康子の小窓読書日記




独学者の聖地 19世紀ロンドン大英博物館「リーディング・ルーム」


志村真幸『在野と独学の近代─ダーウィン、マルクスから南方熊楠、牧野富太郎まで』を読んで



はじめに

ときおり、私の夢に現れる図書館がある。円天井の広々した閲覧室には、南方熊楠、マルクス、ディケ
ンズ、キプリング、オスカー・ワイルド、コナン・ドイル、バーナード・ショー、シートン、クロポトキン、レーニン、ガンジーら豪華な顔ぶれが三々五々なじんだ場所の席を占めている。かれらが実際に利用した図書館が19世紀ロンドンに実在した。以下の本に詳しく書かれている。

志村真幸『在野と独学の近代─ダーウィン、マルクスから南方熊楠、牧野富太郎まで』2024.9

著者は慶応大学義塾大学准教授。南方熊楠研究者である。本書は、19世紀の日本とイギリスにおける在野(独学)の研究者がどのように学問へ貢献したかを紹介しながら、学問におけるアマチュアとプロについて、日英を比較しながら論じている。

日本で「専門家」といえば、大学か研究機関に所属する、教授など身分のある人がほとんどだ。学術雑誌に掲載された論文がかれらの権威を保証している。一方で、19世紀イギリスの学術界では、教授などの身分はないが、余暇を使い、趣味として勉強している独学者が大勢いた。かれらアマチュアたちがあらゆる学問分野で大きな役割を果たした。その代表格がダーウィンである。南方熊楠もそうしたアマチュアの一人だった。身分もつてもない東洋の一青年が、研究者の誰もが憧れる雑誌『ネイチャー』に多数の論文を掲載できたのはなぜか?この長年の私の疑問に本書はズバリ答えてくれた。

ところで、以下に紹介する箇所は、本書の本題からはやや外れる。元司書の私の関心が集中したのは、冒頭にあげた、歴史にその名を残す利用者たちであり、かれらが通いつめたという図書館そのものであった。ここでは、本書の該当部分の抜き書きをベースに、大英博物館、ウィキペディアをはじめとするインターネット記事やChatGPTの回答などの情報を補足して、この図書館および当時の豪華な利用者たちを紹介する。


1.19世紀ロンドン大英博物館図書館「リーディング・ルーム」


19世紀ロンドンの独学者たちはどこでどのようにして勉強したのだろうか。その疑問に答えるのが、ロンドン大英博物館図書館の「リーディング・ルーム」である。この空間が、かれらの研究室であり、書斎だった。そこで、古今東西の文献を読み、ノートを作ることが、かれらの勉強であり研究であった。

1850年、イギリスで公共図書館法が成立し、各地に公共図書館が生まれた。市民や労働者たちも読書を楽しめるようになったが、一方で、ロンドン大英博物館図書館部門の「リーディング・ルーム」はきわめて学究性の高いという点で、公共図書館とは一線を画していた。充実したインフラの提供により、独学で勉強していた人々が次々に現れた。かくして「リーディング・ルーム」は独学者の聖地となった。

円形ドーム型のリーディング・ルームが設けられたのは1857年。大英博物館の敷地の中央部の中庭(グレート・コート)内に建てられた。大英博物館図書館、単に円形閲覧室とも呼ばれる。1857年に建設されてから1973年までは大英博物館図書館のリーディング・ルームとして、それ以降、1997年までは大英図書館のリーディング・ルームとして使われていた。1997年、大英図書館は、キングスクロス近くのセントパンクラスにある現在の広い場所に移転した。リーディング・ルームは再び改装され、現在の(そして元の)水色と金色の配色が復活した。2007年から2013年までは特別展専用で使用され、2024年まで全館閉鎖されていたが、現在では大英博物館と同様に、すべての人に公開されている。


1866年当時の入館・利用の規則が示された公式ガイドブックがある。

トマス・ニコラスの「大英図書館のリーダーたちのためのハンドブック」(ロングマン社 1866)

