文学の中の医学 D


往診中の一事件 
チェーホフ(1860-1904)

集録:『チェーホフ全集 第11巻』 中央公論社 池田健太郎 訳
集録:『かわいい女 犬をつれた奥さん』新潮文庫 小笠原豊樹 訳

チェーホフについて

チェーホフはロシアの作家・劇作家。先祖は農奴で祖父の代に自由を買い戻した。苦学しながらモスクワ大学医学部に学び医師になった。在学中から短編を多く発表し、若くして人気作家として成功した後も、医学と文学という二足のわらじを履き続けた。「僕の正妻は医学で文学は妾だ」と言ったチェーホフと自分の墓に「森林太郎墓」としか彫らせなかった森鴎外は一脈通じるところがある。チェーホフ24歳のとき、最初の喀血をみた。医師としてその深刻さを自覚しながらも無謀なサハリン旅行の決行、飢饉やコレラの防疫活動に奔走するなど、医師としての社会奉仕活動を続ける一方で、珠玉の名作を数多く残した。1904年、療養先のバーデンワイラーで死去。腸結核。享年44歳。写真に見る若き日のチェーホフの印象はペシミズム色濃いその作風には似あわない才気煥発、明朗快活な好青年で、しかも眉目秀麗。現在ならファンクラブ結成は間違いないところだ。

尊い不眠症−不安神経症論

チェーホフ38歳で発表した短編。この作品については下記の論文が書かれている。この中で「不安神経症ないしは心臓神経症を思わせる若い女性の診察場面が描かれていて、当時のチェーホフの神経症感を窺い知ることができる」と述べられている。

チェーホフの神経症論『往診中の一事件』
高橋正雄(東京大学医学部精神衛生・看護学教室)
日本病跡学雑誌45号 Page90-93 1993)

病院助手のコロリョーフは教授から工場の所有主の娘を診るようにとおおせつかり、工場敷地内の屋敷をおとずれる。母親と一人娘リーザ、定番の女家庭教師の三人が暮らしている。毛布にくるまり髪をパサパサにしたリーザにコロリョーフは話しかける。
「あなたの病気をおなおしするために参りました。ご機嫌はいかがですか」自己紹介をして手を握る。リーザは「動悸がひどく死にそう、何か薬をください」「差し上げますとも、安心しておいでなさい」身体的な診察で異常はない。「心臓は正常です。どこにも異常はなく、なにもかも順調です。神経が少し痛んでいるようですが、それは誰にでもあることです。安心してお休みなさい」
リーザはしゃくりあげる。母親はおろおろして娘を抱きしめ、二人でますます激しく泣く。母親の強い頼みでコロリョーフはその夜は屋敷に泊まる。明け方近く病室をおとずれるとリーザは眠れずにいる。何か彼に話したい様子。

「よくこんなことがあるのですか」
「しょっちゅうです。ほとんど毎晩、気がめいって」
「なぜかあなたにならなんでもお話できるような気がしますの」
「どうぞ話してください」
「自分で考えていることを申し上げたいのです。私は、自分では病気でもなんでもなくて、ただ不安を感じているのだと思いますの。(略)治療がむだなどとは考えてもおりませんけど、私はお医者さまとではなしに親しい方と、私が申し上げていることを理解して、正しいか間違っているか納得させてくださるお友だちとお話がしたいのです」

コロリョーフは彼女が自分を信じきって心を打ち明けたがっていることがわかり、またどう言えばいいかもわかっていた。一刻もはやく五棟の工場や巨万の富を捨て去り、毎夜見かける実際にはいもしない悪魔とさっぱり縁を切ればよいのだ。彼女自身、信頼できる人からそう言われるのを待っているのもコロリョーフにはよくわかっているが、しかしどう切り出していいのかわからない。そこで遠まわしに語りかける。

「あなたは工場の所有者、裕福な相続人という立場におられながらそれに満足できず、そうしたご自分の権利に確信が持てないで、今もこの通りお休みになれないでおられる。このことは勿論、あなたが満ち足りた気持ちでいて、ぐっすり眠って、万事順調だと思っておられるよりもずっとよいことなのです。あなたは尊い不眠症に悩んでおられるわけで、何はともあれ、それはいい徴候なのです。(略)」

あくる朝、白い服を着て髪に花を挿したリーザはコロリョーフを、彼だけに何か特別な、重要なことを話したそうな表情をたたえてみおくる。

Comment by Y.S.

私が不安神経症になったとき診てもらった精神科医もコロリョーフのタイプだったらしい。不安で身の置き所のなかった私は「とにかく入院させて」と頼んだ。するとその医師は「どうしてもというなら、入れてあげるけど、風邪程度で入院したいの?」と言った。その帰り道、症状はかなり軽くなっていた。次の予約日には医師を観察する余裕があった。その日の患者は私よりも医師の方で、いらいらした調子で投げ出すように言ったものだ。「まったく、世間の奴らときたら何考えてるんだかさっぱりわからん、患者さんの方がよっぽどわかりやすい」

参考文献

チェーホフの『六号室』について−患者の側からみた病−
高橋正雄(東京大学医学部精神衛生・看護学教室)
日本医事新報 3596号Page61-64(1993.05)

『黒衣の僧』にみる対話性幻聴 チェーホフの精神病理学
高橋正雄(東京大学医学部精神衛生・看護学教室)
日本病跡学雑誌(0285-8398)47号 Page82-85(1994.05)

文学にみる医師像(第三報)−チェーホフの『たいくつな話』−
高橋正雄(東京大学医学部精神衛生・看護学教室)
日本医事新報 3715号Page50-52(1995.07)