいる光景からではなく、たんに麓に咲く一面の菜の花畑をながめてからでした。
 現在、千葉県が県の花にしているのは菜の花です。房総半島は、春になると一斉に菜の花が咲きます。明治の当時も、同じ風景が見られたのかもしれません。明治35年(1902)、父親が総武鉄道(現在の総武線)の支配人兼会計課長となったことから、19歳の直哉は、鹿野山に遊びに行くようになる。
 鹿野山は、君津市にあり標高353㍍。房総三山の一つ。他は、鋸山、清澄山。広い山頂からの展望は最高で、現在、マザー牧場や登山道の桜のトンネルなどで人気の観光地となっている。当時も、桜や菜の花の名所だったようだ。毎年春になると直哉は、この鹿野山に登った。友人の里見弴(1888-1983)らと一緒のときもあったが、たいていは一人で登った。春の陽光の下、山頂から谷一面に咲き乱れる菜の花を眺めるのが好きだった。ときには何時間も、ときには何日も滞在してながめていたという。1906年には3月31日に来て、4月11日までいた。いくら花が好きといっても二十三歳の若者が、たった一人で何時間も何日も坐り込んで、ぼんやり菜の花をながめている。たとえ本を読んでいたとしても、ちょつと普通ではない気がする。学生の感想で、「寂しい感じがする」といった見方もあった。もし、背後からそのときの志賀直哉を見れば、そんな印象を抱いたかもしれません。咲き乱れる菜の花畑。賑やかな明るい黄色である。なぜ寂しい孤独の影が・・・。

 明治45年(1912)に志賀直哉は、『母の死と新しい母』を発表している。創作余談では、「少年時代の追憶をありのままに書いた。一晩で書けた。小説中の自分がセンチメンタルでありながら、書き方はセンチメンタルにならなかった。この点を好んでいる」と述懐している。直哉の母、銀が三十三で亡くなったのは、明治28年、直哉が12歳のときである。ということは、母の死について書くのに17年間もかかっているということである。この歳月の長さは、直哉にとって母の死がいかに大きな悲しみだったかを教えている。菜の花は、暖か家庭を思わせるところがある。もしかして直哉は、菜の花に母の面影を見ていたのかもしれない。明治34年足尾銅山鉱毒問題で現地視察計画を父に反対されたことで、余計に亡き母、銀への思いが強くなっていたに違いない。加えて、この時期、直哉はあることで悩んでいた。人間の謎に突き当たっていた。
 「人間は謎です!謎は解かねばなりません」といったのは18歳のドストエフスキーである。やさしかった母の死と、心の中での渇望が実現した父の死。若き文豪が人間を謎としたのは、病気と殺人による両親の死を、どうしても受け容れたくなかった。
 では、若き日の志賀直哉が、人間を謎としたのは、なぜか。このころ、直哉は恋をした。相手は志賀家に何人もいる女中の一人だった。直哉は結婚を夢みた。千葉県小見川にある彼女の実家にも泊まりに行った。若い二人の恋。だれもが祝福してくれると思った。しかし、だれもが反対だった。教訓をぶつ父親も、新しい美しい義母も、可愛がってくれる祖母も、だれもかれもが反対だった。理由は、あきらかだった。身分の違い。お金もあり、教養もあり、いつも立派なことを言っている人たちが、なぜそんなことを気にするのか。人間は、皆平等ではないのか。直哉には謎だった。折りしも、この頃、島崎藤村が『破戒』を出版した。自分と同年齢の主人公瀬川丑松は、江戸時代、部落民といわれた階層だったために、明治になり教師になっても差別され、教壇を去らねばならない。士農工商もちょんまげもなくなったのに、なぜ人間は差別しあうのか。この本を携え、十日余り鹿野山に滞在し菜の花を眺めていた直哉の心うちは、人間って何んなんだ。そんな問いが駆け巡っていたに違いない。 『菜の花と小娘』を読んでみると、たいていの人は自分でもすぐに書けるような、気になるようです。しかし、実際にはなかなかなのが童話ものです。
 人間とは何か。この存在宇宙とは何か。志賀直哉の作品は、すべてこの疑問を持って、対象物を観察しています。観察して、想像して書く。それがこの作家の小説を書くうえでの根幹です。『網走まで』は、それがよく表われた作品といえます。
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『網走まで』を読む

