文芸研究Ⅳ 下原ゼミ通信 No.49

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2020年(令和2年)12月15日発行

文芸研究Ⅳ下原ゼミ通信No.49

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
9/29 10/6 10/13 10/20 10/27 11/3 11/10 11/17 11/24 12/1 12/8 12/15 12/22 1/12 1/19 

2020年下原ゼミⅣ 観察と表現の旅

12・15ゼミⅣ

本日のゼミⅣ授業

 12・15、今日のゼミⅣの授業は、以下の要領で行います。

ドストエフスキー生誕200周年前夜祭

記念にマラソン朗読会を実施中 ゴールまで83頁

11月17日1区スタート → 2区11月24日 → 3区12月1日

作品は『貧しき人々』 卒業までの残り時間で、読破できるか。

本日は3区からの出発です。

全行程149㌔

1区走者 中谷璃稀 → 吉田飛鳥 → 西村美穂 4回転3周 38地点
2区走者 吉田飛鳥 → 西村美穂 → 中谷璃稀 4回転3周 66地点
3区走者予定 西村美穂 吉田飛鳥

2021年は、ドストエフスキー生誕200周年です。この節目を記念して、下原ゼミⅣでは、マラソン朗読会を実施しました。現在、往路を快走中です。
 
2020年、マラソン朗読会走者、紹介

☆西村美穂 学力優秀、絵本作家 著作に『ぼくの さいぼうの はなし』
      『かたがむ』などがある。姐ご肌。

☆中谷璃稀  神戸からきたさすらい人 かっては舞台役者を目指した。

☆吉田飛鳥 大阪谷のスナプキン 元豊島園レンジャー
下原ゼミⅢ、Ⅳを振り返って

ゼミⅣの皆さんとは、2019年度、2020年度のお付き合いでした。光陰矢の如し、たちまちの2年間でした。短い間でしたがいろいろなことがありました。いまも世界的パンデミックの最中にありますが、これまで歩いてきた道を振り返ってみたいと思います。

【ゼミ参加者】

2018年度 ゼミⅡ 西村美穂  志津木喜一 村瀬 琴  ゼミ誌『自主創造』

2019年度 ゼミⅢ 西村美穂 吉田飛鳥 中谷璃稀 志津木喜一 松野優作
         神尾ソウ 東風杏奈 山本美空 佐俣美彩    
          ゼミ雑誌『是溢(ぜみ)市』

2020年度 ゼミⅣ 西村美穂 吉田飛鳥 中谷璃稀 志津木喜一 松野優作 
         佐俣美彩

【下原ゼミ通信の記録】と文芸研究

前期

文芸研究Ⅲ「下原ゼミ通信No.1 」2019年4月9日発行「2019年読書と創作の旅」を前に」「令和とドストエフスキー」「令和雑感 『万葉集』で驚いたこと
     読書のススメ 書くことのススメ  習慣化、日常化を目指す。
文芸研究Ⅲ「下原ゼミ通信No.2 」2019年4月16日発行、参加者紹介 嘉納治五郎「青年訓紹介 「熊谷元一生誕110周年を記念して」
文芸研究Ⅲ「下原ゼミ通信No.3 」2019年4月23日発行

