ドストエーフスキイ全作品読む会
ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.185 2021.3

 
出世主義者の神学生ラキーチン ──物語の広報係
 『カラマーゾフの兄弟』(原卓也訳 新潮文庫 1978)より

ドストエフスキーは脇役もめっぽうにおもしろい。例えば『カラマーゾフの兄弟』のラキーチン。町でもっとも顔が広い人物で、しじゅう、聞き耳をたて、うわさを広げ、誰かに何かを吹き込み、自らの売り込みのためには努力を惜しまない。頭がよく勉強家で機を見るに敏。近い将来成功間違いなしの(自分でも十分にその自覚を持つ)青年。世間やジャーナリズムの代表であり、物語の狂言回しとして欠かせない人物である。「カラマーゾフ一家」に対して格別の関心を抱いており、その観察に余念がない。以下の4つの章で実際に登場する。
@「第1部第2編場違いな会合第7章:出世主義者の神学生」(「アリョーシャ、君もやっぱりカラマーゾフなんだ」と言い放つ)
A「3部第7編アリョーシャ第2章:そんな一瞬」(アリョーシャにソーセージをすすめ、ウオトカをすすめ、グルーシェ二カのところに誘う)
B「第3部第7編アリョーシャ第3章:一本の葱」(「しかし、君はキリストじゃないし、俺もユダじゃないよ・・・」と言い捨てる) 
C「第4部第12編誤審第2章:危険な証人たち」(「事件」について独創的で高尚な意見を披瀝する)
その他にも多くの場面や登場人物たちの会話のなかにたびたび名前が出てくる。例えば、アリョーシャ、ミーチャ、イワン、グルーシェニカ、ゾシマ長老、ホフラコワ夫人、官吏ペルホーチン、コーリャ、検事イッポリートたちで、ラキーチンと彼らとのかかわりがうかがえる。以下、町の情報記者ラキーチンの名前が出てくる箇所を表にしてみた。 (編集:下原康子)
 編  編タイトル  章  章タイトル  日 場 所
1 2 場違いな会合 2 年とった道化 一日目 場所:ゾシマ長老の庵室
<ラキーチン人物評>普通のフロックコート。22,3歳。神学校卒業生。修道院の庇護を受けている。長身、頬骨の広いいきいきした顔。注意深く聡明そうな細い茶色の目。礼儀正しい。ゾシマ長老の庵室で、ミウーソフとやり合うフョードルの道化ぶりを注意をこらして眺めている。アリョーシャはちらちらと彼に目をやっている。
1 2 場違いな会合 5 アーメン、アーメン 一日目 場所:ゾシマ長老の庵室
<ラキーチン情報>ゾシマ長老の庵室で、イワンの論文の解説を聞いて興奮した様子。アリョーシャはその理由を知っている。
1 2 場違いな会合 7 出世主義者の神学生 一日目 草庵と修道院の間の林の小道
<ラキーチン登場>ラキーチンは、長老のドミートリイへの跪拝から犯罪の匂いをかぎつける。彼はカラマーゾフ一家の性格分析と問題点を詳細に展開してみせる。「女好きと、強欲と、神がかり行者、ここにカラマーゾフ家の問題のすべてが存在するのさ。アリョーシャ、君もやっぱりカラマーゾフなんだ」と言い放つ。彼は、アリョーシャの人望を妬んでいる。イワンについても、彼の知性とカテリーナとの関係に嫉妬し、将来を「出世コース」と皮肉られたことに恨みを抱いている。「出世コース」を聞いたアリョーシャは、楽しそうに「そっくりそのまま実現するかもしれないよ」と笑い、「それにしても、その話、誰から聞いたの?」と聞く。ラキーチンはドミートリイがグルーシェ二カに話すのを寝室にこもっていて盗み聞きしたことを明かす。「ああ、そういえば、あの人は君の親戚だったね・・・」とアリョーシャが言うと、ラキーチンは真っ赤な顔になりカンカンに怒ってそれを否定する。
1 2 場違いな会合 8 恥さらしな騒ぎ 一日目 修道院長の食堂
<ラキーチン人物評>どこでも顔がきき、情報源をつかんでくる。(修道院長の食堂での食事に招かれてはいないが、調理場をのぞいてその日のメニューを嗅ぎ出していた)落ち着きがなく嫉妬深い。自らの才能を自覚し将来の活躍に自信を持っているが、うぬぼれが強くそれを誇張する。親しい友人のアリョーシャを特に悩ませたのは、彼が不正直なくせに自分ではそれを意識せず、むしろ逆に自分を真正直な人間と決めてかかっている点だった。こうなるとつける薬はない。
