Medical Dostoevsky&My Dostoevsky


1860〜70年におけるドストエフスキーへのディケンズの影響;あるいは、19世紀の2人の文豪における方法とビジョンの同化

Irina Gredina, Philip V. Allingham著 下原康子 訳

原典:
The Victorian Web   http://www.victorianweb.org/index.html
Dickens's Influence upon Dostoevsky, 1860-1870; or, One Nineteenth-Century Master's Assimilation of Another's Manner and Vision
Irina Gredina, Tomsk Polytechnic University, Russia, and Philip V. Allingham, Contributing Editor, Lakehead University, Canada

     
Charles Dickens
1812年-1870年
  Фёдор Достоевский
1821年-1881年


『ピクウィック・クラブ』(1836-37)及び『我らが共通の友』(1964-65)に見られるようなディケンズの語りのスタイル、登場人物の性格や主題におけるしなやかでかつ豊かな描写は、フョードル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキー(1821-81)の創作の過程においても、同様に不可欠な要素であった。ドストエフスキーは、作家にとって重要なのは対象そのものではなく、その対象を変換する芸術的ビジョンであると確信していた。「目さえあれば対象を見出せる。きみがたは目がなくて盲目なものだから、どんな対象があったって何一つさがせないのだ。おお、目の大事なこと。ある者の目には詩と映るものもほかの者には土くれとしか思えぬ・・・」(「作家の日記」1876年10月)。

ロシアの同時代人の作家の中にあっても、特に際立ち、特異でさえあるドストエフスキーの小説のイメージはディケンズの影響なしには理解できない。その革新的な描写法は、ディケンズにおける最も重要な要素 ─ 個人の感情や人間関係を表現するために視覚的な想像力を駆使した点において相通じるものである。ドストエフスキーの登場人物の性格とプロットをディケンズの作品のものと比較することで、ドストエフスキーの独特のスタイルと人物描写をより明確に理解することができるだろう。

ディケンズが英国の社会を観察した方法をドストエフスキーがロシアにおける彼の創作のなかでいかに適用したかを理解するためには、ディケンズのプロットと性格描写における道徳的、心理的、審美的な強い影響力に焦点を当てなくてはならない。 『作家の日記』(1873)で、ドストエフスキーはディケンズを称賛している。

われわれはディケンズを露訳で読んでいるが、ほとんどイギリス人と同じように理解するものと、わたしは確信している。ありとあらゆる陰影さえも逸したりはしない。おそらくは、同国人に劣らないほど、この作家を愛しているかもしれない。ところが、ディケンズはどんなに典型的であり、独特であり、国民的であることか!(米川正夫訳「ドストエーフスキイ全集14:作家の日記上P.85)

ドストエフスキーはディケンズの芸術的ビジョンの力をつかみ、彼を「偉大なキリスト教徒」と呼んだ。とりわけディケンズの謙虚さを賞賛した。さらに、ドストエフスキーがディケンズのスタイルとビジョンを受容した根底にはディケンズが抱いていた社会の再構築への希み、とりわけ富裕層の特権を縮小したいという人道的な考え方があった。David Gervaisが述べたように、ドストエフスキーはディケンズの中に道徳を超えた詩的精神性を見た。イギリス民衆の声となったディケンズに倣い、ドストエフスキーはロシアの民衆の声になろうとした。

ドストエフスキーにおけるディケンズの受容を扱うにあたって、ドストエフスキーが長い間、ディケンズの天才に大きな関心を寄せ続けていたことに触れておかなくてはならない。 1850〜60年代は、ドストエフスキーにとってディケンズの作品の精神とスタイルを創造的に受容するための重要な期間であった。ドストエフスキーの創作活動はシベリアのオムスク監獄収監(1850−1854)で強制的に中断され、その後もセミパラチンスクでの兵役(1854-59)で5年間の文学的孤立を強いられた。この10年間、ドストエフスキーはモスクワやペテルブルクの社会と文化的環境から切り離されていた。しかしながら、この期間でさえ、ドストエフスキーはディケンズに対する強い関心を示していた。M. Nikitin が流刑中のドストエフスキーについて書いた回想録の中で逸話的な証拠を提示している。「セミパラチンスクで、ドストエフスキーはディケンズの小説をローソクの明かりの下でしばしば涙を流さんばかりにして読みふけっていた」。オムスク要塞で兵役についていた Martjanovの回想録によれば、ドストエフスキーは若者が好みそうな類の本は断り、Irinarch Vvedensky訳の『デヴィッド・コパーフィルド』と『ピクウィック・クラブ』を読んでいたという。

