文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.391

公開日: 

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日本大学藝術学部文芸学科     2019年(令和元年)12月24日発行

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.391

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
9/24 10/1 10/8 10/15 10/22 10/29 11/12 11/19 11/26 12/3 12/10 12/17 12/24 1/7 1/14 1/21 
観察と記録

2019年読書と創作の旅

12・24下原ゼミ

2019年度読書と創作の旅同行者です。8人の仲間です。
宇治京香  安室翔偉  梅田惟花  佐久間琴莉 (松野優作) 伊東舞七
大森ダリア  佐藤央康 (7名参加の日撮影)

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12・17ゼミ報告 ゼミ誌刊行で空席目立つ

12月17日(火)は、刊行されたゼミ誌『暗夜光路』が刊行されたことで。エアポケット現象。この日の参加は、宇治、佐久間、伊東の3名。『継娘殺人未遂事件』裁判の感想。
土壌館日誌     熊谷元一研究の写真が繋ぐ縁
 20日こんなメールを受信した。「木下晋という知り合いの画家(日大芸術学部講師)の老老介護と創作を追ったETV特集が21日(土)に放映されます(以下クリックすると予告編が出てきます)。よろしければご覧ください。」発信人は、毎日新聞社元南アフリカ支局長、現同社編集委員のG氏からだった。木下画伯を直接には、知らないが、ちょっとでも縁があれば知らせてくれる気持ちがうれしかった。G氏は熊谷元一の写真を通じて知り合った。熊谷の写真「一年生」に注目していて、被写体となった下原について「毎日小学生新聞」インタ―ネットニュース「幸せの学び〈その129〉黒板絵は残った」の記事を書いた。
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ゼミ観察  2019年後期前半、同行者

9月24日からの点呼状況です。()は提出課題

・宇治京香 9/24 10/1 10/8 10/15 10/22 10/29 11/12  11/19 11/26  12/3 
前期13/14                                          (1)

・伊東舞七 9/24 10/1 ― 10/15 -  ―    11/12  11/19 - -
前期10/14      (2)

・梅田惟花 ゼミ誌原稿入り  ―  ―   ―   ―   11/12  -  - -
前期7/14
・佐久間琴莉9/24 10/1 ―  10/15 10/22 10/29 11/12 11/19 11/26 12/3
前期13/14                                          (1)

・大森ダリア9/24 ―  ―  10/15 ―   10/29  11/12 11/19 -  -
前期8/14   (1)

・安室翔偉  9/24 10/1 ― 10/15 ―    10/29 11/12  11/19 11/26 12/3
前期11/14                                          (1)

・佐藤央康  9/24 10/1 ― 10/15 10/22 10/29  ―   11/19  - 12/3
前期10/14   (2)                                     ( )

・松野優作 9/24  ―  ― 10/15 10/22 10/29   ―   -  -  - ―
 前期2/14  (1)

総計数8  7  5  1  7  4   6   7   6    3  4

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・宇治京香   12/10  12/17

・伊東舞七    -   12/17

・梅田惟花    -   -

・佐久間琴莉   -   12/17

・大森ダリア  12/10   ―

・安室翔偉    -    ―

・佐藤央康   12/10   ―

・松野優作    -    ― 

   8      3    3

ゼミ雑誌『暗夜光路』12月17日
c.発行の冊子5部 紹介文(100字)を添えて大学編集局に提出
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12・17ゼミ報告

課題 6歳継子殺人未遂事件 あなたの判決は

1876年5月×日ロシアのペテルブルグでこんな事件が起きた。
(実際の情報が少ないため、事件発生時と現場状況について多少の推理・憶測があります)

裁判員 → 伊東舞七 宇治京香 佐久間琴莉

日本には、現在1億3千万近い人間がいる。そのうち未成年者は2300万人というから選挙権の有権者は、1億人前後いることになる。自分が選ばれる確率は宝くじより低い、などと思ってはいけない。人間一生のうち67人に1人が裁判員となる割合だという。
 ゼミの皆さんも例外ではない。というわけで、この事件を裁判員になったつもりで、評決してみましょう。(この事件は、1876年ロシアの裁判で陪審員制度で裁かれました。ある意味で裁判員の見本となる裁判です。)

「単純な、しかし、厄介な事件」(ドストエフスキー全集『作家の日記』上巻)

