下原敏彦の著作
汐留青春グラフィティ
下原敏彦
一
安田講堂の落城をもって日本の学園紛争は終焉した。学生たちは大学に戻った。だが一部の学生は、理論闘争に転じて地下にもぐった。わたしの友人もその一人だった。彼はデモに参加した日、警察に追われてわたしのアパートに逃げ込んできた。その夜、わたしたちは、ウイスキーのコーラ割を飲みながら忌憚なく話した。彼は、セクト化し過激になっていく運動に不安を持ち始めていた。わたしは、離脱することをすすめた。翌朝、彼は、出て行くとき、苦笑して「考えてみるよ」といった。
「大丈夫か」わたしはたずねた。一度、過激派グループに入ったらなかなか抜け出せない。そんな悪いうわさをきいていたからだ。「大丈夫だよ。やくざの世界じゃないんだから」彼は、冗談ぽくいいながらも不安を払拭するように大きく頷いた。
そのあとぷっつり連絡はなかった。三か月後、ひょっこり現れた彼は「家賃滞納で下宿を追い出された」といった。それでしばらく荷物をあずかってほしいといって段ボール箱二つを置いて行った。彼とはそれっきり会ってない。連絡もない。内ゲバで粛清された、中東でゲリラになった、そんな噂もあったが、定かではない。まったくの行方不明だった。
このたびわたしのアパートは地上げで取り壊されることになった。彼には悪いが預かった荷物は処分することにした。段ボールのなかは、文具類と衣類だけだった。その中に、屑紙に混じってこんな書き物があった。彼は理工系だが、小説を書いていたのだろうか。整理しながらちらっと読んだが、貨物駅で働く青春群像のようなものだった。これが文学的に価値あるものかどうか、わからないがパソコンに入れておくことにした。
以下が友人の荷物の中にあった手記のようなものである。
ビルの谷間を木枯らしが吹きぬけていった。昼過ぎ、突然、Kが訪ねてきた。Kは、学園紛争のときの仲間だったが、学園紛争がおわってからは、地下にもぐった。が終結したあと、運動にのめり込んだ。デモ仲間だったが、学園紛争が収束してからは、会ってなかった。運動仲間に誘われ、日比谷公園で行われた「ベトナム戦争反対」の集会に参加した。
集会は当初、アジ演説の後、銀座周辺をデモ行進するだけときいていたが、過激派が大挙して押し寄せ、大荒れとなった。学園紛争で強力化した機動隊と小競り合いがはじまり、最後には歩道の煉瓦や火炎ビン、催涙弾が飛び交う混戦状態となった。白煙、放水、怒号。喧騒のなか仲間は、バラバラになり多勢の逮捕者がでた。私は、野次馬にまぎれてなんとか逃げ延びることができた。一人になるとなんとなく不安になり、中野に住む友人のアパートをたずねた。
「えっ、まだ、やってるの!」学生運動からすっかり手を洗っていた彼は、驚いたが、快く四畳半一間の部屋に入れてくれた。私は、夜に帰るつもりだったが、友人とコーラ割りウイスキイーを飲み始めたので、そのまま泊まってしまった。翌日、昼に目を覚ました。友人は、まだ酔いつぶれていた。私は二日酔いでふらつきながら外の公衆電話で下宿に電話した。仲間から連絡が入っているか知りたかった。
「あんた、いまどこにいるの」いきなり大家の女将さんの金切り声が脳内に響き渡った。彼女はつづけざまに言った。「警察の人がきたわよ。聞きたいことがあるからって、名刺、置いてったから、早く連絡しないと。背広着てたから刑事よ、きっと」
女将さんは、興奮気味にまくしたてた。警察関係者が二人訪ねてきたことが、よほどショックだったらしい。彼女は、私が未だ学生運動に参加していることを知っていた。日に日に過激になっていく学生運動に批判的だった。
「いい加減、やめなさい!田舎のご両親、心配してますよ!」彼女は、叱り口調で怒鳴った。
「ありがとうございます。大丈夫ですから」私は、平素をつくろったが、刑事が来たと聞いて動揺していた。なぜ幹部でもない、自分のところに刑事がきたのか…。まったく思い当らなかったが、警察が、訪ねてきたことですっかり舞いあがってしまった。郷里の両親に知れたらマズイという思いとこれで運動家として一人前になった。そんな相反する気持ちが交差し、なかば誇らしい気持ちにもなった。
どうするか迷ったので所属グループのリーダーに電話すると、「しばらく地下にもぐれ」との指示だった。角材を振り回しているところや、石を投げているところを写真に撮られたかも知れないというのだ。機動隊員が負傷して、その証拠集めだろうとのこと。なぜ、私の名前や下宿まで知っているのかと聞くと、幹部学生は、あきれ声で冷笑した。「公安は、みんな知ってる。把握してるよ。学校だって学生の名簿はわたしてある。だからいまは、隠れていた方がいい」と、いうのだ。
一兵卒の私は従う他なかった。一時的に身を隠す。ちょつぴり不安もあったが、ドラマの主人公になったような気持ちにもなった。私はいっぱしの逃亡者になったつもりで、友人から三千円借りると、そのまま大学と下宿から姿を消した。私が潜伏場所にしたのは、都会のど真ん中にある広大な貨物駅だった。たまたま駅で拾ったスポーツ紙の求人欄で見つけた。
【急募!貨物駅作業員。八時〜十八時 三千五百円、二十四時間勤務六千円】
私は、その足で貨物駅に向かった。そこは、山手の新橋駅から徒歩十分足らずのところにあった。人通りの多い歩道だったが、高い塀に囲まれた、小山のようなその場所は、瀟洒なビル群が立ち並ぶなかで、異様な建物に見えた。建物がなんであるか知る人は少なかった。そこは身を隠すのに絶好な場所だった。
広大な敷地にある貨物駅。そこにはおおぜいの人が働いていた。国鉄職員、郵政省職員、荷物会社の職員。それに貨物会社にやとわれている臨時職員。大半は、臨時職員だった。仮眠ベットもあれば、食堂も風呂もある。門を一歩外にでれば、大都会の街角だったが、中に入れば、まったく隔離された場所。人知れず生活することができた。寝るところもあって、仕事もある。まさに一石三鳥、これ以上の隠れ家があるだろうか。
それでもはじめは、怪しまれたりしないだろうか、そんな心配もあった。が、まったくの杞憂だった。お歳暮時期を迎える貨物駅は、まさに猫の手も借りたいほどの大忙しだった。連日連夜、荷物を満載した貨車が到着し発車していた。そんななかで貨車への積み荷、積み込み作業班。年齢不問。二十四時間勤務希望の私は歓迎され、即、ハンコ一つで採用された。
「学生さんはデモばっかしやってて、きてくれないからホント、助かりますよ」初老の事務員の男性職員は、うれしそうに言った。「いまから働いてもらえますね」
私は、いきなりで驚いたが、喜びを押えて三十七番の名札と手カギを受け取ると、彼に案内されて貨物駅構内に出ていった。その日から私は貨物駅で働くことになった。そこには、様々な青春があった。夢、希望、挫折、見栄、屈辱、苦悩、絶望――
二
構内は騒然としていた。三十五列車の発車時間が迫っていた。大小さまざまな鉄道荷物がごった返す積み荷ホームに、けたたましくベルが鳴り響き、怒鳴り声が飛び交った。
山陽本線方面の貨車の前には、小郡、防府、尾道と表示された荷物がまだ山積みにされていた。私は、手当たりしだい手カギに引っ掛け貨車の中にポンポン投げ込んだ。【横倒し厳禁】や【割れ物注意】の荷物もあったが、選別する余裕はなかった。
「おーい、早くしろ!」
「早くしろ!」
荷物会社の職員が、走りまわって大声でせかしまくった。
「これで、おしまあい!」一緒に作業していた39番の名札をつけたマコト君は、大声で叫んで、最後の荷物を両手で持ち上げると、思いっきりデッキの奥に投げ込んだ。白地にUSAと印された岩国米軍基地行きのサンドバックのような兵隊袋で、毎朝きまって一個小隊分ほどあった。今朝の袋には本でも入っていたのか角張っていて重かった。が、高校中退だというマコト君が若さに任せて積みあげてくれたので助かった。
私は、はじめのうち、このアメリカ兵の荷物を積みこむたびに緊張した。ベトナム戦争反対のデモ活動しているものが、戦争の先棒を担いでいるようで、妙な気持ちだった。が、いまでは積みやすい荷物の一つでしかなかった。
「オーライ!」「オーライ!」「オーライ!」積み荷作業終了を確認する合図が最後尾の車両方向から、連呼して聞こえてきた。
「オーライ!」マコト君は、張りきり声で叫ぶと前の車両に手を振った。合図の声は、連呼され、またたくまに最前部の車両に伝わった。とたん「発車するぞ!さがれ!さがれ!」とおくの最前部で紺服の機関士が赤い小旗を打ち振って怒鳴った。
突如、喧騒を引き裂くようなするどい警笛がピィーと鳴り渡った。ホームに蒸気が白煙となってたちこめる中、荷物を満載した貨物列車はきしむ音をたてながらゆっくり動きだした。連結器のかみ合う鈍い金属音が玉突きのように連続音を響かせていった。ガシャン、ガシャン、ガシャン。重量感あふれるその響きは、凍てついた朝の空気を震えさせながらしだいに間隔を早めていく。積み荷班の連中は、ぼう然とホームに佇んでいた。だれもかれもまるで湯上りのように体から湯気立ち上らせて。
私もマコト君も汗だくだった。が、一仕事を終えた爽快感があった。私は、ほっとした気持ちで目の前を過ぎて行く貨物列車を見送った。ワム15829、ワラ39764、ワム1759――貨車にかかれた数時は、すぐに読み取れなくなった。十余輌編成の長い貨物列車は、さらに速度をまして、操車場のはるか前方にあるトンネルの中に吸いこまれるように消えていった。最後尾の車両が完全に見えなると、途端、構内から轟音が消えた。すべての動力エンジンが切られ、構内はまるで時間が停止したような静寂に押し包まれた。
「おーい、一服だあー」静まり返ったホームに南条班長の甲高い声が響いた。
南条渕班長は、元、といっても三十年近くも前のはなしだが、職業軍人だったと自慢するだけあって痩せて筋ばった老体ながら、その声はよく通った。班長の声を合図に、石像のように佇んでいた積み荷班の臨時雇いや職員たちは、魔法が解かれたかのように一斉にホーム先端に向かって歩き出した。
「先輩、行きますか」マコト君は、運動部の後輩口調で私を誘った。それから、まだ放心状態で立っている30番の松宮さんに大声で声をかけた。「おじさん、行きましょう」
「やれやれ、やっと休めるか」松宮さんは、ハンカチで禿げあがった額の汗を拭きながら、ほっとした顔で言った。そうしてマコト君と私の間に入って歩きだすとため息まじりにつぶやいた。