 小説『網走まで』は、当時の原稿用紙(20×25)十七枚余りの、ちょっと見にはエッセイふうの小作品である。が、ある意味でこの作品は、金剛石の要素を持っている。光り輝くか否かは、読者の読解力の有無にかかっている。
 1910年『白樺』第一号に発表された志賀直哉の初期作品『網走まで』は、400字詰原稿用紙で21枚足らずの創作である。たまたま乗り合わせた母子をヒントに書いた、筋らしい筋もない物語。たいていの読者は、見逃してしまう初期作品である。むろん私も全く記憶になかった。四年前、ゼミでテキストに選んだ折り、何度か読み返してみて、はじめてこの作品の非凡さに気がついた体たらくである。
 しかし、どんな高価な金剛石でも、磨かなければただの石である。『網走まで』も、ただざっと読んだだけでは、なんの変哲もない作品である。「こんなものが、はたして作品と呼べるのか」学生たちのそんな感想も無理からぬことである。だがしかし、しっかり繰り返し読めば、いつかははたと気がつき目からうろこが落ちた思いがするに違いない。処女作三部作のなかでも、『網走まで』は、とくに志賀文学の根幹を成すもの、源泉だと。
 では、『網走まで』とはいったいどんな作品なのか。         
 
『網走まで』解説(『志賀直哉全集』岩波書店)
 明治43年(1910)4月1日発行の『白樺』第1巻第1号に発表され、大正7年(1918)3月、新潮社より刊行された白樺同人の作品集『白樺の森』に、現在のものにもっとも近いかたちになおして収め、「明治41年8月14日」と執筆年月が・・・明記されている。この作品もまた完成までに十年の歳月を要しているのである。
 1947年(昭和22年)に細川書店版で出された『網走まで』あとがき
 

 『網走まで』を手にとると、まず、題名から立ち止まってしまう。なぜ「網走」かである。網走は、現代なら映画の舞台や刑務所、メロン産地、オホーツクの流氷やカニなどでよく知られている。が、この作品が発表された明治四十三年(一九一○)当時は、どうであったろうか。一般的にはほとんど無名だったのではないかと想像する。そんな土地を作者志賀直哉は、なぜ題名にしたのか。旅の目的地にしたのか。疑問に思うところである。そんなところから、作品検証は、まずはじめに題名「網走」から考えてみたい。
 インターネットで調べてみると網走は、元々魚場として開拓民が住み着いたところらしい。地名の由来は諸説あるが、いずれもアイヌ語が語源とのことである。
 例えば「ア・バ・シリ」我らが見つけた土地。「アバ・シリ」入り口の地。「チバ・シリ」幣場のある島。である。(ウィキペディア)
 また、作品が書かれた頃までの網走の歴史は以下のようである。
? 1872年(明治5年)3月 北見国網走郡の名が与えられる(網走市の開基)。アバシリ村が設置される。
? 1875年(明治8年) 漢字をあてて、網走村となる。
? 1890年(明治23年) 釧路集治監網走分監、網走囚徒外役所(現在の網走刑務所の前身)が開設
? 1891年(明治24年) 集治監の収容者の強制労働により北見方面への道路が開通
? 1902年(明治35年) 網走郡網走村、北見町、勇仁村(いさに)、新栗履村(にくりばけ)を合併し2級町村制施行、網走郡網走町となる。
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明治政府は、佐賀の乱や西南の役などの内紛に加え荒れた世相で犯罪人が激増したことから、またロシアの南下対策として彼らを北海道に送ることにした。明治十二年伊藤博文は、こんな宣言をしている。
「北海道は未開で、しかも広大なところだから、重罪犯をここに島流しにしてその労力を拓殖のために大いに利用する。刑期を終えた者はここにそのまま永住させればいい」
なんとも乱暴が話だが、国策として、この計画はすすめられた。
 そして、明治十二年に最初の囚人が送られた。以後十四、十七年とつづき、網走には明治二十三年に網走刑務所の前身「網走囚徒外役所」ができ千三百人の囚人が収容された。囚人は、札幌―旭川―網走を結ぶ道路建設にあたった。こうしたことでこの土地は、刑務所の印象が強くなったといえる。が、作品が書かれた当時、その地名や刑務所在地がそれほど全国に浸透していたとは思えない。第一、当時、網走には鉄道はまだ通っていなかった。従って「網走」という駅は、存在していなかったのである。では、作者はそんな地名を、なぜ、わざわざ題名にしたのか。あたかも網走という駅があるかのように書いたのか。
 とにかく、どう読んでも網走駅までの印象は強い。最初から大きな謎である。が、この謎が解けなければはじまらない。ということで「網走」についてもう少し検証してみることにする。

