文芸研究Ⅳ 下原ゼミ通信 No.42

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2020年(令和2年)10月13日発行

文芸研究Ⅳ下原ゼミ通信No.42

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
9/29 10/6 10/13 10/13 10/20 10/27 11/10 11/17 11/24 12/1 12/8 12/15 2021年 1/19 1/19 

2020年下原ゼミⅣ 観察と表現の旅

10・13下原ゼミⅣ

10・6ゼミ報告  近況報告

 10・6ゼミの参加者は、以下の皆さんでした。

西村美穂さん  中谷璃稀さん  吉田飛鳥さん  

この日、参加できなかったのは以下の皆さんでした。ズーム設置。

佐俣光彩さん    志津木喜一さん    松野優作さん 

松野さん、前回ズームのアクセスあったようです。
志津木さん、どこかで見かけた。参加に前向き。
佐俣さんは、参加待ち 
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社会観察  最近多い裁判ニュース 注目された大きな裁判

ひところコロナばかりだった新聞紙面だが、先週は、裁判記事が目についた。

・座間9人男女殺害事件裁判 被告「9人殺害同意ない」

 この事件は、2017年9月~11月にかけて自殺サイトのインターネットに誘われた若い男女(女性8人、男性1人)が被告白石隆浩(29)によって殺害された。被害者が自殺志願のメールを送っていたことから裁判を複雑にしている。この事件、相模原の植松被告と動機はちがうが、惨忍性においては一致する。こんな人間が2人もいる恐怖。

・池袋暴走 無罪を主張 初公判89歳被告「車に異常」

この事件は昨年4月、乗用車で青信号で横断歩道を渡っていた自転車の母子をはねて死なせた事件。ブレーキとアクセルの踏み間違えが検証されているが、89歳被告は、一貫して「車の異常」を訴えつづけている。
10・6ゼミ授業報告   3密対策しながら舞台劇に口演で挑戦 

冨田常雄原作『姿三四郎』の脚本化「獅子と白菊」を口演
 
第一回の読み合わせ 複数代役で

・演出 西村美穂
・ナレーター 中谷璃稀
・時代 明治10年頃の東京

登場人物 

・矢野正五郎(浩)→ 中谷璃稀
・戸田雄次郎   → 中谷璃稀
・椿  早苗   → 吉田飛鳥
・矢野須賀子   → 吉田飛鳥
・矢野 一作   → 西村美穂
・泉 専太郎   → 西村美穂
・手下      → 中谷璃稀

矢野正五郎のモデルは、嘉納治五郎
戸田雄次郎のモデルは、富田常次郎 その息子が作家の富田常雄『姿三四郎』の作者
           富田常次郎が学習院大学の講師のとき、志賀直哉は柔道を習った。

モデルを知る。嘉納治五郎とは何か。神戸の菊正宗の一族。

嘉納治五郎 年譜

1860年(万延元年)10月28日 兵庫県御影村で生まれる。生家は灘の銘酒『菊正宗』
1869年(明治2年)10歳 母貞子病死。
1870年(明治3年)11歳 父と東京にでる。学問のため。天文学者が夢。
1875年(明治8年)15歳 英語学校卒業、開成学校(東大)に入学。イジメに悩む。
1877年(明治10年)18歳 柔術の道場を探し、天神真楊流福田道場に入門。
1879年(明治12年)20歳 米元大統領グラント将軍の前で柔術の技を披露。
1882年(明治15年)23歳 学習院講師、下谷北稲荷町永昌寺で講道館柔道を創始する。

舞台劇『獅子と白菊』は、明治15年の時代。日本紘道館(講道館)設立まで。

『姿三四郎』という本について

 たとえば2006年に刊行されたよしだまさし著『姿三四郎と富田常雄』の冒頭にこんな解説がある。

 いまこの文章を変でいる人の中に、富田常雄の小説『姿三四郎』を読んだことのある人というのは、いったいどのくらいいるものだろうか。おそらく、姿三四郎の名前をご存じない方はほとんどいらっしゃらないだろう。だが、実際に小説を読んだことのある人となると、かなり少ないのではないだろうか。かつて映画になり、テレビドラマになり、漫画になったりして、その存在を知らぬものなどほとんどいない国民的文学ではあるのだけれど、実際に読んだという人は意外なほど少ないのではないだろうか。