文芸研究Ⅲ「下原ゼミ通信No.4 」2019年5月7日発行

文芸研究Ⅲ「下原ゼミ通信No.5 」2019年5月14日発行

文芸研究Ⅲ「下原ゼミ通信No.6 」2019年5月21日発行

文芸研究Ⅲ「下原ゼミ通信No.7 」2019年5月28日発行

文芸研究Ⅲ「下原ゼミ通信No.8 」2019年6月4日発行

文芸研究Ⅲ「下原ゼミ通信No.9 」2019年6月11日発行

文芸研究Ⅲ「下原ゼミ通信No.10 」2019年6月18日発行

文芸研究Ⅲ「下原ゼミ通信No.11 」2019年6月25日発行

文芸研究Ⅲ「下原ゼミ通信No.12 」2019年7月2日発行

文芸研究Ⅲ「下原ゼミ通信No.13 」2019年7月9日発行

文芸研究Ⅲ「下原ゼミ通信No.14 」2019年7月16日発行

文芸研究Ⅲ「下原ゼミ通信No.15 」2019年7月923日発行

後期前半

文芸研究Ⅲ「下原ゼミ通信No.16 」2019年9月24日発行

文芸研究Ⅲ「下原ゼミ通信No.17 」2019年10月1日発行

文芸研究Ⅲ「下原ゼミ通信No.18 」2019年10月8日発行

文芸研究Ⅲ「下原ゼミ通信No.19 」2019年10月15日発行

文芸研究Ⅲ「下原ゼミ通信No.20 」2019年10月22日発行

文芸研究Ⅲ「下原ゼミ通信No.21 」2019年11月12日発行

文芸研究Ⅲ「下原ゼミ通信No.22 」2019年11月19日発行

文芸研究Ⅲ「下原ゼミ通信No.23 」2019年11月26日発行

文芸研究Ⅲ「下原ゼミ通信No.24 」2019年12月3日発行

文芸研究Ⅲ「下原ゼミ通信No.25 」2019年12月10日発行

文芸研究Ⅲ「下原ゼミ通信No.26 」2019年12月17日発行

文芸研究Ⅲ「下原ゼミ通信No.27 」2019年12月24日発行

後期後半 2020年

文芸研究Ⅲ「下原ゼミ通信No.28 」2020年1月7日発行

文芸研究Ⅲ「下原ゼミ通信No.29 」2020年1月14日発行

2020年ゼミⅣ

前期

文芸研究Ⅲ「下原ゼミ通信No.30 」2020年5月19日発行 オンライン

文芸研究Ⅳ「下原ゼミ通信No.31 」2020年5月26日発行 オンライン

文芸研究Ⅳ「下原ゼミ通信No.32 」2020年6月2日発行

文芸研究Ⅳ「下原ゼミ通信No.33 」2020年6月9日発行 オンライン

文芸研究Ⅳ「下原ゼミ通信No.34 」2020年6月23日発行 オンライン

文芸研究Ⅳ「下原ゼミ通信No.35 」2020年6月30日発行 オンライン

文芸研究Ⅳ「下原ゼミ通信No.36 」2020年7月7日発行 オンライン

文芸研究Ⅳ「下原ゼミ通信No.37 」2020年7月14日発行 オンライン

文芸研究Ⅳ「下原ゼミ通信No.38 」2020年7月21日発行 オンライン

文芸研究Ⅳ「下原ゼミ通信No.39 」2020年7月28日発行 オンライン

後期後半

文芸研究Ⅳ『下原ゼミ通信No.40 』2020年9月29日発行

文芸研究Ⅳ「下原ゼミ通信No.41 」2020年10月6日発行

文芸研究Ⅳ「下原ゼミ通信No.42 」2020年10月13日発行

文芸研究Ⅳ「下原ゼミ通信No.43 」2020年10月20日発行 

文芸研究Ⅳ「下原ゼミ通信No.44 」2020年10月27日発行 

文芸研究Ⅳ ゼミ 2020年11月3日 対面授業有り

文芸研究Ⅳ「下原ゼミ通信No.45 」2020年11月10日発行

文芸研究Ⅳ「下原ゼミ通信No.46 」2020年11月17日発行

文芸研究Ⅳ「下原ゼミ通信No.47 」2020年11月24日発行

文芸研究Ⅳ「下原ゼミ通信No.48 」2020年12月1日発行

文芸研究Ⅳ ゼミオンライン クラスルーム

文芸研究Ⅳ「下原ゼミ通信No.49 」2020年12月15日発行

11・24ゼミ報告 朗読走者:西村美穂 中谷璃稀 吉田飛鳥

『貧しき人々』マラソン朗読会 2日目 P38 下段3行目スタート 66

主人公マカール・ジェーヴシキンは、場末の安アパートに住む中年の独身男で小役人。同じアパートの向いの棟には、仕立物をしてようやく暮らしをたてている、身寄りのない若い娘ワルワーラがいる。この小説は、この年のはなれた男と女が交わす54通の手紙から成っている。

熊谷元一研究   熊谷元一シンポジュウム、コロナで中止 

2020年は熊谷元一生誕110周年ということで、熊谷の故郷阿智村で記念のシンポジュウ
ムが企画されました。下原も教え子の一人として参加し熊谷の思い出を話すことになっていました。しかし、コロナ感染拡大により縮小を余儀なくされました。また、感染者が爆発的に増加した関東からの阿智村入りは心配です。そんなわけで、参加を見送りました。せっかくなので、話したかった項目の一部を紹介します。草稿なので誤謬があります。

