ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会通信」編集室
典拠:江古田文学Vol.41 No.1(107)2021 特集:ドストエフスキ―生誕200周年
江古田文学会 令和3年7月25日発行


「ドストエーフスキイ全作品を読む会」50周年に想う

  
下原敏彦

1.ドストエフスキ―を読みつづける意義 

2021年は、ドストエフスキ―生誕200周年である。この記念すべき年に市井の愛読者が集う「ドストエーフスキイ全作品を読む会」通称・読書会は、節目よく発足50周年を迎える。祝うべき記念碑が重なったことは、ドストエフスキ―を愛読する者にとって、喜びもひとしおである。この巡り合わせの幸運に感謝したい。満開の桜の下で「ドストエフスキー、バンザイ!」と、祝杯をあげたい気分だ。しかし、残念だが、今、それはできない。世界は現在、皮肉にも、ラスコーリニコフがシベリアで見た悪夢の最中にある。2年越し現実の悪夢がつづいている。

全世界が、アジアの奥地からヨーロッパへ向かって進む、ある恐ろしい、前代未聞の疫病の犠牲となるさだめになった。/ 顕微鏡的な存在である新しい旋毛虫があらわれ、それが人間の体に寄生するのだった。(『罪と罰』江川卓訳)

2020年春からはじまった新型コロナウイルスによるパンデミック。この災難をSF的にとらえれば、こんな空想もできる。環境破壊をつづけてきた人類に対して、自然がついに反撃をはじめたのだと。現実化した新たな「前代未聞の疫病」は、これまで人類が築いてきた日常を簡単に崩壊させた。いま人々は、感染予防対策に翻弄されている。マスク、三密、自粛。そして、急がれるワクチン接種。様々な対策が行われているが、肝心なことを忘れている。それは、「人間とは何かを知ること」だ。姿なきウイルスは、人間を介してのみ感染する。人間を知らずして勝利はない。故に、人間を知ることが必須である。

人間を知る。それは、即ち己自身を知ること。故事にも「彼を知り、己を知れば、百戦危うからずや」と、ある。人類は、数千年の歴史を通して幸福と平和を追い求めてきた。そのために思想や哲学を生みだし、科学を進歩させた。しかし、それで人間は幸せになれたか。地上に楽園をつくることができたか。否、人類は、時を追って傲慢になった。戦争、虐殺、差別、破壊を繰り返した。今日、世界の現状を鑑みても歴史を振り返っても、答えは同じである。人間とは、いったい何だ。

ドストエフスキ―は18歳のとき兄への手紙に書いた。

「人間は神秘です。それは解きあてなければならないものです。もし生涯それを解きつづけたなら、時を空費したとはいえません。ぼくはこの神秘と取り組んでいます」
(1839年8月16日『書簡』米川正夫訳 )


ドストエフスキ―は、「人間の謎を解く」と宣言して作家をめざした。そして、多くの名作を残した。作品の中には、大勢の人間の心理が標本となってうごめいている。米国の作家ヘンリー・ミラーは、『南回帰線』の中で「ドストエフスキ―こそが自己の魂を切り開いて見せてくれた最初の人間であった」と書いた。ドストエフスキ―を読むことは、人間を知ることである。それはとりもなおさず己を知ることに通底する。

「ドストエーフスキイ全作品を読む会」は、作品を繰り返し読むことで、無意識のうちに人間とは何か、自己とは何かを探ろうとしている。その行為は、人類が目指す平和と幸福づくりに貢献しているともいえる。新型コロナを知り、己を知れば、百戦危うからずや。見えぬウイルスとて恐れることはない。その意味で、こじつけかもしれないが「全作品を読む会・読書会」は、疫病感染予防対策に十分なりえると信じる。ステイホームもそのチャンスになる。コロナ禍の今、50年の読書会を振り返って叫びたい。「今こそ、ドストエフスキ―を読もう」と。

とまれ、200周年と50周年、二つの記念すべき節目に立ち会えたことを、たいへんうれしく思う。祝「ドストエフスキ―生誕200周年」と、祝「ドストエーフスキイ全作品を読む会50周年」に乾杯!

