文芸研究Ⅳ 下原ゼミ通信 No.46

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2020年(令和2年)11月17日発行

文芸研究Ⅳ下原ゼミ通信No.46

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
9/29 10/6 10/13 10/20 10/27 11/3 11/10 11/17 11/24 12/1 12/8 12/15 12/22 1/12 1/19 

2020年下原ゼミⅣ 観察と表現の旅

11・17ゼミⅣ

本日のゼミⅣ授業

 11・17、今日のゼミⅣの授業は、以下の要領で行います。

□ドストエフスキー生誕200周年前夜祭を祝って処女作に挑戦

『貧しき人々』を読む この名作、卒業までの残りの時間、読破できるか。
とにかくドストエフスキーをよみなさい。アインシュタイン、ニーチェ、川端康成といった、多くの識者たちが薦めたドストエフスキー。最初の1冊を読み切りましょう。

マラソン朗読会 8区読み切り スタート

西村美穂さんから絵本展のお知らせ

もりの絵本屋さん絵本展 in café earth しろうさぎ

日芸の学生サークルでオリジナル絵本の原画展示・販売をしています。

期 間 : 11/1(日)~ 11/29(日)

時 間 : Open 11:00   Close18:00

※月曜日定休日  ※入場無料・ワンオーダー制

café earth ekoda
江古田駅南口旭丘文化通り徒歩2~3分 東京都練馬区旭丘1-56-13-101

11・10ゼミ報告 参加:西村美穂 中谷璃稀 吉田飛鳥

□写真家・童画家 熊谷元一のDVDを観る。「教え子たちの歳月」

□『ひがんさの山』答え合わせ

□ドストエフスキー『地下室の手記』脚本化『ぼた雪』口演

 ドストエフスキーの作品は、ハマらないとなかなか読めないところがあります。とくに『地
下生活者の手記』は、好きか嫌いかに分かれるところがあります。
そんなわけでこの作品を紹介するとき、編集室では、脚本化して、入っていくようにして
います。「ぼた雪」の章を脚本化しました。(<>は米川正夫訳の抜粋)

脚本 ぼた雪 (ドストエフスキー『地下生活者の手記』から)

登場人物(ナレーション含む)

・ナレーター ・・・・・・・・西村美穂
・黒犬・・・・・・・・・・・・西村美穂
・風俗店呼び込み・・・・・・・西村美穂
・地下室男・・・・・・・・・・中谷璃稀
・風俗嬢・・・・・・・・・・・吉田飛鳥

 十九世紀ペテルブルグ地下室男は現代日本の風俗嬢に勝てるか

ナレーション
十九世紀ロシア・ペテルブルグの娼婦リーザに敗れた地下室男は、懲りることなく二十一世紀にタイムスリップして極東のちっぽけな国の風俗嬢に闘いを挑んだ。
果たして彼は、現代の風俗嬢の深層心理に迫り、その心根を覆すことができるだろうか。彼女たちに〈子供が自分の大好きな人に、物をねだるような目つき〉をさせることができるだろうか…。〈宝物のように、大事にしまっていた〉恋人の手紙をとりに駆けださせることができるだろうか。
『地下生活者の手記』脚本化『ぼた雪』について
   
西村美穂

以下、今日の朗読を通しての感想です。
フェミニストのようなことを言うかもしれませんが、地下室男がなぜ敗北したかと考えると、やっぱり女性にだけ言ったからです。
本当に彼女の現状を改心させたいなら、入るべきは客待ちの娼婦部屋ではなく客入りの娼婦部屋でした。だって、需要がなければ供給もまたないはずですから。つまり、地下室の男は男性にこそ「ダイヤモンドにも等しい処女の宝」改め「ダイヤモンドにも等しい童貞の宝」を説くべきでした。そうすれば、彼女は今頃服屋の店員にでもなり同じように夢を語っていたと、そう思います。しかし実際の結果はわかっています。二時間料金の終わる前につまみ出されて、それきりでしょう。
熊谷元一研究   マスメディアで知る熊谷元一