ドストエフスキーは妻のアンナの読書指導に熱心だったが、外国滞在中、よくディケンズの作品を薦めていた。ドレスデン時代の貧困について冗談を言うとき、ドストエフスキーは、彼自身をミスター・ミコーバーにアンナをミセス・ミコーバーになぞらえた。アンナは、「ディケンズのユーモアは私たちの人生の一部であり、おかげで私たちは貧困に耐えることができました」と回想している。『アンナの日記』1867年5月27日の記述には、夫はドレスデンの貸本屋でフランス語訳の『骨董屋』を借りた。『デヴィッド・コパーフィールド』も薦められたが、すでに読んでいたので断ったとある。ドレスデンでは、ドストエフスキーもアンナもフランス語とロシア語の翻訳でディケンズを読んでいた。

中でも『デヴィッド・コパーフィールド』を繰り返し読んでいた。膨大なメモ、手紙、日記の中で、ただ一人触れた人物がミスター・ミコーバーであった。1870年3月25日、A.N.マイコフにあてた手紙の中で、自身の窮乏をミスター・ミコーバーになぞらえた。ドストエフスキーが魂の遍歴の語り手デヴィッド・コパーフィールドではなく、いつも呑気で楽観的な書記官に自身をなぞらえたことは、ディケンズが創造した人物とその境遇に対する共感と称賛の深さを示していると同時に、暗い作家と考えられがちなドストエフスキーのディケンズ的なユーモアの現れでもある。ドストエフスキーの娘、リューボフィ・ドストエフスカヤは彼女の回想録に次のように書いている。

エムスへ行くとか、あまり忙しくて私たちに朗読してくれられない時には、母に私たちのためにウォルター・スコットや『作家の日記』で「偉大なキリスト教徒」と呼んでいるディケンズの作品を読んでやるように依頼した。食事中、彼は私たちに私たちが受けた印象について訊ね、またそれらの小説の挿話を残らず思い出した。妻の姓や情婦の顔を忘れる私の父が少年時代の彼の想像力を打ったディケンズやウォルター・スコットの主人公たちのイギリス名を全部思い出し、彼らのことをまるで親友ででもあるかのように話すのだった。(『ドストエフスキイ傳』エーメ・ドストエフスキイ著 高見裕之 訳 アカギ書房  1946 P.185)

ロシアの脚本家、批評家、出版業者のD.A. Averkievは、ドストエフスキー『作家の日記』の中の「芸術におけるキリスト教の宿命について」の章に関して次のように述べた。「ドストエフスキーが重要と考えたのは、キリスト教の理念を辱められ傷つけらた人々の描写によって訴えることであった。ドストエフスキーはディケンズが文学におけるその先駆者であると考えていた」。

ペテルブルグの文学サロンの主催者であるE.A. Stakenshneyderは、1884年2月6日の日記に、「ドストエフスキーのお気に入りの作家はディケンズでした」と記し、回想禄の中で、二人の作家の小説に共通するプロットや人物を列挙し、キリスト教精神に基づく愛と哀れみ、哲学、社会的な姿勢、美学的思想、道徳的試みの類似性を述べた。ドストエフスキーはディケンズの『ハード・タイムズ』(1854)の中に「心の知恵」 (「元精神」とも呼ばれる)の思想を見い出した。 それは侮辱され虐げられた人々に対する愛と共感であり、トーマス・グラッドグラインドやエベネーザ・スクルージのようなかたくなな人物の心さえも和らげ、精神的な復活をもたらす思想である。