2.「ドストエーフスキイ全作品を読む会」とは何か

ドストエフスキ―は、これまで長い、暗い、くどいといった悪印象で、一般読者からは敬遠されてきた。何年か前、『カラマーゾフの兄弟』の新訳が出たとき、ブームが興りベストセラーになったことがある。愛読者としては喜ばしいことだが、訳者は、インタビューで「本を買っても実際に読む人は少ないと思います。千人に一人、五千に一人かも知れません」と、答えていた。難解すぎて、読破する人は稀だというのだ。なんともお寒い限りだが、そんな現実の中で「全作品を読む会・読書会」は、50年間つづいてきた。IT時代、読書する人が激減するなかにあって快挙といえる。あらためて、どんな読書会かふりかえってみよう。

この読書会を端的に紹介した新聞記事がある。2019年9月12日(木)東京新聞夕刊【大波小波】欄に「風変わりな読書会」と題して紹介された。下記は、その抜粋記事である。
 
作品の世界にとり憑(つ)かれる読書は誰でも体験する。作家の強い磁力により、48年間も続く風変わりな市民の読書会がある。会則なし、代表は置かず事務連絡だけで、誰でも参加可能だ。2カ月ごとの会に参加した者が、その場限りの会員である。「ドストエーフスキイ全作品を読む会」(読書会)という。参加者は、「私の読み」や自分にとっての衝撃を熱っぽく披露する。

この記事から早2年、「全作品を読む会・読書会」は、コロナ禍の嵐の中で50周年を迎えた。まるで人類救済を担ったように。その概略を紹介する。

「ドストエーフスキイ全作品を読む会」は、1971年4月14日(水)に第1回目をスタートさせた。以後、隔月年六回のペースで、昭和、平成、令和と時代を継いで開催してきた。2021年2月読書会で、約300回の開催をかぞえる。

近年の活動状況はおよそ次のようである。参加者は20名前後。男女比は、6対4の割合で男性がやや多い。当初「定年になったので」を動機とする熟年男性が目立っていたが、ネット時代になると変化が現れた。ホームページを見て参加する若者たちが増え始めた。最近の参加者の年齢は、20代から後期高齢者と幅広い。

およそ10年間に1サイクルの周期で、5大長編『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』を中心にいくつかの中短編と『書簡』、『作家の日記』などの作品群を読み切っている。現在、5サイクル終盤であるから、初回からの参加者は、同じ作品を5度、読んできたことになる。

一人の作家の作品を繰り返し読む。時間の無駄ではないか、マンネリ化するのでは、そんな指摘もあった。が、この50年間参加してみて、その心配は杞憂だった。いつのときでも、はじめて読むような新鮮な感動に出会えた。登場人物たちとの再会が懐かしかった。読むたびに違った発見があった。

3.「ドストエーフスキイの会」と「全作品を読む会・読書会」

この風変わりな読書会の誕生をふりかえってみよう。1969年2月、「ドストエーフスキイの会」が発足した。「ドストエーフスキイの会」という名称は、米川正夫訳の『ドストエーフスキイ全集』に倣ったためである。研究者と市民の融和を目指し、「誰でも自由に参加でき、発言できる開かれた場」を根本理念に掲げた。主たる活動として、定例発表会、会報発行、会誌発行、公開講演会、国際交流 文献紹介などが計画された。

1971年はドストエフスキー生誕150周年で、秋に二つの大きなイベントが行われた。10月に「ドストエーフスキイの会」と「ロシア手帖の会」共催で記念講演会、11月に「ドストエーフスキイの会」単独で、記念シンポジウムが開催され、どちらも大成功であった。シンポジウムは参加者200名、延々8時間でも終わらず、第3部を次の例会に持ち越したほどだった。例会会場の新宿・東京厚生年金会館の一室は、毎回大入り満員、立ち見がでるほどの盛況だった。順風満帆な船出に勢いづいた会員の中から、大きな作品だけでなく、ドストエフスキ―の全作品を取り上げて考察していきたいという提案がなされた。有志が集まり、早速読書会設立計画案ができた。「ドストエーフスキイ全作品を読む会」の誕生である。

「ドストエーフスキイ全作品を読む会」へのおさそい(会報1971.3.19)

