文芸研究Ⅳ 下原ゼミ通信No.41

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2020年(令和2年)10月6日発行

文芸研究Ⅳ下原ゼミ通信No.41

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
9/29 10/6 10/13 10/13 10/20 10/27 11/10 11/17 11/24 12/1 12/8 12/15 2021年 1/19 1/19 

2020年下原ゼミⅣ 観察と表現の旅

10・6下原ゼミⅣ

9・29ゼミ報告  対面で久しぶりに見る元気な顔に安心

 9・29ゼミは、はじめての対面授業でした。久しぶりに見るⅣゼミの元気な様子に、ほっとしました。この日、参加は

西村美穂さん  中谷璃稀さん  吉田飛鳥さん  (西村さんの)友人

久しぶりの対面でしたが、元気な様子に安堵しました。この日、来られなかったのは以下の皆さんでした。

佐俣光彩さん    志津木喜一さん    松野優作さん  

コロナ禍の生活 コロナ禍、どんな生活だったか

・西村美穂さん 祝・大学から特待生に選出される。来春から社会人。

・中谷璃稀さん 郷里、神戸での生活。

・吉田飛鳥さん バイト先の豊島園閉園

社会観察   国勢調査票の提出、済みましたか

国勢調査表の提出、済みましたか。5日から回収がはじまりました。引き受け手がいない。そんな理由から国勢調査員をする羽目になった。仕事は、127戸への調査票配布と、聞きとり(世帯主、男女比)はじめてみて、すぐに後悔した。この時期、訪問するには最悪の時期だった。Cotoが、はじまったとはいえ、コロナ感染は勢いやまず。加えて、ガス点検を装った押し込み連続強盗の事件。手を変え品を変えてのオレオレ詐欺。容易にインターフォンにはでてくれない。用心して、名札もない。掲げてあっても苗字だけ。やっと通じたとほっとしても、フルネームまでは教えられないと、散々なのだ。どうして10万円給付のときに、一緒にやらなかったのか、給付金のときなら、提出は、もっと協力的だったはず。菅新政権は、縦割り行政をなくすというが、まずは先にやって欲しかった。
トピックス コロナ禍でも、次々と起きる ニュースいろいろ

□爆笑問題太田光さん日大裏口入学疑惑裁判 抽選倍率9・6倍

アメフト悪質タックル指示、ラクビー部イジメと不肖報道で注目された日大だが、こんどは芸術学部が話題になった。
10月1日(木)のテレビニュースの画面に、東京地裁の前に並ぶ長蛇の列が映っていた。午後から開かれる裁判の傍聴券を目当てに並んでいるとの報道。傍聴席13席に対し応募者は、249人という。民事事件の裁判では異例とのこと。
裁判は、人気お笑い芸人爆笑問題の太田光さん(55)が週刊新潮の記事を名誉棄損で訴えているもので第2回公判。記事内容は、太田さんが母校日本大学芸術学部に入学できたのは裏口入学だったとの暴露記事。今回は、訴状の本人、人気お笑い芸人が、はじめて出廷するということで、傍聴希望者が大挙した。
それにしても先日は、「日大講師、差別発言」の記事があったばかり。日大に関してなぜかネガティブなニュースがつづく。
※明るいニュースもある。同日、10/1競泳日本学生選手権で池江璃花子選手が病魔からの復帰で、50㍍自由形大学4位と活躍した。

