文芸研究Ⅳ 下原ゼミ通信 No.44

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2020年(令和2年)10月27日発行

文芸研究Ⅳ下原ゼミ通信No.44

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
9/29 10/6 10/13 10/13 10/20 10/27 11/10 11/17 11/24 12/1 12/8 12/15 2021年 1/19 1/19 

2020年下原ゼミⅣ 観察と表現の旅

10・27ゼミⅣ

10・20ゼミ参加報告  

 参加の皆さん 西村美穂さん 中谷璃稀さん  吉田飛鳥さん  

この日、参加できなかった皆さんでした。

 志津木喜一さん  松野優作さん   佐俣彩美彩

10.20ゼミ授業報告

児童文学作品の試験問題観察

今年は、児童書がよく読まれているという。が、児童書とは何か。普通の文学作品として考察できるのか。子供時代の体験を書いた作品が、高校入試の国語問題として採用されたので、どの程度の問題になるか埼玉県立高校入試第二次入試試験問題を実施した。

脚本『獅子と白菊』口演

 前回につづいて、第四幕を口演

最近のニュース

ネグレクト虐待死 増加 朝日新聞 2020.10.24

コロナで家族の密着度が濃くなったせいか、虐待が多発している。という。
【新聞記事】
厚生労働省のまとめでは、2018年度に虐待死した子どもは73人(心中を含む)このうちネグレクトは前年比5人増で、初めて身体的虐待(23人)を上回り、内容別で最多だった。
18年度に全国の市町村職員が対応した児童虐待の疑いがある事案は12万6246件で、5年前の約1・6倍
本日のゼミⅣ授業

□児童文学作品の試験問題観察

  前々回と前回につづき児童作品のテスト化考察と実施。

・作品『ひがんさの山』を読む。
・6年生 Bコース 国語、「小説の読み方(3)」

□ドストエフスキー生誕200周年前夜祭を祝って『貧しき人々』に挑戦

2007年夏、下原ゼミは、例年通り、軽井沢でドストエフスキーマラソン朗読会を実施した。以下は、後日『江古田文学』に掲載した、ルポタージュである。

【時空体験ツアー出発前夜】

一、とにかく読んでみよう!
 
 二○○七年八月二十五日、土曜日の朝、NHKテレビは「おはよう日本」の番組のなかで「なぜ人気、ドストエフスキー」と題して現在のドストエフスキー事情をレポートした。ドストエフスキーをとりあげた動機については、HPでこのように説明していた。
百人に一人しか読破できないと言われるドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」。今、この「カラマーゾフの兄弟」が人気だ。言葉を平易に直すなどした新訳本(全5巻)が若者を中心に売り上げを伸ばし、既に25万部を記録。かつて読破を挫折した団塊の世代で再挑戦する人も多い。「金銭トラブル」「テロリズム」など、現代の問題が描かれていることもヒットの要因だという。なぜ今ドストエフスキーが人気なのか。その背景を探る。NHK
 確かに昨今、ドストエフスキー熱が高まっている。自然発生的か作為的か、メディアにおいての喧伝が目立つ。多くの関係書物が出版されたり、新たに新訳作品が刊行されたりしている。07年の六月に発行された『21世紀ドストエフスキーがやってくる』(集英社)は、まさにそのブームを象徴する一冊といえる。本書には、作家大江健三郎をはじめ、多くの著名人のドストエフスキーに寄せる思いや対談が掲載されている。NHKが着目したのは、こうした熱いドストエフスキー現象を受けてのことだった。
 番組では、新訳の翻訳者と出版社のコメント 。ドストエフスキーを愛読書とする若手の人気俳優と私たちがつづけている「ドストエーフスキイ全作品を読む会」読書会が紹介された。市民が読み続けている読書会の取材撮影は、八月十一日、東京芸術劇場小会議室で開催されたもの。一九七○年から隔月に開かれていて今夏は第二二二回目となる。お盆休みに炎暑も重なったが、参加者は十八名。いつもの通りであった。NHK取材班は、読書会の様子と出席者全員にインタビューした。が、テレビの常で放映されたのは僅かだった。
 本を買っても実際に読む人は、少ないと思います。「千人に一人、五千人に一人」かも知れません。訳者の亀山郁夫氏は、番組終わりにこう言って苦笑された。ドストエフスキーブームといわれる現象は、これまでも、何度かあった。が、その都度、本当に読まれていたかといえば、はなはだ疑問である。いつのときも笛吹けども、の感がある。
 長い、くどい、暗い、の印象が強いドストエフスキー作品である。いっそうの簡略化がすすむ現代において、人気とは裏腹に、むしろますます敬遠されていく傾向にある。たとえ『カラマーゾフの兄弟』がカラキヨと呼ばれても、中身の重さは変わらない。
 しかし、二十世紀において、世界の賢者たちの多くは、ドストエフスキーに学んだと公言して憚らなかった。アインシュタインしかり、ニーチェしかりである。川端康成はじめ日本の文学者たちもこぞってドストエフスキーを読むことをすすめてきた。そして、それは新世紀になった今日でも止むことはない。「圧倒された。世の中にこんなものがあるのか、と思いました。朝日2007・7・15(中村文則)」と述懐する若い作家たちがつづいている。先にあげた『21世紀ドスト…』の帯にも、こんなすすめが書かれている。

いまどきドストエフスキー?
知っている人も、知らない人も 
 読み進めれば、ヤメラレない。
 こんなにおもしろかったんだ。   (『21世紀ドストエフスキーがやってくる』帯)
 
