ドストエーフスキイの会 ニュースレター No.80 2007.3.1


田中元彦氏「ドストエフスキーと自殺」を聴いて

(ドストエーフスキイの会 第177回例会傍聴記)

下原敏彦


ことし最初の例会報告は、田中元彦氏であった。粋な和服姿である。流行最先端の原宿だけに、より日本の精神を意識させた。それ故に、氏の口からドストエフスキーが語られると、瞬間、何か違和感を覚えた。が、すぐに二つは融和した。やはりドストエフスキーと日本人は馬が合うのか、と納得した。こんなこともあって、報告は、「自殺」という重いテーマだったが、不謹慎にも寄席の席にいるような気持で気負いなく聴くことができた。

報告でとりあげた自殺は、現在の日本では深刻な社会問題になっている。少し前、若者の集団自殺が流行った、昨年はイジメによる子供の自殺が相次いだ。他に恋、病気、困窮などなど諸々の理由による自殺は後を絶たない。戦争でもないのに毎年、3万人の自殺者がいるのだ。今回の氏による「自殺」考察が、自殺防止の手掛かりにならんことを期待した。

はじめに報告される田中元彦氏とは、どんな人か。昭和12年日本が自殺行為につっ走る発端となった盧溝橋事件の年に生まれた。子守唄に進軍ラッパと空襲警報を聞いた。そして敗戦という価値観の大転換期に少年時代を過し、青春からは高度成長の階段をひたすら駆け上がり、バブルがはじけ飛んだころ定年を迎えた。想像だがこんな人生である。激動の時代を体験してきただけに「自殺」を語る言葉に重みが感じられた。

報告は、自殺とは「自身によって為された積極的、消極的行為」であるという自殺の定義を皮切りに、ギリシャ、ローマなど古代都市国家の自殺観やキリスト教世界での自殺観が紹介された。19世紀における自殺については、精神医学の問題点や権利、刑法などが幅広く分析された。悪魔憑きから精神疾患への変化に氏のこだわりが感じられた。

次にドストエフスキー作品から作中人物の自殺者と自殺観が紹介された。大作『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』のなかでの多くの自殺者、未遂者をとりあげ原因、方法を指摘、推理した。これまで漠然と読み過していたので、氏の丁寧な読みと検証に感嘆した。

田中氏は、なぜ「自殺」に興味を持ったのか。ドストエフスキーは、実際の自殺者についてかなり関心をもっていた。『作家の日記』において度々とりあげ原因を究明している。1876年11月8日にあった中学予備校生の学校内での縊死もその一つである。少年は、なぜ死を選んだのか。作家は、当時の社会背景から、原因をロシアの「貴族階級の家庭の崩壊」とみた。

いつの時代にも不可解な自殺はある。ふと、思いだしたのは、昨秋、新聞の隅にあった小さな記事である。さわやかな秋晴れの朝、郊外にある、ある薬科大学の芝生の上に、2人の女性がうつぶせで倒れていた。彼女たちは、全身を強く打ち即死していた。校舎建物の12階から飛び降りたのだ。近くにA4版の紙に「人生に悔いはありません」と書かれたメモがあったという。

2人は、この大学の19歳と20歳の女学生で、同じゼミだった。彼女たちは、なぜ自殺したのか。その後の報道は知らない。1903年5月22日、日光の華厳の滝に一人の学生が身を投げた。〈萬有の真相は唯だ一言にしてつくす、曰く「不可解」〉という有名な辞世の句『巌頭之感』を残して。東大生藤村操は、なぜ死を選んだのか。既に百年余の歳月が過ぎているが、いまも謎のままである。氏が紹介した、アルヴァレズの言葉「ドストエフスキーが19世紀と20世紀をつなぐ役割を果たすのは自殺によってである」とは何か。もしかして謎解きを示唆しているのかも知れない。が、残念ながら、時間となってその意味を知ることができなかった。

まとめとして氏はドストエフスキーの自殺観を「理由無き自殺」や「自殺権」を否定しながらも、「理由ある自殺」の容認、とした。ともすれば暗い重いと敬遠されるドストエフスキーだが、この報告で、作家の精神の健康さをあらためて知った次第である。このたびの報告で自殺について多くのことを知ることができた。氏に感謝します。