注目された黒板絵

11月3日、10日のゼミで熊谷元一に関係するDVDをみました。が、メディアでとりあげられたものは、他にも多くあります。

とくに2015年開催の「黒板絵」の写真展と、同時に出版した写真集『黒板絵は残った』(D文学研究会)は、戦後70年という節目の年もあって、注目されました。
以下は、マスメディアで紹介された熊谷元一関連と『黒板絵は残った』関係です。

□NHKテレビ 1996・11・24 日本点描「教え子たちの歳月」

□NHKテレビ 2011・1・14 「熊谷元一さんが残したもの」(信州を知るテレビ)

□NHKテレビ 2011・12・7 「熊谷元一さんのまなざし」(イブニング信州)

□朝日新聞 秋田 2012・7・10 「教え子撮った瞳 温厚」

□読売新聞 2013・3・23 芥川喜好編集委員「時の余白に」皆さんは私の目標でした

□毎日小学生新聞 2014・4・10 「60年後の1年生」教室の1年生を撮影

□読売新聞 2015・4・25芥川喜好編集委員「時の余白に」無心という時間があった

□テレビ長野朝日放送 2015・6・21 戦後70年特集 黒板絵は残った放映

□毎日新聞インターネットニュース 2015・6・9 黒板絵は残った

□信濃毎日新聞 本・『黒板絵は残った』2015・6・21 教育の力を信じたくなる1冊

□南信州新聞 2015年2月21日 「恩師から最後の宿題」

□南信州新聞 本・書評「『黒板絵は残った』出版」 2015・6・26 

□南信州新聞 2015・6・26コラム「偶然の出会いを楽しみながら」高柳俊男教授

□朝日新聞 夕刊 2015・7・3 「思い出の黒板絵」

□朝日新聞 インターネットニュース 2015・7・5 「黒板の落書き絵」

□法政大学国際文化学部 SJ(スタディ・ジャパン)飯田・下伊那地区研究

□HP高木圭介ブログ「黒板絵は残った」を観て考えさせられたこと

             
熊谷元一研究
あの日 あの時

1953年4月1日 ピカピカの一年生

 ドストエフスキー生誕200周年を前に

来年2021年は、ドストエフスキー生誕200周年です。記念すべき節目に、今一度ドストエフスキーとは何かを再確認しておきましょう。
以下は拙書『ドストエフスキーを読みつづけて』から

第一部 ドストエフスキーの謎

一 なぜロシア文学か
 
なぜドストエフスキーは、読み継がれるのか。研究されつづけられるのか。この謎解きの前段階として、まず、なぜロシア文学は日本人に受け容れられたのか、からはじめたい。
 ロシア文学が日本に入ってきたのは、一八六八年の明治維新以後である。そのへんの経路は「ドストエーフスキイの会」創設者の一人である故新谷敬三郎先生の著書『ドストエフスキイと日本文学』(海燕書房1976)に詳しく書かれている。抜粋してみた。

 日本にロシア文学が継続的、多少とも組織的に入ってきて、何らかの役割を果たすようになるのは明治以後、ほぼ一八八○年からである。ロシア文学移入の経路は、明治、大正期においては、大別して三つ考えられる。(一)東京外国語学校、(二)ニコライ神学校、(三)丸善、である。(「日本におけるロシア文学」)

 明治維新後、文明開化した日本に西洋文化が濁流のようにどっと流れ込んできた。文学作品においても例外ではなかった。舶来ものがあふれるなかで、出版物はおよそ右記の三つの経路から入ってきたという。そこにはロシア文学に限らずドイツ文学やフランス文学もあったに違いない。実際、森鴎外はドイツ(一八八四年)に夏目漱石はイギリス(一九00年)に、また大正に入ってから河盛好蔵や芹沢光次良らもフランスに学んでいる。新しい国づくりとして法律も医学も西欧を手本とした。しかし、こと文学に限って日本の読者や文学者が真に興味を示したのはロシア文学だけだった。何故にゾラ、モーパッサン、ゲーテ、ディッケンズといった並み居る文豪たちではなかったのか。本書は、それについて、このように説明している。