 いったいドストエフスキーの、どこがそんなに面白いのか。読み進めればヤメラレないのか。NHKでなくとも疑問に思うところである。大きな謎といえる。
 だが、この謎は、あまたの案内書を読んでも、どんなに優れた研究者に尋ねても答えは得られない。謎解きの道は、ただ一つ、自分で作品を読むことである。とにもかくにも本をひろげて作品と向き合う。そうして、悪戦苦闘しながら読みすすめてみる。それしか方法はないのである。
 と、いうわけで07年夏の下原ゼミ合宿は学生諸君に、ドストエフスキー作品に挑戦してもらうことにした。合宿地、軽井沢で作品のマラソン朗読会を決行することにしたのである。
 星降る信濃の夜に、無粋な試みである。果たして、学生諸君は読みきることができるだろうか。辟易し投げ出すのでは。そんな懸念もある。が、「とにかく読でみよう!」と、すすめるしかない。退屈するか、夢中になるか。いずれにせよ、読んでみなければはじまらないのだ。試みる挑戦者は、下原ゼミの五人衆。そして、マラソン朗読会のテキストは、ドストエフスキーの処女作『貧しき人々』とした。
 この作品は、400字詰原稿用紙に換算すれば約八百枚前後の中編書簡小説か。一夜にリレー読みするには大変な枚数である。果たして五人衆は、棄権することなく、完走できるだろうか。不安と期待を抱いての軽井沢入りであった。

二、なぜ『貧しき人々』か
 ドストエフスキー文学を代表する作品といえば、『カラマーゾフの兄弟』『未成年』『悪霊』『白痴』『罪と罰』がある。いずれも世界文学最高峰に位置する長編名作である。ほかにも多くの中短編がある。これら作品群を目指すのに、どの作品から入っていくか。人それぞれ、動機も様々である。では、マラソン朗読になぜ『貧しき人々』を選んだのか。時間的、物理的に手ごろ、ということもあるが、一番の理由は、真の目的は、この作品のデビュー秘話の真相を確かめたい。その一点にある。
 今から一六二年前、ロシアのペテルブルグで、『貧しき人々』を世界ではじめて読み終えた若き詩人と作家がいた。彼らは、読了のあと暫し茫然自失状態だったが、次の瞬間、白夜の街に飛び出して行った。作者に会うためだった。昼のように明るい通りとはいえ朝の四時前である。そんな時間に感動のあまり、作者に会いに走る。そんなことが、この世にあるだろうか?!そして、それは真実なのか・・・?
 私は、偶然この作品の解説を目にした。そのとき、まず最初に頭に浮かんだのはこの疑問だった。おそらく初めに作品を読もうとしたら、躊躇なく投げ出していたに違いない。私とドストエフスキーとの出会いは、『貧しき人々』の解説を読んだこと、その一点にある。
 私は、これまで世間で面白いとされる小説を何冊か、読んできた。松本清張の推理もの、司馬遼太郎の歴史小説、大デュウマの熱血物語。ポーの怪奇もの、などなど。どれも我を忘れさせてくれた。だが、すぐさま作者に会いに行きたい。どの本もそんな気持は起きなかった。読み終えた途端、作者のもとに走らせる。そんな物語があるのか。正しい読書動機とはいえないが、これが私の読書の旅のはじまりだった。そうして読んだ結果は、その通りだった。「こんな本がこの世にあるのか」私は、驚き、感動し、ドストエフスキーのすばらしさを知った。街にでて誰彼に、この本をすすめたい、教えたい、そんな衝動に駆られた。
 しかし、あれから三十五年。私は、いまだ私と同様の体験した人に会ったことがない。たいていのドストエフスキー読者は、『地下生活者の手記』だったり『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』だったりした。『貧しき人々』について言及している人は、はるかむかし宮本百合子が『貧しき人々の群れ』を書いたのと、先ごろ出版された『21世紀ドストエフスキーがやってくる』の「私とドストエフスキー」のなかで作家の井上ひさしが

『貧しき人々』をよく読むのは、この処女作にドストエフスキーのすべてがあるからで、…
と述べているぐらいか。他にこの作品について、語っている人の話は、あまり聞かない。
 あの衝撃的なデビュー秘話は、はたして真実だったのか。それとも十九世紀のロシアのペテルブルグでしか起きえなかった白夜の夢物語か。また、私の同様体験。あれは、たんに私の思い込みに過ぎなかったのか。そんな疑念が絶えず頭に浮かんでは消えた。
 この伝説の真相に迫りたい。学生たちと共に再体験したい。そんな理由から、第一にこの作品をとりあげることにした。真夏の軽井沢の夜、『貧しき人々』に挑戦する学生たちは、果たして一六二年前のロシア、ペテルブルグの若き詩人と作家が体験した白夜の感動を得られるだろうか。はたまた三十五年前の私と同じ思いを抱くことができるだろうか。時空体験ツアーで挑戦してもらうことにした。本論は、その体験ツアーの記録を報告するものである。
 なお、その前に時空体験ツアーで試みる、あの日の白夜の感動体験とは、いったいどんなものだったのか、当時の証言を拾ってみた。

三、一六二年前の白夜の出来事
 ときは一八四五年五月六日未明、ロシアの首都ペテルブルグ。昼間のように明るい白夜の街を、興奮した様子で駆けていく二人の青年がいた。一人は若手作家のD・V・グリゴローヴィチ(ドストエフスキーの友人。後年、文壇長老としてチェーホフなど若手作家を育てた)、もう一人は当時ロシアを代表する詩人で編集出版人でもあるN・A・ネクラーソフ(1821-78)。二人は、ヴラヂーミルスキー大通り十一番にあるドストエフスキーの下宿に飛び込むと、寝かかっていたドストエフスキー(24)をたたき起こした。「寝てる場合じゃない!」。彼らは、『貧しき人々』を読み終えるとすぐその足で会いにきたのだ。
 文豪ドストエフスキー誕生の衝撃デビューのエピソードである。この劇的場面をドストエフスキーは、後に『作家の日記』のなかでこのように書いている。(中村健之介訳)