「今朝は、やけにあったねえ」
「二百トンですよ、今日は」
「ええっ、冗談でしょう」松宮さんは、悲鳴をあげる。
「本当ですよ。ちゃんと事務所でみてきましたから」マコト君は、からかい口調で言った。
「いまの三十五便なんか序の口ですよ」
「ほんとかい、だったら休めばよかった今日は。ああ、ついてない」
松宮さんは、大げさに舌打ちしてがっくり肩を落とした。
冗談とも本気とも思えぬ反応に私とマコト君は顔を見合わせて失笑した。松宮さんは、四十歳ぐらいで、まだそんな歳でもないのに、髪の毛はかなり薄くおまけに白いものが混じっていた。貨物駅に臨時雇用でくる年配者は、自分のことは、ほとんど話さなかったが、松宮さんは、こだわらない性格か、なんでもしゃべった。この秋口に勤めていた印刷会社が倒産して、一時しのぎに働くようになったこと、家は横須賀の方にあって家族は奥さんと小学生の子供が二人いることなどあっさりと他人事のように話した。ときおり「早く、職をみつけなきゃあな」と、焦燥気味につぶやくのだが、なぜか滑稽にみえて、つい笑ってしまう。会社から濃紺の色あせた作業着が配給されたが、松宮さんは、埃っぽいからと着なかった。いつも紺の背広に白いシャツ姿で、作業していた。通うにもその服装だった。松宮さんは、見た目はさえない小柄のおっさんだが映画についてはなかなかの知識をもっていた。
休憩時間、映画の話になると昔の映画名をあげては、さも自分が監督したような口ぶりで、解説した。そうして、ただ鉄骨が組んであるだけの殺風景の貨物駅の高い天井を見上げて「ここの、貨物駅、好きなんだ。この景色がローマの駅に似ているんだよ」と、さも行って見てきたようなことを言った。いつもは口数の少ない松宮さんだったが、こと映画に関しては饒舌で自信にあふれていた。しかし、その映画の情熱が、どこでギャンブルにすりかわってしまったのか、松宮さんは、競馬にもかなり詳しかった。近ごろの競馬は猫も杓子も手を出すようになってつまらなくなったとぼやきながら暇さえあればズボンの裏ポケットにねじこんでいる競馬新聞をひろげて熱心に見入っていた。マコト君がのぞきこむと自嘲気味に笑って「こんなものやらんほうがいいよ。おじさんみたいになっちゃうから」と、言っていた。
松宮さんとマコト君は親子ほど歳が離れているのに、よほど気があうのか、いつも一緒に作業していた。貨物駅のバイトは見ず知らずの集まりなのに相性はわかるようだ。後ろから、奇声をあげながら追いついてきた三人組も、ここで意気投合して、すっかり仲良しになっていた。彼らも作業中は、四六時中一緒にいた。
「はーい、お先に」三人組の一人、27番の団卓也が笑い顔をふりまいて追い抜いた。
彼は、小太りの学生で小さな劇団の役者だといっていた。いつもボサボサの髪に赤タオルで鉢巻していて、常に愛想よかった。つづいて小柄な高槻がシャドウボクシングしながら、そのあとから、曼陀羅模様の布切れをヘアーバンドがわりにしたヒゲの磯村がバンドマンらしく身体を揺すりながら鼻歌まじりに「やあ」と一声かけて追い抜いて行った。
「相変わらず、元気いいね。あの三人」と、松宮さんは笑う。
「ほんとス」マコト君は、羨ましそうにつぶやいて見送った。
三
休憩場所は、引き込み線ホームの最先端にあった。休憩場所とは名ばかりで、粗末なベンチが二つと石油缶を半分にした吸殻入れが一つ置いてあるだけの吹きっさらしだった。だが、日当たりが良く天気がよければ、日なたぼっこに最適な場所だった。
しかし、風が強い日や寒い日は、タバコを吸う人だけが集るだけで、吸わない人は空貨車の中か、荷物の間で休んだ。晴天で風もない今朝は、積み荷班も積み下ろし班も皆、ぞろぞろ集ってきた。南条班長と、職員、それに古参の季節のおっちゃんたちがベンチを陣取ると、その回りに若い職員や、臨時雇用の作業員が腰をおろした。みんな一斉にタバコを吸うので、ものすごい煙りがたちこめた。
「おれ、下に行くから」 私は、二人に断って線路に飛び降りた。二人には、自分は、ただのノンポリの学生としか話していなかった。デモ参加の容疑で身を隠していることや失敗に終わった学園紛争のことは、話したくなかった。
広い操車場のうえには、抜けるような青空がひろがっていた。遠くの塀の隙間から新幹線の白い車体が風のような音をたてて走っていくのが見えた。とてもここが都会のど真ん中とは思えなかった。ラッシュアワーの時間なのに、静寂そのものだった。
「ぼくはここにするよ」ホームの上から松宮さんが言った。彼は、日当たりのよい柱にもたれて座って、さっそく競馬新聞をひろげていた。マコト君は、ホームの先端に行って青空に向かっての背のびをした。そのあと、そこに段ボールの切れ端を敷くと、その上で腕立て伏せをはじめた。
私は、二人がそれぞれの場所に落ち着いたのを確かめると、ホームの下から板切れを探しだしてレールに渡して腰をおろした。ようやくほっとした気持ちになった。霜のついた小石が朝日を浴びてキラキラ光っていた。その光りは郷里の吊り橋の欄干の上に降り積もった霜を思い出させた。学校に行く朝、その霜を人差し指でこすった。霜の粒子が空中に弾け飛んでいくのが面白かった。なつかしい気持ちになってレールの霜をさっとこすった。霜は、もう水っぽくなっていて、粒子の飛沫とはならなかった。私は、冷たくなった指先を頬に押し当てながらホームに目をやった。
忙中閑あり。ホームでは皆、思い思いに休んでいた。元気者の仲良し三人組は団と磯村が、喫煙組の仲間入りしてタバコをふかしていた。高槻は、一人離れたところであきもせず、シャドウボクシングをつづけていた。上体をくねらせながらのフットワークが軽快だ。本当にボクシングを習ったことがあるのかも、そんな気がした。大男の小林は柱にもたれてうつらうつらしながらも、ときどき大あくびしていた。彼は、いつも一人で浅黒い顔をニタニタさせて、ひとり言を言っているので、薄気味悪かった。
平岡は、空台車の上でぼんやり日向ぼっこをしていた。彼も、たいてい一人でいた。口数が少なく、誰かと会話しているのを見たことがなかった。それで、本当かどうかはわからなかったが、彼は現役のプロ野球選手だという噂があった。
プロ野球通の高槻は真顔でみんなに「大洋のリリーフ投手だよ。ちょっと前まではワンちゃんキラーで有名だった。ほんとだって」と、説明していた。本人に確かめたらしいが、団と磯村は、容易に信じなくて
「まさか、一軍の選手だぜ、そんなのがくるかよ。こんなとこに」と、てんで本気にしなかった。
私も信じられなかった。どう見たって平岡は失業中のおとなしい青年にしか見えなかった。風呂場で見かけても、体格は、皆とたいして違わなかった。自称フリーのカメラマンで株の相場師というという早川は、段ボール箱の荷物をベットがわりに寝転んで、週刊誌を読んでいた。見栄か、張ったりか、彼はここには痩せるためにきている、と自慢していた。そのことを証明するような太り気味の体で、上下揃いのジーンズがはちきれそうだった。彼は、いつも冗談をとばす陽気な性格で、血色のよいてかてかした張りのある顔と、糸くずのようにちじれさせている長髪は、自称三十三という年齢より若く見えた。荷物の多い日は、彼は荷物の山を前に「これで、痩せられるぞ」と大張りきりするのだが、なぜかそんな日に限って、トイレにちょくちょく行った。
ど近眼の畑野は、鉄柱に背をもたせて居眠りしていた。本人は自分のことを受験生だといっていたが、だれも信用していなかった。青白くむくんだ顔はどう見ても二十歳過ぎだったし、それに第一この季節、ここにいるのも変だった。「だれも本気になんかしちゃあいないさ。グズラが大学を受けるなんてよ。それも早稲田と慶應を受けるんだと」これも高槻が笑って話していた。
彼らは三人組は、畑野にグズラとあだ名をつけて呼んでいた。畑野は、一応受験生というだけあって、ホームの柱に英和辞典を置いていて、休憩時間には、ひろげてながめていた。が、今朝はくたびれてか、手にしていなかった。ボサボサ髪の頭がガクンとなるたびに度の強い眼鏡の光がキラリと流れた。
突如、爆笑が起こった。見ると、南条班長が大口を開けて笑っていた。季節のおっちゃんたちもニヤついている。猥談をしているのは想像ついた。朝、栃木や茨城から出勤してくる季節のおっちゃんたちが、よく電車の中の痴漢話しをしているからだ。
いつも憔悴しきった顔の倉持社長は、皆より一テンポ遅れでニヤついていた。倉持社長は、下町で工場を経営しているとかいう人で、それで社長と呼ばれていた。ベンチ周辺にいる人間で一人だけ笑っていない者がいた。パチキチの須藤だった。彼は、話の輪には入らず、一人きょろきょろしていた。たぶん誰かにタバコをもらおうとしているのだろう。彼は、だれかれとなく借金を申し込むことで有名だった。はじめ三百円、貸してほしいという。断わられると二百円、百円と落として、最後には、十円でもいいからというのだ。松宮さんは、二百円貸したが、なかなか返さないとボヤいていた。
貨物駅には、大勢の人が働いていた。国鉄職員、荷物会社職員、季節のおっちゃんたち、彼らはほとんど茨城県の農家のおっちゃんたちで、農作業が忙しくない季節に通勤出稼ぎしていた。私たち臨時雇用は、ほとんど若者だった。国鉄職員は、ここでは特権階級のようだった。あまり人数はいなかったが目立った。荷物会社の職員は、国鉄の職員には頭が上がらない分、臨時雇用者には威張ってみせた。郵政省の職員は、どこかスマートだった。背中が温かくなると眠くなった。私はうつらうつらしながら本格的な眠りに入っていった。
四
突然、遠くでベルが鳴りはじめた。私は、ハッとして目をあけた。青空がまぶしかった。随分、長いこと眠っていたような気がした。べルは隣のホームで鳴っていた。が、辺りはなにも変わっていなかった。マコト君は、線路の上で退屈そうに、回りをながめていた。松宮さんは、競馬新聞をひろげて検討中だ。喫煙ベンチは、さすがに静かになっていたが、煙りだけはあいかわらずたなびいていた。
積み荷ホームはまだ休憩中だったが、ベルが鳴り響く向かいの三番ホームには、荷下ろし班の連中が、ぽつりぽつり姿をあらわした。人数が少ない。まずいぞ、と誰もが思っていると案の定「よお、うちの兵隊、貸そうか」南条班長が、大声で叫んだ。