 『網走まで』は、僅か二十枚程度の作品である。(草稿は二十字二十五行で十七枚)この作品には大きな謎が二つある。一つは、前述したが題名の「網走」である。志賀直哉は、何故に網走としたか。志賀がこの作品を書いたのは、一九○八年(明治四一年)である。草稿末尾に八月十四日と明記されている。志賀直哉二十五歳のときである。一見、エッセイふうで、経験した話をそのまま書いた。そんなふうに読めるが、そうではない。この作品は完全なる創作である。志賀は、創作余談においてこの作品は、「或時東北線を一人で帰ってくる列車の中で前に乗り合わせていた女とその子らから勝手に想像して書いたものである」と明かしている。そうだとすれば、なにも「網走」でなくてもよかったのでは、との思いも生ずる。当時、あまり知られていない網走より、「青森」とした方がより現実的ではなかったか、と思うわけである。網走同様、青森という地名の由来も諸説ある。が、一応、三七○年前、寛永二年頃(一六二五年)開港されたときにつけられた、というから一般的にも知られてはいたというわけである。題名にしても歌手石川さゆりが熱唱する「上野発 夜行列車降りたときから 青森駅は雪だった・・・」の青森に違和感はない。当時としては、網走よりはるかに現実的だったに違いない。なぜ「青森まで」ではなく、「網走まで」なのか。もし作者が北海道にこだわるのなら函館でもよかったのではないか。そんな疑問も浮かぶ。函館なら、こちらもよく知られてもいる。歌手北島三郎が歌う「はーるばる来たぜ函館!」は演歌の真髄だ。他にも函館には、歴史の郷愁がある。既に40年の歳月が過ぎているとはいえ、函館(箱館)といえば、あの新撰組副長土方歳三(35)が戦死した土地。明治新政府と榎本武揚(34)北海道共和国が戦った城下である。現代では百万ドルの夜景と、観光名所にもなっている。それ故に当時も一般的知名度は、それなりに高かったのではと想像する。
 しかし、時は明治全盛期である。過去に明治政府に反抗した都市ということで、よろしくないとしたら、札幌はどうだろう。「札幌まで」としても、べつに遜色はないように思える。一八七六年(明治九年)あの「青年よ大志を抱け」のクラーク博士ほか数名の外国人教師を迎えた札幌農学校のある「札幌」は、それから三十余年北海道開発の拠点として、大いに発展しつつあったはず。「札幌」の名は、全国区であったに違いない。にもかかわらず「札幌」ともしなかった。なぜか・・・・。ではやはり当時、「網走」は人気があったのか。それとも作者志賀直哉に何か、よほど深い思い入れが、題名として使いたい理由があったのか。どうしても行き先が「網走」としなければならない何かが・・・そんな疑念が浮かぶ。
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聞記事紹介 20008年6月4日水曜日朝日新聞夕刊
敗戦後のヒーローよ
山川惣治生誕100年の回顧展  少年たちに夢とロマン
前回印刷が悪く読みづらかったので再度掲載します。
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掲示板
提出原稿について
○ 車内観察 → 電車の車内で観察したこと(創作・事実どちらでも)
○ 1日の記録 → 自分の1日を観察する(自分のことをどれだけ晒せるか)
○ 社会観察 → 社会の出来事を観察、自分の意見もいれてみる
○ 生き物観察 → 人間、動物、草木、生あるものすべての観察(宇宙人の目で)
 締め切りはありません。書けた人は、どんどん提出し、皆の評価をみてみましょう。何事も切磋琢磨です。
ゼミ誌・課題・その他+提出原稿(2×)+出席(1×)=評価(60~120)
ドストエフスキー情報
7月26日(土) : ドストエーフスキイの会例会 会場は千駄ヶ谷区民会館
           午後6時から 
8月 9日(土) : 全作品を読む会「読書会」暑気払い。「『悪霊』払い祭り」
               会場は東京芸術劇場第一会議室 午後2時から
出版
 ☆復刻版・岩波写真文庫『農村の婦人』6月発売「写真文庫ひとくちばなし」下原
☆新刊・熊谷元一白寿記念写真集『信州 昭和の原風景』一草舎2200円
★旧刊・下原敏彦著『伊那谷少年記』鳥影社「昭和30年の原風景」
 理論社 2008・3・21 定価1200
★文・藤井誠二 マンガ・武富健治『「悪いこと」したらどうなるの?』
  ★山下聖美『国文学4』「ケータイ小説 クリエイターの卵たちはどう読むか」
★福井勝也著『日本近代文学の〈終焉〉とドストエフスキー』
      のべる出版企画 2008・1・10
★芦川進一著『「罪と罰」における復活』河合文化研究所・河合出版2007
★清水 正著『ドストエフスキー論全集1』D文学研究会2007
★下原敏彦著『ドストエフスキーを読みながら』鳥影社2006 2月点字図書
★國文学別冊『ギャンブル』下原敏彦・文「ドストエフスキーとギャンブル」
演劇
劇団「昴」公演『ジュリアス・シーザー』あうるすぽっと(豊島区舞台交流センター)
6月19日~29日(日) 訳・福田恒存 演出・ニコラス・バーター                                  
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編集室便り
☆「2008年、読書と創作の旅」内容は、本通信に掲載します。
☆ 原稿、歓迎します。学校で直接手渡すか、下記の郵便住所かメール先に送ってください。
 「下原ゼミ通信」編集室宛
  住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
☆本通信はHP「土壌館創作道場」に掲載されています。
2008年、読書と創作の旅
 担任自己紹介の代わりに学生時代の旅を紹介します。が、想像・推測・個人問題もあるので創作ルポタージュとします。
一九六八年、アジアの旅⑧
                                   下原 敏彦
 1976年9月15日、午後の雲ひとつない残暑の相模湾上空。遊覧のセスナ機から、老初老の夫婦が操縦士とカメラマンを襲撃したあと、眼下の海にダイブしていった。初老夫婦は、なぜ死を選んだのか。初秋の午後、立川の私の下宿に羽田署外事課の二人の刑事が、調書を取りにきた。解けぬ謎があるのか。私は、8年前のプノンペンの日々を話はじめた。若い刑事は、ちゃぶ台にひろげた調書の紙に丁寧にペンを走らせ、ときどき聞き返した。
「フクヨウとは何んです」「睡眠薬を飲んでいたんです。それで」「中毒でしたか」初老の刑事は、間髪をいれず疑い深かそうにが口をはさむ。「いえ、不眠症なだけで」私は、首を振った。睡眠薬が事件に関係しているとは、とても思えなかった。
 私にとって元学長夫妻の心中は、ムルソー(『異邦人』)の殺人よりも深い謎にだった。私は、記憶の糸を探りながら、慎重に言葉を選んで話した。二階の開け放たれた窓外に青葉繁る武蔵野の林があった。風が吹くと、青空の中で海の藻のように揺れた。それは、モニボン通りの街路樹やメコンの岸辺のココナツ林を思い出させた。
 
