ドストエーフスキイ全作品を読む会
「ドストエーフスキイの会会報 No.47 」(1977・ 7・ 25) 
再録:ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.138(2013.6.20)



不滅の読書会 (1997年)


下原 康子

第一回のドストエーフスキイ全作品を読む会が開かれたのは昭和46年4月14日のことでした。早稲田大学大隈会館の一室に12名が集まりました。とりあげた作品は当然のことながらかの有名な処女作『貧しき人々』。こうしてこの無期限、無計画、無目的な読書会(発足当初はそうでもなかったようなのですが、次第にそういった雰囲気が濃厚になってきた)の火蓋が切られたのです。

それから6年。会場も三度ばかり変更して、現在は池袋のコンサート・ホールというクラシック喫茶の三階の片隅に定着したもようです。ここは三階にもかかわらずなぜか地下室じみたムードがただよう場所で、およそ文学とは縁のない散文的な一日をすごしたあとでも、ここに来てうす暗い片すみにすわると、自然にドストエフスキーじみた気分に包みこまれ、顔つきは深刻になり、目は暗く輝き、舌はなめらかになり、熱っぽい言葉をはくようになるのです。現状では学問的、研究的な読書会というよりもぶっつけ本番のムード的な読書会という傾向が強すぎるきらいがなくもありませんが、これがこの読書会が無節操にのんびりと続いている原因の一つのような気もします。

もちろん、学問的研究的要素もとりわけ私たちのようなシロウトの参加者にとってはめったに耳にすることのできないチャンスなのでたいへんありがたいことです。ドストエフスキーに関することなら学問的であろうとなかろうと一様に興味をひかれます。

なんとなく続いていたような読書会もいつのまにか『カラマーゾフの兄弟』まで進みました。先回は「カラマーゾフの女性たち」というのがテーマでした。日頃あまり論じられることのないテーマとあって、参加した女性陣は、熱っぽい質問をあびせたりこむづかしい議論をふっかけたりして男性陣をタジタジとさせました。

閉会の時刻になると話が最高潮に達するのは例会と同様です。したがって、当然二次会ということになり池袋のネオンの波をぬって次の会場へ。そこで話はますますとりとめのない混沌へとおちこんでゆくのです。ここでは年齢も性別も身分もいっさい関係ありません。ドストエフスキーがお互いの魂と魂とを直接触れ合わせてくれるような、そんな気がしてきます。「ごぶさたしています」なんていう社交辞令は不要です。まっすぐに「神を信じますか」と聞けばいいのです。

ドストエフスキーほどさまざまな読まれ方をされている作家は数少ないでしょう。くわえてこれほど熱中して読まれる作家もいないでしょう。そしてその熱心な読者は、読み方の向きや角度に違いはあっても誰もがドストエフスキーの真実に確かに触れているように思われます。会に参加していると、しばしば思いがけない意見を耳にします。今までの自分の考えや感じ方とはまるで違うことを聞いたりします。そんな時、ふと心に新しいものを感じることがあるのです。何かとてもうれしくなってそれを言ってくれた人に感謝したいような気持になります。

読書会は今年いっぱいかけて『カラマーゾフの兄弟』を終え、来年は再び『貧しき人々』にもどってくりかえし読みつづけていきます。無期限、無節操な読書会にはおしまいということがないのです。もちろん参加者の変動はあります。しばらくご無沙汰という参加者もいます。ひどく気ままに出席できるという点も例会と同じです。まことに気楽な集まりです。不滅のドストエフスキーを読む会もまた不滅なのです。 (1977年)



全作品を読む会 コンサートホールのころ
(1990年代)

ドストエーフスキイ全作品を読む会  読書会通信 No.138(2013.6.20)より

下原 康子

全作品を読む会のスタートは1971年4月である。この年はドストエフスキー生誕150周年にあたっていて、発足3年目を迎えていたドストエーフスキイの会は最高の盛り上がりをみせた。この年開催された文芸講演会(ロシア手帖の会共催)や延々8時間にも及んだシンポジウムのことは、今でも語り草になっている。現在の会のメンバーもみんな若くすごい熱気だった。こんな時に全作品を読破しようという読書会が生まれ、現在にいたるまで、脈々と続いているわけである。

私はスタートから参加していたが、連絡係をしていたせいもあって、コンサートホールのころがなつかしい。池袋にあったクラシック喫茶でここの3階の一角を1975.2〜1979.2ごろまでの約4年間会場にしていた。誰のお世話で決まったか記憶にないのだが、ここがみんな気に入っていたようだ。ラスコーリニコフの部屋か地下室を思わせるような雰囲気がとても居心地がよく、くつろげたものだ。コンサートホールでの最初の読書会は「罪と罰 第3回」だった。ついでに言えば、第1回は草津温泉の天狗山ペンションで泊まりがけの読書会をしている。会報34(1974.12.7)にその時の伊東佐紀子さんの報告があるが、米川正夫先生の北軽井沢の別荘を訪ねる機会にもめぐまれ、思い出深い読書会旅行だった。

会報37(1975.7.5)に新谷敬三郎先生が「白痴」の読書会報告の冒頭に書かれた一文がこのころの会の雰囲気をよく伝えている。
「白痴は1975.4.15と5.30と2回にわたって読書会をした。それぞれこの会の常連とたまに顔を出す方、新しく出てくる方など11、2名が集まって結局とりとめのないおしべゃり。何かそういう習慣がついて、特に報告者がいるわけでもなく、といって話をまとめていくつかの問題にしぼるわけでもない。ムダな時間といえばムダな時間なので、時間をつぶしたくないと考える人は自然足が遠のいていくのだろう」

スタート当初大隈会館で開催していたころはアカデミックで折り目正しい読書会だったように記憶しているが、このころは、かなり無節操な状態に陥っていたようである。連絡係はじめ常連のメンバーの人柄もあったかもしれないが、会場のせいも相当あると思う。なにしろとりとめのない、いいかげんな気分を誘う場所だったのである。

1サイクル目の読書会は1978に終了し2サイクル目が同じ年の5月に始まっている。私事だが、この年長男が生まれ、その後しばらくご無沙汰することになった。連絡係は国松さんと寺田さん(後に伊東さん)にバトンタッチした。次の年の1979にコンサートホール時代は終わっている。今までずっと知らずにいたのだが、会場が変更になった理由を会報57(1979.5.22)の事務局だよりの中でみつけた。なんと最後の名曲喫茶と呼ばれた コンサートホールも時代の波には勝てず、インベーダーハウスになってしまったのであった。その後しばらくは会場さがしに苦労したようで、会報63(1980.7.24)には高田馬場の「アイン」という会場に駆けつけたところ、なんと「アイン」は消失していて、しょう然として帰途についたという報告者になれなかった安達さんの愉快な報告が載っている。ついでに言えば、例会の会場が変わったのもこのころで、48回例会(1978.1.18)から現在の千駄ヶ谷区民会館になった。

その後について言えば、会報76(1983.2.25)に読書会への招待の一文(伊東さん)がある。このころには、2サイクル目も「土地主義宣言」まで読み進んでいて、会場も池袋の「喫茶滝沢」に定着していた。私はまだご無沙汰続きだったが、当時のメンバーの中に藤倉さん、横尾さんがみえていたと記憶している。

「場:会報の復刻版」をめくりながら、読書会の記憶をたどっていると、今ではもう会えなくなった人たちの姿が次々とうかんできて、なつかしさに時の経つのを忘れた。文字どおり私の青春時代であった。
(1990年代に書いたものです)