文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.389

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2019年(令和元年)12月10日発行

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.389

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
9/24 10/1 10/8 10/15 10/22 10/29 11/12 11/19 11/26 12/3 12/10 12/17 12/24 1/7 1/14 1/21 
観察と記録

2019年読書と創作の旅

12・10下原ゼミ

2019年度読書と創作の旅同行者です。8人の仲間です。
宇治京香  安室翔偉  梅田惟花  佐久間琴莉 (松野優作) 伊東舞七
大森ダリア  佐藤央康 (7名参加の日撮影)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

12・3ゼミ報告 3校編集作業終了、刊行へ

12月3日(火)は、3校ゲラの最終チェック。出版編集局に提出。新生社に。この日の参加は、宇治、佐久間、安室。佐藤。原作・志賀直哉『范の犯罪』脚本化を口演。(3頁)
人間の謎 ニュースから    新潟女児殺害 無期懲役 罪と罰の軽さ
 昨年5月下校途中の小学2年の女児(7)が誘拐された。犯人は近所に住む小林遼被告(25)会社員。起訴状によると、被告は、会社を休みわいせつ目的で、学校帰りの女児を車ではね、後部座席でくびをしめ気絶させると、近くのスーパーの駐車場で猥褻行為に及び、女児が意識を取り戻すと、ふたたび首を絞めて殺害して、その後、線路に遺棄した。このあまりの残虐、非道な犯行に12月4日の裁判員裁判では、死刑が求刑された。一般感情としては当然だが、新潟地裁の裁判長はこんな判決を下した。「抵抗できない弱者を狙った無差別的な犯行だが、同種事件と比べ際立って残虐とまでいえない」として無期懲役とした。
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.389―――――――― 2 ―――――――――――――

ゼミ観察  2019年後期前半、同行者

9月24日からの点呼状況です。()は提出課題

・宇治京香 9/24 10/1 10/8 10/15 10/22 10/29 11/12  11/19 11/26  12/3
前期13/14                                          (1)

・伊東舞七 9/24 10/1 ― 10/15 -  ―    11/12  11/19 - -
前期10/14      (2)

・梅田惟花 ゼミ誌原稿入り  ―  ―   ―   ―   11/12  -  - -
前期7/14
・佐久間琴莉9/24 10/1 ―  10/15 10/22 10/29 11/12 11/19 11/26 12/3
前期13/14                                          (1)

・大森ダリア9/24 ―  ―  10/15 ―   10/29  11/12 11/19 -  -
前期8/14   (1)

・安室翔偉  9/24 10/1 ― 10/15 ―    10/29 11/12  11/19 11/26 12/3
前期11/14                                          (1)

・佐藤央康  9/24 10/1 ― 10/15 10/22 10/29  ―   11/19  - 12/3
前期10/14   (2)                                     ( )

・松野優作 9/24  ―  ― 10/15 10/22 会った   ―   -  -  - ―
 前期2/14  (1)

総計人数  7  5  1  7  4   5   7   6    3  4

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ゼミ雑誌『暗夜光路』3校完了12/3現在

 12・3ゼミでは、3校ゲラの最終チェック。宇治、佐久間、佐藤、安室。
 ゼミ終了後、大学編集局に提出。

ゼミ雑誌編集 12/6 締切  

④ a.請求書提出
  b.納品書提出
  
c.発行の冊子5部 紹介文(100字)を添えて大学編集局に提出

今後のゼミ予定 学び舎が所沢から江古田校舎になった2019年。2年次は駆け足で過ぎました。今年もあと、1か月足らずとなりました。
早くも3年次のゼミ探しをはじめた人もいるようです。下原ゼミは、以下の内容でゼミ
授業を進めていきます。(2年次後半、3年次~)各自の持ち味をだせるような愉しく有意義なゼミをめざします。同行希望者はどうぞ。

―――――――――――――――――― 3 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.389

脚本化の口演   志賀直哉の『范の犯罪』を口演する

 12月3日のゼミは、ゼミ誌校正がすべて終わったことから、参加者4人と半数だったが。ゼミ誌タイトル『暗夜光路』に因んで志賀直哉原作『范の犯罪』脚本化(下原脚本)の裁判、「ナイフ投げ奇術師美人妻殺害疑惑事件」初回公判裁を行った。

【「ナイフ投げ奇術師美人妻殺害疑惑事件裁判」を口演しての感想】

 ☆進行係・被告人を演じて……安室翔偉 提出 12/3

被告は正直すぎた

 裁判官に対して被告が半生の色を見せたなら、情状酌量の余地もあっただろう。しかし、この被告はあまりに正直すぎた。精神鑑定が必要な状況とも見てとれるが、この証言のあとでは有罪が決まりそうだ。

