文芸研究Ⅲ 下原ゼミ通信No.28

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2020年(令和2年)1月7日発行

文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信No.28

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
9/24 10/1 10/8 10/15 10/22 10/29 11/12 11/19 11/26 12/3 12/10 12/17 12/24 1/7 1/14  
観察から創作

2019年ゼミⅢ読書と創作の旅

1・7下原ゼミ

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12・24ゼミⅢ報告 

 12月24日(火)、参加は、西村美穂、山本美空、吉田飛鳥、中谷璃稀、志津木喜一。クリスマスゼミで紙芝居観賞。昭和戦後のベストセラー山川惣治の『少年王者』を中谷さんが90分口演、熱演でした。うれしい知らせがありました。山本さん内定報告。おめでとう! 
新年、明けましておめでとうございます!
2020年、今年は大学生活最後の年になります。卒論や就活、多忙な年になります。健康に気をつけて社会への準備を進めてください。

幸先よい抽選会
ドストエフスキー読書会の会場予約は毎回、不安の連続だ。というのも、くじ引きの順番がいつも20~30番目なのだ。今回、当たり数字3を念じて3番目の札を引くと、なんと「3」番だった。確保確実。幸先よい年の初めとなった。
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1・7ゼミ  名作読み『小倉百人一首』

 今日は、お正月明け、せっかくなのでカルタ大会を行います。昨今、ゲームは沢山ありますが、『小倉百人一首』拾いもゲームの一つといえます。

昔の正月の遊び、いま何処

 最近の家庭は、どうか知らないが、私が子どもだったころは、正月の遊びは百人一首と相場が決まっていた。そのころは、大家族で、大人も子供も一緒に遊んだ。子どもたちは、年賀に親戚の家々を泊まり歩いた。夜は、こたつで花札、トラン遊びをした。大人が加わると百人一首大会となった。百人一首は、楽しさのなかに緊張があった。正月がくると、あのカルタ大会を懐かしく思い出す。
 核家族になった現代では、大人はむろん子供たちもほとんど百人一首で遊ばなくなったようだ。従兄弟の数も減ったし、いろんなゲームが増えたこともある。毎年暮れにゼミで「やったことがある人は?」と聞くが、未経験の人が多い。
そんなわけで、本日の後期後半最初のゼミは、百人一首大会にした。

百人一首とは何か

カルタ大会の前に「百人一首」とは何か、を知っておきましょう。

天智天皇(平安末期)から藤原家隆・雅経(鎌倉)の時代までのもの

小倉山荘で藤原定家(1162-1241)が勅撰集から選んだ。男79名、女21名。
春夏秋冬の歌32首 恋歌43首 その他、旅など25首などで構成されている。

 百人一首とは何か。カルタひろいから入れば、それほど縁遠いものではない。おそらく苦手とする人は、学校教育の一環、古典文学と考えるからと思う。昔の人が優雅に風景や、四季、恋、失恋を詠んだもの、文法ではなくリズムで思い描いてみよう。
 百人一首とは、何か。HPでは、このように紹介している。
 藤原 定家(ふじわら の さだいえ、1162年(応保2年) – 1241年9月26日(仁治2年8月20日))は、鎌倉時代初期の公家・歌人。諱は「ていか」と有職読みされることが多い。藤原北家御子左流で藤原俊成の二男。最終官位は正二位権中納言。京極殿または京極中納言と呼ばれた。法名は明静(みょうじょう)。
 平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期を生き、御子左家の歌道の家としての地位を不動にした。代表的な新古今調の歌人であり、その歌は後世に名高い。俊成の「幽玄」をさらに深化させて「有心(うしん)」をとなえ、後世の歌に極めて大きな影響を残した。
 摂関家藤原北家道兼流・宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)が京都嵯峨野に建築した別荘、小倉山荘の襖色紙の装飾の為に、蓮生より色紙の依頼を受けた鎌倉時代の歌人藤原定家[1]が、上代の天智天皇から、鎌倉時代の順徳院まで、百人の歌人の優れた和歌を年代順に一首ずつ百首選んだものが小倉百人一首の原型と言われている。男性79人(僧侶15人)、女性21人の歌が入っている。成立当時まだ百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」や「嵯峨山荘色紙和歌」などと称された。
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  いずれも『古今集』 、『新古今集』などの勅撰和歌集から選ばれている。歌道の入門書として読み継がれた。江戸時代に入り、木版画の技術が普及すると、絵入りの歌がるたの形態で広く庶民に広まった。より人々が楽しめる遊戯として普及した。関連書に、やはり藤原定家の撰に成る『百人秀歌』があり、『百人秀歌』と『百人一首』との主な相違点は「後鳥羽院・順徳院の歌が無く、代わりに一条院皇后宮・権中納言国信・権中納言長方の3名が入っている」「源俊頼朝臣の歌が『うかりける』でなく別の歌である」2点である。現在、この『百人秀歌』は『百人一首』の原撰本(プロトタイプ)と考えられている。
2010年読書と創作の旅 百人一首一覧

