ドストエフスキーとてんかん/病い


<抜粋>

A.アルヴァレズ 『自殺の研究』
早乙女忠 訳 新潮社 1974  

Alvarez, A.: The savage god. A study of suicide. (Random House, New York 1972)


第4部5 明日への虚無 ── 二十世紀への推移

自殺は芸術の世界から消えたのではない。それどころか、芸術作品の構造の一部分になった。ロマン主義の絶頂期に、自殺は芸術家が天才をさずけられたことにたいして支払うべき対価の一つだという観念が確立した。洗い落すことのできない染みのように、自殺が西欧文明に浸透した。ドイツ、フランスにロマン主義がゆきわたって、ヨーロッパで自殺にたいする寛容な気風が生れたといっても過言ではない。寛容 tolerance には、劇薬にたいする慢性の状態という意味があるが、大衆の態度はいよいよ寛容になり──時代遅れの法律がどうとりきめようとも、自殺者はもはや犯罪者呼ばわりされることがなく──、それとともに文化の構造自体が、薬物や毒物にたいしても、自殺にたいしても、慢性状態になった。大量の自殺者が出たけれども、そして出たために、寛容の精神も、劇薬中毒もひろがった。ポーやベルリオーズは、失恋をして致死量といっていいほどのアヘンをのみ、それで死ぬどころか、かえって創作意欲をかきたてられた。

極限状況のなかで

自殺が社会の一般的な事実として承認され──高貴なローマ風の決断や中世の大罪としてではなく、またなにかを訴えたり、警告したりするための主張でもなく──姦通を犯すようなぐあいに、頻繁になんの躊躇するところもなく行われるにしたがって、おのずから芸術の共有財産になる。しかも自殺は、極限的状況にあって、人生にたいして、幅がせまいけれども強烈で鋭い光をあてたから、
ドストエフスキーのように、二十世紀芸術の先駆となる後期ロマン派の人たちの強い関心を呼んだ。

ロマン主義的変革の中心には、新しい倫理的な態度がみられた。たとえば十八世紀人が「世界」というと、それは読者や社交界を意味した。ロンドンやパリ、バースやヴェルサイユのいくつかのサロンで、社交界は隆盛をきわめた。それにたいして、ロマン派にとっての「世界」は通例自然、おそらく荒々しい山岳そのものを意味した。詩人たちは、孤独の生活をおくり、大自然のなかで、夜鳴き鳥や、ひばりや、さくら草や、虹に目や耳を向け、はげしく心を動かされた。当初は、こうした感動が新鮮で、まじり気がなく、個人的なものであれば、それでよかった。それだけで芸術家たちは、百年以上も足枷となっていた古典主義という強固な束縛から解放されたのだ。しかし無垢な感動からさめてみると、変革ははじめ予想された以上に深刻なものだったことがおのずから明らかになった。新しい過激な態度が生れた。芸術家たちは、たんに社交界に関心をもたなかっただけでなく、これをしばしば攻撃した。倫理的な批判が自意識にたいして向けられることもあった。

二十世紀芸術は、こうした倫理的な態度を受けつぎ、そこから旅立っていった。それは現代人が、フランス革命やアメリカ合衆国の独立によって打ちたてられた新しい政治的な態度──民主主義と自治の原則──を受けついだのとおなじだろう。しかし芸術作品として描く対象としての自我の発見(または再発見)が、経験を秩序づけ判断するための宗教、政治、民族文化の伝統、さらには理性そのものといった伝統的な価値の体系の崩壊と同時に発生したから、芸術の新たなる不変の状況は、かんたんにいって抑うつ状態であった。キルケゴールは『日記』に、このことをはじめて、しかも最も明瞭に書き記した。

「一つの時代全体を、ものを書く人問と、書かない人問とに分けることができる。ものを書く人間は絶望について語り、他方、読む側の人間はそのことを批判して、自分たちのほうが正常な知恵をそなえていると考える。──しかしこの人たちも、もの書きになれば、おなじことを書くはずである。本質的には両者ともども絶望しているのだが、絶望にまともに取りくまなければ、絶望し、これを表現しようという気持にはならない。絶望を制圧したと称するのは、このことをいうのではないだろうか。」(日記) 

