文芸研究Ⅳ 下原ゼミ通信 No.50

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2020年(令和2年)12月22日発行

文芸研究Ⅳ下原ゼミ通信No.50

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
9/29 10/6 10/13 10/20 10/27 11/3 11/10 11/17 11/24 12/1 12/8 12/15 12/22 1/12 1/19 

2020年下原ゼミⅣ 観察と表現の旅

12・22ゼミⅣ

卒論報告  中谷璃稀君、吉田飛鳥君提出、西村美穂さんは既に提出

ゼミⅣ、最大の関門卒論提出は、12月初旬に西村美穂さんが早々と脱稿していた。中谷君、
吉田君が少し遅れていたが、二人の頑張りもあって、先週には脱稿した。これで卒業見込み
の3名全員の提出は完了、あとは来月末の面接を待つだけとなった。

12・15ゼミ報告  志津木喜一君、松野優作君参加

この日の参加者は、西村美穂さん、松野優作君、志津木喜一君の3名。吉田君、中谷君は、自宅で卒論と孤軍奮闘中。佐俣美彩さんは見えず。

ニュース 「オンボロ道場は不滅です」12月24日(木)朝日新聞「声」欄

コロナ禍、私のオンボロ道場は、閑古鳥が鳴いている。三密のスポーツだけに仕方ないとこ
ろだが…この先、「つづけるべきか、やめるべきか」ハムレットの心境だった。この揺れる
気持ちを書いて新聞に投稿したら採用された。

2020年12月24日(木)朝日新聞オピニオン「声」欄に掲載される予定となった。

【過去に採用された柔道・オンボロ道場関係の投書】  

・「カラー柔道着いいじゃない」1994.5.14    カラ―柔道着問題化
・「柔道の変化は自他共栄実現」1996.8.9     やわらちゃん破れるを見て
・「地域に必要な子供たちの運動の場」1996.11.5  ゆとり教育はじまるを知って
・「町道場の灯を支える教え子」2000.4.2      大工になった教え子
・「子どもが集う道場は町の灯」2002.5.8      町道場は、心のふるさと、
・「振動は困る、街道場に難題」2003.12.8      柔道稽古で生じる振動と畳の音
・「カエルがすむ安全な場所は」2006.3.19      朝のランニング中にカエル拾う
・「カエル飼って子供ら変わる」2006.7.28      道場でカエルを飼う
・「嘉納の理念、世界に発信を」2009.3.10      嘉納家が講道館を返上
・「町の道場で感じる柔道の魅力」2013.6.19     不祥事つづく柔道界
・仮「コロナ禍のオンボロ道場」2020.12.24      
本日のゼミⅣ授業

 12・22、今日のゼミⅣの授業は、以下の要領で行います。

ドストエフスキー生誕200周年前夜祭

2021年は、ドストエフスキー生誕200周年です。この節目を記念して、下原ゼミⅣでは、マラソン朗読会を実施しました。現在、往路を快走中です。

記念にマラソン朗読会を実施中 ゴールまで83頁

11月17日1区スタート → 2区11月24日 → 3区12月1日

作品は『貧しき人々』 卒業までの残り時間で、読破できるか。

主人公マカール・ジェーヴシキンは、場末の安アパートに住む初老近いの独身男で小役人。同じアパートの向いの棟には、仕立物をしてようやく暮らしをたてている、身寄りのない若い娘ワルワーラがいる。この小説は、この年のはなれた男と女が交わす54通の手紙から成っている。

本日は3区からの出発です。全行程149㌔

1区走者 中谷璃稀 → 吉田飛鳥 → 西村美穂 4回転3周 38地点
2区走者 吉田飛鳥 → 西村美穂 → 中谷璃稀 4回転3周 66地点
3区走者予定 西村美穂 吉田飛鳥

