文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信 No.106

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2008年(平成20年)6月23日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.106
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
2008前期4/14 4/21 4/28 5/12 5/19 5/26 6/2 6/9 6/16 6/23 
6/30 7/7 7/14 
  
2008年、読書と創作の旅
6・23下原ゼミ
6月23日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ教室2
 1.出欠・連絡事項・司会進行者指名・ゼミ誌作成報告
 2.課題提出原稿読みと感想&「人生相談」考  
      
 3.テキスト『城の崎にて』(『出来事』関連)読み 「生き物観察」
  4.「一日を記憶する」関連作品読み&表現・紙芝口演居(残り)
     
 
     車窓 北朝鮮問題観察②
 1910年の韓国併合で、日本に植民地化されていた朝鮮半島は、45年の日本敗戦によって、かっての朝鮮国が復活するかにみえた。が、そうはならなかった。世界は、全体主義・ファシズムとの戦いから思想がしのぎを削る東西冷戦時代に突入していたのだ。人民の王国を旗印にソ連邦は、革命の輸出国となり、あちこちに社会主義国家をつくりあげていった。国内でも、革命戦士の英雄を作り上げた。その一人が北朝鮮の生みの親金日成である。国内では、抗日戦士として輝かしい伝説を持つ人物だが、何年か前、ロシアで放映されたドキュメントで、化けの皮がはがれた。植民地時代、彼の一家はロシアの山村に隠れ住んでいたというのだ。朝鮮戦争勃発でソ連軍の神輿に乗って出てきただけ。この点は、抗日戦士の英雄としてアメリカに担ぎ出され、そのまま大統領になったがアキノ候補殺害疑惑で、追放されハワイで死んだフイリピンの元大統領と似ている。金日成出生の秘密を暴いたドキュメントの件でロシアテレビのプロデュウサーは北朝鮮から脅迫されたと話していた。歴史は、眉唾ものが多い。なかでも英雄伝説は、大抵は作り物といえる。しかし、プロパガンダは常に時代を制す。当時は、金日成は、真に英雄であった。マスメディアも、そのように報じていた。
 クラスに北と南の学生がいた。実習などで先生が叱るのは、たいてい南の学生だった。(実際、サボるのは彼だったのだが)「北では、一生懸命国づくりをしている」それなのに、君はサボったりしていいのか、というのだ。1953年の休戦で国を閉ざした北朝鮮だが、もれ伝わってきたのは「地上の楽園」を目指した国づくりだった。祖国の役に立ちたい。心ある在日の人々は、国に帰ることを決意した。政府もメディアもこぞって応援した。帰還事業は、1959年12月からはじまり1984年7月までつづけられた。この間、日本人妻や子供約6800人を含む9万3340人が北朝鮮に渡った。が、ほとんどの人たちが行方知れずとなった。彼らを待っていたのは、地獄だった。脱北者の書いた手記をみれば明らかだ。当時なぜ、世界も日本も、わからなかったのか。金日成英雄伝説を信じ続けたのか、謎である。


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.106―――――――― 2 ―――――――
車窓雑記
20年の歳月は長いか短いか
 梅雨の晴れ間に嫌な出来事がつづいた。が、6月17日の夕刊各紙一面トップで発表されたニュースは、どうか。「宮崎勤死刑囚の刑執行」の大見出し。関係者の受け止め方は、さまざまだった。「こんなに早いとは 確定2年関係者驚き」(朝日)というのもあれば「自供から長かった 当時の捜査官」という記事もある。私の感想は、やはり長かった、である。事件発生から20年の歳月、被害者のご家族の気持を思うと、もっと早く決着をつけて楽にしてあげたかったという思いが強い。それにしても20年という歳月。二昔にもなる。今の大学2年生が、まるまる生きた歳月。その意味では、ゼミの皆さんも、どこかで一度は耳にしたはず。もっとも、自分が誕生したときに起きた事件など記憶にないのが普通。現に、私も自分が生まれた年、昭和22年に起きた事件など、まったく知らない。
 しかし、この日本犯罪史上に残る「連続幼女誘拐殺人事件」は、あまりにも突出している。犯罪者は、いつの時代にも変わらないが、この事件の犯人は、1997年の神戸のA少年や歴史に名を残す残虐な独裁者と同じように、壊れた人間の見本といえる。事件の概要は以下。
 1988年~89年、東京や埼玉で女児4人が相次いで誘拐、殺害された事件。捜査が進展しない中、被害女児宅に「鑑定」などと書かれた段ボール箱が届いた数日後、マスコミには「今田勇子」の名で「告白文」と題する犯行声明が届いた。(朝日キーワード) 
 段ボールの中に入っていた骨は、いなくなった女の子のものだった。その残酷さに世間は震撼した。犯行後に届けられた「告白文」に、誰もが声を失った。いったい、どんな人間が、こんなことをできるのか。日本列島が恐怖と怒りに震えた。次々と繰り返された犯行。8月の4歳女児に続き10月には7歳の小1女の子が、12月には川越市で4歳の幼稚園児の女の子が、翌年89年6月には東京江東区で5歳の保育園児が、捜査の手をあざ笑うように起きた。女の子をもつ親は、一瞬たりとわが子から目が離せなかった。犯人の人物像が、連日、ワイドショーで話された。識者たちの推理は、文章を書きなれた幼女趣味の男、そんな見解だった。が、年齢も職業もようとして分からなかった。このとき私はトルーマン・カポーティの『冷血』を思いだした。1959年アメリカ中西部の農村で大農場主一家4人が惨殺された事件。動機は何か、犯人はどんな人間か。作者の細密な調査で、犯罪の本質に迫るが、結局は、犯人の自白だった。犯人は通りすがりの極楽トンボの二人の若者。共に1965年6月22日に絞首刑となった。遅かれ犯人に行き着く手掛かりはあった、と書かれていた。
 連続女児誘拐殺人事件にもそれがあると思った。犯人は、幼女ビデオマニア。必ずビデオ店に出入りしている。三多摩全土か都下にあるビデオ店の客を調べれば、行き着いたはず。そのように思えた。実際、犯人は、吉祥寺辺りのビデオ店の常連だった。
 事件は、突然に解決した。1989年7月23日、都下八王子の公園で幼い姉妹がブランコで遊んでいた。「写真を撮ってもいいかい」やさしそうな若い男が親しげに話しかけ、妹を抱きかかえて連れて行った。姉は心配になり、その日、たまたま自宅にいた父親に知らせた。探すと若い男は娘を裸にして写真を撮っていた。父親は怒って、男を捕まえ、警察に通報した。あっけない幕切れだった。しかし、犯人逮捕には、まだ時を要した。若者の身元は、多摩でミニコミ紙を発行している旧家の長男だった。若者は三代目で、家業を手伝っていた。警察は父親を知っていた。「魔が差したんでしょう。ちょつとしたイタズラをやりまして」そんな電話を送った。だが、しだいに若者がただの軽犯罪者でないことがわかってくる。逮捕された犯人は、「告白文」を書いたころの威勢はどこえやら、なんとか罰から逃れようと必死になった。(父親は既に自殺していない)このような言い逃れをしていた。
「ネズミ人間が現れて何が何だかわからなくなり、気がついたらマネキンのようなものが落ちていた」「不思議な力をもった男の声で改造手術をするという命令がある」「自分はヒーローだから」「さめない夢の中にいた気がする」などなど。勝手な言い訳が並ぶ。
 はたしてこの容疑者にとって、20年の歳月は、長かったのか、短かったのか。来年から陪審制度がスターとする。
――――――――――― 3 ―――――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.106
2008年、読書と創作の旅
「ゼミ2」号乗員名簿
 「2008年、読書と創作の旅」に参加した皆さんは全員で16名です。時空船「ゼミ2」号で、究極の目的「人間とは何か」を知るために、読むこと書くことの習慣化を目指します。(希望カード提出順・敬称略)
・阪本 義明 ・大野 菜摘 ・川端 里佳 ・本名 友子
・長沼 知子 ・野島 龍  ・大谷 理恵 ・瀧澤 亮佑
 
