ドストエーフスキイ全作品読む会
ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.200 発行:2023.10.4 


『死の家の記録』をめぐって 
 若きドストエフスキー

全作品を読む会読書会『死の家の記録』資料 (2023.10)


フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(1821.11.11〜1881.2.9)
1845(24歳)『貧しき人々』
1849(28歳)ペトラシェフスキー事件で逮捕
1850(29歳)オムスク要塞監獄
1854(33歳)セミパラチンスクで一兵卒として勤務
1859(38歳)12月ペテルブルグに戻る
1860(39歳)『死の家の記録』発表


資料1:工藤精一郎訳『死の家の記録』解説(新潮社文庫) 

『死の家の記録』は1860年9月に序章と第1章が『ロシア世界』誌に発表され、翌年4月『時代』誌(『ヴレーミャ』ドストエーフスキイが兄ミハイルとともに創刊した雑誌)に発表を移し、1862年の12月号に検閲によって発表が遅れていた第8章が掲載されて完結した。この作品の制作の過程は長く、そして複雑である。その発端となったものは、オムスク監獄の主任医師の温情によるメモの制作である。主任医師トロイツキー博士は、雑役囚ドストエフスキーの辛い労役を軽減してやろうと思って、入院期間を延ばしてやり、禁じられていた物を書くことを許してやった。ドストエフスキーは入院中に囚人たちの言葉づかい、会話、詩、監獄の歌、さらにさまざまなエピソード、情景、事件、囚人の告白などを書つけはじめた。これらのメモが病院の看護長の手許に保管され、しだいにたまっていった。出獄後、セミパラチンスクへ移ると同時に、ドストエフスキーの言う、この「亡び去った民衆に関する覚書」の仕事はいよいよ熱をおびはじめ、主人公が考え出され、主題が豊富になるにつれて、小説の膨大な構想が少しずつ成長してきた。


資料2:ドストエフスキー没後に書かれた医師の手紙

◎リーゼンカンプからアンドレイ・ドストエフスキーへ(1881年2月26日)
[アレクサンドル・リーゼンカンプ 1821生れ。医師。植物学者。1838年、ペテルブルグにきてドストエフスキーと知り合い、一時期同じ家で寝起きを共にした。外科医の資格を得てシベリアのオムスク陸軍病院に勤務する。]

1845年に小生はシベリアに行き、イルクーツクからネルチンスクと勤務して、最後にオムスク衛戌病院に落ち着きました。フョードル・ミハイロヴィチがドゥーロウと一緒におられたところです。<・・・・・> 彼は元シベリア独立軍団の軍医長 I.I.トロイツキーと、工兵隊に勤務していた時の同僚のムッセリウス中佐に大事にして貰っていました。この人たちをはじめほとんどの軍医が種々気を遣ってくれましたのに、オムスク要塞司令官のドゥ=グラーヴェ少将と、その輩下のクリフツォフのごときは、恢復するかしないうちに退院の手続きをして、他の獄囚と一緒に汚い仕事に就かせようとしました。この時ちょっと口答えしただけで体罰です。それを目撃した故人の仲間の恐怖は想像に余ることと存じます。クリフツォフの目の前で体刑を受けたフョードル・ミハイロヴィッチは、神経は昂るし自尊心は傷つくで、1852年に初めて癲癇を起こし、それ以後毎月繰り返すようになりました。
L.グロスマン『年譜』 新潮社版ドストエフスキー全集別巻 松浦健三編訳 P.514()146146


◎ヤノーフスキイからマイコフへ
(1881年2月24日)
[ステパン・ヤノフスキー(1817-97) 医師。教師。1877年からスイスに移住して余生を送った。ドストエフスキーとは1846年に医師と患者の関係で出会って以来親しくなり、逮捕される日まで毎日のように会っていた。]

故フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーはペテルブルグにいる時分から、ペトラシェフスキー事件に問われる3年前、あるいは3年以上前から癲癇に苦しんでいました。無論シベリア流刑以前です。問題はこの疾患の重いものはepilepsiaと称するもので、フョードル・ミハイロヴィチに現れた 1846年、47年、48年の症状は軽度であったことです。ところが、はたの者は気付かなくても本人は誠に不安で、自分で意識して、平常卒中風と称していました。
L.グロスマン『年譜』 新潮社版ドストエフスキー全集別巻 松浦健三編訳 P.514


資料3:ドストエフスキーの診断書

シベリア守備大隊付軍医エルマコフが記したドストエフスキー少尉補の診断書
(1857年12月16日)
年齢35歳。体格普通。1850年初癲癇発作(epilepsia)。症状。叫声、意識消失、手足顔痙攣、泡噴出、嗄れ声、脈弱迅減少、発作時間15分。その後発作状態一般の衰えを見せて意識恢復。1853年再発。1853年再発。以後毎月末発病。現在ドストエフスキー氏は、過労のため体力の消耗を訴え、神経衰弱によりしばしば顔面神経麻痺に苦しむ。ドストエフスキー氏はここ4か年間、発作の都度治療を受けたが、依然おさまる気配がない。このゆえに勤務続行は不可能と認める。

