文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.109

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2008年(平成20年)9月22日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.109
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
2008後期9/22 9/29 10/6 10/20 10/27 11/10 11/17 12/1 12/8 
12/15 1/19 1/26 
  
2008年、読書と創作の旅
9・22下原ゼミ
9月22日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ教室2
 1.出欠・連絡事項・ゼミ誌原稿提出
 2.後期ゼミについて
    
 3.私の夏休み(どんな2008年の夏でしたか)
 
  4.テキスト読み・法廷作品「あなたなら、どんな判決か」
     
 
     車窓 2008年の夏に想う
 
 2008年の夏は、一口に言えば大変な夏だった。地球温暖化の危機を感じた連日の酷暑。ノアの大洪水を思わさせた局地への集中豪雨。東西冷戦ふたたびの緊張が甦ったロシア軍のグルジア侵攻。ワイダーの『地下水道』のような日本経済。年金、医療、教育、拉致、消費税どこまで行っても出口なし。まさに一寸先は闇だった永田町。「あなたとはちがうんです」謎の言葉(ギャグ)を残した福田首相の退陣。問題山積のままはじまった衆院選挙への狂想曲。米国からは大統領選挙の喧騒と大手企業の倒産。日本社会は、底なしの疑惑沼。毒ギョウザも未解決、うなぎ、牛肉産地疑惑。そして、事故米やカビ米食料転売。(謝罪か弁解か、立志伝社長たちの容姿、話し方が皆同じなのはなぜか?)お役人の職務怠慢天国。とどめは農水大臣のジタバタ辞任。場外では土俵外勝負が注目された大相撲と大混乱がつづいた。
 兎に角、今夏の車窓は、生活ものから自然災害ものなど、あらゆる分野の映画の一コマを観るようだった。が、その大半は、後味悪いものばかりだった。何か、爽やかな風を感じる心楽しめる車窓はなかったものか。あるとすればテレビ観戦した北京五輪か。いまも選手たちの活躍、観客の歓声が目蓋や耳に残っている。口パクや演出過剰はあったが、史上最多となる204の国・地域からの参加。競技も最多で300種目を越えた。いろんな問題があった。が、17日閉会のパラリンピック共に成功裏に終わった。まずはメデタシである。
 しかし、この世界の平和と人類の幸福を願う祭典も、現実は、理念とはほど遠いものだった。結局は、開催国の国家高揚と、各国のメダル数獲得合戦だった。「屁のつっぱりにもならんですよ」石井選手が笑いとばしてくれたが、成功の陰で考えるところが多かった五輪である。北朝鮮問題、チベット騒動、パキスタン、タイ、アフガンに青春を捧げた日本人青年の死。車窓を騒がしく暑苦しかった2008年の夏が過ぎてゆく。台風13号で涼しくなった夜。ヘミングウェイの『危険な夏』を思い出して書棚に探した。


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.109―――――――― 2 ――――――――――――――
車窓雑記
五輪と嘉納治五郎
 様々な問題で心配された北京五輪だったが、2008年の夏を彩って無事閉会した。参加した選手諸君にご苦労様と言いたい。熱帯夜を連日、テレビ観戦した。開会式はじめ競泳、体操、野球など多くの競技が印象に残った。が、五輪の最中、いつも頭に浮かび、残念に思うことがあった。アジアで初めてIOC委員になった嘉納治五郎のことである。嘉納は、いまから99年前(1909年)日本人初の国際オリンピック委員となった。今年は没後70年にあたる。が、メディアは、そのことにはまったく触れていない。
 嘉納治五郎は、柔道の創始者としてひろく知られている。が、近代日本人の基礎となった学校教育とその制度確立に尽力したことや、国民体育の見地から野球、ボートなど西洋スポーツ導入に力を注いだこと、空手、合気道といった日本古来の武術を擁護し普及させたこと。そしてなによりも世界人類平和のために奔走した国際人であったこと。グーベルタン男爵はじめ多くの世界の識者を友としていたことなどは、日本においてほとんど知られていない。スイスにおいてユングから「耶蘇の研究について苦心した話などを聞いた」こともあるほど勉学の士であった。だがしかし、日本においてその名は、たんに柔道の生みの親としての紹介に留まるのみである。北京五輪で、嘉納治五郎を彷彿した要因は、いくつかある。開催地が、北京だったこと。批判はあるが、チャン・イーモウ監督の開会式に多民族共存の理念が込められていたこと。ルール改正で一新した柔道競技などである。
 北京での五輪開催は、中国人の念願だった。古い歴史と文明を誇る中国が、なぜ、アジアで3番目となってしまったのか。そこには、悲しい過去がある。眠れる獅子と恐れられていた中国。だが近代に入って西欧植民地主義の餌食となった。日本は、富国強兵策から東洋を裏切った。西欧の仲間に加わったのだ。日本にとって中国は、あらゆる文化・文明において手本となる国だった。嘉納の言を借りれば「制度物文を輸入し、わが開明に資した」国だった。だが、その国の凋落。嘉納は、原因は教育にあるとみた。故に、「清国よりわが国に来たりて諸種の学問をなす学生のために便宜を与えることとせり」と中国人留学生のために宏文学院を創設した。昨年、来日した温家宝首相は、国会演説で魯迅の留学に触れたといわれるが、魯迅が最初に学んだのは、この宏文館である。その後の中国が辿った苦難の道。だが、新生中国の芽は人知れず育っていたのだ。100年も前に嘉納治五郎が蒔いた一粒の種。その種が時を経て北京に咲いた。楽しい想像である。開会式の多民族共存の理念には、嘉納治五郎が終生、教育の第一に掲げた「自他共栄」精神が感じられた。戦前、大東亜共栄の野望吹く最中にあってもこの理念は、揺るがなかった。三つめは、相次ぐルール改正で日本人からは「一本をとる柔道でなくなった」と不評な柔道競技である。が、いまや900万人といわれる世界の柔道人口。しかし柔道は、まだまだ進化発展するスポーツである。参加選手の国籍の多彩さが、それをものがたっている。柔道をよりわかりやすく、より盛んに。国際柔道連盟(IJF)の真摯な取り組みに、創始者嘉納治五郎の理想を感じた。
 図らずも、そこここに嘉納治五郎を感じた北京五輪。嘉納の功績を想像して、うれしく思えた。だが、いま祭りのあとに思うのは一抹の寂しさである。嘉納治五郎の夢はるかという思いである。今大会もまた五輪は、開催国の国家高揚の祭典だった。参加国にとっては、メダル獲得数に燃える大会だった。70年前、1938年5月、嘉納治五郎は、オリンピックのカイロ会議から第12回東京大会決定を土産に凱旋帰国の途にあった。前年、盧溝橋に端を発した日支事変。つづいて南京占領。戦争へ、戦争へとひた走る日本。嘉納の祈りは、五輪開催でその暴走を止めることだった。だが、その必死の願いも嘉納治五郎の無念の死とともに消えた。日本は、ヒロシマ、ナガサキに向かって突進していった。
 今回の北京五輪に、平和への願を感じただろうか。競技の最中にもつづいていた戦争や暴動のニュース。だが、五輪からは戦争への怒りや不安を感じることができなかった。嘉納治五郎を懐かしく思い出したのは、そんな雰囲気があったからかも知れない。五輪が平和の祭典なら、同時に戦争や紛争の抑止力でなくてはならない。
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2008年、読書と創作の旅
後期「2008年、読書と創作の旅」
9月22日ゼミ・プログラム
はじめに  → 出欠、「ゼミ通信」配布、連絡事項、その他
         
