下原敏彦の著作
江古田文学 第69号(2008年秋)江古田文学会

加山雄三と太宰治


下原敏彦

太宰治と聞いて思い浮かぶシーンがある。いつごろか記憶は定かではないが、以前、テレビで「知ってるつもり」という人気番組があった。そこで太宰治をとりあげたときのことである。そのときの場面は、心許ないが、こんなふうではなかったかと想像する。

たしか四十分くらいの番組で、作家の生い立ちや作品、生き方が波乱万丈風に紹介された。ゲストやパネリストには、むかし文学青年、文学少女だったらしい人が多く、会場にも太宰ファンの若い人が大勢いた。そのせいか、スタジオは、異様な熱気につつまれた。司会者も、太宰ファンか、かなり入れ込んでいた。番組の最後に作品か手紙の一節が読み上げられると、スタジオはしんみりした雰囲気につつまれた。その余韻がつづくなか司会者は、満足げに微笑みながら一人の出演者にたずねた。
「どうでしょう。見方が変わったでしょう」

皆の視線が、一斉にその出演者に注がれた。思えばつぎの場面は、台本にあるかないかは知らないが、この番組の最高のクライマックスとなったはずである。なぜならその出演者は、番組がはじまるとき、太宰治について、作品はまったく読んでいないが、人物については、あまりいい印象は持っていないと答えていたからである。放映された苦悩の作家の人生は、見るもの誰もの魂を揺さぶるに十分なできだった。おそらく、熱烈な太宰信奉者たちの手によってつくられたのだろう。

皆は、待った。その出演者が感動と興奮に震えて称賛するのを・・・。だが、つぎの瞬間、会場の誰もが耳を疑った。
「いやあ、ますます理解できなくなりました。どうしてこんな人を」
その出演者は、呆れたように大声でアッケラカンに言い放った。

一瞬の静寂のあと、会場にブーイングのようなため息がもれた。予想外の答えに司会者は、狼狽気味に視線を漂わせた。が、そこは教養も経験もあるベテラン司会者。すぐに笑顔を取り戻すと、慇懃無礼とも思えるほどのゆっくりした口調で「そうですか、わかりませんか」と、小首を傾げた。それにあわせたように会場のあちこちから失笑がもれた。ゲストや他の出演者たちの何人かは、苦笑しながら隣同士ささやきあっていた。

「人間の弱さが書かれていてるんですがねえ―」「やっぱり、Kさんにはわかりませんか」などといっているようにみえた。
「しかし、少しは興味がもてたでしょう・・・」司会者は、なおもあきらめ切れない顔で、たずねた。大団円に水さされたのが、よほど残念だったようだ。が、やぶ蛇だった。その出演者は、困惑しながらも満面の笑みを浮かべてふたたび快活に言った。
「いゃあ、よけいに読む気がしなくなりましたよ、この人の本は」そう言って、大きく首を振ると自問するようにつぶやいた。「どうして、こんな人を・・・」

その様子に、会場から忍び笑いが漏れた。嘲笑的な笑いだった。おそらく、その出演者が大物でなければ、お調子者の芸人が、飛び出していって「アンタは太陽。人間失格」とかなんとか揶揄して笑いをとるところだ。

その出演者は、大物中の大物、加山雄三さんだった。歳はとっても無敵の若大将である。皆は苦笑するほかなかった。多様化された現在の芸能文化のなかで比較するのは難しいが、1960年代、加山さんの活躍は凄かった。黒澤映画や『若大将』シリーズなど銀幕での活躍をはじめ、歌手としても数々のヒット曲を歌った。また弾厚作の名で作詞作曲するなどシンガーソングライターの草分け的存在でもあった。まさにヒーロー中のヒーローだった。

その加山さんでも、失笑される。このことは、裏を返せば太宰治は、それほどに神格化された存在ともいえる。どんなに時代が過ぎようと太宰人気は健在。太宰治は永遠に不滅。図らずも偶然に、そのことを強く印象づけた場面だった。おそらく、私も若いときなら、「やっぱり若大将だ」と皮肉まじりに苦笑していたに違いない。だが、このときの加山さんの感想は、まともに思えた。文学と縁のない人たちが思う普通の感覚にみえた。

それにしても、加山さんは、なぜあんなにも、はっきりと、あっさり断言したのか。長年つづくバラェテイー番組の常連出演者である。社交辞令に「読んでみたくなりました」と答えてもよかったはず。その方が番組的には盛り上がっし、失笑もされなかった。

しかし、意表を突く健康的な感想。加山さんらしいといえば、それまでだが、あまりにも加山さんらしかった。能天気ふうだった。それがかえって不自然にみえた。加山さんが太宰に対して何か確固たる信念をもっているように思えた。

太宰死して61年。相変わらずその人気は高いようだ。こうして特集も組まれている。あの芥川賞作家の綿矢りささんも太宰ファンらしい。受賞のときのコメントにそんな言葉があったようにおぼえている。いつの時代も文学青年や文学少女は、太宰を避けて通れないようである。かく云う私も、若いとき人並みに太宰ファンだった。太宰は、日本文学のなかにあって特別な存在だった。が、私のなかではいつのころからか落ちた偶像となった。