注目すべきは、利用料金が無料であること。また、利用者の「国籍、性別、政治思想」などは問わないという項目だ。熊楠は1895年に、レーニンは1902年に利用者証を得ている。ただし、本人の申請書に加えて大英博物館の職員や貴族などの推薦書一通を提出する必要があった。熊楠の場合、大英博物館の館員であるチャールズ・リードに推薦状を書いてもらった。申請欄には「科学的調査」。職業欄には「学徒」とある。レーニンはロシア皇帝から常にマークされていたために、ヤコブ・リヒターという偽名を使って申請していた。(マルクスと親交のあった博物館関係者の推薦があったのではないだろうか)。有効期限は6か月で、その後も申請すれば更新される仕組みになっていた。

開館日、開館時間は、年始は1月8日から開館し、9時から午後4時まで。博物館部門が10時開館だったのに比べると、1時間早い。日曜日は休館。祝日も休館。3月と4月は午後5時まで、5月~8月は午後6時まで、秋にはまた短くなる。

電気照明が導入される1957年以前の照明はガス灯だった。薄暗い上に、紙を害する成分が含まれており、その点では、本にも人にもよい環境とは言えなかった。

ハンドブックには持ち込み禁止品も一覧化されている。ポートフォリオ、ハンドブック、箱、コート、傘、杖などは持ち込めず、ロビーで係員に預けることになっていた。箱状のものは筆箱のみ持ち込み可能だった。

閉架式のため、蔵書目録で検索しなければならなかった。閲覧したい本をみつけると、リーダーズ・ブック・チケット(閲覧申込書)という短冊状の白い用紙にタイトル、配架場所、申込者名、席番号を記入してカウンターの係員に申し込む。係員が利用者の席までもってきてくれる仕組みだった。本は閉館時刻にはかならず返却しなければならない。館外貸出はなかった。しかし、辞書、辞典、名鑑などのレファレンス類はリーディング・ルーム内に配置され、円形ドームの壁面に沿ってびっしり並べられていた。「エンサイクロペディア・ブリタニカ」などを自由に見ることができた。コピー(筆写)については「制限なし」となっていた。

1884年に出た「大英博物館─リーディング・ルームと図書室」によれば室内には36台の机が放射状に配置され、全体で417席が設けられていた。女性専用の7席がやや広めに用意されていた。社会の様々な場面で男女の区別が厳しかったヴィクトリア時代に、ほんの7席とはいえ、男女が同じ空間で学べる場所が提供されていたことは、記憶に留めておきたい。一方、熊楠は、1898年、女性利用者の私語がうるさいと文句を言って騒ぎを起こし、追放になってしまった。熊楠にとっては災難だったが、向学心あふれる女性たちがはしゃいだ気持ちもわからないではない。


大英博物館図書館「リーディング・ルーム」
The British Museum  THE READING ROOM

大英博物館のリーディング・ルーム::過去と現在
The British Museum’s Reading Room: Past and Present


2.「近代目録法の祖」パニッツィ (ウィキペディア)

閉架式なので、蔵書を検索するための目録が必須だった。蔵書目録の再編成を強力に推進したのがアントニオ・ジェネージオ・マリア・パニッツィ(英語読みでアンソニー・パニッツィ)という人物である。かれはイタリアで弁護士をしていたが、リベラル派で革命家に近く、同志の逮捕を機に1823年にイギリスに亡命、1832年には帰化した。1831年に、つてを得て大英博物館図書館に司書補として就職した。業績が認められて順調に出世し、1857年の「リーディング・ルーム」の建設に大きく寄与した。1866年まで館長を務めた。

パニッツィが考案した目録法は、著者名、出版社名、出版地、出版年などの書誌事項情報を統一的な基準によって記述するという、現在の図書目録における書誌記述の基礎になった目録法である。この目録法は『91箇条の目録規則』Ninety-One Cataloguing Rulesにまとめられ、20世紀半ばまで100年近くにわたって大英博物館図書館の目録法として使われた。また、この規則は、20世紀後半以降、世界の図書館目録の基礎となった国際標準書誌記述(ISBD)の起源となった。この功績から、パニッツィは「近代目録法の祖」と呼ばれている。


3.「リーディング・ルーム」の人々


「大英博物館図書館」のサイトには、以下の記載がある。
初期のころ、チケットを与えられた人々の中には、カール・マルクス、レーニン(ヤコブ・リヒターという名前で署名した)ブラム・ストーカーやアーサー・コナン・ドイルなどの小説家がいた。