当然「頼んまっす!」との返事が返ってきた。ふーというため息がホームにもれた。皆は、やれやれと立ちあがって、到着ホームに向かった。
「おい、見ろよ」途中、高槻が、振りかえって指差した。パチキチの須藤が、南条班長にぺこぺこ頭をさげていた。いつもの光景だった。
「まただよ、ゴマすってやがる」
「いいじゃあねえか。一人残って休んどってもつまんねえじゃん」
「だけどよお、いつもだぜ」
「だったらタカ、お前ゴマすってみな、残してくれるかもしれんから」ヒゲの磯村は、皮肉っぽくからかった。
「おれは休みたくて言ってんじやあねえ。奴のああいう根性が嫌なんだ」高槻はカッとなって言い返した。
磯村と高槻の間に一瞬、気まずい雰囲気が流れた。が、つぎの瞬間、団が、直立不動の姿勢になって、皆に最敬礼した。
「軍曹殿!」団は、大声で怒鳴った。「自分を銃後の守りにつかせていただきたいのであります。待機させてください」
皆、きょとんとして団を見ていたが、早川が拍手して言った。「おっ、決まってるう」
「いいねえ、こんど『兵隊やくざ』で使ってもらえよ」磯村は、ヒゲ顔をほころばせていった。
団は、直立不動の姿勢を崩してきいた。「そう、リアリティあった?」
「あったよ。あった。様になってねえところが」早川はからかった。「二等兵みたいで」
「ど、どういう意味ですか」言って団は、大げさにずっこけた。
皆、どっと笑ったが、高槻だけは治まらないのか「ふざけた野郎だ」と、吐き出すようにひとりごちた。
ギアーという重量感あふれる金属音が、構内に響き渡った。ブレーキを目いっぱいかけて貨物列車が入ってきた。よほど荷を満載しているらしい。このごろはブレーキ音で荷物量が判断できた。皆は、足を早めて到着ホームに向かった。到着ホームには、台車やベルトコンベア―が並べられ騒然としていた。私は松宮さんマコト君、団たち三人組と組んで作業することにした。
「おたのしみー」高槻は、治まらない気持ちをぶっけるように大声で言って、手カギでアルミの止め金を引きちぎった。
「さあ、いくぜ」団とマコト君が、掛け声を合わせて、鉄のドアを両側に一気に押し開けた。
天井まで荷物がぎっしり積みこまれていた。いきなり支えを失った荷物の壁は、一瞬、戸惑ったように揺れていたが、次の瞬間、大きな波のようにダダダッと崩れ落ちてきた。皆、わーと喚声をあげて左右に逃れた。
日本の最南端からの長道中だ。カビ臭いにおいとすえたにおいが鼻をついた。冬でこれだから夏は、もっとすごいだろうことが想像できた。
「これじゃあ、人なんか入る隙間なんかねえよなあ」貨車からこぼれ出た荷物の山を前に団は、感心したようにつぶやいた。「今日は荷物、少ないんだろ」
「だろうな、でなければ死んじゃうよ」ヒゲの磯村は、頷いて言った。
三人組みが何を話ししているかわかった。彼らも誰かに聞いた話だが、貨車の中に人が入っていたことがあったらしい。途中で外からカギをかけられ、出るに出れなくなって終点のここまできてしまったようだ。暑さと、腐敗した臭いと闇のなかに長時間いたものだから、脱水症状やらなにやらですっかりまいっていたらしい。救急車で運ばれていったということだ。
「しかし、なんだって、貨物列車になんかのったんだ。ちょっと頭使えば、無賃乗車なんかできるのに」
「頭、使わなくたってできるよ。おまえなんか、いつだってキセルやってるじゃねえか」
「中で、小便や糞したんだろうなあ」
「くせえ話しすんなよ。やる気しなくなるじゃん」ヒゲの磯村は、顔をしかめて言った。「さ、やろうぜ」
皆は、荷下ろし役、コンベアー役、仕分け役、台車積み役にそれそぞれ分かれて作業を開始した。正雄は、貨車から荷物を下ろす役を引き受けた。天井までぎっしりと積みあげられた荷物を、ほとんど段ボール箱だったが、崩し、コンベア―の方に投げ渡した。作業しながら正雄は、さきほどの団たちの会話を思いだした。
「なんだって貨車になんか乗ったんだ」私は、その男の気持ちがわかるような気がした。あの朝、バスを降りて、駅に向かう途中、停車している貨物列車を見た。扉が開いていた車両もいくつかあった。柵を飛び越え、あそこにもぐりこむ。私は、そんな衝動にかりたてられた。もし、夜だったら実行していたかも。そう思うとぞっとする。私は、そんな気持ちを振り払って、荷下ろし作業に拍車をかけた。積み荷の下ろし作業は小一時間つづいた。私たちの組は、四両空にした。作業が終わったときは、皆、ヘトヘトだった。が、「積み荷班、早く戻れー」さっそくに南条班長の元気がいい声がホームに響いた。「ふぁー」積み荷班の応援部隊は、不平のため息をあげながら、再び一番線の積み荷ホームにぞろぞろ戻っていった。一日の仕事は、はじまつたばかりだった。しかし、いくら忙しくても正雄は、朝の作業が好きだった。夕方がきて日勤が帰る時間は寂しかった。
五
職員食堂で、夕食のカツ定食を食べ終わった。あと見回すと、臨時で夜勤は、大学生の鈴木と二人だった。彼は、なぜか、あまり話をしたがらなかった。「ちょっと本、読んでくよ」というので私は、ロッカー室に戻った。風呂あがりの団たち三人が帰り支度していた。団は、長髪をタオルで拭きながら、おどけ顔で「お、39番さん。今日も泊り?」と聞いた。
「はい」
「がんばるねえ。おれたち帰るよ。たまにシャバの空気すいたいからね」
「ほんとは、一杯やるんだよ」高槻が、言った。
「じゃあ、お先にー」三人が出て行くと、ロッカー室の中は急に静かになった。二十時の列車が入るまで、まだ時間があった。
ドアが開く音がした。振り返ってみると皆から一等書記官と呼ばれている職員の廣澤が顔をのぞかせていた。
「あれー、お宅だけ」
「はい」
「なんだよ、臨職、少ないんじゃん」廣澤は不満そうにつぶやいてから、ニャっとて言った。「君は休まんでくれよな。こんどいいとこ連れていくからさ」
話の意味はわかった。団たちは、彼を一等書記官とあだ名していた。トルコ嬢にいれあげていて、だれかれとなく誘っていたからだ。廣澤が出ていくと、私は、すのこのうえに腰をおろした。ガランとした広いロッカー室。こんなところに一人でいる自分が不思議に思えた。東京にいることがウソのように思えた。
六
私は、貨物駅では食事は、なるべく一人でとった。誰かと一緒に食べていてポロっと何か話してしまったらという心配があった。もっとも、私はもともと、人と話するのは得意でなかった。それに私は、これまであまり読書しなかったが、ここにきてから小説を読むことが楽しくなった。新橋駅にある書店まで、往復二十分とかからない。夕方のラッシュ時なら見つかる危険はなかった。二十時に到着するまでは時間あった、その間に私は走って、新橋駅に向かった。私は読みかけの文庫本を小脇に休憩室に降りていくと、皆、のんびりと食後のひと時をすごしていた。私は、長いすに腰をおろすと、壁を背に昼寝することにした。が、皆のこまごました話し声が耳についてなかなか眠れなかった。私は、薄目を開けて皆の様子をながめた。
松宮さんと、倉持社長は持参の弁当をひろげたまま話し込んでいた。
「しかし、仕事を探す時間がないでしょ。ここに来てたんじゃあ」
「そうですけど、ぼくらみたいな年になるといくら探したったなかなかありませんからね」松宮さんは苦笑して言った。「肩たたきされる年齢ですからね」
「お二人さん、大丈夫だって。春になれば景気よくなるから」早川が自信たっぷりに言う。
「だんなの株も、ここに働きにくるようじゃあ、当てにはならん」そう皮肉りながらも倉持社長は希望を託すようにつぶやいた。「春かあ、ほんとによくなるかねえ、景気」
団たち三人組が騒々しく入ってきて、テーブルでポーカーをはじめた。インスタント焼きそばを食べていた須藤が「まったく、うるせえんだよ」と、ひとりごちるようにののしって出ていった。畑野は、まったく気にする様子もなく、テーブルの端でおにぎりを食べていた。テーブルの上には例の赤線を引きまくった英和辞典がひろげられていたが、暗記しているようにはみえなかった。
小林は姉に作ってもらうという分厚い弁当を誰よりも早くたいらげると退屈そうに、キョロキョロしていた。彼は、作業しながら荷物が岩手だったりすると、「寒かったので一日で帰ってきた」と言ったり、四国の荷物だったりすると「野宿したら、えらい蚊にさされてよお」と、話したりと、よほどあちこち旅行、放浪して歩いているような口ぶりだった。ゴリラのようないかつい顔、それでいて言葉遣いは妙に丁寧で、目があったりすると、ニッと笑った。「ムショ帰りだよ。きっと」そんなうわさがあった。
平岡は、小林の隣で腕組みして眠っていた。彼も、皆とあまり話をしなかった。休憩時間は、たいてい眠っていた。彼を見ると、つい疑ってしまう。ほんとうにプロ野球選手なのだろうか。あの王貞治選手キラーの。日本一のホームラン打者を討ち取って歓声のなか、ゆっくりベンチをおりていく。かってそんな栄光の瞬間があったのだろうか。いま、薄汚れた壁に背をもたせてうつむいて居眠りしている平岡からは、そんな雄姿はみじんも想起できなかった。
反対のテーブルでは、今朝、出勤してきた季節のおつちゃんたちが昼食中だった。おつちゃんたちは、テーブルの上に持参の重箱をひろげて、てんでにおかずを交換しながら、モミまきから、早くも田植えの話までに花を咲かせていた。季節のおつちゃんたちは、倉持社長や松宮さんたち都会のおっちゃんたちに比べると、貨物駅に来ることが楽しそうだった。冬の農閑期のあいだ都会に出てくるのは息抜きになるようだ。一泊二日の作業である。長距離電車を乗り継いで出勤してくるのは、はた目には大変そうだが、野良仕事に比べれば、貨物駅の作業などたいしたことはないのかも知れない。
「おりるんか」
「おりねえって!」
「じゃあ出せよ」
「ハッタリかましゃあがって」
あいかわらず団たち三人組はポーカーをつづけていた。
七
はじめ雨が降っているのかと思った。六月の雨がこやみなく庭の草木の上に音もなく降りつづいている。大雨になるのかしらん。嫌だなあ・・・傘さして自転車じゃあ、膝から下はびしょぬれだ。でも、今から歩いて行ったんじゃあ大遅刻間違いなしだ。私は、さっきからこんな心配を思いめぐらせていた。が、不意にこれは雨の音なんかじゃなくてカイコが桑を食べているときの音だと気がついた。カゴロジいっぱいのカイコがふっくらした白い体をくねらせて無心に口を動かしている光景が頭に浮かんだ。