私の父は、十年前に亡くなった。1909年生まれで卒寿だった。あるとき、父が太宰と同い年ということに気がついた。一瞬、感激した。が、そのうち父親が太宰のような生き方をしたら、と思うようになった。私の父親は、信州の山奥のどん百姓で猟師だった。とても比較にはならないが、結論は、たとえどんなに偉い才能ある人間だったとしても、心中願望の生き方は許せたものではない。(死ぬなら一人で死ね。他者をまきぞえにするな。それは如何なる正論があろうとホロコーストへの道)。こう考えると、文学という衣装がとれた。

すると、それまで覆い隠されていた真実が見え始めた。その一つに、作家長篠康一郎がなめるように検証した七里ケ浜心中がある。日本中が不況のどん底にあった昭和5年3月8日、氷雨の神戸港から出航する移民船があった。日本が国策としてはじめた移民事業は22年目に入っていた。が、日本は相変わらず国民を外国に棄てていた。この日も、多くの人々が夢と希望を抱いて新天地に旅立っていった。950名の移民団、そのほとんどは東北の貧しい農家の家族だった。この移民船が目的地のサントスに着くころ、銀座にあるカフェ「ホリウッド」に頻繁に出入りする大学生がいた。東北出身の帝國大学仏文学科の学生で実家は大地主。郷里には結納をすませた芸者の婚約者までいた。そのことで勘当騒動まで起こしていた。まさに絵にかいた放蕩息子。この大学生は、何度かカフェに足を運び、店の女給と親しくなると江ノ島にある海岸で、心中事件を起こした。事件の推移は、長篠氏の検証によると、およそこのようである。

この年の晩秋、正確には1930年、つまり昭和5年11月29日の午前8時ごろ。場所は、神奈川県鎌倉郡腰越町にある小動(こゆるぎ)神社裏手の海岸。早朝の漁にでた漁師が、海岸で、若い男女がもつれ倒れて苦しがっているのを発見した。漁師は、すぐに警察と医者に連絡、救助にあたった。漁師が苦しがっていると見た二人のうち、女のほうは、すでに死亡していた。が、男は、まだ生きていて近くの七里ケ浜恵風園に収容された。二人が服用した薬品はカルモチンであった。嚥下時刻は、前日の28日夕刻から夜半のあいだと推定された。死んだ女は小柄で、生き残った男は大柄だったことから、カルチモンの中毒作用が体に比例したとみられた。後で男は睡眠薬常用者と判明。これにより女だけ死ぬ可能性が大いとわかった。男に自殺幇助の嫌疑がかけられた。

鎌倉署の調べで、二人の身元が判明した。死んだ女は、銀座のカフェー「ホリウッド」のウエイトレス田辺あつみ、本名・田部シメ子(十七歳)広島県安佐郡字小河内出身だった。長篠康一郎著『…七里ケ浜心中』の表紙にその愛くるしい写真が載っている。新劇女優を目指して上京、大半の劇団女優がそうであるように生活のためのカフェー勤めだった。12月2日生まれというから、18歳目前の死だった。生き残った男から調書をとりはじめた刑事は、男の身元を聞いて驚いた。帝国大学の21歳の学生というのもあるが、出身地を聞いて、肝をつぶした。刑事も同じ郷里で、実家は学生の家の小作農だった。生き残った若い男が何者かわかった。担当刑事は、大あわてで横浜地方裁判所の所長に連絡した。所長は、男の縁者だった。所長は、即青森県金木町に住む男の長兄に知らせた。実家は県下で知らぬ者がいない旧家。亡父は貴族院議員。長兄は青森県会議員。大学生は起訴猶予になり無罪放免となった。

大学生は心中オタクだった。高校時代から心中未遂を繰り返しては、それをネタに小説を書いた。男は、それで名を成し、女たちは闇の底に消えた。高まる男の名声。女たちの肉親は、どんな思いでその名を聞いただろう。これも、いつだったか忘れたが、テレビドラマで、佐藤B作演じる男(田部シメ子の兄を彷彿する役)が、またしても玉川の濁流に女を残して自分だけ助かろうとする心中作家を、こんどは、そうはさせまいと蹴り落とす場面があった。名も無き薄幸な女たちが溜飲を下げたシーンである。

加山さんの父親は、美男日本一と称された超有名な男優である。週刊誌か何かで読んだが、晩年の父親には頭を痛めたようだ。それに加え自身も実社会では辛酸をなめて死ぬことも考えたという。テレビでは、能天気にわからない、と答えた加山さんだが、もしかして本当は、作家のことはわかっていた。だからこそ、その生き方に対し堂々と、理解できない、そんな人の作品に興味がもてないと宣言できたのでは。いまは、そう思えて仕方ない。

せっかくの太宰治特集。青春時代に夢中で読んだよき思い出をと思った。が、頭に浮かんだのは、テレビでみた加山さんの感想だった。一見、若大将のように単純明快にみえた。が、加山さんは、確信もって、ご自分の人間観を人生観を述べられた。そのように思えてならない。来年は、太宰治生誕百年、祝うべく記念の年だが、この作家のことを思うと、拭えぬ光景として、あの番組のあのシーンがよみがえるのである。

※ 「知ってるつもり」番組は、日本テレビが1989〜2002年3月まで放映した。が、この番組の放映月日は不明。シーンの会話は推測です。
※ 佐藤B作出演のドラマは「グッドバイ 私が殺した太宰治」平成4年フジテレビ放映 (役所広司主演)