・秋山 有香 ・田山 千夏子・神田 泰佑 ・小黒 貴之
・刀祢平知也 ・橋本 祥大 ・飯島 優季 ・臼杵 友之
※記念撮影は、全員が揃ったときに撮ります。
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「2008年、読書と創作の旅」班長・副班長
 どんなに少人数の旅でも、まとめ役の人は必要です。意見や相談事の伝達、課外活動のまとめ、幹事役などに当たってくれれば幸いです。
◎ 班長・小黒貴之さん      ○ 副班長・瀧澤亮佑さん
「2008年、読書と創作の旅」旅日誌作成編集委員
 この旅の最大の成果、旅日誌作成の音頭をとってもらいます。印刷会社との交渉もありますが、編集委員の下、全員で協力して記念誌を作りましょう。
編集長  ・ 川端里佳さん   大野菜摘さん
副編集長 ・ 小黒貴之さん
編集委員 ・ 坂本義明さん   橋本祥大さん   
       飯島優季さん   瀧澤亮佑さん  補助委員・全員
「自他共栄・精力善用」の精神で
 皆で協力し合って、よい旅にしましょう。自分だけではなく、皆がよくなれるように自他共栄の精神をもって当たりましょう。力や能力は、自分のためではなく人のために、よいことのために使いましょう。その結果は、巡って自分のためになります。情は人のためならず。
【自他共栄】
 …人は自ら栄えんと欲せば他人の力を借りる必要もある。他人に譲ってもらわねばならぬこともある。それには自分も他人を助け、他人に譲ることを辞するわけにはいかぬ。この相助相譲こそ自他共栄のよって成る所以である。
…人は自他共栄ということを平素念頭に浮かべているならば、あらゆる機会に他人のためを図り、他人に迷惑を掛けぬようになるに違いない。
『嘉納治五郎』著作集 第一巻「有効の活動」
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.106 ――――――――4 ――――――――――
「2008年、読書と創作の旅」9日目
はじめに  → 出欠、「ゼミ通信」配布、連絡事項、その他 
 
司会進行決め  →  毎回、順番にやってもらいます。担任が指名。
司会者進行
1.ゼミ誌作成に関する報告、論議、説明 16日ゼミで提案された問題 
 (川端・大野編集長、小黒副編集長、坂本・瀧澤・橋本・飯島編集委員)
 