私達の会も、今年で三年目を迎えましたが、最近、例会以外にも小グループの集まりをもって、お互いの話し合いを深めていきたいという声をあちこちで聞きます。これまでの報告をふりかえってみますと、その対象は、どうしても『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』などの後期の長編に集中しがちで、初期の作品といえば、わずかに処女作『貧しき人々』がとりあげられたくらいのものです。しかし、一般的には、あまりとり上げて論じられることのない作品の中にもドストエーフスキイ独自の注目すべき作品は少なくありません。そこで私達は、『貧しき人々』から初期の中短編を経て、『カラマーゾフの兄弟』『作家の日記』にいたる全作品を読む会をつくり、そのなかでひとつひとつ作品を検討していくことにしました。


かくして、1971年3月に発足した読書会は、4月14日に、第1回目をスタートさせた。定期的な開催を実施するための会場探しが急務になった。早稲田大学の文学部比較文学研究室、池袋の喫茶店、(70年代、80年代)豊島区勤労福祉会館(90年代)、東京芸術劇場小会議室(2000年代から現在まで)と、場所を移しながら、途切れることなく続いた。70〜80年代の会場だった池袋の名曲喫茶「コンサートホール」三階は、参加者の気に入りの場所だったが、インベーダーハウスに乗っ取られて消滅し、急遽別の喫茶店を探すということもあった。

時が移り、参加者の入れ替わりと共に参加の条件はなくなり、研究的な側面は薄れ、次第にゆるい集まりと化していった。しかしながら、常連参加者の多くは「ドストエーフスキイの会・例会」にも参加しており、そこで「報告」を行い、その成果を読書会でも共有している。現在の読書会へのおさそいは、次のようである。

…会則やむずかしい手続きはありません。当日参加した人が当日限りの会員です。ドストエフスキーが好きで、関心を持っている方ならどなたでも歓迎です。お知らせとして「読書会通信」をお送りしています。会の運営及び通信の発行は会場費千円とカンパで賄っています。「この場面に感動した」「この人物が好き」「ドストエフスキーと私」「ドストエフスキーと現代」、などなど語り合いましょう。事前の参加申し込みは必要ありません。

4.読書会50周年をふりかえって 
 
この50年、国内外では大小様々な出来事・事件があった。ドストエフスキ―の予言と警鐘を色濃く感じさせる事件も多かった。そんな中でも、読書会は変わることなく開催された。筆者の思い出を基に記してみよう。

1971年4月14日 「全作品を読む会」第1回。作品は『貧しき人々』参加者12名。
1974年3月25日 筆者「ドストエーフスキイの会」に入会。
1974年6月  読書会報告「ロシア文学について土壌主義宣言」。筆者参加。以後、現在に至るまでほぼ毎回参加。多くの読書会仲間の知己を得た。
1995年4月  読書会会場が東京芸術劇場小会議室に定着。
2000年2月  30周年記念特集として「私はなぜ、ドストエフスキ―を読むのか、読みつづけるのか」を募集。
2000年10月 「全作品を読む会」4サイクル目スタート。
2010年10月 「全作品を読む会」5サイクル目スタート。
2019年2月  4月の読書会は緊急事態宣言下で東京芸術劇場閉鎖の為中止となった。
2020年2月  生誕200周年を記念して「私は、なぜドストエフスキ―を読むのか、読みつづけるのか 2021」の募集開始。
2021年2月20日(第300回記念読書会)「大審問官」の章を参加者有志が朗読。好評だった。コロナ渦期間の開催における参加者は11~15名であった。

この半世紀、読書会が参加、または主催した大きなイベントで記憶に残るものをあげてみた。

1999年6月5日  東京芸術劇場「ドストエーフスキイの会」主催 会発足30周年記念シンポジュウム〈ドストエフスキ―で現代を考える〉筆者も報告した。
2000年8月22日 千葉大学欅会館「国際ドストエフスキ―研究集会」主催「ドストエーフスキイの会」〈二一世紀人類の課題とドストエフスキ―〉
2004年11月27日 東京芸術劇場、「ドストエーフスキイの会」主催、ドストエフスキ―の曾孫ドミトリー氏の講演〈曾孫として語る文豪とその子孫〉
2006年4月8日  東京芸術劇場、「ドストエーフスキイ全作品を読む会」主催の講演会。亀山郁夫氏「ドストエフスキ―と〈父殺し〉の深層」
2021年2月28日 「日本ドストエフスキ―協会」主催〈ドストエフスキ―生誕200周年記念シンポジュウム〉がズームで開催され、筆者も参加した。