とある。確かに読んだ人は少ないだろうが、三四郎という呼び名は、ほとんどの日本人は、知っている。たいていは柔道選手に付けられる、女三四郎、昭和の三四郎 平成の三四郎といった具合である。強いヒーローへの代名詞といえる。
 ちなみに日本において映画『男はつらいよ』の寅さんも、三四郎と並ぶ国民的ヒーローである。この二人、ただ一つ違うのは、寅さんは、まったくの架空の人物だが、三四郎にはモデルがあるということだ。モデルというのは山嵐という技で柔術界の異種格闘技を勝ち抜いた講道館の西郷四郎である。
『姿三四郎』が書かれた頃

『姿三四郎』が書かれたのは、戦時下、1942年(昭和17年)である。前年のハワイ奇襲作戦で、いっとき夢をみた日本だったが、この本が書かれたときはミッドウェー海戦で大打撃を受け、山本五十六元帥も空に散った頃であった。
それはちょうど上りきった坂道を、こんどは地獄にむかってゆっくり転げ落ちていく不吉の時代であった。そんな中、1942年9月に刊行された小説『姿三四郎』は、大ベストセラーとなった。翌年1943年(昭和18年)3月には、黒澤明監督第一作『姿三四郎』が、1945年(昭和20年)5月には黒澤監督の『続姿三四郎』が上映されている。
 
 『姿三四郎』の上巻には「序の章」「天狗の章」「佳人の章」「生死の章」「巻雲の章」
「四天王の章」の6章があるが、「生死の章」までは、紘道館(講道館)設立にいたる物語で、姿三四郎は、まったくでてこない。
しかし、ここまでが、めっぽう面白い。『姿三四郎』というと、当然だが、主人公の姿三四郎ばかりが脚光を浴びるが、姿三四郎の師、矢野小五郎と柔術を描いた前半。
 
『獅子と白菊』の口演、時間がきて棒読みに 

大先生・一作と矢野と須賀子の場面。

それと、泉専太郎と矢野正五郎の対決も。名場面

矢 野   では聞くが、君はなぜそんなに私と戦いたいのか。理由を知りたい。
泉     理由か。言ってやろう。貴様は死んだ磯先生や福田先生から天神真楊流の免許皆伝を受けたな。奥伝を伝えられたとも聞いた。
矢 野   その通りだ。
泉     そこに俺の怒りがあるのだ。貴様は、流儀を知っているか。磯道場でも福田道場でも兄弟子は誰だ。泉専太郎は、貴様の兄弟子だ。たとえ、死んだ先生がやった事にせよ、奥伝を受けたとき、何故、俺に一言の挨拶もしなかった。それが同流の仁義か。兄弟子に対する態度か。
矢 野   それは、ご承知と思うが。天神真楊流奥伝は、これを受ける者以外、披見を許さず、口伝を許さず、とある。私は、ただそれに従ったまでだ。
泉     ・・・・。
矢 野   亡くなった先生の御意志によつたまでである。しかし、泉君、君がお望みとあれば奥伝はおゆずりする。免許もお返ししよう。私が、いまもって柔術をやっているのは、天神真楊流の看板が欲しいのではない。免許の形式が望ましいのでもない。要は、柔術を極めることだけにあるのだ。維新以来、柔術は堕落した。これは、ただ時代に取り残されて衰微した故の堕落ではない。柔術家自身の精神の堕落なのだ。術を芸人の芸に置き換えた時に、これはすでに武術ではない。従って、見世物にも出る。喧嘩の道具にも使う。威嚇の具にも用いられる。私の願いは、この堕落したものを、もう一度、日本の武
術に還すことである。滅ろばんとしている柔術を、蘇えらせたいのだ。
泉     ・・・・・。
矢 野   別の面から見れば、知ってのとおり、今日の諸流は一部門の柔術を一子相伝してきた。投げ業、捕手、逆業、絞め業、当身業と別々に修業して、その免許皆伝も、口伝、伝書の形で一人から一人へ渡されている。柔術一切の奥義に通達する道をはばんで来たのはこれである。私は、日本柔術に一貫して流れた精神と原理を求めて柔術の大道を築くことを念願した。もとより天神真楊流の奥伝を己一個のものとする偏狭は持たぬ。喜んで譲ろう。もし、君が真正な柔術をこれによって開拓してくれるなら、私は、むしろ喜ばしいのだ。
泉     ・・・・。
矢 野   今日の日本に必要なものは柔術の精神なのだ。武士の魂なのだ。私は、文明開化で外国に崩されていく日本の大地の揺るぎを日ごとに感じている。私は武士道を回復したい。その一人として、君が柔術の精神に正しく、修業に励み、迷える柔術家たちを導いてくれるとしたら、私は、盟友と思うだけである。同志を得たとして心強く思うだけである。お互いに柔術を志しながら、なんの勝負が必要であろう・・・。泉君、私の夢は日本に柔術の栄えることだ。国民の一人一人が稽古着を担いで道場へ通う日の姿だ。
泉     ・・・・。
矢 野   理屈を言ったな、泉君。わかってくれれば幸いと思う。
泉     ・・・・・・・・・。