【ニュースを脚本化した裁判】

コロナ禍で、オンライン裁判実施中の折り、同裁判を架空中継してみた。

東京地裁 「日大芸術学部裏口入学疑惑事件」裁判

裁判長 これより「日大芸術学部裏口入学疑惑事件」の第2回公判を開廷します。原告側の証人は、証人席に。

証人 前にでる。証人のパフォーマンスに傍聴席ざわつく。

裁判長 証人は、はじめに氏名、職業を述べてください。
証人 太田光、55歳 東京都在住 お笑い芸人「爆笑問題」の芸名で出ています。
裁判長 原告側の弁護人は、証人訊問をお願いします。
弁護人 新潮社は、平成18年8月16・23日号発売の『週刊新潮』で「太田光、日大芸術学部に裏口入学した」と掲載した。証人は、裏口入学をしたのか。
証人 してません。
裁判長 記事は、事実ではないというのか。
証人 まったくの事実無根です、虚偽報道です。
弁護人 12年に亡くなった父親、太田三郎さん(享年83)が800万円を渡したと報じているが、これは真実ですか。
証人 父が、裏で何をしたかについては、父はすでになくなっているので私にはわかりません。
弁護人 否定は、できないというのだな。
証人 そうです、そうですが、ただ…。
弁護人 ただ、何か――
証人 父が、そのように思われることは、悲しいかぎりです。
   父の性格を考えると、想像すらできません。私は父に憧れていました。
弁護人 新潮社に望むことは何か。
証人 虚偽の記事を掲載したことの謝罪広告を週刊新潮に掲載することと、併せて名誉を著しく汚されたことへの損害賠償金の支払い、3300万円を発行元の新潮社に求めます。以上です。
裁判長 つぎに訴訟されている側の証人、前に。
    氏名、職業を述べてください。
証人 新潮社所属『週刊新潮』の編集長です。
裁判長 いったいあの記事は事実か。
証人 綿密な取材の上で書きました。よって事実と思います。
裁判長 証拠となるものはあるのか。書面のようなものは。
証人 書面はありません。
裁判長 レシートなど、領収書のようなものは。
証人 現在のところありません。
裁判長 よろしい。判決は、12月21日の第3回公判で出します。
    閉廷します。

仮に金銭を受け取ったという本人が名乗り出ても、渡したと言われる父親が亡くなっていることから、本件の立証は難しい。記事を証明する証拠品が出ない限り新潮社は、謝罪と示談金を払う他ない。一方、訴訟側も、疑惑本人が亡くなっているので、違うとは言いきれない。結局は、示談を受け入れるしかない。

【以下は、参考にしたHP抜粋】  
お笑いコンビ爆笑問題の太田光(55)が、日大芸術学部に裏口入学したと虚偽を報じたとして新潮社を提訴した「日大芸術学部裏口入学裁判」が1日、東京地裁で開かれ、太田が初めて出廷する。1日午前、26枚の傍聴券を求めて249人が並び、抽選倍率は9・6倍だった。
太田側は日大芸術学部に裏口入学したとの虚偽の記事を「週刊新潮」に掲載されたと、発行元の新潮社に約3300万円の損害賠償と謝罪広告の掲載を求めて東京地裁に提訴していた。
週刊新潮は18年8月16・23日号で「爆笑問題『太田光』を日大に裏口入学させた父の溺愛」と題した記事を掲載。12年に亡くなった父三郎さん(享年83)が800万円を渡したと報じていた。18年10月に第1回の口頭弁論が行われ、その後は和解交渉が行われたが決裂していた。口頭弁論でのやりとりは、主に弁護士同士が行ってきた。
□トランプ米大統領夫妻、コロナ陽性 どう転ぶ大統領選

崖っぷちのトランプ大統領がコロナに予期せぬ出来事。感染予防対策を軽んじていただけに不思議はないが、この珍事、選挙に吉と出るか凶とでるか。米大統領選挙、違う意味で面白くなったといえる。

□菅新総理、最初のつまずきか 日本学術会議新会員6人除外で

首相が任命する日本学術会議の新会員6人が、任命されなかった。首相は「法にもと基づいて適切に対応した」と答えているが、6人は、沖縄辺野古沖埋め立てなど政府の基本方針に批判的な人たちらしい。

※トランプみコロナ陽性で大統領選の行方は、ますます混迷に。菅新総理の学者任命問題、泥沼化するのか。いずにせよ政治の世界は、一寸先は闇、何処も同じ、秋の夕暮れ。

本日の授業

 人生は人間喜劇の平土間といったのは、フランスの文豪バルザックです。2021年は、晴れて社会人になっている人、そうでない人、さまざまと思いますが、社会という舞台に立つ
ことは確実です。そこで後期は、準備として脚本化作品の舞台稽古をしたいと思います。
 作品は、富田常雄原作『姿三四郎』(黒澤明監督処女作)映画は主人公の姿三四郎が活躍するが、この脚本化は、姿が登場する前の話。
 ときは明治はじめ、なにもかもが西洋化していく時代にあって滅びゆく柔術を学ぼうとする二人の若者の話。以下は、当時の柔術事情。(『オンボロ道場は残った』)