…日本の文学がロシア文学を知り、それを受け容れ始めたのは、ヨーロッパで近代が終わり現代が始まろうとする変化のときで、そのヨーロッパの諸文学にロシア文学が意味を持ちはじめ、ロシア文学もまた生まれ変わろうとしていたときであった。そのとき、日本では、ロシア文学を受け容れるのに、大別して二つの態度が生まれた。それはひと口でいえば、(一)十九世紀的ロシア、とくにナロードニキ的心情を指向する態度、(二)象徴主義の胎から生まれた二十世紀的ヨーロッパの知性を指向する態度、である。この二つの指向性は、ほとんど今日に至るまでのロシア文学自体にも見られ、その創作の原動力となっている。…

 ロシア文学は、真綿に浸み込む水のように明治の日本の文学者に浸透した。その要因は、当時のロシアと日本が似通った国情にあったと、著者は指摘する。「ナロードニキ的心情とヨーロッパの知性を指向する態度」である。この二つの要素は、かつてドストエフスキーが『時代』で発表した土壌主義や幕末の儒学者・洋学者の佐久間象山(1811―1864)が唱えた「東洋の道徳、西洋の芸術」に通じるものがある。また

 「この二つの指向性は、ほとんど今日に至るまでのロシア文学自体にも見られ、その創作の原動力となっている。」(『ドストエフスキーと日本人』)

とする見方は、本論の副テーマ「柳の下になぜ二匹目のドジョウがでるのか」の謎を考える上で興味深いものがある。時代を経ても消えぬ二つの指向性は、一貫して日本文学に影響を与えつづけてきた。そのことが研究者にとっても尽きぬテーマとなっているといえる。
 こうした事情からロシア文学は、明治の日本に受け容れられた。が、当時のロシアと日本は、決して友好国ではなかった。むしろ樺太や朝鮮半島の領土問題から険悪な関係にあった。対立する両国であったが、西欧への劣等意識と文明への憧憬はともに同じだった。それ故に日本人にとってロシア文学は、よりシンパシィのあるものに感じられたのかも知れない。
 そして、もう一つ受け容れ易い心情として、反帝政意識というものがあったといわれる。一九○四年にはじまった日露戦争で日本は樺太の南半分を得た。このときの関係者の喜びを長瀬隆著『日露領土紛争の根源』(草思社)には、こう書かれている。

 シーボルトも、チェーホフも、生きていたならば、その地がたとえ南半分にせよ日本に返還されたことを、己の見解と主張が生かされたこととして喜び歓迎したであろう。二葉亭四迷はもちろんまだ存命であったが、若き日の志が実現されたわけであり、微笑んだであろう。彼はロシア文学を愛好したが、そのロシア文学は全体として帝政への反対を特徴としていた。その一人としてチェーホフもまた在ったのである。(ツァーリズムの降伏、革命の序曲)

 「ロシア文学は全体として帝政への反対を特徴としていた」を読み解くと当時ロシア文学は、物語だけの読みではなく政治的、思想的読みとしての比重も大きかったようだ。明治維新以後、強引に産業革命をはじめ富国強兵策を推し進める帝国日本への反発。ロシア文学が容易に受け容れられたのは、そうした隠れた深層心理も作用したのかも知れない。