      間

手下一   先生!な、なにをぼんやりしてるんです!?早いとこ、決着つけておくんなさい。
   いつまでごたくを並べさせておくんですか!?矢野の野郎に!!

泉     うるせえ !! 俺の負けだ。矢野、柔術を頼んだぞ。(深く頭を下げる)

土壌余話

『姿三四郎』に登場する矢野正五郎は、柔道の創始者、アジア初のオリンピック委員の嘉納治五郎だが、この嘉納治五郎が主人公の本は、なぜか意外と少ない。姿三四郎が有名になりすぎたせいもある。以下は、その主な本である。

『小説 嘉納治五郎』戸川幸夫著 読売新聞社1991年10月

小説と銘打ってはいるが、ほぼ伝記と言える。

 『東天の獅子』夢枕獏著 双葉社2008年11月

天の巻・嘉納流柔術 ときは明治はじめ、柔術戦国時代を勝ち抜くのは誰か、何流か。

『獅子と白菊』『姿三四郎』脚本 下原ゼミ編集室

講道館柔道設立まで
嘉納治五郎と柔道については、拙書『オンボロ道場は残った』に書いてある。

嘉納治五郎と柔道

 1875年、明治八年のことである。八年前、江戸改め東京となった日本の首都は、文明開化の国策のもと日毎に西欧化がすすんでいた。大火に見舞われた銀座、京橋、築地には、ガス灯、アーク灯などが設置され、赤煉瓦の建物が並ぶ西洋風の街並みに一変していた。が、下町は相変わらずの江戸の風情だった。この新旧ごった返す街を、袴姿の若者が、神田神保町界隈を歩き回っていた。古本屋に入っては、すぐに出てきた。よほど貴重な書物を探しているのだろうか。尋ねられた店主は、首をふるばかりだった。
 彼は、一体何を探しているのか。暫く後を追ってみよう。若者は、何軒目かの古本屋に入った。古本屋は慣れているようだった。若者は、積み上げてある新書、古書には目もくれず、どんどんと店の奥に入っていくと、そろばんをはじいている店主に声をかけた。店主と若者は、想像するにこんなやりとりをしていた。「このあたりに柔術の道場はないですか」
 「柔術ですか?」店主は、眉をひそめると怪訝そうに聞いた。「ケガでもされたのですか」
接骨師を探していると思ったようだ。維新以来、武道家は、零落した。剣術家は、見せ物小屋で、柔術家は、接骨師として糊口をしのぐ他なかった。
「いえ、柔術を教えてくれるところです」
「どなたがが習うんです?」
「わたしです」
「え!学生さんが?」
 店主は、不思議そうに若者をみた。店主の驚きも無理なかった。四年前に廃藩置県があり、だれもかれもが文明開化に向かって熱中しているご時勢である。そんなときに柔術を習う。また、元のサムライの時代に戻ろうというのか。みれば洋書を手にした学生のようだ。なぜ、どうして、という疑問も当然である。
 この年、明治八年(1875)いえば五月に福沢諭吉が三田演説館を開館した年である。勉学の志ある若者は西洋の知識と学問を学ぼうとしていた。そんな学問事始ともいえる時代である。にもかかわらず、その若者は、柔術を習おうと柔術を教えてくれる道場を探し歩いているのだ。体つきも小柄で、とても武道をやるといった体格ではなかった。
 若者の名は嘉納治五郎。このとき嘉納は(東京外国語学校)英語学校を卒業し、開成学校(二年後の明治十年に東京大学と改称)に入学したばかりの学生であった。なぜ、治五郎は柔術を習おうとしたのか。その前に、どんな将来の夢があって開成学校に入学したのか。自伝によると嘉納は、そのことについてこう述べている。
 開成学校に入った頃から将来どういった方向に進むべきかとまじめに考えるようになった。元来自分は数学が好きだったから数学を多く使う天文学をやってみたいと最初は考えていた。だがまた一方から考えて人事上の事で尽くした方がいいかなとも思い、大学に入るまでははっきりした決断はつかず、そんな状態で文学部に入った。(当時の法学部は法律学だけで政治経済などは文学部に属した)。
 早い話、はっきりした目標はなかったようだ。ただ根っからの勉強好きで、とくに語学には秀でていたという。性格は、負けず嫌いで「なにくそ!」が口癖だった。その嘉納が、なぜ柔術に興味をもったのか。「柔道とは何か」その将来について後年、嘉納はこんな理想を持って事あるごとに口にしていた。
 柔道による人間完成と、ひいては柔道による世界人類共存共栄・・・
 つまり「精力善用」「自他共栄」に表現される。が、これはあくまでも後年になって意味づけたもので、柔道をはじめた真の動機は、まったく違うらしい。そこのところは、『嘉納治五郎全集』「なぜ柔道をはじめたか」でこのように吐露している。
・・・柔術を学びはじめた動機は今日自分が柔道について説いていることとはまったく異なったものであった。

