熊谷元一研究



熊谷元一先生と『一年生』

下原敏彦

南信州新聞 2022年(平成4年)6月22日 

毎年、新学期がはじまると手にとってみたくなる写真集がある。今から67年前に刊行された岩波写真文庫『一年生』である。この写真集は、昭和28年に長野県会地村(現阿智村)の会地小学校(現阿智第一小)に入学した一年生(東組・西組)を東組担任の熊谷元一先生が一年間、撮った写真集で、入学式の日から三学期の終業時まで、学校での一年生のあらゆる動態が写されている。教育現場での撮影は、当時も、今も容易ではない。それ故『一年生』は、奇跡の写真集といっても過言ではない。写真界はむろん教育界からも高い評価を得た。

『一年生』によって熊谷先生は、アマチュアながら写真家として、その名を不動のものとした。これらの作品は、阿智村昼神温泉にある熊谷元一写真童画館で観ることができる。ちなみに筆者は被写体となった「一年生」の一人である。

写真集『一年生』は、写真家熊谷元一の代表作だった。同時にライフワークでもあった。

先生は教師を定年退職した後、10年の節目ごとに何人かの「一年生」の人生を追った。「二十歳になった一年生」、「三十歳になった一年生」、「四十歳になった一年生」。その記録は、写真展やテレビのドキュメンタリー番組で観ることができた。先生は教え子の人生を撮ることについて「忘れたころに写真を撮りに来られて、もうかなわん」と、嫌がっている人もいるのでは、そんな心配もされていた。

熊谷先生が米寿になったとき「一年生」は五十歳になった。この記念すべき節目に先生は、五十歳になった「一年生」全員の撮影を計画した。「一年生」は東組・西組(担任は当時、原房子先生)あわせて66名いた。ほぼ全員が協力を快諾した。

熊谷先生は「あのときの一年生も五十歳になった。米寿を迎えた私の体もいまのうちはもちそうだし、どうかもう一ぺん教え子を訪ねて写真をとったら教師としてやり残した教育を成し遂げられるような気持に、また写真としても大切な記録になるのではないかと思いました」と、心意気を述べ全国各地にいる「一年生」の撮影行脚をはじめた。

先生は、半年間かけてほぼ全員を撮り終えた。その様子は「教え子たちの歳月」と題して1996年11月24日NHKドキュメンタリー番組で放映された。翌年、写真集『五十歳になった一年生』が出版できた。これで「一年生」を追う撮影は完了したと思われた。が、まだ終わっていなかった。「一年生」が還暦になったとき白寿を迎えた先生は、意気軒昂で『還暦になった一年生』をつくろうといいだされた。さすがに撮影行脚は無理だった。「一年生」が手足となって『還暦になった一年生』を出版した。カラ―版に喜んだ。半年後の2010年秋、先生は亡くなった。101歳だった。

こんどこそ本当に熊谷先生は、写真を撮りに来ることはない。ほっとしたが、何か寂しい気持ちがした。「一年生」が古希になったとき、『古希になった一年生』つくろう。だれともなくいいだして私家版『古希になった一年生』を作成した。

2022年、今年も新学期がはじまった。ピカピカの一年生がまぶしい。写真集の「一年生」は、後期高齢者となった。世の中はコロナ禍と戦争のニュース。不安で暗い時代だが、岩波写真文庫『一年生』をひろげると、心が和む。笑みがこぼれる。

思わず時を超えて懐かしんでいると、突然、熊谷先生の声が聞こえてきた。

「おいこんどは『後期高齢者になった一年生』をつくったらどうか」
いつもの元気のいい声だった。
「はい、80歳になった一年生を目標にします」
「そうか、おもしれえじゃないか」
先生は、愉快そうに笑った。
顔をあげると花吹雪が青空に舞っていた。

熊谷元一先生と「一年生」は、まだまだつづく。