しかし、すぐにあれ、変だぞと思う。家でカイコを飼っていたのは、自分が小学生の頃だし、季節も、今は冬だ。教室の窓から見える遠くの赤石山脈は、すっかり雪化粧していた。それにこんな冬場にカイコがいるはずがない。私は、躍起になって事態を把握しようとした。が、ますますわからなくなるばかりだった。するとこんどは突然に祖母があらわれて「早くよういせにゃあ、学校遅れるぞ」と、起こしにかかった。
よく見ると高校で担任だった真鍋先生までもが、馬面をのぞかせ、かいばでも食らうように口をもぐもぐさせ「日本育英会からお金がもらえんぞ」と騒いでいる。なんだ、うるさくてたまらんじゃないか!私は、無性に腹が立って怒鳴りつけようとした。と、そこで目が覚めた。途端、怒りは、空気を抜かれた風船のように一気に萎えしぼんでいった。
なんだって田舎の夢なんか見たのだろう。そう思いながら、つづいて朝の仮眠室の光景をおもいだした。周囲が、なにやら騒々しい。見上げると、白っぽい天井がすぐ上にあった。一瞬、私は、自分が繭玉のなかにいるような気がした。糸をだしきって、後はさなぎになるのをじっと待っている。奇怪な妄想に驚いて、両手で目をこすった。カーテンの隙間から円盤形をした蛍光灯が見えた。「ああ、そうか」私は、やっと自分がどこにいるのかわかった。
雨の降る音のように、カイコが桑を食べるように聞こえたのは低いエアコンのモーター音だった。乾燥した空気がよどむ部屋のあちこちで人の起きる物音がしていた。ベットの軋み、間の抜けたあくび声、たんを切る咳払い、鼻かみ、水ぱなをすする音、放屁、一発、二発。
よし起きるか。私はカーテンを引いた。向かいのベットのカーテンはもう開けられていた。季節のおっちゃんが寝巻着の胸元をはだけさせて座ってニヤついていた。
「あんちゃん、寝言いっとったぞ」おっちゃんは、笑ってそう言うと鉄梯子を降りた。
「なんて、いってました」
「かあちゃん、って聞こえたっぺ」
「たまには家にかえってやれよ。稼いでばっかしいないで」下段の茨城のおっちゃんが起き出してからかった。「ずっと泊まりやってるでねえか」
冗談だとわかっていたが、私は、言葉に窮した。
「そんなこといってていいの、おじさんたち」いきなり向こうのカーテンが開いて早川が顔をのぞかした。彼はときどき、泊まりもやっていた。「おれらがいなきやあ、最終便、今朝までかかっちゃうよ」
「ほんだ、橋場の、あんちゃんたちに休まれたら、えらいこっちゃ」
「ほんなら、おっぱい吸いに帰るのは、春になってからにしてもらうわ」
「そうだっぺ、そうだっぺ」おっちゃんたちは、にぎやかに出ていった。
「みんな、いろいろ事情あるもんな」早川は、ニヤリとしてでていった。
八
ホームに山積みされた雑誌の束を積み込むのは単調な作業の上に厄介だった。貨車の奥から、きちんと天井までブロック積みしなければ積みきれないからだ。小物だけにいつ終わるとも知れぬほど延々とつづいた。一般の鉄道荷物なら、すぐにいっぱいになる貨車も、雑誌となると底なし沼のようにきりがなかった。
那覇、那覇、那覇、那覇、那覇、那覇、那覇、那覇、那覇、那覇、那覇、那覇、那覇、那覇、―――Kは、もう二時間近く、沖縄行の雑誌を黙々と積み込んでいた。一緒に組んだ早川は、例によってトイレに行ったきり戻ってこなかった。が、別に腹は立たなかった。トイレの中で週刊誌や新聞を読んでるくらいなら、作業していた方がましだった。私は、投げ込み役と積み上げ役の一人に役をこなしながら雑誌の束を積み上げていった。
背後で咳払いがした。早川かと、ちらっと振り返った。パチキチの須藤が立っていた。
「よお、ひとり?」須藤は、低い声でぼそっときいた。
「いえ、ちがいます。相棒います」
「だれ・・・」
「早川さんです」
「あ、そう・・・」須藤は、軽く頷いて見回して言った。「いないじゃないか」
「いま、トイレに」
「なんだ、またサボってんのか、だんな」
須藤は失笑しながら雑誌が山積みされた台車を貨車に引っ張りこんだ。
ここで働くつもりか、わからなかった。私は、無視して積み荷作業を開始した。
「あのさ、かね、おかね貸してくんないかなあ」須藤はいきなり、頼み込んできた。
「お金、ですか」
「そうそう、すぐ返すからさあ」
「おれ、貸すほど持ってませんよ」
「いくらだっていいんだ。頼むよ」須藤は片手で拝むようにして言った。「恩にきるからさあ」
松宮さんがまだ二百円返してもらっていないのは知っていたが、そんなふうに頼みこまれると弱い。二百円ぐらいならいいか。私は頷こうとした。
「よお!仕事してる」いきなり、高槻が大声で言ってのぞきこんだ。とたん須藤は、はじかれたようにプイと外に出て行った。
「なんだ、ちゃんと挨拶して行けってんだ」高槻は、わざと大声で言ったあと、私に聞いた。「やつ、金かしてくれっていったろ」
「はい」
「貸しゃしないだろ」高槻は、言った。「奴、みなに頼んで回ってるんだむ
「まだ、貸してません」
「貸すことないからな。しっこかったら、おれらに言ってきな」高槻は、念を押すと出て行った。
ひとりになると私は、再び作業をはじめた。高槻が心配して見にきてくれたのはうれしかった。が、拝むようにして無心した須藤の姿が頭から離れなかった。
「ワリいねえ、パチキチの先生きたんだって」早川は、戻ってきた。「バカだねえ、おれんとこへ来りゃあ、すぐ貸してやるのに」早川は、愉快そうに高笑いして作業にとりかかった。
九
夕方近くなると、発車する貨車の本数が多くなった。それだけに積み荷作業は忙しい。寒風が吹き抜けていたが、私は汗だくだった。積んでも、積んでも減らない荷物の山に、ちょっと手を休めた。向こうから太っちょの国鉄職員が、こちらに歩いてくるところだった。座布団を小脇に手に黒のカバンを下げている。この貨車に乗務するようだ。皆が道頓堀のなまずとあだ名しているうるさ型の職員だったので、ちょっと心配になった。今日は、忙しかったのでかなり乱雑に積み込んである。なまずは、のしのし歩いてくると、途中、団たちの貨車を覗き込んでさわぎはじめた。
「アーア、なんじゃあこりゃあ。こねん積みおつたら納まらんじゃなか」となまずは叫んで、いきなり猛牛のように貨車の中に飛び込んでいった。団、高槻、磯村が追っ払われて飛び出てきた。高槻は、周りにまただよ、といった笑い顔で説明した。
「こんなのだめだあー」なまずは、デッキの荷物をぽんぽんホームに投げ出した。積荷班の臨職は、たたずんで見守るしかなかった。
「なんだ。どうしたんだ」荷物会社の若い職員がとんできた。投げだされた荷物を見ると、黒ずんだ顔を真っ赤にさせて「なんだよ、ふざけやがって」と、悔しげにつぶやいて怒鳴った。「おい、投げ出した荷物、積み返せ」と、命じると、逃げるように立ち去った。
「いいんですか」と団がいった。
「かまわねえよ」荷物会社の若い職員は、振り返って怒鳴った。
とたん私たちは、わーと投げ出された荷物にむかった。手招きされて松宮さんも応援にかけつけた。皆は、お祭り騒ぎで荷物をデッキに投げ返した。国鉄職人の太っちょなまずは、負けじと応戦したが、多勢に無勢。すぐに根をあげて飛び出してきた。顔を真っ赤にして怒鳴る。
「おまえたち、なにさらすんじゃ。わいがせっかく下ろしたもんを」
私たちは知らん振りして、荷物を積みつづけた。
なまずは、臨職に怒鳴ってもらちがあかないとみて、命じた荷物会社の若い職員を探した。荷物の陰に隠れていた彼を見つけると、突進していって怒鳴った。「おう、何のつもりや。早よ、やめさせろ」
「あのう・・・」彼は、怖気づいて後ずさりした。が、臨職たちの目を気にしてか、虚勢をはってきいた。「でも、まだ積まるでしょ」
「アホんだら!!どこに目ん玉つけてさらすんじゃ!」なまずは、デッキの中を指差して怒鳴った。「仕分けするばしょがないわ、ドあほ!」
「しかし、うちの方も積まんと、整理つかなくて・・・」
「そんなの知るかあー」なまずは、言い捨てて、デッキに片足を入れると、再度積み込んだ荷物を下ろしにかかった。
「しょうがねえなあ」彼は、小声でつぶやくと、尻尾をまるめた犬のように、すごすごと立ち去っていった。
私たちは、たたずんで見送るしかなかった。
「どーすりやいいのさ―、しあんばし」団は、調子ぱずれの声をあげた。
「どうもこうもない。立って見てりゃあいいんだ。積めなきゃ次のに積めばいいんだ。貨車はこれだけじゃないからなあ」太っちょなまずは、笑って再び、デッキの荷物をおろしはじめた。
「どうする」と団がいった。
「役者が違うからなあ、二等兵じゃあ、な。やっぱり上等兵がでてこなくちゃあいけないだろ」と磯村がいった。
「あーあ、やる気なくした」高槻は、布団袋の上に座りこんだ。
発車時間が迫ったあわただしい積み荷ホームの上で、この貨車のところだけが休止状態だった。台車に積まれた荷物は、あとからあとからレールをながれてきた。
「オイ、コラー!」突如、大声がした。
みると、向こうの郵便荷物の間から、南条班長が、目をつり上げて駆けてくる。
「おっ、きたよ。上等兵」「こんどは役者が一枚上だぜ」高槻は愉快そうに言った。「どうする、なまず野郎」
「どうして作業せんのか!荷物、こんねんあるじゃないか」臨職の南条班長は、目をむいて怒鳴った。
「おれらに言われても・・・」高槻は、むっとした顔をデッキに向けた。
太っちょなまずが鼻歌まじりで荷物を引きずり出していた。
「ムム・・・」南条班長は、ちらっとのぞきこんだ。とたん大声で怒鳴った。「なんだ、連中の言うことなんか聞くんじゃない!」
「な、なんやて」太っちょなまずが、顔をふくらませてでてきた。「連中ってだれのことや」
「おたくらだよ」南条班長は、臨職たちに押し殺した声で言った。「まだいくらでも入るじゃないか」
「じょーうだん。これ以上はいらんわい。積まれたら困るんや」となまず。
「こっちだって困るんだ」と南条班長。
「ああ、聞かへん、聞かへん」太っちょなまずは、ハエでも追っ払うように手を振っていった。「ごちゃごちゃぬかさんで後のにしいや。とにかく積んだらあかんって」
「な、なんだあ!おたくらがそのつもりなら」と南条班長は激昂して振り返ると、ぼんやりながめていた臨職たちに怒鳴って指示した。「おい、かまわんからどんどん積み込んじまえ」