司会進行決め  →  まだの人に(あと4名で一巡)
司会者進行
1.ゼミ誌作成に関する報告、原稿集め、予定  
 (川端・大野編集長、小黒副編集長、坂本・瀧澤・橋本・飯島編集委員)
 
2. 後期ゼミについて 車内観察&観察(家庭観察など)
3. 私の夏休み報告
  ○夏休みで体験したこと
  
4.テキスト読み『范の犯罪』「あなたの判決は、なぜか」
9月の車窓の歌
沈む日(堀口大学訳)
たよりないうす明かり     沈む日の
 
   メランコリヤを        野にそそぐ。
メランコリヤの歌ゆるく    沈む日に
 
   われを忘れる  わがこころ  うちゆする。
 
      砂浜に   沈む日もさながらの  不可思議な夢
       
         紅いの幽霊となり
      
絶えまなくうちつづく  うちつづく
       
          大いなる沈む日に似て  
        
                        砂浜に。
ポール・ヴェルレーヌ(1844-1894)光栄と赤貧に明け暮れた詩人。ランボーと併せて知る。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.109 ――――――――4 ――――――――――――――――
後期ゼミについて
 後期ゼミも、ひきつづき志賀直哉の観察作品を中心にすすめます。
・車内観察 ・生き物観察 ・一日の自分観察 ・犯罪、法廷観察などです。
 他の作者の観察作品もとりあげます。主なテキストはつぎのものです。
 
・家庭観察ルナール『にんじん』 ・国観察シュリーマンの『日本』 ・宗教観察ニコラ
 イの『古事記』 ・戦争観察石川達三の『生きている兵隊』など
◎観察作品をどんどん書いて、この「通信」にて発表してください。
 毎日、毎日は平凡でも、私たちが乗っているこの時空列車は、確実に45億年彼方の終点へと向って走っています。そこに何が待つのか、誰も知りません。が、それを知りたければ今を知ることです。今をしっかり観察してみましょう。この瞬間を。
時空船「2008ゼミ2」号搭乗員名簿
 「2008年、読書と創作の旅」、後半もひきつづき人間とは何か」を知るために、読むこと書くことの習慣化を目指します。参加の隊員の皆さんは16名。前期からまだ一人も欠けていません。(希望カード提出順・敬称略)
・阪本 義明 ・大野 菜摘 ・川端 里佳 ・本名 友子
・長沼 知子 ・野島 龍  ・大谷 理恵 ・瀧澤 亮佑
 
・秋山 有香 ・田山 千夏子・神田 泰佑 ・小黒 貴之
・刀祢平知也 ・橋本 祥大 ・飯島 優季 ・臼杵 友之
※記念撮影は、全員が揃ったときに撮ります。
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「2008年、読書と創作の旅」班長・副班長
 ◎ 班長・小黒貴之さん      ○ 副班長・瀧澤亮佑さん
     ※ゼミ員への連絡、校外活動幹事、とりまとめなどゼミ号安全運行。
「2008年、読書と創作の旅」ゼミ誌作成編集委員
 ◎ 編集長  ・ 川端里佳さん   大野菜摘さん
 ○ 副編集長 ・ 小黒貴之さん
   編集委員 ・ 坂本義明さん   橋本祥大さん   
          飯島優季さん   瀧澤亮佑さん  補助委員・全員
     ※ゼミ雑誌作成をすすめる。企画・構成・原稿集め・編集、依頼など。
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土壌館ニュース(7・14ゼミ報告)
ゼミ誌タイトル決定!
ゼミ雑誌名は『ドレミファそらシド』に
 
 前期ゼミ最終日の7月14日は、2008年の総決算ともいえる、ゼミ雑誌(テーマ「空」)のタイトル決めが行われました。最初、出遅れていた候補ですが、しだいに多数の候補が出され検討されました。多数決によって決まったのは「ドレミファそらシド」でした。
 ちなみに、あげられた候補は、次のものがありました。
・「高度13メートル」 ・「空の空」 ・「しゅうてん」 ・「四季空」 ・「旅の空」
・「マキュミリン」 ・「夜の空」 ・「空ばかり」 ・「ドレミファそらシド」
 ※最終的に「マキュミリン」「空の空」と「ドレミファそらシド」が残りました。
 
7月14日の司会進行は、臼杵友之さんでした。
 なお、参加者は、以下の13名の皆さんでした。(敬称・順番略)
 
阪本義明、 大野菜摘、 川端里佳、 本名友子、 長沼知子、 大谷理恵、
瀧澤亮佑、 秋山有香、 田山千夏子、神田泰佑、 刀祢平友也、橋本祥大、
臼杵友之。
紙芝居口演
『少年王者』「赤ゴリラ編」の前半
 前期ゼミ最終回ということで、紙芝居口演を実施しました。この日の司会進行・臼杵さんの指名配分で13名が順次口演しました。「おいたち編」後半のあと、第二部「赤ゴリラ」の前半途中までです。60年近く前ということで、台詞に苦労がありましたが、皆さん熱心な口演でした。なかでも語研究会の刀祢平友也さんは、すぐに公園デビューできそうな口演と演技で、大いに受けました。つづきを楽しみに…。
※ 後期、前半最後12月15日になりますが、毎年、他ゼミとデザイン学科合同で開いています。今年は、どうなるかわかりませんが、毎年、うちのゼミは紙芝居口演をしています。ちなみに他ゼミは、「宮沢賢治研究発表」、デザインは、宮沢賢治の作品本の展示です。
前期の平均出席者数と提出原稿本数
 