 嘉納治五郎の生家は裕福な造り酒屋である。灘の銘酒『菊正宗』本舗の一族。三男坊。父親は明治政府に起用され官界に入り通商、土木、造船、皇居の造営に関係した。十歳のとき母親を亡くすが、いわゆるお坊ちゃん育ち。
 家が裕福で勉強ができる。そのうえ負けん気が強い。まさに鬼に金棒、子供のころはさぞ我が世の春であったろう。だが、青春期に集団のなかに入って、はじめ知る屈辱。明治六年(1873)、治五郎は英語・読後・普通学を学ぶため英語学校の育英義塾に入学した。そして、塾の寄宿舎での生活。ここで治五郎は、勉強や負けん気だけではどうにもならないことがある現実をはじめて知った。正しい意見ではなく、力の強い者の意見が通る世界。このころのことを嘉納は、後にこのように述懐している。

・・・自分は今でこそ普通以上の強健な身体を持ってはいるが、、その当時は病身というのではなかったがきわめて虚弱なからだであって、肉体的にはたいていの人に劣っていた。それゆえ往々他から軽んぜられた。学問上ではたいていのものに負けないとの自信がありながら、往々にして人の下風に立たされた自分は、幼少の時から日本に柔術というものがあり、それはたとえ非力なものでも大力に勝てる方法があるときいていたので、ぜひこの柔術を学ぼうと考えた。・・・(『嘉納治五郎全集 第三巻』)

 今日、イジメは社会問題になっているが、イジメは、いつの時代にもあった。理不尽な仕打ち。力の弱いものは、ただ服従するしかなかった。正義を押し通すことのできない悔しさ。昔の剣豪のように強くなりたい。たいていの少年が持つ夢を嘉納治五郎も持ったようだ。
 しかし、どうすれば強くなれるのか。既に刀は禁じられている。とすれば後は柔術しかない。体の小さかった治五郎が、柔術に憧れるのはごく自然のことである。治五郎は、あちこち人を介して柔術の道場を探した。が、なかなか見つからなかった。やっとさがしても、・・・今時そんな必要はないといって顧みてくれなかった。
 だが、もはや憧れだけではいられない事態となった。翌八年、治五郎は開成学校に入学した。十六歳の治五郎を襲ったイジメは、英語学校の育英塾の比ではなかった。いくら「なにくそ!」と叫んでも非力な治五郎には、どうすることもできなかった。こんなこともあったと同級生(加藤仁平)が記している。(戸川幸夫『嘉納治五郎』)

 学生の中には旧藩そのまま腕力をほこるのがある。特に高知県から出た・・(誰々)が主導者の形をなして、事があれば人を殴った。千頭は構内一の元気者で、ある日、嘉納治五郎が気に食わぬと、ひどく殴りつけたが、嘉納は手向かいできなかった。・・・・・・・