二 なぜドストエフスキーか

 次にロシア文学のなかでも、特にドストエフスキーが受け容れられたのはなぜか。小説の面白さからいえば、プーシキンやゴーゴリといった他の大作家たちの方が、一般的には読みやすいし入り易い。にもかかわらず、ドストエフスキーは、より深く読まれた。
 唐突だが夏目漱石の『三四郎』の中にこんな会話がある。東京に向かう列車で同席した男が、これからの日本は「亡びるね」と言うところだ。当時の日本は西欧化一辺倒だった。が、こうした批判的な目もあったのだ。この頃、横浜で発行されていた英字新聞には、在日の外国人から急激な文明開化を危惧する記事が多数寄せられていたという。明治十六年に来日したフランスの風刺画家ビゴー(1860-1904)は西欧まねする奇異な日本人を多く描いた。
 やみくもな近代化、西欧化への懐疑と警鐘。それは、一貫してドストエフスキー作品のテーマだった。『夏象冬記』や『鰐』などにも直截に描かれている。最近の世界の異常気象の原因の一端は、科学文明にあるかも知れないとする見方がある。明治の読者が、よりドストエフスキーに執心したのは作品に潜む予見と警鐘を読み取ったからと想像する。
 それにしても日本人は、なぜ、これほどにドストエフスキーが好きか。研究者にしても、なぜ次々と現れるのか。この現象の謎についてドストエーフスキイの会代表・木下豊房先生は著書『近代日本文学とドストエフスキー』(成文社1993)のあとがきで、このように検証されている。

 ロシアの…評論家のカリャーキンを、1985年にモスクワの自宅に訪ねた時には、彼はトルストイの戦争と平和を比較して、『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』に見られる「突然(ヴドゥルク)」という言葉の頁毎の頻出度を赤の棒グラフで視覚的に示す図表を見せてくれた。そして日本人がドストエフスキーをよく理解する理由として、自分の推定を次のように語った。
 日本人はドストエフスキーの小説に頻発する「突然(ヴドゥルク)」の危機に、歴史的に絶えず脅かされてきたのではないだろうか。例えば地震、原爆、第二次大戦後の価値転換など。19世紀には、ドストエフスキーが「プーシキン演説」でのべているように、ロシアが全世界的なものを理解する受容能力を持っていたが、現在では日本がそうではないのか、と。…

 このカリャーキンの推測について著者は

こうした説明に私達が納得させられるかどうかはともかくとして…

と、断りながらもつづいてこのように解説されている。

 …日本人とドストエフスキーというテーマは、私達自身の自己認識の切り口として、無視できない価値を持っているように思われる。むろん私達が自分の内部の目で見つめたドストエフスキーとの出会いは、カリャーキンの指摘よりもはるかに複雑で屈折した様相を呈しているにちがいない。なぜ日本人がドストエフスキーを愛読するかという問いに、一義的な解答をあたえることはおそらく困難であろう。しかしドストエフスキーの読者には世代間の共有体験があって、それが出発点になっていることを指摘することは出来るかもしれない。私のドストエフスキーとの出会いもまた、この世代的な特徴を帯びているように思われる。…
として著者自身の、ロシア文学やドストエフスキーへのきっかけをこのように述べられている。
私が昭和30年代の大学時代、ドストエフスキーのとりこになったのも、スターリン批判、ハンガリー事件などの後の学生運動の状況と無縁ではなかった。