・表紙の担当者、自薦、他薦 →
 『空』のタイトルにふさわしいデザインを!
2.課題原稿読み
 ※提出原稿の本欄への掲載は、合評するので原則として原稿通りとしますが、あきらかな
  誤字、脱字、難読など不明個所は修正するか下線とします。
【生き物観察】
溺れる蝶
 臼杵 友之
 暗闇に浮かぶ青い炎は蜃気楼のように儚く揺らいで、その灯火に誘われて醜い蝶が一匹、四方に激しく乱れながら漂ってきた。
 茶褐色の羽は脆くも崩れ、頭部から伸びた触角は一本しか無く、それすらも折れ曲がり重々しく垂れ下がっている。移り気な炎に恍惚と酔い痴れ、落とす影は更なる広がりを見せてゆく。
 青い桜吹雪に身を包み、瞳の奥底が蒼く滲むと夢遊の情念は透明な陽炎に焦がされ始めた。青白い羽ばたきが大粒の空気を取り込んで闇を大きく染め、舞い散る鱗粉は火の粉を宿して蛍火の如き余韻を残す。もがく羽はガラスのように割れ、空虚な夜の底を広げて零れ落ちる。それでも蝶は砕けゆく羽にしがみつき、蒼白の揺らめきに身を寄せた。
やがて朽ち果てた羽の隙間を炎が埋め尽くすと、青白い炎は紫に濁り、全き闇の揺らぎは消えて、溶けゆく情炎は静かにゆっくりと果てない漆黒の大河に沈んだ。
□ 暗闇のなかで妖しく灯る灯火に誘われ破滅していく蝶の様子が、比喩を使ってよく現されています。「D文学通信」1176号(清水正教授発行)手塚漫画の1コマを彷彿した。
――――――――――― 5 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.106
【普通の一日を記憶する】
部活動とは何か
 阪本 義明
 部活活動やサークル活動というものは、学業があって初めて成立するものであり、学業を疎かにしてまで行うものではない。
 去る6月15日、自分が属している他校の演劇研究部が今月末に公演を行うため、必要な物を会場に運び込む「小屋入り」の準備をしていた。16日と17日を使って物を運び、18日にそれを組み立てたりする事になっている。
 これだけ見ると何も問題がないように思えるが、有ろうことか公演を仕切る3年生は水曜日は学校を休めと言い出した。どうしても出なければならない授業がある人は他の日の皆で集まって作業をする時間よりも前に来て作業をするようにとも言ったが、結局は水曜日に授業に出してもらえるのだから他に休んでもまだ大丈夫な授業には出るなという事だ。
 3年生はお客様に観ていただくものだとか公演によってはお金をとる事もあるからといってお客様や金銭面を盾にしているが、本来やるべきことを疎かにして行う公演には何の価値もない。観に来てくださる方々を言い訳にする姿勢には同期や新入生も不満を感じているので、近いうちに1年生と2年生で話し合うかもしれない。
 部活動と上に立つという事を改めて考えさせられた一日だった。 
□ 何事も基本を厳守。アマはアマらしく。客、金はプロの仕事。先輩たちは、何か勘違いしているようですね。名作よりも、まず人間。それが志賀直哉の文学理念です。
【車中観察】
電車の中の「蹴りたい背中」
  瀧澤 亮佑
電車の中にはたまに変な人がいる。
車内で車掌さんのまねをやたら大声で演じる人とよく遭遇するが、彼らの周りの乗客に対する迷惑、気まずさといったらない。これは都会に住み、普段電車に乗る人ならわかるだろう。とにかく大声で、本職であるはずの車掌さんより前にアナウスを始めてしまう。
「次は~石神井公園~」
本職の車掌さんも顔負けの独特な言い回しで電車最後尾の乗客にのみアナウンスして教えてくれるのだ。
 その後、本職の車掌さんもきちんとアナウンスするので、周りの乗客にとってはものすごく迷惑である。
 彼らは見たところ(30代くらいの男が多い)は鉄道会社に就職できなかった事のうっぷんを晴らしているのだろうか。とにかく電車の最後尾、ドアをはさんで車掌さんの目の前で大声で張り上げているのである。
 こういうことは家でNゲージでも作って一人で誰もいないところでやれ!と思う。
 もしかしたら彼らは精神的に何かしらの病があるのかもしれない。でもだからといっていい大人が周りの人間の事もかえりみずに電車の中で騒いでいいものであろうか。
 前、「けりたい背中」と言う小説が話題になったが、僕はこういう人たちを見ると背中から蹴り飛ばしたくなるのである。
□京成のホームにも、同じような人がいます。こちらは車掌さんと仲良く指差し確認しています。毎朝、ラッシュ時、に見かけるから本人は手伝っているつもりかも。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・106 ―――――――― 6―――――――――
スキンヘッドの視線
大谷 理恵
 正午を過ぎた駅のホームで私は電車を待っていた。朝のラッシュ時は電車に乗り込むことさえ容易にことは進まないが、それも10時を過ぎればもう終わりだ。白線の内側に立つ私の周りには同年代の女性が一人いるくらいだった。
 程なく電車がやってきた。扉は開かれるが誰も降りなかった。乗り込むとすぐ近くの席に座る。乗客のほとんどが座っていた。電車が動き始めると鞄から携帯を出して、メールの返信を打ち始めた。
 次の駅で、また人が乗車した。横目でちらっと見ると、スキンヘッドに黒くてダボダボとした小柄な身長には不釣合いの服を着ている。柄が悪そうな人だな、そう思って再びメールに目をやる。しかし、あの柄の悪い男が立っている方から、妙な視線を感じる。まさか、ガンつけられたと思われてしまったのだろうか。次の駅までの辛抱だ、と自分を励ましながら、携帯の画面から目をそらさないようにした。
 電車が止まるとすぐさま立ち上がり、電車を降りようとした。最後にもう一度、男の方を見るとやはり私を見ていた。足をホームの地面に降ろした時、ようやくあの視線の正体がわかった。小学校の頃、女の子をいじめていた同級生であることを思い出した。
□ 電車の中で見つめられるのは、嫌ですね。でも、たまに知っている人かもと思って見つめてしまうことがあります。もしかして彼はなつかしかっただけかも知れませんね。
人生相談トーク 読売新聞に下記のような相談がありました。相談者があなたの友人だったらどんなアドバイスをしますか。他人ならこんなアドバイスがあります。
○大学はやめて好きな道にすすみなさい。その方がいいです。人生むだにならない。
○がんばって大学を卒業して、それから好きな道に。遅くはないです。
○大学に籍をおいて、料理の勉強もやったらどうですか。
―――――――――――――― 7 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.106
3.テキスト『城の崎にて』読み 「生き物観察」
■『出来事』1913年(大正2年)『白樺4号』にて発表。
■1917年(大正6年)5月1日発行『白樺5号』に発表。
『城の崎にて』は、日本文学のなかでも異彩を放つ名作である。いのち観察作品。
 先週『出来事』を読んだが、この作品は、『出来事』を書き終わった夜、即ち1913年8月15日、友人の里見弴と散歩に出て、その帰り山手電車にはねられ、怪我をする。その怪我の治療に城の崎温泉にきて書いたものである。
【創作余談】
これは事実ありのままの小説である。鼠の死、蜂の死、いもりの死、皆その時数日間に実際目撃したことだった。そしてそれから受けた感じは素直に且正直に書けたつもりである。いわゆる心境小説というものでも余裕から生まれた心境ではなかった。
『城の崎にて』の草稿は、『いのち』と題して書かれた。書き出しは以下のようであった。
 昨年の8月15日の夜、1人の友と芝浦の涼みに行った帰り、線路のわきを歩いていて不注意から自分は山の手線の電車に背後から二間半ほどハネとばされた。脊髄をひどく打った。頭を石に打ちつけて切った。切り口は六分ほどだったが、それがザクロのように口をひらいて、下に骨が見えていたという事である。その時のことで今も覚えているのは、兎も角自分はヒドイ怪我をしたと思ったこと。(自分はこれが死の原因になりはしないかと思った。しかしその恐怖からおびやかされる程でもなかった)自分の不慮の禍に心から驚いて友が心を痛めていたこと、電車の運転手が降りて来て何かいうのに自分が、自分の過失だから、少しも差支えないといったこと、・・・
4.テキスト関連作品読み『ひがんさの山』&模擬テスト
 この作品は、「一日を記憶する」「生き物観察」「大人観察」、それに「うさぎ狩り観察」という複数観察を混合させた作品です。ある国立大教育学部ゼミでテキストにしたところ、内容に対極の感想がでたそうです。付随の模擬試験問題と併せて考えてみましょう。
名作紹介
『椿 姫』デュマ・フィス 新庄嘉章 訳
 映画、芝居、歌劇などでお馴染みの『椿姫』ですが、メリメの『カルメン』同様、本の方は、まだ読んでいないという人が結構いるのではないかと思います。昨今、セカチューはじめ若い人の恋愛小説が花盛りです。が、恋愛小説・非恋物語の王様といえば、先にあげた『谷間の百合』につづく、この作品です。愛した女をどうしても見たい。だが、女はもう半月以上も前に亡くなっている。墓を掘り起こしたところで腐臭とウジのわいた屍があるだけ。だが、青年アルマンは会わずにはいられなかった。棺は掘り起こされ蓋は開けられた。
…中には、匂いのいい草が詰まっていたのだが、それでも、たちまちいやな臭気がつんと鼻をついた。…墓堀り人夫さえもがあとずさりした。大きな白い経帷子が死体を蔽って、ところどころからだの曲線を描きだしていた。この経帷子は片すみがすっかり腐って、そこに死人の片足がのぞいていた。…
マルグリット・ゴーティエの悲しい物語、現在の若い女性に是非。アベ・プレヴォ(1697-1763)『マノン・レスコー』も併せて読んでください。デュマ・フィス(1824-1895)アレクサンドル・デュマの私生児。
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6・16ゼミ報告
 