 治五郎の悔しさは、いかばかりであったろうか。「柔術修行の希望はますます深くなった」しかし、父親は「そんな必要がないと同意してくれなかった」。たいていの子は、ここで不登校になってしまうが、治五郎は違った。もう人を当てにしてはいられない。なにがなんでも柔術を修行するのだ。そんな決心をして、自分の足で探し始めたのである。明治十年に創立したばかりの東京大学文学部の学生が、強くなりたくて柔術の師を求め歩いている。かなりの変わり者に思われたに違いない。
 ちなみに「明治十四年の東京大学卒業の学位授与者が法、文、理、医科を合わせて六十六人というから」嘉納治五郎の存在は東京では珍しかったといえる。

【架空秘話】(拙書『オンボロ道場は残った』)

この日の太平洋は、風もなく穏やかだった。雲ひとつない大空の下、豪華客船氷川丸は五月の日差しにつつまれてのんびり一路横浜を目指していた。平和な風景だった。
世界の中で孤立し、暗雲漂う日本にあって、その船は救世主として待たれた。戦争から国民を救う唯一の希望の光だった。甲板の藤椅子に老人が一人座って心地よさそうに昼寝をしていた。その寝顔には、大役を果たした後の安らぎがあった。
だがしかし、魔の手はのびていた。