L.グロスマン『年譜』新潮社版ドストエフスキー全集別巻 松浦健三編訳 P.146


資料4:ドストエフスキーが受けた笞刑(ちけい)

オムスクのオストゥローク(監獄)でドストエフスキーと同房にいたロジノフスキーという囚人が、当時のドストエフスキーの生活ぶりを感動的に綴っている。それが、最近チフリスの新聞『カフカース』に掲載された。ロジノフスキーの言うところによると、ドストエフスキーが初めて笞打ちを受けたのは、スープにゴミが入っているのを同囚たちに代わって訴え出たためだった。二回目の懲罰を受けたのは、オストゥロークの責任者であった少佐が制止するのもきかず、ある同囚が溺れかかるのを救おうとしたためだった。いずれも笞打ちは激烈をきわめ、病院に担ぎ込まぜるえなかったほどだという。ロジノフスキーによれば、二回目の「執行」のあと、同囚たちはドストエフスキーがてっきり死んだと思ったらしい。六週間入院してふたたび姿を見せた時、皆はパコーイニク(あの世の人)と仇名をつけている。ドストエフスキーの裁判、判決、懲罰にまつわるもっと詳しい話は、『アチェーチェストゥヴェンヌィエ・ザビースキ(祖国雑記)』1881年2月号と1882年3月号を参照。
ジョージ・ケナン著 左近毅訳『シベリアと流刑制度T』(P.388-9)
本書は1885-86の実地調査をもとに1891年にまとめられた。


資料5:ドストエフスキーから出版者・批評家に宛てた手紙

◎M.N.カトコフへ セミパラチンスク 1856年1月11日
[カトコフ(1818-71)著名なジャーナリスト。保守派の牙城『ロシア報知』の創刊者]

すでに昨年8月、貴誌の寄稿者であるA.N.プレシチェーエフより、小生の作品を何か『ロシア報知』に掲載してもよいとのご意向である旨、うけたまわりました。小生はもう以前から目下執筆中の長編を掲載していただけないか、お願いしようと思っていたところでした。ただ、なにぶんにも完結しておりませんでしたので、お願いするわけにもいかなかったのです。<中略> この長編は、小生がまだオムスク市におりましたころ、暇にまかせて構想したものです。3年ほど前にオムスクを出ましてから、小生は紙とペンを手にすることができるようになり、さっそく仕事にかかりました。しかし、小生はこの仕事を急ぎませんでした。いっさいをデテールの隅々にいたるまで考えぬき、個々の部分を組み立てたり、そのつりあいをとったり、いくつかの場面をそっくり書き留めたり、それより何より、材料を集めることの方が、小生には楽しかったのです。3年間そういう仕事をつづけましたが、仕事の熱は冷めるどころか、かえっていっそう気が乗ってきました
・・・(手紙の大半は、金のために仕事せざるを得ない苦しい胸の内が吐露されている。『ロシア報知』に「長編」を掲載する約束は果たされなかった。)
新潮社版ドストエフスキー全集22:書簡V作家、編集者への手紙 江川卓訳


◎A.N.マイコフへ セミパラチンスク 1856年1月18日
[マイコフ(1821-97)詩人、批評家。1940年代から心を通わせ合った友人]

徒刑時代に書けなかったことで、私がどれほどの苦しみを味わったか、言い尽くせないほどです。その一方、私の内面ではさかんな仕事がつづいていました。いくつかうまくできたものもありました。それを実感できたのです。あそこにいたとき、私は頭の中で大きな小説を完成させました。自分の作品に対する最初の愛が、歳月が過ぎ、いよいよ実現にかかったとき、もう冷めてしまったしまっているのではないか、と心配でした。しかし、これは誤りでした。私が創りあげた性格、小説全体の基礎であるところの性格は、何年間にもわたって発展させられる必要のあるもので、もし、その準備もととのわぬうちに、興奮にかられるままそれに手をつけたりしたら、何もかも台なしにしてしまったことでしょう。しかし、監獄を出て、準備はすべてととのったのに、私はやはり書くことをしませんでした。書けなかったのです。一つの事情、私の人生に訪れることがあまりに遅く、それでもついに訪れた一つの機会が
(マリア・イサーエワへの愛)私を引きつけ、完全に私を呑み込んでしまったのです。・・・・・ しかし、だからといって、私は完全に無為に過ごしていたわけではありません。私は仕事(おそらく、ステパンチェコヴォ村とその住人)をしました。しかし、私のいちばん大きな作品はわきにどけて置いたのです。もっと精神の落ち着きが必要です。
新潮社版ドストエフスキー全集22:書簡V作家、編集者への手紙 江川卓訳