☆裁判官・座長を演じて……佐藤央康 提出 12/10

☆検察官を演じて……宇治京香 提出 12/3

情状酌量の余地はない

 この裁判が無罪になるとしたら、被告側が過失だということを証言で突き通すことと、とても悲しんでみせることが必要であると思います。加えて妻との不仲が妻側の過ちからであり。それによって自分が傷ついたが、妻を許したにも関わらず、妻から一方的な嫌悪を向けられ、つらい思いをして過していたと言うべきである。
 座長、助手の証言は、どちらも結局、過失か故意か分からないということだったので、被告人の証人次第で状況は充分に変わり得る。今回の裁判において被告人は、自分の本心を嘘偽りなく話したことによって、「妻が死んで嬉しい」という心情が前面に出てきてしまっているので、周りからの同情は得られにくいと思う。また裁判官も、殺意があったことを認めている。被告人に対して情状酌量の余地はないだろう。ただ、夫と妻という間柄であるので(子どもを殺したなどではない)、罪は、そこまで重くなることはないと思われる。

☆助手・弁護人……佐久間琴莉 提出 12/3

「無罪」は、考え難い

 二年前、妻が夫以外の子を産んだ。その話が本当なら、妻の不貞事実を知ったおっとは、恨みを積み重ねてきたことになる。また、二人の仲を取りもった妻の従兄弟で、夫とも仲が良いとなればなおさらだ。現代社会では、浮気や不倫をしても、賠償金を払ってハイ終わりというケースが多い気がするだけに、今回の件は殺害までしてしまっているので許せないと思う。しかし、夫は、酒も賭博も女遊びもしない誠実な男だとの証言がある。日々積もっていくストレスの半面。それを発散する方法がなかったのではないだろうか。一人で抱え込んだ結果、殺害まで考えてしまい、故意かどうか自覚がないにしろ、殺害に至ってしまった。ストレスを発散する方法がなかったとはいえ、人を殺してしまったことは許されることではない。無罪、というのは考えがたい。有罪だろうと思う。

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.389―――――――― 4 ―――――――――――――

ドストエフスキー生誕200周年を記念して

 連載1回
ドストエフスキーと私 

 本論は、2006年、ドストエーフスキイの会例会で下原が報告した論文です。本論は、その後、会誌『ドストエーフスキイ「広場 16号」』に掲載された。また2011年に出版された下原康子との共著『ドストエフスキーを読みつづけて』にも収録された。
 2021年はドストエフスキー生誕200周年。来年2020年は前夜祭にあたります。この節目を記念して、これまで報告した「ドストエフスキーと私」を紹介します。
 
柳の下にどじょうはなぜ多いのか

二十一世紀になってもドストエフスキーは読まれている。書籍も、毎年、新刊本が相次いで出版されている。なぜドストエフスキーの読者は後を絶たないのか。トルストイもゲーテも、バルザックも年々、読まれなくなっている。にもかかわらず一人ドストエフスキーだけは、脈々と読みつづけられている。研究においても「柳の下にいつも泥鰌は居らぬ」はずなのに、ドストエフスキーに限って二匹目どころか何匹でも、出てくるのである。この作家に関する出版物をネットで検索すると、確かにその多さがわかるというもの。二00六年だけでも数冊はくだらない。なぜドストエフスキーだけがこのように読まれ研究されるのか。「人間は神秘です。それは解き当てなければならないものです。(米川正夫訳)」と書いたのはこの作家である。さすれば、この現象も神秘といえる。探究するに値する。と、いうことで平成18年最後の第177回例会報告は、この疑問の解明をテーマにした。
「団塊世代とドストエフスキー」と題して報告した。

※団塊世代とは昭和22年~24年に生まれた人たち。(終戦直後の増加)
 
一 ドストエフスキーのススメ
     (一) 
 なぜドストエフスキーは、読みつづけられるのか。この謎を探る前段階として、なぜロシア文学は日本に受け容れられたのか ―― からはじめたい。ロシア文学が初めて日本に紹介された経路と日本文学に浸透した理由などを簡単に検証してみた。
 まずロシア文学が、日本に入ってきたのは、明治以後であるが、そのへんの事情は故新谷敬三郎(早大教授)の著書『ドストエフスキイと日本文学』(海燕書房1976)に詳しく書かれている。抜粋だが経路について本書では、このように推察されている。