千帆閣の海 嘉納治五郎と坂本竜馬

 一八六七年十一月末の木枯らし吹くある夜、神戸の御影村にある酒造業の嘉納家に久しぶりに当主が帰ってきた。嘉納家に婿入りした次郎作は、家業は妻の定子に任せて、自分は廻船業を行って幕府の廻船方ご用達の勤めについていた。この時期、海軍奉行勝海舟の命を受け和田岬砲台の建造に関っていた。七歳の嘉納治五郎は四人の兄姉たちと玄関に出て迎えた。父次郎作は、いつものように子供たち長兄の寅太郎(久三郎)、次兄亀松(謙作)、長女柳子、次女勝子に「かわりはないか」「母の言う事はきいているか」など次々声をかけた。
 末っ子の治五郎にも
「治五郎、お前も立派にあいさつできるようになったときいたぞ」
と、にこやかに声をかけて片手を頭に乗せて撫ぜた。
 幕府のお殿様(閣老小笠原壱岐の守長行)が摂海防施設視察にきたときのことだとわかった。後日、姉の勝子はこのときのありさまを
「治五郎は両手を膝の上にそろえて乗せ、壱岐の守様のお尋ねにはきはきお答えしていた」
と、会う人ごとに自慢していた。
 治五郎は、誉められたことはうれしかったが、何か気にかかった。たしかに、いつものように快活な父ではあったが、その実、何か違った。声が重い。その予感は当たった。父次郎作は、千帆閣の広いお座敷に定子と子供たちを並ばせると沈痛な面持ちで静かに言った。
「治五郎は、どうか知らないが、皆は、覚えていよう。神戸海軍操練所で塾頭をしていた坂本さまが亡くなられた。勝のお殿様からの話だ」
「えっ?!坂本さまといわれると、坂本竜馬さま?ここによく来られた」
定子は、驚いて聞いた。
「そうだ。あの坂本さまだ。土佐藩を脱藩して勝の殿様の一番弟子になられた」
「覚えております」兄の久三郎と亀松は、声を揃えて言った。「庭で剣術を教わりました。北辰一刀流の免許皆伝で、またお相手してくださるといっていたのに残念です」
「面白い、型破りのお方でした。治五郎は、よく遊んでもらいました。子供のように素直な本当にいい方で、こんどはいつ来られるのかと楽しみにしておりましたのに」定子は、言ってまだ信じがたい顔でたずねた。「それで、お若いのに、どうされたのですか」
「それが、・・・」次郎作は、言い淀んだ。子供たちに聞かせるべきか躊躇した。が、意を決してぼつりと言った。「お順さまの、婿殿と同じだ」
「まあ」定子は絶句した。
(三年前、勝海舟の義弟佐久間象山は、公務の帰路、京都三条付近で暗殺された。)
「いい眺めじゃけん、これはいかん。土佐の海を思い出すばい」
 勝に連れられてはじめて千帆閣にきたそのぼさぼさ頭の若者は、歓声をあげて庭に下りていった。千帆閣の広大な築山の向こうには神戸の海が広がっていた。彼は、なつかしそうに庭から一望できる海を眺めた。大きな背中に無邪気さが溢れていた。子供は、子供のような大人をすぐに見分けるようだ。三歳の治五郎は、背後から近づくと恐れも遠慮もなく若者の足にぶつかっていった。不意をつかれて若者はよろけた。
「これ治五郎。お客さまに」定子は、驚いて言った。
「かまわんです。これは油断しとりました。まっこと油断大敵本能寺じゃ」
若者は、治五郎を軽々と抱き上げ、肩車すると目前の海を見渡して叫んだ。
「海は広いのう。ぼんは、この海の向こうにも人がいることは知ってるか」
「知ってらあ」治五郎は、バカにするなと若者のボサボサ頭をポカリなぐった。
「こら」若者は、笑って言った。「行ってみたいか」
「うん、父上の船で行くんだ」
「そうか、おじちゃんの船にも乗せてやるぞ」
「おじちゃん、船もってるの」
「うん、将来な。そのために勝先生に船の乗り方を学ぶのだ。面白いぞ」
「じゃあ、約束してくれる。おじちゃんの船にも乗せてくれるって」
「おう、約束するぞ!二人で世界中をまわろう」
「セカイジュウをまわろう」
「そうだ、世界中だ。楽しいぞ。出発!」若者は、叫んで駆け出した。
 はじめての肩車に治五郎は、揺られながらキャッキャツと大はしゃぎだった。二八歳の若者と三歳の幼児。仲の良い叔父と甥が遊んでいる。そんな微笑ましい光景に見えた。
「あの二人、よほど意気が合うとみえますな」
「そのように」
縁側から勝海舟、次郎作、定子の三人は、なかばあきれて眺めていた。
 庭から聞こえてくる、二人のはしゃぎ声。その声を海から吹き上げた荒い塩風がかき消した。しばしの沈黙のあと
「お順さまの婿殿(佐久間象山)も立派な人でした。坂本さまも・・・」定子は悲しそうにつぶやいた。「いい人ばかりがどうしてでしょう。それも、ご自分のためではなく、よい世の中をつくろうと考え努力されている方ばかりが」
「わからん、勝のお殿様も落胆しておられた。もう、あんな男はいない、と。徳川様も大政を奉還されるそうだ。大変な世の中になるかも・・・」
次郎作は、肩を落として言った。
 治五郎は眠くなっていた。父と母が話している坂本さまのことは、ほとんどおぼえていない。ただ誰かの肩の上で揺られて、海を眺めた記憶だけがぼんやりとあるだけだ。治五郎は、睡魔で薄れゆく意識のなかで夢をみた。剣を持った大男が、海に向って立っていた。男は、剣の達人で、新しい平和な世の中をつくるために世界に行くという。自分は、その肩の上に立っている。どこまでもつづく青い大空と大海原。
 治五郎は一瞬の眠りから目覚めた。目の前に大海原がひろがっていた。五月晴れの太陽の光りが燦々とデッキの上に落ちていた。ここはどこか、自分は、セカイを救うためにあの大男と旅にでたのか。次の瞬間、治五郎は我に帰った。一九三八年五月三日、自分は、いまバンクーバー発の客船「氷川丸」に乗って日本に帰るところだ。あと三日で帰国できる。
 治五郎は、自分の年齢を思った。七九歳になる。よく生きた。治五郎は、その後の皆の話で坂本竜馬の偉業と無念を知った。もうはるか昔になるが、勝の殿様は、会うたびに悔しがられた。「竜馬が生きていればな」と。戦争へ戦争へとひた走る日本。坂本竜馬がいればこうはならなかった、というのだ。そして、次に治五郎のことを心配した。「治五郎、おまえさんの柔道理念は、竜馬の言うとることとよう似ちよる。用心せい」まだ三十代と若いが、柔道の創始者、近代教育の実践者として名を馳せる嘉納治五郎を呼び捨てにできるのは、日本広しといえども、勝海舟ただ一人である。皆が幸せになることを考えすぎると自分の身を危うくさせるというのだ。いま日本もセカイも、のっぴきならぬ状態に陥っている。が、東京オリンピック招致決定で、あの大男との約束は、半分は果たした。そのように思った。そのときどこかで
「油断大敵、本能寺」そんな声を聞いた気がした。ボサボサ頭の大男の声だ。

2020年10月13日 文芸研究Ⅳ 下原ゼミ 課題  名前

Q.前期の自粛生活は、どうでしたか。

あっという間だった      長かった       辛かった    楽しかった

Q.4年間の大学生活の思い出は。

あまりない    長かった     早かった    楽しかった(どんなことが)