資料6:若きドストエフスキーの風貌

◎アレクサンドル・リーゼンカンプ

(A.E.リーゼンカンプが見た1830年末(15歳ころ)のドストエフスキーの風貌)
小肥り。淡いブロンド、丸顔、開き加減の小鼻、背は兄より低かった。短く刈り込んだ薄い栗色の髪、広い額、薄い眉、その下に深く潜む小さな灰色の眼。血の気のない頬に雀斑がある。病的な土気色をした顔。やや厚い唇。鷹揚な兄にくらべて、はるかに活気があり、活動的で熱しやすかった。
L.グロスマン『年譜』新潮社版ドストエフスキー全集別巻 松浦健三編訳 P.44

かれは午前中に将校クラスの講義に出席すると、あとはじぶんの書斎にひきこももって、文学の仕事に没頭していたのである。かれの顔色は土色を帯び、とりわけ朝はたえず空咳に悩まされ、声はひどいしわがれ声となり、さらに顎骨の下の腺には腫物ができて、あきらかに病気の兆候が示されていた。しかしながら、ドストエフスキーはこういったことをみな、他人には絶対に気づかれないようにしていたため、医者のリーゼンカンプでさえも、かれに咳薬を処方することも、ジュークたばこを吸いすぎぬように注意することもできないほどであった。
回想の典拠:『ドストエフスキーの伝記のための資料』のなかでミルレルが抜粋したもの。
『ドストエフスキー 同時代人の回想』ドリーニン編 水野忠夫訳 P.82


◎ステパン・ヤノフスキー

いまここに、1846年当時(25歳ころ)のドストエフスキーの風貌を、できるだけ正確に、忠実に描き出してみよう。背は普通よりも低かったとはいえ、体格はよく、とくに肩幅が広くて、胸は厚かった。頭部は均整がとれていたが、額は異常に発達していて、とりわけ額の上部が突き出ていた。明るい灰色がかった小さな眼は、じつに生き生きとしており、うすい唇はいつもしっかりと結ばれていて、そのため人の善さそうな、また親切そうな表情を顔全体につくりだしていた。髪の毛は明るい色というより、ほとんど白っぽくて、ひじょうに細く、やわらかそうに見え、手のひらや足なんかもめだって大きかった。服装はいつも清潔にしていて、センスよく着こなしていたといってもよかった。かれが身につけていたものは、上等な羅紗地で作った特別仕立ての黒いフロックコート、黒のカシミヤのチョッキ、一点のしみもない洗い立てのオランダ製ワイシャツ、それにチンメルマンのシルクハットなどで、服装全体の調和を壊しているものがあったとしたら、それはあまりかっこうのよくない靴と、軍学校の生徒というより、神学校の卒業生のように鈍重なかれの振る舞いだけであった。精密検査と聴診の結果、肺臓は全然異常がなかったが、脈拍が不規則で、婦人や神経質な人々によくあるようにひじょうに早いということがわかった。

最初のときとそれにつづく三回か四回の診察のときは、わたしたちの仲は、普通の患者と医師という関係にすぎなかったが、二人で会っていた短い時間にも、かれの考え方や、きわめて繊細で深い分析力や、なみなみならぬ心のあたたかさに、わたしは強く惹きつけられたので、その後、病気以外のことでもできるだけ長く話し合えるようにもっと早く来てもらえないかとかれに頼んでみたほどだった。その願いは受け入れられて、ドストエフスキーはいつでも十時にではなく八時半にわたしのところに来るようになり、いっしょにお茶を飲んだりしていたのだが、数か月後には、かれはさらに晩の九時にもわたしのところにたち寄るようになって、二人で十一時まで話続けたり、ときには泊まりこんでしまうことすらあった。そういった朝や晩のことは、わたしにとって忘れられないものとなろう。それというのも、一生のうちであれほど楽しく、またあれほどためにもなった時は、ほかになかったからである。

『ドストエフスキー 同時代人の回想』ドリーニン編 水野忠夫訳 P.82


◎ヴランゲリ
[A.E.ヴランゲリ 1854年セミパラチンスクに地方検事として赴任。懲役後の兵卒勤務をしている作家に同情し、あらゆる面で便宜をはかり援助を与えた。]

(1854年11月21日。ヴランゲリがドストエフスキーを招待して、親戚知友から託された金と手紙を渡す。)
ドストエフスキーは招ばれた理由も相手も知らないので、はいってきたときひどく固くなっていた。縦襟と肩章が赤い、鼠色の外套を着た彼は、雀斑の目立つ病的な蒼白い顔をして、不機嫌そうに見えた。背はそう高くはなかった。じっとこちらに注ぐ知的な灰青色の眼は、私の奥深くへ光を当てて、一体この男は何者だろう?と窺うふうであった。後日白状したところでは、使いの者から「検事殿」がお呼びだと聞かされて動転し、不安でならなかったそうである。しかし、こちらから先に訪ねて行かなかったことを詫び、手紙や小包みを渡しながら内地の人たちの言づけを伝えると、ドストエフスキーはにわかに縛めを解かれたように明るくなり、楽に口を聞き始めた。
L.グロスマン『年譜』 新潮社版ドストエフスキー全集別巻 松浦健三編訳 P.130
原典:A.E.ヴランゲリ著『シベリアのF.M.ドストエフスキーの回想1854-1856』1912刊