 大所帯は、欠席者が多くなる。提出原稿が少なくなる。そんな風評がありましたが、全くの杞憂でした。定員近い16名は、長期欠席者もなく前期を乗り切りました。
 実質的授業が開始された4月21日~7月14日まで、11日の統計は以下の通りです。
平均的出席者 → 13.2名  145名(11日間) 16名中13名 8割
提出原稿 → 32本(車内12、1日5、生き物3、愛読書12)一人平均2本
話題 最近、猫がいる喫茶店が増えているようです。朝日新聞「メガロポリス」
    「猫が待つ癒しカフェ」首都圏で続々 2008年8月15日夕刊(金)
芸研究Ⅱ下原ゼミNo・109―――――――― 6――――――――――――――――
或る一日を記憶する「私の夏休み」
夏の終わりの旅
 今年の夏は、あまりの暑さに外出せずに北京五輪のテレビ観戦と孫の子守りと決め込んだ。が、終盤にきて家人が唐突に「滝が見たくなった」と言い出した。いまさら、行楽もないだろう、そう思いつつ冷やかしついでに「JRびゅう」に行く。ところが、これが飛んで火に入る夏の虫、というかネギカモというか・・・。60歳からは割引があるとかなんとかすすめられカードをつくる羽目に。渡されたパンフレッドを開いてみると、偶然に滝の写真があった。「奥入瀬渓流遊歩道」と書いてある。まだ行ったことのない観光地だ。
 というわけで、さっそくこの地に旅することにした。東北新幹線は、10年前、高校PTA大会で山形から帰るとき乗ったきりで、縁がなかった。車窓は、あいにくの空模様。仙台、盛岡を過ぎても、雨。緑の田園が延々とつづく。車内は満席。新幹線は、西の方は、ヒロシマの先まで年、何回も往復している。それで慣れもあるが、乗客の顔ぶれが、西と違う気がした。青森の八戸が終点。3時間余りでついた。ビール中缶を呑んで、駅弁食べて、うとうとしたら着いてしまった。固定観念から、本州の最北端の県ということで、相当に遠いところのように思っていたので、意外だった。(私の故郷、信州伊那谷に行くよりはるかに近い)もっとも、目的の奥入瀬は、内陸にバスで2時間近くらしい。八戸駅は、新しくきれいだが、新幹線の駅はどこも同じ。人はまばら、重くたれこめた空のせいもあってやはり「遠くにきたもんだ」の心細さ。西口駅前は閑散。この先、どうすればとホテルに電話すると、迎えのバスが行っているとのこと。見ると向こうに大型バスが停まっている。運転手の名簿に名前を確かめほっとする。乗客は18名。はじめての土地なので、しばらくは車窓をながめるが、本州最北といっても、埼玉の田舎と変わらぬ田園風景。すぐにあきた。ホテル専用バスなので、最短コースを走っているのか、バスは、町を通らず、ひたすらあぜ道や山道をぶっ飛ばす。ほとんど人は見かけない。やはり東北は人口密度が薄い。眠くなったころ、ホテルに着いた。結局は、自宅をでてから6時間が経過していた。山小屋風のホテルは、わりと大きな建物だった。ハングル文字の案内が、そこかしこに見かける。韓国からの客が多いということか。ロビーはウイークデーとあって客数は少なかった。大広間に、巨大なモニュメントがぶら下がっていた。大樹のまわりに妖精が飛んでいるもので2階、3階から吹き抜け。宿の人が岡本太郎の作品「河神」と説明してくれた。このホテルの自慢らしい。パンフレッドにも紹介されていた。何年か前、信州の大町にヘンリー・ミラー館があって驚いたことを思いだした。部屋は、4階、窓外は奥入瀬渓流が流れている。後で知ったのだが渓流が見える部屋は1500円高いのだ。小雨だが、山奥では大雨か、濁流である。雨で洗われた山の緑が濃くて眺めはよい。散歩道もあるということだが、雨では、仕方ない。夕食までゆったり風呂、夜は北京五輪のソフト野球観戦しているうちに眠ってしまった。
 朝食の後、ホテルで周辺遊歩道ガイドマップをもらい、奥入瀬渓流遊歩道を歩くことに。十和田湖まで14.2kmとのこと。天気は、うす曇時々晴れのハイキング日和。昨日は濁っていた渓流も、透明度を増していた。三分の一ほど途中までバス。渓流沿いの遊歩道を歩いた。観光客はまばら。ほとんどが中年夫婦。やはり考えるのは、この年になるとだれも同じらしい。いくつかの滝をみながら上がっていった。3時間ほど歩いて水門。いきなり十和田湖にでた。諏訪湖の印象もあって国立公園というからもっと賑やかで騒々しい。そのように思っていたら。湖畔には、数人の観光客を見るだけ。まさに山の湖。一軒だけの土産物店は閑散としはていた。それでも遊覧船は30分ごとに発着している。店で焼ききりたんぽを食べて乗船。50分の船旅。十和田湖は青森、秋田の県境にあるとのこと。水清し、山の緑濃し、自然のままの湖。そんな印象だった。下船した休屋は、一番の観光地・・・のはず。が、早くも閑古鳥。土産店には冬対策か板が打たれていた。八戸行きの大型バスに乗る。客は私たちを入れて男女の3組だけ。のんびり路線バスの旅となった。松並木がきれいだった。
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映画鑑賞・裁判観察
『12人の怒れる男』を観る
 陪審員映画の傑作『12人の怒れる男』がリメイクされたというので、どんなものかと興味を抱いていたら、銀座の映画館で上映はじめたと知った。名作をリメイクした映画は、これまで、いくつも観たが、ほとんどが駄作の域をでなかった。目も当てられないものが多かった。監督は二キータ・ミハルコフ(1945-)、現代ロシアを代表する映画監督である。
 この監督の代表作品は、次の3作品をあげることができる。
・1987年『黒い瞳』カンヌ国際映画祭主演男優賞マルチェロ・マストロヤンニ
・1991年『ウルガ』ヴェネッィア国際映画祭金獅子賞
・1994年『太陽に灼かれて』カンヌ映画祭最高賞グランプリ、アカデミー賞外国語映画賞
ニキータ・ミハルコフ監督作『12人の怒れる男』
 この作品は、第64回ヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門に出品され、特別銀獅子賞(生涯功労賞)を受賞した。また、第80回アカデミー賞では外国語映画賞にノミネートされた。
 物語は、(義父)殺人を犯した少年を12人の陪審員が裁く。有罪は、決定的と思われた事件だが、陪審員の1人が無罪を主張したことから、11人一人ひとりの意識が無罪方向に変化していく。内容は、ほぼオリジナルと同じだが、監督がロシア人、舞台がロシアということで、少年をチェチェン紛争の孤児にするなど現代ロシア事情を背景にしている。
【感想】
 『魔笛』もそうだったが、新聞評でみた話題の映画を観に行くと、たいていは閑古鳥が鳴いている。が、全席指定のこの映画は、ほぼ満席だった。銀座という場所もあるのだろうが、なによりもオリジナルの『12人の怒れる男』が、あまりにも名作ということもある。舞台が、法廷のみというこの作品は、「物語は脚本が面白ければ場所など関係ない」と言わしめた。そして、それが的確であると思わせるほどの傑作だけにニキータ監督の手腕が見ものだった。この監督のチェーホフの短編を巧みに織り込んだ『黒い瞳』、スターリン時代の暗黒を描いた『太陽に…』などはよかった。が、この『12人』は、エンターテイメントにつくり過ぎたきらいもある。ゲリラとの戦闘シーン。ラストの人間の腕を咥えた犬。法廷ものからはみ出したところが気になった。やはり、オリジナルの壁は高い。
■ちなみにオリジナルの『12人の怒れる男』は、元々はテレビドラマの「法廷もの」を劇場映画にリメイクしたもの。1957年にアメリカで公開され、同年第7回ベルリン国際映画祭で金熊賞・国際カトリック事務局賞を受賞。
・監督は、シドニー・ルメット   ・脚本は、レジナルド・ローズ
日本公開は、1958年。
 父親殺しの罪に問われた少年の裁判で、陪審員が評決に達するまで一室で議論する様子を描く(評決は全陪審員一致である事を要する)。当初法廷に提出された証拠や証言は被告である少年に圧倒的に不利なものであり、陪審員の大半は少年の有罪を確信していたが、ヘンリー・フォンダが演じる主人公(8番陪審員)が、証拠の疑わしい点を一つ一つ調べていくことを主張したことによって、懐疑的だった彼らの心にも徐々にある変化がおとずれる。
 一人ひとりの考えが変わっていくところが見もの。
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参考資料
 いよいよ来年2009年5月21日(平成20年)から裁判員制度が施行される。これにより同年7月以降から実際に一般市民が裁判に参加することになる。「裁判院制度とは何か」を知りたい人はHPにあったWiKiPediaを以下に転載したので読んでください。
 裁判員制度は、市民(衆議院議員選挙の有権者)から無作為に選ばれた裁判員が裁判官とともに裁判を行う制度で、国民の司法参加により市民が持つ日常感覚や常識といったものを裁判に反映するとともに、司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上を図ることが目的とされている。裁判員制度が適用される事件は地方裁判所で行われる刑事裁判のうち、殺人罪、傷害致死罪、強盗致死傷罪、現住建造物等放火罪、身代金目的誘拐罪など、一定の重大な犯罪についての裁判である。例外として、「裁判員や親族に危害が加えられるおそれがあり、裁判員の関与が困難な事件」は裁判官のみで審理・裁判する(法3条)。被告人に拒否権はない。裁判は、原則として裁判員6名、裁判官3名の合議体で行われ、被告人が事実関係を争わない事件については、裁判員4名、裁判官1名で審理することが可能な制度となっている(法2条2項、3項)。裁判員は審理に参加して、裁判官とともに、証拠調べを行い、有罪か無罪かの判断と、有罪の場合の量刑の判断を行うが、法律の解釈についての判断や訴訟手続についての判断など、法律に関する専門知識が必要な事項については裁判官が担当する(法6条)。裁判員は、証人や被告人に質問することができる。有罪判決をするために必要な要件が満たされていると判断するには、合議体の過半数の賛成が必要で、裁判員と裁判官のそれぞれ1名は賛成しなければならない(一部立証責任が被告人に転換されている要件が満たされていると判断するためには、無罪判決をするために合議体の過半数の賛成が必要で、裁判員と裁判官のそれぞれ1名は賛成しなければならない)。以上の条件が満たされない場合は、評決が成立しない(有罪か無罪かの評決が成立しない場合には、被告人の利益に無罪判決をせざるを得ないと法務省は主張しているが、法令解釈権を持つ裁判所の裁判例、判例はまだ出ていない)。なお、連続殺人事件のように多数の事件があって、審理に長期間を要すると考えられる事件においては、複数の合議体を設けて、特定の事件について犯罪が成立するかどうか審理する合議体(複数の場合もあり)と、これらの合議体における結果および自らが担当した事件に対する犯罪の成否の結果に基づいて有罪と認められる場合には量刑を決定する合議体を設けて審理する方式も導入される予定である(部分判決制度)。裁判員制度導入によって、国民の量刑感覚が反映されるなどの効果が期待されるといわれている一方、国民に参加が強制される、国民の量刑感覚に従えば量刑がいわゆる量刑相場を超えて拡散する、公判前整理手続によって争点や証拠が予め絞られるため、現行の裁判官のみによる裁判と同様に徹底審理による真相解明や犯行の動機や経緯にまで立ち至った解明が難しくなるといった問題点が指摘されている。裁判員の負担を軽減するため、事実認定と量刑判断を分離すべきという意見もある。
 最高裁によると、全国の裁判員裁判対象事件は2004年の3791件から減少傾向にある。都道府県別で昨年、対象事件が最も多かったのは①大阪306件、②東京255件、③千葉214件の順。最も少なかったのは福井県の7件。罪名別では、①強盗致死傷695件、②殺人556件、現在建造物など放火286件、強姦致死傷218現在と続いた。(新聞8・5)
選ばれる確率は4911人に1人(全国平均)
 