出席者・15名
 6月16日の出席者は、以下15名の皆さんでした。あと1人で全員でした。
 
・川端里佳  ・大谷理恵  ・野島 龍  ・長沼知子  ・刀祢平知也
・田山千夏子 ・瀧澤亮佑   ・小黒貴之  ・飯島優季   ・臼杵友之  
・秋山有香  ・大野菜摘  ・橋本祥大  ・阪本義明   ・本名友子  
○ 「ゼミ通信105」配布。
○ 司会進行は、阪本義明さん
1.ゼミ誌作成の進行状況報告 川端編集長、小黒副編集長
 ○ テーマ → 「空」内定
 ○ ジャンル → なし
 ○ 表紙  → 来週までに、希望者。デザインなど
 
編集長の意向 → 皆の協力を軸に打ち合わせながらすすめていきたい。編集委員だけとな
         るのを避けたい。積極的協力を…          
           
2.課題原稿読みと感想 【普通の一日】【車内観察】各1本
長沼知子「300円以下の時間」
感想 → 「足音とした方」「うしろの席」とした方が。公共の場は「公衆の場に」
      「店から、ドーナツの甘い香りが漂ってくるような、そんな表現が」
小黒貴之「広告という名の電車」
感想 → 眩暈に似た「感触」は感覚のほうが。表現がむずかしい。本を読みながらとあっ
     たが、いつ本からカメラに移行したか。
3.テキスト『正義派』&『出来事』読み
 対照的な作品だが、どう感じたか。朗読直後の印象。
『正義派』に好印象をもった → 5名
『出来事』に好印象をもった → 7名
どちらともいえない → 3名(進行役で手一杯だった司会者を含む)
『正義派』派 → 「創作的」「社会的と人道的がの錯綜がいい」「大人の話」「視点が一環している」「台詞からイメージがわく」
『出来事』派 → 「明るく終わる」「『正義派』の工夫はウザイ感じがする」「体験の方がいい」「『正義派』は台詞で繋いでいる」「のんびりした雰囲気がある」
□志賀直哉が他の作家の作品と違うところは、読み返すたびに感想や印象が深まる、といったところにあります。何度でも読むに耐える作品。じっくり作品観察してください。
―――――――――――― 9 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.106
■『正義派』は戦後、映画になっています。1957年(昭和32年)監督・渋谷実
脚本・齋藤良輔 出演・佐田啓二、久我美子
【映画『正義派』原作者(志賀直哉)の言葉】
 映画の正義派は90㌫齋藤良輔君と渋谷実君の創作である。何故なら私の小説は夕方から夜更けまでの出来事を、書いた短編で、これを1時間40分の映画にする為には小説に書かれていない所を充分に書き足さなければ1本の映画にはならないわけである。私は「正義派」のテーマである、自ら正義を擔うと自負して行動した人間が、後で何となくむくわれない気がして、淋しくなるという点をしっかり掴んで作ってもらいたいといい、あとは渋谷君に任せたが、ある程度それも現してもらえると思う。私はシナリオを読んで、気のついた所は少し自分でも直した。つまり、今度の「正義派」は47年前の私の短編とは異なるが、この映画は私も多少は力を合わせて作ったといえるものである。
ゼミ誌について
ゼミ雑誌発行12月15日を目指して
 ゼミの実質的成果は、決められた期日までのゼミ雑誌発行にあります。毎年、納品日の遅れが指摘されています。一年間の大切な成果なので、しっかり守って、よい雑誌をつくりましょう。本ゼミは、二人編集長と一人副編集長に四人の編集委員が、アシスト、全員が協力します。ゼミ誌は自分の作品でもあるので、全員一丸となって当たりましょう。
ゼミ誌原稿について
 ゼミ誌原稿は、そのために書くというより、日々の授業のなかで育てることをすすめます。締め切り前あわてて書くより、発表した観察作品を草稿として完成品に高めるよう創意工夫してみてください。合評したとき、皆の印象や意見を参考に。
・編集委員長=川端里佳 大野菜摘
・編集副委員長=小黒貴之
・編集委員=阪本義明 橋本祥大 飯島優季 瀧澤亮佑 
・補助委員=本名友子 長沼知子 大谷理恵 野島 龍 田山千夏子 臼杵友之 
      秋山有香 神田泰佑 刀祢平知也
ゼミ誌作成の進行状況と予定は以下の通りです
○決定事項 6月9日報告 → 印刷会社、フジワラ印刷(株)             
      6月16日 テーマ決め → 「空」
1. 6月中旬 → ①「ゼミ誌発行申請書」の提出。出版編集室に
2. 6月~  → 全員でゼミ雑誌の装丁を話し合う。
3. 7月下旬 → 原稿依頼し、締め切り日を決める。だいたい夏休み明けがよい。
4. 9月末  → 編集委員にゼミ誌原稿を提出。
5. 10月上旬 → 編集委員は、内定の印刷会社から②「見積書」をもらう。
6. ~11月 → 「見積書」の提出。印刷会社と相談しながらゼミ雑誌作成。
7. 12月 → 15日までにゼミ誌提出、③「請求書」提出
注意事項!!
◎ ①【ゼミ誌発行申請書】、②【見積書】、③【請求書】以上3種類の書類が提出されない
  場合はゼミ誌の発行はできません。補助金の支払いも認められません。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.106―――――――10 ―――――――――
 