冒頭に、この年、明治12年(1879)は、日本にとって重要な年と書いた。それはこの年の7月にアメリカ第18代大統領だったグラント将軍が、世界旅行の途中で日本に立ち寄ったことにある。思えば僅か25年前、1854年、再来日した米国ペルー艦隊は、武力交渉で日米和親条約を締結させた。あれから25年、日本を開国させた国の元大統領が旅の途中とはいえ来日したのである。グラントは、ただの大統領ではない。あの南北戦争で勇名を馳せた将軍として知られていた。彼の目に日本は、どう映ったのか。最も優れた、勇敢な、人望厚い軍人を内戦で失い、最も重要な地位にあった政治家を暗殺で失った国。足並みの乱れは、すでに世界に打電されている。いまさらつけ刃の文明開化をみせたところで軽蔑され、物笑いの種にされるのがオチである。小泉八雲もそうだが、このころ日本にきた外国人の多くは、日本の近代化に尽力したが、彼らが真に愛し尊敬したのは、日本古来の伝統文化だった。
 そのことを敏感に察していた日本人もいた。人間の自由のために同胞と戦った将軍が満足するもの。それは、日本古来の武術より他にない。さすが財界の大御所渋沢栄一といえる。渋沢も、この時代にあって、かって勝海舟が幕臣という枠を超えて日本人であったように、彼もまた日本人という枠を超えた国際人だったに違いない。8月5日、渋沢は、グラント将軍一行を、飛鳥山にある別荘に招待した。将軍に日本古来の武術をみせるのが目的だった。『三四郎』の広田先生は、富士山を見て「あれよりほかに自慢するものは何もない」と、言った。が、まだまだ見せるものはあったのだ。柔術と剣術である。幕末以来、凋落の一途をたどる武道家に、一瞬ではあるが光が差した出来事だった。
 グラント将軍は、辟易していた。案内されてみせられるもの、すべてヨーロッパ文明の物真似である。ちょんまげを切り、刀を捨て、ドイツ、英国を一等国だと敬っている。アメリカには、伝統文化はない。それだけに、二百年も鎖国をしていたこの国にみるなにもかもが珍しく貴重だった。だが、この黄色なチビザルたちは、いとも簡単に、それらを捨て、ヨーロッパ貴族のマネをはじめている。夜会を開くために、その建物を作るつもりだ、と聞いたときは、椅子から転げ落ちるほどにズッコケけ笑った。そして、不気味に思った。このサルたちは、白人のようにやがてはアジアに乗り出していく。そんな予感がした。自分たちが六十万同胞の血を流して戦った人間の自由と尊厳。そんなものを水泡に帰すほどの野心をこのサルたちに感じた。いっそうのこと、ヨーロッパの連中と手を組んで、この混乱期にこの国を分割した方がいいのでは。もしかしてそんな考えが、頭をかすめたかもしれない。
 グラント将軍は、柔術と剣術の演武に目を見張った。アメリカでも西洋でも闘いは、相手を打ち負かす手段でしかなかった。力によってたたき殺せばそれでよかった。だが、彼らが目にしたのは、歴史の中で磨かれた礼と技である。華麗な体裁きによって、人が飛び、人が転ぶ。柔術の、演武の中で一人、衆目を集めた武術家がいた。細く小柄な若者だった。ほとんどが中年以上の柔術家のなかにあって、彼一人が目立った。熱心にみていた将軍たちの周辺でこんな会話があった。
「あの若者は、だれか」グラント将軍は、同行のアメリカ人記者ジュリアン・ストリートに聞いた。
「学生と聞いています」
「東京大学の文学部の学生です。外国語、とくに英語を得意としています」渋沢は、つけ加えた。将軍が興味をもってくれたことがうれしかった。
「若者は、とくに才能ある若者は、サムライ文化には興味を示さないと聞いたぞ。そうだな」
「はい、将軍!」記者は、元気に答えた。日本のことなら、なんでも調べ上げているぞ、そんな口ぶりだった。「タイクンからミカドになってから、サムライ文化は、滅びに向かっています。われわれのシャイアンと同じです。若者は、みな西洋文化に魅せられています」
「あの若者は、なぜサムライ文化を学ぶのか」
「たぶん、今日のために」記者は言葉を濁した。彼は、出演者の人選の過程を知らなかった。
 この日、柔術部門の人選を任せられたのは、天神真楊流の磯正智だった。磯は、ご維新以来すたれていく柔術に胸を痛めていた。柔術家は、生活に困り、接骨師か、ゴロつきの片棒を担いでいる。早い話、ろくな柔術家がいなかったのである。そんな中で、同門の福田八之助道場に、熱心な学生が通っている話は有名だった。ということで白羽の矢が立ったのである。このときのことを嘉納治五郎は、「柔道家としての私の生涯」のなかで、このように話している。