テキスト
■「単純な、しかし、厄介な事件」(ドストエフスキー全集『作家の日記』上巻)は、完全有罪が無罪に覆った判決裁判の見本。
■『范の犯罪』志賀直哉 心の犯罪をどう裁くか。
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テキスト読み・裁判観察
志賀直哉『范の犯罪』について
 この作品は、大正2年(1913)10月1日発行の『白樺』第4巻第10号に発表された。末尾に9月24日の執筆月日が記入されている。
ドキュメント創作『范の犯罪』いずれも大正2年(1913年)の日記から
・8月 7日 晩、「徒弟の死」を書きかけてみる。
・9月 1日 「支那人の殺人」を書いた。
・9月 9日 12時まで支那人の殺人を書き直してねた。ウナサレなかった。
・9月13日 どうしても『范の犯罪』に手がつかぬ。
・9月14日 帰宅後『范の犯罪』を書きあげた。疲労しきった。
・9月24日 『范の犯罪』を後半を殆ど書いた。不快から来た興奮と、前晩3時間位しか
       ねなかった疲労が、それを助けて書き上げさした。三秀社へ持って行った。 
【創作余談】
 支那人の奇術で、此の小説に書いたようなものがあるが、あれで若し一人が一人を殺した場合、過失か故意か分からなくなるだろうと考えたのが想いつきの一つ。所がそんなことを考えて間もなく、私の近い従弟で、あの小説にあるような夫婦関係から自殺してしまった男あった。私は少し憤慨した心持で、どうしても二人が両立しない場合には自分が死ぬより女を殺す方がましだったというようなことを考えた。気持の上で負けて自分を殺してしまった善良な性質の従弟が歯がゆかった。
 そしてそれに支那人の奇術をつけて書いたのが『范の犯罪』である。(岩波全集)
 この作品は、自殺した近い従弟のことを思いながら書いたとあります。ということは、私情が大分入っているわけです。となると、裁判官、つまり作者の結審は決して公明正大なものとはいえません。あなたの判決は、何でしょう。どちらかを選択ください。
私の判決は「無罪」OR「有罪」です!
「有罪」なら「無罪」なら、それは、なぜですか?下記にて2点以上を説明してください。
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ゼミ誌について
ゼミ雑誌発行12月15日を目指して
 ゼミの実質的成果は、決められた期日までのゼミ雑誌発行にあります。毎年、納品日の遅れが指摘されています。一年間の大切な成果なので、しっかり守って、よい雑誌をつくりましょう。本ゼミは、二人編集長と一人副編集長に四人の編集委員が、アシスト、全員が協力します。ゼミ誌は自分の作品でもあるので、全員一丸となって当たりましょう。
ゼミ誌原稿について
 ゼミ誌原稿は、そのために書くというより、日々の授業のなかで育てることをすすめます。締め切り前あわてて書くより、発表した観察作品を草稿として完成品に高めるよう創意工夫してみてください。合評したとき、皆の印象や意見を参考に。
・編集委員長=川端里佳 大野菜摘
・編集副委員長=小黒貴之
・編集委員=阪本義明 橋本祥大 飯島優季 瀧澤亮佑 
・補助委員=本名友子 長沼知子 大谷理恵 野島 龍 田山千夏子 臼杵友之 
      秋山有香 神田泰佑 刀祢平知也
ゼミ誌作成の進行状況と予定は以下の通りです
○決定事項 6月9日報告 → 印刷会社、フジワラ印刷(株)決定             
      6月16日 テーマ決め → 「空」内定
      ゼミ誌表紙デザイン、奥付など → 小黒、田山が担当
      原稿締め切り → 夏休み明け
      タイトル決め → 7月14日に決定「ドレミファそらシド」
               