熊谷元一先生の思い出

下原です。千葉県の船橋市から参りました。熊谷元一先生の教え子の一人です。昭和28年、西暦ですと1953年になります。会地小学校、現在の阿智第一小学校に入学しました。熊谷先生は、そのときの担任でした。東組と西組の二つのクラスがあり、熊谷先生は東組の担任でした。32人の児童がいました。1年生~4年生まで4年間教わりました。

【どんな先生だったか】
そんなことで、熊谷先生について、どんな先生だったか、どんなふうに写真を撮っていたか、いつ絵を描いていたのかなど、よく質問されます。
先生が亡くなられたとき、多くのメディアからそんな質問をされました。しかし、私は、答えることができませんでした。記憶にないんです。なにしろ、一年生にとって熊谷先生は、社会にでて、はじめて接する大人です。だから、どんな先生と聞かれても答えようがありませんし、どんなふうに教えていたかもわかりません。正直いいますと、先生が写真を撮っていたとか、絵を描いていたとか、そういった記憶は、私には、まったくないんです。
カメラは、当時貴重なものでした。が、私たち一年生にとっては、みるもの、体験すること、すべて、はじめてのことでしたから、カメラだけが特別に見えたということはありません。そういうことで、熊谷先生がカメラをもっていても、めずらしいことでも不思議なことでもなかったのです。

【三足のわらじ】
熊谷先生は、どんな人だったか。先生がご自身のことを書いた本があります。お読みになった人はご存じだと思いますが、先生自身、この自伝書のなかで述べています。タイトルを『三足のわらじ』としているご著書です。先生は、ご自分の人生を三足の草鞋にたとえられていました。教師と、写真家、童画家です。この三足が一番発揮できたのは、昭和28年に入学した私たちのときではなかったか、と思います。
その点、私たちも、運がよかったと思います。この三足の恩恵を受けることができました。童画家としての先生からは、大勢の子どもがコンクールで入選して賞状を受ける栄誉を得ました。私も、絵はとくいではありませんが、第一回全日本学生美術展覧会で入選し、賞状をもらいました。写真家の先生からは、写真がめずらしい時代に、たくさんの写真をとってもらいました。この時代、小学生のときの自分の写真を、こんなにも、もっている子どもはいません。

【熊谷先生も写真撮影も、奇跡】
 そういうことで、28会は、よく羨ましがられます。どうして、あの連中ばかり撮って、自分たちは撮ってくれないんだ。そんな不平不満を耳にしたことがあります。熊谷先生の人生は、人間万事塞翁が馬ではありませんが、奇跡的なことが多いです。私たちを撮った『一年生』は、まさに奇跡と巡り合わせの産物といえます。先生の、創意工夫と、これを撮ったら面白いぞという、好奇心、それに運のよさが引きこんだ結果なのです。それに時代のこともあります。
この時代、昭和28年は、戦後7年日本は、まだ完全な独立国ではありません。翌年昭和29年に自衛隊が発足で、ようやく独立国になったばかりです。

【教育現場の混乱期】
そういうことで当時の教育現場は、教師の創意工夫に任せられていたところがあります。民主主義の教育がどんなものか、誰も知りません。『一年生』を撮るのは、昭和28年、この年しかなかったのです。
それに、熊谷先生に運が加担した、といっては語弊がありますが、隣のクラス西組の担任が、病気で学校にこれなくなった。かわりに高校を卒業したばかりの、原房子先生が担任になったことです。高校でたての18歳の娘さんを指導しながらは大変だったでしょうが、精神的には、同僚のベテラン先生よりも気がらくだったんではないでしょうか。苦手な音楽や、踊りは、任せていました。熊谷先生は、戦後の最後の混乱期に「一年生」の担任になった。

【熊谷先生の謎】
熊谷先生には、その人生で大きな謎がいくつかあります。その謎はいずれも、その後の人生を左右する選択です。
一つは終戦前、突然、大東亜省に辞表をだして、村に戻られたこと、二つには、終戦になってから、東京に戻らなかったことす。先生は、もともと東京に絵の勉強に行きたかった。教師を天職と思っていなかった。終戦になったとき、住みなれた東京に戻られてもなんの不思議はありません。しかし、先生は、東京には帰られなかった。というかもどられなかった。
この謎については、生前、先生にはっきり聞いておくべきだったのですが、なぜかききずらいこともありまして、先に先にとのばしているうちに、先生は、お亡くなりになってしまいました。それで自分なりに推理して創作しました。あとで紹介します。