臨職たちは、待ってましたとばかりに、一斉に荷物にとびついた。団、高槻は張り切ってふたたびデッキめがけて投げ込みはじめた。私は面白半分、積み込み易いようにホームの荷物をデッキ前にかき集めた。
「なにさらすんじゃ!」太っちょなまずは地震でも起こしそうな勢いで怒鳴った。が、ふたたび雨あられのごとく投げ込まれる荷物にたまらず、ホームに逃げ出してくると、私たちを罵りだした。
「あんちゃんたち、なんぼもろうとるか知らんが、安い金で無理することないのや。やめい、やめい、アホくさ」
「相手にすんな、相手に」南条班長は、余裕のある口調で言って、煽り立てた。「さあ、もつと積み込め。やれ積め」
たちまちのうちにデッキは、天井まで届くほどの荷物の山ができあがった。軍配は完全に南条班長にあがったように思われた。が、早川が笑いを押し殺した顔で「やばいよ、やばいよ」と、知らせにきた。
彼の指差す方を見ると、太っちょなまずの相棒で、その容姿からフランケンと呼ばれている大男が、のんびりタバコをふかしてやって来るところだった。いつもなら発車間際、大慌てでかけてくるのに、今日に限って早い。フランケンはなまずほど小うるさくないが、気にいらないことがあると、体力にものをいわせてせっかく積んだ荷物を片っ端おろしてしまうことがある。
「おー早よ、きてくれんかあ」太っちょなまずは、にわかに元気になって、手を振った。
フランケンはひょいとこちらを見ると、すぐに事情を察した。タバコを線路にはじきとばすと、小脇の座布団とカバンをラクビーボールのように抱え込んで、一直線にダッシュしてきた。まるでサイが突進してくるような迫力。皆、いっせいに道をあけた。
「アカンというよるに、積みよって。それも一度わしが下ろしたものをまた積みよって」太っちょなまずは半泣き声で言った。「見てみい。ほんま、こんねん積み込みよって」
「どんなや」フランケンは横柄な態度でデッキの前に立った。とたん、奇声を発した。「あ、あ、あ、あー何や、これ何や」
「アカンて言いよるに積みよって」となまず。
「上等じゃないか」フランケンは、乱暴に吐き捨てて座布団とカバンを近くに置いた。そして、デッキに片足を乗せると、猛烈ないきおいで荷物を下ろしはじめた。大きな荷物も、ポンポンとホームに投げ出された。皆は、あわてて遠くに逃げた。フランケンの迫力に遠巻きにながめるしかなかった。南条班長も、呆然として立っていた。フランケンは、あっというまに入り口付近の荷物を下ろしてしまうと、少しペースを落として「こんなの後や、後や」と、鼻歌まじりで下ろしだした。
太っちょなまずも喜色満面で、下ろし作業に加わった。デッキの荷物がなくなると二人は、貨車の中の荷物まで下ろしにかかった。
「こりゃあだめだわ」早川は、大袈裟に肩をすくめてため息つく。
騒ぎをきいて見物に集まってきていたほかの臨職たちも、きびすをかえした。と、そのとき、いきなり「き、貴様、よさんか!!」という怒号が、とどろいた。南条班長だった。皆もびっくりしたが、貨車のなかの二人も驚いたようだ。二人そろってぞろりデッキに出てきた。
「なんだあ、ジイさん」フランケンはにらみつけて言った。「貴様とは何だよ。まだ戦争にでもいってる気でいるのか」
「もうろくして、ごっちやになっとるんか」太っちょなまずは、ヒヒヒと笑ってからかった。「いま、やつちょるのはベトナム戦争やで、太平洋戦争じゃない。ボケとるんか」
「何だとお!」南条班長は激昂して、つかつかと歩み寄った。
「ほれ、爆弾や」叫んで太っちょなまずは、木箱を放り投げた。
タイミングよく、班長が踏みこんだところだった。
「あっ!あぶない!」皆の悲鳴と同時に、木箱はゴロンと一回転すると南条班長の右足にあたった。ごっんという鈍い音がした。次の瞬間、鳥のような悲鳴をあげて南条班長はうずくまった。一瞬ホームは静まり返った。が、突然けたたましく鳴り始めたベルに、ふたたび騒然とした。南条班長は、よろよろ立ち上がった。そうして恨めしそうに睨みつけると、ひざ小僧をさすりながら「あんたら日の丸だからええけどな。うちじゃたいして保障はでねえんだ」と愚痴るように言った。
なまずとフランケンは、さすがきまり悪そうに立っていたが、発車のベルに、これ幸いとばかりに、ドアを力任せに閉めた。ゆっくり走り出した貨物車の窓から二人が、大口をあけて笑っているのが見えた。
「おい、これ片づけといてくれ」南条班長は、弱々しく言うと、びつこをひきながら行ってしまった。
「やっぱ国鉄さんには、勝てねえね」
「貴様!って怒鳴ったときは、びっくらこいたね」
「さすが、もと軍曹だよな」
「軍曹?もっとうえだろ職業軍人だったっていうんだから」団とヒッピー磯村は、かってに話し合った。
「ニャロメ、むかしだったらあの二人、ピンタか銃殺もんだぜ」高槻は、叫んで、遠く去っていく列車に向かって銃を撃つまねをして叫んだ。「バーン、バーン」
「軍曹殿!」団が、大声で最敬礼した。が、だれも笑わなかった。
夕方、六時。ようやく長い一日が終わった。日勤の臨職は、にぎやかに風呂場に向かった。夜勤組は、疲れきった顔で食堂に向かった。私は、アキラさんと三階につづく非常階段をあがっていった。台車の整理をしていて遅くなったのだ。すっかり夜のとばりがおりた操車場から寒風が音をたてて吹きあげてきた。
「ひえーたまらん」アキラさんは悲鳴をあげて肩をすぼめながらも立ち止まった。
「一曲やるんですか」と私は聞いた。
アキラさんは、流しの歌手をしていたとの話だ。それでか、よく最終貨物が出ていった構内で、一人残って歌声を張り上げていた。皆は、音痴だと笑っていたが、誰もいない深夜の貨物駅に流れる彼の歌声は、胸にしみこむものがあった。彼は小林旭の歌が十八番だった。
最終貨物が出ていって静かになると、決まって「夜がまたくる―」と、甲高い歌声をはりあげた。夕方、たまにここで歌っていたので、今からやりだすのかと思った。
「いやあ、やめとくよ」アキラさんは、苦笑して見下ろして言った。「観客が眠っちゃってるからな」
眼下のトラックターミナルは、闇に閉ざされ静まり返っていた。黒々と並ぶ大型輸送トラックやコンテナ車は、眠りこける巨獣の群れのようにみえた。私は、笑って頷いた。見上げると、はるか向こうのビルの上に大きなまんまるい月がぽっかり浮かんでいた。赤い月だった。
十
朝からみぞれまじりの強風が吹く、恐ろしく寒い日となった。こんな日は、荷物がいっぱいあって四六時中体を動かしていた方がいい。ところがこんな日に限って、荷物が極端に少ないときている。東北地方が昨夜来の大雪で全線不通したのに加え、東海道線の脱線事故をおこしたのだ。今日の荷物量はたったの八十トン。作業しょうにも仕事がない。
ガランとしたホームを寒風がビュービュー音をたてて吹き抜けていった。まだ昼を過ぎたばかりだつたが、構内は夕暮れ時のように暗かった。唯一の仕事となる輸送トラックも、なぜか到着しない。仕方なし、皆はおもいおもいの場所で勝手に時間をつぶした。
職員と季節のおっちゃんたちはホーム奥の動力室の横でチャリンコをはじめた。決められた位置から二、三メートル先にチョークで引いた白線まで十円玉を投げるゲームで、白線により近く投げられたものが他の人の十円玉を全部自分のものにできるという賭け事だった。パチキチの須藤は自分は加わらなかったが、十円玉を拾い集める役をしていた。
マコト君は、退屈しのぎに布団袋相手に、柔道技の練習をしていたが、それにもあきて皆がいる貨車に行った。窓のない貨車内は洞窟のように暗かった。皆は、てんでに時間つぶししていた。団は、荷物の上にあぐらをかいて春に公演する芝居の稽古をしていた。ヒッピー磯村は、木箱をドラムがわりに叩いて練習していた。松宮さんは、新しくきた小山の文学青年とひそひそ声で話しこんでいた。映画の話か、本の話のようだった。
「『エロイーズ』がいいねえ、ぼくは」松宮さんは、そう言って頷いていた。
私は、奥の隅に腰をおろし、皆の様子をぼんやりながめた。彼らを見ていると羨ましくなった。自分も早く何か目的をもたなければ・・・私は、焦った気持ちになった。明かりとりにちょっと明けてるドアの隙間から、寒風が吹き込んできた。白いものがまじっていた。立ち上がってドアを開けると、外はみぞれから雪にかわっていた。早川がかけこんできた。
「二百円すったちゃった」
「ああ、もつたいない」
「このぶんじゃ今晩は仕事ねえべ」
「なら、かえろっと」団はいった。「寒いし、飲んでいくか」
「いいね。いこうぜ、たまには」
三人は、夕刊を積み終わると、早退カードを押して街にでていった。
十一
その夜、三人は鍋をかこんでビールと酒をかなり飲んだようだ。あとで聞いたところによると磯村と団は、酒が強かったが、高槻は、泣き上戸らしい。初陣でKOくらって、殴られるのが怖くなってボクシングをやめたと告白したそうだ。
翌朝、三人は二日酔い状態で出勤してきた。
「どこに泊まったんですか」マコト君は、興味深そうに聞いた。
「コレんとこさ」団は小指をたてた。
「オレも泊めてもらったんだ。彼女は他所に泊りに行っていなかったけど」
「磯村さんは」
「帰ったよ。カアちゃんのところ」
「カアちゃん?」
「彼女だよ」団は、小指を立てた。
「作業ができるんですか。今日は」
「できるよ」団は、胸を張った。三人は、威勢がよかったが、気分悪そうだった。
高槻は、作業中に突然、トイレに駆けていくので季節のおっちゃんたちにからかわれていた。磯村と団は、いつも通りの顔で作業していた。誰にしても頭はガンガンする、胸はムカムカする、体はだるいこれで忙しかったら眼もてられなかったが、幸いにしてこの日の積荷量はたいしたことなかった。
私は、松宮さんと団の三人で福知山、宮津方面の荷物を積むことになった。同じ車両の向こうの入り口からは、高槻と磯村と須藤の異色トリオだった。南条鬼軍曹が割り当てなければ絶対にできない組み合わせだった。
「よりによって、こんな日にあいつと」高槻は、頭痛がひどくなったといわんばかりに、顔をしかめてちんたら荷物を運びこんでいた。団と磯村もさすがに口数が少なく動きも鈍かった。