1. 6月中旬 → ①「ゼミ誌発行申請書」の提出。出版編集室に
2. 6月~  → ゼミ雑誌の装丁を話し合う。表紙デザインなど
3. 7月下旬 → 原稿依頼し、締め切り日、夏休み明け9月22日(月)。
4. 9月22日  → 編集委員にゼミ誌原稿を提出。
5. 10月上旬 → 編集委員は、内定の印刷会社から②「見積書」をもらう。
6. ~11月 → 「見積書」の提出。印刷会社と相談しながらゼミ雑誌作成。
7. 12月 → 15日までにゼミ誌提出、③「請求書」提出
注意事項!!
◎ ①【ゼミ誌発行申請書】、②【見積書】、③【請求書】以上3種類の書類が提出されない
  場合はゼミ誌の発行はできません。補助金の支払いも認められません。
――――――――――――――――――― 11 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.109
テキストについて
ゼミで予定している志賀直哉の観察作品の主なものは以下の通りです。
【車内観察】
□読み・感想が完了=『網走まで』、『出来事』、『正義派』、『夫婦』
□まだ読んでいない作品=『鳥取』、『灰色の月』
※このなかで『網走まで』、『灰色の月』を重点的にとりあげます。
【生き物の観察】
□読み・感想が完了=『菜の花と小娘』、『城の崎にて』
□まだ読んでいない作品=『濠端の住まい』、『蜻蛉』、『犬』、『雪の遠足』、『池の緑』
 『日曜日』、『クマ』、『虫と鳥』、『馬と木賊』、『兎』、『玄人素人』、『猫』、『蝦蟇と山棟蛇』
 『子雀』、『山鳩』、『目白と鵜と蝙蝠』『朝顔』、『鵜の子』、『雀の話』
※このなかで『菜の花と小娘』、『城の崎にて』、『濠端の住まい』、『蝦蟇と山棟蛇』などを
【普通の一日を記憶する】
□読み・感想が完了=『或る朝』
□まだの作品=『母の死と新しい母』、『母の死と足袋の記憶』
※ このなかで『或る朝』、『母の死と足袋の記憶』
【犯罪心理を観察する】
□とりあげてみたい作品=『兒を盗む話』、『范の犯罪』
演劇
劇団ZAPPA十周年記念作品
第12回公演「花 hana」
幕末エンターテイメント
2008年9月18日(木) ~ 28日(日)
東京芸術劇場小ホール1(池袋西口)
23日 → 14時~、19時~  24日 → 14時~、19時~
25日 → 19時~       26日 → 14日~、19時~
27日 → 14日~、19時~  28日 → 12時30分~ 17時~
チケットは要予約で
劇団ZAPPAホームページ http://zappa-zappa.com
電話080-3129-4930(劇団ZAPPA事務所)
当日券 → 公演当日まで
    
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.109―――――――12 ―――――――――――――――――     
      
掲示板
提出原稿について
○ 車内観察 → 電車の車内で観察したこと(創作・事実どちらでも)
○ 1日の記録 → 自分の1日を観察する(自分のことをどれだけ晒せるか)
○ 社会観察 → 社会の出来事を観察、自分の意見もいれてみる
○ 生き物観察 → 人間、動物、草木、生あるものすべての観察(宇宙人の目で)
 締め切りはありません。書けた人は、どんどん提出し、皆の評価をみてみましょう。何事も切磋琢磨です。
ゼミ誌・課題・その他+提出原稿(2×)+出席(1×)=評価(60~120)
ドストエフスキー情報
9月27日(土) : ドストエーフスキイの会例会 会場は千駄ヶ谷区民会館
           午後6時から「ドストエフスキーとヴェイュ」萩原俊治氏 
10月11日(土) : ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」『未成年』
                会場は東京芸術劇場第1会議室 午後2時から
12月20日(土) : 同全作品読む会「読書会」、講演・講師は高橋誠一郎氏
           会場は東京芸術劇場第1会議室 午後2時から
出版
 ☆復刻版・岩波写真文庫『農村の婦人』6月25日発売「ひとくちばなし」下原
☆新刊・熊谷元一白寿記念写真集『信州 昭和の原風景』一草舎2200円
★旧刊・下原敏彦著『伊那谷少年記』鳥影社「昭和30年の原風景」
 理論社 2008・3・21 定価1200
★文・藤井誠二 マンガ・武富健治『「悪いこと」したらどうなるの?』
  ★山下聖美『国文学4』「ケータイ小説 クリエイターの卵たちはどう読むか」
★福井勝也著『日本近代文学の〈終焉〉とドストエフスキー』のべる出版企画 2008
★芦川進一著『「罪と罰」における復活』河合文化研究所・河合出版2007
★清水 正著『ドストエフスキー論全集1』D文学研究会2007
★下原敏彦著『ドストエフスキーを読みながら』鳥影社2006 2月点字図書
★國文学別冊『ギャンブル』下原敏彦・文「ドストエフスキーとギャンブル」
                                  
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編集室便り
☆「2008年、読書と創作の旅」内容は、本通信に掲載します。
☆ 原稿、歓迎します。学校で直接手渡すか、下記の郵便住所かメール先に送ってください。
 「下原ゼミ通信」編集室宛
  住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
☆本通信はHP「土壌館創作道場」に掲載されています。
JUDO・柔道観察
JUDOと柔道について
 第29回北京オリンピックの柔道の話題は、金メダルの石井選手(21)・国士館大のユニークさもあったが、テレビ放映や雑誌・新聞などは、JUDOになった柔道の話が多かった。そして、そのほとんどがJUDOになってしまったことへの不満と批判だった。不満の内容は、総じて「ポイントをとるためだけに終始している」。相次ぐルール改正で「一本をとる柔道がみられなくなった」というものだ。日本のお家芸、伝統文化の存続の危機。こんな言葉をよく耳にした。こんな見出しを目にした。
 柔道が、JUDOと呼ばれるようになって久しい。が、当初は、どちらかといえば国際的になったことへの自賛的意識からだったようなところもある。日本で生まれたものが世界に広がる。日本人としては誇らしい思いである。日本文化を代表するカラオケや回転寿司も、いまや世界のカラオケ、回転寿司である。こちらは、喜ばしい限りである。が、柔道の国際化へのひろがりは、柔道家たちを困惑させた。ルールや試合方法が変わっていったのだ。そして、それは日本柔道に変化を強いるものでもあった。柔道の進歩と発展は、日本柔道・講道館柔道を窮地に立たせた。十数年前カラー柔道着導入問題が起きたころから、日本柔道界には、暗雲がたれこめてきた。そして、先に開催された第29回北京オリンピックは、
 