 
2020年、マラソン朗読会走者、紹介

☆西村美穂 学力優秀、絵本作家 著作に『ぼくの さいぼうの はなし』
      『かたがむ』などがある。姐ご肌。

☆中谷璃稀  神戸からきたさすらい人 かっては舞台役者を目指した。

☆吉田飛鳥 大阪谷のスナプキン 元豊島園レンジャー戦隊

12・22ゼミ授業 他  2020年回顧

参加予定 西村美穂 中谷璃稀 吉田飛鳥 松野優作 志津木喜一

       佐俣美彩

テーマ 「コロナ禍のなかで夢を語る」

「2020年と私」   
熊谷元一研究   熊谷元一講演、コロナで中止 

2020年は熊谷元一生誕110周年ということで、熊谷の故郷阿智村で記念のシンポジュウ
ムが企画されました。下原も教え子の一人として参加し熊谷の思い出を話すことになっていました。しかし、コロナ感染拡大により縮小を余儀なくされました。また、感染者が爆発的に増加した関東からの阿智村入りは心配でした。そんなわけで、参加を見送ったことから講演は中止となりました。せっかくなので、話したかった項目の一部を紹介します。前号49号のつづきです。草稿です

熊谷元一先生の思い出

【日本大学芸術学部の学生たちとゼミ合宿】

また、数年前から、毎年、夏に、ゼミの学生たちと阿智村に来るようになりました。理由は大学で「熊谷元一研究」をはじめたからです。日大芸術学部の写真学科は、よく知られていますが、私が知っている限り熊谷先生の研究をはじめた学生がいるという話はききません。
一人だけいました。十数年前ですか、写真学科の大学院生で女子学生、韓国からの留学生ですが、わたしのところに熊谷元一研究をやってみたいときました。私は文芸学科で、学科が違いましたが、写真学科で、熊谷先生を研究している人がいないというので、私は。べつに研究はしていませんでしたが、熊谷先生のことならよく知っているということで、相談にのることにしました。(朴麗玉という名前の女子学生)ちょうど子供の高校でPTAやってたものですから、PTAの人たちと彼女を案内して写真童画館を見学にきました。彼女が帰国したあとは、だれもやる人はでてきませんでした。後にも先にも彼女一人たけでした。

『還暦になった一年生』や『黒板絵は残った』など熊谷先生関連の活動はやってきましたが、あまりにも近すぎて、研究対象から外れていました。数年前から、熊谷先生の功績をもっと伝えてゆきたい。『一年生』を写真集ではなく名作文学として見直したい。そんな気持ちになりまして、熊谷元一家旧をはじめることにしました。
大学の施設は軽井沢の方にあるんですが、下原ゼミは、「熊谷元一写真童画館」の見学と、熊谷先生が生まれ育った故郷の村を実体験するこを目的として、こちらでセミ合宿することにきめました。
昨年の夏は、15人の学生と熊谷先生が、愛してやまない駒場の街を歩きました。先生が去られてから半世紀以上たちますが、下町ですか、先生が住んでいた三階建ての家は、まだ残っていて懐かしかったです。
(いまは、どうか知りませんが、以前は、生家を訪ねてくる写真ファンもいたそうです。いつだったか、大学の同僚から、生家の写真をいただきました。玄関に写真展のポスターが3枚貼られていました。あのパンをかじっている写真が大きく載せてあるポスターです。
「写真好きの母親が昼神温泉に旅行した時、生家を訪ねて撮ってきた」というのです。全国には、まだ熊谷先生のファンがいるものだとうれしかったです。)