1 3 好色な男たち 3 熱烈な心の告白 詩によせて 一日目 父の家の庭に隣り合った隣家
<ラキーチン情報>アリーョシャが父の家の隣家の庭でミーチャが現われるのを待っているとき、ふと、ラキーチンから聞いた話を思い出す。「フョードルの家の隣家に住む老母と娘(マリア)は貧乏でフョードルの台所からスープとパンをもらうほどなのに、娘は服の一枚も売ろうとはせず、その中の一着はやけに長い裳裾さえついている」。芸能記者顔負けの情報通ぶりである。
1 3 好色な男たち 5 熱烈な心の告白 まっさかさま 一日目 父の家の庭に隣り合った隣家
<ラキーチン情報>アリョーシャ「ラキーチンが言っていたのは本当なんですね。兄さんがグルーシェ二カのところに通いつめているというのは」。ラキーチンの告げ口には悪意と常に何らかのねらいがある。
2 4 病的な興奮 1 フェラポント神父 二日目 ゾシマ長老の庵室
<ラキーチン情報>ラキーチンは、ホフラコワ夫人に頼まれて奇妙な手紙(ゾシマ長老の予言的中の知らせ)をアリョーシャに届ける。ラキーチンはアリョーシャが手紙を読むより先にその情報をパイーシイ神父に直接伝えるという小細工をする。こういうディテールにもドストエフスキーならではのおもしろさがある。
3 7 アリョーシャ 1 腐臭 三日目 ゾシマ長老の庵室
<ラキーチン人物評>永眠した長老の庵室にひしめく群衆のなかにラキーチンをみとめたパイーシイ神父は精神的な嫌悪を感じる。ホフラコワ夫人は、僧院でおこるあらゆることをほぼ30分ごとに手紙で報告するようにラキーチンに頼んでいた。夫人は彼を敬虔な信心深い青年とみなして信用している。ラキーチンはあらゆる人とうまく付き合い、特に自分の利益になる相手に対しては、その人の望み通りの人間になってみせるすべを心得ていた。ミーチャが言うとおり、まさしく「出世の名人」である。
3 7 アリョーシャ 2 そんな一瞬 三日目 草庵と修道院の間の林の木陰
<ラキーチン登場>ゾシマ長老亡き後、林の木陰の地面に突っ伏しているアリョーシャをみつけたラキーチンの顔に嘲りの微笑が浮かび『ほんとに君はそこまで思いつめちまったのかい』とつぶやく。アリョーシャは、「僕は神に謀反を起こしたわけじゃない。ただ、≪神の世界を認めない≫だけさ」と言う。ラキーチンはアリョーシャにソーセージをすすめ、ウオトカをすすめ、グルーシェ二カのところに誘う。ラキーチンには2つの目的があった。「行い正しい人の恥辱」を見ること、「聖人から罪びとへの堕落」を見ることだった。
3 7 アリョーシャ 3 一本の葱 三日目 グルーシェ二カの家
<ラキーチン登場>グルーシェ二カは昔の恋人の呼び出しを待っているところだったが、アリョーシャの来訪を喜び、膝にのっかってシャンパンで乾杯しようという。ラキーチンは舌なめずりするが、アリョーシャはグラスを戻し、グルーシェ二カも飲むのをやめる。イラついたラキーチンはアリョーシャに「君は、神さまに謀反を起こしてソーセージを食おうとしたじゃないか」と嘲笑して「こいつの神聖なゾシマ長老が今日死んだのさ」と言う。とたんにグルーシェ二カは膝から飛び降りる。アリョーシャの顔に輝きが戻る。「あなたは今僕の魂をよみがえらせてくれました」と言って涙ぐみ絶句する。グルーシェ二カは「一本の葱」を物語る。グルーシェ二カとアリョーシャはお互いに強烈に魂を揺り動かされ「姉と弟」になる。「葱って何のことだい?」ラキーチンは二人の感激ぶりにおどろき、気を悪くする。彼は自分に関係のあることなら何でもいたって敏感に理解できるのだが、ある程度は若くて経験が浅いせいもあり、ある程度はたいそうなエゴイズムのせいもあって、身近な人間の感情や感覚の理解にかけてはきわめて雑だった。アリョーシャの堕落を見るという目的が果たせず、しかも、連れてきたらシャンパンと25ルーブリという約束をアリョーシャに知られたラキーチンは完全に怒ってしまう。「君は今、例の25ルーブリのことで俺を《軽蔑》してるんだろ?真の友人を売ったと言いたいんだな。しかし、君はキリストじゃないし、俺もユダじゃないよ・・・」(最下段に「注」)と言い捨てる。