事件発端と推移

 1876年5月×日、午前7時頃(推定)ペテルブルグの警察分署に、一人の若い女が出頭した。若い女は、応対した警官に、「たったいま、継娘を4階の窓から放り投げて殺してきました」と、言った。つまり殺人を自首してきたのである。継娘は6歳、4階の高さは地上から十数メートルある。驚いた警察は、現場に駆けつけた。遺体を確認してこなかった、と言ったが、誰もが最悪を思い描いた。この季節にしてはめずらしく、雪が道路のそこここに残っていた。女が放り投げたという4階の窓下にも、いくらかの雪がはき積もっていた。警察は被害者を探した。6歳の女の子は、まったくの偶然に、その雪の中に落ちて気を失っていた。怪我一つなく、奇跡的に助かったのだ。警察は、女を継娘殺人未遂事件の犯人として逮捕した。はたして、この女の罪状は・・・・。
最近、日本のあちこちで起こっている幼児虐待事件を思い出します。令和に入ってから各地で多発している。

犯人の身元

 犯人の若い女は何者か。名前、エカチェリーナ・コルニーロヴァ。年齢20歳。職業、農婦。1年ほど前、妻が病死した子連れ男と結婚した。連れ子は6歳の女の子で、この事件の被害者となった。この夫婦は結婚当初から夫婦喧嘩が絶えなかった。妊娠中。

殺意の動機

 自己中心的な夫への憎しみ。自分を親戚のところへ行かせず、親戚が来るのも嫌がった。喧嘩のたびに、死別した細君を引き合いに出しては、「死んだ妻の方がよかった」「あのころは、世帯向きがもっとうまくいっていた(米川訳)」など言葉の暴力を受けつづけた。
 このためいつしか愛情より憎しみが強くなり、復讐したいと思うようになった。復讐は、何がてきめんか。それは「亭主がいつも引き合いに出しては自分を非難した先妻の娘を、亡きものにすること」だった。夫に対する面当てから、なんの落ち度もない6歳の継娘を殺そうと計画し、実行した。
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陳述・容疑者の義母はこのように犯行を話した
 
夫婦喧嘩では、夫にいつも怒鳴られていました。亡くなった前妻の方がよかったと責めるのです。罵られるたびに、連れ子の6歳の継娘まで憎くなってきました。それで、いつか、面当てに夫が一番の打撃になること、継娘を亡きものにしようと思っていました。このところ、ひどい喧嘩がつづいたので、ついに限界に達し、昨日、それを実行する決心をしました。しかし、昨晩は、夫が家にいたのでできませんでした。
 今朝、夫が仕事に出かけたので、計画を実行することにしました。私は、4階の窓を開け、草花の鉢植を窓じきの一方に寄せました。それから、起きたての継娘の名を呼びました。

6歳の継娘は、眠気眼をこすってやってきました。私は、
「○○ちゃん、窓の下を見てごらん」と、言いつけました。
 継娘は、朝っぱらなんだろうという顔をしました。が、窓の下にどんな面白いものが見えるのかと、思ったのでしょう。すぐに窓じきにはいあがりました。そして、両手を窓に突っ張って、下をのぞきました。ちっちゃな両足が、私の目の前にありました。その可愛らしいちっちゃな両足を私は、つかんで持ち上げ、窓外に放り投げました。娘は、宙にもんどり打って落ちて行きました。私は、すぐに窓を閉めて、着換えをすませ、部屋の戸締りをして警察に出向しました。娘は、てっきり死んだものと思いました。これが犯行のすべてです。嘘偽りはありません。

伊藤舞七

【検察側の起訴と求刑】

有罪です。未遂とはいえ、幼い命を奪おうとした為、厳しい罰を求める。

(ただし殺してはいない)が、心の傷を負わせた。また、殺害意識があったことも

含め、計画的犯行だとし、よって懲役15年以下

【弁護側だったら、どのように弁護するか】

 夫から精神DVがあったことにより、彼女自身の精神が壊れてしまい、殺害

意識が芽生えてしまった。夫とは離れるべき。しかし、幼い子を4階から両足

を持って落下させたことは罪であり、その子は一生消えない心の傷を負った。

よって、懲役3年以下。

【裁判員の刑罰は】

有罪、懲役5年以下。

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【裁判長の判決は】 

被告人を有罪とする。懲役5年。そして精神疾患の可能性があるため治療もす

べきだ。

宇治京香

【検察側の起訴と求刑】

 殺意を持った犯行であり、継子をひどく傷つけた。懲役3年、医療刑務所の

服役を求める。(児童虐待をする危険性があるため。)