【『思い出の駒場』】 
熊谷先生の著書に『思い出の駒場』という本があります。熊谷先生が子どもの頃、見たこと、聞いたこと、体験したことなどが書かれています。当時の子どもたちの生活、遊び、行事など消えゆく山村文化の記録として、とても貴重な本です。
熊谷先生が子どもだったころ駒場は、たいそうにぎわっていました。
私も、少しばかり記憶にあります。正月二日の大売り出しは、近隣の村から大勢ひとたちが買い物に押し寄せました。伍和、智里はむろん清内路や浪合の方からも、みんな雪のなか歩いてくるのです。駒場の通りは、買い物客で、一日中ごった返していました。私は、子供でしたが、上町にあった叔父の店「下原洋品店」にいきました。買い物客が暖をとる火の番をする役目でした。
早朝から行ったことをおぼえています。
いまの駒場に、あのときのような活気と賑わいがあるかは、知りませんが、きれいな町になりました。しかし、宿場町の名残はなくなって、ちょっぴり寂しさもありました。
平成はもちろんですが、令和のこの時代になり、『思い出の駒場』の賑わいを知る人は、ますます少なくなっていくと思います。
熊谷先生のことを知る人も少なくなってくると思います。
熊谷先生が撮った写真、描いた童画は、見ることができます。保存会で大事に保管されています。しかし、それだけでは熊谷先生の真の作品理解とはいえません。熊谷元一という人は、どんな人だったか。作品と併せてその人間を知ることが熊谷元一をより評価を深めることになります。
しかし、私たち教え子たちの高齢化もあって、熊谷元一という人間を知る人は年を追うごとに少なくなっていると思います。没後10年になります。10年ひと昔という単位に照らせば、昔になります。

4. シンポジウム歓迎。準備のための講演

この秋、熊谷元一生誕110周年を記念してシンポジウム開催の計画があると知り、教え子としては、嬉しいかぎりです。微力ですが、熊谷先生の教え子として、何かお手伝いできれば幸いです。
先般、3月1日ですか。その準備のための実行委員会が開かれ、皮切りに私がご指名を受け熊谷先生について、お話しすることになっていましたが、あの新型コロナウイルス騒動がありまして、千葉の方にも陽性の人がでたということで、急遽、大事をとってキャンセルを申し出ました。キャンセルを知らなかった皆さまには、この場をおかりしてお詫び申し上げます。

【話すということ】
私は、講師と聞いて、おそらく今日、聞きにきてくださいました同級生は、皆さん、驚いていると思います。「なんで、あのシモハラが話すんだ?!」と。私は、運動も勉強も苦手で、社会にでてからも先生を心配させた教え子の一人です。先生について、お話しできる教え子なら、ほかに大勢います。
熊谷先生は、戦前、戦後を通じ23年間の教師生活があります。
戦前は、昭和5年(1930年)21歳のとき智里小学校に代用教員として~昭和8年まで務めました。(市田小学校23歳まで)
戦後は、昭和20年(1945年)36歳のとき~昭和40年(56歳)まで勤めました。  
この約23年間の教師生活、大勢の教え子の皆さんがいます。そういったことで、熊谷先生について話すなら、私よりもっと他にいい人がいる。そのように思ったわけです。

【熊谷先生の講演】
熊谷先生は、話すことは得意ではありませんでした。ご自分ことを、もっと宣伝していたら、先生の功績は。もっと広く伝わっていたと思います。
101歳の人生のなかで、私が、先生の講演を聞いたのは、一度だけでした。先生も、そのとき、話し終えてから、こんなに長く話すのははじめてだ、とおっしゃっていました。
たしか平成4年、1992年、先生83歳のときだったと思います。東京の千代田区にあるJCIIフォトサロンで「一年生とその後」写真展が開かれたときでした。先生は、はじめてご自分の写真家・童画家人生を語られました。これで最初で最後です、といって苦笑されていました。

【文集のこと】
 私も、先生に似て、話すのは得意ではありません。で、お話しがあったとき、どうしょうかと迷いました。
というのも私たちが小学校一年のとき、熊谷先生は、写真だけ撮っていたわけではなかったのです。子どもたち一人一人の動態調査もしていた。『一年生』という写真集は残しました。が、先生が一年生の為に残したのは、これだけではなかったのです。文集を作って子どもたちに書かせたのです。
『こどもかけろよ ひのてるほうへ』こんな題がつけられました。
70年近く前の小学一年生の文章力を知るためにも、
当時の私たちの生活を知るうえでも貴重なものです。
みなさん、友だちと遊んだことや、家の手伝い、お使いなど書いています。私は、どんなことを書いたのか、まったくおぼえていません。
で、探してよんでみました。
私が書いたのは、こんな文です。
ゆうびんきょく
ゆうびんきょくにでんわの見学にいった。おねえさんたちが ぼくはこもりくんとはなすことになった。ぼくはどもってなにもいえなんだ」私は、吃音者、つまりどもりだった。それで話すことはまったく苦手としていた。