 一八四五年五月五日であった・・・(工兵学校で一年先輩で友人の)グリゴローヴィチが私のところへ来てこう言った。「原稿を持ってきたまえ」・・・、当時ロシアを代表する詩人で編集出版人でもあるネクラーソフ(1821-78)が、来年までにいろんな人の作品を集めた作品集の出版を計画している。「ぼくが紹介してやるから」、(作品をだしてみないか、ということだった。このときドストエフスキーは、作家になるつもりで勤めを辞め、小説を書いていた。24歳だった)。私は原稿を持って行き、ネクラーソフにちょっと会った。私とネクラーソフは握手を交わした。私は自分の作品を持ち込んだのだ、と思うときまりが悪くて、ネクラーソフとほとんどひとことも口をきかずに早々に退散した・・・
 私が部屋へ帰って来たのは、もう午前四時、昼のように明るいペテルブルグの白夜であった。・・・突然ベルが鳴り、私はびっくりした。グリゴローヴィチとネクラーソフが飛び込んできて私を抱きしめた。
 彼らは前の晩、私の原稿を取り出し、どんなものか試しに
 その夜、詩人と友人は、「どんなものか試しに読んでみよう」と読み始めた。10ページ読んだ。「なんだこれは・・・」二人は、もう10ページ読むことにした。が、気がつくとやめられなくなっていた。二人は一晩中、声を出して読みつづけた。読み終えたのは朝4時前だった。二人はいても立ってもいられなかった。寝ている場合じゃない。作者に会いに行こう!二人は、興奮して白夜の街にとびだしていった。

 作品は、その日のうちにロシア随一の評論家ベリンスキー(1811-1848)に手渡された。ロシアの指導的批評家は、皮肉な笑みを浮かべて

「君たちによると、ゴーゴリはまるで茸みたいにやたら生えてくるんだな」

と、受け取った。が、彼もまた同じだった。読みはじめたらやめられなかった。そうして 
 
「急いで来たまえ、ニュースがあるんだよ」と大きな声で言った。・・・・「これで二日間、この原稿から離れられないってわけさ。これは、新人の小説なんだがね。その男がどんな見てくれをしているのやら、どの程度のことを考えているのやら、まだ知らないんだけれど、小説は、この男以前には誰一人思いも及ばなかったような、ロシアの生活とさまざまな人間の性格の秘密をあばいたものだ。これはわが国で初めての社会的小説の試みだ。そしてその試みを実行する者自身は、自分のやっていることがどういうことなのか気づいてもいない。この試みは、そういう、芸術家がいつもやるやり方でなされたのだよ。
P・V・アンネンコフ『文学的回想』

と、絶賛した。一八四五年五月六日未明から七日にかけて、白夜のペテルブルグでこんな出来事があった。無名の若者がはじめて書いた小説『貧しき人々』は、これほどまでに感銘を与えた。それも、作家、詩人、評論家といった専門家たちに、である。
 今日、こんな劇的な出来事が、これほど絶賛された小説作品があるだろうか。是非に時空体験ツアーで挑戦して、一六二年前の感動と興奮を今一度再体験してみよう!

※アンネンコフ(1813-1887)ロシアの批評家。西欧派の一人。フランス空想的社会主義をロシアに紹介した。ゴーゴリ、ベリンスキー、ゲルッイン等と親交があり、K・マルクスとも文通した。

四、時空体験ツアー参加者紹介
 一六二年前、白夜のペテルブルグでの出来事。グリゴーロヴィチとネクラーソフの感動体験。その真相を確認するために、また、その体験を再体験するため、下原ゼミはゼミ合宿において時空体験ツアーを計画した。果たして一八四五年五月六日未明に起きた出来事は真実だったのか。いま軽井沢で、その謎が明かされる。
 なお、時空体験ツアー参加者は、07年下原ゼミ五人衆である。マラソン朗読は、初体験だが、全参加者とも前期授業での名作朗読と紙芝居稽古で鍛えている。
 以下、時空体験ツアー参加者の紹介である。

茂木愛由未・・・一見かよわそうだが信念は強い。ガイダンスでの朗読ふるいに残った前橋
        っ子。前橋といえば萩原朔太郎。朔太郎といえばドストエフスキーである。
        今春『ダヴィンチ・コード』を読了。時空ツアーでは、レイアヒメ。
疋田祥子・・・ハスキー声が魅力。映画「ハムナプトラ(失われた砂漠の都)」を彷彿する
       冒険娘。昨夏は、タクラマカン砂漠をラクダに揺られ彷徨った。今春は自転
       車で四国一周。『クレイジー・ガール』のパワフルさに魅かれる。
髙橋享平・・・大きな体格とボサボサ頭がトレードマーク。顔いっぱいひろがる人なっこい
       笑顔が場を和ませる。話し出したらとまらない弁舌過剰な面もある。DJと
       も呼ばれている。南方熊楠が愛読書。未知の旅には、頼りになりそう。
山根裕作・・・根は理工系。ドストエフスキー『地下生活者』的傾向。ゲーム物語作成や創
       作が趣味。ポーカフェイスだが、融和性あり。酔うと女形を披露する特技。
       『アーサー王の死』など歴史ものが好み。朗読に適したバリトン低音。
金野幸裕・・・道産子ボヘミアン。か細い身体だが健康優良児。チャランポランふうに見え
       て根はしっかりしている。ムイシュキンと寅さんの魂を持つ明るいキャラ。
       『リング』や『ポケット怪談』などの怖い話が好き。
 