【一年生の謎】
岩波書店で『かいこの村』を刊行したとき、編集部で「こんどは何を撮りますか」と聞かれ、来春から新一年生の担任を受け持つことになっていたので、それで『一年生』を撮りますと答えたそうです。これも巡り合わせがよかったのですね、それに、一年間、撮ろうという発想も、すごいです。奇跡です。今日、スマホ時代で、だれもが写真を撮ることができます。しかし、プライバシーが問われることになり、一年生を学校のなかで、一年間、しかも授業の時間でも自由に撮る。世界でも、ほとんど不可能かと思います。その意味で、『一年生』の写真は、奇跡中の奇跡の写真集といえます。たとえば、一番有名な、コッペパンをかじる一年生。いろんなところでみかけます。久保田君と、牧島君、一昨年でしたか、亡くなりましたが、なくなりましたがこの写真、多くの人は、給食のパンをたべていると思っているようです。ちがうんですね。このころは、味噌汁だけが給食になった時代です。農家の子はパンは、たべたことがなかった。牧島君も久保田君も、この日、たまたまパン、一年に一回あるかないかと思いますが、そんな日だったんですね。

【一年生と熊谷先生】
しかし、写真集「一年生」は有名ですね。写真自体がめずらしい時代です。そんな時代に一年間写真を撮ったのですから、被写体となった子どもたちの反応はどうだったか、知りたいものです。それについて熊谷先生は『一年生』が出版された年1955年に岩波書店からだされている『図書』という雑誌10月号に、「子どもたちと暮らして」と題して、こんな文を寄せているのです。写真のことを、カメラで撮られるということを、子どもたちはどう思っていたのか、それがわかる文なので、ちょっと読ましてもらいます。

『一年生』の写真をとりはじめたころは、子どもたちが意識して表情をかえたり、わざとらしい動作をするのではないかと思ったのですが、案外そういうことはありませんでした。というのは最初の1、2回は、写真はどういうふうにできたか、とかとれたかというようなことをききましたが、あとで見せてやるよ。というともうそれで満足して、写真はとるもので、見るものではなく、まして自分にくれるものではないと思いこんでしまったので、/ 鼻先にカメラをつきだしてもはじめちょっと気にするだけで態度がかわらぬのでうまくゆきます。
そして、カメラは、しじゅう首にかけて授業をしておりました。と書いています。

【熊谷元一と私】
 運がいいと云えば、個人的にわたしも熊谷先生と出会えたことは、運がよかったと奇跡に感謝しています。みんなあとで聞いたはなしですが、私の場合、とくに運がよかったんですね。三つのわらじ全部から恩恵を受けられました。先生はだれが何回、写っているか、いつも数えていらっしゃいました。私の場合、一人だけのが二、三枚あります。これはひいきではなく気になっていたからと思います。なぜ気になっていたのか。
個人的なことになりますが、私は、不肖な教え子でしたから、先生は気になっていて、ついシャッターを押す回数が押したかもしれません。「一年生」には、数を数えている写真があります。この写真、毎日新聞の「小学生新聞」に半ページで掲載され、インターネット新聞でも紹介されました。もう一枚、こちらは「一年生」にはありませんが、よくつかわれる一枚です。私が立ちあがって先生と話している写真です。解説なんかで紹介されるのは、「せんせい、おしっこ」の場面になっています。しかし、私が授業中に、そんなことを云うはずがないのです。というのも、小学校に入学することになって、わたしのことでちょっと問題になりました。私は、なぜか村でただ一人の吃音傷害者だったのです。

【吊り橋と熊谷先生】
私は、駒場、曽山部落の出身です。曽山ときいて、私たちの世代から上の人は吊り橋を思い浮かべると思います。全長40メートル幅2メートル弱の木製のつり橋がありました。明治になって国道ができるまで、伊那街道として重要な役目をおってきました。私は、小、中、高と、このつり橋を渡って学校に通いました。吊り橋は、昭和40年ころ、中央道工事のダンプが引っかかって粗大ゴミとなり解体されました。ちょうど、そのころわたしは高校を卒業して村をはなれました。熊谷先生も、そのころ退職されて、東京に引っ越されました。
そんなわけで吊り橋を思いだすと、熊谷先生のことを思いだします。ちなみに、先生は子どものころ曽山と大橋の橋を描いた絵があります。