1971年4月〜2021年2月に及ぶ読書会の長い歴史のなかでメディアに4回とりあげられた。

朝日新聞「私の視点」 下原敏彦「フセイン拘束『罪と罰』で正当性立証か」(2003・12・27)
NHKテレビ「おはよう日本」 読書会の紹介(2007・8・25)
東京新聞「文化欄」 「本を語るひととき 読書会人気じわり」(2008.5.1)
東京新聞「大波小波」「風変わりな読書会」(2019・9・12) 

読書会合宿やメンバーとのハイキングも忘れられない楽しい思い出である。

読書会合宿:那須塩原温泉・箱根温泉・群馬四万温泉・信州諏訪温泉・信州昼神温泉・鬼怒川温泉
軽井沢合宿で米川哲夫氏の別荘訪問(1974・8・24)
ハイキング:塩山の滝めぐり・高尾山・青梅御嶽山・小仏峠・上野公園桜見物・石神井公園散策・谷津干潟散策

5.読書会と私

1971年4月、第1回読書会から2021年2月まで300回余の読書会。まさに光陰矢のごとしであった、発足当時二十代だった筆者も、いまは後期高齢者目前である。

筆者とドストエフスキ―及び読書会との関わりは、1969年頃、『貧しき人々』と出会ったことにある。24歳だった。きっかけは、椎名麟三『深夜の酒宴』のあとがきだった。ドストエフスキ―のデビュー秘話が載っていた。文豪の処女作を最初に読んだ二人の若者が感動のあまり未明の街にとび出していったという有名な逸話である。この話は、はたして真実か。その好奇心から木村浩訳『貧しき人々』を買った。なんの変哲もない書簡小説にみえた。しかし、ロシア随一の評論家も絶賛したとある。本当だろうか。いずれにせよ、ドストエフスキ―は、この一冊で世界文学線上にいっきに浮上した。それは事実だ。
 
 …彼ら(二人の友人)は前の晩、私の原稿を取り出し、どんなものか試しに読んでみようということになった。…ところが十ページ読むと、もう十ページ読もうということになり、それからはもうやめられなくなって、とうとう朝まで一晩中声を出して読みつづけたというのである。読み終えると、これから直ぐドストエフスキ―のところへ行こうということに二人とも意見が一致した… (ドストエフスキ―『作家の日記』1877年)
 
読了して、このデビュー秘話はまぎれもない真実であると納得した。初老の小役人と、薄倖な娘の手紙交換。こんなものが小説になるのかと疑っていたが、気が付くと我を忘れて読み進めていた。ドストエフスキ―を全部読まなければ、そんな急いた気持ちがわきあがった。なぜそんな気持ちになったのか。それはいまでも判然としないが、それが筆者を読書会に参加させる動機になったのは明白である。

ある秋の日、時間潰しに寄った中野の知人の家で、何気なく見た朝日新聞の催し物蘭に目がいった。「ドストエーフスキイの会 第11回例会のお知らせ 1970年10月27日 午後6時〜9時)。ドストエーフスキイという文字が、私を見知らぬ土地で旧知の友に出会ったような、なつかしい気持にさせた。行ってみよう。強くそう思った。

はじめて参加した「ドストエーフスキイの会」。こんなに大勢の人がドストエフスキ―を知っている。あの作品『貧しき人々』を読んでいる。そう思うと、喜びと感動で舞い上がった。だが、その時、報告された『カラマーゾフの兄弟』は、まだ読んでなかった。「全作品を読む会」が始まることを知って参加したいと思った。