 
土壌館創作道場・青春回顧観察
汐留青春グラフィティ

もう10年近くも前になるが晩秋のある日、私はこんな新聞記事を読んだ。
――鉄道発祥の地、東京都港区の汐留貨物駅跡地、その再開発地区「汐留シオサイト」の玄関となる都営地下鉄大江戸線と新交通ゆりかもめの汐留駅が二日、開業した。――(朝日)
「【汐留再開発】東京・新橋と銀座に隣接する、旧国鉄の貨物跡地と周辺一帯(約三十一ヘクタール)を、東京都が95年から1463億円をかけて基盤整備を進めた。民間投資は四千億円強、全体で一兆一千億円の経済効果を生むと見られており、首都圏で最大級の事業規模。高級マンションや大企業の本社など、10棟を越す超高層ビルが05年までに次々と立ち上がる。全体の完成は06年で、就業人口六万一千人、居住人口六千人の街になる。」
はたして6年後、この地は、あの新聞記事通りの街になった。この地に移った民放テレビ局の朝の番組からそれとわかる。スタジオのガラスに映る並木や瀟洒なビル群。新しい都会の顔がそこにある。だが、「汐留」という地名を聞くたびに私の脳裏に浮かぶのは、だだっ広い操作場と日本全国から入ってくる貨物列車。ごった返す鉄道荷物の山。飛び交う怒鳴り声と鳴り響く発着のベルの喧騒。都会の只中とは思えぬ静寂。そして、なによりもそこでであった人々。40年前の貨物駅。そこには多くの青春があった。いろんな連中がいた。いま、不意に、あのときの日々がよみがえった。彼らのことが思い出された。私が、その貨物駅に行ったのは、まったくの偶然だった。
秋の終りだった。その日、私は日比谷公園で行われた「ベトナム戦争反対」集会に参加した。当初は、集会の後、銀座周辺をデモ行進するだけの予定だった。が、過激派が大挙して押し寄せ、集会は大荒れとなった。機動隊と小競り合いがはじまり、最後には石や火炎ビン、催涙弾が飛び交う応戦状態となった。大勢の逮捕者がでた。私は、やっとのことで警察の包囲網を潜り抜けヤジウマにまぎれて、神田にある友人の下宿に逃げ込んだ。友人はノンポリだったが、苦笑いして部屋に入れてくれた。その夜、二人でウイスキイーの角ビン一本空けた。翌日、昼に目を覚ました私は二日酔いで割れんばかりの頭を押さえて荻窪にある自分の下宿の大家に電話した。仲間から連絡が入っているか知りたかった。
「Kちゃん、あんた、いまどこにいるの」いきなり大家の女将さんの金切り声が鼓膜に響き渡った。「警察の人がきたわよ。聞きたいことがあるからって。帰ってきたら電話くれって名刺、置いてったから、早くしないと」
大家の女将さんは、興奮気味にまくしたてた。刑事が二人訪ねてきたことが、よほどショックだったらしい。彼女は、私が学生運動に参加していることをうすうす知っていた。それだけに過敏な反応をみせた。私も警察と聞いて、ひどく慌ててしまった。「なぜ幹部でもない私に・・」そんな疑問はあった。が、他方では、はじめての警察訪問にすっかり舞いあがってしまっていた。郷里の両親に知れたらマズイという思いとこれで運動家として一人前になれる。そんな思いが交差した。さっそく幹部に電話すると、「しばらく地下にもぐれ」の指示だった。私の投げた石が誰かに当り大ケガをさせ、そこを写真に撮られたかも知れないというのだ。そんなわけで私は一時的に身を隠すことにした。私はいっぱしの逃亡者になったつもりで、そのまま学校と下宿から姿を消した。
私が潜伏場所として選んだのは、都会のど真ん中にある貨物駅だった。駅で拾ったスポーツ紙で見つけた。「急募!貨物駅作業員。八時~十八時三千五百円、二十四時間勤務六千円」私は、その足で貨物駅に向かった。そこは、身を隠すのに絶好な場所だった。仮眠ベットもあれば、食堂も風呂もある。門を一歩外にでれば、大都会の街角だったが、中にいれば、人知れず生活することができた。おまけにお金ももらえて。まさに一石三鳥、これ以上の隠れ家はあるだろうか。怪しまれたりしないだろうか。そんな心配があったが、まったくの杞憂
だった。冬を迎える貨物駅は、大忙しだった。連日連夜、荷物を満載した貨車が到着し発
車していて、積み替え作業に猫の手も借りたいほどだった。二十四時間勤務希望の私は歓迎され、即、ハンコ一つで採用してもらえた。
「学生さんはデモばっかしやつてて、きてくれないからなあ、助かるよ」そう言って事務員の男性は当然のように言ったものだ。「いまから働いてもらえるだろ」
私は、差し出された41番の名札と手カギを受け取って荷物会社の職員に案内されて貨物駅構内に出ていった。その日から貨物駅で働くことになった。