「大英博物館の閲覧室:過去と現在」のサイトには下記の記載がある。
(19世紀後期)カール・マルクス、モハンダス・カラムチャンド・ガンジー(マハトマ・ガンジー)、アーサー・コナン・ドイル、その他の思想家が広範なコレクションにアクセスした。
(20世紀前期)オスカー・ワイルド、シルビア・パンクハースト、ウラジーミル・レーニン、ジョージ・オーウェルなど、かつて訪れた著名人を記したボードがいくつかある。


*以下3名のソースは『在野と独学の近代』 および「漱石の作品」

南方熊楠

熊楠が「リーディング・ルーム」に通った目的は筆写につきる。なにしろ、無料なのだ。父の遺産が使えたロンドン時代の前半までは、さかんに本を買っていたが、当時、本はきわめて高価だった。幼少期から筋金入りの筆写魔だった熊楠が、筆写に没頭したのは当然だろう。リードへの書簡によれば、「毎日11時か12時から7時までリーディング・ルームにいます」とあるので、連日、7~8時間も筆写に励んでいた計算になる。日記に「博物館休む」とわざわざ記すほどの皆勤ぶりで、しかもそれを5年間も継続した。後年、熊楠は「あそこにいったときは自分の一番望んでおったところに来たと思ってうれしかった」と娘に語っていたという。

熊楠は、1898年12月7日に、女性利用者の私語がうるさいと騒ぎを起こして追放されたのだが、かれの最後のリーディング・チケット(1898年6月25日から12月25日)が南方熊楠顕彰館に現存する。追放されたのちは、サウスケンジントン博物館や大英自然史博物館で筆写を続けた。当時のロンドンには、人々が自由に使える図書館が博物館付属というかたちでいくつも存在した。熊楠の「ロンドン抜書」と呼ばれる52冊のノートの多くが「リーディング・ルーム」で筆写されたものだ。人類学、博物学、旅行記、性科学などの文献がびっしり書き写されており、帰国後も熊楠の研究、執筆活動を支えることになった。

マルクス

マルクスは1849年8月末、パリからロンドンに亡命したのち、1852年ごろから死去する1883年まで30年以上も「リーディング・ルーム」に通い、ひたすら文献の筆写に励み、何十冊ものノートを作った。「リーディング・ルームに住んでいる」といわれたほどだった。かれの研究方法は、本を読んでせっせとノートをつくることだった。びっしりと記された抜き書きの膨大なノートが現存し、マルクス研究者たちによって隅々まで研究されている。どの本のどんな箇所をいつ筆写したのか、そしてそれが「資本論」などにどのように使われたのかも、よくわかっている。

先日、目にしたテレビ番組で、哲学者の斉藤幸平さんが「マルクスについては膨大な未研究の資料が残っています」と言って、画面に映し出されたマルクス自筆のノートの一部を紹介されていた。「ああ、これがかの・・・」と感激したものである。

夏目漱石クレイグ先生

夏目漱石もロンドンで独学した一人だ。熊楠と漱石は同い年で、日本における大学予備門の同級生だった。熊楠は中退し、漱石は卒業した。1900年5月、漱石は日本から正規の留学生としてイギリスに派遣されたが、大学に通うことはなく、クレイグ先生という個人教授についた。この先生、「シェイクスピア字典」作成に生涯を捧げるため、ウェールズのさる大学の椅子を投げうって、「リーディング・ルーム」に通うことのみを目的に、ロンドンに出てきたという風変りな人物で、漱石の『永日小品』という作品にその愛すべき面影を残している。

一方、漱石はといえば、だれかに「御調べになる時はブリチッシュ・ミュジーアムへ御出かけになりますか」と聞かれて、「あすこへはあまり参りません、本へやたらにノートを書きつけたり棒を引いたりする癖があるものですから」と答えている。(「自転車日記」1903)。漱石の『三四郎』は図書館風景が印象に残る作品だが、その中で、三四郎が図書館の本に誰かが書き残した書き込みに感心するという場面がある。また、漱石が教職を辞して新聞社に入社したときのあいさつで、「大学で一番心持ちのよかったのは図書館の閲覧室で新着の雑誌などを見るときであった。しかし多忙で思うようにこれを利用できなかったのは残念至極である。しかも余が閲覧室に入ると隣室に居る館員が無暗に大きな声で話をする、笑う、ふざける。清興を防げる事は莫大であった」(「朝日新聞」入社の辞/青空文庫)と言っている。司書への苦言には複雑な思いだが、女性の私語に文句をつけた熊楠を考えあわせると、独学者たちにとって、図書館の静寂な空間がいかに貴重であったかが理解できる。