 日本にロシア文学が継続的、多少とも組織的に入ってきて、何らかの役割を果たすようになるのは明治以後、ほぼ一八八○年からである。ロシア文学移入の経路は、明治、大正期においては、大別して三つ考えられる。(一)東京外国語学校、(二)ニコライ神学校、(三)丸善、である。(「日本におけるロシア文学」)

 明治維新後、文明開化した日本に西洋文化が濁流のようにどっと流れ込んできた。文学においても例外ではなかった。翻訳ものがあふれるなかで、文学はおよそこの三つの経路からだという。そこにはロシア文学に限らずドイツ文学やフランス文学もあったに違いない。しかし、日本の文学者が興味を示したのはロシア文学だけだった。なぜゾラ、モーパッサン、ゲーテ、ディッケンズといった並み居る文豪たちではなかったのか。そのところについても、このように述べられている。
―――――――――――――――――― 5 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.389

…日本の文学がロシア文学を知り、それを受け容れ始めたのは、ヨーロッパで近代が終わり現代が始まろうとする変化のときで、そのヨーロッパの諸文学にロシア文学が意味を持ちはじめ、ロシア文学もまた生まれ変わろうとしていたときであった。そのとき、日本では、ロシア文学を受け容れるのに、大別して二つの態度が生まれた。それはひと口でいえば、(一)十九世紀的ロシア、とくにナロードニキ的心情を指向する態度、(二)象徴主義の胎から生まれた二十世紀的ヨーロッパの知性を指向する態度、である。この二つの指向性は、ほとんど今日に至るまでのロシア文学自体にも見られ、その創作の原動力となっている。…

 ロシア文学が、真綿に浸み込む水のように日本文学に浸透した。その要因は、当時のロシアと日本が似通った国情にあったと、著者は指摘する。「ナロードニキ的心情とヨーロッパの知性を指向する態度」この二つの態度があったからだと分析している。また「この二つの指向性は、ほとんど今日に至るまでのロシア文学自体にも見られ、その創作の原動力となっている。」とする見方は、今回の副テーマ「柳の下のドジョウの謎」を思うと興味深いものがある。
 このような受け容れ条件はあるが、それにしても世界から見ると日本人のロシア文学好き、ドストエフスキー好きは、特出している。なぜ日本人は、かくもロシア文学を好むのか、ドストエフスキーを読むのか。ドストエフスキーという柳の下には、常に何度でも二匹目のドジョウが現れるのか。この現象の謎についてドストエーフスキイの会代表・木下豊房氏は、その著書『近代日本文学とドストエフスキー』(成文社1993)のあとがきで、このように触れられている。抜粋紹介

 ロシアの…評論家のカリャーキンを、1985年にモスクワの自宅に訪ねた時には、彼はトルストイの戦争と平和を比較して、『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』に見られる「突然(ヴドゥルク)」という言葉の頁毎の頻出度を赤の棒グラフで視覚的に示す図表を見せてくれた。そして日本人がドストエフスキーをよく理解する理由として、自分の推定を次のように語った。
 日本人はドストエフスキーの小説に頻発する「突然(ヴドゥルク)」の危機に、歴史的に絶えず脅かされてきたのではないだろうか。例えば地震、原爆、第二次大戦後の価値転換など。19世紀には、ドストエフスキーが「プーシキン演説」でのべているように、ロシアが全世界的なものを理解する受容能力を持っていたが、現在では日本がそうではないのか、と。…

 このカリャーキンの推測について著者は
こうした説明に私達が納得させられるかどうかはともかくとして…
と、断りながらもこのように解説されている。
 …日本人とドストエフスキーというテーマは、私達自身の自己認識の切り口として、無視できない価値を持っているように思われる。むろん私達が自分の内部の目で見つめたドストエフスキーとの出会いは、カリャーキンの指摘よりもはるかに複雑で屈折した様相を呈しているにちがいない。なぜ日本人がドストエフスキーを愛読するかという問いに、一義的な解答をあたえることはおそらく困難であろう。しかしドストエフスキーの読者には世代間の共有体験があって、それが出発点になっていることを指摘することは出来るかもしれない。私のドストエフスキーとの出会いもまた、この世代的な特徴を帯びているように思われる。…
としてご自身の、きっかけをこう述べられている。
私が昭和30年代の大学時代、ドストエフスキーのとりこになったのも、スターリン批判、ハンガリー事件などの後の学生運動の状況と無縁ではなかった。
 
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.389 ―――――――― 6 ―――――――――――――