【わたしと熊谷元一】
私が話をすることをきいたら熊谷先生は、いまでも、きっと心配するでしょう。なぜか、私は長内ころ吃音、どもりですが、村ではだれもいなかったと思います。部落のなかで生活しているだけだったら、問題なかったのですが、小学校にはいったら、やっていけるのか。そんな問題がもちあがりました。松本に特殊学校があるから、そっちに寄宿舎もあるそうだから、通ってみたら。そんな話もあったそうです。しかし、熊谷先生は一蹴したそうです。「そんなことは、なんでもない、すぐなおる」実際、入学してから、何の支障もありませんでした。先生は、私をあえて指しませんでした。

【最初の謎】
熊谷先生が引っ越された。そのことをはじめて知ったとき、正直おどろきました。先生は退職後、てっきり阿智村で写真を撮ったり、童画を描いたりして悠々自適にのんびり老後を過ごすものばかり思っていました。定年まで3年残しての退職もなぞでした。が、1年先に東京にきていた私は、先生が東京にこられて、うれしい気持ちもありました。先生の人生には、いくつもの謎がありますが、突然の東京への引っ越しは、その謎の一つです。

【父親栄吉さんのこと】
唐突に思えた、熊谷先生の東京への引っ越し。はじめはびっくりしましたが、先生のことを知るうちに、栄吉さんが大きく関係している。そう想像するようになりました。熊谷先生を絵の道にすすめさせたい。栄吉さんは、駒場では、不安定な立場でした。指物大工の小池家に養子に入るわけですが、長男の方が、満州浪人のようなことをやっていて、いつ帰ってくるかもわからないので、実質はハツエさんが養子をもらったのですが、形だけはハツエさんが竜丘村に嫁ったことにした。だから本籍竜岡村にあるので、徴兵検査は、竜岡村でやったそうです。知らない人ばかりでこころぼそかったと、書いています。、
白鳥は悲しからずや空の青、山の青にも染まらず漂う。
カイコを飼い続ける。栄吉の、その姿が熊谷の一つのことをやり通す、

【熊谷元一研究】
私は現在、日本大学の芸術学部で講師をしています。ゼミで創作指導しているのですが、その傍ら熊谷元一研究をはじめました。20年ほど前ですが、文芸学科というところだったので、写真家・童画家の熊谷先生とは畑違いと思ってしまったのです。写真学科の大学院生、韓国の女子留学生ですが、
 それで本格的に熊谷元一をやってみようとゼミで熊谷元一研究をたちあげたんです。いろいろ資料つくったり、写真をよういしたりして、ぜみの説明会、教室でまっていたのです。これが一人もこない

【元一の名前】
先生が亡くなられて10年になります、熊谷元一研究、はじめたのはいいが、いざやってみると、いろいろの謎について、きいてなかったことに後悔ばかりです。いつもお会いするたびにたずねようたずねようと思いながら、聞きはぐってしまうのです。最初の後悔が、お名前のことです。「もといち」という名の由来、しっかりきいておけばよかったと悔いています。文芸学科で小説指導しているので、つい想像してしまうのですが、熊谷先生の母親のハツエさんのお母さん、熊谷先生にはお祖母ちゃんですが、鈴やさんが早くに亡くなった。小学校4年のときです。ハツエさんは学校をやめ家の手伝いをしたそうです。朝ドラの主人公も、早くに母親を亡くしたため、学校をやめて家の家事をやるようになった。それで、自分の子どもがうまれたとき「元気が一番」から元一としたのではないかと、勝手に解釈しています。
 
次号に

☆2021年はドストエフスキー生誕200周年です。ドストエフスキーに興味ある方はHP「ドストエーフスキイ全作品を読む会」を検索ください。

下原の小説「ドストエフスキイの人々」連載中
下原『罪と罰』の脚本「金貸し老婆とその妹強盗殺人事件裁判」1回~5回公判

toshihiko@shimohara.net 携帯090-2764-6052 下原

            

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