 まさに五者五様。愛読書も違う。それぞれに個性的メンバーである。果たして彼らは、この時空体験ツアーで、作品を読了して、あの日の感動を体験することができるだろうか・・・・・。

【ドキュメント時空体験ツアー・『貧しき人々』朗読会】

一、前哨
午後一時00分 集合時間午後一時きっかり、全員が軽井沢駅の改札前に集まった。前橋のレイアヒメは、軽井沢には「学校に行くより近かったです」と余裕顔。
 自宅が千葉県の成田の先にある一番、遠くからきたDJ髙橋は、朝七時に「お土産、やくそく」と小学生の妹に見送られて家をでて普通列車とバスを乗り継いで来た、と眠たそう。
 三鷹の自宅からの山根は、いつものポーカーフェイスだが、このところ徹夜がつづいたとツアーに、ちょっぴり不安をみせた。が、変わらぬ冷静さぶりに期待。
 ハムラプトラ祥子は、いつもの朗らかさ。道産子ボヘミアンの金野は、小鳥絵柄のTシャツで登場。カバンの中に子リスのような人形を持っていて、皆の興味を集めた。二人のコンビが爆笑を誘い皆の気持を楽にした。
午後一時十五分 駅前の食堂に入り昼食。髙橋は、にしんそばを注文。一番最初に運ばれてきた。なぜ信州にきて、にしんか?自問自答しながら食べる。
 電車の中で菓子をポリポリ食べてきたハムラプトラ祥子は、おでんを注文。
 レイアヒメは、親子丼。痩せ身のバリトンバス山根とボヘミアン金野は、体力づくりでカツ丼。料理人が不慣れか、火元が一ヶ所しか使用できないか。間隔を置いて注文料理が一品づつ運ばれてくる。金野は、手持ち無沙汰でメニューをながめていたが、突如
「こけももって何ですか」と、たずねた。
「やまもものことですよ」歳のいった店の人が答えた。
 一番先に食べ終わった髙橋は、家族の話をはじめる。一回り歳の離れた妹を可愛がっている、よき兄貴ぶりが目に浮かぶ。皆も親兄弟姉妹のことを話す。家族の話がでるのは、お互い気を許してきた証拠。人跡未踏の時空体験ツアーである。チームワークが大切。よい兆候とみた。軽井沢の日大研修施設を知っているのは、山根と髙橋だった。二人の案内で炎天下を歩いて行った。長い道のりだが、五人の愉快なおしゃべりは団結をいっそう強くした。コンビニで菓子を買う。
午後二時三十分 日本大学軽井沢研修施設に到着。会議室を予約。夕食、睡眠、懇親会に費やす時間を考え、明日の正午まで借りる。一端解散。
午後三時00分 施設玄関前に集合。マラソン読書は格闘技だ!ということで玄関前広場にて準備体操、自彊術、気功を行う。が、体力的なことを考えて簡単に終える。

二、時空体験ツアー出発
 一六二年前の白夜の体験なるか。二○○七年八月四日、本日、猛暑なれど軽井沢の風、涼し。完読の成否ここにあり。ということで、いざ出発!
午後三時二十分 研修所二階にある会議室に集合。五人衆、手にペットボトルのお茶を持ち入室。皆、ちょっぴり緊張の面持ち。長テーブルを二つあわせて会場をつくる。収容人数四十人だが、これから始まる時空探検の迫力か六人でも広さは感じられなかった。
 各人思い思いの椅子に着席。マラソン朗読会開始。テキストとなる作品『貧しき人々』(江川卓訳・集英社)のコピー原稿を全員に配布。四段組み印刷でA4七二枚になる。表紙に「1845年5月6日未明ロシア・ペテルブルグでの感動をいま一度」とある。一六二年前、手書きの作品をドストエフスキーから受け取ったグリゴローヴィチ、ネクラーソフの心境が頭に浮かぶ。「いったい、なにが書いてあるのだ」彼らは思ったに違いない。興味や期待よりうんざりした気持が勝っていたのかも。二○○七年の五人衆もいまは、同じ思いにあるに違いない。空気を察して、私は、こう挨拶した。
 「ドストエフスキーの作品は、どの作品も常に現在です。この書簡小説も、現在のメール作品といっても過言ではありません。そこにドストエフスキー作品の普遍性、予見性があります。いまから百六十二年前、ロシアの若き詩人と作家は、夜通し、この物語を声をあげて読みあいました。はじめのうち彼らは、何だ、こんなもの。あと十枚、あと十枚でポイしょうと思いながら読んでいたそうです。しかし、気がつくと、夢中で読み合っていたのです。そして、読み終わった途端、彼らは作者のもとに駆けていったのです。
 皆さんも、今から挑戦しますが、はたして、一六二年前の彼らと、同じ気持ちを味わうことができるでしょうか。彼らのように感動にむせぶのか。それとも、あまりの退屈さに、途中放棄するか。いずれでしょうか。とにもかくにも読んでみましょう!」
 このあと私は、司会進行を、道産子ボヘミアンの金野に任せた。長時間の朗読挑戦でもあり、皆をまとめ引っ張っていくには、だれの性格が一番いいか、迷った。が、迷ったときは、いつも通りがよい。ということで授業での順番どおり金野を指名した。金野は、茶目っ気と真面目さが混同する見た目より複雑な性格。それだけに、このマラソン朗読会をどうまとめ進めてゆくか、予想はつかなかったが、面白みもあった。
 さあ、はじめてください。私は、時空体験ツアー出発を宣言した。