キルケゴールにとって絶望は、ちょうど清教徒の恩寵のようなものであった。選びの恩寵とは質を異にするかもしれないが、これは少なくとも精神の活力を表わしていた。
ドストエフスキーや、それ以後の重要な芸術家には、創造力を方向づける一つの共通性があった。せまい考え方であるにせよ、それが新しい領域、新しい規範、新しい視野に向わせるみちであり、そうした観点に立てば、たしなみや教養としての芸術や宗教とか、ロマン派の人道主義的楽観主義の表現手段としての芸術といった伝統的な芸術観こそ、偏狭で限界があるものだった。芸術の新たなる関心は自我に向い、最終的な関心は自我の終り、つまり死に向った。

来世なき死の芸術

もちろんそれは、決して新しいことではない。世界文学の半分は死を描いているだろう。新鮮なのは強調の仕方と視点だった。中世の人たちも、死にたいし偏執といえるほどの関心をもっていた。しかし彼らにとって死は来世への入口だった。それゆえ人生は取るにたりない価値のひくいものであった。十九世紀にはじまり、それ以来強化されてきた現代の関心は、来世なき死である。いかに死ぬかが、永遠の世界をいかに過すかを決めるのではなく、いかに生きてきたかを要約し、いくぶんかはそのことを批判する規準になったのである。

「未来の暗い地平線から、訪れるはずだった歳月のかなたから、吹きやまぬゆるやかな微風がいつもぼくの頬をなぜた。この微風は、通りすぎながら、ぼくが生きてきた非現実の過去──未来も過去も非現実だ──のなかで人々が押しつけようとした観念を、きれいに洗いながした。」

カミュの『異邦人』の主人公ムルソーは、死刑囚監房に慰めにきてくれた司祭に長広舌をふるい、このわびしい暗澹たる経験のことを語る。死が身近かに感じられて、社会倫理の基盤になっている敬虔の念がすべて壊れたのだ。宗教の力が弱まるにつれて自殺の威力が増したのだから、「異邦人」ムルソーが司祭の手を借りて、この驚くべき洞察にいたったのは意味ぶかい。死が当然のこととして受けいれられ、すでに陳腐なものになっているばかりでなく、論理の行きつく果てであった。

「ぼくは自分の不信仰のことを語っておきたい。……神は存在しないという、とるにたらぬ思想をもっているだけのことなのだが。・・・・・自殺しないで生きてゆくためには、人問は神を創るほかなかったのだ。今日までの世界史の本質がここにある。ぼくは歴史のなかで、神を創ることをはねのけた唯一の人間である。」(『悪霊』)

形而上的な犯罪

『悪霊』のなかのキリーロフは、こういってピストルで自殺する。
ドストエフスキーのいう「論理的な自殺」である。カミュは『シジフォスの神話』で、論理的自殺の論理は不条理だから、これを「形面上的な犯罪」と呼んだ。つまりキリーロフを二十世紀的人物にしたてて、論じた。しかも、ドストエフスキーが描いた作中人物には、深みと多様性があり、さらに、誠実といらだちや、強迫観念、秩序の感覚、活気、やさしさが混然としていたから、ほんとうはそのほうが筋が通っている。だがドストエフスキーの芸術は、彼の意図をこえた拡がりがあったというべきかもしれない。『悪霊』を書いた五年後に、毎月連続して発表したあの異常な記録『作家の日記』のなかで、もういちど、自殺の主題にもどる。自分が感じたことを加減したり、複雑にしたりして、文学的に形象化する小説の構成をとっていないから、ドストエフスキーの苦悩は、切迫した感じと伝統的な印象を同時にあたえる。

1876年を通じて断続しながらも、ちょうどテリア犬のように、自殺の問題をくわえて離さないでいた。新聞や公文書から友人の雑談まで漁って、自尊心や「好色」や信仰のための自殺のことを調べあげた。そのうちの一つの事件から取材して短篇小説を書き、もう一つの事件のために、自殺者にかわって精緻な自己主張をあみだした。そしていつものことだが、自殺が霊魂不滅の信仰と複雑にからみあっているという結論に到達するのだった。とくに十七歳の少女の遺書には、ドストエフスキーはおどろき、また強く心をひかれた。「わたしは違い国に旅だちます。もしうまくゆかなかったら、人を集め、クリコーの瓶をあげてわたしの再生を祝ってください。うまくいったばあいは、わたしが完全に死んでから埋葬してくれるようお願いします。埋められた棺のなかで目をさますなんてやりきれません。やぼったらしいことです。」

ドストエフスキーがこの遺書にひきつけられた理由は明らかである。この皮肉と絶望の混淆が、彼の小説に登場する男女の主人公の流儀だったのだ。しかし皮肉というものは、ドストエフスキーも見通しているとおり、単純なものではない。