*以下2名のソースはウィキペディア

チャールズ・ディケンズ

1827年法律事務所に事務員として勤めたのち、速記術を習得して法廷の速記記者となった。やがて、ジャーナリストとなったが、定職の片手間に投稿したエッセイが月刊雑誌に掲載されたのをきっかけに、作家となり、国民作家としての名声を得るまでになった。イギリスのみならず、その作品は現在に至るまで世界中で愛読され続けている。作品(エッセイ・小説)を通しての社会改革への積極的な発言も多く、「リーディング・ルーム」を活用した可能性は高い。

ジョージ・バーナード・ショー

アイルランド出身の文学者、脚本家、劇作家、評論家、政治家、教育家、ジャーナリスト。1876年にロンドンに出た。「父からの仕送りと母の収入に頼って生活しながら、大英博物館や国民美術館に通って知識を広めた」とあるので、当時は「リーディング・ルーム」の常連であったろう。


*以下2名のソースはインターネットサイト 

アーサー・コナン・ドイル  (大英博物館、隠れたイギリスの遺産:リーディングルーム)

シャーロック・ホームズの作家も、リーディング・ルームを利用していた。1891年4月1日のリーダーズチケットが残っている。ホームズの作者として有名になっていたが、使用許可証の職業欄には「内科医」と記入している。医師としては成功しなかったが、余暇に書いた「シャーロック・ホームズ」が大ブレイクした。歴史小説やSF小説なども書いた。総選挙に出馬して落選した。後年は心霊主義の布教活動を行った。スポーツマンでもあった。さまざまなジャンルの創作や活動をしたドイルにとって、リーディング・ルームはリサーチのため欠かせない場所だったに違いない。

アーネスト・トンプソン・シートン (E.T.シートンについて)


「シートン動物記」の作者。画家でもあり、挿絵はシートン自身が書いている。絵で身を立てようとロンドンに出てロイヤル・アカデミーに入学した。彼はロンドンで動物学者を志すきっかけとなる大きな出会いをする。イギリスで誉れ高い博物館、大英博物館である。当時19歳のシートンは、大英博物館図書館の「リーディング・ルーム」の入館はできない年齢だったが、館長の上にいる三人の理事に手紙を書き、その熱心さが認められて例外的に許可された。ここで、シートンは、アメリカの自然の本を読みあさった。


*以下のソースはChatGPT。人物にあたりをつけて質問し、回答をウィキペディアの情報と照合した。

孫文

「孫文(孫逸仙)は1896年にロンドンで清国公使館に拉致監禁される(ロンドン幽閉事件)というを経験したことで有名。この事件によって彼は国際的に注目され、中国の革命運動の象徴的存在になっていく。彼はロンドン滞在中、友人のジェームズ・キャントリーの助けで解放され、のちにロンドン大学などでも学んだ」とのことなので、「リーディング・ルーム」を利用した可能性は高い。

クロポトキン

「ロシアの地理学者にして無政府主義者。ロンドンには亡命後に滞在していたし、大英博物館のリーディングルームにも頻繁に通っていたとされている。地理学の論文もここで執筆してたし、無政府主義に関する著作もこの場所で調査していたという」

ラドヤード・キプリング

「『ジャングル・ブック』の作者で、帝国主義をテーマにした作品で知られている。彼が大英博物館のリーディングルームを頻繁に使っていたという記録は残ってない。彼はインドやアフリカを転々としていて、ロンドン時代は短め。新聞社や編集者としての仕事が中心だったから、図書館よりフィールド派だったっぽい」とのことだが、記者として利用して可能性はある。

オスカー・ワイルド

「ワイルドはロンドンの社交界と演劇界で大活躍だった。リーディングルームを使っていたという確実な証拠は残ってないが、オクスフォード時代からたいへんな読書家だったし、時代的にはアクセスできる立場にはあった。美術や古典に精通してたから、たまに訪れていた可能性はある」というChatGPTの回答だが、
「大英博物館の閲覧室:過去と現在」のサイトに名前があるので、使っていたことは確実。