小説 『昭和元禄草莽伝』草稿  資料1「山田顕義」
山田に残した言葉
• 高杉晋作
o 高杉晋作が亡くなる時に、「奇兵隊を引き継ぐ人物は?」と問われて、晋作が名を挙げたのは、大村益次郎であった。しかし、大村は元々、村医者だった為「その次は?」と問うと「山田市之允」と答えたという。この時、山田顕義はまだ23歳の青年であった[4]。
日大の暗黒時代

1968年春、フランスパリで発生した大学紛争は、またたくまに世界を席巻した。むろん日本にも飛び火した学園紛争は、全国の大学に燃え広がった。
しかし日大だけは学園紛争とは無縁だった。あるいは眠れる獅子のように、あるいは従順な羊の群れのように黙していた。「日大生は、学生にあって学生にあらず」こんな陰口がたたかれた。日大の暗黒時代であった。
だが、昭和四十三年、突如、日大は燃え始めた。その火は、まるで枯野に放たれた野火のようにたちまちに全学部にひろがった。香港帰りの警視庁公安部警視正佐々淳行警備第一課長は、鎮火すべき日大校舎に向かった。彼は、後に東大安田講堂攻防戦や連合赤軍浅間山荘事件で警備幕僚長として活躍する。当時彼の知る日大はこのようだった。

• 「日大は徹底した商業主義に基づくマンモス教育であり、その放漫きわまる経営方針ゆえに私立大学紛争の最高峰となったのである。そもそも学生の総数すら日大当局の誰にきいてもはっきりしない。あるいは十二万人、あるいは十五万人という。・・・・二部や通信教育をいれると三十万人ともいう。(『東大落城』)」

【松陰神社】
昭和四十年四月はじめ。山口の萩にある松陰神社境内。新学期がはじまったこの時期、参拝客は、まばらだった。桜だけが満開でにぎやかだった。
日本大学の本部勤務の此木大吉は、社務所をでると、もう一度松陰神社を参った。午前中から市役所公園課、観光課、商工会議所と回って最後に神社の管理組合にお願いした。しかし、どこも手ごたえはなかった。疲労だけが残った。
このたびの彼の出張の目的は、学祖山田顕義銅像建立に際しての陳情だった。明治維新の立役者、大村益次郎の後継者、また伊藤博文あとの総理候補とまで言われた幕末の志士山田市之充の石碑に日本大学の校名を刻んでもらうためだったが、どこもあまりよい返事はもらえなかった。役所も神社も乗り気でないのは、日本大学と入れられるのが嫌なのだ。ひらたくいえば、そういうことだ。こんな田舎にも日大の商業主義はつたわっている。
「お宅の学校は、学生を商品あつかいしていると聞く。教室に入れんくらい大量に学生を増やし学士さまをにわかづくりしとるって評判じゃけんに」それが断りの理由である。
此木大吉は悔しく思う。これもかれも20年まえの学徒出陣、あの戦争で死んだ穴埋めに、学士製造工場としたのはだれか。国公立の教職員の天下り先として存続させたのは誰か。
 これでは学祖様に申し訳がたたない。此木は、思わず両手を合わせて詫びた。
誰かが鼻歌をうたっている。みると閑古鳥鳴く土産物店の近くで若者が、漢詩の書かれた扇子の若者が詰将棋本をみながら鼻歌を歌っていた。
テレビドラマで人気がある高杉晋作の主題歌らしい。さすが萩の城下である。

60余州を 揺り動かして
菊を咲かせる 夜明けが近い
のぞむところだ 幕末 あらし
剣を つかんで
いくぞ 高杉晋作が

 境内の隅にある土産物小屋の近くで、若者が扇子の色紙を売っていた。四月はじめの神社。参拝客は少ない。若者は、色紙を売るのをとうに諦めている様子で、歌を口ずさみながら、詰将棋本をみていた。
 此木は、声をかけた。
「すみません―」
若者は気がつかない。
「すみません」大吉は、少し声をおおきくした。
「あ…」若者は、驚いて顔をあげた。「お客さん、いつのまに。すまんです。今日は、お客さん少ないんで」
「いや、いや驚かせてすみません。ちょつとみかけたものですから」
「なんです」
「その扇子のことなんですが」
「ああ、これ、吉田松陰先生の漢詩です。」

立志尚特異  志を立てるためには 人と異なることを恐れてはならない
俗流與議難  世俗の意見に惑わされてもいけない
不思身後業  世の中の人は 死んだ後の業苦のことを思うこともなく
且偸目前安  ただ目の前の安逸を貪っているだけなのである
百年一瞬耳  人の一生は長くても百年 ほんの一瞬である
君子勿素餐  君たちは どうか徒に時を過ごすことのないように

「そっちは」
「これになんと書いてあるのか」
「松陰先生の言葉です。意味は知らんけん」
「こちらは」
「これは山田市之充が師である高杉晋作の死を悼んで書いたものだそうです」