構内は騒然としていた。三十五列車の発車時間が迫っていた。大小さまざまな鉄道荷物がごった返す積み荷ホームに、けたたましくベルが鳴り響き、怒鳴り声が飛び交った。
山陽本線方面の貨車の前には、小郡、防府、尾道と表示された荷物がまだ山積みにされていた。私は、手当たりしだい手カギに引っ掛け貨車の中にポンポン投げ込んだ。【横倒し厳禁】や【割れ物注意】の荷物もあったが、選別する余裕はなかった。
「おーい、早くしろ!」
「早くしろ!」
荷物会社の職員が、走りまわって大声でせかしまくった。
 三十九番の家出君は、最後の荷物を両手で持ち上げると
「これで、おしまあい!」
叫んで、思いっきりデッキの奥に投げ込んだ。
荷物は、白地にUSAと印された岩国米軍基地行きのサンドバックのような兵隊袋で、毎朝きまって一個小隊分ほどあった。何が入っているのか、かなり重かった。
 はじめのうち、このアメリカ兵の荷物を積みこむたびに緊張した。ベトナム戦争反対のデモ活動しているものが、先棒を担いでいるようで、妙な気持ちだった。が、いまでは積みやすい荷物の一つでしかなかった。
「オーライ!」「オーライ!」「オーライ!」
積み荷作業終了を確認する合図が最後尾の車両方向から、連呼して聞こえてきた。
「オーライ!」
家出君は、大声で前の車両に手を振った。
合図の声は、またたくまに最前部の車両まで伝わった。そのとたん
「発車するぞ!さがれ!さがれ!」
の叫びが返ってきた。
蒸気が白煙となってたちこめる中で紺服の機関士は赤い小旗を打ち振って怒鳴つた。
「おーい、発車するぞ!」
 突如、警笛がピィーと鳴り渡って喧騒を引き裂いた。つづいて荷物を満載した貨物列車はレールをきしませながらゆっくり動きだした。連結器のかみ合う鈍い金属音が玉突きのような連続音を響かせていった。ガシャン、ガシャン、ガシャン。重量感あふれるその響きは、凍てついた朝の空気を震えさせながらしだいに間隔を早めていく。積み荷班の連中は、ぼう然と佇んでいた。だれもかれもまるで湯上りのように体から湯気立ち上らせていた。
 誰もが汗だくだった。が、一仕事を終えた爽快感があった。作業員たちは、目の前を過ぎて行く貨物列車を見送った。ワム15829、ワラ39764、ワム1759――貨車にかかれた数時は、すぐに読み取れなくなった。十余輌編成の長い貨物列車は、さらに速度をまして、操車場のはるか前方にあるトンネルの中に吸いこまれるように消えていった。最後尾の車両が完全に見えなると、途端、構内から轟音が消えた。すべての動力エンジンが切られ、構内はまるで時間が停止したような静寂に押し包まれた。
「おーい、一服だあー」
静まり返ったホームに鬼班長の甲高い声が響いた。
鬼班長は、元、といっても二十何年か前のはなしだが、職業軍人だったと自慢するだけあって痩せて筋ばった老体ながら、その声はよく通った。皆は軍曹と呼ばっていた。
 班長の声を合図に、棒立ちに佇んでいた積み荷班の連中は、魔法が解かれたかのように一斉にホーム先端に向かって歩き出した。
「行きますか」
家出君は、なまりのある言葉で、まだ放心状態で立っている二十五番のギャンブラーに声をかけた。「おじさん、行きます」
「やれやれ、やっと休めるか」ギャンブラーは、ハンカチで禿げあがった額の汗を拭きながらため息まじりに愚痴った。「今朝は、やけにあったねえ」
「二百トン。今日は」
「ええっ、冗談でしょう」
「見てきたんです。事務所で」家出君は、笑いながら言った。彼は父親ほど年齢差がありそうなギャンブラーと気があって、からかい半分で話していた。「いまの列車なんか軽いです」
「ほんとかい、だったら休めばよかった。ああ、ついてない」
ギャンブラーは、真顔でがっくり肩を落とした。
ギャンブラーは、四十歳ぐらいで、まだそんな歳でもないのに、髪の毛はかなり薄くおまけに白いものが混じっていた。貨物駅に臨時雇用でくる人は、なかなか自分のことは話さなかったが、ギャンブラーは、こだわらない性格か、なんでも話した。昨年の秋に勤めていた印刷会社が倒産して、一時しのぎに日勤するようになったこと。家は横須賀の方にあって家族は奥さんと小学生の子供が二人いることなどあっさりと他人事のように話した。ときおり「早く、職をみつけなきゃあな」と、焦燥気味につぶやいて、皆の笑いをとっていた。まったくだらしないおじさんギャンブラーだが、映画については博学だった。
休憩時間、映画の話になると昔の映画名をあげては、さも自分が監督したような口ぶりで、解説した。ただ鉄骨が組んであるだけの殺風景の貨物駅の高い天井を見上げて
「ここの、貨物駅、好きなんだ。この景色がねパリやローマの駅に似ているんだよ」
と、さも行ってみてきたようなことを言った。
いつもは口数の少ない松宮さんだったが、こと映画に関しては饒舌で自信にあふれていた。しかし、その映画への情熱が、どこでギャンブルにすりかわってしまったのか、いまの松宮さんは、かなりの競馬狂だった。近ごろの競馬は猫も杓子も手を出すようになってつまらん、とぼやきながらも暇さえあればズボンの裏ポケットにねじこんでいる競馬新聞をひろげて熱心に見入っていた。若い三十九番がのぞきこむと
自嘲気味に笑って
「こんなものやらんほうがいいよ。おじさんみたいになっちゃうから」
と、言っていた。
 三十九番君は、十九歳と話していたが、まだ高校生のようにみえた。言葉づかいも地方から東京にきて日も浅い、そんな感じがした。だが、そのことをたずねたことはない。自分から話すのなら別だけれど、ここで他人のことなど、誰も興味がなかったし、抱いても質問しないのが常識だった。私にとってはまさに最高の隠れ家だった。
だがしかし例外もあった。奇声をあげながら追いついてきた三人組は、ここですっかり意気投合し、仲良しになっていた。作業は、たいてい三人でやっていた。
「はーい、お先に」
三人組の一人、二十七番の団が笑顔をふりまいて追い抜いた。
――――――――――――――――――― 13 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.109
彼は、小さな劇団の役者だといっていた。いつもボサボサの髪に赤タオルで鉢巻していた。小太りで、愛嬌があった。つづいて小柄な高槻がシャドウボクシングしながら。そして、そのあとは、曼陀羅模様の布切れをヘアーバンドにしたヒゲの磯村が鼻歌まじりに「やあ」と一声かけて行った。三人とも二十代後半といったところだった。
「相変わらず、仲がいいね、あの三人」松宮さんは言った。「もとからじゃなくて、ここで知り合ったっていってたよね」
「そうみたいですね」
私は、軽く頷いた。
「ともだちができるっていいですね」
三十九番君は、羨ましそうにぽっつりつぶやいた。
「でも、結局は一人になっちまうよ」松宮さんは、寂しそうに笑って言った。「この年になるとね」
  