 1.秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ     天智天皇 
 2.春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山        持統天皇  
 3.あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む  柿本人麻呂
 4.田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士のたかねに 雪は降りつつ  山部赤人
 5.奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき       猿丸大夫
 6.鵲の 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける       中納言家持
 7.天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも      安倍仲麿
 8.わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり     喜撰法師
 9.花の色は 移りにけりな いたづらに 我身世にふる ながめせしまに   小野小町
10.これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関    蝉丸
11.わたの原 八十島かけて 漕き出でぬと 人には告げよ あまのつりぶね  参議篁
12.天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ      僧正遍昭
13.筑波嶺の みねより落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる    陽成院
14.陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし 我ならなくに     河原左大臣
15.君がため 春の野にいでて 若菜摘む わが衣手に 雪は降りつつ     光孝天皇
16.立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む    中納言行平
17.ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは    在原業平朝臣
18.住の江の 岸に寄る波 よるさへや 夢のかよひ路 人目よくらむ     藤原敏行朝臣
19.難波潟 短かき蘆の 節の間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや     伊勢
20.わびぬれば 今はた同じ 難波なる 身をつくしても 逢はむとぞ思ふ   元良親王
21.今来むと いひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな    素性法師
22.吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を あらしといふらむ   文屋康秀
23.月見れば ちぢに物こそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど   大江千里
24.このたびは ぬさもとりあへず 手向山 紅葉のにしき 神のまにまに   菅家
25.名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな   三条右大臣
26.小倉山 峰の紅葉ば 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ      貞信公
27.みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ    中納言兼輔
28.山里は 冬ぞさびしさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば     源宗于朝臣
29.心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花      凡河内躬恒
30.有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし      壬生忠岑
31.朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪      坂上是則
32.山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり     春道列樹
33.久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ        紀友則
34.誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに        藤原興風
35.人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける      紀貫之
36.夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ     清原深養父
37.白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける     文屋朝康
文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信No.28 ―――――――― 4 ―――――――――――――