また、ドストエフスキーはディケンズが小説の中で、犯罪と刑罰のような社会的問題を描くその姿勢に惹きつけられた。彼自身も社会文化的な同じ意識を抱いていたからだ。たとえば、ディケンズ『マーティン・チャズルウィット』(1843)では歪んだ人物が犯罪心理学的な手法で描かれている。ロシアの批評家G. Laroshは、犯人の意識と動機づけに関するディケンズの心理分析に注目し、「ディケンズは、人間精神における犯罪の描写および無意識の衝動を表現するにあたり新たな地平を開いた」と述べた。

ディケンズの生誕100年にあたる1912年、犯罪心理学の研究のために特別に招集されたロシアの弁護士会で、優れたロシアの弁護士であるE. Kulischerが「犯罪学者としてのディケンズ」と題する講演を行った。その中で「ディケンズの作品は刑法についての新たな考え方を予感させる。登場人物の心理描写によって特殊なサイコタイプの人間の存在を見出し、犯罪者についての新たな理解の道を開いた」と述べた。

犯罪、なかでも殺人を犯してしまった人間の人格の崩壊は、ドストエフスキーおよびディケンズの後期の小説にしばしば現れるテーマである。ドストエフスキーが犯罪者の心理を描くにあたって、実際にディケンズの影響を受けたかどうかを調べるには、たとえば、『罪と罰』のラスコーリニコフと『我らが共通の友』のブラドリー・ヘッドストーンの類似に注目するとよい。ロシアの批評家であるN.N.ストラーホフが1867年4月の『祖国雑誌』で発表した「罪と罰について」という論文の中でそれを行っている。

ストラーホフが最初に注目したのは、質屋の老婆を殺したことによって引き起こされたラスコーリニコフの苦悶が、ブラドリー・ヘッドストーンが嫉妬の憤怒に打ち負かされ、弁護士ユージン・レイバーンを襲った後に陥った心理学的な苦痛に似ていることであった。ディケンズは、教師ブラドリー・ヘッドストーン、および未完に終わった ディケンズ最後の小説『エドウィン・ドルードの謎』に出てくるアヘン中毒の聖歌隊指揮者ジョン・ジャスパーで知的な殺人者の心理を描いた。そこで「カインになるよりアベルになれ」と示唆している。しかしながら、ブラドリー・ヘッドストーンは良心の呵責を感じることはなかった。

さて、ブラドリーは、良心の呵責などよりももっと厄介な心理状態にも悩まされていた。良心の呵責など彼にはこれぽっちもなかった。だが、この種の「復讐者」を寄せ付けずにすむ犯罪者も、その犯行を頭の中で何度となく、しかもより巧妙に繰り返すという、じりじり身を焼くような責め苦からは逃れるすべがない。(間二郎訳『我らが共の友』第4部第7章カインになるよりアベルになれ)

この場面における物語の視点の変化に注目すべきである。まるで突然、話し手が殺人者の実際の心のプロセスに入り込んだかのような描写にとって代わるのである。「自分の犯行に次々と手抜かりを見つけ出し、この期に及んでなおその弱点を補強しようと足掻く哀れな男の心境...」この描写はヘッドストーンの魂の苦悩の深さをまざまざと描きだしている。ヘッドストーンの犯罪心理の描写はラスコーリニコフのそれに似ている。殺人の正当性に対する道徳的疑念は実際に犯罪を犯して初めて生じ始める。

ドストエフスキーは、ラスコーリニコフの犯罪の心理学的な側面を人間性において特徴的な不合理性を強調するための手法「ファンタスティック・リアリティー」の奥深い形象として描いた。ドストエフスキーは小説におけるこの中心的なアイデアを細かく練っており、「ロシア報知」の編集者M.N.カタコフへの手紙に「殺人者は完全に予期せぬ事態に直面し、思いがけない気持に苦悩する」と書き送っている。ドストエフスキーはディケンズの作品の中に『オリバー・ツウィスト』のビル・サイクスのようなタイプの殺人者と並んで脅迫観念に憑かれた犯罪者をも見出した。そして、ディケンズに倣って、キリスト教の精神が人々に慰めを与えることができるのかどうか、ヘッドストーンのように嫉妬のために罪を犯した者や、またどのような理由であれ、罪を犯した人を心の底から許すことができるかどうかをテストしたのである。