休憩場所は、引き込み線ホームの最先端にあった。休憩場所といっても粗末なベンチが二つと石油缶を半分にした吸殻入れが一つ置いてあるだけの吹きっさらしだった。が、天気がよければ日なたぼっこに最適の場所だった。風が強い日や寒い日は、タバコを吸う人だけが集るだけで、吸わない人は空貨車の中か、荷物の間で休んだ。晴天で風もない今朝は、積み荷班も積み下ろし班もみんなぞろぞろ集ってきた。南条班長と、職員、それに古参の季節のおっちゃんたちがベンチを陣取ると、その回りに若い職員や、臨職のおっちゃん連が腰をおろした。みんな一斉にタバコを吸うので、ものすごい煙りがたちこめた。
「おれ、下に行きます」 
正雄は、二人に言って線路に飛び降りた。
広い操車場のうえには、抜けるような青空がひろがっていた。遠くの塀の隙間から新幹線の白い車体が音も走っていくのが見えたが、とてもここが都会のど真ん中とは思えなかった。ラッシュアワーの時間なのに、静寂そのものだった。
「ぼくはここにするよ」
ホームの上から松宮さんが言った。
彼は、日当たりのよい柱にもたれて座って、さっそく競馬新聞をひろげていた。大学生だという四十一番さんは、正雄にちらっと手をあげたあと、ホームの先端に行って青空に向かっての背のびをした。そのあと、段ボール箱を並べてその上に寝転んだ。
正雄は、ホームの下から板切れを探しだしてレールに渡した。腰をおろすと、ようやくほっとした気持ちになった。霜が朝日を浴びてキラキラ光っていた。その光りは郷里の吊り橋の欄干の上に降り積もった霜を思い出させた。学校に行く朝、霜を人差し指でこすった。霜の粒子が空中に弾け飛んでいくのが面白かった。なつかしい気持ちになってレールの霜をさっとこすったが、霜は、もう溶けかかっていて、濡れただけだった。正雄は、冷たくなった指先を頬に押し当て温めながらホームに目をやった。
 忙中閑あり。ホームでは皆、思い思いに休んでいた。元気者の仲良し三人組は団と磯村が、喫煙組の仲間入りしてタバコをふかしていた。高槻は、一人離れたところであきもせず、シャドウボクシングをつづけていた。上体をくねらせながらのフットワークが軽快だ。本当にボクシングを習ったことがあるらしい。大男の小林は柱にもたれてうつらうつらしながらも、ときどき大あくびしていた。彼は、いつも浅黒い顔をニタニタさせて、ひとり言を言っているので、薄気味悪かった。平田は、空台車の上でぼんやりしていた。彼も、たいてい一人でいた。口数が少なく、誰かと会話しているのを見たことがなかった。それで、本当かどうかはわからなかったが、彼は現役のプロ野球選手だという噂があった。プロ野球通の高槻は真
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.109―――――――14 ―――――――――――――――――
顔でみんなに
「大洋のリリーフ投手だよ。ちょっと前まではワンちゃんキラーで有名だった。ほんとだよ」
 と、説明していた。が、団と磯村は
「だったら一軍の選手だぜ、そんなのがくるかよ。こんなとこに」
と、てんで相手にしなかった。
正雄も信じられなかった。どう見たって平田は失業中のおとなしい青年にしか見えなかった。たまに風呂場で一緒になるが、体格は、野球部の連中の方がよかった。
 自称フリーのカメラマンで株の相場師というという早川は、布団袋をベットがわりに寝転んで、週刊誌を読んでいた。ウソか、ほんとか、彼はここには痩せるために働きにきていると自慢していた。そのことを証明するような小太りの体で、上下揃いのジーンズがはちきれそうだった。彼は、いつも冗談をとばす陽気な性格だった。血色のよいてかてかした顔と、糸くずのようにちじれさせている長髪は、自称三十三という年齢より若く見えた。荷物の多い日は、彼は荷物の山を前に
「これで、痩せられるぞ」
と大張りきりするのだが、なぜかそんな日に限って、トイレにちょくちょく行った。
 ど近眼の畑野は、鉄柱に背をもたせて居眠りしていた。本人は自分のことを受験生だといっていたが、だれも信用していなかった。青白くむくんだ顔はどう見ても二十歳過ぎだったし、それに第一この季節、ここにいるのも変だった。
「だれも本気になんかしちゃあいないさ。グズラが大学を受けるなんて」
高槻は、笑って皆に話していた。
三人組は、畑野にグズラとあだ名をつけて呼んでいた。畑野は、一応受験生というだけあって、ホームの柱に英和辞典を置いていて、休憩時間には、ひろげてながめていた。今朝はよほど疲れたのか、手にしていなかった。ボサボサ髪の頭がガクンとなるたびに度の強い眼鏡の光がキラリと流れた。
 突如、爆笑が起こった。見ると、南条班長が大口を開けて笑っていた。季節のおっちゃんたちもニヤついている。猥談をしているのは想像ついた。朝、栃木や茨城から出勤してくる季節のおっちゃんたちが、よく電車の中の痴漢話しをしているからだ。
 いつも憔悴しきった顔の倉持社長も、皆より一テンポ遅れでニヤついていた。倉持社長は、下町で工場を経営しているとかいう人で、それで社長と呼ばれていた。ベンチ周辺にいる人間で一人だけ笑っていない者がいた。パチキチの須藤だった。彼は、話の輪には入らず、一人きょろきょろしていた。たぶん誰かにタバコをもらおうとしているのだろう。彼は、だれかれとなく借金を申し込むことで有名だった。はじめ三百円、貸してほしいと頼む。断わられると二百円、百円と落として、最後には、十円でもいいからというのだ。松宮さんは、二百円貸したが、なかなか返さないとボヤいていた。
 貨物駅には、いろんな人たちが働いていた。国鉄職員、荷物会社職員、荷物会社に雇われた季節のおっちゃんと臨時雇用の人連中。それに郵便列車の職員。国鉄職員は、ここでは特権階級だった。制服も靴も、荷物会社の職員より立派なものだった。
 ホームをぼんやり眺めているうちに眠くなった。正雄はうつらうつらしながら明け方みた夢をおもいだしていた。
―――――――――――――――――――― 15 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.108
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.109―――――――16 ―――――――――――――――――
速報!第7回千葉県少年柔道大会 
 9月7日(日)千葉市武道館で開催された第7回千葉県少年柔道大会に出場した土壌館下原道場の団体、個人戦の試合結果は、以下の通りです。応援の保護者の皆様には酷暑のなかご苦労様でした。また、選手諸君は、試合において、日頃の練習の大切さがわかったと思います。次の試合を目標にいっそうの稽古に励んでください。
団体戦 2回戦進出!! 監督・代表 下原敏彦
      土壌館     ×     富田道場
先鋒 : 中澤紀和選手(2)×  ―  ○米田光矢選手(2)
次鋒 : 坂本遼季選手(3)○  ―  ×      (3)
中堅 : 辻元翔太選手(4)○  ―  ×      (4)
副将 :  (5)×  ―  ○青柳元気選手(5)
大将 : 小柏駿太選手(6)○  ―  ×松本拓海選手(6)
※小柏選手が1本勝ちした相手の大将は、身長163cm、体重76kの巨漢選手でした。
     土壌館      ×    武秀館小坂道場
先鋒 : 中澤紀和選手(2)○  ―  ×生井澤貴飛選手(2)
次鋒 : 坂本遼季選手(3)×  ―  ○井坂歩夢選手 (3)
中堅 : 辻元翔太選手(4)×  ―  ○鹿糖翔吾選手 (4)
副将 :  (5)×  ―  ○岡田裕弥選手 (5)
大将 : 小柏駿太選手(6)×  ―  ○渡辺 駿選手 (6)
※小学生で体重105k、95kの超重量級相手でしたが、よく戦いました。
個人戦
2学年 : 中澤紀和選手 2回戦進出 惜敗でした。背負いを。
3学年 : 坂本遼季選手 1回戦 よく頑張りました。背負いを練習。
4学年 : 辻元翔太選手 1回戦 頑張りました。積極的な技が。
4学年 : 三好弘将選手 1回戦 頑張りました。
6学年 : 小柏駿太選手 2回戦 惜敗でした。腰技をよく練習しよう。
       
6学年 : 柳下 誠選手 1回戦 頑張りました。
6学年 : 青柳尚慈選手 1回戦 よく頑張りました。
講評 試合前後の礼は、だいたいできていたと思います。試合は、決定的な技がでなかった。足技の他、背負いや腰を使った大技をしっかり練習しましょう。
審判・辻村英紀先生(第7会場担当)
  
後藤辰巳選手は、体調不良のため欠場しました。次期大会で頑張ってください。
SF 人間や宇宙の謎を空想で解明してみよう。
収穫
 時間と距離のある世界では、長い旅の終わりに、というべきか。私たちは、少しも苦にはならないが、物質的には、相当な時間と距離とを積み重ねて、ようやくに、この惑星に着いた。ここは、大銀河の辺境である。これより先は、何もない無である。この小天体は、その命である恒星は、まだ燃え尽きてはいなかったが、私たちの目的の惑星は終焉を迎えようとしていた。この小天体でただ一つ有機体が存在した星。何億年、孤独の中で生きてきた星。
日本大学番外地

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