【弁護側だったら、どのように弁護するか】

夫との不仲が原因であったが、被告人は現在夫の子を身ごもっているため、関

係の修復は十分に可能である。継子は、しばらく祖父母などに預け、被告人に

は精神ケアが必要とみなし、医療刑務所での1年程度の治療を求める。

【裁判員の刑罰は】

懲役2年、医療刑務所にて服役。

【裁判長の判決は】 

懲役2年8カ月、医療刑務所1年服役 残り期間 普通刑務所にて服役

実際の第1審での裁判の判決 ドストエーフスキイ全集『作家の日記上・下巻』

1876年10月15日 初審判決、有罪 懲役2年8カ月 その満期後、終身シベリヤ流刑。

この新聞記事を読んだドストエフスキーは、この事件を妊娠状態が起こしたアフェクト(激情)ではないかと想像した。そうして、こんな感想をもった。(『作家の日記』)

「…もし彼女か゛妊娠していなかったら、何事も起らなかったかもしれないのだ…いな、二つの過ちから一つを選ぶなら、むしろ慈悲の過ちをとったほうがよい」

再審で被告は無罪判決

1877年4月22日 再審、無罪判決、被告コルニーロヴァ釈放

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ドストエフスキー生誕200周年に向けて

 連載3回
ドストエフスキーと私 

 
(三)
 
明治から現在まで、ドストエフスキーがよく読まれた――よく研究された、ということは、研究者や読者が周囲や次世代に熱心に薦めた、ということでもある。ドストエフスキーの名前は出てこないが、東京外国語学校の授業でロシア文学をススメていたというこんな記述がある。(明治四十二年六月「新小説」、岩波版『二葉亭四迷全集』第九巻所収、同級生大田黒五郎「種々なる思ひ出」から)

 …上級になると、ロシアの有名な小説家を教えられる。ロシア人が二人いて、一人はコレンコ、もう一人はアメリカへ亡命したグレー、このグレーが大変朗読が上手でテキストがたくさんないから先生が読んできかす。トルストイ、カラムジン、プーシキンなどの作品を生徒は黙ってきいていて、読み終わると、その小説に現れた主人公の性格を批評したリポートを提出する。先生がそれを見て直してくれる。(『ドストエフスキイと日本文学』)

 当時このように授業で、積極的にロシア文学をススメル、ロシア人教師もいたようだ。当然、ドストエフスキーをススメル人もいたはずである。一八六一年に函館に派遣されてきたイワン・ドミトリエヴィチ・カサトキン(のちのニコライ大主教1836-1912)は明治五年(一八七二)に東京へきて、神田駿河台に居を定め伝道学校を設立するが、

 このニコライ大主教自身、文学の愛好者で、とくにゴーゴリ、ドストエフスキイを読むことをすすめた。(『ドストエフスキイと日本文学』)

とあるから、日本でのドストエフスキーのススメは、この伝道学校が発信地ということになる。明治二十九年にニコライの正教神学校に入学した昇曙夢(1878-1959)も『虐げられし人びと』(大正三年 新潮社)を訳したりしてドストエフスキーのススメに尽力した。このように、最初、伝道・神学校の生徒からはじまったドストエフスキーのススメは、その後、神学校から離れ、文学を志す者たちの間に広まっていった。
「ドストエフスキーを読みなさい」戦前の作家たちは、よくこんな言葉を口にした。多くの文学者がドストエフスキーについての記述を残している。川端康成は、訪ねてくる文学青年たちに誰彼となくドストエフスキーをススメていたという。例えば『いのちの初夜』の北條民雄には、繰り返しこのようにススメていた。
□川端康成から北條民雄への書簡 (『北條民雄全集』)

 …先づドストエフスキイ、トルストイ、ゲェテなど読み、文壇小説は読まぬこと。…(S10・11・17)。三笠書房のドストエフスキイ全集新版(46版)には、特製本がありますか、あなたの特製本といふのは旧菊版のことぢゃないでせうか。新版は旧版の改訳訂正版ゆえ、本は粗末でも、新版の方がよいのです。新旧版とも訳のよいのもありませうが、新版の方が大分よくなっているのです。新版に特製本あるか否か調べ、あれば買ひ送ります。…(S11・10・31)。三笠のド全集、小生旅中おくれましたが、まだそちらでお買ひにならぬなら、手配します。…(S11・11・30)
次回へ
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 熊谷元一研究  創作ルポ 『夢、果てなく』3回目、概略