4 10 少年たち 3 中学生 11月初旬 広場に向かう道
<ラキーチン情報>コーリャ少年がスムーロフ少年に語る。「動物からみれば、人間たちの社会のほうがこっけいで愚劣なことがずっと多い。これはラキーチンの考えだけど注目すべき考えだよ。僕はね、社会主義者なんだ」。コーリャはラキーチンの他にも、イワン、さらに、スメルジャコフからも影響を受けているようだ。
4 10 少年たち 6 早熟 11月初旬 スネギリョフの家の前
<ラキーチン情報>背伸びしてアリョーシャと対話をするコーリャ少年に、アリョーシャは「いったい、どこでそんなことを憶えたんです!」と驚いて聞く。コーリャはあわて気味になって答える。「あるきっかけから、ラキーチンさんとはよく話しますけど・・・もっとも、僕がもうちゃんとした革命家だなんて、思わないでください。僕はラキーチンさんと意見があわないことが始終あるんです」
4 11 兄イワン 2 病む足 11月初旬 ホフラコワ夫人の家
<ラキーチン情報>ホフラコワ夫人はアリョーシャに「人の噂」紙に掲載された「カラマーゾフ事件によせて」というゴシップ記事を見せる。そこには「被告の退役陸軍大尉は態度不遜な怠け者で、のべつ情事にひたっていたが、その相手の中に年頃の娘を持つ未亡人でありながら、彼に熱をあげて金鉱に駆落ちする条件で三千ルーブリ提供しようとした上流婦人がいた...云々」などと書かれていた。この記事が出る数日前、ラキーチンと、事件以来華々しく登場して、ラキーチンの場を奪った官吏ペルホーチンとの間でいさかいが起こっていた。ラキーチンがホフラコワ夫人にささげた「痛む足」という(女性の足をたたえたプーシキンの『オネーギン』第一章をもじった)詩を、目の前でペルホーチンに酷評されたのだ。二人の青年はたちまち恋敵になる。ラキーチンが敗北し追い出されるという展開になるが、記事で揶揄されたにもかかわらず、ラキーチンに対するホフラコワ夫人の怒りはそこそこで、三角関係がまんざらでもないらしい。ホフラコワ夫人は物語の緊張を解きほぐし、数少ない喜劇的な場面を提供する貴重な存在である。リーザとの母娘関係もおもしろい。
4 11 兄イワン 4 賛歌と秘密 11月初旬 刑務所
ラキーチン情報>公判の前日、アリョーシャはミーチャの面会に行った刑務所でちょうど出てきたラキーチンに出会う。ラキーチンは、警察署長令嬢と仲良しで家庭教師もしていた。それで立会いなしでミーチャとの面会が許されていたのだ。ミーチャはアリョーシャに「ラキーチンが言ってたクロード・ベルナールって誰だ?」と聞き「どうせどんな隙間もくぐりぬける卑劣漢だろう。ラキーチンも同類だ」と言う。「あいつは俺や事件のことで何か傾向的な評論を書いて、文壇に打って出るつもりなのさ。奴はイワンを憎んでいるし、おまえのこともきらいだよ。俺が奴と会うのはあいつが新しい学問を講釈してくれるからだよ。ところが、ラキーチンは神さまが大きらいなんだ。それを隠しているんだ」また「イワンにも神がないけど、ラキーチンとは違う。イワンには思想がある」などと話す。グロスマン「年譜」に「1878年12月(カラマーゾフの執筆時期)に、『実験医学序説』(1865年刊)の著者クロード・ベルナールが逝く。ロシアでも関連論文が多数現れた」とある。
4 12 誤審 2 危険な証人たち 11月〜 法廷