「2008年、読書と創作の旅」の記録
□4月14日 参加者約20名。旅説明と嘉納治五郎の青年訓「多読と精読」読み。
□4月21日 司会=小黒、登録11名出席。旅立ちに際して紀行文と書簡の読み。『おくの
      ほそ道』「発端」「旅立ち」。ドストエフスキーが国家反逆罪の罪でシベリアに
      向う朝、兄に書いた手紙を読む。志賀直哉の車中作品についての説明。
□4月28日 司会=田山、15名出席、名作紹介・サローヤン『空中ブランコに乗った大胆
      な青年』読みと感想と解説。議論・新聞「人生案内」愛の告白について〈私な
      らこう答える〉、登録者16名に。
□5月12日 司会=本名、13名出席、ゼミ正副班長指名、ゼミ誌編集委員決め。新聞記事
      紹介。「小林多喜二『蟹工船』」と志賀直哉の関係。紙芝居『少年王者』の作者
      山川惣治の本が刊行される。東京新聞取材のドストエフスキーの全作品を読む
      会「読書会」の宣伝。提出原稿6本の読みと合評。
     【車内観察】5本
      ・本名友子「台風一過」・瀧澤亮佑「タイムスリップ」・秋山有香「新入生」
      ・川端里佳「ランデブーは車内で」・大野菜摘「園児とサラリーマン」 
      【生き物観察】1本
      ・小黒貴之「スカーフ猫は喉を鳴らさない」
□5月19日 司会=飯島、12名参加、新聞記事紹介=「『蟹工船』再記事について」「五月
      病記事について」「候補漢字220字について」など。提出原稿1本の読み。
      【一日観察】
      ・野島 龍「夜明けからの一日」
      【テキスト読み】
      ・『菜の花と小娘』 ・草稿『小説 網走まで』
□5月26日 司会=川端、12名参加、小黒班長=ゼミ合宿の有無。合宿なしで決定。
      名作読みA・ランボー「谷間に眠るもの」、車内観察テキスト見本「夫婦」
      完成作『網走まで』感想
□6月2日 司会=秋山、14名参加 『少年王者』と『灰色の月』の関係。
      【車内観察】1本
      ・長沼知子「立ち聞き」
      【一日を記憶する】1本
      ・秋山有香「一日の出来事」
      【コラム】1本
      ・瀧澤亮佑「池波正太郎『散歩のとき何か食べたくなって』を読んで」
      【少年王者】紙芝居口演
      ・14名全員が口演。約1時間。三分の二カットまで
□6月9日 司会=瀧澤、13名参加、編集委員=ゼミ誌報告、印刷会社決定など
      【車内観察】1本 ・刀祢平知也「僕の中央線」
      テキスト読み『或る朝』、車中観察関連作品夏目漱石の『三四郎』上京まで
□6月16日 司会=阪本、15名参加、川端編集長より提案、題「空」内定、表紙デザイン
       協力者希望者は来週ゼミで。
      【一日の記憶】1本・長沼知子「300円以下の時間」
      【車内観察】1本・小黒貴之「広告という名の電車」
      テキスト読みと感想『正義派』、『出来事』
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志賀直哉 1883年(明治16年)2月20日~1971年(昭和46年)10月21日88歳
6月9日で『網走まで』『菜の花と小娘』『或る朝』3部作を読み終える。
3部作のまとめ   学生と読む志賀直哉の車中作品(推敲3回目)
時空船「ゼミ2」号・編集室
『網走まで』を読む(前文、前号と重複)

 小説『網走まで』は、当時の原稿用紙(20×25)十七枚余りの、ちょっと見にはエッセイふうの小作品である。が、ある意味でこの作品は、金剛石の要素を持っている。光り輝くか否かは、読者の読解力の有無にかかっている。
 1910年『白樺』第一号に発表された志賀直哉の初期作品『網走まで』は、400字詰原稿用紙で21枚足らずの創作である。たまたま乗り合わせた母子をヒントに書いた、筋らしい筋もない物語。たいていの読者は、見逃してしまう初期作品である。むろん私も全く記憶になかった。四年前、ゼミでテキストに選んだ折り、何度か読み返してみて、はじめてこの作品の非凡さに気がついた体たらくである。
 しかし、どんな高価な金剛石でも、磨かなければただの石である。『網走まで』も、ただざっと読んだだけでは、なんの変哲もない作品である。「こんなものが、はたして作品と呼べるのか」学生たちのそんな感想も無理からぬことである。だがしかし、しっかり繰り返し読めば、いつかははたと気がつき目からうろこが落ちた思いがするに違いない。処女作三部作のなかでも、『網走まで』は、とくに志賀文学の根幹を成すもの、源泉だと。
 では、『網走まで』とはいったいどんな作品なのか。         
 