「この少女は、できるだけ嫌味な、ひどい皮肉を飛ばそうとして、死ぬ間際にシャンペンのことを書いた。・・・・・その嫌味な皮肉によって、いま捨てようとしているすべてのことがらを侮り、現世と、彼女の地上生活をのろうためである。・・・・・この皮肉にこめられたはげしい怒りは、最後の瞬間における苦悩、苦痛、絶望をあらわしている。」

少女の皮肉と軽い表現は、精神の痛みに比例している。つまり「見えるものが見えるものでしかないこと、人生の無意味さ」にたいする反逆の尺度である。ドストエフスキーはこの事件に何ページもついやし、くりかえしここにもどってくる。だが、虫歯にいらだつ人間みたいに、なぜこれほど猛烈に、しつこくこの問題を書く必要があったのだろうか。自殺が、自分でも納得できないほどの魅力をもっていたのかもしれないが、それはどうともいえないことである。牛みたいにたくましく、鈍感に生きてゆく(とこの少女が感じていた)人たちにたいする優雅な侮蔑は、キリーロフが世人に舌を出しながら、自分の遺言状を読んで自己陶酔にふけっている状態に似ていた。いずれも既成の秩序に挑戦する行動である。裏を返せば、それはドストエフスキーの、作家としての必死の努力に疑問を投げかけている。もし霊魂が不滅ではなく、見えるものは見えるものにすぎず、死が万物の終りでしかないならば、人生に意味はなく、彼の著述は無駄な労働だったことになる。

こうしたおそろしい可能性に霊感を受けたか、いらだったかは別として、そのことにうながされて、ドストエフスキーは「論理的な自殺」という観念を展開させるが、その論旨が問題点を浮きたたせている。

「明日の虚無におびやかされるという状態では、幸福でもないし、幸福にもなれない。・・・・・ひどくばかにした話だ。・・・・・だからぼくが、同時に原告、弁護人、判事、被告の役割をすべてかねて、この天地を断罪し、ぼくの存在もろとも、死刑の判決を宣する。傲慢無礼にも、いたずらに苦しみをあたえるために、ぼくをこの世に生みつけたのだから。・・・・・ところがこの天地を破壊することはできないから、自分を処刑するほかにしようがない。罪人がいない世界などという非道に、もう我慢ならないのだ。」

以上が、キリーロフの主張の要点である。しかしこの言葉は、割引きして聞く必要がある。キリーロフは観念の上でしか存在しない小説上の人物で、ドストエフスキーが『日記』でいいよどんでいる箇所をこえて、論理を追求している。それゆえ自殺するキリーロフは、豊かな人間性をもった人物に描かれているが、「論理的な自殺」には、気まぐれで、ちょっとばかばかしい感じがある。

人間としてのドストエフスキーは、キリーロフの主張を認めようとしていない。「自殺しないで生きてゆくためには、人間は神を創るほかなかった」とキリーロフはいう。いいかえると、すべて人間の行為が神の意志によって決められると信ずるならば、その意志に先んじて自殺するのは、神に逆らう罪である。これは、アクィナスが自殺を大罪とするために使った論法である。しかしもし神が存在しなければ、人間の意志は、人間の生命とともに、人間の所有物であるはずだ。そうすれば、ニーチェ風の大袈裟な意味ではなく、一も二もなく、掛け値なしに、人間は神になる。人間以上の、人間を支配する者は存在しない。だから人間の意志をひたすら主張するのは、神の役目を引きうけ、自分の死を自分で決めることになるのである。

自殺がすべての倫理体系のかなめである、とヴィトゲンシュタインは主張している。
  
「自殺が許されるならば、すべてのことが許される。許されないものがあるならば、自殺も許されない。このことが倫理の本質に光を投げかける。自殺は基本的な罪といっていいものだからである。このことを探ろうとする人は、蒸気の本質を理解するために水銀の蒸気を調べるのに似ている。あるいは、自殺自体は、善でも悪でもないものだろうか。」(手紙)

この文章の考え方を地でいったのがキリーロフである。彼は、自殺することによって、カミュが「不条理」と呼ぶことがらを身をもって体験した。つまり究極的な解決というものはなく、あるのは、矛盾し、流動し、対立する世界だけであるという思想である。