2020年10月27日 文芸研究Ⅳ エッセイ道場 下原ゼミ 課題  名前

.
10年後の自分を想像してください。どんな生活をしていますか。

「近未来の自分」

「なんでもない一日」

白日光り無く陰雲垂(いんうんた)る。
感慨腹に満ちて泣き且つ悲しむ。
墓門の昼暗し松柏の雨。
粛々涙に和して新碑にそそぐ。

「それ十本もらおうか」

最後の入試

若者は不満そうだった。
青年は財布で金を払う。そのとき切符を落とす。が、二人とも気がつかない。しばらくして砂利のなかに切符を見つける。萩から東京都内行きの切符。自転車で萩の駅に届ける。
此木、探している最中。
「ありがとう、助かりました」
「やまだ市之充のは、あまりうれんけん」
「ぼくは、買う必要があるんです」
「必要?」
「なんといっても学祖様ですから」
「えっ?!大学の人」
「学祖?!」
「山田顕議は、日本大学の学祖です」
「あ、そうですか、山田市之充は日大の・・・・はじめてしりました」
「きみは、大学生?」
「浪人ですけん。早稲田と慶応受けた、どちらも落ちた」
「どうして早稲田に?」
「どうして、っていっても…」
「早稲田は明倫館だよ」
「日大はそうもうだ。日本大学はだめかね」
「日大ですか」
若者は、失笑した。この時代、同じマンモス大学でも、日大と早稲田とは、埋めがたい差がついていた。
「日大は、門戸を最後まであけている」
「それって、ずるくないですか」
扇子の詩の意味をよく考えて、もしその気になったら最後の入試、受けてみてください」
「なんだ、あの人。日大の職員か」
早稲田か慶應だ。日大生いなかった。
「きみも悪戯に時を過ごすより

「やはり明倫館ですか」
「明倫館、早稲田がそうだというんですか」
「そうでしょう、いまではエリート校といわれている。そこへいくとわが日大は、草もう、吉田松陰先生のめざしたのは、ピンからきりまでくる学校です。草もうの若者
「都の西北ですよ。ワシあ、もう決めてるんです」
「そうですか、気がかわったら、最後の入試が

昭和40年4月とはいえ、まだ 木曽谷を走る列車、中央本線、新宿行き、車内は、車内
「東京まで」
「大学生ですか」
「いえ、これから受験です」
「えっ、」驚くのも無理はない。大学入試に向かう若者が一人こんな時期に、まだ大学入試があった。
「どこに」
「日本大学です」
驚かない。失笑しているようにみえた。

赤門前、清田家真樹夫の家は、三代つづく製薬会社、良くて東大、悪くて東大の家柄。兄、姉、従兄弟、父親の二号さんの子、全員東大だ
「ことしは、大丈夫だろうな」「

前号のつづき

コロスケのいた森

      四
 「えらいもん、よこしたもんだ」
お婆はフクロウの子を見るなり、おおげさにため息をついた。まるで、オンちゃに文句を言いに行きそうな口ぶりだったので正雄はあわてて
「おらあが、欲しいっていったんな」
と、説明した。
 春ご様を迎える準備をしているだけに、フクロウの子はホウノキの花同様におカイコ様に害がある、といわんばかりだった。
「しょうがないもんだに」お母は苦笑いしながらも言って聞かせる。「こんどは、だいじに飼うんだに」
 そんなふうに言われるのも無理なかった。正雄はこれまで、山から捕ってきて飼ったヒナ鳥を全部死なせてしまっていた。スズメからはじまってモズ、ひよどり、山バト、クイナ、カラスと飼ってみた。が、結局はどのヒナもうまく育てられなかった。良くて一週間、悪くて二日。どうしてかみんな死んでしまった。こんな実績があるから、信用されないのはもっともだ。
「くせえんじゃあないか」
あんちゃが、わざと鼻をつまんで遠くの方からからかう。
 あんちゃは、一度、山でうるしにかぶれてから山のものは何でも嫌いになっていた。それで、めったに山に入らなかった。植林か炭焼きで、どうしてもというときは、軍手やマスクをしての完全装備だった。
 それでも大きい姉さんは、ホオノキの花のことを悪いと思っていたのか
「ぬいぐるみだったらいいのに」
と、小骨を吐き出したりフンをするのを残念がった。
 正雄は、家のものが無関心でほっとした。可愛いからといって、皆であまり触ってほしくなかった。フクロウを自分だけに馴れさせたかった。
 フクロウの子は、古い納屋で飼うことにした。窓のないモルタル壁の部屋で桑の葉をしまうための部屋だった。いまでは使われない農機具がおかれてあった。入り口の木戸を閉めると、真っ暗になる。夜行性のフクロウを飼うには、もってこいの場所だ。