1.その日
昭和四十一年六月十六日早朝、熊谷元一は妻貞子と知人の車で伊那谷を縦断する三州街道(153号線)を一路、東京に向かっていた。後続の二台のトラックには、家財道具一式が積み込まれていた。夜明け前の梅雨空は、どんよりとしていたが、東の向こう空は、まるで朝日が昇る前のように白々として明るかった。左手に延々とつづく赤石山脈が妙にくっきりと見えた。見慣れた風景だが、これで見納めになると思うと胸にこみあげてくるものがあった。熊谷は、感無量な思いで、黙然と眺めながら心の中で別れを告げた。
「さらば故郷、さらば赤石の山々」
前年、二十年勤めた小学校教師を定年退職することになったとき、熊谷は、躊躇なく宣言した。
「村を出て、東京に行く」
 だが、はじめそれを聞いて誰も本気にしなかった。というより皆は、何のことかわからなかった。東京に遊びに行きたいといっている。そのように解釈しようとした。
妻の貞子でさえ、長年の教員勤めの洗濯に東京見物をしたくなったのかと思った。熊谷は、戦前、戦中、東京で役所勤めをした。結婚し、新婚生活をスタートせたのも東京だった。それ故、東京は熊谷にとって第二の故郷といえる。が、夫が定年後の人生を過ごしたい。そう思うほど東京を懐かしがっていたとは、おもえなかった。
熊谷は、教師時代、既に写真家・童画家として成功していた。熊谷の写真と童画のモチーフは、あくまでも故郷の村の生活、文化、風俗を扱ったものだ。そんなことから、熊谷が村を離れるなどとい

決意の朝

元一は、まんじりともせずその日の朝を迎えた。これまで日本中の、いや世界中のどんな教師も思いつかなかったことを、教育現場では考えられなかったことを、自分が今日から実践するのだ。そのことを思うと、胸が高まった。四月に入ったとはいえ、信州伊那谷の春は遅い。外はまだ霜柱がたつほどに冷えていた。が、元一の体からは緊張と興奮で、汗がじりじりと湧き出た。時刻は、まだ四時を過ぎたばかりだったが、心も体も急いて、これ以上、床にいられなかった。元一は、そっと立ち上がった。
「起きられますか」妻の貞子が布団のなかから声をかけた。
寝ていると思っていたが貞子も眠られなかったようだ。今日からの仕事は、詳しく話さないまでも、すでに貞子は、察していた。夫は、今日から学校において教師生命を賭けた一世一代の大仕事をはじめる。そのことは先刻承知していた。が、貞子は何も尋ねなかった。この日は、いつもより少し早かったが、いつものように起きて朝餉の支度に向かった。小学三年生と六年生の息子はまだぐっすり眠りこけていた。
東の空が白々と明けていた。彼方の赤石山脈の峰の端に太陽がのぼろうとしていた。一九五三年、昭和二八年四月一日であった。日本は先の日本国憲法施行で独立国になってはいたが、民主教育は、

2.カメラと教師 3.元気が一番 4.わしはミレーになる。「晩鐘」5.東京行きをはばむもの
6.童画家への道 7.赤化事件  8.無職の身 9.カメラ 10.村を写す 11.朝日新聞社刊
12.日本若手写真家 13.大東亜省 満州 14.疑問 15戦火の下で退職願い16.召集、終戦
17.満蒙開拓の帰国18.いつか東京に 19.写真先生 20.「一年生」の成功
21.こんどこそ東京へ 22.水死、永遠の一年 23.村を撮る 24.決意、辞職 25.上京             

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.391―――――――― 8 ――――――――――――――

・・・・・・・・・・・・・掲示板・・・・・・・・・・・・・・

ドストエーフスキイ全作品を読む会・読書会

日時:22020年1月11日(土)午後2時~4時45分
会場:東京芸術劇場小会議室7 作品『カラマーゾフの兄弟』

日時:22020年2月29日(土)午後2時~4時45分
会場:東京芸術劇場小会議室7 作品『カラマーゾフの兄弟』

メール toshihiko@shimohara.net 携帯 090-2764-6052下原

ドストエーフスキイの会・第255例会

2020年1月25日(土)午後1時~ 早稲田大学戸山キャンパス31号館208教室

公 演  ◆劇場 梅若能楽学院会館 住所:東京都中野区東中野2-6-14

12月22日(日)15:00~冬至の日に、能楽堂にてマキシム・ゴーリキ作「どん底、」を上演致します。

演出家のレオニード・アニシモフは、1993年に本作品のモスクワ公演で大成功を収め、ロシア功労芸術家の称号を与えられました。
黒澤明監督も映画化した不朽の名作「どん底、」は、時代を超えて世界中で語り継がれている物語です。
能楽堂という和の空間でロシアの古典名作を観劇できるまたとない機会です、この機会をお見逃しなく!
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「どん底、」
作:マキシム・ゴーリキ  演出:レオニード・アニシモフ

  2019年9月5日 (木)熊谷元一写真童画館にてゼミⅡゼミⅢ

090-2764-6052下原 メール:toshihiko@shimohara.net

2019年 令和元年12月24日

よいお年をお迎えください!

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