38.忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな     右近
39.浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき     参議等
40.忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで     平兼盛
41.恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか   壬生忠見
42.契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波こさじとは      清原元輔
43.逢ひ見ての 後の心に くらぶれば 昔は物を 思はざりけり        権中納言敦忠
44.逢ふことの 絶えてしなくば なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし   中納言朝忠
45.哀れとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな    謙徳公
46.由良の門を 渡る舟人 かぢを絶え ゆくへも知らぬ 恋の道かな      曽禰好忠
47.八重むぐら しげれる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は来にけり    恵慶法師
48.風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ くだけて物を 思ふころかな     源重之
49.みかきもり 衛士のたく火の 夜はもえ 昼は消えつつ 物をこそ思へ   大中臣能宣朝
50.君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな      藤原義孝
51.かくとだにえやはいぶきのさしも草 さしもしらじなもゆる思ひを   藤原実方朝臣
52.明けぬれば暮るるものとはしりながら なほうらめしき朝ぼらけかな  藤原道信朝臣
53.なげきつつひとりぬる夜のあくるまは いかに久しきものとかはしる  右大将道綱母
54.忘れじのゆくすえまではかたければ 今日を限りの命ともがな      儀同三司母
55.滝の音はたえて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞えけれ      大納言公任
56.あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびのあふこともがな   和泉式部
57.めぐりあひて見しやそれとも わかぬまに雲がくれにし夜半の月かな  紫式部
58.有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を忘れやはする       大弐三位
59.やすらはで寝なましものをさ夜ふけて かたぶくまでの月を見しかな    赤染衛門
60.大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立         小式部内侍
61.いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな       伊勢大輔
62.夜をこめて鳥のそらねははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ     清少納言
63.いまはただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならで言ふよしもがな   左京大夫道雅
64.朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらはれわたる瀬々の網代木     権中納言定頼
65.うらみわびほさぬ袖だにあるものを 恋にくちなむ名こそをしけれ   相模
66.もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかにしる人もなし       前大僧正行尊
67.春の夜の夢ばかりなる手枕に かひなくたたむ名こそをしけれ     周防内侍
68.心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな     三条院
69.あらし吹くみ室の山のもみぢばは 竜田の川の錦なりけり       能因法師
70.さびしさに宿を立ち出でてながむれば いづくもおなじ秋の夕ぐれ   良選法師
71.夕されば門田の稲葉おとづれて 蘆のまろやに秋風ぞ吹く       大納言経信
72.音に聞く高師の浜のあだ波は かけじや袖のぬれもこそすれ    祐子内親王家紀伊
73.高砂のをのへのさくらさきにけり とやまのかすみたたずもあらなむ 前権中納言匡房
74.憂かりける人を初瀬の山おろしよ はげしかれとは祈らぬものを   源俊頼朝臣
75ちぎりおきしさせもが露をいのちにて あはれ今年の秋もいぬめり   藤原基俊
76.わたの原こぎいでてみれば久方の 雲いにまがふ沖つ白波 法性寺入道前関白太政大臣
77.瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ      崇徳院
78.淡路島かよふ千鳥のなく声に 幾夜ねざめぬ須磨の関守       源兼昌
79.秋風にたなびく雲のたえ間より もれいづる月の影のさやけさ    左京大夫顕輔
80.長からむ心もしらず黒髪の みだれてけさはものをこそ思へ     待賢門院堀河
81.ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただありあけの月ぞ残れる   後徳大寺左大臣
82思ひわびさてもいのちはあるものを 憂きにたへぬは涙なりけり   道因法師
83.世の中よ道こそなけれ思ひ入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる     皇太后宮大夫俊成
84ながらへばまたこのごろやしのばれむ 憂しと見し世ぞ今は恋しき   藤原清輔朝臣
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85.夜もすがら物思ふころは明けやらで 閨のひまさへつれなかりけり   俊恵法師
86.なげけとて月やは物を思はする かこち顔なるわが涙かな        西行法師
87.村雨の露もまだひぬまきの葉に 霧たちのぼる秋の夕ぐれ       寂蓮法師
88.難波江の蘆のかりねのひとよゆえ みをつくしてや恋ひわたるべき  皇嘉門院別当
89.玉の緒よたえなばたえねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする   式子内親王
90.見せばやな雄島のあまの袖だにも ぬれにぞぬれし色はかはらず   殷富門院大輔
91.きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む 後京極摂政前太政大臣
92.わが袖は潮干にみえぬ沖の石の 人こそしらねかわくまもなし   二条院讃岐
93.世の中はつねにもがもななぎさこぐ あまの小舟の綱手かなしも    鎌倉右大臣
94.み吉野の山の秋風さ夜ふけて ふるさと寒く衣うつなり        参議雅経
95.おほけなくうき世の民におほふかな わがたつ杣に墨染の袖      前大僧正慈円
96.花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり     入道前太政大臣
97.こぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くやもしほの身もこがれつつ    権中納言定家
98.風そよぐならの小川の夕ぐれは みそぎぞ夏のしるしなりける     従二位家隆
99.人もをし人もうらめしあぢきなく 世を思ふゆえに物思ふ身は    後鳥羽院
100.ももしきやふるき軒ばのしのぶにも なほあまりある昔なりけり   順徳院

解説のなかで、注目される一つ
 
◇ 32.山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり     春道列樹

この歌は、古注では「風のかけたるしがらみ」という表現をきわめて高く評価しており、応永抄では、「誠にはじめて言出したる妙処也」、頼孝本は「ことばあたらしくおもしろきうたなり」、上條本は、「粉骨也」、米沢本は「金玉なり」なりと絶賛している。
しかし、その表現内容の理解には微妙な相違がある。紅葉が間断なく散り落ちて流れもせきかえすばかり、と見る光景と、紅葉のながれる跡より吹き入れて、そこにもみじのたえぬしがらみ、と見る光景など。詳しくは『百人一首』(講談社)解釈参照

