ドストエフスキー作品メモ



カラマーゾフ一族の前史 

下原康子


三兄弟が父とスメルジャコフの住んでいる町に集まって、物語が始まったときの彼らの年齢とそれまでの生い立ちを「第一編:ある家族の歴史」から、簡単にまとめておく。

フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマーゾフ    55歳
ドミートリイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ  28歳
イワン・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ     24歳 
アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ   20歳 
パーヴェル・フョードロヴィッチ・スメルジャコフ  24歳 


フョードル 55歳

フョードルは無一物から出発して名ばかりの小地主になった。村では鼻つまみの放蕩者、でたらめきわまる常識はずれの人物で通っていた。しかし、自分の財産を増やす能力には長けており、死んだときには10万ルーブリもの金を残していた。結婚して3人の息子がいた。最初の妻、アデライーダ・イワーノヴナ・ミウーソフは、郡の地主で裕福な名門の貴族ミウーソフ家の美貌の娘で、一時のロマンチックな衝動からフョードルと駆け落ちした。ドミートリイが生まれたが、二人の間に愛情はなくけんかが絶えなかった。ドミートリイが3歳になったとき、アデライーダは貧しい教師と駆け落ちした。足取りをみつける間もなく彼女はペテルブルグの屋根裏部屋で死ぬ。フョードルの懐には2万5000ルーブリの持参金が入った。ドミートリイはまる一年、召使のグリゴーリイの手もとに置かれた後にアデライーダの従弟のミウーソフに引き取られた。フョードルはそれからすぐに結婚した。2度目の妻ソフィア・イワーノヴナはまだ16歳の天涯孤独の孤児で、ある将軍未亡人の養女になっていた。将軍未亡人が結婚を許さなかったので、フョードルはソフィアに駆け落ちすすめた。首つり自殺を図るほどやりきれない状態にあった彼女は、恩人よりもフョードルを選んだ。結婚してからも、フョードルは妻の前でさえ、あいかわらずの乱痴気さわぎをやってのけた。結婚は8年間続いた。ソフィアは二人の男の子を残した。

ドミートリイ(ミーチャ)28歳

母に捨てられ父にほったらかしにされたドミートリイの面倒をみたのは忠僕のグリゴーリイだった。まる1年たったころ、パリから帰っていたアデライーダの従兄にあたるミウーソフがドミートリイを引き取ったが、すぐに従姉にあたるモスクワのさる夫人に託す。やがてこの婦人も死に、こんどはすでに嫁いでいた娘の一人に引き取られた。さらにその後にも一度、落ち着き場所を変えたようだが不明である。彼の少年時代と青年時代は乱脈に流れ去った。中学もしまいまでは終えず、そのあと陸軍のさる幼年学校に入り、やがて飄然とコーカサスにあらわれると、軍務について将校に昇進した。放蕩の限りをつくしたが、遺産を当てにしていたせいか金には無頓着だった。乱脈なくらしぶり、粗暴なふるまいにもかかわらず、人好きのするところがあり、女性に好かれた。成人に達してからフョードルから金を受け取るようになった。領地からの収益の取り分をはっきりさせるために町にやってきたがあてがはずれ、さらグルーシェンカをめぐって父子で争うことになる。

イワン 24歳

ソフィアとの結婚の1年目にイワンが、それから3年後にアレクセイが生まれた。この結婚は8年つづいた。母の死後、二人はドミートリイの時のようにほっておかれ、やはりグリゴーリイに引き取られた。ソフィアの死後3か月して、突然将軍未亡人がフョードルの元に乗り込み、あっという間に二人の子供を馬車にのせて自分の町に連れ帰った。その後まもなく将軍夫人もこの世を去った。そのあと、二人の子どもは夫人の筆頭相続人のポレノフに引き取られた。この人物はまれにみる高潔で慈悲深い篤志家だった。イワンは成長するにつれて、自分の殻に閉じこもったような気むづかしい少年に育った。しかし、勉強には並外れた才能を見せたので、ポレノフは彼を当時名声の高かった教育家の全寮制学校に入れた。しかしイワンが中学を終えて大学に入ったときには、ポレノフも教育家もこの世にいなかった。将軍夫人が残してくれた遺産の払い戻しが遅れたため、イワンは大学の最初の2年間、自分で生活費を稼ぎながら勉学した。「目撃者」という署名で雑誌社に売り込んだ記事が好評で、雑誌編集者たちに知られるようになり、専門の理系にかぎらずさまざまな分野の論文や書評を書くようになった。大新聞にのった「教会裁判をめぐる問題」に関する論文は、文壇でも話題になり、ゾシマの修道院でも読まれていた。彼はモスクワにいたころから手紙でドミートリイの相談にのっていた。町にきた理由は、父と兄の仲裁やカチェリーナとのかかわりが考えられたが、他にも理由がありそうだった。彼は父の家に同居し、はた目にはなかよく暮らしているように見えた。

アレクセイ(アリョーシャ)20歳

彼は4歳のとき死にわかれた母の顔立ちや愛撫を目の前に浮かべられるほどありありと憶えていた。イワンといっしょに引き取られたポレノフ家ではみんなに愛された。物静かな落ち着いた子どもで、決してめだつふるまいはしないのに全校の人気者だった。ごく幼いころから他人の情にすがって生きていることに苦しんだイワンとは違って、自分が誰の金でくらしているのかに心をくばったことがなかった。彼は中学を残り1年残して、だしぬけに父の家に帰ってきた。ほどなく母の墓をさがしはじめたが、フョードルはその場所を知らず、教えてくれたのはグリゴーリイで、その墓は彼が寄進したものだった。アリョーシャがこの町にきたのは兄たちよりも1年はやく、ゾシマ長老の元で修道僧として暮らしていた。父親を批判することはなかった。フョードルの方もアリョーシャが好きだった。ドミートリイとはすぐに打ち解けたが、幼いころ一緒に育ったイワンはアリョーシャにとって謎だった。

スメルジャコフ(24歳くらい)

スメルジャコフの父親はフョードルであるとうわさされている。フョードルもあえて否定していない。母親はリザヴェータ・スメルジャーシチャヤという白痴の神がかりだった。彼女は町中の人から愛されていた。裕福な商科の未亡人が、身重になった彼女を家に引き取っていたが、5月のある夜こっそり抜け出してフョードルの家の庭園にあった風呂場で出産する。みつけたのはグリゴーリイだった。その日はマルファとの間に初めてできた子ども─6本指だった─の葬式の日だった。リザヴェータの生んだ子供はマルファが育てることになり、フョートルがスメルジャコフという苗字を与えた。彼はグリゴーリイの表現では<およそ感謝の念を知らずに>に、いつも隅の方からあたりをうかがうような陰気な少年に育った。12歳になり聖書の勉強をさせようとしたが、せせらわらったため、怒ったグリゴーリイが頬をなぐりつけた。それから一週間ほど片隅にもぐりこんでいたが、その間に初めてのてんかん発作が起きた。その後も平均して、程度はさまざまだったが、月に一度程度の発作が起こった。やがて、彼のひどい潔癖癖に目をつけたフョードルは、モスクワに料理の勉強に出した。数年後、町に帰ってきたときは、年に似合わず老け込み、去勢されたように見えた一方で、身だしなみのよい都会的な服装をしていた。料理の腕は確かだったのでフョードルはコックとしてやとった。人に対する態度はおしなべて軽蔑的で不遜だったが、イワンだけは尊敬しているらしい。