六十年安保闘争の時代で全学連運動最中の体験ということになる。
 ロシア文学によって知らされた「私」の発見というか認識は、それまで集団・連帯主義的社会で生きてきた日本人にとって衝撃だった。その発見は日本人の心に知性の喜びを与えたが、一種トラウマともなった。最近観た映画『三丁目の夕陽』のなかで文学青年が自転車修理店の親父と喧嘩する場面がある。文学青年は、何々「したこともないくせに!」と生活態度を罵られ悔し紛れに「ロシア文学も読んでないくせに」と罵り返す場面がある。ロシア文学を読んでいない。いまではどうか知らないが、かつては文学を志す者にとって、この罵声はかなりインパクトを持つものだったのかも知れない。想像するに1800年代のロシアでは、「フランス文学もしらないくせに」が同義語的だった。兄ミハイルへの手紙に、よく「あなたはラシーヌを読みましたか」とか「お読みなさい、哀れな人、読んでコルネーユの足下に跪きなさい」などといった文面を見かける。日本におけるロシア文学観は、それと同じ現象だったのかも知れない。

       (二)
 新谷敬三郎著『ドストエフスキイと日本文学』によると、日本に最初に紹介されたロシア文学は、トルストイ、カラムジン、プーシキンなどの作品であった。が、このなかからドストエフスキーは突出してきたようである。本書のなかで
 …ロシア文学でいえば、もっぱらドストエフスキイであった。
と述べている。ドストエフスキー読者としては歓迎すべきことではあるが、著者は、その受け容れ様には、不満を持っていて、つづけてこのように皮肉っている。

 しかもそれは現代ヨーロッパの知性に照射されたドストエフスキイであった。この二つの課題は戦後にまで持ちこされたので、というのも、昭和の初年に青春をすごした世代、例えば「近代文学」の人たち、が戦後文学の最初の担い手となったからだが、そこでドストエフスキイの思想と表現は、彼らの激変に耐えて屈折した意識のなかで、さらにそれに感染した次の世代のなかで、もっぱら信念更生(転向)の物語が強調されて、折角昭和十年前後に提出された伝統や文明の問題は後景に押しやられ、むしろタブー視され、民衆文化や国民文化の問題、ロシアでいえばナロードの問題にすりかえられてしまった。実をいうと、ヨーロッパの近代の理念に対して伝統や文明の問題を提起したことこそ十九世紀ロシアの思想と文学の独創であったのに。

 ドストエフスキーの作品は、全人類の幸せと世界の調和を目指して書かれたものである。それなのに、後々までも「転向」物語として強調されてきたことに、著者は地団駄する思いをみせている。が、ここではテーマが違うのでこの点は考えないことにする。
 ドストエフスキーは、明治二十五(1882)年に内田魯庵によって『罪と罰』が英語訳から重訳された。というから、移入経路は、おそらく丸善あたりかも知れない。一番最初の本をみると印刷明治二十五年十一月四日、出版十一月十日となっている。この名作の余りに有名な出だしを少し紹介すると、記念すべき第一作のはじまりはこのようである。

小説 罪と罰 上篇 第一回
 七月上旬或る蒸暑き晩方の事、S……「ぺレウーロク」(横町)の五階造りの家の道具附の小坐敷から一少年が突進して狐疑逡巡の体でK……橋の方へのツそり出掛けた。
 
この作品のすごさは、小説としての面白さもあるが、ストーリー展開のなかで読者に向けられた人間社会の作り方にもある。一人を救うために後の九十九人を犠牲にできるのか。九十九人を救うために一人を犠牲にできるのか。人類に提起された永遠の問題である。はじめて訳して読んだ内田魯庵は、そのときの感想をこのように書いている。つづく 次号へ