『網走まで』解説(『志賀直哉全集』岩波書店)
 明治43年(1910)4月1日発行の『白樺』第1巻第1号に発表され、大正7年(1918)3月、新潮社より刊行された白樺同人の作品集『白樺の森』に、現在のものにもっとも近いかたちになおして収め、「明治41年8月14日」と執筆年月が・・・明記されている。この作品もまた完成までに十年の歳月を要しているのである。
 1947年(昭和22年)に細川書店版で出された『網走まで』あとがきで、作者志賀直哉は、『網走まで』についてこのように話している。(全集を編集室が現代表記に)
【細川書店版「網走まで」あとがき】「帝國文学」没書顛末記 抜粋
 発表した順からいうと、この小説が私の処女作ということになるが、私にはそれ以前に、「菜の花と小娘」というお伽話と、「或る朝」という小品があって、初めて一つの話が書けたという意味では「菜の花と小娘」を、また、書く要領をいくらかでも会得したという点では「或る朝」を私は自分の処女作と思っている。しかしまた、多少小説らしい形をしたものとして、かつ最初に発表したものとして、やはり、この「網走まで」を処女作といっていいようにも思い、つまり、私には色々な意味での三つの処女作があるわけだと考えている。
 明治三十九年に、二十四で学習院を卒業し、東京帝国大学に入り、そのよく翌年くらいにこの短編を書いた。その頃、大学内に「帝國文学」という雑誌があって、それに載せてもらうつもりで、その会員になったが、幾月経っても載らず、ついに何の音沙汰もなく、没書になった。
 「帝國文学」の原稿用紙というのが、今思えばまことに変なもので、紙を縦に使って、一枚がそのまま、雑誌の一頁になるように出来ていた。編輯には便利なので「白樺」をはじめた時、真似して作ってみたが、使いにくく、すぐやめてしまった。十七八行、五十字詰くらいで、今の四百字詰の原稿用紙に比べると倍ほどの字数になる。従って一コマが小さく、とくに上下がつまっていて、大変書きにくかった。その上、ロール半紙で、表面がつるつるし
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ているし、それに毛筆で書くのだから、私のような悪筆の者には非常に厄介なことだった。清書だけでも人にしてもらえばよかったものを自分で書いて送ったから、編集者はそのきたない原稿を恐らく読まずに、そのまま屑籠に投げこんでしまったのだろうと思う。今はそれを当然のことだと思うが、当時は一寸不快に感じ、会費を一度払っただけで脱会してしまった。明治四十三年に「白樺」を創刊したとき、私はその第一号にこの短編を載せた。二年ほど前から回覧雑誌を出していたから、作品は他にも三つ四つできていたが、創刊号にこれを選んだのは、没書になった故に、わざと出したように思う。
 小宮豊隆君が新聞か雑誌かでほめてくれた。月評を書くのでいろいろなものを読んだが、この小説へきてようやくほっとしたというようなことが書いてあった。ほめたといってもその程度の賛辞であったが、私はそれをうれしく思った。個人的には未だ小宮君を知らぬ頃のことだ。・・・・・・・・・。(岩波『志賀直哉全集』)

 『網走まで』を手にとると、まず、題名から立ち止まってしまう。なぜ「網走」かである。網走は、現代なら映画の舞台や刑務所、メロン産地、オホーツクの流氷やカニなどでよく知られている。が、この作品が発表された明治四十三年(一九一○)当時は、どうであったろうか。一般的にはほとんど無名だったのではないかと想像する。そんな土地を作者志賀直哉は、なぜ題名にしたのか。旅の目的地にしたのか。疑問に思うところである。そんなところから、作品検証は、まずはじめに題名「網走」から考えてみたい。
 インターネットで調べてみると網走は、元々魚場として開拓民が住み着いたところらしい。地名の由来は諸説あるが、いずれもアイヌ語が語源とのことである。
 例えば「ア・バ・シリ」我らが見つけた土地。「アバ・シリ」入り口の地。「チバ・シリ」幣場のある島。である。(ウィキペディア)
 また、作品が書かれた頃までの網走の歴史は以下のようである。
? 1872年(明治5年)3月 北見国網走郡の名が与えられる(網走市の開基)。アバシリ村が設置される。
? 1875年(明治8年) 漢字をあてて、網走村となる。
? 1890年(明治23年) 釧路集治監網走分監、網走囚徒外役所(現在の網走刑務所の前身)が開設
? 1891年(明治24年) 集治監の収容者の強制労働により北見方面への道路が開通
? 1902年(明治35年) 網走郡網走村、北見町、勇仁村(いさに)、新栗履村(にくりばけ)を合併し2級町村制施行、網走郡網走町となる。
明治政府は、佐賀の乱や西南の役などの内紛に加え荒れた世相で犯罪人が激増したことから、またロシアの南下対策として彼らを北海道に送ることにした。明治十二年伊藤博文は、こんな宣言をしている。
「北海道は未開で、しかも広大なところだから、重罪犯をここに島流しにしてその労力を拓殖のために大いに利用する。刑期を終えた者はここにそのまま永住させればいい」
なんとも乱暴が話だが、国策として、この計画はすすめられた。
 そして、明治十二年に最初の囚人が送られた。以後十四、十七年とつづき、網走には明治二十三年に網走刑務所の前身「網走囚徒外役所」ができ千三百人の囚人が収容された。囚人は、札幌―旭川―網走を結ぶ道路建設にあたった。こうしたことでこの土地は、刑務所の印象が強くなったといえる。が、作品が書かれた当時、その地名や刑務所在地がそれほど全国に浸透していたとは思えない。第一、当時、網走には鉄道はまだ通っていなかった。従って
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「網走」という駅は、存在していなかったのである。では、作者はそんな地名を、なぜ、わざわざ題名にしたのか。あたかも網走という駅があるかのように書いたのか。
 とにかく、どう読んでも網走駅までの印象は強い。最初から大きな謎である。が、この謎が解けなければはじまらない。ということで「網走」についてもう少し検証してみることにする。

 『網走まで』は、僅か二十枚程度の作品である。(草稿は二十字二十五行で十七枚)この作品には大きな謎が二つある。一つは、前述したが題名の「網走」である。志賀直哉は、何故に網走としたか。志賀がこの作品を書いたのは、一九○八年(明治四一年)である。草稿末尾に八月十四日と明記されている。志賀直哉二十五歳のときである。一見、エッセイふうで、経験した話をそのまま書いた。そんなふうに読めるが、そうではない。この作品は完全なる創作である。志賀は、創作余談においてこの作品は、「或時東北線を一人で帰ってくる列車の中で前に乗り合わせていた女とその子らから勝手に想像して書いたものである」と明かしている。そうだとすれば、なにも「網走」でなくてもよかったのでは、との思いも生ずる。当時、あまり知られていない網走より、「青森」とした方がより現実的ではなかったか、と思うわけである。網走同様、青森という地名の由来も諸説ある。が、一応、三七○年前、寛永二年頃(一六二五年)開港されたときにつけられた、というから一般的にも知られてはいたというわけである。題名にしても歌手石川さゆりが熱唱する「上野発 夜行列車降りたときから 青森駅は雪だった・・・」の青森に違和感はない。当時としては、網走よりはるかに現実的だったに違いない。なぜ「青森まで」ではなく、「網走まで」なのか。もし作者が北海道にこだわるのなら函館でもよかったのではないか。そんな疑問も浮かぶ。函館なら、こちらもよく知られてもいる。歌手北島三郎が歌う「はーるばる来たぜ函館!」は演歌の真髄だ。他にも函館には、歴史の郷愁がある。既に40年の歳月が過ぎているとはいえ、函館(箱館)といえば、あの新撰組副長土方歳三(35)が戦死した土地。明治新政府と榎本武揚(34)北海道共和国が戦った城下である。現代では百万ドルの夜景と、観光名所にもなっている。それ故に当時も一般的知名度は、それなりに高かったのではと想像する。
 しかし、時は明治全盛期である。過去に明治政府に反抗した都市ということで、よろしくないとしたら、札幌はどうだろう。「札幌まで」としても、べつに遜色はないように思える。一八七六年(明治九年)あの「青年よ大志を抱け」のクラーク博士ほか数名の外国人教師を迎えた札幌農学校のある「札幌」は、それから三十余年北海道開発の拠点として、大いに発展しつつあったはず。「札幌」の名は、全国区であったに違いない。にもかかわらず「札幌」ともしなかった。なぜか・・・・。ではやはり当時、「網走」は人気があったのか。それとも作者志賀直哉に何か、よほど深い思い入れが、題名として使いたい理由があったのか。どうしても行き先が「網走」としなければならない何かが・・・そんな疑念が浮かぶ。
しかし、四十一年後、一九五一年(昭和二六年)六八歳のとき、志賀直哉は、リックサック一つ背負い一人ではじめて北海道を旅した。が、網走には行かなかったという。と、すると、深い思い込んみでもなさそうだ。だとすると、「網走」という土地名は、たんなる思いつきか。それともサイコロを転がせて決めただけの偶然の産物であったのか。