松宮さんは、夢遊病者のようにのろのろ働いた。それでも、チリも積もればで、中央から積み上げた荷物で貨車内が二分された。向こうが見えなくなると松宮さんは、昨夜の話を聞きたがった。、団は胸がむかつくのか生返事を繰り返していた。車内には、酒くさいかったるい空気がただよっていた。こんな状態が延々昼までつづくのかと思われた。が、突如、向こう側から怠惰な空気を破って怒鳴り声がきこえてきた。
「む・・・なんだあ」団は動きをとめ、聞き耳をたてた。
「おおい、なんだあ」団は、ふたたび言って荷物の壁の隙間からのぞきこもうとした。
「ヤロー」またしても怒号がして、ドタドタと入り乱れた足音が響いた。そして、つぎの瞬間ドスンと、なにかが荷物の壁にぶっかってきた。とたん、天井まで積み上げられた荷物の壁が、グラリと揺れ動いて、次の瞬間、こちら側にドドドっと崩れ落ちてきた。
「わー!」覗きかけた団は、慌てて飛びのいた。
荷物の塀は、完全に崩れ去った。にわかに見通しがよくなった向こうに高槻が仁王立ちしていた。
「アーアー、やってくれたねえ。きちんと積んだんたぜ」団は、大袈裟に両手をひろげて言った。だが、高槻は青筋をたてた顔で、崩れた荷物を睨みつけたままだ。視線の先をみると、荷物のあいだに須藤が仰向けに倒れこんでいた。
「あれ、どうしたんだよ」と団が聞いた。
「ん、うん」高槻は、やっと顔をあげると無理に笑って言った。「ちょっとな」
須藤は、のろのろと荷物のあいだから立ち上がると、服のほこりを払いながら、皆を睨みつけた。口はしに一筋、赤いものがついていた。彼は手の甲で拭うと、高槻に「おぼえてろ、ボクシング知ってるからっていい気になるな」と捨て台詞はいて外に出て行った。
一瞬の沈黙のあと、団が口火を切った。「おいおい、なんだよ。ヒゲ」
「おれもわかんないよ。荷物持って入ったらはじまってたんだ」言って磯村は、高槻の肩をつついてきいた。「タカ、なんでおっぱじめた」
「う、うん」高槻は、照れくさそうにため息をつくとまだ怒りがさめやらぬ顔で言った。「あーあと、あったまきた、あのバカが・・・」
「なにあった」と団が聞いた。
「あのバカ、オレの足の上に荷物を落としゃあがつたんだ。で、気をつけろって注意したら、ふざけやがって、酔っ払ってるからだと抜かしゃあがつてよ」
「ホントじゃないか」と、団。皆は、どっと笑った。
「なんだよ、笑いごとじやないよ」高槻は、ふくれ面になって足を押さえてうめいた。「おおイテエ、イテエ、まだイテエよ」
「おいタカ、ヘタな芝居すんなよ」団は笑って言った。「えらく派手にぶっ倒れたみたいだけど、なにやったんだ」
「右フックさ、もろに入ったぜ」磯村は、打つまねをしてから高槻の肩をたたくと言った。「まだやれるよ。一発で吹っ飛んだもんね」
「さすがあ、四回戦ボーイ」と団は言ったあと、裏声でからかった。「シカシネエ、高槻クン、暴力ハイカンヨ、暴力ハ」
「そうだよなあ、凶器だよ。かわいそうにパチキチのセンセイ、口の中切ったみたいだぜ」
「知るもんか!ケッ」高槻は、右手のこぶしをさすりながら気まりわるそうに言い訳した。「あの野郎、いつもテメエがちんたらしてるくせしてよお、偉そうに言やがってよお」
物音がした。振り返ると畑野がのぞきこんでいた。
「おいグズラくん、入ってこいよ」高槻は、機嫌をなおして言った。畑野は、怯えたように顔をひっこめた。
「なんだよ。一緒にやろうよ。ペースあわせるからさ」
「どっちが合わせるんだよ」
団は、笑った。こんどは高槻も笑った。それで一件落着、皆はふたたび積み荷作業を開始した。
やけに冷え込むと思っていたら昼を過ぎたころから白いものがちらちら舞いだした。そして、たちまちのうちに本格的の降りになった。沼津、三島方面への夕刊の発送を終えたあと、積荷班は、四両編成の新聞輸送列車の中に入って最終便の新聞輸送トラックを待ちながら寒さをしのいだ。雪はかなりのいきおいで降っていて、引込み線が並ぶ操車場は、広大な雪原と化していた。私は、積み上げた新聞束の上に腰をおろして、窓枠に吹き寄せ積もっていく雪をぼんやりながめていた。何かなつかしい気持ちだった。
「よく降るねえ」不意に、松宮さんが話しかけてきた。「東京でこんなに降るなんてめずらしいよ」
「そうですねえ」私は頷いた。「そうなんですかあ」
マコト君は、怪訝そうに言った。そして、確かめるように窓ガラスに顔を寄せた。操車場は、もう雪でなにも見えなかった。それでも見とれていると彼の隣に寝そべっていた小林がむっくり起き上がってきた。
「どれどれ」小林は、横着に巨体を割り込ませて、ちょっとのあいだ外をながめていたが、ぽっつり漏らすように言った。「こんな大雪をみると思い出すよ」
「何をです」同じように外をみていたマコト君がたずねた。
「ん、なに、新潟でのことさ」小林は、頷いたあと、ニヤリとして話した。「ちょうど、こんな降りだった。もっと積もっていたが・・・金が一銭もなくなっちゃって、雪ん中、日銭になる仕事探しまわった。パチンコ屋とか新聞店とか、片っ端あたって歩いたんだ。でも、みんな断られちゃってさ。腹は減る、暗くなる、雪は降る、途方にくれたよ」小林は思い出してかふっとため息をつくと、ふたたび話だした。「しかし、道で寝るわけにもいかんし、どうしようかいろいろ考えたんだ」
「どうしたんですか」
「教会さ、歩いていたら教会の十字架が目に入ったんだ。ライトアップされてたのかなあ、雪空にくっきりと浮かんでいたんだ。とたん、オレは、よかった、助かったと思ったね。妙に感動しちまってよ。飛び込んだんだ。そしたら神父だか牧師だかニコニコ顔ででてきた。鳥みたいに両手をひろげちゃってさ。オレは信者になってもいいと思ったね。それがさ、無一文で、泊まるとこもないと話すと、急に態度が変わっちゃって、けんもほろろさ。警察に行ってくれの一点張り。あっけにとられちまったよ。神だの仏だと偉そうに言っていても、オレらとたいして違わんや、と思ったね」
「で、どうしたんです」とマコト君がが質問した。
「まさか野宿するわけにはいかんから駅に行ったよ。そしたら運よく、遅れた列車が着いたところで、スキー客でものすごく混んでいて、簡単にホームに入れたんだ。それで上野行の列車にもぐりこんだのさ。ついてると、思ったが混んでる車内は安全のようでダメさ」
「なんでです」
「肝心のときに、逃げられないんだ。トイレもいっぱいデッキもいっぱい。身動きがとれなくて結局、検札に捕まっちまった。そうなりゃあ、しょうがねえや、いつもの手で上野の公安で電話借りて亀有にいるお袋に泣きついたよ。すぐに姉が、来たけど、赤っ恥さ。出るときはいつもでかいこと言ってでるから」小林は言ってねずみ歯をみせてヒヒヒとうめくように笑った。
「旅が好きなんですか」マコト君は聞いた。
「ん、旅行が好きかって?」小林は、考えるようにちょっと押し黙ってから忍び笑いしながら言った。「若い人はいいねえ、気楽で、オレの場合、そんな洒落たもんじゃあないよ。しぜんといずらくなっちまうんだ。お袋も顔さえみれば文句いうしな・・・まあ、いってみりやあ家出だよ、旅行なんかじゃない」
「家出、ですか」
「――のようなもんだけどね。しかし、どっちでもいいよ。いくら惨めな思いしたって、あとで思い出してみるとけっこうなつかしいもんだ。旅と同じさ」
「また行くんですか。春になったら」
「いいや、もう行かねえよ。お袋と約束したんだ。今度こそ腰を落ち着けて、勤め口さがすって。そのためにまずアパートに入るためのお金つくらなくちゃあな。実家には姉夫婦がいるから住むわけにはいかないんだ」
「たいへんだ」松宮さんが言った。
「だんなもアパート?」
「いや、ぼくは持ち家に住んでるよ」松宮さんは胸を張った。
「ほう、たいしたもんだね」羨ましそうに小林はぼやく。「ここで働いてたんじゃあ、とてもたまらんよ。本当は馬場か山谷にいって立ちんぼやれば、手っ取り早いんだが・・・」
「なんです、それ」とマコト君。
「えっ、知らないの!学生さんは、気楽でいいよ」
「日雇いだよ。手配師が仕事くれるんだ」松宮さんが言った。
「このごろじゃあ五六千になるって話だね」
「えっ、そんなに、ここじゃあ日勤夜勤合わせて」マコト君はびっくりして言った。
「行く気になったかい」小林はニャっとして言った。「やめときな。オレはすすめんよ」
「どうしてですか」私は聞いた。
「どういったらいいのかなあ」小林は言葉につまる。
かわりに松宮さんが説明した。
「つまり、水商売と同じなんだ。キャバレーやトルコのお姉ちゃんなんか、もう普通の仕事なんかバカらしくてつけないだろ。十日ばかやれば一ヶ月の給料分稼げるんだから。それと同じさ。立ちんぼを一回やれば、こんな臨時の仕事なんかバカらしくてできなくなっちゃうよ。それでズルズルと山谷暮らしになっちゃうんだ。わかるだろ、安くても、長続きできる仕事をしていた方がいいんだ。ここならあぶなくもないし」
「そういうこと」小林は、大きく頷いた。
早川は小林のことをムショ帰りだと疑って嫌っていたが、私には親切な人間に思えた。雪にかき消されそうなほど頼りない響きでクラックションが鳴った。曇った窓ガラスを拭ってみると、ターミナルに幌をかけた新聞輸送トラックが列をなして入ってくるところだった。皆は、立ち上がって、新聞列車をでると、雪の中をぞろぞろ並んで、ターミナルに向かった。いつか見た映画のなかにこんなシーンがあったような気がした。
十二
このところの小雪まじりの鉛空ばかりだったが、今日は、朝から雲ひとつない青空だった。気温の方も日が上るにつれかなり暖かくなった。この陽気で操車場に降り積もっていた雪がとけはじめていた。雪原のところどころにレールがみえていた。
昼過ぎ、雪で列車が遅れていた。積み荷班の連中は、電線に並んだすずめよろしく、ホームの端に一列に腰掛け日なたぼっこを楽しんでいた。久しぶりのポカポカ陽気に、誰もが口を開くのにも億劫といった顔だった。私は、うつらうつらしていた。
そのとき突如「バシッ!」と、鞭打つような音が静かな操車場に響いた。音の方角を見ると、向こうのトラックターミナルの端で若い国鉄職員がキャッチボールはじめだしたところだった。熱が入っているようで、二人ともワイシャツ姿になっていた。太っちょなまずとフランケンも、陽気に誘われたらしく、早々、でてきて、緑色のコンテナを背にキャッチボールを見物していた。