1971年4月14日 第1回「全作品を読む会」に参加した。作品は『貧しき人々』。例会の報告は理解できなかったが、『貧しき人々』なら、熱も冷めていなかったのでわかると思った。逸話にある『貧しき人々』を読んで熱狂した二人の若者のような人たちが集まってくるに違いない、そんな期待と興味に胸が膨らんだ。だが、実際は報告者の深い考察や分析に、目を白黒させるばかりだった。わが身の浅薄を思い知った。第二回の読書会も懲りずに参加してみた。作品『分身』は読んでいたが、皆の話にはついて行けなかった。これ以後、松本の信州大学病院で母の看護のため長期欠席することになった。

1995年から読書会の世話人をするようになり、同年『ミニ通信』(後に『読書会通信』)発行を開始。およそ100人に送付。この年の四月読書会から、会場が東京芸術劇場小会議室に定着し、会場探しの苦労からは解放された。代わりに、毎回、会場予約のための抽選が新たな課題になった。

1999年6月5日  東京芸術劇場にて「ドストエーフスキイの会」主催の会発足30周年記念シンポジュウムが開催された。筆者も「透明な存在の正体」を報告した。
2004年11月27日  東京芸術劇場 ドストエフスキ―の曾孫ドミトリー氏の講演。
2006年4月8日  亀山郁夫氏の講演「ドストエフスキ―と〈父殺し〉の深層」。お二人を囲んだ懇親会も忘れ難い思い出として残っている。

6.忘れえぬ人々

50周年をふりかえるといろんな人たちが思いだされる。なかでも亡くなった人たちがよりいっそう懐かしい。

・新美しづ子さん 書道家で歌人。80歳で読書会に来られるようになりドストエフスキ―の再読をはじめられた。百歳まで、読書会に、また二次会にも楽しげに参加されていた。昨年百二歳で亡くなった。最後まで読書会の仲間をなつかしんでおられた。
・田中幸治さん 米川正夫先生を師と仰いでおられた。田中さんのドストエフスキー理解は「仏教と剣道」に通底していた。「やっと今それが理解できます」と、伝えたい。
・平哲夫さん おだやかな雰囲気ながら、沖縄に長く赴任し泡盛で鍛えたという酒豪だった。「小生、心臓と格闘中です。何としても戦い抜いてまた読書会に参加致したく念じています」という手紙が最後になった。
・岡村圭太さん 眼鏡の奥に光る鋭い眼差し、古武士然とした風貌、歯に絹きせぬ小気味良いだみ声。それでいて笑い顔は実に人懐こかった。多忙なサラリーマン生活を終え、残りの人生の目標を、ドストエフスキー再読と定め、人一倍熱心に参加されていた矢先の死だった。
・小山田チカエさん 我が家にはチカエさんの絵が3点あり毎日ながめている。夢の中に出てきそうなユニークな人だった。読書会合宿の箱根の宿で聞いた「悲しい酒」は圧巻だった。
・高橋由紀子さん 那須塩原、箱根、群馬四万、鬼怒川。温泉合宿を一緒に楽しんだ。明るく面白い一方で、どこかしみじみした人だった。
・釘本秀雄さん 筆者の手元に「イワン・カラマーゾフの指標 1999.12.11」という手書きの論文が残っている。B4サイズの用紙2段組み12枚に、美しい筆跡でびっしりと書かれている。内容は、「不死がなければ・・・」「大審問官 その実像と虚像」。深い思索をしておられた。じかに報告が聞けなかったのが残念だ。
・新谷敬三郎先生 90年代までの読書会は、懇親会も含めてたいてい参加されていた。研究者には厳しく、一般読者にはやさしかった。居眠りしているようにみえても、時おりうなずかれることで、皆は活気づいた。新谷先生の「一粒の麦」は読書会の土壌に深く根づいたと信じている。(思いだしたら枚挙にいとまがない・・・)
 
ドストエーフスキイ全作品を読む会・読書会」50年の歳月。そこに映る光景は、筆者の人生でもある。50周年から今ふたたびの一歩が始まる。道はないが、ドストエフスキ―を澪つくしとして、新たな旅に踏み出したい。人間の謎を探る旅に。「ドストエーフスキイ全作品を読む会・読書会」は不滅である。

拝啓、ドストエフスキ―殿、楽しい日々をありがとう。生誕200周年おめでとう。これからもどうぞよろしく。