『日記』のなかでは、ドストエフスキーは「明日の虚無」という見方を受けいれようとはしない。あの少女の皮肉のなかに読みこんだ怖ろしい苦悩や、人生の無意味さが自我を辱めることを拒んだ「論理的な自殺」は、ドストエフスキー自身が、ほとんど芸術家としての本能にそむいて、しきりに神を創ろうとした努力と熱情を映しだしている。「霊魂の不滅という観念が成立しなければ、精神の活動によって自分を少しでも獣より高めてきた人には、自殺は必要不可欠なことである」と「日記」の一節に記されている。必要不可欠とは、ドストエフスキーが勝手にそういうだけであり、その語調はおしつけがましい。自殺によって神を脅迫し、神自身の存在を強引に啓示させようとするかのようである。

作家と作中人物 

結局、すべてはドストエフスキー自身の魂の問題であり、彼自身の創作活動の問題であった。もし現世と未来の終局的な虚無のかなたに、何も存在しなければ、いっさいの努力はなくてもよかったのであり、すべての著述は、「魚のパイや、美しい速歩の馬や、酒色や、身分や、官僚の権力に執着したり、下役や玄関番にあこがれたりする」のと同じく、はかない自己満足と虚栄のための営みにすぎなくなる。信仰と不信仰のあいだをゆらぐドストエフスキーのキリスト教は、いついかなるときにも精神を切りきざむような、きわどい信仰だが、これは、彼の保守的な政治観に対応する。このキリスト教が、精神にたいして究極的な統一をあたえ、彼を絶望から救った。それがなければ、芸術家としての救いのないヴィジョンを支えていることができないと彼自身考えただろう。

ドストエフスキーが十九世紀と二十世紀をつなぐ役割を果たすのは、自殺の問題によってである。小説家としては、宗教の力が及ばなくなったときの精神生活の劇を演ずる作中人物を創造した。キリーロフは、もはや逃げも隠れもできない論理によって、意識がさめたままで、かえって意気揚々として自殺をとげる。しかし個人としてのドストエフスキーは、そうした論理を拒絶し、伝統的な信仰を手放そうとはしなかった。彼にとってキリスト教は、作品を書くための、あるいは作品のなかに充満している生命力を、みずから讃えるための弁明のようなものであった。しかしそのことは、同時に、ドストエフスキーの絶望の深さを物語っている。ドストエフスキーの小説は、キリスト教的な愛と慈悲が大きくふくらむにつれて、罪と虚偽が増す物語である。徳のあついソシマ長老が死ぬと、遺骸は、またたくまに悪臭を放ちはじめる。この偉大な作家は、自分のキリスト教にたいする渇望が、くさくてやりきれないと思っていたのかもしれない。



トルストイ
は、人生を最高の価値として受けいれ、その考えはゆるぎもしなかったようにみえるが、宗教的回心の前に、似たような自殺の危機を経験している。

「ほんとうのところ、人生は無意味だとわたしは思っていた。毎日の生活、毎日の一挙手一投足がわたしを絶望の淵にさそい、破局がありありと目の前に見えるのだった。立ちどまることも戻ることも、どちらもできなかった。わたしの行く手に待っている苦しみ──わたしの内部のすべてが無に帰する破滅──を見ないようにしようと目を閉じることもできなかった。こうしてよそ目には幸福で健康な人間だったが、もう生きてはゆけないとか、不可抗力がわたしを墓場にひきずってゆくと思わずにいられなかった。自殺しようと思っていたのではない。わたしを生命から引き離そうとする力が、たんなる願望以上の強烈さで絶え間なく訪れ、いろいろなことがらに深い影響をおよぼした。以前からの、生にたいする執着を、ただその方向を変えただけだといえるほどのものだった。人生をまともに生きようとする力とおなじように、ごく自然に自殺への誘いがわいてきた。あまり急いで自殺しないように、いつも自分を宥めるほかない。強烈な誘惑だった。あわただしく死ぬまいとしたのは、自分の思想の混乱を整理しておきたかったからにすぎないが、いちおうの整埋が終れば、いつ死んでもよかった。わたしは幸せだった。しかし自殺に手ごろな紐を隠しておいたが、夜休むとき、一人で衣服を脱いでいた書斎の、戸棚のあいだの釘にかけたくなるとこまるからだった。銃をもつ習慣を絶ったのも、生命を棄てるためのごく平易な手段を遠ざけておきたかったからだ。いったい何がしたいのか、自分でもわからなかった。人生が怖かったが、人生から期待するものもあった。」

以上の文章は、トルストイが五十歳のときに味わい、『わが懺悔』のなかに容赦なく縷々綴った、危機についての長い描写の一部分を引用したものである。トルストイは、この時のことを多少脚色して、『イワン・イリイッチの死』という、短篇小説として最も美しい作品に使っている。