熊谷元一研究  生誕110周年を記念して書き下ろす。

草稿 小説熊谷元一伝

 熊谷栄吉は、蚕養農家の6人兄姉の末っ子に生まれた。飯田の城下に近いかいこの村だった。栄吉は、天竜川と赤石山脈をながめて育った。
明治12年、絹織物が好景気で、伊那谷の村々は、蚕養。
栄吉は、おとなしい子どもだった。自分から、なにかをやりたいとはいいださなかった。かいこで猫の手もかりたいほど忙しい両親をみていて、言いだせなかったのかもしれない。とにかく、えいきちは青春時代、文句一つ言わずに家のかいこの手伝いをしてすご゜した。ので、両親は、かいこの手伝いをさせた。
「えいきち、おまえなにかやりたいことはあるか」
栄吉は、はずかしそうに笑ったが、なにもこたえなかった。
 28歳のとき3璃離れた山間の村に養子に

日本大学異聞 『昭和元禄草莽伝』草稿  資料1「山田顕義」
山田に残した言葉
• 高杉晋作
o 高杉晋作が亡くなる時に、「奇兵隊を引き継ぐ人物は?」と問われて、晋作が名を挙げたのは、大村益次郎であった。しかし、大村は元々、村医者だった為「その次は?」と問うと「山田市之允」と答えたという。この時、山田顕義はまだ23歳の青年であった[4]。
• 泥だらけの花びら

1968年春、フランスパリで発生した大学紛争は、またたくまに世界を席巻した。むろん日本にも飛び火した学園紛争は、全国の大学に燃え広がった。
しかし日大だけは学園紛争とは無縁だった。あるいは眠れる獅子のように、あるいは従順な羊の群れのように黙していた。「日大生は、学生にあって学生にあらず」こんな失笑と侮蔑が、いつのころからか社会に沁み込んでいた。日大の暗黒時代であった。
だが、昭和四十三年、突如、日大は燃え始めた。その火は、まるで枯野に放たれた野火のようにたちまちに全学部にひろがった。香港帰りの警視庁公安部警視正佐々淳行警備第一課長は、鎮火すべき日大校舎に向かった。彼は、後に東大安田講堂攻防戦や連合赤軍浅間山荘事件で警備幕僚長として活躍する。当時彼の知る日大はこのようだった。

• 「日大は徹底した商業主義に基づくマンモス教育であり、その放漫きわまる経営方針ゆえに私立大学紛争の最高峰となったのである。そもそも学生の総数すら日大当局の誰にきいてもはっきりしない。あるいは十二万人、あるいは十五万人という。・・・・二部や通信教育をいれると三十万人ともいう。(『東大落城』)」

【松陰神社】

昭和四十年四月はじめ。山口の萩にある松陰神社境内。新学期がはじまったこの時期、参拝客は、まばらだった。桜だけが満開でにぎやかだった。
日本大学の本部勤務の此木大吉は、社務所をでると、もう一度松陰神社を参った。午前中から市役所公園課、観光課、商工会議所と回って最後に神社の管理組合にお願いした。しかし、どこも手ごたえはなかった。疲労だけが残った。
このたびの彼の出張の目的は、学祖山田顕義銅像建立に際しての陳情だった。明治維新の立役者、大村益次郎の後継者、また伊藤博文あとの総理候補とまで言われた幕末の志士山田市之充の石碑に日本大学の校名を刻んでもらうためだったが、どこもあまりよい返事はもらえなかった。役所も神社も乗り気でないのは、日本大学と入れられるのが嫌なのだ。ひらたくいえば、そういうことだ。こんな田舎にも日大の商業主義はつたわっている。
「お宅の学校は、学生を商品あつかいしていると聞く。教室に入れんくらい大量に学生を増やし学士さまをにわかづくりしとるって評判じゃけんに」それが断りの理由である。
此木大吉は悔しく思う。これもかれも20年まえの学徒出陣、あの戦争で死んだ穴埋めに、学士製造工場としたのはだれか。国公立の教職員の天下り先として存続させたのは誰か。
 これでは学祖様に申し訳がたたない。古木は、思わず両手を合わせて詫びた。
誰かが鼻歌をうたっている。みると閑古鳥鳴く土産物店の近くで若者が、漢詩の書かれた扇子の若者が詰将棋本をみながら鼻歌を歌っていた。
テレビドラマで人気がある高杉晋作の主題歌らしい。さすが萩の城下である。

