プレイバック読書会
1987・8・28「ドストエーフスキイ会会報No.100(1987.8.28)


『永遠の夫』を読んで  伊東佐紀子

白夜のペテルブルグに夢のように現れる帽子に喪章をつけた男、それは現実か、あるいは40歳を前にして異常な神経に悩むヴェリチャーニノフの幻想か。それは何度もくりかえされ、彼は「分身」のゴリャートキン氏と同じ運命をたどるのかと、私は読み進んだ。

しかしそうでもなさそうだ。現実のトルソーツキイが話し、動き出し物語は奇妙な方向に展開していく。二人の関係は、二重、三重に入り組んで、いかにもドストエーフスキイ的で面白いのであるが、一方で私は何ともつかみどころのない落ち着きのなさを感じた。

作品中、トルソーツキイの話す、ツルゲーネフの「田舎夫人」が何かの暗示を与えてくれないかと私は考えた。この作品は一幕の戯曲で、小心の田舎官吏の妻、ダリアのもとに、少女の頃に求愛されたことのあるペテルブルグの伯爵がたち寄る。ダリアは首都に移りたいために、必死で伯爵の気をひく。二人が部屋にこもっている間、夫はそのまわりをうえろうろする。ダリアを想う年若い男もいる。という喜劇である。

「田舎婦人」のダリアも、「永遠の夫」のナタリヤも共に28歳である。ドストエーフスキイはツルゲーネフを非常に意識して「永遠の夫」を書いたのではないか。この「永遠の夫」が発表されたのは、1870年であり、ドストエーフスキイは1867年に、バーデン・バーデンで、ツルゲーネフと論争の末に絶交している。作品中に別の作品に言及するのはめずらしい事ではないかもしれないが、何かの意図があったのではないか。ツルゲーネフが単なる、よくある話の喜劇で終わらせた、そこを出発点として、何倍もの面白さで、心理探求、展開を読者にしてみせた。ツルゲーネフに舌を出してみたと考えるのは、考えすぎだろうか。

この作品の中で”永遠の夫”なる言葉をドストエーフスキイは随所に散りばめ、「永遠の夫」なる章まである。”分析批判”という章では、作者は全部を解説している。ここまで種あかしをして、これ以上、何をかいわんやだが、それでいて、すっきりした回答が得られない。読者によりいかようにも読めるのが文学だといえるが、ひとつにはこの作品の構成にもよるのではないか。悪夢のようなペテルブルグの夜、夫と情夫の関係が、一転して若い娘に求婚する気弱な三枚目と、その庇護者のような友人になってしまう。そして結末は、美しい妻と、その情夫らしき男をともなうトルソーツキイと、ドンファンにもどったヴェリチャーニノフの停車場の遭遇となる。

つまり、物語の発端と何ら変わらないのである。読者が、かっての夫と情夫の過去にとらわれてどうしょうもなくあがく力関係に非常に興味をそそられ、その一面に集中していくと、はぐらかされたような気分になる。
 
ドストエーフスキイの作品は一般的に、縦糸はあまり気にされず、作者が意識せずに、登場人物が一人歩きして、無限に緻密な横糸を織り、その集合が、自然と縦糸を作るという場合が多いように思われるが、この『永遠の夫』では、ちょっとちがうように感じられた。
そこが、”永遠の”というテーマかもしれないが。いずれにしても、何度読んでも一行一行にひきつけられる作品である。

■この感想を書かれた伊東佐紀子さんは読書会創生期から参加し、開催に尽力されていましたが、1995年に亡くなりました。49歳でした。同じ年に、新谷敬三郎先生も亡くなられました。多士済々のよき時代でありました。人も時代も過ぎ行く。が、ドストエフスキーだけが永遠です。(編集室)