 「なぜドストエフスキーか」の要因として、日本人は明治維新以降「歴史的に絶えず脅かされてきた」とする評論家カリャーキンの見方は、大いに頷けるところもある。後で団塊世代の時代的背景をみることで、この推測を照合してみたい。
 また、ここで注目されるのは「ドストエフスキーの読者には世代間の共有体験があって、それが出発点になっている」という見方である。団塊世代とドストエフスキーの関係を考える上で、重要な見方といえる。著者である木下先生がドスト体験したのは六十年安保闘争の時代だという。団塊世代と比較すると、政治的には安保世代は国政問題、団塊世代は学園自治問題ということで似て非なるものがある。しかし、組織や主義が吹き荒れた時代からの出発という点では、共通している。
 ここまでの検証で「なぜドストエフスキーか」は、時代背景が大きな要素となっていることがわかった。が、他に精神的なこととして心理作用もあげられる。例えば、かつて「ドストエフスキーを読み進めると、やがては自分に突き当たる」と評した作家がいた。明治の読者は、この「私」を知る深層心理体験があったのではないだろうか。それまでの日本はまず「お上」があった。明治になって、「現人神」に代わったが、私を知る機会も得た。
 ドストエフスキー文学による「私」の発見、というか認識。これは、それまで階級や連帯社会で生きてきた読者にとって衝撃だったに違いない。
 余談だが、この発見は日本人の心に知性の喜びを与えた。(文明に取り残されていたということで)一種トラウマともなった。昨秋観た映画『三丁目の夕陽』のなかで文学青年が自転車修理店の親父と喧嘩する場面がある。文学青年は、汗して働いた「こともないくせに!」と生活態度を罵られ悔し紛れに「ロシア文学も読んでないくせに」と罵り返す場面がある。
 ロシア文学を読んでいない。いまではどうか知らないが、かつては文学を志す者にとって、この罵声はかなりインパクトを持つものだったかも知れない。千八百年代のロシアでは、「フランス文学もしらないくせに」が同義語だった。兄ミハイルへの手紙に、よく「あなたはラシーヌを読みましたか」とか「お読みなさい、哀れな人、読んでコルネーユの足下に跪きなさい」などといった文面を見かける。おそらく日本におけるロシア文学観は、こうした現象と同じだったのではと推測する。文学=ロシア文学の印象である。
 この「私」の存在は他のロシア文学でも知ることができる。が、深化度においてドストエフスキーと違うものがある。例えば自分の愛読書を紹介するのに「ロシア文学が好きです」「トルストイやチェーホフを読んでいます」とは言えるが、「ドストエフスキーが好きです」とはなかなか言えない。これはドストエフスキーが既に「私」をも突きぬけ「人間」、そして、そのさきにある「生命」に至っているという証拠でもある。
 今日、ロシア文学を読む人は稀となった。が、ドストエフスキーは時代に関係なく読まれている。「ドストエーフスキイの会」「全作品を読む会」は三十五年つづいている。これもドストエフスキーと他のロシア文学との違いを証明している。

三 ドストエフスキーの読まれ方
                         つづく

読 書 朝日新聞社刊 梅原猛著『百人一語』(新潮文庫『百人一語』)

織田信長とドストエフスキー(神になりそこなった男)

 今、ひろく日本の歴史の中で、その人格に「近代精神」が具現した英雄を探すとしたら、織田信長において他に存在しないであろう。/ 彼が残虐であったためであるというより、近代という時代が中世的、宗教的権威の完全な否定の上にしか築かれないことを明らかに示そうとする時代精神がなさしめた業であるといってよかろう。/ いつも彼は人生を「夢幻」と見ることによって、冷静な判断をし、果敢な行動に出ることが出来たのである。この信長の思想はニーチェのいう積極的なニヒリズムであるといってよかろう。信長はこの「積極的ニヒリズム」を「合理主義」と結合させ、それを行動の原理としたのである。
 ところが、信長は晩年、そうけん寺という壮大な寺院を安土城の中に築いた。/ 信長はこの寺で自分自身を永遠の「神仏」としたようであることは、近代思想は結局、/ 「人神思想に帰結するというドストエフスキーやニーチェの予言を思わせるが/ 滅んでいった人間の一人にすぎなかったのである。

掲示板

HP「ドストエーフスキイ全作品を読む会」で検索 興味ある人はのぞいてください。

読書会は、以下の要領でおこなっています。

読書会開催 偶数月の土曜日 午後2時 ~ 5時 

会場:東京芸術劇場小会議室 池袋西口 徒歩3分

次回は、12月6日(日)小会議室7

toshihiko@shimohara.net 携帯090-2764-6052 下原

下原ゼミⅣ ドストエフスキー生誕200周年を記念して 名前

『貧しき人々』本日読みの感想 

「これまでの主人公についての印象」

マカール・ジェーヴシキン

ワルワーラ

                      

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