 「網走」という地名。現代ではどんな印象があるのか。最近の若い人は、網走と聞けば、オホーツクの自然を目玉にした観光地のイメージだろう。観光用に刑務所そっくりな宿泊施設もある、と、テレビかなにかの旅宣伝でみたことがある。刑務所も観光地化されているようだ。こうした現象は、たぶん山田洋次監督の「幸せの黄色いハンカチ」という映画が発生源となっているに違いない。網走刑務所を出所した高倉健演じる中年男と武田鉄也・桃井かおり演じる若い男女が車で一緒に出所男の家まで旅する話である。舞台は、網走ではないが、網走という地名を観客に強く焼き付けた映画だった。
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 同じ高倉健主演でも私たち団塊と呼ばれる世代では、網走と聞けば、やはり東映映画『網走番外地』である。一作目はポールニューマン主演の『暴力脱獄』を彷彿させる一種文芸的
作品だった。手錠で結ばれた二人の囚人の脱獄物語だった。が、第二作目からガラッと変わった。完全なやくざ映画である。一作目は白黒だったが、二作目からは総天然色と高倉健の唄で、激動の昭和四十年代を熱狂させた。話のパターンは水戸黄門と同じで、網走刑務所を出所してきた流れ者やくざ高倉健が、悪いやくざにいじめられつくされている弱いやくざを救う。それも出入りに助っ人として加担するのではない、万策尽きた弱くて良いやくざ(というのも変だが)その正しいやくざのために最後の最後、たった一人でドスを片手に、多勢の悪いヤクザが待つ敵陣に乗り込んでいく。その背中に、発売禁止となった「網走番外地」の唄が流れる。
ドスを ドスを 片手になぐりこみ   どうせ おいらの行き先は 網走番外地
 とたん、立ち見で立錐の余地もないほど入った超満席の映画館の場内から一斉に拍手がわく。今、思い出せば異様な光景である。が、強いものに立ち向かう一匹狼。それは、しだいに強力になっていく機動隊や政府、そして企業に対峙する自分を重ねたのかも知れない。当時の若者、全共闘世代にとって「網走」は畏怖しながらも一種憧れの土地でもあったのだ。
 で、当然といえば当然だが、そんなわけで一九六十末~七十年代、網走は、刑務所のある町。といった印象だった。そして、その印象も、小菅や岐阜のようなコソ泥や詐欺師の収監される場所ではなく仙台一歩前の犯罪人の行くところ。極悪人=網走であった。。
 『網走まで』が書かれた時代、作者志賀直哉は、この町にどんなイメージをもっていたのか。知るよしもないが、草稿のなかで「北見の網走などと場所でしている仕事なら、どうせジミチな事業ではない。恐らく熊などのいるところであろう。雪なだれなどもあるところであろう。」と書いているところから、刑務所、監獄という印象より、金鉱の町。得体の知れない人間が集まる未開の地。そんなイメージでなかったかと思う。
 子供のころ観たアメリカ映画で『縛り首の木』というのがあった。砂金掘りが集ってできた、いわゆる無法の町の話だ。そこにはろくな人間はいない。皆、欲に目がくらんだ、すねに傷持つものばかりの住人である。当時の「網走」も、映画の砂金掘りの町。そんな町だったのかも。文明開化がすすむ東京にいて、文学をつづける志賀直哉からみれば「網走」は、未開のなかの未開の町。そんなところに見えたのかも知れない。もっとも「網走」、というより北海道は、その後55年たっても遠いところだった。
 余談だが、1965年、昭和40年、今から43年前だが、私は、はじめて北海道に行った。2ヶ月間牧場でアルバイトをするためだった。説明会で斡旋の学生援護会から、きつい仕
事、途中で逃げ出す学生が多いから、と覚悟のほどを注意された。が、大学の実習授業(4単位)に組み込まれた。住み込み三食つきにバイト代500円、それに単位修得。一石三鳥になる。(当時、バイト日給600~800円が相場)で、躊躇なく決めた。
 信州の山奥で育った私は北海道がどんなところかまったく知らなかった。広いところだというので、憧れがあった。7月の前期終了日、主任教授から激励された。希望者は二十人はいたろうか。釧路が一番多く数名、あとは稚内や網走、他、知らぬ土地だった。行き先の切符をもらった。「計根別」とあった。はじめて聞く地名。地図でみると根釧原野の中ほどにある。釧路から近い、とわかった。が、どんなところかは、想像もつかい。とにかく行けばわかるさ、で上野から「青森行き」夜行列車に乗った。大学一年18歳の夏、「計根別まで」の旅である。記憶では、翌朝、青森駅に到着、青函連絡船で函館。そこから札幌までが、長かった。札幌で時計台を見に行きラーメンを食べた。再び列車で釧路に向う。深夜、倶知安という駅に着いた。寒いので、うどんを食べた。計根別に着いたのは昼過ぎ。上野を出てから二日かかった。昭和40年でも、こうだから、明治の時代には、どれだけ大変だったか、見当もつかない。その意味から、母子三人の網走行は矛盾が大き過ぎる。
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2008年、読書と創作の旅
 担任自己紹介の代わりに学生時代の旅を紹介します。が、想像・推測・個人問題もあるので創作ルポタージュとします。
一九六八年、アジアの旅⑧
                                   下原 敏彦
 1976年9月15日、午後の雲ひとつない残暑の相模湾上空。遊覧のセスナ機から、老初老の夫婦が操縦士とカメラマンを襲撃したあと、眼下の海にダイブしていった。初老夫婦は、なぜ死を選んだのか。初秋の午後、立川の私の下宿に羽田署外事課の二人の刑事が、調書を取りにきた。解けぬ謎を解くため私は、8年前のプノンペンの日々を話はじめた。若い刑事は、ちゃぶ台にひろげた調書の紙に丁寧にペンを走らせ、ときどき聞き返した。
「フクヨウとは何んです」「睡眠薬を飲んでいたんです。それで」「中毒でしたか」初老の刑事は、間髪をいれず疑い深かそうにが口をはさむ。「いえ、不眠症なだけで」私は、首を振った。警察は、睡眠薬が事件に関係していると思っているのだろうか。
 私にとって恩ある元学長夫妻の心中は、ムルソー(『異邦人』)の殺人よりも深い謎だった。私は、謎を解くために記憶の糸を探りながら話した。二階の開け放たれた窓外に青葉繁る武蔵野の林があった。風が吹くと、青空の中で海の藻のように揺れた。それは、モニボン通りの街路樹やメコンの岸辺のココナツ林を思い出させた。
 