 福田の道場へ通った時代の一つの記憶として残っているのは、米国のグラント将軍の来朝のときのことだ。渋沢が日本の柔術を将軍に示したいというので磯正智に依頼し、同氏の手で同流の柔術家を多くかりあつめて飛鳥山に行ったことがある。そのとき五代と自分とが乱取りをしてグラントに見せた。この時のことを米国のジュリアン・ストリートという有名な記者が書き記している。(『嘉納治五郎著作集 第三巻』)

 「きみは、東京大学の学生だそうだが、なぜ、サムライ文化を学ぶのか」
グラント将軍は、若者を呼ぶとたずねた。
 将軍が疑問に思うのももつともなことであった。当時、一般の日本人にとって・・・柔術とは過去における、極言すれば日本が文明国に仲間入りする前の野蛮な風俗の遺風で、これを世界に知らすことさへ文明に対して恥辱と考えていた時代・・・(富田常雄)
 それなのに、この小柄な、あきらかに拳闘士には向きそうにない若者が「野蛮きわまりない手を出しているだけで軽蔑される」ものを学んでいる。
「自分を鍛えるためです」
若者は、英語で快活に答えた。流暢な英語だった。あまりの流暢さに将軍は、思わず聞いた。
「英語は、どこで覚えたか」
「自分で学びました」
独学で覚えたことに感心した。が、辞書を全部写して覚えたということまでは知らない。
「この国の若者は優秀なのです」記者ジュリアンは、苦笑して耳打ちした。彼は、取材から、この国の若者が、アジアのどの国の若者より向学心があることを理解していた。
「ほうそんな優秀な若者でも腕力で強くなりたいのか」グラント将軍は、訝しんで聞き直した。「そうか」
「はい、それもあります」若者は、頷いきながらも答えた。「それだけではありません」
「それだけではない。それは何か」
若者は、困ったように微笑んだあと、しっかりした口調で言った。「日本の武道は、勝敗だけではないからです」
「勝ち負けがすべてではない、というのか」将軍は、微笑んだ。「負ければ、なにも残らん。闘いとは、そういうものではないか」
ゲティスバーグに並ぶヴィクスバーグなど幾多の激戦地を勝利してきた将軍の言葉だった。
「はい、そうです。しかし、全てを失っても、精神が残れば、いつの日か、勝利をおさめることができます。武道には、それがあるのです」
 南北戦争の英雄。そしてアメリカ合衆国の大統領を務めた男。この歴史的人物に、臆することなく堂々と柔術の何たるかを説く若者。こんな若者がいるのか。この国を分割するのは難しいかも・・・若き日の嘉納治五郎との対話に将軍の野望は潰えた。

以上は架空対談だが、記者ジュリアン・ストリートは、この日の武道家たちの練習の様子を書き残しているという。
 しかし、当時二十歳の治五郎は、武道に対してまだ確たる理念を持っていたわけではない。文明開化の嵐の中、野蛮なものとして軽蔑されていた武道を身につけたいと思ったのは、やはり当初の動機と、そう進歩はない。また、その頃の柔術家の考えはこのようでもあった。
 ・・・自分が柔術を習い始めたのは維新後であったが、当時教えてくれた先生方の考えは、それまでの武術家と同様に攻撃防御の術を練習するにあった。もとより練習の結果として身体も丈夫になり、精神の修養も出来たには相違ないが、眼目とするところはそこにはなく、ただ強くなることだった。自分も最初習いに行くようになったときはやはり攻撃防御の術を体得したいというのであった・・・(『嘉納治五郎集』)

ドストエフスキーのススメ

2021年は、オリンピックイヤーですが、ドストエフスキー生誕200周年に当たります。

世界の識者は、なぜドストエフスキーをススメルのか

■「数週間前には、私はドストエフスキーの名前さえ知らなかった。私は『新聞・雑誌』などを読まない無教養の人間なのだ ! 本屋で偶然に手にとってみるとちょうどフランス語に翻訳されたばかりの『地下的精神』(レスプリ・スウテラン)が私の眼に入ったのだ。(21歳の時のショーペンハゥアーも、35歳の時のスタンダールも、全く次のような偶然であった!)血縁の本能(それとも、これを何といったらいいだろう?)が直ちに語りかけたのだ。私は喜びの極みだった」 ニーチェ(哲学者)フランツ・オーファーベク宛。ニース、1887年2月23日 (『ドストエフスキーとニーチェ』W・シューバルト 駒井義昭 訳)