余興として、坊主めくりも面白い。僧侶は15名/79。

土壌館話題  道場大掃除 集まった門下生

 NHK大河ドラマ「いだてん」前半、柔道の創始者嘉納治五郎(役所幸治)が準主役で人気があった。2020年はオリンピックもある。そんなことから2019年は入門者が目白押し、
そんな期待をしたが、現実は厳しかった。子どもの入門者ゼロ行進。柔道不人気。

文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信No.28 ―――――――― 6 ――――――――――――――

ドストエフスキー生誕200周年を前 に

ドストエフスキーの『罪と罰』を読む

 2021年はドストエフスキー生誕200周年です。ということは、来年2020年は前夜祭に当たります。この節目を記念して、『罪と罰』を読みます。下原脚本の「金貸し老婆とその妹強盗殺人事件」裁判の口演。関係事項としてHP(立命館法学)の紹介です。
ラスコーリニコフの周辺
-ドストエフスキーの『罪と罰』をめぐって-

上 田  寛
目    次

• は  し  が  き
• 一  ラスコーリニコフ  たち
• 二  時代、社会、犯罪現象
• 三  犯罪と刑罰
• 四  裁      判
• 五  ドストエフスキーの刑法思想
• むすびにかえて
三  犯罪と刑罰
 
ドストエフスキーの叙述にしたがってラスコーリニコフの犯行を見ると、これはそれ自
体単純な、まぎれもない強盗目的での殺人である。
 当時施行されていたロシア帝国刑法典は一八四五年の制定にかかるものであったが、強盗犯人が過失により被害者を死亡させた場合についてを除き、強盗殺人罪については直接これを規定する条項を持たなかった。一方、故意による殺人は二分され、「予め熟考された目論見やたくらみによって行なわれた殺人」に対しては一二年から一五年までの鉱山における徒刑が科せられたのに対して、「予め熟考された目論見やたくらみなしにではあるが、偶然ではなく、自分が他人の生命を侵害していることを知りながらなされた殺人」に対しては一〇年から一二年の要塞での徒刑が定められていた(一九二五条・一九二六条)。ラスコーリニコフの行為は当然前者の類型に該当し、一二年から一五年までの鉱山での徒刑に処せられたはずであった*。
  *  ただし、故意の殺人についてのこのような二分には早くから批判があり、一八六六年に刑法典が編集し直された後の一八七一年三月の法律により、予め熟考された目論見による殺人(刑法典一四五四条-一五年から二〇年の徒刑)、故意ではあるが予め熟考された目論見によるものではない殺人(一四五五条一項-一二年から一五年の徒刑)および、激情あるいは興奮による殺人(一四五五条二項-四年から一二年の徒刑もしくはシベリア移住)、の三分類に整理されている。
 もちろんラスコーリニコフの犯行は故意によるものであった。だが、行為に際しての彼の異常な心理状態は、罪責の評価にどのように影響するであろうか。自分自身と家族の経済的
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な窮迫という、彼には解決困難な問題に長らくつきまとわれてきたラスコーリニコフの、追いつめられた精神状態と、酔ったマルメラードフの言葉とが響き合う。「わかりますか、あなた、わかりますか、このもうどこへも行き場がないということが?」〔上・八一頁〕。受け取った母親の手紙から伝わってくる重苦しい愛情と期待、妹の自己犠牲的な結婚の話が追い打ちをかける。加えて、これは悪臭のする熱気のよどんだ、雑踏の人いきれとごみ、ほこりにまみれた、夏のペテルブルグの片隅でのことである。神経の高ぶりの中で彼が選んだ「一歩を踏み出す」行為が、殺人であった。
 一八四五年刑法典はロシア刑法史上初めて、責任能力に関する詳細な規定を行なっていたが、その内容は、狂気もしくは精神病、精神錯乱ないし記憶喪失をもたらす病気の発作に基づき犯罪行為を行なった者を刑罰から解放し、精神病院に収容するとしたものであった(九八条三号、一〇一-一〇三条)。だが、ラスコーリニコフの精神状態がもっともあてはまるであろう「一時的精神錯乱」〔下・四四八頁〕について刑法典は規定を持たず、その意義については刑法理論上も争われていた〔Tagantsev, pp. 172-173.〕。