我が青春のプノンペン
 私とA君との旅は、想像しない展開となった。マルセーユまでの船旅のはずが、バンコックで下船。ちょつと寄るだけと思ったプノンペンにしばらくいることになった。
 朝食で日大闘争が話題になった。一週間遅れの新聞だが、連日のように載っている。木内女史は、先生が学長時代からの秘書だから、大学には通じていて、なかなか辛らつだ。
「使途不明金が三十何億円もあるんでしょ」彼女は、皮肉ぽく言った。「いったい、何につかったのかしら。予想はつくけどね」
「何に、使ったと思うのですか」
「政治よ。日大生、よくやってるけど、学生運動じゃ解明されないわ。残念だけど」
「どうして、そんなことがわかるんです」
「先生の大学も同じようなことがあったからよ」木内女史は、笑った。「不正入学問題。学生たちが騒いで、先生は、彼らの言い分をきいたわ。だけど、政治が入っているからどうにもならないのよ。結局、先生は学長を失脚したわ。でも、先生は孤立無援だったけど、日大生には支援者がいるから、いい方だけど」
 彼女が言っているのは、1968年6月30日号発行の『朝日ジャーナル』のことだった。埴谷雄高、宇野重吉、佐古純一郎ら各界で活躍する9名の文化人の日大を愛するが故の連帯声明。ノンポリも右翼学生も、デモ学生も立ち止まり振り返った。たとえ、どちらの側に立とうとも、この時代、誰もが日大生が置かれた境遇を知っていた。
【燃える怒りの火を消すな】
 三四億円の使途不明金問題をかわきりに、学園の民主化をめざして闘っている学生諸君、君らは今、日本大学の新しい歴史をきり刻んでいる・・・10万人の日大生は、かいならされてはいなかった。その証明を、君らは闘いの中で展開している。日本大学のこれまでの恥辱の歴史に勇然とたちあがった怒りの炎を、君らの胸に燃やしつづけろ。・・・・
 日本国内で日大闘争に対して静かな感動がひろがりつつあった。遠く離れたインドシナでも、それが感じられた。しかし、木内女史は、あくまで闘争の成功を否定するのだった。
 朝食が終わると、私たちは、華僑の青年を待った。日本語の勉強をしているので、一緒に勉強したいと言ってきたのである。ドアがノックされた。
                                    
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掲示板
提出原稿について
○ 車内観察 → 電車の車内で観察したこと(創作・事実どちらでも)
○ 1日の記録 → 自分の1日を観察する(自分のことをどれだけ晒せるか)
○ 社会観察 → 社会の出来事を観察、自分の意見もいれてみる
○ 生き物観察 → 人間、動物、草木、生あるものすべての観察(宇宙人の目で)
 締め切りはありません。書けた人は、どんどん提出し、皆の評価をみてみましょう。何事も切磋琢磨です。
ゼミ誌・課題・その他+提出原稿(2×)+出席(1×)=評価(60~120)
ドストエフスキー情報
7月26日(土) : ドストエーフスキイの会例会 会場は千駄ヶ谷区民会館
           午後6時から 
8月 9日(土) : 全作品を読む会「読書会」暑気払い。「『悪霊』払い祭り」
               会場は東京芸術劇場第一会議室 午後2時から
出版
 ☆復刻版・岩波写真文庫『農村の婦人』6月25日発売「ひとくちばなし」下原
☆新刊・熊谷元一白寿記念写真集『信州 昭和の原風景』一草舎2200円
★旧刊・下原敏彦著『伊那谷少年記』鳥影社「昭和30年の原風景」
 理論社 2008・3・21 定価1200
★文・藤井誠二 マンガ・武富健治『「悪いこと」したらどうなるの?』
  ★山下聖美『国文学4』「ケータイ小説 クリエイターの卵たちはどう読むか」
★福井勝也著『日本近代文学の〈終焉〉とドストエフスキー』のべる出版企画 2008
★芦川進一著『「罪と罰」における復活』河合文化研究所・河合出版2007
★清水 正著『ドストエフスキー論全集1』D文学研究会2007
★下原敏彦著『ドストエフスキーを読みながら』鳥影社2006 2月点字図書
★國文学別冊『ギャンブル』下原敏彦・文「ドストエフスキーとギャンブル」
演劇
劇団「昴」公演『ジュリアス・シーザー』あうるすぽっと(豊島区舞台交流センター)
6月19日~29日(日) 訳・福田恒存 演出・ニコラス・バーター                                  
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編集室便り
☆「2008年、読書と創作の旅」内容は、本通信に掲載します。
☆ 原稿、歓迎します。学校で直接手渡すか、下記の郵便住所かメール先に送ってください。
 「下原ゼミ通信」編集室宛
  住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
☆本通信はHP「土壌館創作道場」に掲載されています。

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