<ラキーチン登場>検事側のもっとも重要な証人は、グリゴーリイとラキーチンである。ラキーチンはあらゆるところに出入りして、何でも見ていたし、あらゆる人と話しており、カラマーゾフ家の経歴にも実に詳しかった。ミーチャの飲屋での武勇伝、粗暴な言動、へちま事件などについて証言した上で、自分の意見も述べた。この犯罪を「農奴制に対応できず無秩序に落ち込んでいるロシアの根深い風習の産物」として説明した。証言自体はミーチャの<有罪説>を裏づけるものだったが、一方、彼の意見はその独創性と高尚さで傍聴人を魅了した。(検事イッポリートはラキーチンが雑誌に発表するつもりでいるこの犯罪に関する論文の内容をすでに知っており、その後の論告のなかでその考えのいくつかを引用する)。しかし、このとき、いささか夢中になりすぎたラキーチンは、グルーシェ二カのことを<商人サムソーノフの妾>と口を滑らせてしまう。すかさず、弁護人フェチュコーウィチが挙げ足をとる。ラキーチンがいち早く教会管区本部から出版した『故ゾシマ長老の生涯』というパンフレットがよく売れて、かなりの利益を得たことをすっぱぬく。さらに彼がグルーシェ二カと懇意の仲であったこと、まさに事件が起こったその晩に、アリョーシャを僧衣のまま連れきたことでご褒美の25ルーブリを受け取ったという事実を問いただす。ラキーチンは「あれは冗談だったのです・・・もちろん金は返しますとも」とうろたえる。憤慨したミーチャが「軽蔑すべきベルナールめ!出世主義者め、神さまなんぞ信じていないくせに、長老をだましやがって!」とどなる。ラキーチン氏はいささか面目をつぶして退場となる。
4 12 誤審 4 幸運がミーチャにほほえむ 11月〜 法廷
<ラキーチン情報>グルーシェ二カの尋問が弁護人質問に移り、弁護人は再び「アリョーシャを連れてきたときのお礼25ルーブリ」を持ちだして質問する。グルーシェ二カは軽蔑的に「ラキーチンがお金を受け取ったのは不思議でもなんでもないわ。あの男はいつもお金をせびりに来ていたのですもの」と答える。「どうしてそれほど気前よくなさったんです?」と裁判官が聞くと、彼女は「だってあの男はあたしの従兄ですもの。ただ、このことはだれにも言わないでくれとあたしに頼んでいました」と答える。これで、ラキーチンの高邁な名演説の印象は決定的にかき消された。読者の溜飲が下がる場面である。
4 12 誤審 6 検事論告。性格描写 11月〜 法廷
<ラキーチン情報>イッポリート検事は、まさしく「白鳥の歌」となった熱のこもった論告の中で、ミーチャの広大なカラマーゾフ的天性を説明するにあたり、「カラマーゾフ家の家族全員をまじかで深くみつめてこられた若き観察者、ラキーチン氏が述べられたあの卓抜な思想を思い起こしていただきたい」と前置きして彼の意見を引用する。
4 12 誤審 9 全速力の心理分析。ひた走るトロイカ。論告の結語 11月〜 法廷
<ラキーチン情報>検事イッポリートの結語に至る論告をミーチャは両手を握りしめ目を伏せて座っていたが、検事がグルーシェ二カについてのラキーチンの意見を伝えたとき、憎しみと軽蔑をこめて「ベルナール野郎め!」と言い放つ。
4 13 エピローグ 2 一瞬、嘘がまことに 11月〜 市立病院の囚人病棟
<ラキーチン情報>ミーチャは判決二日目に神経性の熱病にかかり入院している。同情心の熱い善良な群会医のワルヴィンスキーはミーチャをスメルジャコフが入っていた小さな個室に入れてくれた。身内や知人の見舞いも内々に許されていた。ラキーチンは二度までも面会を画策したが、ミーチャは彼を決して入れぬようにワルヴィンスキー医師に頼んでいた。
注:江川卓訳『カラマゾフの兄弟』に次の「注」がある。
「きみはキリストじゃないし、ぼくもユダじゃないからね」この否定はむしろ逆説的に解釈できる。ラキーチンは「柳」を意味する「ラキータ」から出た姓だが、彼はもともとは「オシーニン」と呼ばれてしかるべきだったとする説がある(ヴェトロフスカヤ)。オシーニンは「オシーナ」(やまならし)から出た姓で、これはユダを暗示する木である。ところがこの姓を用いたのでは寓意が見えすいてしまうので、「やまならし」を「柳」に変え、そのかわり、野中でミーチャとアリョーシャが出会う場面(第3編好色な人たちJ:もう一つ、失われた名誉)で、柳の木とミーチャの首吊り自殺の考えを結びつけているというのである。

[ラキーチンのモデルがストラーホフだとする空想的推理] ドストエフスキーのおもしろさはディテールに宿る