 ラスコーリニコフが何を目的に犯罪に及んだかという点について、ドストエフスキーの最初の構想(カトコフへの手紙)では、これはかなり単純に、奪った金で大勢の立派な、しかし貧しい人々を幸福にするために、一人のくだらない、有害な、富める人間を殺すとされていたことを知りうる。だがその後の創作の過程で、殺人の動機についての考察はより複雑なものとなっていった。「虐げられた人々」を擁護したいと渇望する人道主義者であるラスコーリニコフの中に、人々への奉仕のため、善行のために「権力」を希求するという抽象的な志向が生まれ、それとともに犯罪の理由付けもまた抽象化していくのである。権力を持った人間とは、少数の、生まれつき多数者を統治する使命を帯びた人間であり、彼は法を超越し、ナポレオンがそうであったように、目的のためには法を犯して神の創造した世界秩序を破壊する権利を持つのである。彼らは「自分の内部で、良心に照らして、流血を踏み越える許可を自分に与えることができる」のである〔上・四四二頁〕。ここでは従順に支配される側の多数者、すなわち普通の人々への傲慢な蔑視が、犯罪の理由付けとその正当化のために用いられる。ラスコーリニコフの罪はまさにこの誤った確信にあるのである。
 ラスコーリニコフはその犯罪行為に対し、先に見たとおり、本来であれば一二年から一五年の鉱山での徒刑に処せられるはずであったが、「しかし判決は、犯行から予期されたものよりは寛大であった。〈・・・〉犯人は、自首ならびに罪状を軽減すべき若干の情状を酌量して、わずか八年」の徒刑を言い渡されたこととなっている〔下・四五〇頁〕。
 自首は当時の刑法典でも代表的な刑罰減軽事由とされていた(一四〇条一・二号)。ラスコーリニコフは警察当局が、殺人犯人として名乗り出た別人を勾留し、取り調べているときに、つまり彼自身に嫌疑がかかっていないときに警察署に出頭する。その限りで、彼は「自首」したのである。だが、実はその前日、ポルフィーリから彼が犯人であると指摘され、自首するよう勧められていた、その方が有利であると。さらにポルフィーリは、「自分は口をつぐんで、あなたの自首が全く思いがけないものだったように『あちらで』うまく仕組んで、取りつくろってあげますよ」と申し出る〔下・三一九頁〕。ラスコーリニコフの自首は、彼がソーニャに言ったように、「そうした方が、たぶん、有利だろうと考えた」上での行為である。内的な贖罪の過程はまだ始まっていない。
 ここでいう徒刑は、遠隔地域での強制労働を内容とする刑罰であり、ロシア刑法には一七世紀末から登場する。通常、すべての身分上の権利・財産上の権利の剥奪とシベリア流刑が併せ科せられた。ドストエフスキー自身、第二級の徒刑囚としてオムスク監獄で一八五〇年から四年を過ごしたが、多くの論者が指摘するように、小説の「エピローグ」に描かれているラスコーリニコフの受刑風景にはその時の経験が重ね合わされている。だが、ここで作家が見落としている重要な点は、徒刑囚を要塞に送ることは一八六四年に取り止めになっており、したがって、一八六六年の初めに判決を受けたはずのラスコーリニコフが要塞監獄での徒刑に処せられるはずはないということである。
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 一八四五年の刑法典によれば、徒刑はその強制労働の内容によって三つの階級に区分されていた。鉱山での労働(無期、一五年から二〇年、一二年から一五年の三種類)、要塞での労働(一〇年から一二年、八年から一〇年の二種類)、そして工場-主として葡萄酒醸造工場と製塩工場-での労働(六年から八年、四年から六年の二種類)である。だが当初から、このような区分は必ずしも守られず、適当な施設に送致して労働させることも多かったとされており、まさに、タガンツェフの指摘するように、「国家は徒刑を科すことによって、実際にはこれを処罰するのではなく、さまざまな部門に無料の労働者を供給しているのだ」という実態であった。しかし、急激な経済構造の変化にともない、このような労働力の利用は非経済的かつ無意味なものとなり、各種の徒刑の区別は重視されなくなっていく。そのような経過の中、新しい要塞の建設は行なわれず、軍当局は徒刑囚の利用を歓迎しなかったことから、徒刑囚を要塞に送致することは一八六四年に取り止めとなり、さらに一八六九年四月には、それまでの徒刑システムが全面的に改編されるのである〔Tagantsev, pp. 987-988〕。                  次回は、四「裁判」

2019年度下原ゼミⅢ記録 本年もよろしく!!

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