―――――――――――――――――― 7 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.389

 熊谷元一研究  創作ルポ 『熊谷元一の選択』

              一 選択の人生
 晩秋の武蔵野の青空が窓いっぱいにひろがっていた。熊谷元一は、一人部屋のベットを少し持ち上げて、ぼんやり窓外をながめていた。どこが悪いというのではないが一週間前、なんとなく体の不調を感じたことから、清瀬の自宅から、そう遠くないこの老人介護施設に思いきって入居した。妻の貞子は三年前、亡くなった。性分が独立独歩の性格なので、そのときにもしかのときは、と、申し込んでおいたのだ。先ほど、今年五歳になる曾孫が長男夫婦と見舞いにきた。すっかりわんぱく坊主になった曾孫は、入ってくるなり
「じいちゃん、きたよ」
と、叫んで元気に駆けよってきた。
「ほう、きたか」
 熊谷は、おどけ顔をして叫ぶとからかうようにきいた。
「ジィは、いくつだ」 
「ひゃく一さいだよ」
曾孫は、そんなことぐらいはしっているぞ、といわんばかりに胸をはって答えた。
「ほう、百一歳か」熊谷は、おどけたように言った。「そんねん生きたのか、このへんで遠慮しとくか」
「いやですよ。おじいちゃん、そんな言い方しては」
後から入ってきた長男の嫁は、叱るように言ってほほ笑んだ。
彼女は、熊谷が教師を退職し、東京の清瀬に家を建て妻の貞子と故郷の長野県から越してきて以来からずっと同居してきた。出版社に勤める夫は多忙でほとんど家にいなかった。彼女は、二人の子どもを育てながら、熊谷元一という写真家・童画家の秘書となって働いてきた。出版社の打ち合わせや来客の予約や接待。彼女が一人で切り盛りしてきた。姑の貞子が病気入院してからは、秘書として、嫁として、姑の役として、三足のわらじで熊谷を支えてきた。それだけに、つい強い口調にもなる。が、熊谷は、意に介さない。
「えれえ、いきたもんだなあ」
と、またしても他人事のようにつぶやいて感心した。
「まだまだ、大丈夫ですよ」
遅れて入ってきた孫夫婦と長男夫婦は、口々にそう言って笑った。
 本当に、そうみえた。それもそのはず、熊谷は、生涯を通じ病気らしい病気をしたことがない。一人っ子で育ったが、ひ弱ではなかった。熊谷が生まれたとき母親のハツエは、自分の母親が病弱で早くに亡くなり苦労したことから、思わずくちにした「元気が一番」の言葉から元一とつけた。元一は、その言葉通り元気にそだった。101歳になった人生のなかで入院したのは七十三歳のとき脱腸手術のため市内の病院に一度入院したきりだった。歳とって尿が近くなったことを除けば、体は、子どものときからすこぶる丈夫だった。体で悪いところといえば右目が乱視で、徴兵検査のときに乙種だったことぐらいだ。白寿をむかえても歯も丈夫なら、耳も聞こえた。目は右目は乱視だが、左目は眼鏡なしで新聞が読めた。百一歳になっても変わることはなかった。
そんなわけで、このたび入院となっても息子夫婦は、一過性のことだと思った。すぐに退院してカメラを手に清瀬の町に出ていくと楽観していた。足は弱ってもまだ自転車には乗れる。写真は撮れたし、頼まれた童画もまだ描けた。
賑やかだった見舞客が帰って部屋は、急にひっそりした。熊谷は、じっとしていることが嫌いだった。家族のものが言っていたように、足さえ動けば、自分は、まだまだ仕事ができる。そんな自信があった。まだ大丈夫だ。足が弱っていくぶん歩行困難になったが気持ちは若いころと変わらないと思った。
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.389―――――――― 8 ――――――――――――――

熊谷は、曾孫との会話を思いだした。百一歳か…。とても自分のこととは思えなかった。だが、いま介護施設のベットに横たわっていることは現実だ。
晩秋の黄昏前の空は、あくまでも高く青く澄み渡っていた。熊谷は、青空を見あげながら自分の人生を振り返った。波乱万丈だったが、人間万事塞翁が馬というのではなかった。自分の人生の分岐点は、いつも選択にあったような気がする。迷い、苦しんだ決断の時。あのときの選択があるからこそ、現在がある。熊谷は、懐かしく思いだした。  つづく

  2019年9月5日 (木)熊谷元一写真童画館にてゼミⅡゼミⅢ

090-2764-6052下原 メール:toshihiko@shimohara.net

・・・・・・・・・・・・・掲示板・・・・・・・・・・・・・・

NHK文化センター 柏市民講座「ドストエフスキー『罪と罰』を読む」6回

2019年12月19日(木)AM10:30~12:00 最終審理第5回 講師 下原

ドストエーフスキイ全作品を読む会・読書会

日時:22020年1月11日(土)午後2時~4時45分
会場:東京芸術劇場小会議室7 作品『カラマーゾフの兄弟』

ドストエーフスキイの会・第255例会

2020年1月25日(土)午後1時~ 早稲田大学戸山キャンパス31号館208教室
熊谷元一写真保存会 第23回総会報告

メール toshihiko@shimohara.net

携帯 090-2764-6052

シェアありがとうございます

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket

コメントを残す

PAGE TOP ↑