■「人間の心の偉大な探究者だ」から。 魯迅(作家)
■「どんな思想家が与えてくれるよりも多くのものを私に与えてくれる」から。 
アインシュタイン(科学者)
■「彼の作品を読むと私は深い満足感を覚える。私は毎年彼の作品を読み返している」
フォークナー(作家)
■「この人の生涯ほど、我々の持っている伝記的常識を混乱させるものは他にあるまい」
トーマス・マン(作家)
■「彼は人間をばらばらにすることができたが、その人間を立たせて、劇的な行動の主人公にしてやることもできた」                 アンリ・バリビュス(詩人)
■「ある晩、私は、はじめてドストエフスキーを読んだ。その経験は、私の生涯で、もっとも重大なできごと、初恋よりも重大なできごとであった。それは私にとって最初の自発的、意識的な行為であった。それは世界の相貌を一変させた。私が最初に深い吐息をついて顔をあげた瞬間、実際に時計がとまっていたかどうか、それは知らない。だが、その一瞬、世界が停止したという事実だけは、はっきりと知っている。私は人間の魂の奥底を、はじめて瞥見したのだ。いや、もっと単純に、ドストエフスキーこそ、自己の魂を切り開いて見せてくれた最初の人間であった。/ まるで私は、あまりにも長年月にわたって塹壕のなかにおり、あまりにも長年月にわたって砲火の下をくぐってきた人間のようであった。日常的な人間の苦悩、日常的な人間の嫉妬、日常的な人間の野心――そんなものは、もはやガラクタの山も同然と思われてきたのである。/ 彼がどういうつもりで、ああいう本を書いたか」理解しているのは、アメリカじゅうで、たぶん私ひとりである…。
ヘンリー・ミラー(作家『南回帰線』)
阿部公房『もぐら日記』「6月2日 ドストエフスキーの本質。どんな(無価値な)人間にも存在の権利があることの感動的な発見」(1993年9月2日朝日新聞夕刊)

富田常雄(作家『姿三四郎』 父親は富田常次郎 嘉納治五郎の一番弟子)は「他所目には柔道が好きとは見えなかった。兄の長弘(画家志望)があまり愉快でなさそうに稽古をつけに道場へ消えてから30分もたつと、こんどは階下の3畳の書斎兼寝室の机の上に、ドストエフスキーの『悪霊』をふせて、弟の常雄が憂鬱そうに額の髪の毛をかきあげて道場へ歩いた。(『大衆文学代表作全集 富田常雄集 姿三四郎「解説」松沢光平)
 「ドストエフスキー全集を古本屋に売り、その金でカフェーに行くというような日々でもあった。(『姿三四郎と富田常雄』「富田常雄の青年時代」よしだまさし)

萩原朔太郎「大ドストエフスキイ先生こそ、私の唯一の神であり恩人であり、聖母である」から(大正5年4月19日)

L・レオーノフ ドストエフスキーは、人間存在の複雑さを伝える技量を持っていた。彼はいわば、普通の目では捉えられない赤外線や紫外線を捉えていたのだ。ドストエフスキーは、存在したもののみならず、存在し得たかもしれないものも書いた。それは、人間関係のさまざまな動向の極限の、ぎりぎり先端の表現なのである。

メルキオル・ヴォギュエ(1829-1916)フランス外交官 リアリズムにおいて。彼ほど深く進んだものはいない。『罪と罰』のマルメラードフの物語を、また徒刑囚たちや彼らの暮らしの書き方を見るがよい・・・・人間の魂の観察に打ちこんでいる科学者たちなら、マクベスの書かれた時代以降初めてといってよい、犯罪心理のこの限りなく深い心理報告を読んで、大いに興味を感じることだろう。

ジョン・ゴールズワージ(1867-1933)イギリス小説家 ドストエフスキーを上回る空想力の持ち主を思い浮かべることはできない。そして、実際の状況をあれほど生き生きと描写できる腕を持つたひとはいなかった。

ツヴァイク(1881-1942)私たちの存在のもっとも深いところ、永遠であり、不変なるところ、根源中の根源というべきところ、そこにおいてのみはじめて結びつく…。

ドストエーフスキイ全作品を読む会へのおさそい(1971年3月)
 