我が青春のプノンペン
 朝食で日大闘争が話題になった。一週間遅れの新聞だが、連日のように載っている。木内女史は、先生が学長時代からの秘書だから、大学には通じていて、なかなか辛らつだ。
「使途不明金が三十何億円もあるんでしょ」彼女は、皮肉ぽく言った。「いったい、何につかったのかしら。学生のために・・・」
 昭和40年、大卒の給料が3万にもゆかない時代。入学金の17万円を、姉の貯金を借りるなどして、やっと工面して信州の山奥から上京した私である。ン億円などと聞いても、まったく現実感がない。怒る気持もわいてこない。ただ驚き呆れるばかりだった。
「マンモス大学にしちゃったからね、お金、すごくあるはずよ。設備費かしら」
「学校につぎ込んでいる。そんなところは見かけなかったです」私は否定した。教養課程で通うことになった、神奈川県藤沢市の六会校舎を思い出した。
 余談だが、現在、六会にある生物資源科学部の校舎は全日大のなかでも、一番に設備の整った大学となっている。はじめて行ってみたとき、あまりに立派過ぎて驚いた。
 
9月のプノンペンは、雨季から乾季への変わり目。激しい雷雨と晴天の繰り返しだった。昼食の後、街は、いきなり夜になった。暗闇の街に稲妻がはしり、つづいてバケツをひっくり返したような激しい雨。こんなときは昼寝に限る。ということで、A君も私もぐっすり寝込んでしまった。涼しくて、眠るには快適な温度と湿度。ドアをたたく音で目が覚めた。
 しかし、四十一年後、一九五一年(昭和二六年)六八歳のとき、志賀直哉は、リックサック一つ背負い一人ではじめて北海道を旅した。が、網走には行かなかったという。と、すると、深い思い込んみでもなさそうだ。だとすると、「網走」という土地名は、たんなる思いつきか。それともサイコロを転がせて決めただけの偶然の産物であったのか。