ストラーホフは、「罪と罰について」のなかで、ラスコーリニコフとヘッドストーンの心理状態を比較し、「恐怖と苦痛のほかに、ラスコーリニコフの心の中で犯罪の記憶が大きな役割を占め、その記憶によって繰り返し犯罪を犯すプロセスに引き戻される」と述べ、『我らが共通の友』第4部第7章「ケインになるよりアベルになれ」の箇所を引いて、ヘッドストーンの性格に基づく殺人者の心理状態を説明している。( 「ロシア報知」1865年11月)

1893年に『我らが共通の友』のロシア訳が出た。訳者はディケンズが描く犯罪者の心理学的洞察力に深く魅了されたロシアの弁護士R.I. Sementkovskyであった。ブラドリー・ヘッドストーンの描写は犯罪における知性の探究に情熱を傾けていたこのロシアの翻訳者にとって、想像できうるかぎりの様々な面、一個人の、社会の、また法廷弁護士としての認識など、それらすべての面において意に叶うものであった。とりわけディケンズがヘッドストーンの内面の葛藤を探るその方法がR.I. Sementkovskyの大きな関心事であった。それは翻訳に関する問題ではなく、専門的なケーススタディの観点からであった。『我らが共通の友』はSementkovskyにとって文学の分野における唯一の翻訳だったが、この翻訳の中でもっとも成功した箇所は間違いなくこのヘッドストーンの内面描写の場面であった。

ヘッドストーンとラスコーリニコフについて、犯罪の根本原因の探求という観点から、また、それぞれの性格の心理的発達から比較してみると、ドストエフスキーがどれほど深くディケンズの心理学的な概念を把握していたか、そして自らの想像力でそれらを変換し、豊かにしたかが理解される。一方で、ドストエフスキーにあっては、犯罪のテーマは『罪と罰』でより広い哲学的な問題へと向かう。ディケンズは『我らが共通の友』で、嫉妬と自らの人生に対する道徳的不満から殺人を決意するにいたった犯罪者の心を構成する個人の心理学を描いた。自己中心的な精神がディケンズの犯罪タイプの描写の中核に位置するのに対して、『罪と罰』の中心には、ドストエフスキーの哲学的および社会的問題に対する切迫した認識があった。

『我らが共通の友』は1864年5月から1865年11月まで週刊雑誌「オール・ザ・イヤー・ラウンド」に連載された。ロシアにおけるディケンズの人気は、1860年代に3つの雑誌で同時にさまざまな作品の翻訳が出たことによって高まり、『我らが共通の友』もロシア全土に広く読者を得た。

『アンナの日記』によると、ドストエフスキーのディケンズに対する関心は、1867年に『白痴』の執筆を始めたときにより強くなった。ドストエフスキーはストラーホフの「罪と罰について」を読んでおり、『白痴』で真のキリスト者について新たなイメージを創出するにあたり、ディケンズの『我らが共通の友』が念頭にあったと思われる。

『白痴』が「ロシア報知」で連載されることになり、ドストエフスキーは姪のソフィア・イワーノヴァへの手紙にこの小説の中心的なアイデアについて書き送っている。

この長編の主要な思想は、しんじつ美しい人間を描くことです。これ以上に困難なことはこの世にありません、ことに現在では。すべての作家は、単にわが国ばかりでなく、すべてヨーロッパの作家ですらも、しんじつ美しい人間の描写にかかった人はだれでも、常に失敗したものです。なぜなら、それははかり知れぬほど大きな仕事だからです。美しきものは、理想でありますが、理想はわが国のものにしても、開化したヨーロッパのものにしても、まだまだ遠く完成されていません。この世にしんじつ美しい人がただ一人あります。キリストです。というわけで、このはかり知れず、限りなく美しき人物の出現は、もうもちろん、永遠の奇跡です(ヨハネの福音書ぜんたいがこの意味です。彼はただ美しきものの具象化、顕言のみに、いっさいの奇跡を見出しています。)しかしわたしは深入りしすぎました。ただこれだけのことを言っておきますが、キリスト教文学における美しき人々の中で、もっとも完成されたものはドン・キホーテです。しかし、彼が美しいのは、同時に彼が滑稽である、ただそのためにほかなりません。ディケンズのピクウィック(ドン・キホーテに比べれば、無限に力弱い思想ですが、なんといっても巨大なものです)も、やはり滑稽で、ただ、それだけでひきつけるのです。人から嘲笑されつつ、おのれの価値を知らない美しきものに対する憐憫が表現されているので、したがって読者の内部にも同情が生まれる。この同情の喚起こそユーモアの秘密であります。(米川正夫訳「ドストエーフスキイ全集17:書簡中P.114)