長髪の青年が本格的な投げ込みを開始した。国鉄の野球部か草野球のエースだろうか。遠目にも、なかなかの速球とわかった。全部のエンジンが停止し、雪どけの雨だれ音だけがきこえる駅構内にボールを受け止めるミットの音が、小気味よく響き渡った。
皆の目が集中していることを意識してか、ピッチングはますます力がはいった。が、何球目かに、足をすべらしたか体が崩れた。
「あっ!」と叫び声があがった。大暴投だった。ボールはとんでもないクソボールとなってキャッチャのはるか真上を通過した。そうして、レールに当たったか何かで、大きくバウンドすると、引込み線の方に転がってきた。
わーとホームに歓声があがった。パチパチと手をたたく者もいた。ボールは皆が見守るなか雪どけの水しぶきをあげながら転々と転がってくると皆が並ぶ積み荷ホームの手前で止まった。長髪の国鉄さんは、投球位置からボールの行方を確かめていたが、ボールが止まると大袈裟に肩をすくめて歩きだした。
「おーい、そんなものとってむらわんかい!」見物していた太っちょなまずが大声で叫んだ。長髪の国鉄さんは振り返って頷くと、こちらに向かって両手をあげて叫んだ。「すみませーん」
皆はボールを見た。誰か行くだろう、と思ってか、誰もおりて行かなかった。
「おい、だれかとってやりなさいよ」早川は、言って見回した。
「タカ、おまえ肩いいだろ。投げてやれよ」
「いやだよ、届かんもん」高槻は、慌てて断ると居眠りしている畑野を振り返って言った。「おーい、グズラさん。たまにはスポーツしろよ」
「おーい。投げてくれ!」若い国鉄さんは愛想笑いしてグローブを振りかざした。
「しょーがねえなあ。いっちょ肩のいいとこみせやるか」見かねてか団が冗談ぽく言って立ち上がりかけた。と、そのとき
「タマ拾いも練習のうちだあ」後ろから大声がした。皆が振り返ると南条班長が毅然と立っていた。
「なんだとー」太っちょなまずとフランケンは気色ばんだ。
「駆け足!」南条班長は若い国鉄さんに機嫌よく叫んだ。
「汚ねえまね、さらすんじゃねえ。行かんでもええ」となまず。臨職の方を向いて「とってやれ」といった。
南条班長は「駆け足、駆け足」と国鉄の長髪エースを促した。
太っちょなまずとフランケン対南条班長の罵り合戦がはじまった。間に立つ長髪のエース君は、ちょっとのあいだまごついていたが、やはり自分で拾いにくるしかない、と思ったらしく、憮然とした顔でこちらに向かって歩き出した。
私は、意地悪するようで嫌だったが、自分がとりに行く勇気はなかった。皆も、親切のチャンスを逃したのと、南条班長を気にして見守るしかなかった。が、そのとき不意にホームに飛び降りた者がいた。小石を踏みしめるザクっという音がして、雪どけ水がはね飛んだ。平岡だった。彼はジャンバーに両手を突くこんだまま、近づいて行くと、ゆっくりボールを拾った。正雄はほっとした。が、長髪エースは、なんだいまごろといった仏頂面で、かったるそうに前に歩きだした。
平岡は、すぐに投げ返さないでボールをズボンで丁寧に拭った。それを見て若い国鉄さんの顔が和らいだ。
「あんがとうよ」皮肉っぽく礼を言って、グローブを小脇にかかえ二歩三歩と進んできた。受け取るには遠すぎると思ったようだ。
だれもが、これで一件落着と思った。ところが平岡は意外な行動にでた。歩み寄ってくる長髪エースに、右手でもって横に寄れと指図したのだ。意味がわかるのに数秒かかった。ホームに静かなどよめきが起こった。長髪エースは、もつと驚いたようだ。一瞬、鳩が豆鉄砲くらつたようにキョトンとしてつ立っていたが、不意に両腕をだらりと下げると、馬鹿にしたような薄笑いを浮かべて「おおお、本気かあ」と、一歩真横にどくと言った。「よしや、やってみい」
そして、彼は、ターミナルを振り返って叫んだ。「おーい、このあんちゃんが、そっちに投げるっていっとる。受けてやってくれ」
「ほんまかいな」ぼんやり佇んでいた捕手は、びっくり声で言った。
「おー、でかいこといって、知らんでー」「恥じかかんといてよー」
なまずとフランケンは、野次をとばしながら、前にでようとする捕手を、その場に押し留めた。「汚いぞー」こちらからも誰かがやり返した。
平岡は、口合戦を気にする様子はなかった。何度か肩を回して、捕手の方を見た。
「よしゃ!投げてみい」捕手は威勢のいい声で叫んで、腰を落とした。
「なんだあ、捕球姿勢なんかしちゃって」「無理だよ。外野ぐらいあるぜ」
こちらがわが叫んだ。
皆は、憤慨した。期待もあったが不安の方が大きかった。それほどターミナルの端にいる捕手の姿が小さく見えた。しかし、平岡は落ち着いたものだ。なれた手つきで二度三度ボールをお手玉すると、ゆっくり投球動作に入った。左投げだった。もし届かなかったら・・・だれもが、そんな心配を抱きながら眺めた。平岡は、大きなフォームから、まるでスローモーションのようにゆっくりと投げた。
白球は、ぐんぐんのびていって、あっというまにターミナルでかまえる捕手のミットに吸い込まれた。ビシッという小気味よい音が広い操車場の隅々まで響き渡った。見事な返球に、一瞬水を打ったように静まり返った。捕手も、受け取ったままの姿勢を崩さなかった。次の瞬間、ワーと歓声があがつて拍手が起こった。
「すげえなあ」
「ノーバウンドだぜ」
皆が感嘆するなか、長髪エースだけが、きつねにつままれた顔で一人佇んでいた。向こうでは、ようやく立ち上がった捕手がミットをはずして手の平をみていた。なまずやフランケンは声もでないようだ。
「やっぱりプロは違うねえ」早川は、戻ってきた平岡に言った。
平岡は、ちらっとはにかんだ笑みをみせただけで何も言わず、ホームにあがると元の台車の上に腰をおろし日なたぼっこをはじめた。若い国鉄さん二人は、すっかり度肝を抜かれてしまったのか、それっきりキャッチボールをやめてどこかにいってしまった。フランケンとなまずもいなくなった。広い操作場は、何事もなかったように、ふたたび静まり返った。淡い日差しがさんさんと降り注ぐだけだった。
十三
夕方六時、汗とほこりにまみれて、一日が終わった。日勤は、ほっとするところだが、夜勤は、これからが勝負。私はは、夕食前に荷物のトン数を見に事務室をのぞいた。
「常識だよ!常識!」ドアをあけたとたん、怒鳴り声がきこえた。
びっくりして見ると、若い事務員の内山が回転椅子にふんぞり返ってパチキチの須藤を叱りつけているところだった。事務長はいず、三、四人の中年事務員が帰り支度しながら面白そうに見物していた。内山は、出勤時間にうるさかった。夜勤日勤をつづけていても、朝八時には、必ず出勤簿にはんこを押さなければならなかった。私は、とばつちりを受けてはかなわないので、ちらっと黒板を見て、退散した。ロッカー室に寄ると団たち三人組がそのことを話していた。
「よお、まだいた?パチキチ?」
「はい」と私は答えた。
「まだ、文句いわれてた?」
「はあ、そんなみたいでしたが・・・」私は頷いて聞いた。「なんですか、あれ」
「前借、申し込んでるんだ」高槻は、あきれ顔で言った。「ばっかじゃなかろうか」
「いい度胸してるよ」磯村は感心したようにつぶやく。
「給料の、ですか」
「そうそう」
「できるんですか。そんな前借なんて」
「できっこないよ。臨職っていったって、早い話、バイトだろ、おれら」団は言った。「バイトに前金を払うような会社なんてないよ」
「よっぽど、金ないんじゃないの」
「どうせパチンコですっちまったんだろ」
三人は、てんでにそんなことを言いながら、用事があると、急いで着替えていた。
私は、一人食堂に向かいながら、このまえ、金を貸してくれといった須藤のことをおもいだした。自分は、あんなふうにならないぞと強く心に誓った。この日の夜勤は、臨職は小山の文学青年と流しのアキラさんの三人だけだった。私は夕食を食べたあと、まだ本を読んでいる文学青年と別れて、早々と貨物駅にでた。構内はまだ誰もいなかった。アキラさん一人が例によって声をはりあげていた。
おれもさびしいサーカスぐらし
トンボ返りで今年もくれる
アキラさんの歌は、皆の話では調子ぱずれらしいが、森閑とした夜の貨物駅には、妙に似合っていた。事務室でみた嫌な光景が忘れられた。翌朝、作業がはじまっても須藤の姿が見えなかった。日勤の須藤は、これまで公休日以外は一日も休んだことがなかっただけに、皆の話題にのぼった。
「電車賃がないんだべ」
「昨日は、どうやって帰ったんだよ」
「あんな野郎、どうだっていいよ」高槻は、吐き捨てるように言って三十五列車の車内に荷物を投げ込んだ。このあいだの一件が、まだ癪にさわるらしい。
一時間ほど過ぎたころ、例によってトイレに抜け出して行っていた早川が、大急ぎで戻ってきた。
「あれ、だんな、早いじゃない」団がおどけて聞いた。
「いゃあ、そうなんだけどさ。パチキチの先生がきたから知らせに、ね」
「来たの、先生」
「きましたよ、大遅刻で。それで、事務室でもめたらしいよ」
「だれに聞いたんですか」
「トイレで一等書記官とぱったり会ったんで」
「で、どうなったの」
「はたらくらしいよ」
「おい、くるよ、奴」早川が言って指差した。
向こうの非常階段の下を須藤がとぼとぼ歩いてくるところだった。足元がおぼつかない。
「飲んでるのか」
「どうせ、大負けしたんだろ」高槻は、吐き捨てた。
「しかし、今頃きてよくOKされたよな」
「午後から荷物、増えるんじゃない」
「まいるなあ」高槻は、ぼやいたあと指差して言った。「いや、OKしちゃあいないよ」
非常階段から事務室の内山が駆け下りてくるのがみえた。
「オイ、ちょっと待てよ。二十八番、ちょっと待てよ」内山は、呼び止めながら走り降りると、須藤の前にたちはだかって怒鳴った。「おまえ、事務長がOKだしたからって四十分も遅刻したんじゃあ仕事にならんよ。帰れよ、帰れ」
ベルトコンベア―は回っていたが、怒鳴り声はっきりきこえた。須藤はひたすら米つきバッタのように頭をペコペコしていた。内山は、ますます尊大になって執拗に「だめだあ!帰れ!帰れ!」と、声を張り上げていた。あんなに怒鳴り散らすこともないのに。私は、嫌な気持ちになった。他の者も内山の高飛車な態度にはムカついたようだ。須藤を、いまさっきまで目の仇にしていた高槻までもが「なんだ、あの野郎、あんな言い方ってあるかよお」と、憤慨した。