60余州を 揺り動かして
菊を咲かせる 夜明けが近い
のぞむところだ 幕末 あらし
剣を つかんで
いくぞ 高杉晋作が

 境内の隅にある土産物小屋の近くで、若者が扇子の色紙を売っていた。四月はじめの神社。参拝客は少ない。若者は、色紙を売るのをとうに諦めている様子で、歌を口ずさみながら、詰将棋本をみていた。
 此木は、声をかけた。
「すみません―」
若者は気がつかない。
「すみません」大吉は、少し声をおおきくした。
「あ…」若者は、驚いて顔をあげた。「お客さん、いつのまに。すまんです。今日は、お客さん少ないんで」
「いや、いや驚かせてすみません。ちょつとみかけたものですから」
「なんです」
「その扇子のことなんですが」
「ああ、これ、吉田松陰先生の漢詩です。」

立志尚特異  志を立てるためには 人と異なることを恐れてはならない
俗流與議難  世俗の意見に惑わされてもいけない
不思身後業  世の中の人は 死んだ後の業苦のことを思うこともなく
且偸目前安  ただ目の前の安逸を貪っているだけなのである
百年一瞬耳  人の一生は長くても百年 ほんの一瞬である
君子勿素餐  君たちは どうか徒に時を過ごすことのないように

「そっちは」
「これになんと書いてあるのか」
「松陰先生の言葉です。意味は知らんけん」
「こちらは」
「これは山田市之充が師である高杉晋作の死を悼んで書いたものだそうです」

白日光り無く陰雲垂(いんうんた)る。
感慨腹に満ちて泣き且つ悲しむ。
墓門の昼暗し松柏の雨。
粛々涙に和して新碑にそそぐ。

「それ十本もらおうか」

最後の入試

若者は不満そうだった。
青年は財布で金を払う。そのとき切符を落とす。が、二人とも気がつかない。しばらくして砂利のなかに切符を見つける。萩から東京都内行きの切符。自転車で萩の駅に届ける。
此木、探している最中。
「ありがとう、助かりました」
「やまだ市之充のは、あまりうれんけん」
「ぼくは、買う必要があるんです」
「必要?」
「なんといっても学祖様ですから」
「えっ?!大学の人」
「学祖?!」
「山田顕議は、日本大学の学祖です」
「あ、そうですか、山田市之充は日大の・・・・はじめてしりました」
「きみは、大学生?」
「浪人ですけん。早稲田と慶応受けた、どちらも落ちた」
「どうして早稲田に?」
「どうして、っていっても…」
「早稲田は明倫館だよ」
「日大はそうもうだ。日本大学はだめかね」
「日大ですか」
若者は、失笑した。この時代、同じマンモス大学でも、日大と早稲田とは、埋めがたい差がついていた。
「日大は、門戸を最後まであけている」
「それって、ずるくないですか」
扇子の詩の意味をよく考えて、もしその気になったら最後の入試、受けてみてください」
「なんだ、あの人。日大の職員か」
早稲田か慶應だ。日大生いなかった。
「きみも悪戯に時を過ごすより

「やはり明倫館ですか」
「明倫館、早稲田がそうだというんですか」
「そうでしょう、いまではエリート校といわれている。そこへいくとわが日大は、草もう、吉田松陰先生のめざしたのは、ピンからきりまでくる学校です。草もうの若者
「都の西北ですよ。ワシあ、もう決めてるんです」
「そうですか、気がかわったら、最後の入試が

昭和40年4月とはいえ、まだ 木曽谷を走る列車、中央本線、新宿行き、車内は、車内
「東京まで」
「大学生ですか」
「いえ、これから受験です」
「えっ、」驚くのも無理はない。大学入試に向かう若者が一人こんな時期に、まだ大学入試があった。
「どこに」
「日本大学です」
驚かない。失笑しているようにみえた。

赤門前、清田家真樹夫の家は、三代つづく製薬会社、良くて東大、悪くて東大の家柄。兄、姉、従兄弟、父親の二号さんの子、全員東大だ
「ことしは、大丈夫だろうな」「

図書館情報学用語辞典 第5版(2020.8発行)

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