LISN(りすん)No.175 2018年3月 
LISN連載「ベテランの方から送る若手図書館員へのメッセージ」第3回



図書館で遊ぶ

下原 康子


1.司書になる

私は国立図書館短期大学一期生(1964年入学)である。もっとも、私が受験しようとしたのは前身の文部省図書館職員養成所(1947年創設)だった。本好きが主な理由だが、学費は無償、受験科目が文系3科目というのが魅力だった。幸い入試は3科目に据え置かれたので合格できたが、「索引」「件名」の意味を理解できたかどうかおぼつかない学生で終始した。それでも、卒業後は文系の私立大学図書館(1966〜1969)、公庫の図書室(1969〜1974)を経て、1974年以後は医学・医療系の図書館員として、大学付属病院の図書室(1974〜1977;1991〜2006)大学の医学図書館(1977〜1991)がん専門病院の患者図書室(2006〜2014)で働いた。通算48年間の司書人生をおくったことになる。

2.図書館との出会い ─遊びと図書館

今、現場から離れて図書館や司書の仕事について思いをはせるとき、最初に働いた文系大学の図書館の光景が鮮やかによみがえる。木立の見える事務室の窓際の席で、ブックトラックいっぱいに並べた新刊書の目録カードを手書きで作るのが私の仕事だった。分類を思案するふりをして本の中身を読んだり、時には仕事にかこつけてこっそり事務室を抜け出し閉架書架のお気に入りの場所に佇んで時を過ごしたりした。サービス提供側の司書の態度としては不謹慎だったかもしれない。しかし、自分が楽しくなければ利用者へのサービスに関しても積極的な気持ちは起こらないのではないだろうか。もっともこれは後付けの理屈で、当時の私は社会人としての緊張も司書としての自覚もなくお気楽な利用者気分でいたにすぎない。しかし、誤解を恐れずに言えば、提供側よりむしろ利用者という私のこの態度はその後の司書人生においても変わることはなかった。

関連して思い当たるエピソードがある。公庫の図書室にいたころ、経団連図書館の先輩司書からユニークな図書館論を聞いた。ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』の中の「遊びにおける6つ基本的定義」が図書館にはすべてそなわっているというアイディアだったが、即座にピンとくるものがあった。この定義とは@自由な活動 A隔離された活動 B未確定の活動 C非生産的活動 D規則のある活動 E虚構の活動の6つである。数年後この本を読んで、カイヨワの遊びの理論がホイジンガ『ホモ・ルーデンス』の中の遊びについての主張を批判的に継承・発展させた成果であることを知った。しかし「遊びの定義」にのみ限っていえば、両者の定義はカイヨワが「B未確定の活動」を付け加えた以外はそっくり同じである。図書館に関してはホイジンガの次の定義がピッタリする。

「遊びは自発的な行為もしくは業務であって、それはあるきちんと決まった時間と場所の限界の中で、自ら進んで受け入れ、かつ絶対的に義務づけられた規則に従って遂行され、そのこと自体に目的を持ち、緊張と歓喜の感情に満たされ、しかも<ありきたりの生活>とは、<違うものである>という意識を伴っている。」

 <読書という活動>はこの定義にあてはまる。図書館は「遊びの空間(純粋空間)」であり、そこでゲートキーパーをしながら自らも遊ぶのが司書である。私は終始そういう司書であった。しかし、インターネットという巨大図書館かつ巨大情報マーケットに対峙している現在の司書には我田引水・時代錯誤に映るかもしれない。

3.医学図書館員になる

医学図書館に異動と同時に結婚し、次の年に長男がその次の年に長女が生まれた。育児は夫が担った(飼育と称していた)。結婚当時からずっと物書きで家にいたからなりゆきでそういうかたちになったが、夫は子どもが独立するまでごく自然体で主夫業をこなした。

医学図書館員になれためぐり合わせに感謝している。文学少女だった私が医学を通して科学に、医療を通して社会に興味を持つようになった。医学と文学に共通するテーマ「病と死」を生業にしている医療者への関心も生まれた。読書の幅も広がった。

子どもや自分が病気になったときには「学術情報」を思う存分利用した。薬害エイズ事件では命にかかわる重大な情報が有力雑誌に掲載されていたのに、患者・家族に、医療者にさえ届いていなかったことを知った。司書はそれを必要とする患者・家族に対しても医学学術情報へと導き、論文入手のサポートをして欲しい。「患者図書室」や「医学図書館と公共図書館の連携」など実現可能なモデルはある。

デジタルテクノロジーの大津波に触れないわけにはいかない。1991年に千葉県に新設された付属病院の図書室に異動したときにはサービスのメインツールは文献検索用の端末になり、管理業務においては木製の目録カードケースがそっけないパソコンに取って代わっていた。もはや「温故知新」は通用しなかった。身近に助っ人を探しデータベースソフト「桐」の導入(1991)と図書室ホームページのインターネット公開(2000)が実現した。なりふりかまわず助けを求めることができるのが一人図書室の強みと言えなくもない。

4.記憶に残ったこと

司書は基本的に黒子である。面と向かって感謝されたり評価されることは稀と言ってよい。だからこそ、そういう場面は子どもがご褒美をもらったときのように誇らしくうれしい記憶として残る。「送ってもらった文献で子どもの命が助かりました」「ぼくにはどんな論文でもみつけてくれる頼もしい味方がいます」。『虐待された子ども』(明石書店 2003)の訳者である坂井聖二先生のことばだ。正確に言えば「頼もしい味方」の一言は坂井先生の訃報を知らせる身近な方からのメールの文面にあった。「頼もしさ」を支えていたのは医学図書館員ML(medlib-J)と日本医学図書館協会(JMLA)の国外申込制度だった。

文献検索の習得は自分に関心のあるテーマで試してみるのがよいと思う。私の場合は臨死体験だった。<ドストエフスキーとてんかん>という以前から興味を抱いていたテーマとの類似点をみつけたからだ。立花隆氏が『臨死体験』の中で触れていたが物足りない記述だった。短い手紙を添えて文献検索リストと論文数件を出版社気付で立花氏に送った。返事はなかったが、しばらく経って記者を通して「麻原彰晃とメシア・コンプレックスという講演をするので関連文献を調べて欲しい」という依頼がきた。1995年のことである。MEDLINEの無料公開は1997年だから、立花隆氏といえども文献検索が手じかではなかったのだろう。

第23回医学情報サービス研究大会千葉大会(2006)に実行委員として参加した。大会初の公開シンポジウム「図書館への期待 患者・家族が病気と治療について学ぶために」は私の司書人生最大のイベントとなった。6人のシンポジスト(ジャーナリスト、医師、患者、患者会代表(看護師)、公共図書館司書、患者図書館司書)がそれぞれの立場から医学情報について語った。大会参加者約150名に加えて61名の一般参加があった。

5.司書をめざす若い方へ

司書は人類最古の職業の一つだが、その未来に向けてのメッセージがどうにも思い浮かばない。もし、司書人生のどこかにもどれるとしたら「患者図書室」を選ぶ。以下、患者・家族の生の声をメッセージに代えたい。

・本を探すのは難しい
・これからどうなるのか知りたい
・専門的な本があってうれしい
・気持が上向きになる本を教えてください
・勉強しないと医者に質問できません
・本を読んでいると痛みを忘れます
・専門的な学会にも参加してみたい
・患者図書室司書のモデルは “銀座の高級クラブのママ” その心は “幅広く人の話が聞ける”