第1回「全作品を読む会」読書会が開かれたのは49年前です。1971年4月14日(早稲田大学校友会館)スタートした。それから今日まで297回を数える。現在5サイクル最後の作品『カラマーゾフの兄弟』の読みをすすめている。生誕200周年前夜祭を記念して発足時の呼びかけを振り返ってみたい。1971年「会報 No.13 」に掲載された誘いの紹介です。
【読書会へのおさそい】
 私達の会(ドストエーフスキイの会))も、今年で3年目を迎えましたが、最近、例会以外にも小グループの集まりをもって、お互いの話し合いを深めていきたいという声をあちこちで聞きます。これまでの報告をふりかえってみますと、例会の性質上、その対象はどうしてもドストエーフスキイの全体、あるいは『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』などの後期の長編に集中しがちで、初期の作品といえば、わずかに処女作『貧しき人々』がとり上げられたくらいのものです。しかし、一般的にはあまりとり上げて論じられることのない作品のなかにもドストエーフスキイ独自の注目すべき作品は少なくありません。
 そこで私達は、今度『貧しき人々』から初期の作品を経て、『カラマーゾフの兄弟』『作家の日記』にいたる、ドストエーフスキイの全作品を読む会をつくり、そのなかでひとつひとつ作品を検討していくことにしました。ドストエーフスキイの全作品を継続して読むとなれば、相当の期間を必要とすることでしょうが最後の作品までねばり強く読み進んでいくつもりです。参加者に特別な資格はありませんが、このグループの趣旨からいって原則として欠席することなく最後まで継続する意志のある方に限りたいと思います。読書会に参加する人は、その会でとり上げられる作品を予め読み終えてから出席することを条件とします。
日本大学異聞 『昭和元禄桜花伝』草稿  資料1「山田顕義」
山田が残した言葉
• 「軍とは何のためにあるか。帝室を守衛し人民を安全にするためである。しかし他にも、国には法があり律があり、教育の道がある[注 8]」
• 「欧米諸国の国法と我人民慣習の法とを斟酌し国法の条目を審議し、国法に依り以て国律を確定すべし[注 9]」
• 「英雄は死す。されど凱旋門は残る。英雄の名声と遺産によって、市民はその豊かさを享受する[注 10]」
• 「兵は凶器なり[注 11]」
• 「法律は軍事に優先する[注 12]」
• 「生きた。闘った。使命を全うした。人生に悔いはない[注 13]」
山田に残した言葉
• 高杉晋作
o 高杉晋作が亡くなる時に、「奇兵隊を引き継ぐ人物は?」と問われて、晋作が名を挙げたのは、大村益次郎であった。しかし、大村は元々、村医者だった為「その次は?」と問うと「山田市之允」と答えたという。この時、山田顕義はまだ23歳の青年であった[4]。
• 西郷隆盛
o 小柄で背が低く童顔だった山田に対して西郷は「よか稚児」と残している。
o 「神算鬼謀の将[4]」
o 「あの小わっぱ(小童)、用兵の天才でごわす」
o 「用兵の妙、神の如
• 泥だらけの花びら

•  1968年春、フランスパリで発生した大学紛争は、またたくまに世界を席巻した。むろん日本にも飛び火した学園紛争は、全国の大学に燃え広がった。
日大だけは学園紛争とは無縁だ。どんな確証あってか、そんな風評がまことしやかに流布されていた。しかし、昭和四十三年、突如、日大は燃え始めた。その火は、まるで枯野に放たれた野火のようにたちまちに全学部にひろがった。香港帰りの警視庁公安部警視正佐々淳行警備第一課長は、鎮火すべき日大校舎に向かった。彼は、後に東大安田講堂攻防戦や連合赤軍浅間山荘事件で警備幕僚長として活躍する。当時彼の知る日大はこのようだった。

• 「日大は徹底した商業主義に基づくマンモス教育であり、その放漫きわまる経営方針ゆえに私立大学紛争の最高峰となったのである。そもそも学生の総数すら日大当局の誰にきいてもはっきりしない。あるいは十二万人、あるいは十五万人という。・・・・二部や通信教育をいれると三十万人ともいう。(『東大落城』)」

六十余州を揺り動かして 桜を咲かせる その日は近い
望むところだ 学園あらし さくら散らして ゆくぞ日大 革命児

昭和40年、日大の暗黒時代。
金、権力、官僚 三角形は、

日本一、即ち世界一を誇る学生数。

1.松陰神社 唐木新平
2.満州
3.昭和40年 藤沢
4.群雄割拠
5.水の覇者 湘南カミナリ族

1.満州ソ連軍 馬賊  2.中国裁判 3.九州
4.

図書館情報学用語辞典 第5版(2020.8発行)

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