ウラジーミル・レーニン

「レーニンは亡命中の1902年頃にロンドンに滞在していて、そのときに大英博物館のリーディングルームをおおいに利用していたことが確認されてiいる。社会主義理論を調べ、著作『何をなすべきか』の下調べなどをこの場所でしていた。余談になるが、カール・マルクスの使っていた机を指定して使おうとしたら断られたという逸話があるとか」

マハトマ・ガンジー

「1888年にロンドンに滞在していたとき、リーディングルームで学び、研究を行っていたことが記録されている。
当時、リーディングルームへのアクセスは、プリンシパル・ライブラリアンによる許可が必要であり、ガンジーは正式な申請を行い、利用許可を得ていたことが示されている」

ジョージ・オーウェル

「歴史資料によると、ジョージ・オーウェル(本名:エリック・アーサー・ブレア)は、ロンドンの大英博物館図書館を利用していたことが知られている。特に『動物農場』や『1984年』を執筆するための資料収集で、彼がリーディング・ルームに通っていたことは複数の伝記で言及されてる」


4.ChatGPTの間違い回答

「漱石とクレイグ先生はリーディング・ルームを使っていたか」という私の質問に対して、ChatGPTは、 「夏目漱石は間違いなく大英博物館のリーディングルームの常連!」であり、「クレイグ先生は漱石が第一高等学校在学中に教わったスコットランド人教師である」という見当はずれの回答を返した。漱石の『永日小品』『自転車日記』をあげて再質問してみた。以下がChatGPTの返事である。

おおおっ!キターッ!原典クラッシャー炸裂案件…!やっぱりあなた、相当の通だね!?

このChatGPTのため口には、いささかびっくりだった。


5.至福の空間(出口保夫『イギリスの優雅な生活』1997)

英文学者の出口保夫氏の『イギリスの優雅な生活』という本の中に、1960年代、大英博物館の研究員だったころに「リーディング・ルーム」を使っていた思い出を「至福の空間」というエッセイに残している。以下引用する。

「私が大英博物館に足を運ぶ目的は、そこのリーディング・ルームを利用するためである。この図書館は研究者のための専用図書館で、英国国内で発行された書物はすべて収蔵されているという。この図書館の建物がまたユニークなのである。二十メートル近くもある巨大なドームでおおわれ、円形の建物の周囲は、これまた革製の装丁をほどこされた立派な書物が、何十万冊と棚をうずめている。机や椅子は、ブルーの色彩で統一され、同じ色彩の床の絨毯と実によく調和している。ひとりずつ専用の机と椅子は、読書用スタンドや、特別の書棚までついた贅沢なもので、この構造とスタイルは、もう百年以上もまったく変わらない。ここには世界中の学者たちが古い文献を求めてやって来る。」


おわりに

私はこの原稿を自宅のパソコンで執筆している。「執筆」といっても、傍らにはノートもペンもない。パソコンに入力した2冊の著作の抜き書き、インターネットサイト、ChatGPTの回答などの中からめぼしい情報をコピペしたうえで加筆・編集し、数日間で仕上げた。その作業の最中でも、19世紀ロンドンの「リーディング・ルーム」に対する憧憬と奇妙なほどのなつかしさが胸中を去らなかった。

かって、私も筆写に熱中した文学少女だったことがある。地方都市の図書館分館に通いつめた。設備の貧弱な閲覧室は殺風景で、たいてい人気がなく、館員が一人ぽつねんと座っていた。
閉架式だったので、必然的に目録カードになじんだ。木製のカードケースが好きだった。なにかを探すという目的もないままに、目録カードをめくるのがなぜか無性に楽しかった。『西部戦線異状なし』をリクエストして、その場で読み、感動箇所をノートに筆写した。筆写した場面は今でもよく憶えている。それにしても、ちょっと前までは『赤毛のアン』に熱中していた少女の選択にしては、『西部戦線異状なし』は飛躍がすぎる。選んだ脈絡は今考えてもわからないが、その時のいくらか秘密めいた幸せな感覚の記憶は残っている。そう、この貧弱な閲覧室が私の「リーディング・ルーム」だった、そう思う。