熊谷先生は、ほとんど自己宣伝をしない人でした。
村では「もといっさ」と親しく呼ばれていますが、本当はどんな人だったか。もちろん私も、先生の一面しか知りませんが、これまで私と熊谷先生とのお付き合いのなかで知ったこと、感じたことなど、お話ししようと思います。

【2010年11月6日】
 11月6日は、私には忘れられない日です。熊谷先生の命日ですが、私の娘の誕生日でもあります。そんなことで私にとって二重に特別な日となっています。
熊谷先生が亡くなられて10年がたちます。あの日、私は、病院のベットの上にいました。10年前から両足にシビレがでて、だんだんひどくなったものですから、MRIで撮ったところ黄色靭帯骨化症という、靭帯が骨に変化するという難病とわかりました。それで両足のシビレの進行を止めるため脊髄の手術を行うことになったのです。前日に手術をしたばかりでした。
信濃毎日新聞社の記者の方から携帯に電話がありました。コメントをもとめられましたが、あまり突然だったので、なんと答えたのかおぼえていません。一つだけ気になったことがありました。先に亡くなられた奥様の葬儀のとき、熊谷先生から
「わしの葬式のときは、バンサイをあげてくれ」と頼まれていたのです。
冗談だろうと思いましたが、まさか、こんなときに冗談をいうはずもないとも思いました。
だれかやってくれただろう、そんな思いで病室で、私ひとり、焼香がわりにバンザイしました。
 頼まれた人は私以外にもいたでしょうが、
さすがに無理だったようです。万歳の話はききませんでした。
その後の28会で万歳しました。

【熊谷先生の特技】
挨拶ですが、熊谷先生も、そうでしたが、私も話をすることが苦手です。同級会で、出席された熊谷先生に、一言挨拶をとお願いすると、「それでは」と立ちあかって「あ」と叫ばれ「これでいいかな一言だで」といって、皆を笑わせた。先生の十八番になっていました。
熊谷先生は、いろいろ特技をいかして教育されましたが、教え子たちが社会にでても、いろんな特技をみせてくださいました。
社会にでた、教え子たちのことを、知っている。だれは、どこに勤めているとか、誰はいつ結婚したとか、別れたとか、とにかく地獄耳でした。
一度聞いた電話番号は空でおぼえている。
とにかくほめる。勉強も運動も苦手で、なにもほめるところのない私は、黒板の落書き絵をほめられた。「こんな絵は、おまえさんにしか描けない」いまおもえばあたりまえのことです。私が描いた絵は私しか描けない。当時、社会にでてブラブラしているときでしたが、この言葉に勇気をもらいました。

【熊谷先生ご夫妻へのお礼】
1999年あるシンポジウムで、私が発表することになりました。熊谷先生は、そのころ足を悪くしてあまり歩けない、といっておられた。が、私が話すことを伝えると、「うちにおっても、心配だで」と、清瀬からタクシーをとばして奥様と聞きにきてくださいました。清瀬とシンポジウム会場は電車で1時間は離れていましたが、小一時間の発表が終わると、またタクシーで帰られました。
2000年。地元新聞社主催の第6回伊那谷童話大賞で、私が『ひがんさの山』という作品で熊谷元一賞を受賞したときも、東京から、わざわざ飯田の受賞会場まで、でてきてくださいました。まだ、その恩返しはできておりませんが、こうして、話すことが、恩返しになれば幸いです。