『白痴』」のテーマについてのインスピレーションは、1860年から1870年までのロシア中流階級の日常生活から生まれた。執筆時、ドストエフスキーには個人的な苦労が多かったにもかかわず、主人公のムイシュキンは朗らかな人物として描かれている。ドストエフスキーは肯定的な人物の具象化に迷いつつ、そのモデルの参考として、セルバンテスの『ドン・キホーテ』、ディケンズの『ピックウィック・ペーパーズ』および『福音書』をあげている。

ここに『我らが共通の友』(1864)を加えたいと思う。なぜなら、この作品は『白痴』のプロットの構造全体に影響を与えているように見えるからである。ピックウィックの流れを汲む軽い筆致とは異なり、この二つの小説のトーンはペシミスティックである。両作者ともに、登場人物に道徳的な復活をもたらす契機として社会的な「対立」を利用している。ディケンズもドストエフスキーも、社会における理想は個々人の人間性が改善されたときに達成できることを読者に示そうとした。まさしく、ディケンズは『我らが共通の友』において、大きなスケールで、社会的なおよび心理学的な人間のタイプを描くという、彼の創造における頂点に達したのである。性格描写に反映されたディケンズの概念は審美的、哲学的な完全性に達し、芸術においてはより深く不可欠なものになった。

上で述べたように、『白痴』におけるドストエフスキーの主たる挑戦は、「肯定的なしんじつ美しい人間」の理想を描き、そのような人物がロシアの社会でどのように見えるかを示すことであった。ドストエフスキー自身は「理想」を審美的なものとして捉えていた。彼の主人公ムイシュキンは「美は世界を救う」という概念を証明することを意図していた。ディケンズとドストエフスキーの作品はそのままで世界の理想を具現化している。ドストエフスキーは深刻な自己分裂に苦しむ主人公を描きながらも、ディケンズの「理想的な」詩的なキャラクターを賞賛していた。

ディケンズはいくつかの理想的なタイプの創造に成功した。さらに、理想的人物の「一般概念」を創造し、後期の小説『我らが共通の友』のジョン・ハーモンを肯定的で調和のとれた理想的な人物として具象化した。同様にドストエフスキーもムイシュキン公爵を理想として具象化しようとした。ビクトリア朝の中流階級から遠く離れていると感じるハーモンと同様に、ムイシュキンもロシアの貴族社会の中で自分を完全に異質な存在と感じている。二人の主人公の間には明らかに強い心理的な類似点がある。どちらも青年時代を海外で過ごし(ブリュッセルとスイス)母国に戻った後、膨大な財産を引き継ぐ。

さらに、自己犠牲においても共通している。ジョン・ハーモンは自らの名前を明かさず、彼の使用人であるボッフィン、さらに愛するベラのために遺産を引き継ぐことを拒む。ムイシュキン公爵はナスターシャ・フィリッポヴィナを愛している。それは哀れみによる愛なのだが、アグラーヤへの真実の愛を超えるのだ。ムイシュキンのナスターシャへのプロポーズは彼の本質的な人の良さ、親切、優しさの証である。ジョン・ハーモンとベラ・ウィルファーを含むプロットは心理学的にはムイシュキンとアグラーヤのプロットに対応している。ジョン・ハーモンとムイシュキンに共通する性格の特徴、その複雑さを理解するには、人間の本質、洗練された微妙な精神的プロセスを理解する能力、そして寛大さについての深い洞察が必要とされる。