運よく南条班長が、愛用の長い手カギを肩に乗せて歩いてきた。日ごろ贔屓目に見られている須藤には助け舟と思われた。しかし、班長は、二人をちらっと一瞥しただけで、背筋をぴんとのばした行軍姿勢で通り過ぎてしまった。班長も事務室の人間には、弱いらしい。事務室にも現場にも内山に敵う相手はいないようだ。誰の目にも須藤は、もう帰るしかないなと思われた。
ところが内山は怒鳴るだけ怒鳴ると、不意に腕時計を見て「あっ、時間だ!」と、叫んだあと、語気を和らげ大声で言った。「じゃあ、しょうがねえ、事務長がいいっていうだし、いいか。いいよ」
「ありがとうございます」
「そのかわり二十時の列車までな」内山は、言い捨て、いきなりきびすをかえして去っていった。みんなあっけにとられて眺めていた。なんのことはない、現場で偉そうにするところをみせたかったようだ。
「あのバカ、てめえを何様だとおもってるんだ」高槻は、吐き捨てて、近くにあった犬の檻を蹴飛ばした。ワン!伏していた大きな秋田犬は跳ね起きて吠えた。「おっ、生意気に」高槻は、にらみ返して、もう一度、檻を蹴った。檻はゴロンと横倒しになった。秋田犬はぶざまに、白っぽい腹をみせてもがいた。「お犬さまに、なにすんだよ」団は笑って檻をなおした。秋田犬は、自分の境遇を悟ったらしく、おとなしく伏せっていた。
「いいっていわれたんだろ、事務所で」早川は、のろのろ歩いてきた須藤に言った。「ぺこぺこすることないよ。あんな奴に」
「ああ・・・」須藤は、他人事のように頷くと作業に加わった。
彼は例によって小さな、軽い荷物だけを選んでゆっくり積み込んだ。いつものことなので、だれも相手にしなかった。もうすぐ昼というころになって須藤は、自分が運びこんだ荷物の上に座り込んで動こうとしなくなった。団と磯村は無視していたが、私は腹がたってきた。高槻も、さっき同情した分、腹が立ったらしい。
「どうして、作業しねえんだよ。作業しにきたんだろ」と、嫌味をぶっつけた。しかし、須藤からは何の反応もなし。うつむいたまま黙りこんでいる。高槻は業を煮やして怒鳴った。
「なんだよ、なにか言ってみろよ」
「おい、どっか悪いんじやないか」団は担いできた荷物を下ろして、ちらっと須藤を見て話かけるように言った。「顔色、悪いよ。青白いよ」
須藤は、弱々しく顔をあげてうるさそうに「関係ねえだろ」とつぶやいた。
「な、なんだとー!ふざけやがつて」高槻は、激昂して詰め寄った。
「まあ、まてよ、タカ」団は、腕をのばして制しながら問いただした。「ちょつと、関係ねえはないだろ」
「だめだだよ。こいつは普通に話したって。一回バシッと根性たたきなおさなきゃあ」高槻はこぶしをにぎりしめて睨みつけた。
貨車内に険悪なムードが漂った。このあいだの再現かと心配になった。このとき背後で「ちょっと」と声がした。振り返ると隣の車両で作業していた松宮さんとマコト君がのぞきこんでいた。
「なんすか」高槻は不機嫌にそうに聞いた。
答えず松宮さんは手招きした。団が怪訝そうに近づくと小声で言った。
「彼氏さあ、食ってないんじゃあない」
「食ってないって?」
「食事さ。してないんじゃない、そんな気がするね。なんとなく」
終戦時が青春だったという松宮さん。何かがわかるらしい。
「なんだ、奴、腹減ってんのか」団に呼ばれてやってきた高槻は、拍子抜けした声で、振り返って見た。
食ってないようだ。そんなことを聞いても正雄はピンとこなかった。が、そう言われてみれば彼の青白い顔、虚ろな目、痩せた体が物語っているような気がした。空腹で動けなくなった人間。皆は、ちょっとのあいだめずらしそうにながめていた。が、いきなり高槻が近づいていってぶっきら棒に言った。
「おい、隅の方に行って休んでろよ。そこだと外からみえちゃうからよ」須藤は、素直に頷いて立ち上がった。高槻は照れ隠しにか「さあ、仕事やっぺ」と、大声で叫んで外に出て行った。
「センセイ、いつから食ってないんだろ」
ホームに出ると皆は、荷物そつちのけで須藤の話をはじめた。
「てめえが悪いんだ。飯食う金くらいとっておけっていうんだ」
「このあいだなんか、パチンコで六千円すったって自慢されちゃったよ。おれ」
「家族のためにっていうんだったら同情するけどな」
「ほんと、だったりして」
「まさかあ」
「いや、そうだったとしても、動けんまで腹減らすなんて異常だよ」
「上野の山の連中の方が、太ってるぜ。センセイ、ここにくるよりあっちで仲間に入った方がいいよ」早川は言って笑ったが、皆は笑わなかった。
「おーい、そこ、なにやってる!」遠くから鬼軍曹の南条班長が怒鳴った。
皆は、それぞれの持ち場に散っていった。昼休み、ロッカー室に行くと団たち三人が真面目な顔でなにやら相談していた。正雄を見ると、団が手招きした。
「あのさ、君は、それ、あれだろ。それでいいかと思ったんだが、一応声かけとくよ」団は言った。「パチキチのだんな、飯食ってないんじゃどうしょうもないだろ、それでちょっとぐらい貸そうかって話してたんだ」
「あさってが給料日だろ、それまで食いつなげればいいんだからさ」磯村は言った。「でも、君の場合はいいよ。事情が事情だから」
「いえ、ぼくもだします」正雄はきっぱり言った。
須藤に同情しからではなかった。いまここで、彼らのこの話に乗らなかったら永遠に仲間になれない。そんな気がしたからだ。
「よし、それじゃあ四人で貸そう」団は張り切った声で言った。「二日で千円あれば足りるだろう。てことは一人二百五十円、おまけで三百円にしとくか」
「あさってには、かならず返させるからさ」高槻は、言って正雄から受け取った。私は、お金のことはどうでもよかった。それより、これで自分も団たちの仲間になれた。東京でやっていける。そんな自信がわいてきてうれしかった。
十四
三十五列車が出て行った後の休憩時間。積み込み班の臨時たちは、てんでに操車場の線路に降りて行った。そうしてホームの壁沿いに一列に座って日なたぼっこをはじめた。風もなく、音もない。ただ、さんさんと早春の日差しが降り注ぐ、穏やかな朝だった。その長閑さに誘われたように隣りの松宮さんが大あくびしてつぶやいた。
「やっぱり春だねえ。これは・・・」
「あーあ、また、旅がしたくなったなあ」隣りの小林がつられて言った。
「あれえ、大将、アパート探すんじゃなかったの」早川がすっとん狂な声をあげた。
「うん、まあ、そうだけどねえ・・・」小林は薄笑いを浮かべてひとりごちるように言った。「そうだけどね、しかし、金はたまらんし、東京にいてもロクなことないからなあ」
「おふくろさん泣かすなよ」言って早川は、苦笑する。「とは、言っても人に説教できる身分じゃないか」
「春かァ・・・」レールにベニヤ板を渡して、その上で寝転んでいた三人組トリオの一人団が、いきなりむっくり起きあがって宣言した。「春は、四国に巡業だよ」
「いいなあ、みなさん、楽しみがあって」高槻は寝転んだままで大声で羨ましがる。「オレなんか、調理師学校だぜ。おやじのラーメン屋手伝いながらよ」
「なに贅沢言ってんだよ。学校生さんになるんじやないか。こちとらはビヤガーデンの予約をとらなきゃいけないんだ」ヒッピー磯村は、言ってちびたタバコを指で大空にはね飛ばした。
「なに言ってんだ、好きなことだろ、てめえらのやることは」
高槻は、叫んでがばっと起きあがると、そのまま、シャドウボクシングをはじめた。店を継ぐ決心はしたが、まだボクシングに未練があるようだ。
「春かあ、待ち遠しいねえ」
「あれ、おじさん、やめたんじゃあないの」
「うーん、そんな決心もしたっけなあ」松宮さんは、笑って競馬新聞をひろげた。友人の紹介で、勤め口が見つかったという松宮さんの表情は明るかった。
早川は、写真の仕事が入ったとかで、機嫌よかった。春には沖縄に行くことになっているという。ホラかどうかわからなかったが、このごろは株式新聞のかわりに写真雑誌を手にしていた。畑野は、十日前からぷっり来なくなっていた。受験シーズンだったが、誰も彼が大学入試のためにやめたとは思っていなかった。精神病院に入ったというのがもっぱらの噂だった。ホームの鉄柱の穴には、ほこりをかぶった英和辞典がまだ置いてあった。平田の姿は、すでになかった。球団との話し合いがついたとのことだ。先日、スポーツ新聞の記者とカメラマンを連れて取材にきた。彼は手カギを荷物に引っ掛けたポーズで恥ずかしそうにカメラの前に立っていた。今ごろはどこかのキャンプ地で汗を流しているだろう。最後の日、正雄は、ロッカー室帰り支度している彼のところにサインを書いてもらいに行った。ちぎった段ボール箱の厚紙に、慣れた手つきでさっと書いてくれた。
「がんばってください」私は、言って握手した。また一軍で投げてください。そういいたかったが照れくさかったのでやめた。
倉持社長は、資金ぐりがついたのか給料日を境にこなくなった。アキラさんは、もう流しの時代じやないといいながらも、暖かくなったら街にでるんだと張り切っていた。季節のおっちゃんたちは、野良仕事がはじまる時期になったせいかどことなく落ち着かなかった。昼休みもモミまきや苗床の話題ばかりだった。やめた人もいる人も、誰もが春を待っているようだった。
早春の陽だまりのなか。貨物駅は、時がとまったようにおだやかだった。しかし、そのなかにあって私だけが焦燥した気持ちだった。自分ひとりだけが取り残されてしまう、そんな不安に駆られていた。
「おーい、ちょっとこいよ」そんな呼び声に私は、首をもたげてみた。
広い操車場のなかほどで団が、かがみこんで手招きしていた。
「なんだー」
「いいもの見つけたんだ」
「なんだよ」
「くだんねえもんじゃねえか」磯村と高槻は、面倒くさそうに言って動こうとしなかった。
「なんだ、だれもこないんかよ」団が、がつかりしたようにいったのでマコト君は、悪いと思ったのか
「おれ、いきます」と叫んで線路に下りていった。
「おいおい、いいのか、若者をだまして」高槻が冷やかした。
「いいよ、おめえらには、風流ってもんがないから」団は、やり返したあと、近づいたマコト君に指差してみせた。「ほら、そこさ、すごいだろ」
錆びたレールと朽ちた枕木が交差する地面一面に、黄色い花が咲き乱れていた。「ほんとだ。すごいや。こんなところに」
マコト君は、顔を輝かせて、うれしそうにタンポポの花畑をながめていた。空には雲ひとつなかった。風もなく、どこまでも青空がひろがっていた。振り返ると貨物駅が陽炎となって揺れていた。
完