 「網走」という地名。現代ではどんな印象があるのか。最近の若い人は、網走と聞けば、オホーツクの自然を目玉にした観光地のイメージだろう。観光用に刑務所そっくりな宿泊施設もある、と、テレビかなにかの旅宣伝でみたことがある。刑務所も観光地化されているようだ。こうした現象は、たぶん山田洋次監督の「幸せの黄色いハンカチ」という映画が発生源となっているに違いない。網走刑務所を出所した高倉健演じる中年男と武田鉄也・桃井かおり演じる若い男女が車で一緒に出所男の家まで旅する話である。舞台は、網走ではないが、網走という地名を観客に強く焼き付けた映画だった。
 同じ高倉健主演でも私たち団塊と呼ばれる世代では、網走と聞けば、やはり東映映画『網走番外地』である。一作目はポールニューマン主演の『暴力脱獄』を彷彿させる一種文芸的
作品だった。手錠で結ばれた二人の囚人の脱獄物語だった。が、第二作目からガラッと変わった。完全なやくざ映画というわけである。一作目は白黒だったが、二作目からは総天然色と高倉健の唄で、激動の昭和四十年代を熱狂させた。話のパターンは水戸黄門と同じで、網走刑務所を出所してきた流れ者やくざ高倉健が、悪いやくざにいじめられつくされている弱いやくざを救う。それも出入りに助っ人として加担するのではない、万策尽きた弱くて良いやくざ(というのも変だが)その正しいやくざのために最後の最後、たった一人でドスを片手に、多勢の強面が待つ敵陣に乗り込むのだ。その背中に、発売禁止となった「網走番外地」の唄が流れる。
ドスを ドスを 片手になぐりこみ
どうせ おいらの行き先は 網走番外地
 とたん、立ち見で立錐の余地もないほど入った超満席の映画館の場内から一斉に拍手がわく。今、思い出せば異様な光景である。が、強いものに立ち向かう一匹狼。それは、しだいに強力になっていく機動隊や政府、そして企業に対峙する自分を重ねたのかも知れない。当時の若者、全共闘世代にとって「網走」は畏怖しながらも一種憧れの土地でもあったのだ。
 で、当然といえば当然だが、そんなわけで一九六十末~七十年代、網走は、刑務所のある町。といった印象だった。そして、その印象も、小菅や岐阜のようなコソ泥や詐欺師の収監される場所ではなく仙台一歩前の犯罪人の行くところ。極悪人=網走であった。。
 『網走まで』が書かれた時代、作者志賀直哉は、この町にどんなイメージをもっていたのか。知るよしもないが、草稿のなかで「北見の網走などと場所でしている仕事なら、どうせジミチな事業ではない。恐らく熊などのいるところであろう。雪なだれなどもあるところであろう。」と書いているところから、刑務所、監獄という印象より、金鉱の町。得体の知れない人間が集まる未開の地。そんなイメージでなかったかと思う。
 子供のころ観たアメリカ映画で『縛り首の木』というのがあった。砂金掘りが集ってできた、いわゆる無法の町の話だ。そこにはろくな人間はいない。皆、欲に目がくらんだ、すねに傷持つものばかりの住人である。当時の「網走」も、映画の砂金掘りの町。そんな町だったのかも。文明開化がすすむ東京にいて、文学をつづける志賀直哉からみれば「網走」は、未開のなかの未開の町。そんなところに見えたのかも知れない。もっとも「網走」、というより北海道は、その後55年たっても遠いところとだった。
 余談だが、1965年、昭和40年、今から42年前だが、筆者は、はじめて北海道に行った。2ヶ月間牧場でアルバイトをするためであった。説明会で斡旋の学生援護会から、きつい仕
事、途中で逃げ出す学生が多いから、覚悟のほどを注意された。が、大学の実習授業(4単位)と住み込み三食つき500円につられた。(当時、バイト日給600~800円が相場)
 信州の山奥で育った私は北海道がどんなところかまったく知らなかった。広いところだというので、憧れはあった。が、遠い所だった。知っている地名は、札幌、函館、稚内、旭川ぐらいだったか。行き先の切符をもらった。「計根別」とあった。はじめて聞く地名、駅名
だった。地図でみると根釧原野のただなかにある。釧路から近いらしい、とわかったが、なにせ、地図のうえでは想像のしようがなかった。とにかく行けばわかるさ。大学一年18歳の夏、「計根別まで」が私のはじめての長旅となった。余談ついでに、当時を思い出した。
 7月の前期終了日、担当教授から激励された。希望者は二十人はいたろうか。計根別までが一番多く数名、あとは稚内や知らぬ土地だった。上野駅から夜行列車で出発する。夜のとばりがおりはじめた西郷像の下に多勢の学生が集合した。その面々、明治、拓大、農大などなどいろんな大学の学生がいた。が、やはり単位修得込みの私の学部の学生が多かった。
 皆、学生服に靴か高下駄。学帽もかぶっていた。肩には大きな信玄袋。中には作業服と下着。筆記道具とノート。それだけだった。このころアイビースタイルが流行っていたが、北海道でバイトしようという学生は、なぜか学ラン組が多かった。

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