『我らが共通の友』のベラ・ウィルファーのわがままでふざけやで愛情深い性格は、子供っぽく気まぐれで優しく、やや甘やかされたアグラーヤの性格に明らかに似ている。ベラは、ディケンズと20年来の愛人であったエレン・ターナンの興味深いバリエーションである。ディケンズはベラを通して、ビクトリア朝の社会における男女間の緊張関係の一端を明らかにしている。ディケンズの弟子であるドストエフスキーは、ベラの性格を巧みに利用した。アグラーヤもベラのようにムイシュキンへの愛情を隠す。二人のヒロインはともに、見事なユーモア感覚、底の浅い気まぐれ、そして自分自身を犠牲にすることができないという性質を共有している。

世界認識においてもっぱら悲劇的であったドストエフスキーは「道徳的な理想」と「魂の美」の問題を追求した。それは彼にとって世界を救うために実現されなければならなかった。一方で「女性美の理想」については多彩なとらえ方をしていた。例えば、ナスターシャ・フィリッポヴィナの美しさは彼にとって「悲劇的」である。ここに『我らが共通の友』のリジー・ヘクサムの優れた創造の影響を認めるべきであろう。リジーの美にも非常に洗練された美しさと同時になにか悲しみの影のようなものが宿っている。リジーとナスターシャの美はともに悲劇的で心打たれる美である。

ユージンの目にリジーの姿は痛ましく映る。

彼女は床の上にじかに座り、頬を片手にもたせてじっと火を見つめていた。その頬には薄い膜のような、きらめきのようなものが見えた。はじめ彼はそれを明滅する炎の影だと思ったが、よくみると彼女は声もなくすすり泣いているのだった。火勢に応じて、あるいはくっきりと、あるいはおぼろに浮かび出るその姿は、かなしく孤独なものと彼の目に映った。・・・ゆらめく炎の傍らでしのび泣くその姿は、悲しく淋しげではあったが、小麦色の頬の赤らみと輝く黒髪のつややかさは息をのむばかりの豊かな色合いを見せていた。(間二郎訳「我らが共通の友」第三章)

まさに哀れみを誘う瞬間であり、読者は「完全に美しい」精神世界に対する感情へと導かれる。一方で、二人のヒロインの美の共通点だけではなく、同時に「間違ったプライド」や自虐的な自己嫌悪と傲慢さにも気づくだろう。ナスターシャ・フィリッポヴィナの言動には、明らかに強情で行き過ぎたプライドと自己愛が現れている。

けれど、不思議にも今の女の顔は、いつも見なれている顔とまるっきり違うようである。彼はそれをこの女の顔だと承認するのが、もの狂おしいほどいやであった。この顔には、悔悟と恐怖の色がみちみちて、たったいま恐ろしい罪を犯した大罪人かと思われるばかりであった。(米川正夫訳「白痴」第三編7)

ドストエフスキーはブラドリー・ヘッドストーンの性格描写から、虐げられ辱められた者がナスターシャ・フィリッポヴィナのように誇りと嫉妬の怪物に変わる可能性に気づいた。リジーは自分自身を卑下してユージンから身を隠している。ムイシュキンから逃れて身を隠すナスターシャにはリジーの影響が見える。

あの不仕合せな女は自分が世界中でいちばん堕落した、罪ぶかい人間だと、深くふかく信じきっているのです。ああ、あの女を辱しめないでください。石を投げないでください。あの女はいわれなくけがされたという自覚のために、過度に自分を苦しめているのです。しかも、どんな罪があるんでしょう。ああ、まったくそら恐ろしい!(米川正夫訳「白痴」第三編8)

ドストエフスキーはディケンズがつつましく発展させたキャラクターをドラマチックなキャラクターに変貌させた。彼女たちは常に変化する関係性の中に生きている。もちろん、ディケンズとドストエフスキーの登場人物の間には大きな違いがある。ナスターシャの役割はある程度、寓意的である。それは、マゾヒストであることはさておき、ロシアの社会における危機をも具現化している。とはいえ、マゾヒズム的なプライドという点において二人のヒロインはよく似ている。ナスターシャは明らかにリジーの影響を受けていると思われるが、ドストエフスキー独自の手法で描かれている。