              五
 フクロウの子を飼うことになって正雄の生活は、俄然忙しくなった。なにしろ小鳥を飼うのとはわけが違う。フクロウは猛禽類なのだ。生きている小動物の生肉しか食べないときている。山では、ネズミとかヘビをエサにしているようだが、正雄には無理だった。ネズミは、毎晩、天井裏を走り回っていたが、捕まえるとなると難しい。ヘビも畦道でよく見かけたが、エサになるほど出くわすわけでもない。正雄が毎日用意できるのはカエルぐらいだ。それも殿様ガエルなら、すぐに手に入った。田んぼに行けばいくらでもいる。
 しかし、いくら容易くとも毎日捕りに行くとなると大変だった。正雄の毎日は、カエル捕りに追われることになった。
 オンちゃが、フクロウの子をくれたとき
「エサが大変だぞ」と、言っていたが、その意味がだんだんにわかってきた。 はじめのうち一回に小さいカエル三匹ぐらいで間に合っていた。が、すぐに満足しなくなった。フクロウの子の食欲は日増しに増した。正雄の顔さえ見ればタンタンとうるさく口ばしを鳴らしてエサを欲しがった。カエルを水槽にいくらとりおきしておいても、夜のうちになくなることも度々だった。
 正雄は、朝、早く起きてカエルとりに行く羽目になった。早朝の河原は、部落の大人たちでにぎやかだった。大人たちは田の水をみたり、畦のモグラの穴をふさいだり、土手の草刈をしていた。腰に乾燥モチグサの蚊取りをぶらさげているので、あちこちに薬っぽい臭いと煙がただよっていた。
 早朝の河原は、正雄にとっても忙しい場所だった。これまではヤゴからかえるオオヤマトンボをとったり、カブト虫がいそうな柳の木を回って歩いた。しかし、ことしはそんなひまはなかった。
 正雄は、お父が草を刈っていれば、草集めを手伝った。そのかわりにカエルを捕ってもらった。お父に捕ってもらう方が自分で捕るより効率がよかった。お父は、草むらからカエルが飛び出すと、素早く棒で一撃した。殺してしまうこともあったが、たいていはのびただけで、生け捕りできた。丸屋のおいさまは、正雄がフクロウの子のエサ捕りにきていると知るとニヤニヤしながら
「毎日カエルとりもえらいずらよ。ハクセイにしとけ、その方が利口だわ」
と、からかった。おいさまにとっては、セキレイとツバメ以外は、みんな悪い鳥のようだ。
 お父のいとこの段沢のオジさは、なにも言わずに「ほれ」と草でグルグルまきにしたカエルを投げてよこした。最初のうち、オジさは学校で理科の解剖で使うのかと思っていたらしい。大きな殿様ガエルだけ捕ってくれた。フクロウのエサとわかってからは小さなカエルも捕ってくれた。
「どうだ、しとなったか」が、オジさの口ぐせだった。
 朝のカエル捕りは、朝露でズホンがびしょ濡れになった。泥だらけになることもあった。家に帰るとお婆とお母が
「学校に行くまでには、かわかんぞ」と、騒いだ。
 朝は田んぼ水を使うので、小川の水が少なくて洗濯ができないというのだ。「へっちゃらだ。つくまでにはかわくら」
正雄は、気にならなかった。コロにとりたてのカエルを食わすと、自分もご飯にみそ汁をぶっかけ一気にかきこんで、学校に行った。
 おカイコ様も大きくなる。麦の穂も色づいた。畑の草ものびてきた。家の仕事は、だんだん忙しくなった。このごろでは、あんちゃや初子姉さんはむろん、弟の勇介まで、駆り出されていた。それだけに正雄は、なんとなく気兼ねだった。学校から帰えってすぐ河原の田んぼに行くので、なんとなく気兼ねだった。家のものもいい顔しなかった。
「フクロウのおかげで、勉強にも家の手伝いにも身が入らんくなった」
と、嫌味を言われるようになった。
 だが、正雄の耳には届かなかった。正雄の頭は、とりおきのカエルが夜の分まであるかどうか、その心配でいっぱいだった。
 大きなカエルを生きたまま捕まえるのは、むずかしかった。遠くまでジャンプするし、動きも素早かった。それにこのごろは正雄のでかたを見るようになった。近づいても、じっとしてやり過ごそうとするのだ。
 それでも毎日のカエル捕りから正雄は、コツをつかんできた。むやみに追い回さないことがその一つだ。カエルが田んぼに飛びこんだら、じっと水が澄むのを待って、泥の中にもぐりこんだやつを、いっきにわしづかみにする。ハエをエサにして釣り上げるのは、面倒臭かった。
 捕まえたカエルは庭先の水槽に入れた。いつも足らなくなるので多めに捕っておきたかったが、なかなか余分に捕ることができなかった。納屋は薄暗く、落ち着かなかった。それで、しばらくして縁側でエサをやることにした。フクロウの子は明るくても嫌がらなかった。
 朝、正雄が納屋に行くと、フクロウの子はカゴから飛び出て入り口まで歩いてきた。腕を出すとヒョイと飛び乗った。
 縁側には、朝の光がいっぱい差し込んでいた。フクロウの子はまぶしがりもせず、栗色の眼を輝かせてタンタンとエサをほしがった。正雄は、自分の朝ごはんも忘れてながめていた。
「おとなしくしてろよ」
時間がくると正雄は言って、フクロウの子を納屋のカゴの中に戻した。
 学校にいっているあいだフクロウの子は、じっとしていた。正雄は、毎日素っ飛んで帰ってきた。フクロウの子が元気なので、家のものは驚いていた。どうせすぐに死なせてしまうだろう、と思っていたようだ。
 正雄は、皆の予想を裏切ってフクロウの子を育てつづけた。雨が降っても、風が吹いてもエサ捕りにでかけた。朝も早起きになった。
 家のものはあきれるやら感心するやらで、正雄がカエル捕りに出かけても非難するような顔をしなくなった。