【熊谷先生が生れた年1909年 作家の作品と『一年生』】
熊谷先生は。明治42年(1909年)に生まれました。この年に生まれた人で著名人は、作家ですと、『野火』や『レイテ戦記』を書いた大岡昇平、『山月記』の中島敦、太宰治や推理作家の松本清張もこの年に生まれています。
熊谷先生の『一年生』は、小説ではありませんが、写真集『一年生』は、こうした作家の文学作品をしのぐ感動と、内容を持っています。作家の小説作品は、読者のみの共感ですが、写真集『一年生』は、日本人全てというより、社会への一歩を体験した人類全ての記録といえます。写真の一年生は、見る人だれもの自分の姿です。見る人だれもの物語があります。どんな私小説より私小説であり、冒険物語を想像させます。それだけに『一年生』を愛読書とする読者は、多いです。よく

【三足のわらじの恩恵 】
熊谷先生は、ご自分の人生を「三足のわらじ」をはいた人生だった、と、たとえられていました。写真家・童画家・教師の三足です。昭和28年に入学した私たち教え子は、幸運にも、この三足の恩恵をうけることができました。
写真家としての熊谷先生からは、カメラが貴重な時代に、たくさんの写真を撮ってもらいました。その集大成である岩波写真文庫『一年生』は、広く世に知られ、私たちの誇りでもあり人生の宝物となっています。
童画家としての熊谷先生からは、自由に描く楽しさを教わりました。先生の指導で多くの教え子が絵画展で入賞し賞状を手にする栄誉をえました。
教師としての熊谷先生からは、継続することの大切さを学びました。

【清瀬の学校】
熊谷先生とは、昭和41年、東京に来られたことで、先生との距離は短くなりました。
教え子たちにとっては、熊谷先生の家がある清瀬は会地小学校の分校。そんな気持ちがしました。熊谷先生は、いつのまにか人生学校の担任でした。ある同級生は、結婚するときも、離婚するときも先生のところに真っ先に相談にきたそうです。実は、わたしも相談にきました。私が東京にきたのは、日本大学の農獣医学部の拓植学科というところに入学したからです。なぜそんなところに、不思議な縁ですが、満州と関係あるのです。阿智村は、満州と関係が深いのです。私の部落曽山からも、5.6人の若い人が、行っています。花嫁として行った人は帰ってこれなくて、私の叔父は、シベリヤ抑留されました。数年前になくなりました、しもはら洋品店の創業者ですが。満蒙開拓平和記念館が、注目されていますが、大学の学科主任も関わった人で、満州開拓の反省から、平和部隊、今では青年海外協力隊といいますが、その養成学科として復活したのです。茨城県の内原では訓練うけましたが、結局は大学中退しました。
芸術学部の文芸学科、から講師の依頼をうけたとき、教育経験もなかったので、教育方法に、悩みました。幸い勤め先の大学が熊谷先生の自宅の近くにありました。
「事物を密に観察せよ」がお父さん栄吉さんの口ぐせだったようですが、教育は、観察ということを教わりました。子供は、自分で勉強する。教師は、じっとみていればいいのだ。

【一年生のときの熊谷先生の教育】
「どんな先生だったか」とか「いつ写真を撮っていたのか」とか、そんな質問をされます。
 どんな人か、わかりっこないですよね。
自由な教育、たくさんの学校内での写真。
いろいろな面で興味をもたれていたと思います。
が、わかりませんが正直なところです。なにしろピカピカの一年生です。すべてが初めて経験することばかりでした。
あとになって、思い返すと、軍国教育から民主教育に代わった時代、創意工夫で、自分が考えた教育をしていた。そのように思うところです。
熊谷先生自信、著書のなかで
「小学校の一年で何を習ったのか、たしかな記憶がない」と言っています。

【撮影方法】
「カメラを持っていたか」も、記憶にありません。
一年間、ほとんど毎日、学校で写真を撮られた。そのことは現物の写真があるので、疑う余地はありません。が、熊谷先生が写真を撮っているときの記憶がないのです。写真をみても、子供たちの視線は、カメラにむいていません。この時代、カメラはめずらしかったはずです。お祝いのときか記念行事のときにしか撮らなかった。学校で、あんなにたくさんパチパチ撮っていれば、覚えていそうなものですが、あるとき、先生にお聞きしたことがあります。
先生の答えは、こんなでした。「いつでも、シャッターきれるようにして手の届く棚の上においていて、これはおもしろいぞ、とおもったとき、ひょいとつかんで撮りました」
遠足の写真ありますが、あれは、前日、遠足のコースを下見したとき、ここから撮ろうとアングルを決めてきたとおしえてくれました。