さらに、『白痴』に影響を与えた『我らが共通の友』のわき役について検討を加える。ディケンズは、読者の関心を惹きつけ楽しませるために、しばしば奇妙な人物を作り出した。たとえば、サイラス・ウェッグは独特なキャラクターにおいてとりわけ際立つ人物である。彼は病院で片足を切断したが、その脚を剥製師のヴィナス氏が人体骨格の組み立ての材料のために買い取る。自分の身体の行方不明部分へのサイラス・ウェッグの執着ぶりがユーモラスに描かれる。ウェッグの脚はヴィナス氏の人体骨格にさほど役立つものでもないらしく、片隅にぞんざいに置かれている。この尊厳に欠けた扱いに憤慨したウェッグは脚の返還を求める。ヴィナス氏は承諾したけれど、失礼なことに、ウェッグの脚をひょいと小脇にかかえ、辻馬車にも乗らず通りを歩いて返還にやってくる。

このディケンズのモチーフは、ドストエフスキーの『白痴』第4章に取り入れられた。ウェッグの脚の冒険はレベージェフの脚の事件に反映されている。1812年の戦争のとき、レベージェフがまだほんの子どものころ、フランスの兵士に脚を撃たれて片脚を失った。彼は愛する親戚を亡くしたかのように片脚をヴァガンコフスキイ墓地に埋葬し記念碑と碑文をたてた。毎年、この脚の法要のためにモスクワに出かけるという。明らかに『我らが共通の友』のウェッグの脚のエピソードに似ている。ディケンズを真似たドストエフスキーのブラックユーモアの一例であろう。

以上、『我らが共通の友』と『白痴』のキャラクターの比較から、ドストエフスキーがディケンズの影響を受けたことを結論できるであろう。しかしながら、ドストエフスキーは、かれらを際立ってロシア的な人物として描いた。ドストエフスキーはディケンズの芸術的ビジョンの力を高く評価し、その社会的なビジョン、テーマ、スタイル、表現を豊かに受容したが、それはドストエフスキー独自のプリズムを用いて19世紀のロシアに屈折させた表現においてであった。

『白痴』の中に『我らが共通の友』の痕跡を観察するという方法は『骨董屋』(1840)でも適用できる。ドストエフスキーの創造に最も著しい影響を与えたドラマチックな場面(ドストエフスキー自身がいまだかって文学に現れたことのない表現と称した)は殺されたナスターシャ・フィリッポヴィナの傍に寄り添うラゴージンとムイシュキンの場面であろう。この場面を『骨董屋』におけるネルの死の場面と比較するとき、ドストエフスキーの場面が完全に暗いリアルな色調で描かれ、文体上の装飾が排除されていることに注目したい。これがドストエフスキーにとって物語の心理的側面と道徳的意義を引き出す方法であった。 『骨董屋』の中で、祖父トレントとキットが隣の部屋でネルが死んでいるのに気づいた、その静かな場面をドストエフスキーはドラマチックな動きの可能性を秘めた場面であるかのように感じ取ったに違いない。これまで述べたことから、ディケンズの作品はドストエフスキー文学の大きな源泉の一つと考えることができる。『骨董屋』に関しては、 ドストエフスキーが『白痴』を書く前にを再読したという直接的な証拠がある。(『アンナの日記』1867年5月にドストエフスキーが貸本屋で『骨董屋』のフランス語訳を借りたと書かれている)

以上述べたとおり、ドストエフスキーにおけるディケンズの影響は幅広いものであった。意識的であるなしに関わらず、ドストエフスキーは自身の独創的なプリズムを通じてイメージ豊かなディケンズ文学の力を屈折させて再現した。いくつかの作品(『罪と罰』『白痴』 『我らが共通の友』『骨董屋』)の比較分析によって、それらの類似点が明らかになった。ディケンズとドストエフスキーの作品を比較するとき、単純な模倣に引きずられることなく、想像力を働かせ、潜在意識について熟考し、ドストエフスキーの創造のプロセスにおける際立った特徴を見極め、ドストエフスキーが自ら「類型的に近い」と認めたディケンズの影響の奥深さに思いを巡らせるべきである。