              六
 「名前をつけなさいよ」大きい姉さんに言われて正雄は
「そうか、名前をつけなくちゃあ」と、思った。エサ捕りに夢中で、そんな大事なことをすっかり忘れていた。
 しかし、考えると、どうもうまい名前が思い浮かばない。犬ならポチとかチビとかすぐに思いつくのだが。だいたいこれまで、鳥の名前など考えたことなどなかった。正雄にとって鳥は、食べるか卵を生む存在でしかなかった。
 これまで飼った小鳥のヒナも、ただ山バトの子、モズの子と呼んでいただけだ。短期間だったので、名前をつけるまでに至らなかった。
「なんて名がいいなあ」
教室でも正雄は、フクロウの子の名前のことばかり考えていた。おかげで授業はさんざんだった。あてられて何度もトンチンカンの返事をした。しまいには立たされた。が、正雄にとってその方が都合よかった。正雄は当てられる心配がなく、じっくりと名前を考えた。
 フクロウだからフクちゃん。ホーホー鳴くからホー助。どれも気にいらなかった。
「マサオ、クルクルパアになったんじゃないの」
学校帰り、和江が追いついて話しかけてきた。
 テンテキの話以来、口をきいてなかった。しかし、いまの正雄は相手をする余裕などない。
「そうかなあ・・・」
と、うわの空だ。
 つり橋をわたると、ついに和江は怒りだした。正雄の前に、通せんぼするように立ちふさがってどなった。
「テンテキのマサオ、学校に言いつけてやるわ。フクロウの子、飼ってるの」 正雄は、ぎくりとした。いきなり水をぶっかけられたようだった。これまで和江は一度もフクロウの子のことを口にしたことがなかった。おんちゃからもらったのだから娘の和江が知らないわけがない。だから、家の者同様、たいして興味がないのだろうと思っていた。
 羨ましがっているイトコのシゲルやタケルだって学校では、話題にしないのに。正雄は、急に和江が憎らしくなった。
「おらあ、おっかなくなんかないぞ、あれは迷子のフクロウなんだ。帰っておとうに聞いてみろ。まだ死なしちゃいないんだ」
正雄のけんまくに和江は、びっくりした。みるみる泣き顔になって
「バカ、マサオのバカ」
と、走っていった。
「フクロウの子のことを学校に言うっていうからだ」
正雄は、腹立たしい気持ちで和江の赤いランドセルを見送った。
 でもすぐに「そうだ名前のことは和江に相談すればよかった」と後悔した。 

              七
 二階では、まだ家のものがおカイコ様の世話でごそごそしていた。正雄は名前を考えるのにあきて学校から借りてきた図書の本を読みだした。
 ネモ船長・・・頭にひらめいた。そうだネモってのはどうだろう。正雄は本を投げ出すと、大きい姉さんがいる部屋に飛んでいった。
「入ってくるな!」
ふすまを開けるなり大きい姉さんの怒鳴り声。
 正雄はあわてて飛び出した。尻にできたおできのウミをお婆がしぼりだしている最中だった。のぞくなと注意されていたが、すっかり忘れていた。きっとすごく怒っていて、もう名前のことなど聞いてくれないと、あきらめていたが出て来た大きい姉さんは
「大声だしたら、ねっこがとれた」
と上機嫌だった。
 まったく何が幸いするかわからない。さっそく名前のことを話そうとすると大きい姉さんは自分から
「コロスケって名前にしなさいよ」
と、言い出した。
 何のことはない、ちゃんと自分で考えていたのだ。だいたい初子姉さんは昔からものに名前をつけるのが好きで、そこいらの石や丘にまで名前をつけていた。「あの木は首つりにぴったりだから、首くくりの木」などとおどかされたものだ。このごろは口にしないので、もうあきたものかと思っていたが、フクロウの子で、またぞろ昔の虫が目をさましたらしい。
 正雄はコロスケなんて名前は気にいらなかった。オスかメスかもわからんし、それにせっかくネモ船長という立派な名前を思いついただけにおおいに不満だった。しかし
「だめだめコロスケでいいのよ」
と、大きい姉さんはゆずらない。
 名前のことを言い出したのは初子姉さんだったので、正雄は従うしかなかった。それにしてもコロスケなんて一体どこから考えついたのかと思えば
「ほんとは、うちのポチ、五郎って名前の方にしたかったの。それを知らないまにポチにされちゃって。だから、その名前、あんたのフクロウにつけることにしたのよ」
と、何ともいいかげんな命名。つまり五郎にしたいのだけれども犬じゃないから濁点をとってコロにした。でもコロではフクロウらしくないのでスケをつけてコロスケにしたというのだ。
 簡単すぎて不満だったが、とにかくもフクロウの子にはコロスケという名前をつけることにした。しかし、呼んでみるとコロスケという名前も悪くないように思えた。フクロウの子も、こたえるようにタンタンと口ばしを鳴らした。 コロスケは日ましに大きくなっていった。ススキの穂をまるめたような灰色の羽毛も、少しづつ張りのある褐色の羽毛にかわっていた。正雄にすれば、たいした飼育記録だった。
 ときどきアカガエルやイモビクタをもってくるオンちゃも
「よう飼えるは。てえしたもんだ」
と、ほめてくれた。
 おカイコ様が大きくなったので部落中の家は、もう毎日が火事場のような忙しだった。なにしろおカイ様は、もうれつないきおいで桑の葉をたべるのだ。それもとりたての新鮮な葉っぱしかたべないときている。部落中のどの家も家族総出で朝、暗いうちから桑の葉とりに畑に出た。正雄は、お父が切った桑の木を集めるのが仕事だった。桑の葉がびっしり繁った木は、重かったが正雄は、カエル捕りの時間をつくるために夢中で働いた。つづく

熊谷元一研究  生誕110周年を記念して書き下ろす。

草稿 小説もといち伝

 熊谷栄吉は、蚕養農家の6人兄姉の末っ子に生まれた。飯田の城下に近いかいこの村だった。栄吉は、天竜川と赤石山脈をながめて育った。
明治12年、絹織物が好景気で、伊那谷の村々は、蚕養。
栄吉は、おとなしい子どもだった。自分から、なにかをやりたいとはいいださなかった。かいこで猫の手もかりたいほど忙しい両親をみていて、言いだせなかったのかもしれない。とにかく、えいきちは青春時代、文句一つ言わずに家のかいこの手伝いをしてすご゜した。ので、両親は、かいこの手伝いをさせた。
「えいきち、おまえなにかやりたいことはあるか」
栄吉は、はずかしそうに笑ったが、なにもこたえなかった。
 28歳のとき3里離れた山間の村に養子に

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