【『一年生』で村興しを】
20年も前になりますが、四国に旅したときのことです。松山の賑わいにおどろきました。夜になっても通りは人でいっぱいでした。道後温泉という昔からの有名な温泉地だからということもありますが、正岡子規や司馬遼太郎の『坂の上の雲』の秋山兄弟の出身地ということもあります。
が、松山を有名にしているのは、なんといっても夏目漱石の小説『坊っちゃん』の功績が大きいと思いました。小説は、松山のことは、よく書いていません。街を去るときには「この不浄な地」と悪態をつき、
「船が岸を去ればさるほどいい心持がした」とまでいっている。
それなのに、松山市はしっかり「坊っちゃん」を町おこしに利用して成功させた。そのことに感心しました。
 『一年生』は、写真集ですが、名作です。ある意味で『坊っちゃん』にまけないくらい愛読者をもっています。有名です。
阿智村にも人気スポットはあります。星空なんかは近年、全国的に有名ですし、園原の古典文学や満蒙開拓記念館も人気がでています。たしかに、それらの人気はすばらしいのですが、
岩波写真文庫の『一年生』がそれです。

【「一年生」は、名作文学】
2000年夏、東京両国にある江戸東京博物館で『近くて懐かしい昭和展』が開催されました。戦後の昭和をなつかしむ大勢の人たちでにぎわった。力道山、美空ひばり、長島茂雄など戦後の昭和を飾った著名な人たちや東京オリンピック、大阪万博といった国をあげてのおおきな出来事。それらの記録や映像が展示され人気を博していた。そのなかにひときわ入場者の関心を引いた写真展があった。昭和28年、熊谷先生が教え子の一年生を撮った写真でである。
東京中にポスターが貼られました。この昭和展は、その後各地で開催されました。ポスターも日本全国に貼られました。力道山、美空ひばりは、だれでもわかります。『一年生』の写真は、力道山や美空ひばりという誰もが知っている著名人に勝るとも劣らないほど、日本人の心に沁み込んでいるのです。
文字なき名作文学なのです。写真は、見る人、だれの心にも自分の一年生の姿を呼び起こさせます。そこには、見る人それぞれの世界がひろがっていきます。その意味で、『一年生』は、世界文学の線上にあってもそん色ない作品です。だれにも、どんな人にもある子ども時代、その一年間を、子供が最初に社会と接する学校という、限られた世界で、どのようにすごしているのか。教室で、廊下で、校庭での子どもたちの姿がうつされている。
その意味で一年生』は、文字で語るより多くのことを語っている。

【「一年生の村」宣言のお願い】
 『一年生』をもっと、宣伝していただきたい。阿智村には、世界文学線上にあっても遜色ない作品があるのです。世界に誇れる名作があるのです
熊谷元一生誕110周年を記念して、阿智村に『一年生』の村宣言をしたら【一年生】の愛読者が、日本全国から、世界中からやってくるでしょう。
『一年生』の写真は誰の心にもある、心象風景です。
ひとりひとりが、星空に魅せられたように。名作の舞台をみたくて、かっての自分自身に会うために阿智村にくるはずです。そんな光景が思い浮かびます。
『一年生』の舞台の村として生まれ変わります。

【熊谷先生からの手紙】
 そろそろ時間かと思います。熊谷先生のこと、よくお伝えできたかどうかわかりませんが、最後に、熊谷先生の手紙を紹介したいと思います。もう20年以上になりますが、私の父が90歳で亡くなったとき、熊谷先生が絵いりの弔辞を描いてくださいました。父と熊谷先生は、同級生でした。ふたりは、音楽は苦手だが、勉強と運動ができる親友だったそうです。そんなわけで最後に、その弔辞を朗読して、おわりにしたいと思います。このように、先生の絵が入った弔辞です。読んでいただきます

                             

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